コード進行について色々7

 

 およそ一年ぶりにコード進行の話を書くかという気持ちになったので書きます。それに伴って去年の自分が書いた諸々を読み返していたのですけれど、理解が相当に雑というか、いまだって十分な理解をもっているとは思えませんが、流石に一年以上勉強していると身に馴染んでくるのだなという感じでした。

 

 前回の記事はこちらです。

kazuha1221.hatenablog.com

 

 今回はコード進行の基本形について書きます。これは自分の話ですけれど、自分は本当に音感も楽器経験も無の状態から作曲を始めて、右も左も分からなかった当時「コード進行が色々あるのは分かるし、それぞれ響きが違うことも分かるけど、具体的には何がどう違うの」ということがよく分からなかったというのがあって。つまり「こういう曲を作りたい!」となったときに『どういう進行を使えばいいのか』ということなんですが、そういった動機もあり、自分用のまとめも兼ねてこれを書いています。話半分に読んでください。

 また、自分は Soundquest を参考に勉強したりしなかったりしているのですが、具体例が豊富かつ分かりやすいのでオススメです。

soundquest.jp

 具体例を結構用意したので、音楽理論を何も知らない人でも楽しんで読めるようになっていると思います(理論は自分もよく知らない)。

 ※注意:主にポップスを作りたい人向けです。

【2021/01/28追記】

 主に個人用としてまとめているものですが、各進行が用いられている楽曲を集めたプレイリストを追記しました。コードを調べたついでに更新していっている程度のものなので、サンプル数はそれほど多くありませんし、自分が普段聴いている音楽に偏っています。

 ブログ上に埋め込まれているリストは記事作成段階から更新されたりされなかったりするようなので、随時更新されていくであろうデータは、併せて記載されてあるリンク先へ飛んで閲覧してください

【2021/01/28追記ここまで】

 

 

〇 I – IV – V – VIm(1456進行)

 最初に扱うのはこの進行です。音楽的な用語でいえば I,VI はトニック、IV はサブドミナント、V はドミナントですが、用語自体はどうでもよく、緊張の度合いが(長調なら)I<VIm<IV<V の順に大きくなるという感じの理解をもっていればとりあえずは十分だと思います(緊張 is 何? という疑問がありますが、自分はもうそういう表現の一種として受け入れてしまいました)。I – IV – V – VIm なら『強い緩和』→『弱い緊張』→『強い緊張』→『弱い緩和』の順に展開が進むという感じで、一小節単位で切り替えるなら三小節目にアクセントが入るような作りになります。またループ頭が I による『強い緩和』から始まるので、穏やかな曲調を目指すときは向いてますね。

 『staple stable / 戦場ヶ原ひたぎ』はサビ冒頭の進行が、ちょうどいま話題にしている I – IV – V – VIm ですが、上で言っていたような緊張感の遷移が何となく分かってもらえると思います。I と V の上でソの音を叩くので力強さを伴ったサビになっています。

 

 

 以降、この I – IV – V – VIm を色々と組み替えることで、基本的なものから応用編まで、様々な進行を作っていくことを考えます。

 

 

〇 I/III – IV – V – VIm

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  まずは I が I/III と転回形になったバージョンです。I/III は I であることには変わりないので相変わらずの安定感を持ちますが、I のそれに比べると若干劣ります。少し踏み込んだ内容に触れると、一般にはベースがどこを鳴らすかによって上に乗っているメロや和音の性質が変化します(『 I という和音の上にある』という属性と『ミというベースの上にある』という属性が融合するイメージ)(ハーモナイズ。Soundquest 参照)。なのでベースラインがどこにあるのかはメロディラインにとっても重要な検討材料です。

 また今回の場合、ルートがミ→ファ→ソ→ラと順次進行で上昇するので、上で言った安定感の欠落も相まって『徐々に始まっていく感じ』がするような気がします(個人的に)(勿論、編曲次第ですけれど)。物語の幕開けのような、イントロや A メロなんかに特に向いている進行のような気がしています(そうでないといけないというわけではない)(下に A メロで用いられている例しか挙がっていないのは、単に自分の捜索力不足という説があります)(追記: B メロでの使用例も普通にありました)。

『アカシア / BUMP OF CHICKEN』は A メロ冒頭が I/III – IV – V – VIm です。「これから何かが始まりそう!」という期待感がありますよね。

 

『GO / BUMP OF CHICKEN』の A メロも I/III – IV – V – VIm です。このワクワクを感じ取ってほしい。

 

Tokyo 7th シスターズ』の楽曲、『ひまわりのストーリー / Le☆S☆Ca』も A メロの前半が I/III – IV – V – VIm です。歌詞が曲の雰囲気(期待感)にきちんと寄り添っていてとても良いですよね。

 

『スポットライト / PENGUIN RESEARCH』も A メロ前半が I/III – IV – V – VIm です。二番のほうが分かりやすいかも。

 

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『ヒカリのdestination / イルミネーションスターズ』も A メロ前半が I/III – IV – V – VIm です(実はサビの後半でもう一度出てきます)。『雨上がり 青い空 何かが起こりそうな』という歌詞が当てられていますが、音楽的な視点から見てもまさしく通りですね。

