今日と明日とで一月が終わりますが、来る二月は曲と絵の W 締切があり本当にヤバいことになっています。「まあ何とかなるやろ」の精神で一月中はずっと作曲に時間を割いていたのですが、絵の練習をあまりにも放置しすぎており、「本当になんとかなるのか……?」に段々シフトしてきています。なんともならなかったら埋めてください。
〇 V アフター 今年一良かったものの一つ。所属している作曲サークルで週2回ある例会の後に催されていた企画ですが、各人が持ち寄った GOOD MUSIC を駄弁りながら聴くという、言ってしまえばそれだけのものでした(代表はお疲れ様です、本当に)。なんか、毎回二、三時間ほど行われていて、音楽的な話題が飛び交うこともあればそれでないこともありという感じでしたが、これが本当に有意義な時間で、むしろ「どうして今までなかったんだ?」と思ってしまうくらいに。会員たちの好みの一端を知ることができるということもあるのですが、それ以上に「いや、自分これ好きなんだが?!」みたいな音楽に期せずして出会うことができるというのが個人的には大きくて、Spotify のお気に入りの曲リストに入っているのは、さっきの Recommend とこの V アフターで知った曲がほとんどというくらいです。今年一年で確実に好きな音楽の幅が広がったな~という感覚があって、それまでも別に好きじゃなかったというわけではなく、単に知らなかっただけなんですが。というより、会員たちの dig 具合が本当に凄まじくて、「みんな、めっちゃ音楽聴いてるやん……」と戦々恐々とするばかりの 2020 年でした。いや、本当に。その恩恵に自分は授かりまくっている身なので、感謝の念しかありません。
正確には『(2020 Band ver.)』という注意書きがつきますが、それはさておき。月吉 170 号収録で、自分が四回生の九月に提出した曲です(原曲は三回生の一一月に提出)。自分はこの曲(原曲のほう)を結構気に入っていたという裏設定があり、技術力などの面から当時は叶わなかったバンドサウンドをいよいよやってみようと思い立ち、九月ライブとは何の関係もなしに制作されたアレンジバージョンです。……という話は以前に書いた気がします。編曲で意識した点といえば「実際にバンドでやったら絶対に楽しくなるような曲にしよう!」というのがあります。2サビ終わりから落ちてもう一度サビへ戻るまでの流れなんかは特にそうですね。ギターも、ベースも、ドラムスも、キーボードも、全員が楽しく演奏できるような、あるいはそういう光景が思い浮かぶような、そんな感じの曲に仕上げようというのは相当強く意識していました(最後サビ前のキーボードが超お気に入り)。
歌詞について。この曲はそもそも、三回生当時の自分が誘っていただいたバンド企画『Catch the Youth』を受けて作られたものでした。その企画のために書いたというわけではなくて、その企画が(というか大人数で音楽をするという行為、つまりバンドが)あまりにも楽しかったから、その感動を忘れたくないと思って作ったものです。だから、なんていうか、有体に言えば、歌詞の内容はもう全部それにまつわることでしかないっていうか、そんな風には見えないとしても、自分はそういうつもりで書いていました。『十月の教室の隅っこで』が何故『十月』なのかといえば、それはバンド企画をやったのが九月末のことだったからですし、『雨の匂いに暗がりは沈む』の『雨』は何なのかといえば、この歌詞を書き始めた当日に雨が降っていたというだけの話で。『水影に残響音』の『水影』は水溜まりのことですけれど、実は『御影(通り)』、つまり自分が通学のために歩いている道のことを指していたりもしていて。『そっと口ずさんだ この唄が』は、出来上がったばかりでまだ歌詞のないフレーズを、小さく口ずさみながら歌詞を考えていたということ。二番 A メロの『失った青色を取り戻せ』は『Catch the Youth』の標語をちょっと変えてみただけ。『なんて馬鹿みたいな合言葉』と思っていたのは本当のこと。『でも だからこそ 好きになれたんだ』も本当のこと。『跨いだ平行線』は横断歩道、『一台分の距離』は自転車。練習のためのスタジオに徒歩でやってきていたのが自分だけで、自分と同じ方角へ帰る残りの人たちはみんな自転車に乗ってきていたから。『気にしないよ』は、「先に帰ってくれていい」と言った自分に対して返してくれた言葉。サビで唄われる『七つ星』は、あの企画に集まったのが自分を含めて七人だったから。なんていうか、そういう全部を忘れたくないなって思って、じゃあ全部を唄にしちゃえばいいんじゃないと思って、その結果として出来上がったのがこの曲です。
何故そのような話をしたのかというと、それは今日の帰り道のことなんですが、いつの間にか考え方が逆転しているな、ということに気がついたというのがあって。それがどういうことかと言うと、「どうして生きていくのかな」じゃなくて「だから生きていくのかな」という方向に思考がシフトしていたという意味で。いつ頃からそうなっていたのかはいまとなっては定かではありませんけれど、でも考えてみれば確かに、「どうして」なんて自問を繰り返す夜はとうの昔に来なくなりましたし、それよりはむしろ「だから」と感じる機会のほうがずっと多くなってきていたような気がします。所属サークルのライブの直後とか、自分の作品が認めてもらえたときとか、もっと身近なところでいえば夕暮れの空を見上げたときとか。たまたま端末を家に放置したまま外出したせいで写真が撮れなかったんですが、今日の夕焼け空はとても綺麗な色をしていて、そういうものに出会ったときに「だから生きていくのかな」って考えがどこからともなく浮かんできて、あの頃とはすっかり逆転しているなって。『離れていても空は繋がってる』なんてありがちなフレーズですけれど、それはどうしようもないくらいに嘘まみれの綺麗事であると同時に、やっぱり間違ってもいないんじゃないかと思う自分がいて。なんてこともない日の帰り道に空を見上げて、その向こう側に遠くの誰かを思い出すことができるなら、自分にとってそれはとても幸せなことで。その一瞬は生きる理由たり得るのかも、と思ったり思わなかったりした帰り道でした。This is 日記らしい日記(本当に?)。