telepath


 これについてはどの程度の共感を得ることができるのか分からないんですが、たとえば『横断歩道の向かい側で信号待ちをしている人』を観測したときに、その人物のその時点での心境を考えたりってこと、皆さんはしますか? 自分はするんですよね、そういうことを。いや、するしないの話じゃないっていうか、なんか条件反射的にそうなっているというか、縁も所縁もない他人であっても観測した瞬間に、その対象にまつわる想像(妄想と同義)が一瞬のうちに頭の中を駆け巡ってゆくというか。「よし、考えてみよう」とかじゃなくて「……ああ、あの人、こんな感じのことを考えてるのかな」みたいな。三点リーダのうちに想像の結果が脳内には出力されていて、対象の人物を認識するのはむしろそのあとというくらいのスピード感で。形式的にはテレパシーの領域っていうか、いや、相手の考えを読み取っているというわけでは勿論なく、ただ自分が妄想しているというだけなので、つまりは何の中身もないものの例えなのですけれど。だからなんか、自分の場合、外を歩いているだけで結構色んなことを考えさせられるというか。仕事帰りの人とか、子連れで歩いてる人とか、自分と同じような大学生とか。まあ、だいたいのことは考えた直後に忘れてしまうのですけれど。というか、人とすれ違うたびにそういった諸々を考えさせられるので、いちいち覚えていられないというのもあるのだろうと思います、推察するに。この性質が昔は結構なストレスになっていたような気がしていて、ここでいう『昔』は大学二回生くらいまでの頃ですけれど。だからってわけでもないんでしょうけど、人の多い空間が自分はかなり苦手でした。いまはもうこういったことに、つまり一対多にあまり有利でなさそうな自分の性質に自覚的なので、それなりの対処法を持っていて、だからまあ昔に比べればかなりマシにはなったと思うのですけれど。……でも、やっぱり閑散としている場所のほうが歩いていて楽しいというのは変わらずありますね。早朝だったり深夜だったり、物音の遠い時間帯のほうが自分には向いています、恐らく。それはさておき。いつ頃からこうだったんだろう。これは比較的特殊な部類なのだろうなと思い始めたのが、何を隠そう、大学進学以降のことなので、それまでの自分がこのような性質を持っていたのかということを、あまりはっきりとは思い出せなくて。高校生の頃にはもう既にそうなっていたというところまでは明確に覚えているのですけれど、中学生の頃はどうだったかなあって。曖昧な記憶を曖昧なままに辿ってゆくとすれば、小学生の頃にそういったことをめちゃくちゃにやっていたような覚えがあるようなないようなという感じなので、中学のときも同じような感じだったのだろうなと思います、多分。……小学生の頃、というかもう少し前の幼少期からか。まあ、そうですね。自分は親族のことが心底嫌いでした。いまは全然そんなことないんですけど。なんだろうな。あんまり身の上話をしすぎるのもよくないと思うので具体的なところは避けますけれど、どうなんだろう、嫌われてたのかな? 疑問形になっているのはなぜかといえば、自分の受けていた印象通りであれば『嫌われていた』となるのですけれど、事実通りにたどっていけば『別にそうでもなかった』ということになるのかなという気がしていて。被害妄想? いや、事実として被害は受けていたので決して妄想ではないはずなんですけど、それはそれとして益することもあったというか。嫌われっぱなしではなかったという意味ですけれど。んー、なんか、子どもの頃はその辺りの感覚を不気味だと思っていたことを思い出してきました、いま、唐突に。いや、なんていうんだろうな。嫌いっぱなしだったら楽なんですよ。こちらからもそういった態度を取ればいいだけですし、昔の自分は結構捻くれていたので、その程度のことであれば容易に行動へ移していたはずと思わなくはないです。でも、だからそうじゃないときはどうしたらいいんだって話で。嫌なことをしてくるけど、良いこともしてくれる、みたいな。そういった相手への距離感って、難しくないですか? ……というようなことを、幼い頃の自分は親族という存在に対して思っていました。どの程度本心から言っていたのか今となっては不明ですけれど、自分が嫌われているというか、そういった扱いを受けている理由について本人が口にしていたこともあり、当時の自分にとっては(いまの自分も同様だけれど)かなり理不尽なものだったので、それをまあ理不尽だと認識してしまった以上、自分の側からへらへらと媚び諂う動機もなく、だからもう昔はずっと「早く大きくなって、こいつらとの関わりを断ちたい」とばかり思っていました。いや、本当に。