関係性


 特別な関係というものが、たぶん自分はあんまり好きではなくて。だからといって嫌いというわけでもないのですけれど、でもどちらといえばうまく折り合いをつけて生きていけたらなって、そんな風に思っています。なんだろう、このブログをある程度読んでくれている人であれば、僕が『友人』という言葉に対して色々と思うところがあるということはもしかしたら知っているのかもと思いますけれど、何も別にそれに限った話ではなくて。他人とか、知人とか、先輩とか、後輩とか、彼氏とか、彼女とか、もうなんかそういう全部に対して自分には自分なりの考え方というか、なんだろ、線引きというか、そういうものがあって。いやまあ、少なくとも『彼氏』については一生涯無縁ですけれど。なんていうか、その対象が何であれ、それと自分との関係性に名前を付けたくない、みたいなそういう気持ちがあるっていうか。『後輩』や『彼女』は絶対に使いたくないし、『先輩』は意図的に使うことが若干あるものの、基本的にはやっぱり使いたくなくて、大きな理由としてはやっぱり「そういう関係であることを相手に強要するのが嫌」というのがあり、でもそれはそれとして、「そうじゃない部分が消えてしまうみたいで嫌」というのもあるんですよね。こっちについてはあんまり触れたことがなかったような気がします。一応触れておくと、『知人』はかなり抽象性の高い単語のような気が個人的にはしていて、『お互いに知っている』以上の情報量がないから、だから自分はだいたいの相手をこのカテゴリへ分類することにしています。していますが、そもそもの話、どうしてもそういったカテゴライズが必要になる瞬間しか持ち出すことってなくて、たとえばこのブログとか、どうしても個人名を出せない状況とかじゃないとわざわざそういうラベルを外へ出すことはしないというか。それはまあそうって感じですが、それはさておき。なんだろう、たとえば『友人』というカテゴリに入っている相手がいたとして、でも『友人』以外の属性だって当然ながらあるわけじゃないですか。その、僕と誰かとの間には。好きなだけの相手っていないし、同様に嫌いなだけの相手もいないし。『友人』という関係は、だから結局は一側面に過ぎなくて、好ましく思っている部分もどうしても気に障る部分も、あるいはどうだっていいと思っている部分だって沢山あって。そういうのを積み重ねた結果として僕たちという存在があるわけで、その全部を『友人』という言葉で括ってしまうのが単純に嫌だっていうか。なんだろうな、なんか、何かを誤魔化しているような感じがしてしまって。だからまあ、そうですね。自分はそういう『関係性を表す名詞』を極力使わないようにしていて、シンプルに名前で呼びたいんですよ、どちらかといえば。名前。でも、それにしたってそうで、名前も名前で自分は色々と思うところがあるっていうか。だから、冒頭で言っていた『特別な関係』というのは何も人間関係に限った話ではなくて。何かと何かがあれば必然的に生じてしまう両者の関係、そのすべてに対して重荷になるような名称を与えたくはないなーと思ってしまって。ということをどうして書いたのかといえば、自分はどちらかといえば中性的な名前のほうが好きなのかもしれないなと散歩中に考えていたことが原因です。山上一葉という名前にこれといった明確な理由はなく、ただ気に入っている部分はいくつかあって、そのうちの一つに『いつは』でも『かずは』でも性別が限定されにくい名前だな、というところがあって。ユイもミサトもそうですけれど、名前とかいうもので誰かを縛りたくはなくて、また同様に自分も縛られたくはないと、自分は多分そんな風のことを思っているのだろうなって。そんな感じでした。

 

 

 