 

 

〇 IIIm – IV – V – VIm(3456進行)

 I/III を IIIm に置き換えてみます。するとルートのミ→ファ→ソ→ラという順次進行は維持されたままなので『徐々に始まっていく感じ』は残るものの、I による安定感が消失するので解決感みたいなものは薄れ、全体的にピリついた緊張感のある展開になります。IIIm についてはトニックとドミナントの二面性があるという理解をしていれば十分だと思いますが、一言で言えば IIIm は『カッコイイ』です。

『good friends / BUMP OF CHICKEN』は A メロが IIIm7 – IVadd9 – V – VIm7 です。I/III のときに比べて、少し沈んだような雰囲気になっていますね。

 

 

〇 Iadd9/III – IV69 – Vsus4 – VIm7(11)

 ついでにこれもやってしまいましょう。変わった点が多々ありますが、基にあるのは上で紹介した I/III – IV – V – VIm です。ひとつひとつ見ていきます。まず Iadd9/III は何かといえば、I/III にレ(9th)の音が追加されています。次に IV6 ですが、これはレ(6th)の音が追加されています。Vsus4 は構成音からシが消えて、代わりにドが追加されています。最後に VIm7(11) はソ(7th)とレ(11th)が追加されています。

 つまり、各和音の構成音はこうなっています。

Iadd9/III:ド、レ、ミ、ソ

IV69:ド、レ、ファ、ソ、ラ

Vsus4:ド、レ、ソ

VIm7(11):ド、レ、ミ、ソ、ラ

 こう表せば一目瞭然で、各和音の構成音には『ド、レ、ソ』の三つが常に含まれていることが分かります。すると和音進行としては共通音を常に三つ持って進むことになり、通常こういった場合には平坦な印象(場面変化がない印象)の展開になります。しかもド、レ、ソはいずれも傾性の低い音(傾性については Soundquest 参照)なので、結果として、この形で使われる I/III – IV – V – VIm は『落ち着いた感じ』と『何かが始まりそうな感じ』を両立することになります。

君の知らない物語 / supercell』の冒頭四小節が Iadd9/III – IV6 – Vsus4 – VIm です。『落ち着いた感じ』と『何かが始まりそうな感じ』が共存していて、イントロとしては最高の部類だと思います。

 

 

〇 IV – I – V – VIm(4156進行)

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 さて。はじめの I – IV – V – VIm に話を戻し、この進行で I と IV を入れ替えてみます。すると IV – I – V – VIm という進行になりますが、先の話で言えばこれは『弱い緊張』→『強い緩和』→『強い緊張』→『弱い緩和』という展開になります。ループにおける二小節目と四小節目に安定感があり、四小節目は次のループへの繋ぎのようになるような形です。ループが IV の『弱い緊張』から始まりますが、直後に I による『強い緩和』があるので、ほどよい緊張感という感じです。

『アイネクライネ / 米津玄師』の A メロ前半が IVadd9 – I – V – VIm7 です。ほとんどの和音に『ド、ソ』が入っていて落ち着いた感じの進行になっています。またボーカルの入りは IVadd9 の上のソで、IVadd9 の透明感が出ていていい感じです。

 

『Gravity / BUMP OF CHICKEN』の A メロ前半も IVadd9 – I – V – VIm7 です。ボーカルの入りが IVadd9 の上のソを唄っているのも同じですね。IV の上でのソは頻出です。

 

『boyhood / PENGUIN RESEARCH』はサビ前半が IVadd9 – I – V – VIm です。これもまたボーカルの入りが IVadd9の上のソを叩いています。勢いのある編曲にすると、IVadd9 の上のソは特に尖って聴こえます。

 

『ray / BUMP OF CHICKEN』はサビ前半が IV – I – V – VIm7 です。サビ入りのボーカルは IV の上のドを唄っていて、ソの鋭さとは対照的にドは力強さが目立ちます。

 

 

〇 IV – V – I – VIm(4516進行)

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 上の進行でさらに I と V を入れ替えてみると、このようになります。これは『弱い緊張』→『強い緊張』→『強い緩和』→『弱い緩和』という展開になっていて、緊張のタイミングが前半に偏っています。なので、先ほどの IV – I – V – VIm に比べると少し強めの緊張感が付与されることが予想されます。

『キリフダ / BUMP OF CHICKEN』の A メロ前半が IV – V – I – VIm です。たしかに二小節目でもまだ落ち着かないような感じがして、それがやっと三小節目で解消されるという作りになっています。また、ボーカルの入りは IV の上のミ、つまり 7th になっていて、これもこの A メロのカッコよさに一役買っています。曲調によっては IV の上のソのような透明感は却って邪魔になるということですね。

 

 

〇 IV – V – I – VI

 キメの VIm を VI に変更してみます。するとすべての和音がメジャーコードになるのでいわゆる『暗さ』みたいなものが消え、ノンダイアトニックコードの華やかさも相まって一気に明るく浮かび上がる感じの印象になります。物は試し、聴いてみましょう。

