延長戦


「愛と依存の境界線はいったいどこにあるんだろう」って、そんなことを以前はよく考えていました。これもまあ、いまとなっては自分なりのアンサーを持っているものの、当時の、だいたい三、四年くらい前の自分にとっては相当に大きな問題だったというか。納得できる答えを見つけないことには生きていけないほど、と言うとそれはただの嘘で、そんなこともなかったのですけれど。なんだろ。たとえば中学生の頃とかって帰り道に「今日の晩御飯、なんだろうな~」みたいなことをふと考えたりするじゃないですか。別に、それそのものに大した興味があるわけではなくたって、こう、本当にふとした瞬間に。なんかそれと同じような感じというか、日常の合間合間で事あるごとに顔を出してくるというか、気づいたら頭の中心に留まっている疑問、みたいな。だいたい三年くらいの間ずっとそんな感じで、いつだっけな、ちゃんと覚えてないんですけどいつの間にか、これもまた気づいたらそうなっていたという感じで答えのような何かを、納得のいく結論を見つけてしまっていて。本当に、いつの間にか。とはいえ、じゃあ何もせずに三年間をのうのうと過ごしてきたのかといえばそうではなく、というかそもそもこのブログがそのために作られたという話はしましたっけ。したような気がします、ちょっと前に。就職活動特有の用語に自己分析というものがありますけれど、言ってしまえばこのブログはそれを行うためだけの場所というか、別に自分自身を詳細に理解したいというモチベーションは全くなかったのですけれど(というか、そんな動機で何かが継続すると思えない、少なくとも自分の場合は)、でも、だからその『愛と依存の境界線は?』という問題を掘り下げていくために、こうやって文字を書き殴るためだけのスペースが必要だったというのが、割と大きな理由としてあることは確かです。いや、もちろんそれだけではありませんでしたけど、自分が答えを探そうとしていた問題は。でもまあ根っこのところでは結局どれも同じだったというか。『大人になるって何?』とか、『何のために生きてるの?』とか。こうして文字に起こすともう完全に思春期特有のそれっていうか、思わず笑っちゃいそうにもなりますけれど、しかし、少なくとも学部時代の自分はその辺りのことをそこそこ真面目に考えていて。高校生時代の延長戦とはいえ。なんだろ。こういうの、みんな割と気にしない感じなのかなって思うんですけど、実際どうなんでしょう? いや、気にせずに済むのなら絶対にそっちのほうが良いと思うんですけど。たとえばの話、それが恋であるか愛であるかなどの分別はさておき、自分でない他人のことを好きになったとして、そうして手に入れた『好き』が本当の意味での『好き』なのかなって。それを疑う必要なんて本当はないのですけれど、でも仮に疑ってしまったとして、だとしたらそれはめちゃくちゃに怖いことだなって思いませんか? 比較なんてできやしないから形も色も温度も分からなくて、だから「これが本物なんだ」って、そういう風に定義していたはずなのに、その前提を一瞬で覆してしまうような何かが突然やってきて、そうしたらいったいどうなってしまうんだろうって。いや、本当は考えなくたっていいんですけどね、こんなこと。なんていうか、いや、マジで考えなくてよくて。無駄とは言いませんけれど、遠回りであることには違いないし。実際、そういうことを特に気にも留めず、覆った『好き』の定義をすぐさま更新してしまえる人もたくさんいると思うのですけれど、自分はそうでなかったというか、たとえ話ですけれど。でも、なんていうか、そういった『前提を疑ってしまう瞬間』って必ずどこかではやってくるじゃないですか。これは別に恋愛の例を継がずとも、たとえば成人式を迎えれば自分たちは『大人』という肩書を得るわけだし、たとえばめちゃくちゃ体調を崩すだとか貧血で倒れるだとか、『死』を意識する瞬間って別にそう少なくもないはずだし、という感じで。ここまで書いてしまえば、だからかつての自分がどういったことを特に問題視していたのかということがおよそ浮き彫りになってきたような気もするのですけれど、それは結局、『「一方的な終わり」に対する向き合いかた』ということになるのだろうなと思います、多分。このブログがそうなら、この何年間かで作った曲も歌詞も、当然のように全部が全部そうなんですけど。出会いだとか別れだとか。囚われているといっても過言ではないですけれど、なんていうか、それがもう自分にとっての至上命題みたいな感じになっちゃってるんだろうなって、ともすれば他人事のように思ったりもします。逆に言えば、そんなことになってしまうくらいには、いつかどこかで通り過ぎた『前提を疑ってしまう瞬間』が、今ここまで続いている自分自身にとっての絶対的なターニングポイントだったって、そういう話なんでしょうけどね。

 

 

 

