流れ星


 近況報告。一月頃から制作を進めていた楽曲が完成しました。公開までにはまだ少し時間を要すると思われますが、どこかしらでそのうち発表されると思います。その際は是非に。それと、これはつい先日のことですが、めでたく学部卒が確定しました。いや~、頑張ったと思う。まあ、頑張らざるを得なくなったのは過去の(主には三回生の)自分のせいなので、自業自得もいいところですけれど……。四回生前期開始時点で卒業には残り 36 単位が必要、という状況を認識したときには、さしもの自分も「いくらなんでもヤバくね……?」と震えたものですが、今となっては「追い込まれれば、案外何とかなるものだな」と他人事のように感じてしまいます。喉元過ぎればなんとやら。……実際は、卒業者名簿を確認するまで内心ビビッてたんですが。終わり良ければ総て良し、ということで。

 

 ここ最近考えていたことについて書きます。

 

 京都に越してきてから、この三月でちょうど四年目になるかと思うのですが、なんとなく感じることとして、そこら中に思い出が散らばっているような。なんていうか、どこを歩いてみても、その場所をいつか一緒に歩いた誰かの姿を思い出してしまうというか。どこを歩いてみても、なんていうのは本当は嘘で、一人でしか行ったことのない場所なんていくらでもあるのですけれど、でも、そうしてたしかに在るはずの隙間を不意に忘れてしまうくらいに、誰かの声が聞こえてくるような。僕の地元は比較的近いので、向こうの道もそこそこの頻度で歩くのですけれど、「感覚が全然違う」と以前思って。地元の道を歩いてみても、かつての自分はその場所に誰といたのか、という情報が部分的に欠落してしまっていて。今でも覚えていることはそれなりにあるのですけれど……、なんだろう、強度が足りないというか。それは、もしかすると単純に『昔のことだから』で片づけてしまえることなのかもしれないし、あるいは、自分がそれほど他人に関心を持っていなかったからなのかもしれないし。理由は定かでないものの、しかし結果としてはそうなっていて。そういうのってなんか寂しいなって、そんなことを考えていました。
 自分が歌詞を書くときにやたら使うことで有名な『声』という名詞は、なんていうか、より普遍的な言葉に翻訳するとすれば『想起される』という意味になるのですけれど、でも、自分の感覚的に言えばそれは『声』なのかな、という話で。信号とか、カーブミラーとか、上り坂とか、店のシャッターとか、横断歩道とか、河沿いとか。認識する方法は何だってよくて、ともかく、その対象に触れてしまうと関連して浮かび上がってくる記憶のような様々の総称。特に、誰かとの会話に基づく記憶のことを自分は『声』とラベリングしているような気がして。これは一部の人間にしか伝わらない一文ですけれど、だから、流星にだって声を聴く。あの曲の歌詞はそのワンフレーズをトリガーにして書かれたものでした。話題が飛んじゃいますが、この世界って嘘ばっかだなって思うことが昔は多くって。昔というのはだいたい高校生から学部二回生くらいの頃にかけてのことで、今ではそんなことは全くないのですけれど。そんな中で、「これは本物に違いない」と信じることさえもしない、「これが本物であると私は知っている」と言ってしまえるようなものが一つだけあって、それが自分にとっては他者との関係だったという話で。建前も、本音も、嘘も、本当も。そんなのは全部どうだってよくて、自分と誰か、それらがちゃんとどこかにはあったのだということ。思えば、自分はずっとそういう歌詞ばっかり書いていて、初めてちゃんとした歌詞を書き上げたときからもうずっと。こればっかりはこの先も変わらないような気がします。それこそ、パラダイムシフト的な何かが降ってこない限りは。

 

 言葉にすると嘘っぽくなるので抽象的な話ばっかり書いちゃいましたけれど、まあそんな感じでした。
 新曲が公開されたときは、是非ともよろしくお願いします(二回目)。

 

 

変わったこと


 実を言うと、自分はマスクというものがあまり好きではなくて。という話の発端がどこにあるのか、あまりにも昔のことすぎてはっきりとは思い出せないのですが、今でも覚えているのは小学校に入ってすぐのことです。自分の通っていた小学校は給食制でして、お昼ご飯の時間になれば週ごとにローテーションされる役割分担に従って、授業終わりのクラスメイト達が一斉に動き始めるわけです。その当時からもうずっと思っていたこととしては、そのときにいちいちマスクをつけるのが本当に面倒で。いまはどうなのか知りませんけれど、自分たちの頃に主流だったのはガーゼ(?)のマスクだったんです。あの、いかにも防御力のなさそうな。「これつける意味あるのかなあ」と子供心ながらに思っていて。結論としては『つける意味はある』だと思うんですが、しかしまあ小学生当時の自分としては「息苦しいし、耳痛いし、そもそも面倒だし」という風にしか考えることができず。以来、自分は大のマスク嫌いとなり、人並みの花粉症を患っているくせに、いま世間を騒がせている某ウイルスが流行し始めるまで、マスクとはほとんど無縁の生活を送っていました(風邪をここ数年ひいていないということもある)。いやもう、面倒ってのは何より大きな理由だったんですが、マスクってどうやっても眼鏡が曇るんですよ、特に冬場。なんか、もっとちゃんとした何かを購入すればその点も改善されるのかもしれませんが、しかし衛生的な性能が向上するのならまだしも、機能的な部分にお金を割けるほどの余裕もこだわりも持ち合わせていないので、「だったら別につけなくていいじゃん」っていう。世情が世情なので、昨今は外出時にマスクをしていないことのほうが稀ですけれど、仮に人間社会がこのような状況に陥らなかったとすれば、自分は今でもマスクを煙たがっていたのだろうなあということは想像に難くないですね。だってまあ、避け続けている以上はそこが好転する理由なんてありませんから。

 ところが最近はマスクをつけるのも楽しいなあと思えるようになってきて。きっかけは一一月の終わりに舞鶴へ行ったときなのですが、突発的に計画されたため、京都を発ち向こうへ着いた頃にはすっかり日が暮れていて。赤レンガだったり軍艦だったりを観るという目的はそれでも十分に達せられたので良かった(むしろ軍艦は夜のが映えるのかも)のですが、そろそろ帰ろうかとなり駐車場へ向かう途中のこと。一一月末の海沿いということもあり辺りは結構冷え込んでいて、その日も当然のようにマスクを着用していたので、マスクから漏れた息で眼鏡が曇っちゃって。今にして思えば、別にそれよりも前の日にも眼鏡が曇った夜なんてあったのかもしれませんけれど、少なくとも自分はそのときまで気づいていなくて。だだっ広い駐車場を点々と照らす白色照明を見上げて、曇ったレンズ越しに。そしたら光線が分散されるのか、普通に見たらただの真っ白な灯りなのに、赤、黄、青、スペクトルみたいに見えるんだってことにふと気がついて。それからはなんていうか、マスクのせいでレンズが曇ることもさほど嫌じゃなくなったというか。いやまあ、本当に光源以外の何も視界に映らなくなるので、車通りの少ないところとかじゃないと危険極まりないのですけれど。でも、本当に綺麗なんですよ、虹や月暈みたいで。それに光源の種類によって見え方が違っていて、信号だとか店の看板だとか教会の十字マークだとか。いろんな光源を曇ったレンズで覗き込んでみて、「ああ、これはこういうぼやけ方をするのか」みたいな。いつも通りの帰り道でも、ちょっとしたことで楽しくなるなあと思って。もう、二月頭の夜ともなれば鬱陶しいほどにレンズは曇るんですが、それでもまあ、それはそれで楽しいからいっかと思えるようになったのは、某ウイルスが流行し始めて以降の割と明確な変化の一つですね。

