20210130


 思えば、自分は卒業式のときのことをほとんど何も覚えていません。高校はたしかやたらと広い中庭に召集され、なにかめでたい話を聞いたり聞かなかったりしたような。いや、よくよく思い返してみればそれは卒業アルバムのための写真撮影に関連した記憶で、卒業式自体はこれまたやたらと広い体育館の中で恙なく執り行われたはずですが、それにしても何も覚えてないなあって。卒業式の練習みたいなのがたしか結構あって、本番通りのスケジューリングで進められる実質的なリハーサルみたいなものも何度かやったんですが、途中には椅子に座って先生方のお話を聞く流れもあったわけです、当然ながら。そのたびに込み上げてくる眠気に抗いつつ、しかしまあ当時は究極深夜型の人間だったために、戦績は十割がた自分の負けだったような気がします。今になって思い出せるのって本当にその程度のことばっかりで、卒業式当日のことだとかなんだとかを一切覚えておらず、あの日、あの場所で、あの時の自分が一体どういったことを考えていたのだろうかって。推測するに「眠い~~~~」とか「早く帰りたい~~~~」とか恐らくその辺りだろうとは思うものの、いや、もう少し何かなかったのかよと思ったりもします、今更ながら。

 この前、サークルの人たち数人と作詞についての話をする機会がありまして。その場には作詞をする人もしない人もいたんですが、各々の書いた歌詞について話し合うという流れになったときがあり、その際、自分の歌詞に言及してくれた人がいて、曰く『登場人物が書いた文章のようにみえる』。自分の文章についてのあれこれを貰う機会ってそれほど多くもない、というかその実ほとんどないので、彼の感想自体はとても貴重なもので普通にめちゃ嬉しかったんですが、なんていうか、なんだろう。単純に意外だったというか、新鮮だったというか。自分の書いたそれを読んでそういう風に感じたことは今までになかったので、「ああ、やっぱりこういう機会って大切にしなきゃいけないんだな」と改めて実感したというだけの話ではあるんですが。それはそれとして、後になってからその印象の意味について考えてみて、それを引き起こしている仕掛けに自覚的になれるのであれば、その指摘を受けたときにそもそも意外だとか新鮮だとかは思わないはずなので、結局のところ、どういった原理でそういう風に映っているのかは全然わからないのですけれど。まあ、創作物に対する感想なんて人それぞれなので、その意味に拘ることに理由があるのかといわれれば、それはもう全く無いわけで。ただ、一つ思ったこととして、自分の作詞のスタイルとして『自分の話しかしない』というのがあり、それはそれとして『自分の話だとは思わせない』というのもあり。持ち合わせていないものを表現することは自分にはできないので、歌詞に表われる嬉しいも悲しいも何にせよ、いつかどこかの自分が経験したものであることには違いがなくて。でも、それを直接的に書きたくないっていうか、自分の話としては話したくないっていうか。だって、それならわざわざ歌詞にしなくてもこのブログで、なんなら twitter でも事足りるわけで。だから、ごちゃ混ぜにするんですよね、よく。こう、表現しようとしている自分と同じような境遇にある、どこか遠くの世界の誰かを想像して、そのうえで書こうとするっていうか。それはその誰かの物語として描かれるものでは決してなくて、どこまで行ったところで自分の話でしかないんですが、なんていうか、その、自分の話のままで別の誰かの話にもなってくれればいいなあって感じの。『登場人物が書いた文章のようにみえる』という指摘は、そういう意味では自分の理想とするところの印象にとても近いというか。発言者の意図を自分が正確に汲み取れているかは限りなく微妙ですが、なんというか、自分は歌詞を書いていますけれど別に誰かに理解してほしいだとか、あるいは不特定多数の他人に何かしらの想いを伝えたいだとか、そういう考えはほとんどなくて(といっても、詞を書く人って大体そうじゃないのかなあと思いますが)、自分の言葉がそのままどこの世界にも存在しない誰かの言葉になってくれるのであれば、それはとっても素晴らしいことだなあって。自分はそういう風に思います。

 なんだろう。卒業式のことを何も覚えていないのも、中高時代の同級生とほとんど会えなくなって特に何とも思わないのも、それは当時の自分がその人たちのことを大切にしていなかったからなのだろうなと、これはもう本当、今更のように反省していることではあるんですが、それはそれとして、なんというか、そのことの意味をあまり解っていなかったのかなと思うこともあって。人間関係的な部分で自分にとって大きかったのはやっぱり彼なのですが、その全部をようやく飲み込んで、その瞬間になってようやく卒業式だとかなんだとかの意味が本当の意味で理解できたような気がして。今にして思えば些細なものから「いやいや、ラノベかよ」みたいな約束までいろいろあって、その全部がきっと叶わなくなってしまったとして。でもその全部が、だから一から十までまるっきりの嘘だったのかといえばそんなことは無かったなと思って。だから卒業式みたいなものって結局、そういったきっともう叶うことのない今日より先のすべてに対して、さよならを告げるために設けられている機会なんだろうなって。その『さよなら』があるからこそ、いまは遠く離れて簡単には会えなくなってしまったって大丈夫というか。だからこそ過去にも未来にも必要以上に囚われることはないというか。一言で言ってしまえば、だから前を向いて歩けるんだなーって、そんな感じのことをこの三ヵ月くらいはずっと考えています。

 今日と明日とで一月が終わりますが、来る二月は曲と絵の W 締切があり本当にヤバいことになっています。「まあ何とかなるやろ」の精神で一月中はずっと作曲に時間を割いていたのですが、絵の練習をあまりにも放置しすぎており、「本当になんとかなるのか……?」に段々シフトしてきています。なんともならなかったら埋めてください。