夜を


『何も知らないだけだった』と気づかされる瞬間が、それほど多くはないもの、けれど決して少ないとは言えない程度には転がっているなって、そう思うことがあります。……ついさっきまで知人の家にいて、これを書き始めたのが 23:30 で日付変更までに更新しなきゃなのでどこまで書けるかは分かりませんが、まあできるところまでやってみます。『何も知らないだけだった』。たとえば『夜』がそうで。僕、むかし夜の暗闇がめちゃくちゃに苦手だったんですよね。いまも別に得意というわけではなく、極端に街灯の少ない裏路地なんかは避ける傾向にありますけれど、その傾向もまあ一般的な範囲に収まっているように思える程度のものです。小学生の頃は塾へ通っていて、塾ってほどのものでもない規模のアレですけれど、ともかく塾へ通っており、その帰り道がめちゃくちゃに嫌だったんですよね。21 時くらいだったかな、いつもそのくらいに塾を出ていたのですが、ここで一つ情報を出しておくと塾と家はほとんど離れておらずですね。いやもう本当に。こどもの足って結構狭いっていうか、いまだと散歩気分で歩けるような距離だって、小さい頃は遠足感覚の大冒険みたいな感じだったっていうか。そんなことありませんか? 隣の校区の小学校とか。でも、そのくらい幼かったころですら「近い」と認識するほどの距離で。だからもう、本当に近かったんですよ。でも怖くて。急ぎ足を通り越して走って帰る日もあったように思います。そのくらい。まあ歳を重ねるにつれてそういった恐怖感は次第に薄れていって。中学の頃には塾終わっての帰宅が 23:00 くらいになっていたということもあり、慣れちゃったというか。いや、本当のことを言うと薄れたわけでも慣れたわけでもなくて、単に鈍くなっていっただけというか。考えないようになってしまっただけで、怖いものは怖いままで、別にそれを克服しただとかそういった話ではなく。遠回りしてでもなるべく明るい道を選んで帰っていましたし、無意識に閉じ込めることが上手くなったというだけで、まあ、はい、そんな感じでした。そんな自分も、いまでは深夜の鴨川散歩部だとか何だとか言って、街灯のがの字もないような場所で時間をつぶしたりすることが普通になっていて。これは、そうですね。さっきのとは違い、『夜』が好きになったって、そういうことになるのですけれど。その原因が、その、『何も知らないだけだった』んだなという感じで。転機になったのは学部三回生くらいの頃で、人付き合いの関係上、当時は深夜の帰り道を一人で歩くことが多かったんですけど。なんだったかな。何がきっかけだったか思い出せないんですけど、なんかめちゃくちゃ空を凝視した日があって。マジで理由を覚えてないんですが。そのときにみえたんですよね、星空が。星。なんかそれまで星って俗世を離れた土地へ行かないと綺麗に見えないものだとばかり思いこんでいて、だから知らなかったんですけど、自分が普段暮らしている町からでも綺麗な星空がみえるんだということを。思い返せば彼から「星って案外そこら辺からでも綺麗にみえるよ」と、そんなことを教えてもらったことがあったような気がしますけれど、それはさておき。なんだろうな、それ以来、夜を歩く機会が若干増えて。「自分が今まで知らなかっただけで、『夜』にはもっと面白い要素があるのでは?」みたいに、探し物ついでに歩く感覚というか。そうして夜が好きになっていったっていう、そういう話です。んー、この話、もしかして以前ブログで一度書きましたっけ? もしかしたら書いたことがあるかもしれませんけれど、まあ、それでもいいでしょう、一回くらい。冒頭に書いた通り、あんまり時間がなかったのでかなり端折りつつ急ぎつつの文章になっちゃいましたけれど、まあ、皆さんもよければ夜の散歩を楽しんでください。もちろん最低限の身の安全は考慮しつつ。保証することはできませんけれど、きっと知らなかった何かに出会うことができるんじゃないかなって、僕はそう思いますよ。

 

 っていう話を書いたんですよね、むかし、二次創作ですけれど。紹介だけしておきます(これについてはブログで書いたことなかったような気がしたので)。

www.pixiv.net

 

 

 

マジで何もない