 

 近況。ここ最近、一日あたり十時間以上は作曲に向き合っているのですけれど、「良いじゃんこれ!」と「本当にこれでいいのか?」の間を反復横跳びし続けています。予め設定しておいた一次締め切りまで一週間を切っているので、今夜も泣き喚きながらの作業になりそうです。助けて~~~~。

 

 

 

20210130


 思えば、自分は卒業式のときのことをほとんど何も覚えていません。高校はたしかやたらと広い中庭に召集され、なにかめでたい話を聞いたり聞かなかったりしたような。いや、よくよく思い返してみればそれは卒業アルバムのための写真撮影に関連した記憶で、卒業式自体はこれまたやたらと広い体育館の中で恙なく執り行われたはずですが、それにしても何も覚えてないなあって。卒業式の練習みたいなのがたしか結構あって、本番通りのスケジューリングで進められる実質的なリハーサルみたいなものも何度かやったんですが、途中には椅子に座って先生方のお話を聞く流れもあったわけです、当然ながら。そのたびに込み上げてくる眠気に抗いつつ、しかしまあ当時は究極深夜型の人間だったために、戦績は十割がた自分の負けだったような気がします。今になって思い出せるのって本当にその程度のことばっかりで、卒業式当日のことだとかなんだとかを一切覚えておらず、あの日、あの場所で、あの時の自分が一体どういったことを考えていたのだろうかって。推測するに「眠い~~~~」とか「早く帰りたい~~~~」とか恐らくその辺りだろうとは思うものの、いや、もう少し何かなかったのかよと思ったりもします、今更ながら。

 この前、サークルの人たち数人と作詞についての話をする機会がありまして。その場には作詞をする人もしない人もいたんですが、各々の書いた歌詞について話し合うという流れになったときがあり、その際、自分の歌詞に言及してくれた人がいて、曰く『登場人物が書いた文章のようにみえる』。自分の文章についてのあれこれを貰う機会ってそれほど多くもない、というかその実ほとんどないので、彼の感想自体はとても貴重なもので普通にめちゃ嬉しかったんですが、なんていうか、なんだろう。単純に意外だったというか、新鮮だったというか。自分の書いたそれを読んでそういう風に感じたことは今までになかったので、「ああ、やっぱりこういう機会って大切にしなきゃいけないんだな」と改めて実感したというだけの話ではあるんですが。それはそれとして、後になってからその印象の意味について考えてみて、それを引き起こしている仕掛けに自覚的になれるのであれば、その指摘を受けたときにそもそも意外だとか新鮮だとかは思わないはずなので、結局のところ、どういった原理でそういう風に映っているのかは全然わからないのですけれど。まあ、創作物に対する感想なんて人それぞれなので、その意味に拘ることに理由があるのかといわれれば、それはもう全く無いわけで。ただ、一つ思ったこととして、自分の作詞のスタイルとして『自分の話しかしない』というのがあり、それはそれとして『自分の話だとは思わせない』というのもあり。持ち合わせていないものを表現することは自分にはできないので、歌詞に表われる嬉しいも悲しいも何にせよ、いつかどこかの自分が経験したものであることには違いがなくて。でも、それを直接的に書きたくないっていうか、自分の話としては話したくないっていうか。だって、それならわざわざ歌詞にしなくてもこのブログで、なんなら twitter でも事足りるわけで。だから、ごちゃ混ぜにするんですよね、よく。こう、表現しようとしている自分と同じような境遇にある、どこか遠くの世界の誰かを想像して、そのうえで書こうとするっていうか。それはその誰かの物語として描かれるものでは決してなくて、どこまで行ったところで自分の話でしかないんですが、なんていうか、その、自分の話のままで別の誰かの話にもなってくれればいいなあって感じの。『登場人物が書いた文章のようにみえる』という指摘は、そういう意味では自分の理想とするところの印象にとても近いというか。発言者の意図を自分が正確に汲み取れているかは限りなく微妙ですが、なんというか、自分は歌詞を書いていますけれど別に誰かに理解してほしいだとか、あるいは不特定多数の他人に何かしらの想いを伝えたいだとか、そういう考えはほとんどなくて(といっても、詞を書く人って大体そうじゃないのかなあと思いますが)、自分の言葉がそのままどこの世界にも存在しない誰かの言葉になってくれるのであれば、それはとっても素晴らしいことだなあって。自分はそういう風に思います。

 なんだろう。卒業式のことを何も覚えていないのも、中高時代の同級生とほとんど会えなくなって特に何とも思わないのも、それは当時の自分がその人たちのことを大切にしていなかったからなのだろうなと、これはもう本当、今更のように反省していることではあるんですが、それはそれとして、なんというか、そのことの意味をあまり解っていなかったのかなと思うこともあって。人間関係的な部分で自分にとって大きかったのはやっぱり彼なのですが、その全部をようやく飲み込んで、その瞬間になってようやく卒業式だとかなんだとかの意味が本当の意味で理解できたような気がして。今にして思えば些細なものから「いやいや、ラノベかよ」みたいな約束までいろいろあって、その全部がきっと叶わなくなってしまったとして。でもその全部が、だから一から十までまるっきりの嘘だったのかといえばそんなことは無かったなと思って。だから卒業式みたいなものって結局、そういったきっともう叶うことのない今日より先のすべてに対して、さよならを告げるために設けられている機会なんだろうなって。その『さよなら』があるからこそ、いまは遠く離れて簡単には会えなくなってしまったって大丈夫というか。だからこそ過去にも未来にも必要以上に囚われることはないというか。一言で言ってしまえば、だから前を向いて歩けるんだなーって、そんな感じのことをこの三ヵ月くらいはずっと考えています。

 今日と明日とで一月が終わりますが、来る二月は曲と絵の W 締切があり本当にヤバいことになっています。「まあ何とかなるやろ」の精神で一月中はずっと作曲に時間を割いていたのですが、絵の練習をあまりにも放置しすぎており、「本当になんとかなるのか……?」に段々シフトしてきています。なんともならなかったら埋めてください。

