telepath


 これについてはどの程度の共感を得ることができるのか分からないんですが、たとえば『横断歩道の向かい側で信号待ちをしている人』を観測したときに、その人物のその時点での心境を考えたりってこと、皆さんはしますか? 自分はするんですよね、そういうことを。いや、するしないの話じゃないっていうか、なんか条件反射的にそうなっているというか、縁も所縁もない他人であっても観測した瞬間に、その対象にまつわる想像(妄想と同義)が一瞬のうちに頭の中を駆け巡ってゆくというか。「よし、考えてみよう」とかじゃなくて「……ああ、あの人、こんな感じのことを考えてるのかな」みたいな。三点リーダのうちに想像の結果が脳内には出力されていて、対象の人物を認識するのはむしろそのあとというくらいのスピード感で。形式的にはテレパシーの領域っていうか、いや、相手の考えを読み取っているというわけでは勿論なく、ただ自分が妄想しているというだけなので、つまりは何の中身もないものの例えなのですけれど。だからなんか、自分の場合、外を歩いているだけで結構色んなことを考えさせられるというか。仕事帰りの人とか、子連れで歩いてる人とか、自分と同じような大学生とか。まあ、だいたいのことは考えた直後に忘れてしまうのですけれど。というか、人とすれ違うたびにそういった諸々を考えさせられるので、いちいち覚えていられないというのもあるのだろうと思います、推察するに。この性質が昔は結構なストレスになっていたような気がしていて、ここでいう『昔』は大学二回生くらいまでの頃ですけれど。だからってわけでもないんでしょうけど、人の多い空間が自分はかなり苦手でした。いまはもうこういったことに、つまり一対多にあまり有利でなさそうな自分の性質に自覚的なので、それなりの対処法を持っていて、だからまあ昔に比べればかなりマシにはなったと思うのですけれど。……でも、やっぱり閑散としている場所のほうが歩いていて楽しいというのは変わらずありますね。早朝だったり深夜だったり、物音の遠い時間帯のほうが自分には向いています、恐らく。それはさておき。いつ頃からこうだったんだろう。これは比較的特殊な部類なのだろうなと思い始めたのが、何を隠そう、大学進学以降のことなので、それまでの自分がこのような性質を持っていたのかということを、あまりはっきりとは思い出せなくて。高校生の頃にはもう既にそうなっていたというところまでは明確に覚えているのですけれど、中学生の頃はどうだったかなあって。曖昧な記憶を曖昧なままに辿ってゆくとすれば、小学生の頃にそういったことをめちゃくちゃにやっていたような覚えがあるようなないようなという感じなので、中学のときも同じような感じだったのだろうなと思います、多分。……小学生の頃、というかもう少し前の幼少期からか。まあ、そうですね。自分は親族のことが心底嫌いでした。いまは全然そんなことないんですけど。なんだろうな。あんまり身の上話をしすぎるのもよくないと思うので具体的なところは避けますけれど、どうなんだろう、嫌われてたのかな? 疑問形になっているのはなぜかといえば、自分の受けていた印象通りであれば『嫌われていた』となるのですけれど、事実通りにたどっていけば『別にそうでもなかった』ということになるのかなという気がしていて。被害妄想? いや、事実として被害は受けていたので決して妄想ではないはずなんですけど、それはそれとして益することもあったというか。嫌われっぱなしではなかったという意味ですけれど。んー、なんか、子どもの頃はその辺りの感覚を不気味だと思っていたことを思い出してきました、いま、唐突に。いや、なんていうんだろうな。嫌いっぱなしだったら楽なんですよ。こちらからもそういった態度を取ればいいだけですし、昔の自分は結構捻くれていたので、その程度のことであれば容易に行動へ移していたはずと思わなくはないです。でも、だからそうじゃないときはどうしたらいいんだって話で。嫌なことをしてくるけど、良いこともしてくれる、みたいな。そういった相手への距離感って、難しくないですか? ……というようなことを、幼い頃の自分は親族という存在に対して思っていました。どの程度本心から言っていたのか今となっては不明ですけれど、自分が嫌われているというか、そういった扱いを受けている理由について本人が口にしていたこともあり、当時の自分にとっては(いまの自分も同様だけれど)かなり理不尽なものだったので、それをまあ理不尽だと認識してしまった以上、自分の側からへらへらと媚び諂う動機もなく、だからもう昔はずっと「早く大きくなって、こいつらとの関わりを断ちたい」とばかり思っていました。いや、本当に。……どうしてこういう話を思い出したのかといえば、だいたいそれくらいの時期から相手の心情を推察する(妄想すると同義)ことをやり始めたんだなって、そう思ったからです、いまさっき。というか、正しくはそれ以前のことを全く覚えていないって話なんですけれど。それくらい昔の話で、アルバムを開いたって思い出せないくらいの。でもまあたしかに、いまの自分が道ですれ違った人相手に無意識でやってしまうようなことを、意識的か否かはさておき、あの頃の自分もやっていたんだなって。というか、そうせざるを得ない状況だったのかな。あまりに嫌すぎていまでも覚えてるんですけど、……不幸自慢していいですか? というのは冗談で、話半分に読み飛ばしてほしいのですけれど。休日に仕事や会社の付き合いなんかで両親が同時に家を空けるときに、その親族のところへ預けられるんです。まあ、年齢を思えば当然のことですけれど。自分には年の離れた姉がいて、なので二人同時に預けられることとなるわけですが、ここで問題だったのは姉は比較的好かれていたんですよ、その親族に。いや、いまにして思えば姉も姉で結構な扱いを受けていたような気がしますけれど、だからまあ、要は構図の問題です。立場(年齢)的には親族が最上位にいて、僕が一番下にいるという状態なわけで、姉は親族の側へつくことを選んでいたっていう、それだけの話。……そう考えてみると、当時の姉を怨むのもなんだか筋違いのような気がするっていうか。いまでも仲が悪いとか、別にそんなことは全くないんですけど、でも当時は相当に嫌いでしたね。という状況で、そのまま一日過ごしたりしなきゃいけないわけですよ。両親の迎えが来るのは次の日の朝になることが多かったので。いや、もう地獄ですよ、地獄。マジで。いまにして思えば自分も多少悪かったのかなって思うんですけど、だからまあ、適当にへらへらとしていい子ちゃんぶっておけば親族は概ね満足していたのだろうなって。でも、当時の自分はすでに『理不尽な理由』を知ってしまっていたので、「なんでこんな奴に」という気持ちのほうが勝ってしまっていて。一方で、その親族がただ純粋な悪というわけでもなく、時たまに優しく接してくるせいで分かんなくなっていたというか。いやまあ、要するに昔の自分がやっていたのって、その辺りの機微をなるだけ正確に汲み取ろうとすることだったんでしょうね、多分。できれば相手と直接接触することはせずに、口調だとか所作だとか、そういった部分から相手がいまどちらの状態にあるのかを理解しようとする試みというか。そんなことをしようと思ってしていたわけじゃないんでしょうけれど、でも、それをしなきゃやってらんない状態だったのだろうなというのは今の自分でも想像できて。……どうなんでしょう。いまの自分なら苦手な人が相手でもかなり上手くやれるような気がしていて、というのもあの頃の自分と今の自分とで明確に異なっているのは、会話をするのが苦ではないという点で。その相手がどれだけ理解できなくても、いまの自分は会話をすることができるので、そういう意味で上手くやれるようなやっぱりだめなような。まあ、やってみなきゃわかんないですし。まあでも、いまじゃ親族だったり姉だったりと普通に話せるのは、別に自分が当時のことを許したからとかではなく、単純に会話ができるようになったからなんだろうなって、電話越しに話したりするときなんかにはそう思ったりもします。……いや、アレですよ。あの、文字ってあくまで記号であってそれ自体は無表情だから、いまの自分がどういった心境でこの文章を書いているのかだとか、こんな内容なのでともすればめちゃくちゃ真剣な表情を想像してしまうかもしれませんけれど、これまでの記事と同じノリですよ、いやもう本当に。全然シリアスじゃないっていうか。もう一五年以上前の話ですし、シリアスにもなりきれませんね、今更。ああ、だからまあ今日書いてみたかったのは、結局のところ冒頭で話していたそれだけです。道ですれ違った人の心情を考えてみたりしますか? っていうやつです。このブログ、質問形式の話題を扱うことがままあるんですけど、これはあれですね。普段、日常会話でこういったことを話す機会ってほとんどないので、いや、相手によってはあるのですけれど、でも相手によってはないから。だから、こういったところで不特定多数に向けて発信を行うことで、自分の中にある『他の人の話を訊いてみたい欲求』みたいなそれを昇華しているという、そういった意図でのそれです。そのくせ、リアルで話したときにブログの内容について触れられるのは結構恥ずかしいんですけど、でもまあ、それ以上に得られるものがあればいいなという感じではあるので。なので、まあ、はい。感想はいつでもお待ちしております(?)。そんな感じでした。