……どうしてこういう話を思い出したのかといえば、だいたいそれくらいの時期から相手の心情を推察する(妄想すると同義)ことをやり始めたんだなって、そう思ったからです、いまさっき。というか、正しくはそれ以前のことを全く覚えていないって話なんですけれど。それくらい昔の話で、アルバムを開いたって思い出せないくらいの。でもまあたしかに、いまの自分が道ですれ違った人相手に無意識でやってしまうようなことを、意識的か否かはさておき、あの頃の自分もやっていたんだなって。というか、そうせざるを得ない状況だったのかな。あまりに嫌すぎていまでも覚えてるんですけど、……不幸自慢していいですか? というのは冗談で、話半分に読み飛ばしてほしいのですけれど。休日に仕事や会社の付き合いなんかで両親が同時に家を空けるときに、その親族のところへ預けられるんです。まあ、年齢を思えば当然のことですけれど。自分には年の離れた姉がいて、なので二人同時に預けられることとなるわけですが、ここで問題だったのは姉は比較的好かれていたんですよ、その親族に。いや、いまにして思えば姉も姉で結構な扱いを受けていたような気がしますけれど、だからまあ、要は構図の問題です。立場(年齢)的には親族が最上位にいて、僕が一番下にいるという状態なわけで、姉は親族の側へつくことを選んでいたっていう、それだけの話。……そう考えてみると、当時の姉を怨むのもなんだか筋違いのような気がするっていうか。いまでも仲が悪いとか、別にそんなことは全くないんですけど、でも当時は相当に嫌いでしたね。という状況で、そのまま一日過ごしたりしなきゃいけないわけですよ。両親の迎えが来るのは次の日の朝になることが多かったので。いや、もう地獄ですよ、地獄。マジで。いまにして思えば自分も多少悪かったのかなって思うんですけど、だからまあ、適当にへらへらとしていい子ちゃんぶっておけば親族は概ね満足していたのだろうなって。でも、当時の自分はすでに『理不尽な理由』を知ってしまっていたので、「なんでこんな奴に」という気持ちのほうが勝ってしまっていて。一方で、その親族がただ純粋な悪というわけでもなく、時たまに優しく接してくるせいで分かんなくなっていたというか。いやまあ、要するに昔の自分がやっていたのって、その辺りの機微をなるだけ正確に汲み取ろうとすることだったんでしょうね、多分。できれば相手と直接接触することはせずに、口調だとか所作だとか、そういった部分から相手がいまどちらの状態にあるのかを理解しようとする試みというか。そんなことをしようと思ってしていたわけじゃないんでしょうけれど、でも、それをしなきゃやってらんない状態だったのだろうなというのは今の自分でも想像できて。……どうなんでしょう。いまの自分なら苦手な人が相手でもかなり上手くやれるような気がしていて、というのもあの頃の自分と今の自分とで明確に異なっているのは、会話をするのが苦ではないという点で。その相手がどれだけ理解できなくても、いまの自分は会話をすることができるので、そういう意味で上手くやれるようなやっぱりだめなような。まあ、やってみなきゃわかんないですし。まあでも、いまじゃ親族だったり姉だったりと普通に話せるのは、別に自分が当時のことを許したからとかではなく、単純に会話ができるようになったからなんだろうなって、電話越しに話したりするときなんかにはそう思ったりもします。……いや、アレですよ。あの、文字ってあくまで記号であってそれ自体は無表情だから、いまの自分がどういった心境でこの文章を書いているのかだとか、こんな内容なのでともすればめちゃくちゃ真剣な表情を想像してしまうかもしれませんけれど、これまでの記事と同じノリですよ、いやもう本当に。全然シリアスじゃないっていうか。もう一五年以上前の話ですし、シリアスにもなりきれませんね、今更。ああ、だからまあ今日書いてみたかったのは、結局のところ冒頭で話していたそれだけです。道ですれ違った人の心情を考えてみたりしますか? っていうやつです。このブログ、質問形式の話題を扱うことがままあるんですけど、これはあれですね。普段、日常会話でこういったことを話す機会ってほとんどないので、いや、相手によってはあるのですけれど、でも相手によってはないから。だから、こういったところで不特定多数に向けて発信を行うことで、自分の中にある『他の人の話を訊いてみたい欲求』みたいなそれを昇華しているという、そういった意図でのそれです。そのくせ、リアルで話したときにブログの内容について触れられるのは結構恥ずかしいんですけど、でもまあ、それ以上に得られるものがあればいいなという感じではあるので。なので、まあ、はい。感想はいつでもお待ちしております(?)。そんな感じでした。