 

 

 

もう年末らしい


 年末って感覚、本当にありませんね、唐突ですけれど。なんていうか、なんだろうな。2020 年も今日で終わり、という意識はたしかにあるものの、だからどうしたんだ、的なサムシングもまたどこかにあるようなないような。ここでいう「だからどうしたんだ」は別に一年の終わりに対して逆張っているというわけではなくて、うまく言えませんけれど、「まあ、2020 年やり切った感あるしな」という印象から生えてきているそれのようでして、果たして本当にやり切ったのかと言われれば、そんなことは全くないような気がするものの、でもたしかにそんな感覚はあって。だからまあ、今になって 2020 年が終わりといわれても、「まあ、これだけのことをやったしな」みたいな、結構数の思い出が手元に残っていることを思えば、一年の終わりが差し迫っていることもそれはそれで当たり前といいますか、そういった意味での「だから、どうしたんだ」です。それはさておき、今日が 12 月 31 日であることは事実でして、つまり明日からは年が変わって 2021 年になるというわけです。自分は終わり人間なので年賀状の類を当然のように一切出しておらず(これになってからもうじき十年が経つ)(終焉)、そういった経緯からこの言葉を記す機会がほとんどなく、毎年 twitter に載せる程度のことしかしないのですが、せっかくこうして年末にブログを更新していることですし、ここに残しておこうと思います。本年はありがとうございました。来年もよろしくお願いしますね。

 とりあえず、今年初めて触れたものだったり始まったことだったりで、特に良かったと思うものについて書いていこうと思います。備忘録というわけでもありませんけれど、まあ、書いておけば忘れないので。

 あと、最後に『今年聴いて好きだった曲』みたいなのを列挙してあります。

 

Spotify
 まずこれ。ストリーミング系の音楽配信アプリなら何でもいいかと思いますが、自分の周り(作曲界隈周辺)で主に普及しているのは Spotify なので、自分もそちらへ流れていきました。今年の、たしか六月くらいだった気がするんですが、その辺りからプレミアムでの利用を始め、「どうして今まで触れてなかったんだ……?」という気持ちが凄まじかったことを覚えています。とはいえ、自分の音楽に対する向き合い方は『好きな曲を何度も繰り返し聴く』で、これはまあ音楽に限った話ではなく、小説やイラストなんかでも自分は気に入ったものを徹底的に分析したくなる側の人間で、だからってインプットをこなさなくてもよいというわけではないにせよ、どちらかといえば数をこなすよりは解像度を高めるほうに意識が向きがちな気がします。これは誇張表現ではなく、例えば BUMP の曲であれば自分は 1 曲あたり平均 200 回は聴いていると思うのですが、それでも曲を作るときにリファレンスとして聴き込む作業をしてみると新しい発見が幾つもあったり、「裏でこんな音鳴ってたの!?」みたいな。それは普段いかに音楽を雑に聴いているかという話ですけれど、そういったこともあって自分は『好きな曲を何度も繰り返し聴く』のが好きだったりします。聴けば聴くほど解像度が上がっていくのが楽しいっていうか、段々と色んな音に耳が向かうようになっていくのが好きなんですよね。何の話だって話ですけれど、だからまあ、Spotify みたいなストリーミング系は性質上自分にあまり向いていないんですよ。それが、ではどうして始めて良かったものたりえるのかといえば、以下のような理由からです。

 

〇 Recommend

 

 Spotify には(他のサービスでもあるかもしれませんが)共用プレイリスト機能があって、簡単に言えば、リンクを知っている全ユーザーが各々勝手に編集することのできるプレイリストを作ることができます。これがもうめちゃくちゃに良くて、なにかというと、自分の知っている音楽を他人に勧めるのってちょっとハードルが高いよなーと思うことが自分はままあって、本当に気の知れている相手なんかには twitter の DM とかで「聴け!!!!!!!!」と一言送り付けるんですが、でも、知り合ったばかりの相手だとか、付き合い始めて日の長い相手でも音楽の好みがよく分からなかったりだとか、「そういう人に音楽を勧めるのって難しくね?」という気持ちがあって。いや別に自分は誰かに音楽を布教したいだとか思うことはほとんどなく、良い曲を見つけたら twitter の TL に「良い~~~~~~~~」とか書いて放流するだけなんですが、だから逆で、自分が教えてほしいんですよね、良い音楽を。先に書いたように、自分は新規開拓ということをあまりしない(できない)人間で、だからといって自分の知らない音楽に無関心というわけでもなくて、そこで折り合いをつけるにはどうしたらいいかと考えて、「だったら、自分の知らない音楽を知っている人から教えてもらえばいいじゃん」っていう。そういった自分勝手な願望を叶えてくれるのが上記の Recommend 機能です。これがもう本当に素晴らしくて、自分の中で特に大きかったのは『三月のパンタシア』ですけれど、ほかにも古 J-POP、クラシック、ボカロ、声優、地下ドルとあらゆる楽曲群が集約され、おかげさまで自分の『お気に入りの曲』リストはかなり潤っています。本当にありがとうございます。Recommend は年中無休で受け付けていますので、「これ!!!!! 良いから聴け!!!!!!!!!」というのがもしあれば、いつでもよいので上のプレイリストへ突っ込んでおいてください。気が付いたタイミングで聴きます。

 

〇 V アフター
 今年一良かったものの一つ。所属している作曲サークルで週2回ある例会の後に催されていた企画ですが、各人が持ち寄った GOOD MUSIC を駄弁りながら聴くという、言ってしまえばそれだけのものでした(代表はお疲れ様です、本当に)。なんか、毎回二、三時間ほど行われていて、音楽的な話題が飛び交うこともあればそれでないこともありという感じでしたが、これが本当に有意義な時間で、むしろ「どうして今までなかったんだ?」と思ってしまうくらいに。会員たちの好みの一端を知ることができるということもあるのですが、それ以上に「いや、自分これ好きなんだが?!」みたいな音楽に期せずして出会うことができるというのが個人的には大きくて、Spotify のお気に入りの曲リストに入っているのは、さっきの Recommend とこの V アフターで知った曲がほとんどというくらいです。今年一年で確実に好きな音楽の幅が広がったな~という感覚があって、それまでも別に好きじゃなかったというわけではなく、単に知らなかっただけなんですが。というより、会員たちの dig 具合が本当に凄まじくて、「みんな、めっちゃ音楽聴いてるやん……」と戦々恐々とするばかりの 2020 年でした。いや、本当に。その恩恵に自分は授かりまくっている身なので、感謝の念しかありません。

 