 マジで何も書くことがないです。びっくりする。本当に何もない。今日ゼミの発表があったんですけど、一昨日昨日今朝とずっとその準備をしていて、今日はもうそれで電池が切れてしまった感じがしているというか。散歩にも行けてませんし。これを書き終わったら鴨川へでも行こうかなと思ってるんですけど、とはいえブログを更新しなきゃいけないなとなり、いま僕はワードパッドと対峙しているというわけなのです。とはいえ、マジで何もないな。本当に。何も考えずに過ごす日って自分はそんなにないんですけど、いやでも、「今日一日何を考えていましたか?」と自問自答してみても返す言葉が出てこないというか。強いて言うなら微分作用素のことを考えていましたけれど。いや、ゼミの発表の日は毎度こんな感じになるのでもうあきらめているんですが……。ということで今日だけブログサボっちゃっていいですか? いいよ。ありがとう。そもそも「更新しなきゃ」という意識でこのブログを動かしたことがいまだかつてなく、というのは先月度の更新がゼロだったことからも分かると思いますけれど、なのでこういった事態が起こりうるということを完全に失念していましたね。やっぱ外へ出なきゃダメだな。なんか、いやまあ、外へ出なくとも生きてはいけますけれど。頭を全然使わない日があるのは個人的にあまりよろしくないような気もしています。反省。というわけで今日はもうなにも書くことがなくてですね。話したいことが何もなくても会話はできるのと同じように、書きたいことがなくてもタイピングし続けることは可能なのですが。こういう、水にも毒にもならないという表現すら当たらないようなどうでもいい文章を吐き出し続けるのはそこそこ得意なんですよ。修学旅行の感想文みたいな課題が高校で出たときに、修学旅行前夜の支度時間のことだけで埋めて出したって話しましたっけ、どこかで。もうそのレベルであれなんですよね、こう、意味のない文章を書き連ねることだけなら昔からやっていて。このスキルが役に立ったこと、あんまりないんですけど。ああでも、作文系の課題は結構瞬殺できるので、そこら辺は助かっていたような気がします。読書感想文とか、それこそ遠足の感想文だとか。あとは、なんだ。バイト先だとか何だとか、そういったある程度オフィシャルな場で書くことになる設問文みたいなのも割とささっと書けるので、そう考えると思いのほか助けられているような気もしてきました。このスキルの利点は、その『ささっと』というのが長文としてアウトプットされるというところにあって、手を抜いた感が一切出ないというか、実際手を抜いている感覚はないんですが、というか手を抜くとか抜かないとか考える以前に生成できてしまうので、後ろめたさとかも特に感じないのがそこそこ良いですね。まあ、実際に書いているのはこんな感じの、なんの中身もない文字の羅列に過ぎないんですが……。んー。別にこんなこと書いても仕方ない気がしますけれど、まあせっかくですし話ついでに書いておくと、自分、脳内の人物と会話する癖があるんですよね。癖? 癖っていうか、習慣? 習性? なんだ? そんな感じの。脳内の人物というのはイマジナリーというわけではなくて、まあ存在しないという意味ではそうですけれど、実在はします。具体的には自分の身近にいる人たちですね。イメージとしては、ラバーダッキングを頭の中で知人相手にやる、みたいな感じ。だから会話と言ってもこちらが一方的に話しかける感じなんですが、まあラバーダッキングについては各自調べてもらうとして、それをまあよくやるんですよ。特にお風呂へ入っているときと散歩をしているときで、後者のほうが考えのまとまり具合は強いという感じですけれど、個人的に。それはまあ、単純に散歩のほうが所要時間が大きいがちというだけの話かもしれませんが。でも、やっぱりあるじゃないですか、あの、歩いているときに特有の感覚って。普通に考えたら家の中にいるほうが集中できそうなのに、それよりも情報量の多い外にいたほうが集中できるっていうか。不思議。まあその、そうやって想像上の知人と会話をすることで考えをまとめていくみたいなことを自分は結構やっていて、だからそれをしない日があるとこんな感じで、「今日、何も考えてねえー!」ってなっちゃうんですよね。外へ出ないとダメと言っていたのはこういう意味です。散歩をしよう 2021 。こんな感じでマジで雑なことばっかり書き殴ってたらもうじき一時間経ちそうなんですけど、なんかいっそ笑っちゃいますね。いつも以上に読むだけ時間の無駄みたいな記事を書いてしまったので、別に何のアレでもありませんが、しばらく前に描いた絵をいくつか貼り付けておきます。最後の最後で、取ってつけたように。そういえば Twitter とかには上げてなかったなーと今更ながら思い出したので。

