20210719


 死ぬのが怖くなる瞬間ってありませんか? いやまあ、そんなの考えるだけ無駄だしと言ってしまえばそれで終わってしまう話ではあるし、自分も概ねそのような立場をとっていて、なので普段からそういったことを考えているというわけではないのですけれど。でも、どのくらいかな。一、二ヵ月に一度くらいはそういう気持ちのめちゃくちゃ強くなる瞬間があって。きっかけは些細なことというか、何なら普段から経験しているはずの感覚がその日だけは違った形で認識されてしまって、そこから派生して死に対する思考が湧き上がってくるという流れが大半のような気もします。たとえば、なんだろ。その、考え事が一番捗るのは、自分の場合、お風呂に入っているときと外を歩いているときだって話はどこかで書いたように思うんですけど、特に後者のほうです。それこそ鴨川沿いなんかを歩いていると「そういえば、あの日集まったのってここだっけ」みたいな、昔というには最近のことすぎるものもそうでないものも、いわゆる思い出みたいなやつを文字通りに思い出すってことがあって。別に、誰だってあると思いますけど、そんなこと。鴨川じゃなくても、京阪沿線とか四条の街とか梅田とか地元とか、別にどこでも。数日前でも数ヵ月前でも数年前でも、『以前、ここで誰かと何かをしたことがあるな』という記憶そのもの? そういった場所を通りかかったりするたびに、それらの記憶に対する、なんだ、名状しがたい感覚に襲われたり襲われなかったりして。なんだろうな。別に、過去を振り返りたいわけでなければ、過去へ戻りたいってわけでもなくて。だから、その、アルバムを捲る感覚とはまた違っていると自分では判断しているのですけれど、でも、どうなんだろ。本質的には同じなのかもなと思ったり思わなかったり。自分の中でそれなりにしっくりきている比喩としては、なんていうか、手が届かないという感覚? 触れたいわけでも、ましてや掴みたいわけでもないのに、それでも「ああ、届かないや」と思ってしまうときの、その感覚に近いっていうか。雲とか空とか星とか、ああいうのと同じような。普段は、だからそういった感覚とも上手に付き合っていて、というより、そういう風に思える瞬間を自分は割と好ましく思っていて。有体に言ってしまえば、それはつまり自分が大切にしたいと思える記憶がまた一つ増えたということなので、悪いことでは全くないっていうか、むしろ良いこと。……なんですけど。なんていうか、だからこそたまに怖くなる瞬間があるという話で。なんだろ。その、「届かないな」って感覚が自分の中にある閾値のような何かを飛び越えていく瞬間があるような気がしていて。一昨日の話ですけれど、諸事情で実家のほうへ帰っていて。「せっかくだし」と思って深夜に散歩へ出掛けたんですよ。まあ、散歩自体は何度かしたことがあって、だから、いまの地元がどういった風に変わっていっているのかということを断片的には知っているのですが。その日はまあ、普段の散歩じゃ絶対に歩かないようなルートを選んだんです。中高時代によく遊んだ相手の住んでいる家へ向かうルートだったんですが、なんせ遠いし暗いし、なにより眺めがあんまり面白くなくて。積極的に歩きたい道ではおおよそないなって感じの、車一台通るのがやっとの細くて長い道。歩きながら考えていたのは「どこで曲がればそいつの家へ行けるんだっけ?」ということで。曲がり角の目印は覚えていたものの、その曲がり角自体が大体どの辺りにあるのかということをほとんど思い出せなくて。……と、そうこう考えているうちに「死ぬの怖」って気持ちになったんですよね。何故? 思考の跳躍がめちゃくちゃにあるな。いや、たしかにその瞬間、あいつの家へ行くための曲がり角がどこにあるのかを考えていたことは覚えていて、でもその後に何を考えたのかを全く覚えていないっていうか。色んなことを考えたような気がするんですけど、いやでも、その後に出てきた「死ぬの怖いなー」って結論が強すぎて、それから家へ帰るまではずっとそのことばっかり考えていたので、だから忘れてしまったのかもしれない、分かんないですけど。そいつの家へ向かうための細くて長い道を抜けた後はぐるっと回って帰る予定だったんですが、その途中にも色々あって。なんだっけ。自分が物心ついたころからある錆びた看板の印刷所とか。あるいは、生まれてから一度も訪れたことのないファミレス……の跡地にいつの間にかできていたうどん屋とか。あとは、あれか。一番大きかったのはなんか、めちゃくちゃでかいマンションが建築されていて、いつの間にやら。たしか、そこって駐車場だったんですよ、以前は。