『-OZONE- / vistlip』ですが、サビのあとに構えているフレーズの前半が IVadd9 – V – I – VI7 です。シェルは順に M2→R→3rd→7th となっていて、キメの VI で 7th を唄うことによって、VI が鳴った瞬間の煌びやかな響きが補強されているという印象を受けます。IV の上の M2、つまりソが鋭く透明な響きになるのは先述の通り、V の上でルートシェル、I の上で 3rd シェルをそれぞれ取っているのもポイントが高くて(シェル。Soundquest 参照)、これらはカーネルとシェルの相乗効果によって、それぞれ愚直な力強さと強烈な情感を与えます。このメロのキャッチーさの一因は、間違いなくここにあると思います(他にもある)。

 

 

〇 IV – V – VIm – I(4561進行)

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 さらに I と VIm を入れ替えてみます。するとこれは『弱い緊張』→『強い緊張』→『弱い緩和』→『強い緩和』で、直前の IV – V – I – VIm にあった I による安定感の到来がさらに後ろへずれこむ形となります。ループの最後に満を持して解決感がやって来るという構図ですね。I から IV は四度上行(いわゆる強進行)なので、ループ頭へ戻るときに若干の引力があります(流れていく感じ?)。

『車輪の唄 / BUMP OF CHICKEN』の A メロ前半は IVadd9 – V – VIm – I – IVadd9 – V – VImVIm という進行をしています。四小節目から五小節目のループ頭へ戻るとき、メロディラインも相まって何だか引っ張られていくような感じがしますね(『僕等の体を運んでいく』という歌詞の通り)。

 

『オシャレ大作戦 / ネクライトーキー』のサビは IV – V – VIm – I です。歌詞もメロディもビートも、揃いも揃ってハイテンションのままに流されていく感じで良いですよね。

 

『メルティランドナイトメア / はるまきごはん』の B メロに IV – V – VIm – I が用いられています(『貴方はドアを開けたの 僕の世界のドアを選んだの』の部分)。それまでの展開と違って、何かが自動的に迫ってくるような錯覚に陥ります(後ろでリバース音が鳴っているのも一因だと思う)(ここの歌詞もやっぱり噛み合っていて、開いた扉の向こう側にいた何かの到来を感じる)(この曲の一番良いところは、その勢いを殺さずにサビへ突入するところ)。

 

 

〇 IV – V – VIm – IIIm(4563進行)

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 先ほどやったように I を IIIm で置き換えてみましょう。すると上のような進行になります。こうすると I の安定感や I から IV への四度上行による調和などが消失するので、適度な緊張感を保った展開になります。

『だから僕は音楽を辞めた / ヨルシカ』の冒頭にある間奏は IVadd9 – Vsus4 – VIm7 – IIIm – IVadd9 – Vsus4 – VIm7 – VIm7 です。『車輪の唄』の例にみた I を IIIm に置き換えた感じの進行になっており、そのときのような流れ込んでいく感じはあまりありません。

 

 

〇 IV – V – IIIm – VIm(王道進行、4536進行)

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 上の進行で VIm と IIIm を入れ替えてみます。あるいは前のほうにみた IV – V – I – VIm で I を IIIm に置き換えると考えてもよいです。すると、かの有名な王道進行になります。これは『弱い緊張』→『強い緊張』→『弱い緊張』→『弱い緩和』という動きをするのですが、IIIm から VIm は四度上行なので、先ほどの I から IV への動きがそうであったようにある程度の引力を伴って進行します。それまでに連続した『緊張』をこの引力で一気に緩和へ持っていくのが王道進行で、その展開自体に緩やかな物語性があるので、こいつをループさせておくだけで一曲作れてしまったりもします(途中で飽きない)。

『記念撮影 / BUMP OF CHICKEN』は一曲を通してずっと IVadd9 – Vsus4 – IIIm7 – IVadd9 – IVadd9 – Vsus4 – IIIm7 – VIm7 を繰り返しています。でも飽きない。王道進行の強みです。

 

『Just Awake / Fear, and Loathing in Las Vegas』は 1:50 辺りからおよそ 30 秒間 IV – V – IIIm – VIm が繰り返されます。疾走感の演出にも使える便利屋。

 

『捨て子のステラ / Neru』の B メロが IV – V – IIIm7 – VIm です。サビだけでなく、一番盛り上がる部分への繋ぎにも使えます(助走のイメージ)。

 

 

【2020/11/25 追記】

〇 IV – V – IIIm – [ VIm – VI ]

 王道進行の派生形の一つとして、 VIm の直後に VI を挟むという形があります( IV – V – I – VI という進行を既にみていることに注意)。VI の和音はノンダイアトニックですが、直前に VIm というマイナー型のコードを挟んでいる分、若干の暗さを引きずっているような印象はありますが、VI が鳴る瞬間、たしかに全身がふっと浮かび上がるような感覚がします。

 主にキメの部分で用いられる進行で、VI のあとは大体 IIm へ進行します(ループで使う場合もある)。

Fight For Liberty / UVERworld』のサビ後半が IV – V/IV – IIIm – [ VIm – VI ] です。『たった一回しかチャンスが無いのなら』というフレーズの最後で VI が鳴っており、VI に特有の浮遊感が感じられます。また、この曲は VI の後、IIm へ進行しています。