境界線


 自分は言葉というものを基本的に信用していなくて、というところから今回は始まるのですけれど。なんだろ、まあ不定期に動かす程度とはいえ、こうして自分の書いた文章を公開する場を用意していたり、あるいは歌詞を書いたり小説(というのはおこがましいけれど)を書いたり。もちろん上をみればキリがないのはそうですけれど、同世代の平均からみると、自分は恐らく文字を書くことに親しんでいる側の人間だろうと思います。これはまあ嘘ではないでしょう、多分。いや、上には上がいますけどね、当然ながら。ともかく自分はそんな感じのアレなのですが、だからといって言葉という媒体を強く信奉しているのかといえば、しかしそのようなことは全くなくて、むしろ懐疑的でさえあって。なんだろ。たとえばの話ですけれど、別に心では何とも思っていなくたって『ありがとう』の五文字をタイピングすることはひどく簡単で、心にもないことを口にするよりもずっと容易で、そうなると言葉って何なんだろうなという気持ちにもなってくるわけで。このことばっかりは何度も書いているように思いますけれど、それが自分の内側に強く在る感情であればあるほど単純な言葉には置き換えたくないというか。だって、そこにどういった想いが乗せられているかなんて読み手には何一つわからないじゃないですか。僕も分かりませんし、他人の文章を読んだって。嬉しいも悲しいも楽しいも空しいも、言葉でならどうとだって言えてしまうわけで。というか、言葉にしてしまうことで余計な情報が乗ってしまうことすらあって。なかったはずの喜びとか、なかったはずの痛みとか。形のない何かに言葉をあてがおうとする過程で、記憶が架空に侵食されていくような感覚を覚えた瞬間は決して少なくはなくて、良くも悪くも。自分はよく実体験ベースで歌詞を書くんですが、というよりそれでしか歌詞を書けないので僕の歌詞は全部そうなんですが、それにしたってそうで。その、書きたいなと思ったことを言葉に直さなきゃいけないとなったときに、まあ言葉を探すんですけど、様々な様々が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返すわけで、じゃあそうして実際に歌詞へ採用された言葉だけが本物なのかといえばそんなことはないし、というか消えていった言葉のほうがどちらかといえば本物なんじゃないのかと思うこともままあって。というのも、歌詞は文字数や語感、あるいは秩序との勝負なので。『自分が主張したいことに近しいか』という基準は勿論あり、自分はかなりそれを優先するほうだと思いますけれど、それにしても別の評価軸があるせいでノイズが乗ってしまいがちというか。だったら歌詞じゃなくて詩を書けよという話にもなりますけれど、そこで『言葉を信用していない』という感情が強く出てくるというか。自分は別に詞を書きたいわけじゃなくて、というか歌詞を書きたいのですらなくて。なんか自分がやりたいのって音楽と歌詞でワンセットなんですよね、気持ち的には。なんでもかんでも言葉にしてしまえるなら、そもそもこのブログにアップロードすれば、なんなら Twitter にでも放流すれば済む話で、でも表現したい何かが自分にとって強いそれであればあるほど、それだけは絶対にしたくないことで。なんかそういった全部を歌詞という形に落とし込んで、でもそれだけじゃ足りないし、先も言ったように言葉だけだと嘘っぽくなっちゃうから、だから音楽の力を借りているというのが現状といいますか。まあ、そんな感じですね。なんだろ、歌詞だけを書くってのが本当に自分は無理で、曲だけ作るのは問題ないんですけど。なんでなんだろうと考えてみたときに、やっぱそもそも言葉がそんなに好きじゃないんだろうなーっていう。いや、これはかなり語弊があって、少なくとも自分は普段思っていることや考えていることを歌詞に変換するということをやるのですけれど、やっぱ言葉だけじゃ足りないというか、偽物っぽいというか、いや、これはあくまで自分がそういうことをしようとしたときにそう感じるってだけの話で、作詞家という職業を否定したいわけではマジで全くないんですが。音楽も一緒にやりたいっていうか、というかそうじゃないと意味がないように思ってしまうというか。いつも以上に纏まりのない文章になっちゃった。なんか、作詞の機会が巡ってくるたびにこういうことを考えちゃうんですよね、いつもいつも。作詞に関しては本当のことしか書きたくなくて、でも本当のことだけを書こうとするとどんどん自分の中で嘘っぽくなっていくような気がしちゃって。難しいなーって。今回のはそういう感じの話でした。

 

 

 

余白


 どうでもいいんですけど、諺ってめちゃくちゃ無責任じゃないですか? なんて風に意気揚々と苦言を呈したところで(嘘で、これは苦言ではなくただの冗談)、そもそも責任の所在を諺に求める人なんてそうそういないだろうとは思いますけれど。いや、なんてことない話で、急いては事を仕損じるくせに善は急がなきゃいけなかったり、二度あることは三度あるくせに三度目の正直があったりと、ああ言うしこうも言う、あちらを立ててこちらも立てるみたいな。なんていうか、こう、その諺が上手く合致するような事態が目前にあったとして、そういったときにその諺を引用するのって、ともすれば断章取義甚だしいという気にもなりうるわけで、とはいえそれが本来の用途なのでしょうけれど。みたいな。こんなことをああだこうだと考えている割には、事あるごとに諺を引用するアニメキャラクターなんかが結構好きだったりするんですよね、自分は。というよりはむしろ、こういったことを考えているからこそ好きなのかもしれないなと思ったりもしますけれど、なんていうか、『あってもなくてもいい言葉が飛び交う会話』が好きなんです、多分。意味のある言葉ばかりで話すのって思いのほか疲れるというか、いや、それはそれで楽しいのですけれど。でも、意味のないことを話していたいなと考える瞬間もままあって。なんだろう、普通に生活をしていると基本的に意味のある会話しかしないじゃないですか。学校だとか会社だとか、あるいは買い出し先のスーパーだとかコンビニだとか。「レジ袋要りますか?」みたいな。いや、そんなのは当たり前の話で、自分たちは社会という枠組みの中で生きているわけで、各々の立場に基づいて関係を持とうとするわけですから。たとえば、自分は学校では学生ですし、コンビニでは客ですし、そういった前提があるから社会は成り立っているのであって、そこは別にどうだっていいんですけど。だから結局、『意味のない会話』ができる相手って割と限られるんじゃないかなと思うんです。それこそ『あってもなくてもいい言葉が飛び交う』ような『意味のない会話』ができる相手というのは。というか、ここまで来るともはや意味のないことに意味を見出しているという感すら若干あり、というと気取った奴みたいになっちゃいますけれど、まあでも事実そうで。誰かと歩きながらにする会話が僕は何よりも好きなのですけれど、それもまた同じ理由というか、もちろん場合と状況に依りますけれど、そういったときに生じるやり取りって取り留めもないものに終始しがちというか、まあ自分は半ば意図的にそうすることがままありますけれど、なんかそういう、余り余った余白みたいな時間を気に入ってるのだろうと思います、自分という人間は。

 

 

 

