決定権


 ところで、皆さんは長生きってしたいですか? この質問へ回答するのにはまあ千差万別多種多様の尺度があるように思いますけれど、たとえば地位だの財産だの、あるいは伴侶の有無、老化に伴う疾患の考慮など。どのような視点から考えてもらっても問題ないのですけれど、かくいう自分はといえば、割と素直に長生きしたいと思っている側だったりします。先述の通り、その結論に至る理由は様々ですけれど、なんにせよ『勿体ない』という感情が自分にとっては最も大きいもののような気がしています。勿体ない。まあ、そうですね、勿体ないという言葉がおよそ適切だろうと思われます。なんていうか、別に長生きしたいだのしたくないだのといった壮大な例え話でなくたって、普通に生活している限りでもそういった気持ちは強くって。いわゆる『勿体ない』という、焦燥感とはまた異なるものなんですが。自分の知らない風景なんてこの世界にはまだまだたくさんあるわけで、ここでいっている風景は比喩ですけれど、そのすべてを死ぬまでに網羅するのは当然ながら不可能として、だったら終わってしまう最後の一瞬まで見届けたいというか確かめたいというか。自分の傾向としてはそういう考え方のほうが強くて、だからって別に自分と異なる考え方の人を否定しているだとかそんなことはまったくないんですが、というかそれすらも自分はできることなら知ってしまいたいというか。だから僕は他人と話すのが、より正確には他人の話を聞くのが好きなんですが、当たり前のこととして自分と全く同じ考え方をする人間なんてどこにもいなくって。たとえばほとんど似通っているように見えたとしても、細部を照らし合わせてみれば必ず何かが食い違っているはずで、それはその人の歩んできた人生だとか、あるいは取り巻いていた環境だとか、そういった部分から生まれる差異なのでしょうけれど、それこそが知りたいものなんだという気持ちは今も昔もずっとあって。それこそが『自分の知らない風景』というか、考え方が異なっていれば世界の見え方も異なっているはずで、クオリアではありませんけれど、自分が平気で通り過ぎてしまうような一瞬も、どこかの誰かにとっては目も眩む一瞬なのかもしれなくて。そういうのを知らないままで過ぎていってしまうことを勿体ないと思うというか、もっと言えば悔しいんですよね、単純に。その何かに触れられないことが。もしかしたらそれは本当にただの石ころで、その他人の目がめちゃくちゃに歪んでいるせいで宝石に見えているだけだとか、そういったケースも十二分に考えられますけれど、でも、それが宝石に見えているんだとしたら、その価値観を受け入れるかどうかはまた別として、自分もそれを宝石として捉えてみたいというか。だってそっちのほうが絶対に楽しいし。『世界の在り方を決定づけているのは自分自身』というステートメントを自分は全面的に認めていて、だからって信奉しているわけではありませんけれど、でも、好きなものを見つければ見つけるほど世界が面白くなっていくというのは経験則的に正しいような気がしていて、それ故に未知を既知へ変えていきたいとも思うわけで。……話が結構逸れちゃいましたけれど、とにもかくにも、自分は普段からそんな感じのモチベーションで生きているので、長生きはできればしたいなあと思ったり思わなかったりします。思うだけで、特に健康へ気をつかっているだとか、そういったことは全くないんですけど……。

 

 自分はどうにも春と秋との区別があいまいで、『辺りに落ちている葉が緑色か黄色か』程度の差異でしか両者を認識していないような気さえします(そんなことはないけれど)。そんなこんなでなにかと夏と冬とを比較してしまいがちなのですが、ところで、夏の青空と冬の青空ってどちらのほうがより本物っぽいと思いますか? 本物だとか偽物だとか、そんなの考えたこともねえよという人が大半のような気がしてますが、自分はどちらかといえば冬の青空のほうが本物なのでは、という風に考えています。最近、もう梅雨に入ったんだか入ってないんだか、結構な雨が降り続いたり、かと思えば初夏っぽい入道雲と青空が広がっていたりと情緒不安定ですが、ともかく「もう夏が迫ってるなあ」と思うような空に出くわす機会が多くって。それで散歩をしているときなんかにぼーっと考えていたのがこの『夏の青空と冬の青空』の話でして。冬の青空は、なんというか、閉塞感があるような気がするんですよね、個人的に。天井っぽいというか。青天井はまるで真逆の意味ですけれど。手を伸ばせば届きそうな感じがする。あるいは、真っ白な天井にペンキで空を描いたみたいというか。ともかく、そこに実物としての『青空』があるように錯覚するというか。以上は、もとい以降もすべて個人的な感覚の話に過ぎないのですけれど。一方、夏の青空はどれだけ手を伸ばしても届かない感じがするんですよね。どこまでも突き抜けてるっていうか。そこに天井があるのではなくて、なんだろ、たとえば明かりの少ない夜道では一寸先も闇という風であるように、『先が見えない結果としての青が広がっている』という風に認識してしまうというか。どうしてそうなっているのかは分かりませんけれど、とにもかくにも茫洋とした印象を真っ先に受けるというか、まさにそれこそ青天井といった感じで。なんていうか、「そこに空がある」という風に思えないんですよね。空という漢字は『から』だとか『くう』だとか、英語で言うところの empty と同じ意味合いも持ちますけれど、そっちの印象が真っ先に来るというか。「空じゃなくて、ここには空っぽがあるんだな」みたいな。「そして、それが空なんだな」みたいな。余計なワンステップを踏んでしまうというか。だから、というと論理関係が微妙ですけれど、確かに其処にあるように感じられる冬の青空のほうが本物っぽいなって、自分はそういう風に考えたり考えなかったりしてしまいます。まあ、夏でも冬でも、青空は好きですけどね。青空じゃなくても好きですけれど。春や秋の青空に対してもこれくらいの感覚を持てたらもっと楽しくなるのだろうな、と思う今日この頃です。