〇 絵
 これは今年の末も末、12 月に入ってから始めたことですが、一応今年に始めたものであることには変わりないので書いておきます(描いた絵を上げるだけのアカウントも実はある:@1k88P)。自分の手元にはあとちょっとで二桁諭吉に届くというくらいの液タブが鎮座していて、それがいつ頃からのことかといえばなんと二年前からです。その間、まったく有効活用させることができていなかったのですが、今年の 12 月になって何を思ったのか急に「絵が上手くなりたい!!!!!!」と思い始めて。いや、一応理由めいたものがあるにはあって、それは今年の 9 月、所属サークルのライブイベントへ出演した際、自分は少々特殊な形式でやらせてもらうことにしたのですが、そのときに思ったのが「絵が描けたらもっと上手くやれたのにな~」ということで。曲を作って、ちょっとした話を書いて、ボイチェンができるので音声も当てて、……というところまでは完璧だったんですが、立ち絵や背景も欲しいなと思って。でも、当時の自分からすると背景らしき何かを生成するのが限界だったということがあり、結局はスマホのカメラロールに眠っていたエモ写真を引っ張り出してくることで及第点としたのですが、やっぱりどうせなら全部作りたかったよな~という気持ちはたしかにあって、それがついに爆発したのが今年の 12 月だったというわけです。着火剤になったのは『さいとうなおき』氏と『魔王マグロナ』氏のお二人方ですけれど、後者に関してはボイチェンの着火剤にもなっていたりするので、氏の存在を知れたのも今年のターニングポイントの一つではあったのかな、と思います。「とりあえず、100 枚描いてみたら多少は上手くなるかな」という目論見があり、もちろん絵の分析や勉強と同時並行ですることになりますけれど、ひとまずの目標値をそこに設定していて、とはいえこのペースだと来年になっても終わっていなさそう(まだ 6 枚しか描いていない)ですが、まあ大学生活はあと二年残されているので気楽に続けようと思います。……あと、「手描き MV を作るぞ!」みたいなことを言ってしまったので、それも実現できるように頑張ります。実現できるとは限りませんが……。

※これはダイマの類ではなく、本当に有益な情報なのでここに記しておくのですが、「絵の勉強がしたい!」という人は以下の再生リストを片っ端からみてゆくとよいです。めちゃくちゃ勉強になります。

www.youtube.com

 

 

 なんか、書き始めてから思いのほか時間が経ってしまっていたので、あとは今年聴いて好きだった曲なんかを適当に列挙して終わろうと思います。年末にもなって雑。

 ・スパークル - movie ver. / RADWIMPS

 何で今更?(映画で聴いたはずで、アルバムも持っていたのに、今年になって良さを再認識した) 

 

・Wylin - Original Mix / Cesqeaux

  今年一番聴いた Jersey Club。

 

・bath room_ / Maison book girl

  七拍子を感じさせないアレンジとメロディの不思議感が好き。

 

 ・アルファルド / sora tob sakana

 「自分ってポストロックが好きなのか」と気づかせてくれたのが sora tob sakana

 

 ・私たちはまだその春を知らない / AiRBLUE

  2020 年に聴いたコンテンツ楽曲の中では一番好みでした。

 

・Awakening / Betwixt & Between

  後輩に教えてもらった曲。めちゃくちゃ良かった。

 

・透明ガール / NONA REEVES

  Recommend から。最高純度の夏。

 

・キリフダ / PENGUIN RESEARCH

  展開力の鬼。それでいてキャッチーさがまるで損なわれていないのが本当に凄い。

 

 ・逆さまのLady / 三月のパンタシア

  『青春なんていらないわ』、『サイレン』と知れば知るほどに良を更新していった三月のパンタシアですが、自分の中ではこれが残りました。

 

・いただきバベル (Prod. ケンモチヒデフミ) / 黒鉄たま (CV: 秋奈)

 電音部の曲ではいまのところ一番好きです。電音部という括りを外しても相当に好き。

 

・失礼しますが、RIP♡ / Mori Calliope

 ここらへんで「自分って普通にラップ系の曲好きだな?」と思い始めました( PsyTrance と同じ匂いを感じている)。

 

・夜に駆ける / YOASOBI

 曲の存在を知ってからおよそ半年ほどちゃんと聴いてなかったんですが、もう、めちゃくちゃに好きでした。二番の B メロからの流れとかが。

 

・キボウだらけのEVERYDAY / フルーツタルト

  曲も歌詞も楽しくて好き(今期のアニメだったみたいですが、アニメのほうは未履修です……)。

 

 ・GETCHA! (feat. 初音ミク & GUMI) / Giga, KIRA

  今年一番好きだったボカロ曲です。

 

・mix juiceのいうとおり / UNISON SQUARE GARDEN

  今年の初め頃に聴いていたはずなのですが、サークルの忘年会時に良さを再認識し、おかげで 12 月中はずっと UNISON SQUARE GARDEN でした。この曲のおかげで、ギターを弾く際に Vm をすんなり抑えられるようになったという裏話もあります、実は。

 

・Soda Ritual / RefraQ

  めちゃくちゃ好き(このアルバム自体が相当良かった)。こういうのをもっと聴きたい。

 

 ・Ego On A Leash / Exode Vs Dustvoxx

soundcloud.com

 𝑽𝒆𝒓𝒚 𝑮𝒐𝒐𝒅 𝑭𝒓𝒆𝒏𝒄𝒉𝒄𝒐𝒓𝒆......

 

・And Then I Woke Up / Owsey

soundcloud.com

 これになりたい 2021。めちゃ良。

 

 

 こんな感じで。来年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 この世には二種類の嘘があるという話、自分はそれこそが紛れもない嘘ではないかと考える側の人間でして。具体的には『自分のための嘘』と『他人のための嘘』があるという話ですけれど、前者は例えば見栄や欲などから生じる『良くないもの』で、一方の後者はといえば「思いやり」のような感情から生じる、見方によっては『良いもの』と扱われることがしばしば。でも、それって何だかおかしくないですか? 「思いやり」だとか「これはあなたのためを思って吐いた嘘だったんだよ」だとか、綺麗な言葉に誤魔化されそうになりますけれど、その人がいう『あなたのため』って本当に「あなた」の「ため」になることなのかなって。それって結局「これは巡り巡ってあの人のためになる」って決めつけてるだけなんじゃないかって、そんな風に思うことがあって。もちろん、全部が全部そうだとは言いませんし、思いませんけれど、でもそういうケースも結構多いんじゃないかって思うことがあって。だって、その『他人のための嘘』が嘘だったと知ったとき、その嘘を吐かれた相手は傷つくかもしれないじゃないですか。それがその人の為だって、本当にそう断言できるのかなって思うことがあって。たとえば何かその誰かにとって不都合な事実があって、あるいは酷な真実があって、その存在を知らせないために入念な嘘で覆い隠すというケースがあるかもしれませんけれど、それを『他人のための嘘』と呼んでいいのは、その嘘を吐かれた側の人だけだと思うんです。なんていうか、自分の吐いた嘘が『自分のため』なのか『他人のため』なのかなんて、自分じゃ判断がつかなくないですか? というか、『他人のため』だってことにしておいたほうが精神的には楽ですし、自己の体裁も保てますし、そうやって僕らは楽なほうへ楽なほうへと、無意識的に流されていってしまうんじゃないかって疑念が強くあって。だからこそ、『他人のための嘘』というものの存在に懐疑的になってしまうといいますか。嘘を本当だと信じていた人が「ああ、これは私のために生まれた嘘だったんだな」と認めた瞬間に限って、その嘘は紛れもない『他人のための嘘』になれるんじゃないかなって。だから、「これはあなたのためを思って吐いた嘘だったんだよ」なんて言葉は嘘っぽいなって、そんな風に思ったり思わなかったりします。