決定権


 ところで、皆さんは長生きってしたいですか? この質問へ回答するのにはまあ千差万別多種多様の尺度があるように思いますけれど、たとえば地位だの財産だの、あるいは伴侶の有無、老化に伴う疾患の考慮など。どのような視点から考えてもらっても問題ないのですけれど、かくいう自分はといえば、割と素直に長生きしたいと思っている側だったりします。先述の通り、その結論に至る理由は様々ですけれど、なんにせよ『勿体ない』という感情が自分にとっては最も大きいもののような気がしています。勿体ない。まあ、そうですね、勿体ないという言葉がおよそ適切だろうと思われます。なんていうか、別に長生きしたいだのしたくないだのといった壮大な例え話でなくたって、普通に生活している限りでもそういった気持ちは強くって。いわゆる『勿体ない』という、焦燥感とはまた異なるものなんですが。自分の知らない風景なんてこの世界にはまだまだたくさんあるわけで、ここでいっている風景は比喩ですけれど、そのすべてを死ぬまでに網羅するのは当然ながら不可能として、だったら終わってしまう最後の一瞬まで見届けたいというか確かめたいというか。自分の傾向としてはそういう考え方のほうが強くて、だからって別に自分と異なる考え方の人を否定しているだとかそんなことはまったくないんですが、というかそれすらも自分はできることなら知ってしまいたいというか。だから僕は他人と話すのが、より正確には他人の話を聞くのが好きなんですが、当たり前のこととして自分と全く同じ考え方をする人間なんてどこにもいなくって。たとえばほとんど似通っているように見えたとしても、細部を照らし合わせてみれば必ず何かが食い違っているはずで、それはその人の歩んできた人生だとか、あるいは取り巻いていた環境だとか、そういった部分から生まれる差異なのでしょうけれど、それこそが知りたいものなんだという気持ちは今も昔もずっとあって。それこそが『自分の知らない風景』というか、考え方が異なっていれば世界の見え方も異なっているはずで、クオリアではありませんけれど、自分が平気で通り過ぎてしまうような一瞬も、どこかの誰かにとっては目も眩む一瞬なのかもしれなくて。そういうのを知らないままで過ぎていってしまうことを勿体ないと思うというか、もっと言えば悔しいんですよね、単純に。その何かに触れられないことが。もしかしたらそれは本当にただの石ころで、その他人の目がめちゃくちゃに歪んでいるせいで宝石に見えているだけだとか、そういったケースも十二分に考えられますけれど、でも、それが宝石に見えているんだとしたら、その価値観を受け入れるかどうかはまた別として、自分もそれを宝石として捉えてみたいというか。だってそっちのほうが絶対に楽しいし。『世界の在り方を決定づけているのは自分自身』というステートメントを自分は全面的に認めていて、だからって信奉しているわけではありませんけれど、でも、好きなものを見つければ見つけるほど世界が面白くなっていくというのは経験則的に正しいような気がしていて、それ故に未知を既知へ変えていきたいとも思うわけで。……話が結構逸れちゃいましたけれど、とにもかくにも、自分は普段からそんな感じのモチベーションで生きているので、長生きはできればしたいなあと思ったり思わなかったりします。思うだけで、特に健康へ気をつかっているだとか、そういったことは全くないんですけど……。

 

 自分はどうにも春と秋との区別があいまいで、『辺りに落ちている葉が緑色か黄色か』程度の差異でしか両者を認識していないような気さえします(そんなことはないけれど)。そんなこんなでなにかと夏と冬とを比較してしまいがちなのですが、ところで、夏の青空と冬の青空ってどちらのほうがより本物っぽいと思いますか? 本物だとか偽物だとか、そんなの考えたこともねえよという人が大半のような気がしてますが、自分はどちらかといえば冬の青空のほうが本物なのでは、という風に考えています。最近、もう梅雨に入ったんだか入ってないんだか、結構な雨が降り続いたり、かと思えば初夏っぽい入道雲と青空が広がっていたりと情緒不安定ですが、ともかく「もう夏が迫ってるなあ」と思うような空に出くわす機会が多くって。それで散歩をしているときなんかにぼーっと考えていたのがこの『夏の青空と冬の青空』の話でして。冬の青空は、なんというか、閉塞感があるような気がするんですよね、個人的に。天井っぽいというか。青天井はまるで真逆の意味ですけれど。手を伸ばせば届きそうな感じがする。あるいは、真っ白な天井にペンキで空を描いたみたいというか。ともかく、そこに実物としての『青空』があるように錯覚するというか。以上は、もとい以降もすべて個人的な感覚の話に過ぎないのですけれど。一方、夏の青空はどれだけ手を伸ばしても届かない感じがするんですよね。どこまでも突き抜けてるっていうか。そこに天井があるのではなくて、なんだろ、たとえば明かりの少ない夜道では一寸先も闇という風であるように、『先が見えない結果としての青が広がっている』という風に認識してしまうというか。どうしてそうなっているのかは分かりませんけれど、とにもかくにも茫洋とした印象を真っ先に受けるというか、まさにそれこそ青天井といった感じで。なんていうか、「そこに空がある」という風に思えないんですよね。空という漢字は『から』だとか『くう』だとか、英語で言うところの empty と同じ意味合いも持ちますけれど、そっちの印象が真っ先に来るというか。「空じゃなくて、ここには空っぽがあるんだな」みたいな。「そして、それが空なんだな」みたいな。余計なワンステップを踏んでしまうというか。だから、というと論理関係が微妙ですけれど、確かに其処にあるように感じられる冬の青空のほうが本物っぽいなって、自分はそういう風に考えたり考えなかったりしてしまいます。まあ、夏でも冬でも、青空は好きですけどね。青空じゃなくても好きですけれど。春や秋の青空に対してもこれくらいの感覚を持てたらもっと楽しくなるのだろうな、と思う今日この頃です。

 