【2020/11/25 追記ここまで】

 

 

〇 IV – V – III – VIm( IV – V – #Vdim – VIm

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 王道進行で IIIm を III に置き換えると、この進行ができあがります。構成音をみてみると

V:レ、ソ、シ

III:ミ、ソ#、シ

(#Vdim:レ、ソ#、シ)

VIm:ド、ミ、ラ

となっていますが、これをみれば V→III→VIm の中にソ→ソ#→ラという(ダイアトニックだけだと実現しない)半音上昇が入っていることが分かると思います。IIIm が III に変化したことでソが半音上のソ#に吊り上がるわけですが、これはラの音へ向かいたがる傾向がとても強いです(傾性。Soundquest 参照)。その性質を利用して王道進行にあった IIIm→VIm の四度上行をより強力にしたというのが IV – V – III – VIm です。キメのところ(≒ここぞというところ)で使われることが多いイメージですが、息をするように使ってもそれはそれで味が出ます(後述)。

 III という和音のイメージは『暗すぎ』または『カッコ良すぎ』です。これは肯定的にも否定的にもそうで、その『暗すぎ』だったり『カッコ良すぎ』だったりが、曲調によってはピッタリとハマったり、あるいは余計な印象になってしまったりします。そういうわけで使いどころを選ぶ和音ですが、綺麗にハマったときのカッコよさは最高です(『暗すぎ』とか『カッコ良すぎ』が『切なさ』だったり『疾走感』だったりに繋がるわけです)。

 もう一度例に挙げます(良い曲なので何度も例に出したくなるんですよね)。先ほど IV – V – I – VI のときに紹介したパートの少し後、つまりサビの後にくっついているフレーズの後半部分ですが、そこが IVadd9 – V – III – VIm7 になっています。III が鳴る瞬間の何とも言えない張り詰めた感じと、次の小節線へ猛烈に進みたくなる感じを聴きとってください(VI のときとはまるで対照的)。この曲の場合、サビ後の『意外性』を演出するにしても同じことを連続で二回するのは能がないので、それぞれのパートで違った役者を立てているというわけです。

 

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『ガールズ・イン・ザ・フロンティア』の B メロ前半が IV – V – #Vdim – VIm です。先ほどの『捨て子のステラ』と同様、サビへの繋ぎに使っても十分に役目を果たしてくれます。

 

 

〇 IV – III – VImVIm(436進行)

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 IV – V – III – VIm という王道進行の形から V を消してみます。するとこのようになるわけですが、IV の『弱い緊張』の直後に III というダイアトニックの世界にいない和音があり(ここに『意外性』がある)、さらに先述の通り、こいつは猛烈な力を以て VI 型の和音へ進みたがるので、この形の進行は拍車のかかった疾走感という印象を与えます(人に依るかとは思いますけど)。

 以下の具体例にみるように、ダークに染まった感じの曲調を目指したいなら、真っ先に頼りにしていい進行だと思います。

ジョーカーに宜しく / PENGUIN RESEARCH』のサビ冒頭が IVM7 – III7 – VIm7 – VIm7 です。IVM7 の個人的なイメージは『暗くて息苦しい』です。それが遅いリズムだと『閉塞感』になったり、速いリズムだと『カッコよさ』になったりします。サビ入りのボーカルは IVM7 の上のラを唄ってますね。和音における第三音は和音の性質(メジャー、マイナー)を決定づける要素ということもあって、情感演出のスペシャリストという側面があります。またラの音はマイナースケールでの主音でもあるので、こういったダークな雰囲気にはぴったりの選択という感じがしますね。

 

『パンダヒーロー / ハチ』もサビが IVM7 – III7 – VIm7 – VIm7 でできています。サビ入りのボーカルは、直前の例と同じく IVM7 の上のラを唄っています。ダーク!

 

『ロキ / みきとP』もサビ冒頭が IVM7 – III7 – VIm7 – VIm7 です。IVM7 のイメージは III のイメージと似通う部分が結構あるので、この形の進行だと IV はだいたい IVM7 になっているという印象があります。IVadd9 – III7 – VIm7 – VIm7 みたいなのはあまり見かけませんね(無いってことはないと思いますけれど)( IVadd9 のイメージは『透明感』)。

 サビ入りのボーカルは IVM7 の上のミを唄っています。これも頻出のケースです。IVM7の上のミはルート音(ファ)と半音関係にあるために強烈な違和感というか、「早く解決したい!」という欲求を煽るような響きになります。それが却って疾走感の演出に繋がるというわけです。

 

 

〇 IV – III – VIm – V(4365進行)

 後半についてですが、VIm が連続するのでは面白みに欠けるので、少し弄って最後の VIm を V に置き換えてみます。IV – V – III – VIm という形の王道進行で V を四小節目に動かしたと考えてもよいです。こうするとスタート地点こそ IV であるものの、基本的に 6→5→4→3 という順次下降を繰り返す形になることが分かります。『強い緊張』の代表である V がループ終わりにいて、かつ I のような『強い緩和』をもたらすキャラクターは相変わらず不在なので、単純な IV – III – VImVIm よりも緊張感がさらに増してダークさに磨きがかかった感じですね。

『アンチリアリズム / *Luna』です。サビも同様の進行ですが、曲の入りからいきなり IVM7 – III7 – VIm7 – V 一色で、とてつもない緊張感があります。

 

 

〇 IVM7 – III7 – VIm7 – I7(丸ノ内進行?)