 

 

 かく言う自分も大概嘘つきなんですが、おおよそ『自分のための嘘』ばかりだなと思っていて。なんていうか、しょうもないプライドのような何かにせっつかれて飛び出したり飛び出さなかったり、自己保身というか、いやもう、本当につまらない人間だと評してもらって全く構わないのですけれど……。それでも、なんだろ。もう既にかなり嘘っぽいので話半分に読んでもらいたいんですが、肝心なところでは絶対に嘘を吐かないようにするという自戒みたいな法則を持ってはいて。たとえば『思ってもいないことは言わない』みたいな。自分はもしかすると何でもかんでも「良い」と言っているようにみえているかもしれませんけれど、自分の中に一応の基準めいたものはあって、それは『良いと思わないものに対して「良い」と言わない』、つまり『思ってもいないことは言わない』です。他にも、同意しかねる意見に同意を求められたところで自分は決して同意しませんし、それでもその意見の中に僅かでも共感できる部分があれば、その一部に関してだけは賛同したりするかもしれません。そんな感じで、言語化できるものもできないものも、それはもう膨大な数のルールを意識的なり無意識的なりに読み込みつつ、常日頃からそのように振る舞っているというつもりではあります。うまくいっているかはさておき。

 

 

 最近、と言ってもそれなりに過ぎた事ですが、結構大きな嘘を吐いてしまって。それも、とても重大な部分で。というところから話は始まるんですが、なんだろうな、その瞬間の自分はそれを『相手のための嘘』だと考えていたんです。先述の通り、自分なりのルールを一応持ってはいるので、その行為に対してそれなりの抵抗はあったものの、「こればっかりは仕方ない」と諦めて。でも、なんていうか、それからしばらく経って「本当に『相手のための嘘』だったのか?」と考え始めて、それを今日の今日までずっと引き摺っているんですが。思えば、やりようは他にいくらでもあったよな、って。別に嘘を吐く必要性なんてどこにもなくって、ただ一言「ごめんなさい」と言えば済む話だったのに。その願いが叶わない理由を説明するのが面倒で、嫌で、怖くて、そういった全部から逃げるために『相手のための嘘』って誤魔化しただけだったんじゃないかって。たとえどんなにしんどくても、あるいはそれが偽物のように思えても、なるべく多くの言葉を尽くして自分の立場を伝えることが誠実な在り方だったような気がしていて。だったような、というか多分そうで。純粋に怖かったという理由はあるんですが、それにしても、嘘で応えるのはあんまりだろうと、頭が冷える頃には思い至っていて。時すでに遅しなんですが。会話をするたびに「自分はこの人に嘘を吐いたんだ」って感覚が湧き上がってくるような、どの面下げて喋ってんだよ、みたいな。冒頭に書いたような諸々が一気に降りかかってくる感じの。だったらさっさと謝れよって、それはもう本当にそうで、でも、それが嘘だと分かったら相手は絶対に傷つくだろうからって、これもまた結局のところ自分可愛さに逃げているだけですけれど、なんかもう、こんなことを長々と書いてる暇があるんなら今すぐ謝りに行けよと思うのに、それさえできない自分って何なんだろうなって感じで。何なんだろうなって思いながらこれを書いています、いま。せめて身近にいてくれる人くらいには誠実であれるようにとか、どの口が言ってんだって。本当に。

 

 

 

20201205

 

 他人を傷つけてしまうような言葉を文字にしてしまうのは良くないことだって、それは誰だって知っていることだろうと思うんですが、自分は何かを強く肯定するような言葉も場合によっては文字にすべきではないんじゃないかなって、そんな風に思うことがあります。ああいや、『すべきではない』という表現はまるで正しくなくて、正確には『したくない』なんですが。ありがとうとか、嬉しいとか、本心からそう思っていればいるほど文字にはしたくないというか。なんだろう、別に恥ずかしがってるってわけじゃないんですよ。いや、恥ずかしいですけど。人に感謝を伝えるのはきっと多くの場合で良いことだろうし、嬉しいだってそう。好きだって同じ。でも、なんか、文字にしちゃったら途端に全部が嘘になってしまうような気がしていて。活字は何も伝えてくれないっていうか、その文字列をみた相手の心理状態に依存してしまうような、要するに自分は文字を信用してないって話なんですけれど。どれだけ強く想っていたとしたって、あるいはそれが真っ赤な嘘だったとしたって、いずれにせよ表示される文字は画一的なそれのわけで。誤解されたくないし、させたくないし、だからこそ、その想いが強ければ強いだけ、文字なんかじゃなく直接、声で、正面から、相手に伝えたほうが良いのかなって。割とそんな風に思ったり思わなかったり。

 みたいな注釈を大量に添えないと、感謝の言葉とかって文字に直しづらいっていうか。これでも全然足りないと思いますけれど、それにしたって長ったらしい前置きをいつまでも続けるというわけにもいかないのでいい加減にって感じです。僕の曲に投票してくれた方々、本当にありがとうございました。発表の際にも言ったと思いますけれど、とても嬉しかったです(ここで言ってどうなるんだって気もしますけれど、ここくらいしか改めて言う場所がなかったので)。嬉しいの気持ちがカンストして今日一日、何も手につきませんでした、マジで。Twitterでも当日のテンション任せで言及しましたけれど、まさか五曲も選んでもらえるとは思っていなかったので本当に嬉しかったです。

 

 

 自分の曲について話せることは無限にあるということが一般に知られていて、これまで散々書いてきたにもかかわらず、その実、言っていないことは無数にあったりなかったりします(誰でもそうだと思う)。昨日の夜からあの五曲について自分の中で振り返ったり振り返らなかったりして、せっかくだしというわけではないですけれど、少しくらい書いてしまってもいいのかなって、そんな風に思いました。もう投票は終わったことですし、何を書いても余計な付加情報にはならないだろうという、そういうアレもあります。なので、以下はネタバレのオンパレードになります。「作者が自分の作品について語るのは良くないこと!」と叫んでいる数年前の自分を黙殺しつつ、つらつらと書ける範囲で書いてみようと思います(だいたいが歌詞の話になると思いますけれど)。