 

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 水面、反射光、桜。

 

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 夜、逆光。

 

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 とあるゲームにめちゃ影響されてるやつ。お気に入り。

 

 

 

呪い


 タイトルを決めてから書き始めることってほとんどなくて、だいたいの場合では書いている最中に思いついたフレーズを流用したり、あるいは書き切ってから「何にしようかな~」と考えたりという感じなのですが、とはいえ、「こういうことを書こう」と予め決まってしまっている場合にはそれにあてがわれるタイトルらしき何かも自ずと浮かびあがってくるわけで、つまりどういうことかというと、この記事にはそこそこ物騒なタイトルがつけられることになるんじゃないかなという予感がしており、しかしまあ、そんな物騒なことを書くつもりは全くないので安心してくださいという、そういう話です。というか、今回の記事名が何を意味しているのかということは、しばらく読み進めていけば分かることかと思うので。みたいな前置きをするだけしておいて、最終的に全然違う話になっていたとしたら、それはかなり面白いですね。一時間で書き切れる分だけ書くということなので、タイピングするまでの思考時間はほとんどゼロっていうか。なんだろ、日常生活で誰かと会話するときと同じくらいのテンションで文字を書いていて、それは要するにいわゆる推敲のようなステップがなければ、いわゆる筋書のようなものもないというという意味ですけれど。まあ、それくらいの勢いじゃないと一時間じゃ足りないっていうか、そもそも「なんだろ」だとか「まあ」だとか、主に口語で使われるような接続詞ですらない何かが頻繁に挟まれていることからも分かるように、実際に喋っているくらいの気持ちで書いてるんですよね、この文章を。なのでまあ、最終的に全く違うオチを迎えているという可能性は無視できない程度に存在していて、そうなってしまったときは、まあ、そうなってしまったときですね。いやだって、この時点でもう既に関係ないことばっか書いちゃってますし。そのくらい、何も考えず思いついたことだけを順番に書き下している、ということでもあります。それはさておき。最近考えていたこととして、「創作を続けるのって、かなりハイリスクだよなあ」ということがあります。これは自分が唯一動画を観ている Vtuber の人も言っていたことで(補足しておくと、Kizuna AI もかなり好きなんですが、肝心の動画を観たことがありません)、その人の本業はイラストレーターなのですが、曰く「こんな道を志すのは、一部の呪われた人間だけ」。『こんな道』というのはイラストレーターのことですが、それ以外の芸術分野にも言えることだろうと思います。なんだろうな。いや、これはもう実際にその通りだと思うんですが、要はリスクとリターンがおよそ見合っていないという話。ここで自分の話へ持っていきますけれど、たとえば自分は高校と大学とずっと作曲を続けていて、そこで仮に「音楽でやっていきたいな!」と思ったとするじゃないですか、仮にですよ、あくまで仮に。思ったとして、でも実際問題、音楽で成功するのってめちゃくちゃ難しいわけで。ネットでバズったことがあるわけでもなし、バズったからといって成功できるわけでもなし。何を以て成功とするかはさておき、誰がどう考えても普通に就職する道を選んだほうが安定は見込めるじゃないですか。曲がりなりにも自分は京都大の人間だし、だからって就活を舐め腐っているわけでは全くありませんけれど、でもまあミュージシャンのような何かを目指すよりは絶対にそっちのほうが有利なはずで。「だったら」ということで結局は普通に就職することになる……、みたいなね。いや、普通に就職することが悪いって話では全くなくて、そうではなく、だから要するに将来的なことを考えた場合、芸術分野ってどうしても『不利な選択肢』として映ってしまいがちだよなあっていう。『明らかに有利な選択肢』と『明らかに不利な選択肢』とが眼前にあって、そこで後者を選んでしまうのは、だから『一部の呪われた人間だけ』だっていう、そういう話です。……なんだろう、こういうことを考え始めたきっかけとして、自分がいま結構揺らいでるんですよね。その、なんだ、選択肢のような何かの中間で。いや、『揺らいでいる』は完全な嘘で、割と肯定的に『明らかに不利な選択肢』を選んでしまってもいいのでは、と思ってしまっていて。というのも、これはもう自覚していることなのですが、自分は完全に呪われている側の人間のような気がしていて。呪われてるっていうか、なんだろ、別に呪われてるわけじゃないとは思いますけど。でも、なんていうか、「どうせ無理だから」と言って選ぶ前に諦めてしまったら、後の人生でずっと後悔し続けそうだなーって思いがかなり強くあって。成功失敗はさておき、やらずに終わってしまうのが本当に嫌で。やってみて無理なら無理で諦めたらいいし、だったらやってみてもいいんじゃないの、っていう。いや、じゃあやればいいじゃん、って話になるんですがここに一つ問題点があって。自分は別に作曲家になりたいわけではないんですよね。というか楽器が弾けるわけではないし、クオリティの高い音楽が作れるわけでもないし、挑戦するも何もって感じ。じゃあお前は何がやりたいんだよというと、だから結局ユニット活動がやりたくて。ちょっと前にどこかで言ったような気がしますけれど。ユニット。『バンドがやりたい』とはちょっと違っていて、というのも僕は楽器が弾けないので。でも、漠然と『誰かと一緒に音楽を続けてみたい』という気持ちだけはあるんですよね。というか、仮に音楽を続けるのであれば一人じゃ絶対に無理だという、これはもうほとんど確信に近いような何かがあって。『継続できない』という意味ではなく『自分の本当にやりたいことができない』という意味で。なのでまあ、自分と同じように呪われた自殺志願者がどこかにいないかなって探してはいるのですけれど、いや、それもまた難しい話ですよね。さっきも言いましたけど、誰がどう考えても普通に就職したほうが絶対に良いし。自分がそうだからといって、相手にも同じように『明らかに不利な選択肢』を選ばせるようなことは絶対にできないし。そもそもの話、相手にそうさせるだけのメリットを自分が持ち合わせているかという話でもあり、そんなものは到底ないし。なので「むずくね?」になっています、最近。いやでも実際、『自己の性質を最大限に活かすことのできる結果を目指す』というのが就職活動の本質であるとするならば、自分の場合はもう本当にそれしか考えられなくて。いや、考えられないは嘘で、他の選択肢もいくつか考えてはいるんですが。でも先にも言ったように、一番を追いかけることもせずに諦めたくはないって気持ちがめちゃくちゃあって。だから、自分と一緒に茨の道へ突っ込んでくれる人がいないかなーと思ったり思わなかったりしています。三分の一くらいは冗談で、残りの三分の二くらいは本気で。なんていうか、中途半端に学歴を持っているせいで破滅しきれないという側面もあるような気がして。「卒業と同時に学歴とか全部捨てて一緒に音楽やってくれる人いないかな」みたいなツイートをこの前したんですが、あれはつまりそのような意味で。なんか、それくらい(つまり自分と同じくらい)終わりきっている人間がどこかにいないかなって、最近はそんなことを考えながら毎日過ごしています。誰か、マジで僕と一緒に音楽やりませんか? 将来のことは何一つとして保証できませんけれど。

 

 

 