 バの都合で毎週火曜日は祇園四条出町柳間を徒歩で移動しているのですが(これが鴨川散歩部の定例会)、今日の帰りにみた空がめちゃくちゃ綺麗で。なんだろ、「ここが虹の麓なんだぜ」と言われても信じてしまえそうなくらいに鮮やかなパステルカラーのグラデーションが広がっていて、なんか普通に感動してしまったというか、月並みな感想ですけれど。自分は散歩しているときに割と辺りを見渡したりするんですが、でもやっぱり眺めている時間が最も長いのは恐らく空で、ここ数年はもうずっとそんな感じなんですが、それなのにこんなにも感動できる瞬間がまだあるんだと思って、ついさっき。いやまあ、冒頭の長生きがどうこうという話題は、このことに付随して記憶の奥底から浮かんできた話題だったんですよね、実は。そういえば「長生きはしたくない」と言っていた知り合いがいたなあ、って。閑話休題。といってもどこからどこまで閑話なんだって話ですけど。本当に閑話を休題してしまったら、この記事はここで終わりってことになっちゃいますし。それはさておき。ここ最近、といっても二ヶ月くらい前からですけれど、早朝の散歩を日課にしていて。日課というのはまあ普通に嘘で、というのも別に「何が何でも散歩するぞ!」と決めて実行しているわけではないので。こういうの、何て言えばいいんですかね。まあいいや。ともかく習慣っぽくなっていて。どころか、気を抜けばいつ何時でも散歩する身体になってしまっていて、ともすれば依存症みたいな。特に鴨川周辺を頻繁にうろついているんですが、これは結構前から思っていたこととして、いよいよ仮想現実との区別がつかなくなってきたなーって。なんだろ、例えば街路樹とか街頭とかですけれど、昨今のグラフィックに凝ったゲーム作品とかだとそういうのって普通に再現されてるじゃないですか。だからというかなんというか、それこそ街路樹なんかを目にしたときに「 3DCG で再現できそうだな」と思ってしまうようになったというか。信号機とか、水流とか、ブランコとか、夕暮れの空とか、そういうのも全部。なんなら空は「自分で描けそう」というところまで来ていますけれど。自分の認識における現実と架空との境界線がかなり曖昧になってきているというか。もとよりそういった傾向は多少あったように記憶しているものの、「でも、ここまでじゃなかっただろ」みたいな感じになっていて、だからどうって話でもないんですけど。というよりはむしろ、これはこれで楽しいな、と思っている節も実はあって。現実と架空との境界線が曖昧になればなるほど、現実世界への解像度が上がっていっているような気がしていて、矛盾しているようですけれど。たとえば、なんだろ。水面を観察するようになったのとかは結構分かりやすい変化のような気がしていて、水面、より正確には水流ですけれど、あの模様って思いのほか気持ち悪いんですよ、うねうねしてて。水流でなくて水面に関しても、なんだろ、たとえば水の張ったプールの床とかに黒い影が落ちている図ってよくあるじゃないですか。あれって表面に生じた波紋に対して、上空からの光が当たることで影が床に落ちるんですけど、湯舟とかでも同じ現象が起きるんですよ、当然ながら。だからたとえば湯舟の水面に向かって水滴を一つ落とすと、表面に波紋が広がるのは当たり前として、床にも同じ波紋が、正確にはその影がばーって広がるんです。それに気づいたのが結構最近のことで、一連の水に対する知見は水面のイラストを描く過程で得たんですが、まあそんな感じの。世界の見え方がどんどん変わっていく感覚というか、これを自分は『解像度が上がる』とよく言うんですけど、現実と架空とを比較するたびにそういうのが見つかるなあと思って。何度も言うように、だから何だって話でもないんですけどね、こんなの。でもまあ、これもまた冒頭の『勿体ない』と同じような話で。世界がアップデートされていくような感覚が恐らく自分は好きなんだろうなって。……という話を書こうと思ったのは、『今日の帰りにみた空が綺麗だったから』では実はなく。じゃあ何なんだというと、なんだろ。なんか最近、一周回って世界が 2D に思えてきて。と言うと完全にヤバい人で、実際はそんなことないんですけど。なんだろ、ハリボテ? 遠くの山とか、交差点の向かいにある建物とか、そういう全部をともすればハリボテのように錯覚するというか。なんなら散歩中にすれ違った人たちも。いや、そんなことないですけどね、実際は。いや、だってどう考えても立体的だし。でもまあそういう風に思うこともあるという話で。これは本当にここ数日での話なので自分でもどういうアレかよく分かってないんですけど、ただまあ、建物や人物はここ最近の話としても、それよりももう少し前から平面的に見えていたものが一つだけあって、それがまあ空なんですよね。絵を描き始めてから、なんか、あれを真に平面的なそれと認識してしまう瞬間が明らかに増えて。なんだろ、そこら辺の誤認に伴う錯覚なのかなあ、と一先ずは理解しています。これについては自分でもよく分かってません、本当に。

 

 なんか、なんだろ。ブログを更新していなかった期間に考えていた事柄はもっとたくさんあるように思うのですけれど、もう既に結構書き散らかしてしまったのでここらへんで止めておきます。みれば、五月中はブログ動かしていなかったようで。更新しない月があったのは初めて? これまではなかったような。まあ、ここは書きたいときに書きたいことを書くだけの場所なので。むしろ、これまでになかったほうが変ってくらいですね。

 

 

 

車窓


 所属サークルであるところの吉田音楽製作所により 4/24 に開催された『新歓ライブ』の映像が上がっているので、興味のある方は是非ご覧になってください(先制攻撃)。

youtu.be


 バンド部、ボカロ部、歌い手部、DJ 部と四部門あり、マジでどれも良いんですが、バンド部では『未完成の春 / 一葉』(三曲目)を演奏していただいており(マジで良かった)、せっかくなのでブログでも宣伝しておこうという算段です。観てね!

 

 

 ここ最近考えていたことについて書きます。

 

 事の発端はと言えば大阪から京都へ向かう電車に乗っていたときなのですけれど、どの辺りだったか、民家が密集している地帯を通りすぎるタイミングがあって。そのときの自分は、普段の自分がそうしているのと同じようにぼんやりと車窓を眺めていて、実家から京都へ戻るときには必ず使う路線なので、だから別にその風景が全くの未知だったというわけではなくて、なのになんていうか、めちゃくちゃ微妙な気持ちになったことがあって。それがだいたい一ヶ月くらい前のことだったような気がするんですが、ここしばらくはずっとそのときの気持ちを引きずったまま過ごしているような感じがあります。
 なんだろ、微妙っていうか何というか。言語化が難しいってわけでもないんですが。こう、電車に乗っていて、するとめちゃくちゃな数の民家が一斉に目に飛び込んできて、勿論その一軒一軒には持ち主が少なくとも一人はいるはずで、しかもそれらはおおよそ一軒ごとに異なっているはずで、だとしたらこの車窓の中にはいったいどのくらいの数の人がいるのだろうか、みたいなことを考えていて。あるいは、このちっぽけな枠の中ですらそうなのだとしたら、この街には、世界には、いったいどれだけの人がいるんだろうな、みたいな。言葉だけで説明すればそんな感じのことを、ぼけーっと考えたりしていました。
 自分は『電車』というもの自体にも不思議という印象を持っていて。不思議という形容は正しくないかもしれませんけれど。色んな人が同じ箱に乗り合わせて、たとえば偶然隣に居座った誰かがどこへ行くつもりなのかとか、あるいはいま乗り込んできたばかりの誰かはどこから来たのかとか、そういったことは何も知らないままで数十分ばかりの間を一緒に移動して。「一緒に」と言えるほどの一体感なんて微塵もありませんけれど、ただまあ、イヤホン越しに聴こえてくる誰かと誰かの会話なんかに意識を引っ張られるたびに、「この人と何かしらの接点を持つことってきっと一生ないんだろうなあ」みたいなことを考えて。寂しいだとか悲しいだとか、別にそういった感情を伴うことはあまりないにせよ、なんだろ、手のひらに収まるぐらいの空っぽがただそこにあるという感じの。そういうのも全部知ってしまえたらいいのになと思うことはたまにあって。それ自体に何を期待するわけでもない、ただそう思うだけの瞬間が何度もあって。だからまあ色んな人と話をしてみたいなと思ったりもするわけで、だからって誰彼構わず会話を強要するようなことはしませんし、僕はむしろ偶発的に生じる機会のほうが本質的と思っている質なので、『しようと思ってする会話』は別に好きでも嫌いでもないんですが、だからこそ、初めて訪れた街で道を尋ねる程度の感覚で知らない誰かと話してみたいなとか、そういうことを思ったりもします。しませんけどね。
 話が逸れた。車窓の話に戻るとすれば、だから結局、この世界ってめちゃくちゃな数の人がいるんだなって話で。いや、そんなのは誰だって知っている、至極当然の事実に過ぎないのですけれど、でもその当たり前を実感できる瞬間ってそんなに多くないような気がしていて。なんだろ。この世界にはめちゃくちゃな数の人がいて、その中で自分と接点のある人間なんて三桁に及ぶかどうかというくらいの数しかいなくて、という風に思考は進んでいって。ああいや、「全人類と仲良くしたい」みたいなことは別に考えていなくて、自分はむしろ必要以上に他人との接点を持ちたくない側ですらあるんですけど、だからどちらかといえば、その、いま繋がっている人たちと知り合えた偶然性というか、あるいはその偶然と地続きにある今? そういうのをもっと大切にすべきなんだろうな、みたいな。人で溢れた車窓だとか、あるいは高台から見下ろした街並みだとか、そういった風景に想起される寂寥感にも似た何かの正体って、ともすればこういうものだったりもするのかなって。最近考えていたことといえば、まあこんな感じでした。

