20210316


 今回はかなり長いです( 8,000 字くらいあります)。お時間のある方だけ。

 

 

 これは真面目な話ですけれど、なんていうか、自分は他人のことに対して強い興味があるのと同時に、他人のことを心底どうでもいいとも思っていて。……という風に書くと間違いなく誤解を招くというか、言葉を額面通りに受け取られてしまいそうだなと思うのでより正確を期するとするならば、自分は本当の意味で他人を他人だとしか思っていなくって。それがたとえばどういうことかといえば、もはや笑っちゃうくらい、事あるごとに自分が引き合いに出してしまう例ですけれど、赤信号。自分はなるべく赤信号を守るようにしていて、守らないケースといえば赤信号を守らない誰かと一緒に歩いているときくらいですけれど、だからといって、赤信号を守らない人を目撃して「アイツはなってないなあ」だとか、そういうことは全く思わないっていうか。昔は、厳密に言えば高校生くらいの頃には、そういった、ともすれば未熟ともいえる思考を持ち合わせていたのですけれど、周囲の人々のおかげで多少は成長できたように思われる今の自分はそうではなくって。「自分が赤信号を守っているのは、自分がそうでありたいと思っているから。なら、そうとは思わない人たちが赤信号を破るのも勝手では?」と考えるのが今の自分であり、そういう意味で『他人を他人だとしか思っていない』、あるいは『自分と他人とを区別している』と言ってもよいですけれど、ともかく、以上が現在の僕がとっている基本的なスタンスになります。だからまあ、たとえば自分がある作品を好んでいたとして、一方でその作品を嫌っている人が仮にいたとしても、それはその人の勝手かなと思いますし。あまり正確でないような印象を受ける主義思想を強く信奉する人がいたとしても、それもその人の勝手かなと思いますし。いやもう、本当にどうでもいいっていうか、自分の信じる正しさに飽和した世界なんてきっと今以上に退屈なのだろうな、という漠然とした印象が僕にはあって。「これが正しい」と測るための定規の一つや二つ、当然のように僕だって持ち合わせているわけで、その正当性を信じていたいと思っているわけで。でも、だからこそ、その誰かが同様に持っている定規の正当性を否定したくはないというか。自分は正しいと思うからこそ、他人も正しいと思う。ああ、そうですね。これはいまタイピングをしながら浮かんできたフレーズですけれど、『自分は正しいと思うからこそ、他人も正しいと思う』。これが僕の考え方を簡潔に表現しているような気がします。正義に限らずとも絶対的なものなんて何一つもないと自分は思っていて、すべては相対的というか流動的というか、だからこそ、「自分が正しいと思っているものは、自分がそのように思っているからそうなのだ」と自分は考えていて。これだけ言葉を割けば誤解されることはないだろうと思いますけれど、それでも断っておくとするならば、それは『自分にとって都合の良いものだけを正義と定義する』という意味では決してなくて、『誰かにとっての正義を否定しないために、自分の抱えた正義もその程度のものでしかないのだと定義しておく』という意味です。もちろん、自分はこの考え方を他人に強要しようとは思いませんし、そもそもこの考え方が正しいとも思っていません。ただ、あくまで自分はこのようにして世界との折り合いをつけているという話であり、本来であればもっと多くの言葉を割いて説明をするべきですけれど、『他人を他人だとしか思っていない』をある程度丁寧に説明するとすれば、それはここまでの全て、ということになります。

 