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 V の代わりに I7(構成音はド、ミ、ソ、シ♭)を置いてみます。I7 は I にテンションがくっついた形なので安定感のようなものは若干あるものの、シ♭という馴染みのない音があるおかげで複雑な響きになり、理由は省略しますが(二次ドミナント。Soundquest 参照)、この和音は IV(特に IVM7 )へ進みたいという欲求をとても強く持つことになります(もともと I→IV は四度上行なのでいい感じのパートナーなんですが)。その性質を利用して IV – III – VImVIm のような「四小節目の停滞感」を解消しようということです。

丸ノ内サディスティック / 椎名林檎』です。一曲を通して多く用いられていますが、サビが一番分かりやすく IVM7 – III7 – VIm7 – I7 のループです。この進行が用いてられている曲だとかなり有名なんじゃないでしょうか?( IVM7 – III7 – VIm7 – I7 を『丸ノ内進行』と呼ぶ人もいますし)。I7 の独特な推進力のようなものがはっきりと分かる楽曲です。サビ入りのボーカルは IVM7 の上のソを叩いているので IVM7(9) と言ってもいいかもですね(『閉塞感』と『透明感』の両立)。

『第六感 / Reol』はサビが IVM7 – III7 – VIm7 – I7 のループです。III7→VIm7、I7→IVM7 というノンダイアトニックコードを伴う四度上行が二つもあり、カッコよさも申し分ないのでダンスチューンにはぴったりの進行という気がしますね(実際、436ってめちゃくちゃクラブミュージックに多くないですか?)。

 

 

〇 IVM7 – III7 – VIm7 – [ Vm7 – I7 ](43651進行)

 もっとお洒落にしてみましょう。VIm7 と I7 の間に Vm7 を挟んでみます。Vm7 は文脈によって色んな響きに聴こえるという印象を自分は持っていますけれど、個人的に一番強くあるイメージは『哀愁と背中合わせの明るさ』です。普通は V を置くような場所で Vm を代わりに挿入して変化を演出するという使い方をしますが、自由度が少し低い(前後の和音によって接続度合いが異なる)ので、いつでもそれができるというわけではありません。が、今回は可能です( VIm7→Vm7 は和音の平行移動)(クオリティチェンジ。Soundquest 参照)。

『夜に駆ける / YOASOBI』のサビ冒頭の進行が IVM7 – V – IIIm7 – VIm7 – IVM7 – III7 – VIm7 – [ Vm7 – I7 ] です。前半が王道進行、後半がいままでに見ていた436進行の派生形です。

 

 

〇 IVM7 – III7 – VIm7 – II7

 別の選択肢を模索します。I7 ではなく II7 を置いてみましょう。すると(以下に紹介する具体例を聴けばわかるように)IVM7→III7→VIm7 による『カッコつけ』を一瞬で吹き飛ばすほどの強烈な希望感が四小節目に待ち構えています。これは II7 というノンダイアトニックコードの持つ性質と VIm7→II7 という四度上行の調和性に因るところです。曲調によってはこういった『一瞬だけカッコつける』というポーズが活きる場面もあるということですね。

 また、これまでにみた 436 進行の派生形と違って、この進行をループさせて使うことはあまりせず、大体の場合 IIm7 へ進むような気がします。

『逆さまのLady / 三月のパンタシア』、前のほうで例に挙げましたが再掲します。この曲の B メロ冒頭が IVM7 – III7 – VIm7 – II7 です。A メロやサビのきらめいた雰囲気とは一転、B メロは少しだけ塞ぎ込んだような印象を受けますが、それも束の間、『知ってしまえば』というフレーズが入ったところで一気に浮き上がるような心地がします。良い曲!

 

 

〇 IVM7 – III7 – VIm7 – #IVm7(b5)

 さらに別の方法を模索しようとすると、このような進行を考えることができます。これがどこから出てきた発想なのかということは II9 と #IVm7(b5) の構成音をみてやればすぐに分かることで、下から順に並べると

II9:レ、#ファ、ラ、ド、ミ

#IVm7(b5):#ファ、ラ、ド、ミ

となります。つまり II9 からレを取り去ったものが #IVm7(b5) になっているということです。ということは IVM7 – III7 – VIm7 – II7 という進行の II7 を #IVm7(b5) に置き換えてみても良いのでは、という発想が出てきます。実際、いい感じの響きになるかどうかはやってみないと分からないのですけれど(例えば I と IIIm は共通音を二つ持つので、普通に成立する I→I という進行を IIIm→I と置き換えることが考えられますが、これはかなり重大な禁則進行という扱いを受けています)。