 

 

〇 想造世界のプレリュード / Cloverteller

www.nicovideo.jp

 霧四面体さんとの合作です。作詞・作曲・編曲の全部で両者が関わっています。月吉 162 号収録で、自分が三回生の五月ですね。Cloverteller 名義ではこれのひとつ前に『終末的存在仮説』という曲をやらせてもらっていて、「もう一回やりたい!」と自分が言い始めたところから生えてきた楽曲です。自分が声を掛けるや否や、向こうのほうからメロディの案が三つほど送られてきて、「爆速?」と思いつつ聴き比べをし、「これだ!」と感じたメロディが実際に当楽曲のサビフレーズとして採用されました。自分は A,B メロのフレーズを作ったりしたんですが、歌モノを合作するにあたって自分でフレーズを組んだのは初めて(それまではすべて相手に任せていた)だったので、「これでいいのか? 本当に? このサビの良さを損なっちゃったりしない?」と内心慄きつつ DAW に向き合っていたのを覚えています。

 歌詞について。この曲の制作に取り掛かる少し前、自分が二回生の一一月とか、あるいはそのもう少し後だったかもしれませんけれど、とある繋がりで接点を持つことになった一人の女の子がいて。相手は自分と同年代で、別に知り合いでもなんでもなかったんですが、様々な理由から将来の話をしてくれることが何度かありました。将来の話、噛み砕いていえば夢だったり目標だったりするわけですけれど、そういった話をするときの彼女は心底楽しそうで、「ああ、それが本当に好きなんだろうな」って分かろうとしなくても分かってしまうくらいに。でも、結論から言ってしまえば、彼女はその夢を追いかけるのを諦めてしまったみたいで。といっても、ある日を境に一度も会わなくなってしまったので、本当に諦めてしまったのか、あるいは別の道を模索することに決めたのか、結末の詳細までは自分には分からなかったんですが、仮に前者だったとしたらそれはとても悲しいなって。彼女じゃなくて、自分が。全力で追いかけ続けたらいつかは叶うなんていうのは真っ赤な嘘ですし、だから諦めたくなくたって諦めなきゃいけないことってそれこそ無数にあると思うんですが、でも、そんな彼女に対して自分にできることは何かなかったのかなって。いま振り返ってみても『何もなかった』という当時の結論とは違わないんですが、「でも、だけど……」って気持ちがずっとあって。合作をするにあたっては先述の通りにサビのフレーズが先に決まって、該当部分の歌詞も予め決まっていたんですが、そうして送られてきたテキストを目にした瞬間に当時のことがフラッシュバックして、そういった諸々が形になった(なってしまった)のがあの歌詞だったりします(向こうにそんな意図は全くなかったと思うんですが)。

 才能とか環境とか、周囲の評価とか世間との乖離とか、あるいは単に時間とか。何かを諦めてしまう理由はいくらでも転がっているものだと思うんですが、そういったしがらみに囚われすぎないで、もっとシンプルに『好き』って気持ちだけで向き合えたらなって。それがとても難しいことだというのは理解しているつもりで、だけど、それでも自分はそれが最も大切なことの一つだと信じていたりします。

 

 

〇 ここにいるよ。 / 一葉

www.nicovideo.jp

 月吉 164 号収録。自分が三回生の九月に提出した曲です。この曲、完成形こそはバンドサウンドですけれど、原案時点では歌モノハードコアみたいな感じになる予定だったんですよね、実は。イントロや間奏で鳴っているシンセ(スパソ)にその面影が残っていたりいなかったりするんですが、頭の中にある構想をいざアウトプットせんとした段階で、「いや、これ無理じゃね?」となってしまい、そこから現状の形に落ち着くまでには結構な苦労があったように思います。自分は毎回曲を作るときに「なにか一つは新しいことをやろう」という意識を持っているのですが、この曲では『有名な進行に安易に頼らない』を実践しています(ド頭で 4536 を鳴らしておきながら)。それまでは「なんとなく」程度の理由で 6451 だったり 6415 ありきの曲作りをしていたりしたのですが、そうでなくて『何を表現したいのか』を最優先にして進行を組もうということを意識し始めたのが、ちょうどこの曲辺りからでした。

 歌詞について。この曲を作っていた頃、とても付き合いの長い友人の一人が絶賛就活中でして、一方の自分はといえば無駄に長い夏休みへ差し掛からんとしているところでした。先述の就活中だったという事実はどうでもよく、それよりむしろ『来年度以降、簡単には会えなくなる』ということこそが当時の自分にとっては重要で、それ自体は不可避な未来であり良いも悪いも好きも嫌いも何もなかったものの、高校生の頃には当たり前のように顔をあわせることができていたのに、こんなことでさえ難しくなっていくんだなあって、そんな感じのことを考えていて。自分は作曲サークルに所属しているわけなので、その夏休みにも当然曲を作ろうと考えていたわけですが、そんな状況にあったせいか思考は必然的にそちらへと引きずられていくわけで。そもそも自分は高校生の頃から作曲をしていますけれど、いまだって勿論のこと、当時なんて超がつくほどの初心者だったわけです。なにせ、自分には楽器の経験なんてものはなく、スケール(調)というものが存在するということすら知らないようなレベルからのスタートだったので。そんな自分がどうして作曲なんてものを続けてこられたのか、と考えてみたときに、それは勿論『それが好きだったから』というのが真っ先に思い浮かぶのですけれど、一方で『聴いてくれる人がいたから』という理由も結構大きかったような気がしていて、そして、その付き合いの長い友人がそうだったのでした。自分は作曲を始めた頃からずっと「歌モノを作りたい!」と言っていて、そのことについて相手はいつも「楽しみにしてる」と言ってくれていたな、というのをふと思い出して。「だったらもうやるしかない!」と思い立ち、初音ミクを購入し、そしてその友人と自分との二人だけの曲を作らんとしてついに出来上がったのが『ここにいるよ。』でした。『散々だって泣いていた いつかの私を 遠くの向こう側 君がみつけたの』辺りなんかは露骨かなと思います。当時の自分が作っていた拙い音楽に対して、その友人がそれでも言ってくれた「好き」の一言がなければ、いまの自分がどこにいたのかなんて見当もつかないなって、そういう気持ちが当時はものすごく強くあったのです(いまもですが)。

 この曲の一人称が『私』になっている理由については諸説ありますが、書こうとしているものが自分に寄りすぎている言葉だからこそ、むしろ『自分』の影を排除したかったという気持ちはあるかもしれません。

 

 