salvation


 二〇年以上も生きていれば嫌な思い出の一つや二つくらいはあるわけで、当然ながらそれはなにも自分に限った話ではないし、誰だってそうなんだろうと思います。自分はまあ小中学時代がかなり最悪で、別に不幸自慢がしたいわけでは微塵もないので詳細を語ることもないんですが、なんだろ、大雑把に言うと自分の全く関与し得ないところで発生した事案のおかげで、そこそこ窮屈な学校生活を強いられていたというか。いやまあ、いまになって思い返してみれば窮屈という程でもなかったような気がするんですが、しかし、小中学生の頃っていま以上に学校が生活の中心じゃないですか。それは自分も周囲も。自分は基本的にずっと帰宅部をやっていて、なのでいわゆる先輩後輩的な繋がりは周りの子たちに比べればずっと薄かったほうだと思うんですが(というかほとんど皆無だったんですが)、だからこそという側面もあり。まあ、どうだっていいです、それは。ともかく、嫌なことの一つや二つはあるよなって、そういう話です。それでここからが本題ですが、先述の通り、自分はそこそこ嫌な小中学生活を送ってきたという記憶があり、実際、当時はかなり環境を怨んでいたような覚えがあるのですけれど、じゃあ仮に過去を自由に書き換えられるみたいな話になったとして、それを行動に移すのかなって。これに関してはもうとっくの昔に結論が出ていて、少なくともいまの自分はそういったことをするつもりはあんまりないな、っていう。いやまあ、そもそもできないんですけどね、そんなこと。可能だったとしても、です。どうしてかといえば、なんだろ、こういうことを言うのってアレですけど、そういうのも全部含めての自分だよなあって気持ちがかなり強くって。紛い物の美談みたいですけれど。誰かに傷つけられたり、あるいは誰かを傷つけたり。むかしから『人の痛みが分かる人になりなさい』みたいなことを、特に母親から何度も言われていたような記憶があるのですが、でもそういうのってやってみなきゃ分からないじゃないですか。これを言うと相手は傷つくかもしれないとか何だとか、その基準になるのってもちろん常識だとか何だとかはありますけれど、でも一番強いのって『誰かに傷つけられた経験』と『誰かを傷つけた経験』なんじゃないかなって自分は思っていて。だから、たとえば昔の嫌なことだったり失敗だったりを全部無かったことにしてしまったとして、そうして後に残った何かに一体何の意味があるんだろう? という気持ちがかなりあって。当たり前ですけれど、これは誰かを傷つけるような行為を正当化しているわけではなくて、そんなことはできればしないほうがいいし、回避に努めるべきだし、それでもやってしまったのなら誠心誠意謝罪をすべきだろうし、許してもらえるかは別として。そうやって誰かを傷つけて、あるいは逆に傷つけられて、「ああ、ここをこうしたら人って傷つくんだな」って、そういうことを知らないと他人の痛みになんて気がつけるわけがないっていうか。だから、なんだろう。ここで話を戻すことにすると、あくまで自分はですけれど、かつての嫌なことを帳消しにすることにあまり意味を見出していない側だったりします。でも、それはそれとして、という話なんですけど。それはそれとして、「いまマジで最悪だな」ってタイミングがどこかしらであるじゃないですか、生きていれば、どこかしらで。友達と喧嘩したとか、恋人にふられたとか、出所不明の希死念慮とか、別になんだっていいのですけれど、「最悪だ」ってタイミング。そういうときにこういった「いやいや。いま嫌なことだって、しばらくしたら良い経験だったって思えるようになるはずさ」みたいな、それこそ本当の意味での開き直りのような態度になれるのかって話で。いやもう、なれるわけがないんですよね。当たり前も当たり前。このブログだって、どこかのページを漁ってみれば疑問形ではないほうの「なんで生きてるんだろう」がどこかしらで出てくると思いますし。そんなもんじゃないですか。だから、なんだろうな。結局ここに落ち着くんですけど、いったいどうしたら僕たちは他人の助けになることができるんでしょうね? 自分にも死にたいと思っていた時期くらいはあって、でもまあ、いつの間にかそういった希死念慮の類とは無縁の人間になっていて。『いつの間にか』は嘘で、「死にたい」の根源に正面から向き合う時間が二、三年ほど続きましたが、それはまあ置いておいて。とにかく自分もそんな感じだったことがあるから、だからこう、苦しそうだったり辛そうだったりという人を観測すると、何か助けになりたい、と思いはするんです。でも思うだけで、じゃあ実際に何を行動へ移せばいいんだって気持ちになることが常で。これ別にこのセリフを引用したいというわけでも、あるいはこのセリフに感化されてこういった思想になったというわけでも全くなく、ただ単純に自分の意見と近いという理由だけで引っ張るんですが、『人は一人で勝手に助かるだけ』という主張が自分はかなり正しいように思っていて(逆に、当時はこのセリフの意味をよく分かっていなかった)。その人が助かるための手助けはできるだろうけれど、でも最後はその人自身の問題なんだよなっていう。馬を水飲み場まで連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない、みたいな。というのも実際に自分がそうで、結局その「死にたい」から解放されたのだって、自分にそう思わせていたたった一つと向き合い続けるという地獄をやったからで、それ自体は誰にも助けられなかったというか。僕が参っているときなんかに隣にいてくれた人たちはいて、彼らには本当にとても感謝していますけれど、でも、本当の意味では誰も自分を助けられなかったし、そもそも自分はそんなものを求めていなかったし、っていう。でも、さらに逆接を重ねるんですが、でもいまにして思えば、そうやって自分がダメになっているときに隣にいてくれた人たちこそ本当の意味での救済に他ならなかったのではという気持ちがかなりあって。なんだろ。話を聞いてもらうだけで楽になるって、「そんなわけねえだろ」とかつての自分は思っていたのですが、まあ実際それが嘘だったとしても、そうやって『話を聞いてくれる人がいる』という事実こそが実は救済に他ならないのではと思ったり思わなかったり。そんなことに気づく余裕もないんですけどね、追い詰められてるときって。以上をまとめると、だから誰かを助けたいとは思っていて、だけど誰も助けられないとも思っていて、どうしてかといえばそれは自分もそうだったからという理由で、しかし今となってはそのとき隣にいてくれただけの人たちが本当の意味での救済だったのではという気持ちになり、でもこういったことを思うようになったのはいまの自分がそれを通り過ぎてしまった後だからなのであって。だから、いったいどうしたら僕たちは他人の助けになることができるのだろうって、そういう話なんですよ。ああだこうだと考えて、結局何もしないよりは何かをしたほうがいいのかなって行動を起こしたこともまあ少なからずあったんですが、本当にそれでよかったのかということはいまでもずっと考えていて。自分の身近で苦しんでいる人を観測するたびに、なんだろ、無力感ってわけでもないんですけど、自分にできることっていったい何なんだろうって、そういう気持ちになります。当時の「死にたい」をいまの僕はとても大切な記憶だと思っていて、そのせいで失くしたものもあれば、そのおかげで手に入れたものもあって。当然いいことばかりではありませんでしたけれど、でも、なかったことには絶対にしたくないなと思っていて。とても強く。だけど、他人の「死にたい」を自分の定規で測っちゃいけないっていうか、同じ四文字だったとしてもそれはその人だけの感情だし。だから、なんだろうな。どうしても助けたいと何もできないの板挟みになってしまうといいますか。いっそ助けたいとさえ思えなくなってしまえば早い話なんですが、そうなることもできないというか、そもそもそれじゃ何の意味もないというか。難しいですね。