フラジール / ぬゆり』のサビ冒頭は IVM7 – III7 – VIm7 – #IVm7(b5) です。II7 はファがファ#に持ちあがるわけなので『浮遊感』みたいなものがありましたが、#IVm7(b5) は #IVm7 に含まれるド#がドに引き下げられるわけなので、こちらは『淀む感じ』の演出に使えます(他の使い方もある)。そう思えば、ここで II7 ではなく #IVm7(b5) を採用するというのは、この曲調にとってはぴったりの選択ですよね。

 またフラジールの B メロには IVM7 – III7 – VIm7 – #Im7(b5) という進行が登場しますが、これも基本的には上と同じ原理で、この場合は IV – III – VIm – VI という進行からの発想になります。

 

 

〇 IV – IIIm – VImVIm(436進行)

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 四小節目を模索するのはさておいて、二小節目の III を IIIm に戻してみます。すると III→VIm の持っていたソ#→ラという半音上昇は消えて、IIIm→VIm の四度上行による進行感だけが残ります。これは十分に強力な進行ですが、III→VIm に耳が鳴れてしまうとそれほど強くも感じなくなりますね。ということで、こちらは IV – III – VImVIm の強力すぎる進行感を弱めた進行になります。ダークな感じを前面に押し出したくないときはこちらを使ったほうがベターという印象が個人的にはあります。

『シニバショダンス / PENGUIN RESEARCH』のサビ冒頭が IVM7 – IIIm7 – VIm7 – VIm7 です。「シンプルにカッコいい!」って感じですね。

 

 

〇 IV – IIIm – III – VIm( IV – IIIm – #Vdim – VIm

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 436 進行の 3 はメジャーでもマイナーでも使えるということを上でみましたが、メジャーとマイナーの両方を連続させて組み込むことも可能です。この場合は IIIm→III という流れのほうが一般的のような気がします( III のソ#はラへ行きたがる性質をもつので、わざわざ吊り上げた以上はそのまま VIm へ繋げたいという気持ち)。

『ココロ / トラボルタ』のサビ冒頭が IVM7 – IIIm7 – #Vdim – VIm7 です。#Vdim の部分で『加速する』という歌詞が当てられていますが、III の強烈な躍進力と噛み合っていてとても良いですね。

 

 

〇 IV – IVm – IIIm – VIm

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 さらなる派生を考えます。初めに紹介した 436 進行は VIm が二つ分カウントされていましたが、IV のほうが二つ分カウントされるケース、つまり IV – IV – IIIm – VIm という進行ですが、これも頻出の形です。この場合は IV の『弱い緊張』がしばらく継続するのでまた違った雰囲気になりますが、ここで二つ目の IV を IVm に置き換えてみます。すると IV – IVm – IIIm – VIm という進行ができあがります。IVm の個人的なイメージは(どこをどう♭するかという問題がありますが、基本的には)『切ない』で、こうするとまた違った表情が演出できたりするわけです。

 この進行だけ具体例を出すのを諦めてしまったんですが(手持ち楽曲の無さ)、こういう進行があるということだけ紹介しておきます。以下にいくつか続きますが、実際には IVm への置き換えが行われる場合、他の部分も色々と置き換えて、より意外性の強い進行にすることが多いです。

 

 

〇 IVM7 – IVmM7 – IIIm7 – VI7

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 直前の進行で VIm を VI に置き換えた形です。前半に薄らと漂う緊張感や切なさを VI の明るさで消し飛ばすという展開になります。VI は基本的に IIm7 へ進んでしまったほうが綺麗ということもあり、ループとして使うにはあまり向きません。

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『Yes! Party Time!!』の B メロが IVM7 – IVmM7 – IIIm7 – VI7 です。試聴動画だと一番しか聴けないと思いますが、二番の B メロが特にわかりやすいです。また、この曲で VI の直後にある和音は IIm7 です。

 

 

〇 IVmM7 – IVmM7 – IIIm7 – [ IIIm7(b5) – VI ]

 直前の進行で一つ目の IV も IVm にしてしまって、IIIm→VI の間に IIIm7(b5) を挟んだ形です。この文脈でのハーフディミニッシュのイメージが『沈んだ感じ』というのは先述の通りで、直前の進行を切なさに全振りした感じの展開になります。これもループには不向きで IIm7 へ進んでしまうのが良いと思います。

『カレンダーガール』の B メロ前半が IVmM7 – IVmM7/bVI – IIIm7 – [ IIIm7(b5)/VI – VI ] です。VI が鳴った直後に『さっきの気分も忘れちゃって』という歌詞が入っていますが、かなり的確な表現がなされていてとても好きです。この曲でも VI の直後にあるのは IIm7 ですね。

【2020/11/12 追記】

『カレンダーガール』、C メロ冒頭が IVM7 – IVmM7 – IIIm7 – [ IIIm7(b5)/VI – VI ] です。

【2020/11/12 追記ここまで】

 

 

〇 IVM7 – IVmM7 – [ IIIm7 – #Vdim ] – [ VIm – VI ]

 一つずつ確認します。

 まず IV – IVm – IIIm – VIm の基本形に対して IIIm→VIm の間に #Vdim を挟んでいますが、これは IV – IIIm – VImVIm から IV – IIIm – III – VIm を作ったときと本質的には同じことをしています(パッシングディミニッシュ)。