 

 

 

st_r+rai_


『startrail』という楽曲について、今更のようにいろいろと書いてみようと思います。

 

kazuha1221.hatenablog.com


 というのも、学部二回生から四回生の間にかけて制作し、かつニコニコ動画なり YouTube なりへ投稿した楽曲については、以前の記事でだいたいのことを話してしまい、それですべてではないにせよ、文章に残しておきたかったことは概ねこのブログのどこかにあるという状況になっています。一方、『startrail』についてだけはまだ何も話せていないままというか。それはまあ、この楽曲が自分にとって特殊な立ち位置にあるからという理由もあるのですが、なんというか、それにしても、いい加減に言葉にしてしまってもいいのかなと数日前にふと思って。なんだろ、言い訳みたいになっちゃいますけれど、自分は自分の作ったものをできればそれ単体で評価してほしいと思っていて。自分がここであーだこーだと書いた内容だとか、あるいは普段の自分の言動だとか、そういったものに左右されてほしくないというか。だから、別に自分がどういうことを考えてこの曲を作ったのかとか、そんなことは本当にどうだってよくて、関係がなくて、だけど、それでも知ってほしいと思う自分がいて。なので、大っぴらに公言することはありませんけれど、こう、公開から結構な時を経た今更になって、『startrail』の話をブログの片隅に残しておこうかななんて、そういうことを思ったりしたわけでした。

 

 

 この曲の原案ができた日付を自分は今でも覚えていて、(記憶が間違っていなければ)それは 2019 年 12 月 23 日のことです。その前日に所属サークルの忘年会がありまして。それが終わってめちゃくちゃな気分のまま家まで帰ってきて、買ったばかりのギターをどうにもなんないなって気持ちで適当に鳴らして、そのときに浮かんだフレーズを次の日に目が覚めてから再構築して。原案と完成版とでは、やはりメロディの動き方だったりコードワークだったりが若干異なるものの、ワンコーラスはもうその時点で出来上がっていて。思えば、『startrail』は自分が初めて楽器を片手に制作した楽曲ということになるんですね。

 

 忘年会の会場やら帰り道やらで色々あって。まあ、色々。それはどこにでもあるような当たり前の話というか、別にこれまでの人生で一度も経験したことのないような出来事でもなかったはずなのに、当時の自分はそのことに酷く動揺してしまって。動揺っていうか……、適切な言葉が見つからないんですが、ともかくめちゃくちゃなアレになってしまって。なんだろう、これはただの例え話ですけれど、漫画とかでありがちな展開として、仲の良い友達から突然「実は転校するんだ」と告げられる、みたいなのがあるじゃないですか。当時の気分的には、あれが三連続で降りかかってきたような感じで。「もっと何かできたんじゃないのかなあ」みたいなことを思ったりもして、実際、その出来事が不可避なものであったとしても、それまでの自分にできたことは山ほどあったはずで。デッドラインを見誤っていたというか。現実的な側面から離れ離れになってしまうことが必然であるとして、だったらそれまでを目いっぱいに楽しみたいし、最後には手を振ってお別れしたいなと思ってもいて、なのに急に最終回がやってきたみたいな。「明日、貴方は死にますよ」なんて教えてくれる親切な死神がどこにもいないのと同じように、明日も今日と同じ景色が続くのかどうかなんて本来誰にも分からないはずで、だから言ってしまえばそれだけの話なのですけれど、当時の自分はそこを本当の意味で解っていなかったというか。あるいは、解ったような気になっていたことを教えられたというか。なにがって、この曲の直前に制作した『未完成の春』で『もう出会えなくたっていい』みたいなことを言っていたんですよね、当時の自分は。要するに今度こそは大丈夫だって気がしていて、なのにまた同じことを繰り返すんだなって。それが一昨年の末の出来事でした。

 

 どのくらいぐちゃぐちゃだったかというと、当時、いっそサークルを辞めてやろうかとも思っていたくらいで。なんていうか、意味がないと思ってしまったんです。その、誰かがいなくなってしまったあとの居場所に。「なんで俺、ここにいるんだろう?」みたいな。自己嫌悪っていうか、どんな顔してその場所にいればいいのかもよく分かんないし、何かをみて笑っている自分自身にすらムカつくっていうか。何ヘラヘラしてんの、みたいな。そんな感じの日が数日ほど続いて、少しづつ消化でき始めてきたのと同時に『startrail』の歌詞を書き始めて。サビの歌い出しは原案ができたのと同タイミングで頭の中にあったのですが、とはいえ、最初は本当に書き切れる気がしなかったっていうか。いつもそんな感じですけれど、自分は手に持っていないものについては書けなくて、それを無理に書こうとすると嘘になるし、嘘は書きたくないし。でも、なんだろう、そのときの自分が持っていたものといえば、それはもうぐっちゃぐちゃのめちゃくちゃでしかなかったわけで。何を書くべきなのかとか、そもそも何を書きたいのかだとか、そういうのをずっと考えて、罪滅ぼしみたいに。そうして言葉を並べてみて、でも何を書こうとしても溜息みたいになるっていうか、嫌な風に映りそうな、あるいは呪いのような。なにも自分は溜息を吐きたいわけじゃなくって、ただ、今更間に合わなくても何かをしたかったというだけで。そこを履き違えられたくはなかったというか、今みたいにこうして何千もの文字数を割いて説明するのではなく、歌詞という媒体に頼るというのであれば、そこだけは絶対にまっすぐ伝えなきゃいけないと思って。『自分だけのための唄』というフレーズはその辺りから浮かんできたものだったり。結局、誰かのために何かがしたいだなんて高尚なことは微塵も考えていなくって、曲を作って歌詞を書いて、どうしてそんなことをしているのかといえば、それは自分がそうしたかったからというか。ただ単に自分が苦しかったからという、ただそれだけの話で。『startrail』で書こうとしたものが当時の自分にとって酷く重大な事態であったからこそ、それだけは絶対に間違えちゃいけないという気がして。だからあの曲は『自分だけのための唄』でしかないというか、自分の作る曲なんてどれにしたって自分だけのためのものでしかありませんけれど、そんな当たり前をわざわざ歌詞にまでしたのはそういった理由がありました。