 優しくされたいというか何というか、俗な言葉で表現するなら『愛されたい』になるのかもしれませんけれど、そういう感情を持っていたことが自分にもあって。今はそうでもないんですが、昔はそうでした。なんだろう、こういうことを自分で言うと思わず笑っちゃいますけれど、なんていうか、正義感が異様に強かったんですよね、以前の自分は。それこそさっき例に挙げた赤信号とか。「赤信号なんてたかが数分足を止めるだけで守れるのに、どうしてそれをしない人ばかりなのだろう」みたいなことを以前は考えていて、いや、これは完全に保身的になってしまっており、正直に告白するともう少し、あるいはもっと、文字に起こすことが憚られる程度には過激な思想をしていました。当時の自分を振り返ってみて、もちろん客観的になんて評価できませんけれど、むしろいっそ開き直って主観マシマシで評価しますけれど、当時の自分を僕は「別に、性格が悪かったわけではない」と思っていて。なんていうか、思い返してみるとただ単純に意味が分からなかっただけなんですよね。その、『簡単に守れることを守らない人の思考』みたいなものが。ただ、当時の自分は未熟だったというか幼かったというか、そこで自己を顧みることをしようとはせず、その原因を周囲に求めてしまったというか。そうなると行きつく先は最早一つしかなくて、それは『そういう奴らは頭が足りないから』という最悪の袋小路だけです。より最悪なことに、ここには『そのことが理解できている自分と比較して』という自分アゲのフレーズが隠されています。当時の自分はそのことに自覚的でしたが、それと同時にこれが正常な感情であるという風にも認識していました。だからまあ、一度この行き詰まりに来てしまえばもう最後というか手遅れというか、何故かといえば、自分一人だと絶対に気がつけないと思うんですよ、なんていうか、その迷路の脱出法のようなものに。いやまあ実際、気がつけなかったからこそそういう場所に迷い込んでしまっているわけで。そして、それ以上先へは進めなくなってしまったら今言ったような思考回路になってしまいがちというか、だって「これまでずっと考えてきたことが間違っていたのかも」なんて風に考えるのはきっとしんどいですし、逆説的ですけれど、自己を疑うような行為は基本的に自己を疑ったことのある人間だけが取ることのできる手段であって、普通は無意識的に避けてしまう一手のように自分は思うといいますか。ちょっとだけ疑ってみて、それで何かを成し遂げたような気になるだけなら至極簡単なことですけれど、いっそ死んでしまいたいというくらい徹底的に自分自身を疑ったことのある人はそれほど多くないはずで、なぜならそれはとても苦しいから。簡単な解決法が転がっていればそちらへ流されたくなるのが当然というか、それこそが罠であり、それに手を引かれた終着点があの最悪の袋小路ですが、要するに『何もかも他人が悪い』という風にしてしまったほうが気が楽で、気が楽っていうか当たり前のことだと思うんですよ、それが。だからこそ、「その事実を以て『性格が悪い』と評価したくはないな」と自分は思うわけで、当時の自分を「別に、性格が悪かったわけではない」と思うのはそういった理由からです。性格が悪かったわけではない、と思うだけで良い人とは到底思えませんし、友達になるなんて論外ですね。あんなどうしようもない奴と、それでも仲良くしてくれた当時の人々には本当に頭が上がりません。ありがとうございました。なんて、ここで言っても仕方ありませんけれど。

 

『愛されたい』の話に戻りますけれど、だからまあ、高校生くらいの自分はそういう風に考えていたというか、別に他者からの愛に飢えていたわけではなく、これはただイメージのしやすい表現に置き換えているだけですが、当時の自分が思っていたことにより近づけるのであれば、『認められたい』がそうなのかなと思います。これはあくまでかつての自分を改めて分析したことによる帰結というだけで、全人類のそれがそうという主張では全くありませんが、僕の場合、その『認められたい』という感情は先ほどの『そういう奴らは(そのことが理解できている自分と比較して)頭が足りないから』という思考と強く結びついていたように思います。どういうことかというと、つまり、「周りの人間と違って自分は正しいことをしているのに、誰も認めてくれない」ということです。当時の自分はこのように考えていましたが、今の自分が思うにこれには言葉が足りなくて、正確には「周りの人間と違って自分は正しいことをしている『はず』なのに、誰も認めてくれない」です。たとえば、そうですね。別に例は何でもいいのですが赤信号を引きずり回すことにすると、「どうして赤信号を平気で破る人がいるのだろう」という話題になったとして、「別に自動車の通りが少ないときは守らなくてもいいんじゃない?」といった誰かがいたとして、その誰かに対して腹を立てるだとか、もう本当にその程度のものです。しょうもね~と感じた人は、その気持ちを大切にしてください。当時の自分は本当に怒っていました、その程度のことで。……いや、「自動車がいないときは別に守らなくてもよいのでは」という主張は別に何もおかしくないといいますか、もちろん道徳だとか交通規則だとか、そういった類を参照元にするのであれば全くもって正しくないのですけれど、一方で理に適っているという意味では間違ってもいないわけで。ただ、当時の自分はそこを受け入れられなかったんですね。何故なら、その時にはもうすでに袋小路の中にいたので。「あいつらは正しくない。自分こそが正しいんだ」と思って歩いてきた道を疑えるような賢明さを、当時の自分は持ち合わせておらず、だから、自分が否定したようなものを肯定する誰かの言葉に腹を立てたり、あるいは拗ねたり。いやもう、昔の自分がどれほど愚かだったのかを挙げ始めるとキリがなく、流石に恥ずかしいのでそろそろ止めにしますけれど、だけどそれが事実で。そういうときに「どうして認められないんだ」みたいなことを思っていたわけです。今にして思えばそんなのは当たり前のことですが、当時の自分にとっては全く当たり前のことではありませんでした。

 