 

 

 

 

 

眠すぎる


 そういえば『信じる』という言葉を歌詞に組み込んだのって初めてだなって、いまこの白紙のワードパットを前にした瞬間にふと思いました。といっても、現在製作中の楽曲に関する話なので、その歌詞を知っているのは自分ともう一人しかいませんが。歌詞に関して、いや、歌詞に限った話ではなく自分が作るもの全部に対し強く思っていることとして「嘘だけは絶対に書きたくない」というのがあって。ここでいう『嘘』というのは『正しいと思っていないこと』程度の意味ですけれど。だからまあ、ここから導き出される結論として、自分は『信じる』という言葉があまり好きではなかったんですよね、結局。好きじゃないっていうか、嘘っぽいと思っていたというか。少なくとも自分の考えの枠組みには当てはまらない概念だなって、そんな風に感じていたような気がして。なのに、そういえばいま作っている曲の歌詞を書くときに、かなり自然と『信じる』って言葉が出てきたなーといま思って。不思議だと思う反面、そりゃまあ、何年もずっと同じ考えのままで生きているはずもなく、どこかでアップデートが入ったのだろうなと思っています。そのアップデートがいったいどのタイミングでなされたのかということも大体想像はついているんですが、まあ、歌詞の全文がまだ世に出ていない段階でああだこうだ言っても仕方がないので、それについては保留しておきましょう。曲が公開されたときに覚えていたらどこかで書き起こすかもしれません。さて。『信じる』という言葉のどの辺りを避けていたのかという話。それについては何度かこのブログで書いたような気がしていて、なのでまたかって感じですけれど一応述べておくと、『信じる』という行為の裏には必ず『疑う』があるからです。いや、これは心理学的な話でも抽象的な話でも似非哲学でもなくて、単純に事実としてそうっていうか。いやだって実際、「私は貴方のことを信じるよ」というセリフがあった場合、ここで登場している『貴方』には何か疑わしい要素があるのだと受け取るのが自然で、だって『貴方』の背景にそんなものが全く何もないのなら、そもそも『信じる』なんて言葉は出てこないはずじゃんかって話で。というのは人間相手に限った話でもなく、万物に対して言えることで、いわゆる信仰というやつ。存在が疑わしいからこそ信仰は発生するのであって、逆も然り。その裏側を感じさせるのが嫌だったので、自分は『信じる』という言葉を意図的に避けていました、これまでは。……いや、こう書いてみて思ったこととして、別に裏を感じさせるのが嫌だったってわけではないような気がしましたけれど、ここでは一旦置いておくとして。『信じる』の代わりに使っていたのは『知っている』だとか『解っている』だとか、そういった状態動詞で。これらは(基本的には)絶対的な事実に対して用いられるので、こっちのほうが性に合っていたというか、自分の表現したいこと、要するに自分の考えの枠組みに沿っている言葉かなと思っていました。『未完成の春』とか『startrail』とか『スカイブルーナイトメア』なんかは露骨にそう。本当は知っているはずのことを無意味に信じたくはないっていうか、ああ、そうですね。さっき上のほうで「別に裏を感じさせるのが嫌だったってわけではない」と書きましたけれど、ここまで書いてみて思ったこととして、他の何かや誰かを信じるという行為を、あるいはそういった状態を、単純に自分が避けていただけだって話になるような気がしてきました、やっぱり。「裏を感じさせるのが嫌」は完全に嘘で、だって自分、『きっと』や『いつか』のような副詞だったり仮定法だったり否定形だったりをかなりの頻度で用いますし。その辺りの感覚は、むしろ好きまであるような。だから、そうなると『信じる』を避けている理由は、単純に『何かを信じたくないから』ということで説明してしまえるのではという感じで。んー、少なくともいまの自分ではこの主張に反論することはできないっぽいですね。というのも、だから結局、自分の中から『信じる』という言葉が自然と落ちてきたのだって、つまりはそういうことなんだろうなという納得があって。「本物かどうかは分からないけれど、それでも本物だと思ってみたい」みたいな、そんな感覚? あるいはもっとシンプルに、「本物でなくたって構わない」という感覚? 『信じる』というのは、つまりはそういうことなのだろうなという感覚。そういった何かがあったといえばあったような、なかったといえばなかったような。……ダメだ。眠すぎて全く思考がまとまらない。いやもう、いまめちゃくちゃに眠くって。そもそも昨日のブログを更新できなかった理由が、昨日の自分が昼過ぎに寝て 23:50 に起床するという大ポカをやらかしてしまったというものなのですけれど。その負債を回収するために今日の昼過ぎに三時間ほどの仮眠を挟み、就寝時間が日を跨ぐ前後となるよう調整したので、だからいまそれはもうめっちゃくちゃのやたらめったに眠いです。人ってここまで眠くなれるんだなって感じ。……あー、なんか、全体的に意味わかんない記事になっちゃってる気がする。ごめんなさい。最近また曲作ってますって、そういう近況報告がしたかっただけです。マジでそれだけ、本当に。まだ書き始めてから四〇分くらいしか経ってないんですが、眠気がマッハなので寝ます。おやすみなさい。