 

 特殊な立ち位置にあるだけあって、核心に触れるようなことはやっぱり何も書けませんでしたけれど、『startrail』という曲が結局はどういうものだったのか、これくらいの字数を割けば分かる人には分かるくらいのものになるんじゃないかなって。『青』も『透明』も『君』も『夜明け』も、そのどれもがただの手癖で入れた言葉ではなくって、それ相応の意味と理由を以て、結果として歌詞の一部に組み込まれたものだったといいますか。とはいえ、なんだろ、これだけのことを散々書いておいてどの口がという感じですけれど、はじめにも言ったように、自分がどういった思いでこの曲や詞を作っていようがそれは作品の価値には一切の関係がなくて。だからまあ、それくらいのアレで適当に忘れてもらえればと思います。

 

 

 

20210316


 今回はかなり長いです( 8,000 字くらいあります)。お時間のある方だけ。

 

 

 これは真面目な話ですけれど、なんていうか、自分は他人のことに対して強い興味があるのと同時に、他人のことを心底どうでもいいとも思っていて。……という風に書くと間違いなく誤解を招くというか、言葉を額面通りに受け取られてしまいそうだなと思うのでより正確を期するとするならば、自分は本当の意味で他人を他人だとしか思っていなくって。それがたとえばどういうことかといえば、もはや笑っちゃうくらい、事あるごとに自分が引き合いに出してしまう例ですけれど、赤信号。自分はなるべく赤信号を守るようにしていて、守らないケースといえば赤信号を守らない誰かと一緒に歩いているときくらいですけれど、だからといって、赤信号を守らない人を目撃して「アイツはなってないなあ」だとか、そういうことは全く思わないっていうか。昔は、厳密に言えば高校生くらいの頃には、そういった、ともすれば未熟ともいえる思考を持ち合わせていたのですけれど、周囲の人々のおかげで多少は成長できたように思われる今の自分はそうではなくって。「自分が赤信号を守っているのは、自分がそうでありたいと思っているから。なら、そうとは思わない人たちが赤信号を破るのも勝手では?」と考えるのが今の自分であり、そういう意味で『他人を他人だとしか思っていない』、あるいは『自分と他人とを区別している』と言ってもよいですけれど、ともかく、以上が現在の僕がとっている基本的なスタンスになります。だからまあ、たとえば自分がある作品を好んでいたとして、一方でその作品を嫌っている人が仮にいたとしても、それはその人の勝手かなと思いますし。あまり正確でないような印象を受ける主義思想を強く信奉する人がいたとしても、それもその人の勝手かなと思いますし。いやもう、本当にどうでもいいっていうか、自分の信じる正しさに飽和した世界なんてきっと今以上に退屈なのだろうな、という漠然とした印象が僕にはあって。「これが正しい」と測るための定規の一つや二つ、当然のように僕だって持ち合わせているわけで、その正当性を信じていたいと思っているわけで。でも、だからこそ、その誰かが同様に持っている定規の正当性を否定したくはないというか。自分は正しいと思うからこそ、他人も正しいと思う。ああ、そうですね。これはいまタイピングをしながら浮かんできたフレーズですけれど、『自分は正しいと思うからこそ、他人も正しいと思う』。これが僕の考え方を簡潔に表現しているような気がします。正義に限らずとも絶対的なものなんて何一つもないと自分は思っていて、すべては相対的というか流動的というか、だからこそ、「自分が正しいと思っているものは、自分がそのように思っているからそうなのだ」と自分は考えていて。これだけ言葉を割けば誤解されることはないだろうと思いますけれど、それでも断っておくとするならば、それは『自分にとって都合の良いものだけを正義と定義する』という意味では決してなくて、『誰かにとっての正義を否定しないために、自分の抱えた正義もその程度のものでしかないのだと定義しておく』という意味です。もちろん、自分はこの考え方を他人に強要しようとは思いませんし、そもそもこの考え方が正しいとも思っていません。ただ、あくまで自分はこのようにして世界との折り合いをつけているという話であり、本来であればもっと多くの言葉を割いて説明をするべきですけれど、『他人を他人だとしか思っていない』をある程度丁寧に説明するとすれば、それはここまでの全て、ということになります。

 

 優しくされたいというか何というか、俗な言葉で表現するなら『愛されたい』になるのかもしれませんけれど、そういう感情を持っていたことが自分にもあって。今はそうでもないんですが、昔はそうでした。なんだろう、こういうことを自分で言うと思わず笑っちゃいますけれど、なんていうか、正義感が異様に強かったんですよね、以前の自分は。それこそさっき例に挙げた赤信号とか。「赤信号なんてたかが数分足を止めるだけで守れるのに、どうしてそれをしない人ばかりなのだろう」みたいなことを以前は考えていて、いや、これは完全に保身的になってしまっており、正直に告白するともう少し、あるいはもっと、文字に起こすことが憚られる程度には過激な思想をしていました。当時の自分を振り返ってみて、もちろん客観的になんて評価できませんけれど、むしろいっそ開き直って主観マシマシで評価しますけれど、当時の自分を僕は「別に、性格が悪かったわけではない」と思っていて。なんていうか、思い返してみるとただ単純に意味が分からなかっただけなんですよね。その、『簡単に守れることを守らない人の思考』みたいなものが。ただ、当時の自分は未熟だったというか幼かったというか、そこで自己を顧みることをしようとはせず、その原因を周囲に求めてしまったというか。そうなると行きつく先は最早一つしかなくて、それは『そういう奴らは頭が足りないから』という最悪の袋小路だけです。より最悪なことに、ここには『そのことが理解できている自分と比較して』という自分アゲのフレーズが隠されています。当時の自分はそのことに自覚的でしたが、それと同時にこれが正常な感情であるという風にも認識していました。だからまあ、一度この行き詰まりに来てしまえばもう最後というか手遅れというか、何故かといえば、自分一人だと絶対に気がつけないと思うんですよ、なんていうか、その迷路の脱出法のようなものに。いやまあ実際、気がつけなかったからこそそういう場所に迷い込んでしまっているわけで。そして、それ以上先へは進めなくなってしまったら今言ったような思考回路になってしまいがちというか、だって「これまでずっと考えてきたことが間違っていたのかも」なんて風に考えるのはきっとしんどいですし、逆説的ですけれど、自己を疑うような行為は基本的に自己を疑ったことのある人間だけが取ることのできる手段であって、普通は無意識的に避けてしまう一手のように自分は思うといいますか。ちょっとだけ疑ってみて、それで何かを成し遂げたような気になるだけなら至極簡単なことですけれど、いっそ死んでしまいたいというくらい徹底的に自分自身を疑ったことのある人はそれほど多くないはずで、なぜならそれはとても苦しいから。簡単な解決法が転がっていればそちらへ流されたくなるのが当然というか、それこそが罠であり、それに手を引かれた終着点があの最悪の袋小路ですが、要するに『何もかも他人が悪い』という風にしてしまったほうが気が楽で、気が楽っていうか当たり前のことだと思うんですよ、それが。だからこそ、「その事実を以て『性格が悪い』と評価したくはないな」と自分は思うわけで、当時の自分を「別に、性格が悪かったわけではない」と思うのはそういった理由からです。性格が悪かったわけではない、と思うだけで良い人とは到底思えませんし、友達になるなんて論外ですね。あんなどうしようもない奴と、それでも仲良くしてくれた当時の人々には本当に頭が上がりません。ありがとうございました。なんて、ここで言っても仕方ありませんけれど。