『認められたい』という欲求が解消されることは基本的になくて、これもまた自分のケースに限った話ですけれど、それがどうしてかといえば『そもそも自分が周囲の人間を認めていなかった』からです。己に肯定を与えるのは私でなく他人であり、その他人に対して穿った見方ばかりしていたのだからそれもまた必然というか。……いや、今でこそこうして冷静に俯瞰できていますけれど、当時は本当に分からなくって。承認欲求的なものって、そんな状況でも褒めてもらえたりすると一時的に消えたりするんですが、でもそれがなくなると途端に湧いてきたり。今の自分はそういった類の感情にほとんど無縁なので曖昧ですけれど、しかし当時を振り返ってみると確かそうで。『認められたい』という感情がおよそ消え去った今と当時とを比較してみて、果たして周囲の環境が変化したのだろうかと考えてみてもそんなことはなく、高校生だろうが大学生だろうが、赤信号を守る人は守るし、守らない人は守らない。大学近辺の歩道を歩いていると信号無視で突き抜けていく自転車なんて日常的に目撃しますし、その光景は高校生の頃から何も変わりなくて。その様を目にして「まあ、守らないのもその人の勝手だしな」と今の自分は考えるわけですけれど、だから何が変化したのかといえば、それは結局のところ環境ではなく自分自身でしかなくて。先の袋小路の例を引き継ぐのであれば、それはだから僕が迷路の外へ出たという、ただそれだけの話でしかなくて。迷路の中から見える景色も、迷路の外から見える景色も、両者は何一つもたがわない。変わったのは、その景色を観測している自分の(精神的な)状況。僕はかつての自分と今の自分とを比較して、そういう風に結論付けています。周囲は悪くなかった。環境は悪くなかった。世界は悪くなかった。ただ自分一人だけが悪かった。そういう話。

 

 袋小路という表現を採用したものの、当時の自分はそこがどうしようもない行き詰まりだとは一切認識しておらず、振り返ってみれば、むしろそれがゴールであるかのような気さえ覚えていたように思います。自分が全部正しくて、周りが全部間違っている。こうして文字に起こしてみると物凄く馬鹿っぽいですし、嘲笑を買っても致し方なしという感じですけれど、当時の自分は心の底からそのように考えており、そしてその真偽を疑うこともしませんでした、少なくとも高校生の間は。たかだか二〇とそこら程度の人間が人生を語るなんてと思われるかもしれませんが、そう短くもないこれまでの人生において、自分の価値観に何よりも強く影響を及ぼした出来事、いわゆるターニングポイント的なそれが大学への進学直後にあり、僕はその瞬間になって初めて自分の居場所を疑ったのです。そのことには、このブログにおいては何度も登場している彼が深く関与していて、というか自分と彼以外の誰一人も関係のない話ですけれど。具体的な話を一切したくないので抽象的な話で済ませることにしますが、高校生の頃、僕は彼のことがとても好きでした。それについては今も何ら変わりありませんけれど、なんというか、言葉通りの意味をすっかり越えて。なんというか、当時の自分と彼とは本当に考え方が合わなくって。向きが違うだとか平行線だとか、そういうのですらなく、いわゆるねじれの位置的な、どう足掻いても立体的に交われない場所に立っている感じの。だからこそなのかもしれませんけれど、彼と話をすることが当時の自分には本当に心地よくて。彼の言葉はいつだって自分の知らない、まったく新しい景色を教えてくれたから。自分が正しいと思い込んでいたものであっても、彼との対話によって否定的な結論が導かれたときには自然とそれを受け入れることができてしまったり。不思議ですけれど、本当にそんな感じで。今の自分はそれをよく『矯正』と表現したりしますが、それは言葉通りの意味で、「自分が全部正しくて、周りが全部間違っている」と信じて疑わなかった当時の自分に、袋小路からの脱出法を暗に示してくれていたのが、他の誰でもない彼でした。

 

 大学進学直後にあった出来事、というのは要約してしまえば彼との距離が遠くなってしまったことです。いや、実際のところ彼と自分との関係性は出会った当時から今に至るまでほとんど何も変化しておらず、強いて言うならお互いにもう高校生ではなくなってしまいましたけれど、でもまあその程度のもので、だから、より正確には『遠くなったように自分が感じてしまったこと』です。なんていうか、これも具体的な話をしても仕方がないので抽象的な話で済ませることにすると、だから、「自分が知らないだけで、もっと綺麗なものがあるのでは」と高校生当時の自分に思わせてくれたのが彼であって、しかしその彼は僕が大学へ進学するとほぼ同時にいなくなってしまって。灯りが完全に消えてしまった感じというか、なんだろうな、単純に怖くなったっていうか。当時の自分には彼の言葉を通して世界を理解しようとしていた部分さえあって、電灯、指標、太陽、なんだって構いませんけれど、そういうものが全部消えちゃったような気がして。たったそれだけのことが本当に怖くって。灯りを見失ったから、でも、だからこそ自分の現在地を確認しようとして、疑って、そうしてようやくその場所が行き止まりであることに気がついて。というのが事のあらましでした。だから、なんだろ、仮に彼が自分の隣にいてくれなかったとしたら、あるいは彼が当時の自分のことを否定してくれなかったとしたら、恐らく自分は今でもあの迷路の中にいたんじゃないかなって気がしていて。たぶん、そこが迷路であることすら気づいていないはずで。そういう意味で僕は彼の存在にとても感謝をしていますし、一人では決して脱出できていなかったのだろうなと思っています。どうでもいい補足をしておくと、彼とはいまも交流があり、ほとんど唯一と言ってもよいくらいですが、自分が心置きなく友人と呼ぶことのできる相手でもあります。 