 次に VIm を直接 VI に置き換えるのではなく、VIm の直後に VI を置くという形で VI を差し込みます。これは IV – V – IIIm – VIm から IV – V – IIIm – [ VIm – VI ] を作ったのと同じです。

 というわけで、既にみた複数の進行を組み合わせてできる進行がこちらになります。IVM7 の薄暗さ、IVmM7 の切なさ、 #Vdim の緊迫した躍進力を巻き込みながら展開が進み、VIm に落ち着くとみせかけて VI の希望感による裏切りを仕掛けるという構図。

『パレイド / 夏川椎菜』の C メロ(2サビ後)前半が IVM7 – IVmM7 – [ IIIm7 – #Vdim ] – [ VIm – VI ] です。『前に進んでいけるのかな』の『な』が唄われるのと同時に VI の和音が鳴っています。この曲でも VI の直後にあるのは IIm7 です。

 

 

〇 IV6 – IVm6 – IIIm7 – Im/bIII

 IV – IVm – IIIm – VIm の基本形で VIm を Im/bIII に置き換えた進行です。ここにはステップが省略されていて、まず VIm を bIII に置き換えて、それをさらに Im/bIII に置き換えたという風に考えたほうがよいような気が個人的にはしています(パラレル・マイナー。Soundquest 参照)。Im は調の主役であるところの I がマイナーにひっくり返るわけなので、調性そのものを曖昧にするような効果があります(これまでにみた VI とはまた違った効果)。また、作り方から明らかなように、これも IIm7 へ接続します( IIIm→bIII→IIm の流れが土台にあるので)。

『スポットライト / PENGUIN RESEARCH』のサビ中盤が IV6 – IVm6 – IIIm7 – Im/bIII です。『報われる保証も無いが 予感を信じて走れ』という部分で、『走れ』のところで Im/bIII が鳴っています。調性(根本的なもの)が揺らぐようなタイミングにこの歌詞を当てているのがいいですね。この曲で Im/bIII の直後にある和音はもちろん IIm7 です。

 

 

〇 #IVm7(b5) – IVM7 – III7 – VI

 IVM7 – IVM7 – III – VIm に話を戻します。ここでも VIm を VI に置き換えるということをするのですが、それと同時に一つ目の IVM7 を #IVm7(b5) にしてみます。構成音としては順に

IVM7:ファ、ラ、ド、ミ

#IVm7(b5):ファ#、ラ、ド、ミ

なので、ファがファ#に持ちあがる感じになり、この文脈で使うと妙に浮かび上がったような響きになります。VI のふわふわした雰囲気も相まって、暗いとかいうよりはむしろちゃらけた風に聞こえますね。

『感電 / 米津玄師』の A メロ終わりが #IVm7(b5) – IVM7 – IIIm7 – VI です。『ちょっと変にハイになって 吹かしこんだ四輪車』の部分ですね。「たしかにちょっと変にハイになってんな」という印象。「感電」はこの進行のあとに B メロへ入りますが、B メロ頭の和音は IIm7 です。

 

『カレンダーガール』のサビ終盤に #IVm7(b5) – IVM7 – IIIm7 – VI が使われています。『カレンダーめくって今日も わたしらしくアレ』の直後から。この進行のあとに来ている和音はやはり IIm7 ですね。

 

 

 

 以上。ちょっと書きすぎました。IVm だけでなくて Vm が絡んでくる進行や、それに今回は日の目を見なかった IIm 絡みの進行など、紹介したいものは他にもたくさんあったんですが、それはまたの機会とすることにします。

 

 

 

この欄を埋めるのが一番難しい

 

 日記回です。ここしばらく考えていたことについて書こうと思います。

 

 初めくらいは本当の意味で日記らしいことをと思うんですが、ダンガンロンパ2をプレイしました。やっと。自分、無印と V3 は随分と前に通っていたものの、何故か間の2を知らず、知らないといいつつ若干の設定くらいなら実は知っていたのですけれど、とはいえ詳細なストーリーについては全くの無知で、そんなこんなでついにプレイを始めたというのが一昨日の朝、というわけです。「なぜ急に?」ということについて触れておくと、ダンガンロンパ無印と2は実はスマートフォンで遊ぶことができるようになっていて、2がリリースされていることに気づいたのが一昨日の深夜だからです。『ダンガンロンパ』、自分はめちゃくちゃ好きな作品なので、興味のある方はぜひ遊んでみてください(とはいえ、同じことを四年以上言われ続けている『UNDERTALE』を自分は未だにプレイしていないのだけれど)。何かしらのセールをやっていて、いまなら 600 円くらいで購入できます。