 

『愛されたい』の話に戻りますけれど、だからまあ、高校生くらいの自分はそういう風に考えていたというか、別に他者からの愛に飢えていたわけではなく、これはただイメージのしやすい表現に置き換えているだけですが、当時の自分が思っていたことにより近づけるのであれば、『認められたい』がそうなのかなと思います。これはあくまでかつての自分を改めて分析したことによる帰結というだけで、全人類のそれがそうという主張では全くありませんが、僕の場合、その『認められたい』という感情は先ほどの『そういう奴らは(そのことが理解できている自分と比較して)頭が足りないから』という思考と強く結びついていたように思います。どういうことかというと、つまり、「周りの人間と違って自分は正しいことをしているのに、誰も認めてくれない」ということです。当時の自分はこのように考えていましたが、今の自分が思うにこれには言葉が足りなくて、正確には「周りの人間と違って自分は正しいことをしている『はず』なのに、誰も認めてくれない」です。たとえば、そうですね。別に例は何でもいいのですが赤信号を引きずり回すことにすると、「どうして赤信号を平気で破る人がいるのだろう」という話題になったとして、「別に自動車の通りが少ないときは守らなくてもいいんじゃない?」といった誰かがいたとして、その誰かに対して腹を立てるだとか、もう本当にその程度のものです。しょうもね~と感じた人は、その気持ちを大切にしてください。当時の自分は本当に怒っていました、その程度のことで。……いや、「自動車がいないときは別に守らなくてもよいのでは」という主張は別に何もおかしくないといいますか、もちろん道徳だとか交通規則だとか、そういった類を参照元にするのであれば全くもって正しくないのですけれど、一方で理に適っているという意味では間違ってもいないわけで。ただ、当時の自分はそこを受け入れられなかったんですね。何故なら、その時にはもうすでに袋小路の中にいたので。「あいつらは正しくない。自分こそが正しいんだ」と思って歩いてきた道を疑えるような賢明さを、当時の自分は持ち合わせておらず、だから、自分が否定したようなものを肯定する誰かの言葉に腹を立てたり、あるいは拗ねたり。いやもう、昔の自分がどれほど愚かだったのかを挙げ始めるとキリがなく、流石に恥ずかしいのでそろそろ止めにしますけれど、だけどそれが事実で。そういうときに「どうして認められないんだ」みたいなことを思っていたわけです。今にして思えばそんなのは当たり前のことですが、当時の自分にとっては全く当たり前のことではありませんでした。

 

『認められたい』という欲求が解消されることは基本的になくて、これもまた自分のケースに限った話ですけれど、それがどうしてかといえば『そもそも自分が周囲の人間を認めていなかった』からです。己に肯定を与えるのは私でなく他人であり、その他人に対して穿った見方ばかりしていたのだからそれもまた必然というか。……いや、今でこそこうして冷静に俯瞰できていますけれど、当時は本当に分からなくって。承認欲求的なものって、そんな状況でも褒めてもらえたりすると一時的に消えたりするんですが、でもそれがなくなると途端に湧いてきたり。今の自分はそういった類の感情にほとんど無縁なので曖昧ですけれど、しかし当時を振り返ってみると確かそうで。『認められたい』という感情がおよそ消え去った今と当時とを比較してみて、果たして周囲の環境が変化したのだろうかと考えてみてもそんなことはなく、高校生だろうが大学生だろうが、赤信号を守る人は守るし、守らない人は守らない。大学近辺の歩道を歩いていると信号無視で突き抜けていく自転車なんて日常的に目撃しますし、その光景は高校生の頃から何も変わりなくて。その様を目にして「まあ、守らないのもその人の勝手だしな」と今の自分は考えるわけですけれど、だから何が変化したのかといえば、それは結局のところ環境ではなく自分自身でしかなくて。先の袋小路の例を引き継ぐのであれば、それはだから僕が迷路の外へ出たという、ただそれだけの話でしかなくて。迷路の中から見える景色も、迷路の外から見える景色も、両者は何一つもたがわない。変わったのは、その景色を観測している自分の(精神的な)状況。僕はかつての自分と今の自分とを比較して、そういう風に結論付けています。周囲は悪くなかった。環境は悪くなかった。世界は悪くなかった。ただ自分一人だけが悪かった。そういう話。

 

 袋小路という表現を採用したものの、当時の自分はそこがどうしようもない行き詰まりだとは一切認識しておらず、振り返ってみれば、むしろそれがゴールであるかのような気さえ覚えていたように思います。自分が全部正しくて、周りが全部間違っている。こうして文字に起こしてみると物凄く馬鹿っぽいですし、嘲笑を買っても致し方なしという感じですけれど、当時の自分は心の底からそのように考えており、そしてその真偽を疑うこともしませんでした、少なくとも高校生の間は。たかだか二〇とそこら程度の人間が人生を語るなんてと思われるかもしれませんが、そう短くもないこれまでの人生において、自分の価値観に何よりも強く影響を及ぼした出来事、いわゆるターニングポイント的なそれが大学への進学直後にあり、僕はその瞬間になって初めて自分の居場所を疑ったのです。そのことには、このブログにおいては何度も登場している彼が深く関与していて、というか自分と彼以外の誰一人も関係のない話ですけれど。具体的な話を一切したくないので抽象的な話で済ませることにしますが、高校生の頃、僕は彼のことがとても好きでした。それについては今も何ら変わりありませんけれど、なんというか、言葉通りの意味をすっかり越えて。なんというか、当時の自分と彼とは本当に考え方が合わなくって。向きが違うだとか平行線だとか、そういうのですらなく、いわゆるねじれの位置的な、どう足掻いても立体的に交われない場所に立っている感じの。だからこそなのかもしれませんけれど、彼と話をすることが当時の自分には本当に心地よくて。彼の言葉はいつだって自分の知らない、まったく新しい景色を教えてくれたから。自分が正しいと思い込んでいたものであっても、彼との対話によって否定的な結論が導かれたときには自然とそれを受け入れることができてしまったり。不思議ですけれど、本当にそんな感じで。今の自分はそれをよく『矯正』と表現したりしますが、それは言葉通りの意味で、「自分が全部正しくて、周りが全部間違っている」と信じて疑わなかった当時の自分に、袋小路からの脱出法を暗に示してくれていたのが、他の誰でもない彼でした。