以前と言っても、それが駐車場として機能していたのは、もしかするともう五年以上前のことかもしれませんけれど(ここで『かもしれない』を使わないといけない程度には、記憶が定かでない)。それで、その駐車場は隣にあった施設のものだったんですよね。元は駐車場だった場所が現在そうなっているということは、まあ施設のほうも同じような状況になっているというわけで、こっちは工事現場のアレが邪魔してよく見えなかったんですけど、廃墟になっているか、あるいは解体されたかのいずれかっぽくて。「ふーん」と思ったり思わなかったり。その施設はまあ、昔、家族の車で来たことが何度もあって、だから駐車場を使ったことももちろんあり、立体駐車場だったんですけど、小さい頃はあれが結構好きで。だからいまでもその断片を覚えていたりするんですけど、それ以上に、その施設は自分にとっては結構大きな場所で。なんか多分、そこがなければ音ゲーはしてないし、だから作曲もしてないし、Twitterもしてないし、京大にも来てないし、みたいな。誇張ではなく、本当にそれくらいの、いまの自分が持っているものの半分くらいが始まった場所で。それがまあ廃墟になっていたり、あるいは解体されていたり、それ自体はどうだっていいんですよ、別に。仕方のないことだし。でも、そういう何かがそこにあったんだってことを覚えている人間までがいなくなってしまったら嫌だなと思って。それもまた必然ですけれど、だけど自分はそっちのほうがずっと嫌で。だから死ぬのが怖いんですよね、多分。最初の『以前、ここで誰かと何かをしたことがあるな』も同じですけれど、自分が死んでしまったらその事実を知っている人ってもうどこにもいなくなってしまうわけじゃないですか。いや、事実として記憶している人間はもしかしたらまだ存命かもしれませんけれど、『自分がそれを大切にしていた』ということを知っている人間は自分以外にはいないわけで、だから、自分が死んでしまったら終わりだよなって、そういう。……昔書いたことなんですけど、曲がり角の先って死角になってるじゃないですか、だいたいの場合。だから、その先で何が起こっていようと僕らはその事実を観測できないんですよね。たとえばそこに猫がいても、魔女がいても、あるいは何もいなくても、それを知る術はないっていうか。逆に、自分はだから曲がり角って結構好きで。その向こう側に何があってもいいという余白みたいな。空想の余地っていうのかな、そういう何かがあるように思えるので。でも、それってどこまで行っても空想でしかないっていうか。架空の産物? 宇宙人でも未来人でも、曲がり角の先であればその存在が認められるという理由は、結局のところ、その曲がり角の先を誰も観測できないからということで。誰にもみえないから空想は実在できるというとロマンチックですけれど、誰にもみえないことこそが空想の定義なんだよなと思うこともままあって。だから『大切にしていた』という事実だって、それを知っている人間が、つまり自分がこの世界からいなくなってしまったら、その瞬間にまるで事実ではなくなってしまうみたいな、そういう、なんだろ。強迫観念ではないですけれど、でも、それと同じような意識が頭の中にあって。そんなことないって思うんですけど。だけど、たまにそういう風に思ってしまうときがあるって話です。一、二ヵ月に一度くらいのペースで。……なんだろうな。これは昨日の夜に彼と話していたことですけれど、自分の死が自分と接点のあった全員へ知れ渡ってほしいみたいな欲求は別になくて。時が経って、いい感じに忘れられて、別にそれでいいんじゃないのって。いまはそういう風に考えているんですが、だから、死への恐怖って自分の場合、自分が忘れられることよりも自分が忘れてしまうことのほうがずっと強くて。……でも、どうなんだろ。それは結局『自分を形作っているものの存在を失いたくない』ってことだから、自分が忘れられることへの恐怖と同義でもある? いや、そうではないような気もしていて。別に、他人の中にいる自分がどうなろうと知ったことではないという気持ちは確かにあって。だから、そうですね。自分の中にいる自分を失くしたくないのか。そんな気がします。……なんか、何の気なしに始めたらめちゃくちゃだらだらと書き連ねてしまったな。いやなんか、つい最近、そういうことを考える機会が一気に降ってきて。全部が全部ただの偶然ですけれど。散歩もそうだし、彼との話もそうだし。なんか、なんだろ。生きる死ぬの話って普段全然しないし、当たり前ですけど。というか、別にしたいとも思いませんし。でも、ちゃんと考えなきゃいけないことではあるよなって気持ちはかなりあって。その、自分のことだけじゃなくて、大切な誰かのこととかも含めて、全部。ちゃんとしなきゃいけない。そんなこと、分かってるはずなんだよな。