 

 

 

答えなんかあってたまるか


 自分は現在、数学科に在籍している学生の身分ですけれど、かつての自分が数学の、特に整数論のどの辺りを気に入ってこの道へやってきたのかといえば、それは一見非自明な答えが明確な論理を伴ってバチっと導き出せるという部分だったんですよね。たとえば、自分の整数論好きを決定づけた問題の一つに『 y^2 = x^3 - 2 の正整数解をすべて求めよ.』というものがあるんですけど、知っている人は知っている問題かなと思います。自分は一度これに関する記事を書いたこともありますし、まあ、それはここではない別のブログでの話ですけれど。上の方程式の見方を少し変えて『 y^2 + 1 = x^3 - 1 』という風に見てみると、左辺(左側)は『平方数に 1 を足した値』になっていて、一方で右辺(右側)は『立法数から 1 を引いた値』になっています。なので要するにこの問題は「『平方数→?→立法数』という並びになっている数字の組は何?」という風に読むこともできるわけです。たとえばですけれど『 y^2 = x^3 -2 』で『 x=3, y=5 』とするとこの組は方程式の正整数解になっていることがすぐに確かめられます。右も左も 25 になりますしね。だから、先の話を受け継ぐとすれば『 25→26→27 』がまさしく『平方数→?→立法数』という並びになっているわけですね。なのでまあ、上の方程式を解けばこういった並びになっている正整数が全部分かるというわけです。しかし、ですけれど。しかし、実をいうと『 y^2 = x^3 - 2 の正整数解は \left(x,y\right)=\left(3,5\right) しか存在しない』ということが知られています。だからつまり、『平方数→?→立法数』という並びになっている数字の組は『 25→26→27 』しかない! ということです。これ、めちゃくちゃすごくないですか? だって、正整数って無数にあるんですよ。なのに、こういった並び方をしているのはたったの一組しかないなんて。……みたいなことにかつての自分はかなり感動し、なのでいまも整数論を齧りつつ院生ライフを送っているわけですけれど。整数論のこういった側面が僕は結構気に入っているというか、『非自明な答えが出てくる』というのが。なのでまあ、自分はそういったことを好ましく感じる人間なのですけれど、それはそれとして、また別の部分では「答えなんていらないな」と思う瞬間も結構あって。いずれか一方の考え方しかもっていないというわけではないというか、体感的には後者の、つまり答えなんていらないと思っていることのほうが多いような気さえしていて、だから個人的には自分が整数論に対して持っている感覚のほうがレアなんですけど。少し別の話をしますけれど、自分は大学に入って一年弱ほど仏教を齧っていた時期があって。という話は何度か書きましたけれど。仏教に興味があったということは全くなく、新入生として構内をうろついていた時に誘われたから、というだけの理由で参加していた会合だったんですが。でも、いまにして思えば、結構楽しい話が聞けたので良い経験だったなと思っています。なんだろうな。やたらと強調されていたのが「生きる意味って何だ?」という問いで、自分はまあ不真面目なリスナーだったのでかなり話半分で聞いていたのですけれど。でもまあ、そういった話を聞く機会があれば、それと同様に考える機会もやってくるというわけで。というか、それこそ高校時代の延長でしたけれど、『生きる意味』みたいなのを考えるのって。それはさておき、その問いに対していまの自分が思う結論としては「『生きる意味』なんかなんでもよくね?」なんですけど、どうですか? 「そういえば、このブログでそういう話を書いたことが前にあったな」って、思い出しての今日こういった話なのですけれど。んー、なんていうか、そうですね。単純に『生きる意味』なんていうものに対する明確な解答があってほしくないっていうか、そんな気持ちが強くって。そういうのって、自分で見つけなきゃ意味がないものじゃないですか? そんなことありません? 他人から与えられるものじゃないっていうか、いや、これは文意を正しく伝えなくてはなりませんけれど、「『生きる意味』とはつまりこういうことなのですよ」だなんて誰かの言葉を受け入れただけで見つけられるようなものじゃないだろうっていう、そういう意味です。逆に、だからこそ「『生きる意味』なんかなんでもよくね?」とも思うんですよね。個々人が勝手に決めればいいじゃないですか、そんなの。自分は自分なりの『生きる意味』に従って生きていて、他の誰かはその誰かなりの『生きる意味』に従って生きていて、別にそれでもうよくないですか? でもこう、センセーショナルじゃないですか、こういうのって、どうしても。この手の話題を扱ったそれって書店とか行けば腐るほどあるでしょうし、Twitter ですら大量のリツイートを伴って流れてきますし。そういったあれこれを目にするたびに、みんな、本当に人類普遍の解があってほしいのかなって、そう思うことがあったりなかったりするというか。仮にそういった普遍的な解があったとして、それに従って生きていくことが本当にできるのかなって、そういった疑念も自分にはあり。なんだろ、いやまあ、今日の話はこれでもうおしまいなのですけれど。『生きる意味』は自分で見つけるしかないし、見つけられたのならそれをもう『生きる意味』と定義してしまえばいいじゃんって。話題が飛ぶように感じられるかもしれませんけれど、『愛』や『友情』みたいなのも同じだと思うんですよね。だから要は、他者と比較のしようがないこの世の全部。そういうのって自分で見つけてしまうしかないような気がするっていうか、正しくは「自分で見つけたものでないと意味がない」と自分は思ってしまうんですよね。誰かを傷つけて、誰かに傷つけられたことで初めて痛みを理解するのと同じように、「これが『愛』ですよ」、「これが『友情』ですよ」だなんて、そうやって誰かから与えられた言葉に価値が宿るとは、自分にはどうしても思えなくって。ここで言っている『価値』というのは『自分にとっての価値』という意味であって、人類普遍の価値という意味ではないのですけれど。……んー、だからまあ、自分はありとあらゆる価値の基準を人類普遍なものとして理解したくはないんでしょうね、多分。相対的なものとして理解したいっていうか。というか、絶対的なものだと思いたくないっていうか。そんなものあってたまるかって、だから自分はそう思っていたりします、色んなものに対して。