〇 Tarnished Re;incarnation / Adlucem

 na’am さんとの合作です。月吉 165 号収録ですが、この曲を作ったのは自分が二回生のときの八月です。作詞と作曲のほとんどが相手側、編曲と作曲の一部が自分、という割り振りでした。「合作しましょう!」と言い出したのは自分のほうで、しばらくして向こうのほうから原案としてこの曲の midi データが送られてきたんですが、それを開いて聴いた瞬間の感動といえばそれはもうという感じで。具体的には「かっけえ!!!!!!」という感じ。当時の自分はまだ音ゲー出身の延長線上という曲を多く作っていたので、向こうからも「音ゲー曲っぽい感じにしたい」という要望があり、自分としてはもう「言われなくとも」という感じの気持ちですらあって、それぐらい midi 時点でバリバリに良かったので……。この曲を境に自分は所謂『音ゲーっぽい曲』をあまり作らなくなってしまったのですけれど、それは作りたい曲調の遷移という側面もあり、一方で、この曲を作ったことによって『高校生の頃の自分が好きだったような音ゲーっぽい曲』に対して自分の中で一先ずの決着がついたという側面もあって、それはつまり満足したって話なんですが。なので、この曲が大吉の収録曲に選ばれたというのはとても嬉しかったです。いつかまたピアノアルペジオピロピロソングを作りたいという欲求だけはありますが、実現するかなあ……。

 この曲の歌詞についてはノータッチなので、自分から話せることは何もありません。相方から詳細を聞いたことも(記憶の限りでは)あまりないような気がしているので、いつか訊く機会があればいいなという気持ちです。

 

 

〇 アイ / 一葉

youtu.be

 月吉 168 号収録。自分が四回生の五月に提出した曲です。この曲は前半の三分半近くずっと鳴っているギターリフがそもそも初めにあって、ギターで遊んでいるときに偶然できたフレーズだったんですが、「どこかで使いたいな~」と思っているうちにこういう曲になりました。……という話は以前にも書きましたね。もう少し別の話をすることにすれば、こんな感じに『ギターリフとボ-カルと』という編成でスタートし、かつ、あまり盛り上がりのない曲になりそうな予感があったので、いっそ開き直ってやろうという感じの気持ちになって、時計の秒針だったりハイハットだったりループ音だったりピアノだったりが、各々勝手なリズムで終始鳴り続けるという感じになり。また、高校生の頃の自分がこういった作曲の仕方(あまり多くの音を使わず、同じループ進行を一曲中でずっと使いまわす)をやっていたということもあって、「久しぶりにそういう風に作ってみるのもいいかも」という気持ちから、当時の自分が synth1 で作った音なんかを引っ張ってきたりもしつつ、結果的にこういった形で落ち着くこととなりました。

 歌詞について。世界が広がったように感じる瞬間っていくつもあって、たとえば小学校から中学校へ、中学校から高校へ、そして高校から大学へと進学したばかりの頃なんかは分かりやすくそうで、ほかには、自分とは全く異なった考え方をする誰かに出会ったときなんかもそうだと思います。そういった『それまでは知らなかった領域』に踏み込んだ瞬間ってわくわくしている自分と怖がってる自分とが半々で共存しているような気がしていて、なんだろう、小さかった頃に歩いた夜道みたいな。そういったときに誰かが隣にいてくれると安心するというのは別におかしなことではないはずで、夜道を歩くときにはいつもその誰かがいてくれるから、だから、いつしかその誰かの存在を当たり前と思ってしまうようになっていって、「ありがとう」とか何だとか、それよりももっと当たり前のことを何も伝えられないまま、その誰かはどこか遠くへいなくなってしまったりして。そうして初めて、「自分はこんなにも助けられていたんだ」とか「もっといろんなことを伝えればよかった」とか、今更もう言えやしない言葉を幾つも幾つも見つけたりして、探したりして、後悔して。『言えない 想いを閉じ込めた』に始まるこの唄は、だからそういったどこにでも転がっているような別れについて書いた曲でした。サビにある『魔法のない世界』というフレーズは、だから結局、『特別な誰かが当たり前のように隣にいる今』という魔法が消えてしまった後の世界、という意味だったわけです。ただ注釈をつけておくとするならば、一人称であるところの『私』はきっと、その別れをまるっきり否定的に捉えているというわけではなくて、サビ以前に歌われているような思いを『私』は散々にしたのでしょうけれど、しかし結論に述べられているのは、そんな世界だって『私はきっと愛せるよ』という言葉ですから。

『私』という一人称が用いられている理由は、やっぱり先述のものと同様だと思います。『自分』の影を極力出したくなかったんですよね、曲中に。そういう意味で『アイ』と『ここにいるよ。』は割とワンセットというか、それはまあ『自分の中ではそう』というだけの話ですけれど。なので、この二曲が揃って収録される運びになったというのは、完全にただの偶然とはいえ、それでも嬉しいなと思いますし、ありがたいことだなと思います。

 

 

〇 未完成の春 / 一葉

youtu.be

 正確には『(2020 Band ver.)』という注意書きがつきますが、それはさておき。月吉 170 号収録で、自分が四回生の九月に提出した曲です(原曲は三回生の一一月に提出)。自分はこの曲(原曲のほう)を結構気に入っていたという裏設定があり、技術力などの面から当時は叶わなかったバンドサウンドをいよいよやってみようと思い立ち、九月ライブとは何の関係もなしに制作されたアレンジバージョンです。……という話は以前に書いた気がします。編曲で意識した点といえば「実際にバンドでやったら絶対に楽しくなるような曲にしよう!」というのがあります。2サビ終わりから落ちてもう一度サビへ戻るまでの流れなんかは特にそうですね。ギターも、ベースも、ドラムスも、キーボードも、全員が楽しく演奏できるような、あるいはそういう光景が思い浮かぶような、そんな感じの曲に仕上げようというのは相当強く意識していました(最後サビ前のキーボードが超お気に入り)。