 

 そこがどうしようもない袋小路であることに気がついたからと言って、じゃあすぐに抜け出すことができるのかといえば、そんなことはあるはずもなく。そこから先はもうずっと地獄というか、むしろそこから先のほうがずっと地獄というか。比喩を続けるのであれば、灯りもなしにゴールへ辿り着かんとする試みなわけですし、いってしまえば、形状の明かされていない迷路をスタートからゴールへ向かって歩くようなもので。まあ、実際の迷路では壁伝いに歩いていけば、時間を要するものの必ずゴールへ辿り着けるわけですが、果たして出口のようなものが存在するのかどうかも分からないという状況なわけで。当ブログにおいて 2018 年から 2019 年にかけて行われていたのは、何を隠そう、その手掛かりを探るためのものでした。実際、あの頃の記事には、いま以上に彼とのことについて書かれているはずです。自ずと読み返したりはしないので、あくまで記憶の限りですけれど。そのときの自分が彼とのことを再確認していたのは、いつかの自分が言っていたような気がしますけれど『自分のことを話すためには、彼の話を避けて通れない。そのくらい、彼の影響は大きい』からであって。なんだろう、明確な行き止まりこそが現在地であり、その先はなく、そこに立ち尽くしてもいられないと思ってしまったのなら、あとはもう来た道を引き返すしかないっていうか。それは単純な懐古では決してなくて、なんというか、袋小路へと行き当たってしまった過去の自分を否定しつつ、自己を再定義するための部品を拾い集めることに等しい行為というか。それが果たして出口に繋がっているのかどうかということはさておき、少なくともそれまでの自分とは別の指向性を持たなければ、また同じ行き止まりに立ち止まってしまうかもしれないし、そうなった場合、次も引き返すだけの余裕と覚悟が残っているかどうかも定かでないので。ああ、いやまあ、これだけ書いておいてなんですけれど「以前の自分はこんなにも苦労したんですよ~」という不幸自慢をしたいわけでは決してなく、別に同情されたいわけでも理解してほしいわけでもなく、ただ事実としてそうであるからそうと書いているだけです。あんまり深く考えずに、ノリで読んでください。

 

 現在使用しているテキストエディタ、文字数が自動でカウントされないんですよね。なので、ここに至るまでどのくらいの文字数を書いたのかはっきりとは分かりませんけれど、結局まあ要するに、かつての自分は『自分が全部正しくて、周りが全部間違っている』という考え方だったけれど、今の自分は『自分は正しいと思うからこそ、他人も正しいと思う』という考え方へ完全にシフトしている、というだけの話でした。なんだろ、最近、『自分の考えこそが絶対的に正しくて、それに沿わないものは全部ダメ』みたいな論調を目にする機会が多くって(もっとも、当人たちにそういった意図はないのかもしれませんが)、「昔の自分もそんな感じだったっけ……」と猛省する辺りに始まった思考でした。自戒の意味も込めて、文章として残しておこうかなと。かつての自分は本質的には彼に助けられる形でそこから抜け出せたので、自分もそういった誰かを助けることができたらいいのになと思いつつ、でもかつての自分がそうだったように、こういうのは結局、その個人が現在地の正体に対して自覚的にならなきゃ何の意味もなかったりして、なんだかなあって。彼は僕に地図の断片をくれはしたものの、手を引いて行き止まりから出口まで連れて行ってくれたというわけではなく、その最も辛く大変な部分は一人だけでやらないといけなかったりして。難しい。なんていうか、いや、もしかするとそれまでの自分がいた場所がゴールであって、あたかもゴールであるかのように思っている現在地こそが行き止まりであるという可能性も十二分にあって、そういうことを考えたりすることもあります。その可能性をすっかり忘れているというわけではないし、定期的に確認をしていけたらいいのかなとか。しかしまあ、自分の居場所がゴールであれ袋小路であれ、少なくとも僕はいま立っている場所から見える風景のほうがずっと好きで。いやまあ、本当にただそれだけのことでした。