 

 バの都合で毎週火曜日は祇園四条出町柳間を徒歩で移動しているのですが(これが鴨川散歩部の定例会)、今日の帰りにみた空がめちゃくちゃ綺麗で。なんだろ、「ここが虹の麓なんだぜ」と言われても信じてしまえそうなくらいに鮮やかなパステルカラーのグラデーションが広がっていて、なんか普通に感動してしまったというか、月並みな感想ですけれど。自分は散歩しているときに割と辺りを見渡したりするんですが、でもやっぱり眺めている時間が最も長いのは恐らく空で、ここ数年はもうずっとそんな感じなんですが、それなのにこんなにも感動できる瞬間がまだあるんだと思って、ついさっき。いやまあ、冒頭の長生きがどうこうという話題は、このことに付随して記憶の奥底から浮かんできた話題だったんですよね、実は。そういえば「長生きはしたくない」と言っていた知り合いがいたなあ、って。閑話休題。といってもどこからどこまで閑話なんだって話ですけど。本当に閑話を休題してしまったら、この記事はここで終わりってことになちゃいますし。それはさておき。ここ最近、といっても二ヶ月くらい前からですけれど、早朝の散歩を日課にしていて。日課というのはまあ普通に嘘で、というのも別に「何が何でも散歩するぞ!」と決めて実行しているわけではないので。こういうの、何て言えばいいんですかね。まあいいや。ともかく習慣っぽくなっていて。どころか、気を抜けばいつ何時でも散歩する身体になってしまっていて、ともすれば依存症みたいな。特に鴨川周辺を頻繁にうろついているんですが、これは結構前から思っていたこととして、いよいよ仮想現実との区別がつかなくなってきたなーって。なんだろ、例えば街路樹とか街頭とかですけれど、昨今のグラフィックに凝ったゲーム作品とかだとそういうのって普通に再現されてるじゃないですか。だからというかなんというか、それこそ街路樹なんかを目にしたときに「 3DCG で再現できそうだな」と思ってしまうようになったというか。信号機とか、水流とか、ブランコとか、夕暮れの空とか、そういうのも全部。なんなら空は「自分で描けそう」というところまで来ていますけれど。自分の認識における現実と架空との境界線がかなり曖昧になってきているというか。もとよりそういった傾向は多少あったように記憶しているものの、「でも、ここまでじゃなかっただろ」みたいな感じになっていて、だからどうって話でもないんですけど。というよりはむしろ、これはこれで楽しいな、と思っている節も実はあって。現実と架空との境界線が曖昧になればなるほど、現実世界への解像度が上がっていっているような気がしていて、矛盾しているようですけれど。たとえば、なんだろ。水面を観察するようになったのとかは結構分かりやすい変化のような気がしていて、水面、より正確には水流ですけれど、あの模様って思いのほか気持ち悪いんですよ、うねうねしてて。水流でなくて水面に関しても、なんだろ、たとえば水の張ったプールの床とかに黒い影が落ちている図ってよくあるじゃないですか。あれって表面に生じた波紋に対して、上空からの光が当たることで影が床に落ちるんですけど、湯舟とかでも同じ現象が起きるんですよ、当然ながら。だからたとえば湯舟の水面に向かって水滴を一つ落とすと、表面に波紋が広がるのは当たり前として、床にも同じ波紋が、正確にはその影がばーって広がるんです。それに気づいたのが結構最近のことで、一連の水に対する知見は水面のイラストを描く過程で得たんですが、まあそんな感じの。世界の見え方がどんどん変わっていく感覚というか、これを自分は『解像度が上がる』とよく言うんですけど、現実と架空とを比較するたびにそういうのが見つかるなあと思って。何度も言うように、だから何だって話でもないんですけどね、こんなの。でもまあ、これもまた冒頭の『勿体ない』と同じような話で。世界がアップデートされていくような感覚が恐らく自分は好きなんだろうなって。……という話を書こうと思ったのは、『今日の帰りにみた空が綺麗だったから』では実はなく。じゃあ何なんだというと、なんだろ。なんか最近、一周回って世界が 2D に思えてきて。と言うと完全にヤバい人で、実際はそんなことないんですけど。なんだろ、ハリボテ? 遠くの山とか、交差点の向かいにある建物とか、そういう全部をともすればハリボテのように錯覚するというか。なんなら散歩中にすれ違った人たちも。いや、そんなことないですけどね、実際は。いや、だってどう考えても立体的だし。でもまあそういう風に思うこともあるという話で。これは本当にここ数日での話なので自分でもどういうアレかよく分かってないんですけど、ただまあ、建物や人物はここ最近の話としても、それよりももう少し前から平面的に見えていたものが一つだけあって、それがまあ空なんですよね。絵を描き始めてから、なんか、あれを真に平面的なそれと認識してしまう瞬間が明らかに増えて。なんだろ、そこら辺の誤認に伴う錯覚なのかなあ、と一先ずは理解しています。これについては自分でもよく分かってません、本当に。

 

 なんか、なんだろ。ブログを更新していなかった期間に考えていた事柄はもっとたくさんあるように思うのですけれど、もう既に結構書き散らかしてしまったのでここらへんで止めておきます。みれば、五月中はブログ動かしていなかったようで。更新しない月があったのは初めて? これまではなかったような。まあ、ここは書きたいときに書きたいことを書くだけの場所なので。むしろ、これまでになかったほうが変ってくらいですね。