 

 

 

必然性


 いまにして思うことといえば、「どうして自分は音楽をやっているのだろう」というのがあります。事の発端はといえば、昨年のいつ頃かに「一葉さんってなんで作曲してるんですか?」(要約)という旨の話を受けたことがあって、その当時のことを昨日か一昨日かに何故かふと思い出して。その質問に対するそれなりの回答は持ち合わせていて、実際、当時の自分が当時の自分なりに考え、返事を済ませたところでそのやり取り自体は解決しているのですけれど。しかし、だから、いまにして思うこととして、「そもそもなんで音楽だったんだ?」というやつがあるなって、そんな疑問に行き当たったというか。これが考えてみると結構不思議な話で。いま『不思議な話』を『不思議な那覇市』にタイプミスしちゃって一人でニヤニヤしてたんですが、それはさておき。というのも、自分にはいわゆる『音楽経験』のようなものが一切ないんですよね。これはあの、なんだろう、謙遜的な意味合いで使っているのではなく、本当の本当に皆無で。習い事で嫌々ピアノ教室に通っていただとか、あるいは実家に何かしらの楽器があっただとか、そんなことは一切なくて。正確に物事を伝えるのであれば、まず実家には姉の電子ピアノがありましたが、僕の記憶している限りでそれがケースの外へ出されたことは一度もなく(とはいえ、姉とは結構歳が離れているので、姉は姉でそれなりに使い倒していたのかもしれません)、それと父親のベースが父親の部屋にあったんですが、触ったことは一度もなく(「ベースって変な音しかせんし、そもそも弦硬すぎだし、どうやって演奏すんねん」と思っていました、当時。全国のベーシストに謝罪したい)。あとは祖父母の家にいたって普通のピアノがあり、記憶の中の姉はたしかそれをよく演奏していたなと思うものの、しかしまあ、自分が触ったことは一度もありません。なので、中学校卒業段階までに触れたことのあった楽器って、それこそリコーダーとハーモニカくらいのもので、いや、マジなんですよ、これが。完全に音楽とは無縁の幼少期を送っていたという感じで、それが何を思ったのか、中学三年生のときに DTM というものの存在を知り、そこから傾倒していくわけですけれど。冷静になってみると、これ意味が分かんないよなって。いやまあ、たしかに中学生くらいの頃に音楽へ目覚めるというか、楽器を始めてバンドを組んで……みたいな、そういうのと同様に捉えてみるとありがちな話かもなって思いもしますけれど。でも、自分の幼少期といえばそれこそ絵のほうがメインだったというか。幼少期から中学卒業にかけてですけれど。絵は昔からずっと描いていて、もちろんお遊びみたいな出来のものばかりでしたけれど、漫画を描いたりもしたし、あとは小説の真似事をしたりもしていて。いまはもうそんな文化消えちゃってるかもしれませんけれど、むかしは小説掲示板という、その名の通り小説専門の掲示板がインターネットにはあって、今でいう SSVIP みたいなものですかね。そこで色々遊んだりもしていたんですが。だから、音楽とは無縁の人生どころか、音楽以外とは縁がありまくりの人生を送っていたんですよ、気持ち的には。当時は自由帳が友達でしたし、本当に。いや、ならばこそですけれど、「真っ当に進むのであればそっちじゃね?」という感覚があるっていうか、そのような考えに至ったのが昨日だか一昨日だかのことで。「なんで音楽だったんだろう?」って。いまだって絵は描いてるし、小説の真似事もまあやってはいるし、漫画はさすがに描いていませんけれど……。でも、どれにしたって音楽ほどの熱量は割いていないというか、いま自分が最も熱心に向き合っているのは音楽のはずで、「いや、なんで?」っていう。これがマジで分かんなくて、結論も何も一切出ておらず、というか答えなんて見つからないような気がしますけれど。でも、なんだろうな。昨日の記事で書いたような『気づいたらこうなっていた』とはまた違っているような気がしてはいるんですよね、これに関しては。必然性なんてなかったはずといいますか。というのも、自分が音楽を始めた明確な起点のようなものははっきりと覚えていて、その後の道をどういう風にここまで辿ってきたのかということも思い出せる状態にあって。だから『気づいたら』というような不明な点はなく、完全にかつての自分の意思に依って今がこうなっているということはまあ間違いがないんですが、ただ、その『かつての自分の意思』とかいうものがあまりに分からなさすぎるって話で。マジで、どうしてこんなにも音楽へ傾倒することになったんだろ。別に音楽に溢れた家庭で育ったというわけでもなく、そもそも自分がある程度自由に音楽を聴くことのできる環境を手に入れたのって、たしか中二くらいのはずで。そのときの誕生日プレゼントかなんかで買ってもらったウォークマンが手持ちアイテムに加わるまでは、音楽を聴くことのできた場所ってテレビの前(アニメの OP,ED )と父親の車の中だけでしたし。マジで謎。かつての自分は音楽のいったい何にそれほど強く惹かれたんでしょう。それこそ、あれほど自由帳に描きまくっていた絵をめっきり描かなくなる程度にはのめりこんだわけで。それがこうしていまもずっと続いているわけですけれど。うーん。どうしてなんでしょう、本当に。

 

 

 