 

 大学進学直後にあった出来事、というのは要約してしまえば彼との距離が遠くなってしまったことです。いや、実際のところ彼と自分との関係性は出会った当時から今に至るまでほとんど何も変化しておらず、強いて言うならお互いにもう高校生ではなくなってしまいましたけれど、でもまあその程度のもので、だから、より正確には『遠くなったように自分が感じてしまったこと』です。なんていうか、これも具体的な話をしても仕方がないので抽象的な話で済ませることにすると、だから、「自分が知らないだけで、もっと綺麗なものがあるのでは」と高校生当時の自分に思わせてくれたのが彼であって、しかしその彼は僕が大学へ進学するとほぼ同時にいなくなってしまって。灯りが完全に消えてしまった感じというか、なんだろうな、単純に怖くなったっていうか。当時の自分には彼の言葉を通して世界を理解しようとしていた部分さえあって、電灯、指標、太陽、なんだって構いませんけれど、そういうものが全部消えちゃったような気がして。たったそれだけのことが本当に怖くって。灯りを見失ったから、でも、だからこそ自分の現在地を確認しようとして、疑って、そうしてようやくその場所が行き止まりであることに気がついて。というのが事のあらましでした。だから、なんだろ、仮に彼が自分の隣にいてくれなかったとしたら、あるいは彼が当時の自分のことを否定してくれなかったとしたら、恐らく自分は今でもあの迷路の中にいたんじゃないかなって気がしていて。たぶん、そこが迷路であることすら気づいていないはずで。そういう意味で僕は彼の存在にとても感謝をしていますし、一人では決して脱出できていなかったのだろうなと思っています。どうでもいい補足をしておくと、彼とはいまでも友人です。 

 

 そこがどうしようもない袋小路であることに気がついたからと言って、じゃあすぐに抜け出すことができるのかといえば、そんなことはあるはずもなく。そこから先はもうずっと地獄というか、むしろそこから先のほうがずっと地獄というか。比喩を続けるのであれば、灯りもなしにゴールへ辿り着かんとする試みなわけですし、いってしまえば、形状の明かされていない迷路をスタートからゴールへ向かって歩くようなもので。まあ、実際の迷路では壁伝いに歩いていけば、時間を要するものの必ずゴールへ辿り着けるわけですが、果たして出口のようなものが存在するのかどうかも分からないという状況なわけで。当ブログにおいて 2018 年から 2019 年にかけて行われていたのは、何を隠そう、その手掛かりを探るためのものでした。実際、あの頃の記事には、いま以上に彼とのことについて書かれているはずです。自ずと読み返したりはしないので、あくまで記憶の限りですけれど。そのときの自分が彼とのことを再確認していたのは、いつかの自分が言っていたような気がしますけれど『自分のことを話すためには、彼の話を避けて通れない。そのくらい、彼の影響は大きい』からであって。なんだろう、明確な行き止まりこそが現在地であり、その先はなく、そこに立ち尽くしてもいられないと思ってしまったのなら、あとはもう来た道を引き返すしかないっていうか。それは単純な懐古では決してなくて、なんというか、袋小路へと行き当たってしまった過去の自分を否定しつつ、自己を再定義するための部品を拾い集めることに等しい行為というか。それが果たして出口に繋がっているのかどうかということはさておき、少なくともそれまでの自分とは別の指向性を持たなければ、また同じ行き止まりに立ち止まってしまうかもしれないし、そうなった場合、次も引き返すだけの余裕と覚悟が残っているかどうかも定かでないので。ああ、いやまあ、これだけ書いておいてなんですけれど「以前の自分はこんなにも苦労したんですよ~」という不幸自慢をしたいわけでは決してなく、別に同情されたいわけでも理解してほしいわけでもなく、ただ事実としてそうであるからそうと書いているだけです。あんまり深く考えずに、ノリで読んでください。

 

 現在使用しているテキストエディタ、文字数が自動でカウントされないんですよね。なので、ここに至るまでどのくらいの文字数を書いたのかはっきりとは分かりませんけれど、結局まあ要するに、かつての自分は『自分が全部正しくて、周りが全部間違っている』という考え方だったけれど、今の自分は『自分は正しいと思うからこそ、他人も正しいと思う』という考え方へ完全にシフトしている、というだけの話でした。なんだろ、最近、『自分の考えこそが絶対的に正しくて、それに沿わないものは全部ダメ』みたいな論調を目にする機会が多くって(もっとも、当人たちにそういった意図はないのかもしれませんが)、「昔の自分もそんな感じだったっけ……」と猛省する辺りに始まった思考でした。自戒の意味も込めて、文章として残しておこうかなと。かつての自分は本質的には彼に助けられる形でそこから抜け出せたので、自分もそういった誰かを助けることができたらいいのになと思いつつ、でもかつての自分がそうだったように、こういうのは結局、その個人が現在地の正体に対して自覚的にならなきゃ何の意味もなかったりして、なんだかなあって。彼は僕に地図の断片をくれはしたものの、手を引いて行き止まりから出口まで連れて行ってくれたというわけではなく、その最も辛く大変な部分は一人だけでやらないといけなかったりして。難しい。なんていうか、いや、もしかするとそれまでの自分がいた場所がゴールであって、あたかもゴールであるかのように思っている現在地こそが行き止まりであるという可能性も十二分にあって、そういうことを考えたりすることもあります。その可能性をすっかり忘れているというわけではないし、定期的に確認をしていけたらいいのかなとか。しかしまあ、自分の居場所がゴールであれ袋小路であれ、少なくとも僕はいま立っている場所から見える風景のほうがずっと好きで。いやまあ、本当にただそれだけのことでした。