 歌詞について。この曲はそもそも、三回生当時の自分が誘っていただいたバンド企画『Catch the Youth』を受けて作られたものでした。その企画のために書いたというわけではなくて、その企画が(というか大人数で音楽をするという行為、つまりバンドが)あまりにも楽しかったから、その感動を忘れたくないと思って作ったものです。だから、なんていうか、有体に言えば、歌詞の内容はもう全部それにまつわることでしかないっていうか、そんな風には見えないとしても、自分はそういうつもりで書いていました。『十月の教室の隅っこで』が何故『十月』なのかといえば、それはバンド企画をやったのが九月末のことだったからですし、『雨の匂いに暗がりは沈む』の『雨』は何なのかといえば、この歌詞を書き始めた当日に雨が降っていたというだけの話で。『水影に残響音』の『水影』は水溜まりのことですけれど、実は『御影(通り)』、つまり自分が通学のために歩いている道のことを指していたりもしていて。『そっと口ずさんだ この唄が』は、出来上がったばかりでまだ歌詞のないフレーズを、小さく口ずさみながら歌詞を考えていたということ。二番 A メロの『失った青色を取り戻せ』は『Catch the Youth』の標語をちょっと変えてみただけ。『なんて馬鹿みたいな合言葉』と思っていたのは本当のこと。『でも だからこそ 好きになれたんだ』も本当のこと。『跨いだ平行線』は横断歩道、『一台分の距離』は自転車。練習のためのスタジオに徒歩でやってきていたのが自分だけで、自分と同じ方角へ帰る残りの人たちはみんな自転車に乗ってきていたから。『気にしないよ』は、「先に帰ってくれていい」と言った自分に対して返してくれた言葉。サビで唄われる『七つ星』は、あの企画に集まったのが自分を含めて七人だったから。なんていうか、そういう全部を忘れたくないなって思って、じゃあ全部を唄にしちゃえばいいんじゃないと思って、その結果として出来上がったのがこの曲です。

 僕はこの曲をとても気に入っていて、それはなんていうか、『表現したいことを最優先する』というのが一番上手くいった例かなと思っているからで。二番から急にバンドサウンドチックになるのとか。一番は自分ひとりだけの詞ですけれど、二番以降はそうじゃないし、九月のあの日だって、実際に唄っていたのは自分だったけれど、でもステージの上に立っていた全員で唄っているんだって感覚があの瞬間はたしかにあって。あと、サビの進行を実は『天体観測』と『ray』から引っ張ってきていたりだとか。なんだろ、そういったすべてを可能な限り落とし込めたというような気がしていて。なので、とてもお気に入りです。選ばれて嬉しいです、本当に。

 

 

 割と全部書いてしまったような、これでも書いていないことはまだまだたくさん残っていそうなという感じですけれど、こういう機会でもないと多分一生書かずにいただろうなというようなことばかりで、なんていうか、まあ、はい、なんていうかって感じですね。

 最後になりますけれど、もう一度だけ。自分の曲に投票してくださった方々(誰か知らないけれど)、本当にありがとうございました。マジで嬉しかったです。これを書いて「何も手につかねえ~」を一通り発散できたと思うので、明日からはまた作曲に向き合っていこうと思います。頑張るわよ。

 

 

 

20201113

 

 生きる理由って人それぞれだと思うんですが、他の人とこういう話をする機会は今となってはあまり多くないので、そういうわけでここに記しておこうと思います。なんか、単純に気になるんです。こういうの、考えない人は考えないのかもしれませんけれど、でも考える人は考えるじゃないですか。それはどっちがいいとか悪いとかって話じゃなくて、個々人の性格だったり周囲の環境だったりがそうさせるものであると自分は考えますけれど、ともかく、考える人は考えるでしょう。そちら側の人々ってどういった理由を答えにしているのかなって、そのことに興味があるというか知ってみたいというか。自分もそういうことを考えたり考えなかったりする側だと思いますけれど、しかしながら自分の持っている理由が全人類に普遍的なものだとは到底思えず、というかそもそも生きる理由なんて一意的に定まるようなものじゃないと思うんです(これは以前にも書いたけれど)。目的の方向性も規模の大小も様々でいいと思うし、世界平和のために生きている人がいれば、地元の商店街で人気のコロッケを食べるために生きている人がいてもいいだろうって話で、そこに善し悪しや貴賤なんて無いんじゃないかなって気がしていて。だからこそ、他人が何のために生きているのかというのを知りたい、聞いてみたいという欲求が結構強くあります(思えば、『他人のみている景色を知りたい』という欲求は昔から相当にあった)。それって多分、その人が一番大切にしているものだろうし、もしかしたら自分はその内容に全く微塵ほども共感できないかもしれませんけれど、ならばこそ、自分の世界には無い概念を理解しようとしてみたいと思ったり思わなかったりするわけです。

 

 これは自分の話ですけれど、純粋な興味として「どうして生きていくのかな」と考えていた頃があって、動機は伴わないものの「さっさと死ねばいいのにな」と考えていた頃もあって。後者については「どうして生きていくのかな」という疑問がずっと背後に付きまとっている状態というか、疑問っていうか強迫観念みたいな。実際に死のうとしたことなんて一度もないし、その具体策を考えようとしたことさえ皆無なんですが、だからこそ、そういったことを考えられない自分に対して「どうして」という問いが返ってくる、そんな時期があったようななかったようなという感じで。それはいわゆる希死念慮というやつですけれど、たったの四文字で片づけられるのはちょっと違うなと、そこを通りすぎてしまった今でもそう思う程度には真剣に考えていたように思います。これが仮に多くの人類の抱えている問題であったとしても、実の当事者になっているのは今ここにいる自分自身に他ならないわけで、「誰だってそうだよ」なんて的外れな指摘で何かが解決したり救われたりなんてことはないんです。他人からみたら些細な事でも、本人にとっては重大な事なんていくらでもあるわけで、「ちょっと違う」というのはそういう意味での言葉です。あの二年余りを『希死念慮』なんて言葉でサッと片づけられてしまったら、僕は多分怒ります。

 

 何故そのような話をしたのかというと、それは今日の帰り道のことなんですが、いつの間にか考え方が逆転しているな、ということに気がついたというのがあって。それがどういうことかと言うと、「どうして生きていくのかな」じゃなくて「だから生きていくのかな」という方向に思考がシフトしていたという意味で。いつ頃からそうなっていたのかはいまとなっては定かではありませんけれど、でも考えてみれば確かに、「どうして」なんて自問を繰り返す夜はとうの昔に来なくなりましたし、それよりはむしろ「だから」と感じる機会のほうがずっと多くなってきていたような気がします。所属サークルのライブの直後とか、自分の作品が認めてもらえたときとか、もっと身近なところでいえば夕暮れの空を見上げたときとか。たまたま端末を家に放置したまま外出したせいで写真が撮れなかったんですが、今日の夕焼け空はとても綺麗な色をしていて、そういうものに出会ったときに「だから生きていくのかな」って考えがどこからともなく浮かんできて、あの頃とはすっかり逆転しているなって。『離れていても空は繋がってる』なんてありがちなフレーズですけれど、それはどうしようもないくらいに嘘まみれの綺麗事であると同時に、やっぱり間違ってもいないんじゃないかと思う自分がいて。なんてこともない日の帰り道に空を見上げて、その向こう側に遠くの誰かを思い出すことができるなら、自分にとってそれはとても幸せなことで。その一瞬は生きる理由たり得るのかも、と思ったり思わなかったりした帰り道でした。This is 日記らしい日記(本当に?)。

 

 近況! 曲を作っています。12月中には公開できるように頑張ります。