右か左か


 人生を『自分』という視点で、しかもたったの一度しか経験できないのって、自分はどうしても結構な損をしているというように感じてしまうのですけれど、皆さんはどうですか? んー、どうなんでしょう。損という表現は正しくないかもしれませんけれど、それに近いような感覚が自分にはあって。でも、だからって例えば小説だとか映画だとか、そういった媒体で別視点でのストーリーを追体験してみたいって、そんな欲求があるというわけでもないんですよね。感受性……。感受性って何なんでしょう。これは以前、知り合いとこういった話題を扱ったときの言葉をそのまま引きずっているのですけれど、感受性。他の人たちがどういった風に物語を楽しんでいるのか、それを知る術は勿論ありませんけれど、自分は割となんでもかんでも感情移入してしまう側の人間のような気がしていて。いや、どうなんでしょうね。こういうのを自分で言っちゃうタイプの人の話って、仮に自分が読み手の側であれば「信用ならねえ~」と斜めに構えてしまいますし、まあそう思われるのもアレなので普段はこんなこと言わないんですけど。でも、今回はそういうテーマなので、その辺りのこともちょっとだけ触れておきます。感情移入するとかしないとかじゃなくて、なんだろう。臨場感? ……ともまた違うな。一人称視点だろうが三人称視点だろうが、それが小説なのであれば自分は常にその目線であることを前提として物語を理解しようとするといいますか。いや、しようとするとかしないとかじゃなく、そういう風にしか向き合えないっていうか、そんな感じなんですけど。だから、自分と全く違う考え方をするキャラクターが一人称の作品とかは、読んでいて結構楽しかったりします。こう、自分の中には存在しない行動理念のようなものが自然とインプットされてくる感じで。映画も同じ。作り手側の意図とかは特に気にせず、操り人形の視点から物語を理解しようとする、みたいな。自分は基本的にそんな感じの楽しみ方をしています。いや、でも、ならばこそって話なんですけど。その、だから「人生を一回しか経験できないのって損じゃね?」という風に思ったとき、それを小説や映画で埋め合わせる、みたいなことが全然できなくって。というのも、そういった媒体に触れているときの自分は完全に別人のつもりだというか、要するに山上一葉という人格は完全に消滅してしまって、主人公なり神の視点なりと同一化しているわけで。でも、自分がやりたいのはそういうのじゃないっていうか。自己の連続性を保ったままで別視点での人生を経験してみたいんですよ。わかりやすく言うと、異世界転生がしたい。これは嘘で、異世界へは飛ばされたくないし、転生をしたいわけでもなく、ただイメージしやすいかなって理由だけで言いました。別に異世界転生はしたくありません。でもまあ、イメージとしてはそんな感じで。たとえば、それこそ感受性とか? 「いや、知らんやん」ってなりません? 自分が持ち合わせている感覚の多寡って、そんなの他人と比較しようがないし。比較することに意味は何一つありませんけれど、それでもまあ知りたくなったりするじゃないですか、そういうの。でも、知りようがないし。だから、自分のままで別人になってみたいって、そういうことを思うんですよね。たとえば、自分はかなりの頻度でぼーっと空を眺めることがあって、電車に乗っているときとか、あるいは普通に歩いていてもそんな感じですけれど、でもそうじゃない人だって当然いるわけじゃないですか。歩いているときにずっと俯いている人とか、別に何をみているでもない人。どっちが良いとか悪いとかって話ではなくて、そもそも良し悪しなんて存在しませんが、だから、そういう人生を送ってみたいって思うんですよね、単純に。空を全く見上げない人生。面白そうじゃないですか。他にも、たとえば自分は食への関心がほとんど皆無で、だいたい何を食べても美味しいと言うので、友人と会うときなんかには店の選定も予約も全部投げちゃう(かわりに和洋や金額など、すべての設定権が相手にある)のですけれど、そうじゃない人生も一度くらい経験してみたいなって。「あの店の〇〇は口に合わない」だとか、「この店の〇〇は特に美味しい」だとか、そういった感覚に少しは振り回されてみたいって、食にかなり拘りのありそうな友人とご飯へ行った際には、そういったことを思ったり思わなかったり。ほかにも、自分の家はいまもむかしもめっちゃくちゃに散らかっていて、綺麗好きの人が訪れたら卒倒するレベルだと思うんですが、逆にそういった綺麗好きな人としての人生もやってみたいなって思うし。なんていうか。こういう人格周りのことって決定権がないじゃないですか、自分たちに。気づいたらそうなっていたっていうか。別に空をみようと思ってそうしているわけではないし、食への関心を持たないようにしようと思ってこうなったわけではないし、部屋は散らかっていたほうがいいと思って散らかしているというわけでもなく、『なんか知らないうちにそうなっていた』が結局のところ全部っていうか。もちろん、ルーツみたいなものをたどっていけばそれっぽいものがいくつか見つけられるだろうと思うのですけれど、でもそんなのは卵と鶏でしかないような気が個人的にはしていて。だから、なんていうか、『自分じゃどうにもならなかった部分』を今とは別の状態にして、そのうえでこの世界を捉えてみたいっていうか。そういう欲求がめっちゃくちゃ強くあるんですよね、自分には。極論を言うと、性別とか。男性としての人生しか送れないってあり得なくないですか、マジで。ふざけんなって気持ちが自分には結構あるのですけれど、皆さん、そんなことないですか? いやだって、いまどき RPG だって性別くらいは選べますよ。なのに、なんで選べないの? みたいな。……まあ、ここまでに書いた話は半分くらい冗談で残りの半分くらいは本気ですが、いやまあ、それこそ最後の性別の話を受け継ぐとしたら、だからって別に性転換をしたいだとか、そういうことは一切思ってません。ここら辺、ちゃんと書いておかないと誤解されそうだなと思うので、一応断っておきますけれど。というか、でも、だからそういう話じゃないんですよね。空も食も綺麗好きも性別も、だから要するに『その片一方しか経験できない』って事実が自分は許せないっていうか。それを「もったいねえ~~~~」と感じるというだけの話で。『空を見上げない』、『食への関心が高い』、『綺麗好きである』、『女性である』といった、いまの自分が持ち合わせていない要素そのものに価値を見出しているのでは全くなくて、それらに共通している『自分には一生涯経験できない』という属性に対して価値を見出しているっていう、そういう話です。だからまあ、自分にとってはあくまで右か左かという程度の違いしかないというか。別にどっちがどうとかって話でもなく、だからたとえば「では、そんなあなたを明日から女性にしてあげましょう」とどこかの神様が親切にしてくれたとしても、まあ普通に断るだろうと思います。男性としての人生しか経験できないという事実に不満があるだけで、男性であること自体に不満を持っているわけではありませんし。この辺りの感覚の違い、自分はそれなりに明確なものとして持っているのですけれど、まあでも、そういうことをあまり思わない人にとっては同じもののように映ってしまうのかなという懸念があり、なので少し多めに注釈をつけておきました。……これはもう何度も書いていることなので、わざわざここで取り立てて話すようなことでもないのですけれど、だから結局、自分が他の人の話を聞きたがるのもつまりはそういうことで。自分と他の誰かとでは考え方が異なっているわけで、価値観も同様に異なっているわけで、だったら見えている世界も別物のはずで、自分が知りたいのは、だから正しくそれなんですよね。手っ取り早いのは自分の意識がその誰かの身体へ入り込むことですが、昔の漫画にありがちな頭を思い切りぶつけて Let's 人格交換みたいな、ああいうの。でもまあそれは不可能なので、だから会話として理解してみたいって、そういう気持ちが自分にはかなりあって。二〇と数年生きてきて、自分に最も合っていると感じた追体験の方法が、結局のところは会話なんですよね。会話。このブログで自分の考え方をああだこうだと書き散らかしているのも、自分と同じようなことを考えている人がどっかにはいるかもしれないなという気持ちが多少はあるっていうか。なんだろ、そういう、「他の人が何をどういう風に考えているのか知りたい」みたいな人。いるのかな、知らないけど。いやでも、そういう人が身近にいるのだとしたら全くの無意味というわけでもないなと思っていたりいなかったり。っていうかもう、自分の考え方や普段見ている風景なんかは散々書き尽くしてしまっていて、このブログのいたるところに。なのでというわけでもないですけれど、最近マジで他の人と話をできる機会がめっきり減ってしまったことも相まって、なんか、いわゆる感覚のアップデートのような何かが滞っているような気もしており。とはいえ、気軽に会って話せるような状況でもないので難しいですよね。んー、まあ、別に誰かと話していないと死に至るような病に侵されているというわけでもなし、というか、いわゆる雑談のようなそれは雑に話すからこそ意義があるのであって、会話をするという目的で行われる会話は会話じゃないという意見にはかなり賛成している側の人間ですし、自分は。なのでまあ、何かしらの機会があるときでいいでしょうって、だいたいそんな風のテンションで生きています、最近は。もうすぐしたら色々とイベントがありますしね。そのときに色々を話したり話さなかったりできたらいいかなって、そんな感じです。