 

 

 

シミュレーテッド


 こんなのは本当に何の意味もない思考実験ですけれど、この世界が作り物じゃないってどうしたら証明できるんでしょう? なんだろ、ざっくりと言ってしまえば、つまり自分たちが生きているよりも高次の空間がこの世には存在して、天国だの地獄だのではなくていわゆる『社会』のような高次元が。自分たちの生きている世界はそれよりも低次元なのだという可能性、とどのつまりシミュレーテッド・リアリティに他ならないのですけれど、それがあり得ないということを説明するのは、たとえば現代技術があとどのくらい発展すれば可能になるんでしょう? ああ、いや、別に真面目に考えてるってわけでもなくて、今日の散歩中にふと考えていただけのことなんですが、でもまあ、ふと考えていた程度のことだとしてもこうして文字へ起こしたくなる程度には関心のあるテーマではあります。『トゥルーマン・ショー』だとか『マトリックス』だとか、実はどちらも観たことがないので一度くらいはちゃんと確かめておきたいなと思ってるんですが、自分たちの世界があれと同一でないということの証明。少なくとも僕が生きているうちには実現されないだろうなと思っており、というよりはむしろ『この世界はシミュレーションされたものである』ということの証明のほうが先に見つかってしまいそうな雰囲気すらありますよね。……みたいなことを昔考えていて、そういう小説を書いてみようかなと話を練っていた時期があったのですが、それはさておき。なんていうか、ああ、これまでの話もここからの話も話半分で聞いてほしいっていうか、というのも本気でそんなことを考えているわけではないので。とはいえ、あながちふざけてるってわけでもないのですけれど。なんだろ、数日前にも書いた『仮想現実との区別がつかなくなってきた』の話にも通じるところがありますけれど、いまや技術の発展はすさまじく、鮮やかなグラフィックとだだっ広いオープンワールド(という用語は正しくないかもしれないけれど、とにかく舞台が広大という意味)を兼ね備えたゲーム作品なんてそれほど珍しくもなくなってきて。人工知能が何なのか自分は全く何一つも知りませんけれど、そっちの分野もここ数年で大きく発展してきているはずで。携帯端末やラップトップだって、どんどん高性能化と薄型化を繰り返してきていて。なんだっけ、技術的な演算性能の上限値を更新するために考案されたのが量子コンピュータなんでしたっけ? いやもう、本当に専門外すぎて適当なことを言っていますけれど、ともかく、なんていうか、自分が小学生だった頃と比べてももはや別物の世界になってしまっているような気がするといいますか。別に昭和だとか大正だとかまで遡らなくたって、一〇年前ですら異世界じゃないですか、いまとなっては。この世には物理法則というものが存在しているので、まあどこかで頭打ちになるんだろうなとは思うのですが、それはそれとしてこの勢いで技術が更新され続けていった場合、自分たちと同じような『人格』が生活をする『仮想空間』をシミュレートすることも、もしかしたらできるようになるんじゃないかなーなんて、そんなことを思ったり思わなかったりします。仮にそうなった場合、ああ、あくまで仮の話です、実現可能であるかはさておきましょう。仮にそうなった場合、この世界で『低次の世界』をシミュレートすることが可能であるということですから、ならば『高次の世界』がこの世界をシミュレートしているという仮説もいよいよ一笑に付すではいられなくなってくるのでは? と思ったりするわけです。『この世界はシミュレーションされたものである』ということの証明のほうが先に見つかってしまいそうな雰囲気すらある、と書いたのはそういった意味で、というのも要するに大枠としては悪魔の証明じゃないですか、これって。『シミュレーションされたものである』という主張の根拠はいくらでも見つけられると思うんですよ。先にも述べたように、人類がそういった技術を手に入れてしまったとしたら、同じような技術を持っている高位の存在を疑ってもいいような気がしますし。一方で『シミュレーションされたものではない』という主張はどのように補強してやればいいのかなって。快感も苦痛も希望も絶望も、いずれにしたってその根拠たりえないような気がしていて、だってゲームのキャラだってダメージを受けたら被ダメボイスを発するじゃないですか、いかにも痛そうだという声で。自分たちもそうやってプログラムされているだけと決めつけられてしまったら、そのことに対して論理的な反論をすることはおよそ不可能のように思えるというか。いや、まあ、前提自体がバグってるので論理も詭弁もないんですけどね、そもそも。とはいえ、やっぱり二つの主張は全く対等でないというか、実際どうなんでしょう。