境界線


 自分は言葉というものを基本的に信用していなくて、というところから今回は始まるのですけれど。なんだろ、まあ不定期に動かす程度とはいえ、こうして自分の書いた文章を公開する場を用意していたり、あるいは歌詞を書いたり小説(というのはおこがましいけれど)を書いたり。もちろん上をみればキリがないのはそうですけれど、同世代の平均からみると、自分は恐らく文字を書くことに親しんでいる側の人間だろうと思います。これはまあ嘘ではないでしょう、多分。いや、上には上がいますけどね、当然ながら。ともかく自分はそんな感じのアレなのですが、だからといって言葉という媒体を強く信奉しているのかといえば、しかしそのようなことは全くなくて、むしろ懐疑的でさえあって。なんだろ。たとえばの話ですけれど、別に心では何とも思っていなくたって『ありがとう』の五文字をタイピングすることはひどく簡単で、心にもないことを口にするよりもずっと容易で、そうなると言葉って何なんだろうなという気持ちにもなってくるわけで。このことばっかりは何度も書いているように思いますけれど、それが自分の内側に強く在る感情であればあるほど単純な言葉には置き換えたくないというか。だって、そこにどういった想いが乗せられているかなんて読み手には何一つわからないじゃないですか。僕も分かりませんし、他人の文章を読んだって。嬉しいも悲しいも楽しいも空しいも、言葉でならどうとだって言えてしまうわけで。というか、言葉にしてしまうことで余計な情報が乗ってしまうことすらあって。なかったはずの喜びとか、なかったはずの痛みとか。形のない何かに言葉をあてがおうとする過程で、記憶が架空に侵食されていくような感覚を覚えた瞬間は決して少なくはなくて、良くも悪くも。自分はよく実体験ベースで歌詞を書くんですが、というよりそれでしか歌詞を書けないので僕の歌詞は全部そうなんですが、それにしたってそうで。その、書きたいなと思ったことを言葉に直さなきゃいけないとなったときに、まあ言葉を探すんですけど、様々な様々が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返すわけで、じゃあそうして実際に歌詞へ採用された言葉だけが本物なのかといえばそんなことはないし、というか消えていった言葉のほうがどちらかといえば本物なんじゃないのかと思うこともままあって。というのも、歌詞は文字数や語感、あるいは秩序との勝負なので。『自分が主張したいことに近しいか』という基準は勿論あり、自分はかなりそれを優先するほうだと思いますけれど、それにしても別の評価軸があるせいでノイズが乗ってしまいがちというか。だったら歌詞じゃなくて詩を書けよという話にもなりますけれど、そこで『言葉を信用していない』という感情が強く出てくるというか。自分は別に詞を書きたいわけじゃなくて、というか歌詞を書きたいのですらなくて。なんか自分がやりたいのって音楽と歌詞でワンセットなんですよね、気持ち的には。なんでもかんでも言葉にしてしまえるなら、そもそもこのブログにアップロードすれば、なんなら Twitter にでも放流すれば済む話で、でも表現したい何かが自分にとって強いそれであればあるほど、それだけは絶対にしたくないことで。なんかそういった全部を歌詞という形に落とし込んで、でもそれだけじゃ足りないし、先も言ったように言葉だけだと嘘っぽくなっちゃうから、だから音楽の力を借りているというのが現状といいますか。まあ、そんな感じですね。なんだろ、歌詞だけを書くってのが本当に自分は無理で、曲だけ作るのは問題ないんですけど。なんでなんだろうと考えてみたときに、やっぱそもそも言葉がそんなに好きじゃないんだろうなーっていう。いや、これはかなり語弊があって、少なくとも自分は普段思っていることや考えていることを歌詞に変換するということをやるのですけれど、やっぱ言葉だけじゃ足りないというか、偽物っぽいというか、いや、これはあくまで自分がそういうことをしようとしたときにそう感じるってだけの話で、作詞家という職業を否定したいわけではマジで全くないんですが。音楽も一緒にやりたいっていうか、というかそうじゃないと意味がないように思ってしまうというか。いつも以上に纏まりのない文章になっちゃった。なんか、作詞の機会が巡ってくるたびにこういうことを考えちゃうんですよね、いつもいつも。作詞に関しては本当のことしか書きたくなくて、でも本当のことだけを書こうとするとどんどん自分の中で嘘っぽくなっていくような気がしちゃって。難しいなーって。今回のはそういう感じの話でした。