 

 

 

夜にしかない


 今月へ入ってからほとんど毎日ブログを動かすということをしており、その結果として何が起こるかといえば、今月のアクセス数がそこそこの数字になっていてですね。割と頻繁にアクセス数を確認しつつ(読んでもらえることは素直に嬉しいので)、一方で「誰が読んでいるんだ、こんなものを……」と首を傾げていたりもします。Twitter でいいねを押してくれている人たちは読んでくれていたりするのかなと思いつつ、しかしそれじゃ説明のつかないくらいのアクセスがあり。んー、どうなんでしょう。いや、別にいいんですけど、誰が読んでいようが、いまいが、どうだって。「ブログ読んでるよ」と教えてくれる人もいますけれど、別に言わなくたって大丈夫ですよ、そういうの。教えてもらえると嬉しいですけど。でも、僕が嬉しくなる以上の事態へは発展しないので……。僕を喜ばせたいという人だけお願いします(何?)。いや、実際どうなんでしょうね。自分が想定しているよりは色んな人に読んでもらえてるっぽいということを思うと、じゃあ自分はここに何を書けばいいんだろうなって、ちょっと分かんなくなってきた感があって。なんだろ、そういうの別に気にしなくたっていいと思うし、実際、特に気にするつもりもないんですけど。さっきまで鴨川で「今日は何について書こうかなー」と考えていて、でもなんていうかそっち側に思考が引っ張られてしまっている感があって。難しいですね。……もう少し別の形で公開しようと思っていたんですが、先日の散歩中に感じたことについてちょっと書いてみます。いつだっけ、深夜二時くらいだったと思うんですけど、四年間住んでいたにも関わらず一切立ち入らなかった区画へ足を運んでみたということがあって。京大の人だったら分かるかな、出町柳駅の北東部です。あのあたり、謎のマンションがかなり乱立されていて、それでいて結構古めの建物ばかりなので、深夜に行くとこの世の終わり感が凄まじいんですよね。本物の終焉がそこにあった感じ。みたいなことを、数日前に初めて知りました。ゴーストタウンとは言いませんけれど、いやでも、自分が最初に受けた印象はそんな感じでしたね。死んでる感じ、町ごと。階段の踊り場、廊下、公衆電話、掲示板、自動販売機。街灯以外の灯りといえばそのくらいのものしかなくって。窓が道路に面していない建物が両側に並んでいる辺りは、もう完全に文明の気配がなくって。「こんな場所があったのか……」と思うなどしました。そこから徒歩で三分ほどの路地、百万遍出町柳とを繋ぐルートですけれど、その道とは印象が全く違っていて。全然離れていないのに。こうやって迷い込んでみるのも悪くないなと思うなどしました。……ところで、自動販売機の音って聞いたことありますか? 自分はその夜に初めて自覚的になったんですが、真夜中の歩道を歩いていると聞こえてくるんですよ、自動販売機の音が。というか、出町柳の駅構内でもその音は聞こえていて、だからつまり真夜中じゃなくたって、朝から晩までずっと、自動販売機が動いている限りはその音が聞こえているはずなんですよ、本当は。でも、人が活動しているうちはもっと他に色んな音が鳴っていて、雑踏とか、走行音とか、話し声とか。そういうものにかき消されてしまっている音が、夜だと綺麗に聞こえるなって、そんな感じのことを考えていました。思えば、眠ろうとベッドへ入ったはいいものの、脈拍が気になって眠れないみたいなことも結構あるなって。ひとりきりの部屋の中で静かにしていると、冷蔵庫や空調の音がはっきりと聞こえてくるようになったりもして。静かだからこそ騒がしく感じる瞬間って、実際そこそこあるよなあって。心理的にも、というのはただのこじつけですけれど。……夜じゃないと聞こえない音があるという話をしたついでといえばついでで、夜じゃないと見えないものもあるよなあって。星とか月とかじゃなくて、たとえば電柱の張り紙とか。いや、日中だって見えますけれど、でも見ないじゃないですか、わざわざ。自分は変わった人間なのでそういうのも読んでしまうのですけれど、いやでも、普通の人はそんなの見ないよなあって。でも、それが夜だと自分みたいな人でなくともよく見えるようになるんじゃないかって気がしていて、しているだけですけれど。夜って何もないですしね、周りに。……普通の人間はそもそも深夜に散歩なんかしないって話がありますけど、それはさておき。最近はよく散歩をしていて、そのたびに普段足を運ばないような場所へ向かっているのですけれど、行く先々で掲示板やらなにやらに張り出された文章を読むのが結構好きで、まあ、はい。好きなだけです、僕が。何の話? 散歩の話です。みなさんも是非、深夜の散歩をやってみてください。って締めを数日前にもしましたね。何回同じこと言うんだって感じですけれど、でも、これって大学生のうちにしかできないことだなって最近思って。たとえばですけれど、社会人になってしまうと年に一、二回しか会えなくなるような相手もいるはずで、実際、僕にもそういう相手が何人かいますけれど。じゃあ、そういった人たちと久しぶりに会う機会があったとして、そのときに深夜の散歩だなんてどうでもいいことができるのかなって思ったんですよ。できないなーって思いましたけど。なんだろ。こう、どこかの店でお酒を飲んで、お互いの近況なんかを語ったりして、それで酔うだけ酔ってそのまま帰る、みたいな。いや、それが悪いって話ではなくて、必要なことだと思うんですが、でも、あまりにも必要なことすぎるよなと自分は思っていたりして。年に一、二回なんて機会が訪れたとしたら、必要性の高いものから順に消化していくじゃないですか、当たり前のように。だから、そうでないものは次第に身近じゃなくなっていってしまって、それは仕方のないことですけれど、ちょっと寂しいなあと思ったり思わなかったり。なのでまあ、大学生のうちにしかできないことをいまのうちにやっておこうと、最近、やたらと深夜に出歩いているのはそういった理由だったりします。……あんまりまとまんなかったですけど、「みんなも深夜の散歩をしよう!」というだけの話でした。なにか面白いものを見つけたら、よければ教えてくださいね。