こんな話、別に誰にだってしようとは思わないので誰に訊いたこともないんですが、『シミュレーションされたものである』と『シミュレーションされたものではない』の二択で「いずれか一方が将来的に証明されると仮定したら、どちらがより相応しいと思うか」と尋ねられたら、他の人たちはいったいどちらを選ぶのだろうかということには多少の興味があるようなないような。マジでいまめちゃくちゃへらへらしながらこの文章を書いているので、不愛想な文字列から真剣な表情を想像してしまった人々には申し訳ないんですが、あの、どうか真に受けないでくださいね。「宇宙人っていると思う?」くらいの話題なので、こんなのは。ただまあ、流石の自分でも宇宙人の有無を話題にあげるような真似はしないものの、シミュレーテッド・リアリティについては、日頃からよく意味のない会話している相手になら一度くらい訊いてみてもいいかもなと思います。思いました。思ったので、いまそのうちの一人に LINE を飛ばしました。善は急げと言いますし、まあ、今更意味の分からないメッセージの一つや二つ届いたところで、「またか」以上のことは思いやしないでしょう。意味のない会話を交わせる数人は、そういう点でかなり信頼しています。それはさておき。とはいえ、じゃあ仮に『この世界は高次の存在によってシミュレーションされたものである』ということが証明される世界線がどこかにあったとして、それで何かが変わるのかといわれたら、大局的には何も変わらないんじゃないかって気はしてるんですけど……。いや、どうなんでしょうね。仮にその高次存在がこちら側にアプローチをかけてきたとして、「貴方がたは実は全員プログラムされた存在だったんです」と疑いようもない証拠と同時に突き付けてきたとして、「だから……?」以上の気持ちにならなさそうっていうか。正しくは『なれなさそう』ですけれど。スケールがあまりに大きすぎて、感情と理解の両方ともがついていけないような気がします。いやでも、それはそれでちょっと面白そうな世界ですよね。なんだろ。なんていうか、いまだって死ぬときにはどうせ全部なくなるんだから、人生でどれだけ成功しても無意味みたいな風潮があるじゃないですか。……本当にありますか? あるいは、『死ぬ間際になって、それらが何の意味もなかったんだと気づかされる』みたいな表現のほうが適切でしょうか? なんでもいいんですけど。いやでも、とはいえ僕たちはこうして現に生きているわけで、地位だの名誉だの学歴だの年収だの所属だの個性だの、そういったものに縛られてしまうのはもう仕方がないことだっていうか、そういったしがらみに囚われたままでいることの大義名分としての『人生』というものもあるような気が個人的にはしていて。だったらその前提、つまり自分たちが全員『生きている』のだという常識が『シミュレーション』によって覆ってしまったら、そのあとはいったいどんな世界になってしまうんでしょう? って考えたらめちゃくちゃに面白そうじゃないですか? 何も変わらないんじゃないかと思いましたけれど、でもなんか、いまの僕らじゃとても手の届かないような主義や思想、価値観なんかが、それはもう地球でさえも持て余すほどに溢れかえってるんじゃないかって、そんな可能性もあるわけで。だとしたらそれはとても面白いことだし、でも、やっぱりというか何というか、もしかすると思いのほか『人間』の定義はブレなかったりするのかもと思うと、それはそれでまた一興というか一驚というか。自分たちが当たり前のように抱えている喜びとか痛みとか、僕らを僕らたらしめているそういった感情のすべてが、どのレベルの前提までなら覆しても成立するのかなって、そういうことにちょっと興味があるのかもしれません。たとえば過去をやり直せるような世界になったとして、じゃあこれまでに犯したたくさんの『過ち』を正す、もといそもそも無かったことにしてしまうような行動を起こすのかどうか、とかも大体同じような話ですけれど。……と、ここまで書いたところでおよそ一時間が経過してしまったので、今日はここまでにします。まだもう少し書きたかったんですけど。六月に入ってからブログが毎日動いているということに気づいている人が、もしかしたらどこかの世界にはいるのかもしれませんが、ここ半年くらいあまりにも動かしていなさすぎたので、考え事をアウトプットすることのリハビリも兼ねて、その日適当に思いついた内容を約一時間で書けるだけ書いてみる、というのをやっています、実は。六月中はとりあえず全日更新できたらいいなーと思ってるんですが、どこまで続くのかは正直かなり怪しいです、気分屋なので。来週の水曜頃には飽きているかもしれませんし、まあ、その程度のあれです。深い意味はありません。

 

 

 


 ちょっと前に知人と話をしていて思ったのが、自分は割と頻繁に夢を見るほうなのかなあということで、一週間のうちの三、四日、多いときは五日くらいみているような気がしています。というのも、夢の内容がどのようであったかということはその夢がかなり強烈なそれであるか、そうでなければ起床したタイミングで記憶へ定着させるような何かを実践しないことにはすぐに忘れてしまいますけれど、一方で『夢をみた』という経験だけならしばらくの間は覚えていられるといいますか。なんとなくわかってもらえると思うんですけど、こういうの。その感覚に照らして物を語るのであれば、『夢をみない』状態が何日も連続することって自分はほとんどないような気がしていて。それこそデスマをやっているとかで、めちゃくちゃに睡眠が浅いとかでない限り。まあでも、ほとんどは綺麗に忘れてしまうのですけれど。最近みた夢で面白かったものといえば、実家の目の前にどこまで続いてんだってくらいの螺旋階段が生えていて、それをただ昇っていくだけの、それだけの夢ですね。五月の初め頃に友人と出かける機会があって、そのとき久しぶりに大きめの螺旋階段を見つけたのがもしかするとトリガーだったのかもと思うんですが。その夢の途中、階段の上から誰かがこっちを見ていて、たしか。その誰かを見上げたタイミングで目が覚めたような違ったような。少なくとも自分が記憶しているのはそこまでで、まあたったそれだけの夢なんですけど。なんだろ、これはまた別の話で最近気になっていたことなんですけど、現実の事柄が夢の世界へ輸入されるための基準みたいなものってあったりするんでしょうかね? いや、知らないんですけど。たとえば、現実世界での知り合いが夢の中に出てくることがあるじゃないですか。でも、これは経験則で語るんですが、自分の場合、知り合って間もない相手がそのように登場することってあんまりなくて。皆無ということもないんですが。では知り合ってから日の長い相手ばかりが出てくるのかと言えば、当然そのようなこともなく。というか、多分ここに相関関係は無くて。……みたいなことをどうして考え始めたのかといえば、話は遡ること二ヵ月前、とある音源を購入したんですけどインストールするのが面倒で(というかしばらく編曲作業をする予定もなかったので)、どうしていたのかといえばまあずっと放置(後回し)してたんですよね。それが、五月の半ば頃だったかな、『めっちゃくちゃ良い曲思いついた』みたいな夢をみて、普段の自分がそうしているように夢の中の自分も PC を立ち上げ、そうして思いついた曲を形にしようとするんですが、そこでこう思ったんです。「そういえばこの音源、まだインストールしてないから使えないじゃん!」って。目が覚めてからそのことに気がついてちょっと感動して、感動というと大げさですけれど。その、『直近の変化は夢へ反映されにくい傾向にある』という経験則的な前提が自分にはあったので、一ヵ月ちょっと前に手に入れたばかりの(しかも全く使っていない)道具が夢の中に出てきたというのは、なんかちょっと意外だったというか。その頃から「『ここまでは現実、ここから先は夢』みたいな基準ってあるのかなあ」と考えていたりいなかったりします。思えば、実家付近の土地がバグることは(さっきの螺旋階段みたいに)あるものの、実家の中が鏡の大迷宮になっていた、みたいな夢の記憶は少なくとも現状なくて。実家によく似た別の場所にいた、という夢ならみた覚えがありますけれど。みたいなことを考えていたら、この頃口癖になっているフレーズで会話をする夢を最近みたりして、ベッドから起き上がるたびに「おもしろ~」という気持ちになったりならなかったりしています。なんだろ、二、三ヵ月に一回くらいは本当に最悪の悪夢をみたりすることもあるんですけど、夢って基本的には面白いものだと自分は思っていて。右も左もバグりまくった風景を歩けるのが単純に楽しいというか、明晰夢とかではないんですけど。ただ、目の覚めた瞬間に湧き上がってくる「さっきまで見てた風景、今思えば明らかに異常だったな……」という、日常生活を送るうえではおよそ縁のない感覚がただただ新鮮というか。数日前にもブログに書きましたけれど、『仮想現実と現実との差』とか『 2D の街』とか、そういった『あり得ない感覚』を探しながら歩くのが自分は割と好きで、それが夢だとお手軽に手に入るっていうか。どうせすぐに忘れちゃうんですけど、でもまあ、異常と付き合う分にはこれくらいがちょうどいい距離感なのかもしれませんね。