 

 

 

友人だとか恋人だとか


 何かしらの物事について深く考え始める起点の一つとして、自己矛盾というやつがあるなと昨夜思って。昨日『関係性』というタイトルで記事をあげましたけれど、あれ、本当に書きたかったことの半分ほどしか実は書けていなくって。ただ、なんていうか、その先のことに対する自分なりの考えがあんまりまとまっていなかったというか、だから書き切れなかったって話なんですけど。なので、今日はその続きから始めようと思います。自己矛盾。何がどう矛盾していたのかというと、自分は「何かと何かの間に生まれる関係に名前をつけたくない」とかなり強く思っていて、実際、前回の記事ではそういったことを書き殴っていましたけれど、しかし、あれを書いている途中で「『名前をつけてしまってもいい』と感じる瞬間もあるにはあるな」と思い至って。両者を比較すると前者がかなり優勢で、後者の感情が湧いてくるのはかなり稀なことといいますか、ほとんど皆無と言って差し支えないのですけれど、でもそういう気持ちがあることには変わりなくて。だからまあ、自分の中で矛盾を起こしてるな~、って。なんだろう、僕らってプログラムされた機械とかではないので、与えられた事象に対して常に同じ答えを返すなんてはずがなくて、その日の気分で食べたいものも行きたい場所も変わるし、そんなものかなと自分は思っていて。だから別に、自分の中に矛盾があるなんてこと、おかしなことでも何でもないっていうか、それが普通というか。むしろ、ありとあらゆる事象に対する自身の主張を、最初から最後まで何の矛盾もなく貫き通すことができるという人がもしいれば、自分はそちらのほうがずっと信用ならないっていうか、単純に怖いですね。自己矛盾に対して誤った正当化を適用している理論武装家じゃないのかって、ちょっと身構えちゃいます。それはさておき。何が言いたかったのかといえば、だから結局、矛盾の正体がなんであるかなんて考えなくたっていいんですよ、別に。冒頭で「自己矛盾を起点に深く考えることができる」みたいなことを書きましたけれど、そんなことはしなくていいって話で。だって、人間なんて矛盾しまくっている状態が正常なので。その食い違いで気を病む必要はないというか、誰を相手に話すかによってペルソナを切り替えたって別にいいじゃないですか。そういうものでしょう。ただまあ、という話ですけれど。ただまあ、その自己矛盾がどうして生じているのかを少し考えてみると、なんていうか、自分が曖昧のままで処理していた領域が若干見えてくるような気がするというか。あくまで気がするだけですけれど。なので、自分はそういうことを結構やってしまうタイプというか。別に、自分がどういう風に動いているのかを言葉で理解したいってわけじゃなくて、ただ、こう、普段の自分が何気なく通り過ぎてしまっているものに対して多少なりとも自覚的になることができれば、生きていくのがもっと楽しくなるんじゃないかなって感覚が、少なくとも自分の場合はあって。この数年、大学へ入ってからですけれど、まあ実際にそうなっていて。いやまあ、そういった感覚に従って動いているってわけでもないですけどね。自分は昔からどうでもいいことをずっと考え続けるのが好きだったような気がするので、だからまあ、別に「よし、考えよう」なんて思うことすらなく、『自己矛盾』のように足掛かりになりうるものを自覚してしまった時点で、散歩中なりお風呂の中なりでもはや自動的に思考を開始していますけれど。その結果として人生が楽しくなるならまあいっかみたいな、そんな感じのテンションだっていう、そういう話です。……いつまで経っても本題に入れないな。『……』って便利ですよね。三点リーダ。一瞬で話を区切ることができるので。ああ、もしかしたら「改行しろよ」と思っているかたがいるかもしれませんけれど、いや、何を隠そう自分でもそう思ってはいるのですが、少なくとも六月中に更新される記事は全部こんな感じになると思います。読みにくくて申し訳ない。一時間という枠の中でやれるだけやるというのが趣旨だという話は、この六月中に更新された記事のどこかで書きましたけれど、だから、話の流れだとか区切るタイミングだとか、そういうことを一切考えてないんですよね。思ったことを思ったままにタイピングする練習なので、これは。どこまでやれるかなって。だからまあ、そうですね。多少の読みにくさには目を瞑ってもらえたらと思います。最初と最後とで全く関係のない話になっていた、というような論理的なバグはなるべく抱えないように気を付けるので、それで許してください。はい。で、そうですね。自己矛盾。名前をつけたくないというのは本当で、昨日は確か『他人』、『知人』、『友人』、『先輩』、『後輩』、『彼氏』、『彼女』あたりを挙げたような気がしますけれど。ああ、あとは氏名という意味での『名前』もですね。でも、こう、自分がそういう感情を抱く対象はもっと他にも色々あって、たとえば『記念日』だとか『居場所』だとか。『記念日』については、なんだろ。一年のうちのその一日だけを特別視するのがなんかしっくりこないというか、ここでの記念日はその『こどもの日』とか『建国記念の日』とかじゃなくて、こう、もっとプライベートな意味でのそれですけれど。これもなんていうか、だから結局、その『記念日』として制定された一日を除いた残りの三六四日のことを思えば、という話で。たった一つを特別視するということは、残りの全部の立ち位置をどうしたって相対的に下げることに繋がってしまって、それはもう表裏一体で仕方のないことという感じですけれど。だから、なんか、そういう『仕方なさ』のようなものを恐らく自分は避けたがっていて。『仕方ない』程度の理由だけで、それ以外の全部を覆い隠してしまってもいいのかな、みたいな。全然関係ない話ですけれど、音楽理論とかでもよく言われますよね。大衆的な理論を目指すとどうしても専門的な領域へは立ち入れなくて、逆に専門的な部分を詳らかにしようとしすぎると大衆とは酷く乖離したものになる、みたいなやつ。自分はその『大衆的』を避けたがっているような傾向があって、もっというと『汎用性の高いもの』ですけれど。それこそ『友人』とか『後輩』とか、そういった、「別に『自分ともう一人』でなくても当てはまる言葉」みたいなものを使いたくないと思っていがちというか。こういう風に書くと、そんなに自分たちのことを特別だと思いたいのかよって感じですけれど、いや、そうではなくて。だから、そういった一般的な単語であればあるほど細部を覆い隠してしまうっていうか、でも自分はどちらかといえばその細部こそが人間関係、ひいては『何かと何かの間に生まれる関係』の本質なんじゃないかと考えていて。なのであまり使いたくないと、そういう話です。自分とそれ以外とを区別したいという目的は特にありません。どうでもいいですし。だからまあ、そうですね。ここまでの話をまとめると、結局、『自分はそういった言葉をあまり使いたくない』という、前回の結論から何ら進展していないそれとなってしまいますけれど、しかし。しかし、自分にも『名前をつけてしまってもいい』と感じる瞬間があるにはあって、だからつまりはそれが自己矛盾だという話ですよね。これだけの文字数を割いてまで「そういうのを避けている」と主張したくせに何なんだよ、みたいな。いや、昨夜の自分も「何なんだよ」と思って色々考えてみたんですが。まず、自分がそのように思ったのは、つまり『名前をつけてしまってもいい』と感じたのはどういった対象があったのかと考えてみて、初めに思いついたのは『友人』でした。というか、自分の中に『友人』というカテゴリが存在している理由は正しくそれだなと思って。このブログを漁れば「自分が『友人』という言葉に対して設定しているハードルはめちゃくちゃ高い」みたいな話がどこかにあるだろうと思うのですが。その『ハードルの高さ』というのが、だからつまりは『名前をつけてしまってもいい』と思えるかどうかってことなんだなと昨夜の自分は思って。現時点での自分はその意見に納得しているのですけれど。だから、なんだろうな。その、そういった言葉を使いたくない理由として『それ以外の全ての要素を隠してしまうから』ということがあるという話はこれまでに散々書きましたけれど、だからそれを『許容してしまってもいい』と思えるかどうかという話なのかなって。好ましい部分も、気に食わない部分も、好きも嫌いも信仰も憎悪も。そういったすべてをひっくるめて「この人は自分の『友人』だ」と断じてしまってもいいと思えるかどうか、みたいな。『仕方なく』ではなくて、すべてを納得した上で果たしてそれが可能かどうかという話。それってかなり難しいことだなと自分は思っていて。その、なんだろ。めちゃくちゃに仲の良い相手だとしても、一切口外しないからムカつくところをいくつか挙げろと言われたら恐らくは可能だと思うんですよ。というか、仲良くなればなるほど許せない部分も増えていくっていうか、それは自分の中でのその相手に対する解像度が上がっていくことに起因する現象ですけれど。だから、なんだろ、たとえばの話ですけれど、付き合う前まではめちゃくちゃに素敵な人だったのに、付き合い始めてからまるで夢から覚めたみたいにそうとは思えなくなった、みたいな話、あるあるじゃないですか、こんなのって。でもそれは必然的にそうなるっていうか、相手のことを知れば知るほど、自分のそれとは食い違っている部分に対して自覚的になってしまって。いや、でも、だからそれを許容できるかどうかという話でもあるっていうか。自分はそういった条件を『友人』という言葉に課しているのだなって、そんな感じのことを思いました。もちろん相手に依存する領域だけじゃなくて、たとえば嫉妬や羨望? 自分もまあ普通に普通の人間なので、相手を羨むことなんてままあって。そういった、自己に起因する要素もそうですね。なんかこう、なんだろ。まあプラスの感情はまだしも、マイナスのそれをずっと抱えてやっていくのって当然のように無理のような気がしていて。『嫌い』だとか『妬ましい』だとか、そういうの。しんどいじゃないですか、普通に。でも、それを抱えたままでやっていかなきゃいけないのが『友人』だよなーと自分は思っているというか、より正確には「そういう全部を抱えていてもいいと思える相手が『友人』」という理解ですけれど。こいつの分くらいはまあ持ってやってもいいか、みたいな。『友人』のほかにも、たとえば『恋』みたいなのも同じだと自分は思っていて。ついさっき例に出しましたけどね、付き合い始めて夢から覚める、というやつ。いやでも、なんだろうな。だから『友人』も『恋人』も、別に何も変わんないなって自分は思っているんですよ、割と本気で。なんか昔にもそういうことを書いた気がしますけれど。自分の場合、結局は「この相手に関することであれば、自分はほとんどすべてを受け入れることができる」という部分が共通のハードルになっていて。好きも嫌いも信仰も憎悪もと言いましたけれど、そういう全部。許す許さないじゃなくて、受け入れるか受け入れないか。許せなくてもいいから受け入れられるかどうか、みたいな。それは『友人』だろうが『恋人』だろうが変わんなくて、だったらその二つを区別する必要ってないよなと思って。だからこういった無意味なラベリングをあまり持ち出したくないというか、取り立てて名前を付けることもないだろうって、そう思ったり思わなかったりします。……めちゃ長々と書いてしまった。いま時計をみたんですが、一時間を若干オーバーして一五分くらい経ってますね。反省。なんか、この周辺のことについてはまだもう少し書けそうな気がしていて、なのでもしかしたらどこかでまた続編があるかもしれません。まあ、こういうことを書いてしまった時点で、本当に続きがやってくる確率はめちゃくちゃ下がるというのが人類普遍の経験則ですけれど。