 ミステリなので一切のネタバレなしに若干の感想めいたものを残しておきます。ダンガンロンパ2、初プレイだった V3 はともかくとして、初代を遊んだときと同様、プロローグ時点で登場人物を『加害者側に回りそうな人間』と『被害者側に回りそうな人間』とに分ける作業をやったんですが、『加害者側に回りそうな人間』がその時点で四人しか見つけられず、しかもうち一人は普通に生き残りました。なんか、ほとんど本を読まないのでアレなことは言えないんですが、体感として普通って「こいつは人を殺してもおかしくなさそう」という人物のほうが多数になるというのが、クローズドサークルものでは割と定石な気がしていて、だからちょっと不思議な感じでしたね。『加害者側に回りそうな人間』のほうが少ないのって。分かる人向けに書いておくと、『1章の犯人』、『2章の犯人』、『5章の犯人』が最初に「こいつ、やりそうだな~」と思った人物群です。

 5章! めちゃくちゃ良かった!!! ダンガンロンパ、それまでに触れていた範囲では 3-1 が一番好みだったんですが、そこに 2-5 が加わったという感じです。この二つは流石に甲乙をつけがたすぎるので、これ以上の比較はすることなく、もう両方とも最高ということで片づけておくのですけれど。2-5 の特に好きな部分を一つ挙げておくことにすると、作中で主人公たちの暴いたホワイダニットは勿論のこと、それ以上にその謎に対する『解決方法』がとても良かったです。いや、『解決方法』というと多少の語弊があるかもしれませんけれど、なんだろ、分かる人向けに書いておくと『犯人が目的のために利用したもの』であり『主人公たちが正解の指標としたもの』のことを自分は言っているのですが、それは当作品ならではのファクターで、そのことにめちゃくちゃ感動して。3-1 の他にも 3-5 や 1-4 なんかも自分は好きなんですが、「2-5 はそれらの中でも抜きんでているな」と感じた理由がもしあるとするなら、恐らくこの一点に尽きるのだろうなと思います。本当に良い構成でした。

 

 最初のほうに「色々書きます」みたいなことを書いたような気がするんですが、猛烈な眠気がいまやってきたので、一切を放棄して寝てもよいですか? いいよ。ありがとう。おやすみなさい。ダンガンロンパ2、マジで良いからみんなやってくれな(先に無印をやったほうがいいけど)。

 

 

 

物語

 

 昨日の夜、何となく考えていたのが「『シンデレラ』の幼馴染って、どんな気持ちなんだろう」ということで。ここでいう『シンデレラ』はかの有名な童話のことです(バリエーションは色々あるそうですが、適当なものを思い浮かべてください)。別にシンデレラでなくとも、誰でも知っているような童話であれば『アリとキリギリス』だろうが『オオカミ少年』だろうが何でもいいのですが、昨日の自分が真っ先に思いついたのはそれだったので、ここでは『シンデレラ』について話を進めることにします。これはただの想像の話ですけれど、たとえばあの『シンデレラ』が実話だったとするじゃないですか。もちろん、現実的にあり得ない部分は多少修正を施すことにします。そのうえで、あれが現実に起こった話だとしましょう。つまり、自分たちの知っている『シンデレラ』という物語は、歴史上実在した人物の身に起きた劇的な出来事を、(どういった経緯なのかはさておき)当時の人々が語り継がんとして生まれたものである、という風に仮定することにします。

 そういう前提にいるということを説明した上で冒頭の話に戻るんですが、「『シンデレラ』の幼馴染って、どんな気持ちだったんだろう」です。想像をもう少し具体的にするために、幼馴染にも若干の設定を加えることにします。いわゆる人物設定です。たとえばシンデレラは少女、幼馴染は少年、二人は小さい頃からとても仲が良かったという風にしておきます。そして、少年は少女の置かれている状況、つまり家庭の事情や姉との関係性などをあまりよく知らなかった。そういう状況を考えましょう。少年が知っていたのはあくまで『家庭の外側にいる少女』であって、『家庭の内側にいる少女』がどのような存在なのかということについてはほとんど無知であった。それでも、少年と少女はとても仲良しで、『外側』の少女に関して言えば、少年は様々なことを知っていた。以上がおおまかな設定です。うまく想像できますか? ところどころ言葉足らずになっているかもしれませんが、そこはなんか、いい感じに補ってください。

 次に状況設定ですけれど、まず、少女と王子が結婚するわけですね。『シンデレラ』のストーリー通りに。少年はその事実を心の底から祝福したと仮定します。現実世界にありがちな嫉妬だとか何だとかは一旦抜きにして考えてください。それでまあ話を戻すと、国の人たちは驚くわけです、当然のように。「王子ともあろうお方が、家系も分からぬ少女を妃に迎えるなんて!」みたいな。だって舞踏会とか開いてますもんね。「イイとこのお嬢様を大量に招いているのに、結論はそこ?」みたいな。だから、気になって調べるわけです。「その少女にはきっと何かがあるに違いない!」といった風に。で、あるわけですよ、おあつらえ向きのサクセスストーリーが、そこに。少女は継母の連れ子である姉たちに苛められていて、それでも必死に務めを果たし、王子との出会いそのものは紛れもなく偶然であったものの、その二人が結ばれたのはきっと、どれほど辛い環境にあろうと懸命にあろうとした少女が呼び寄せた必然であり、すなわち運命であったのだ、みたいな。国中で噂になるでしょうね、きっと。なにせ王子の結婚ですし、そんな分かりやすい物語があるわけなので。そうして広まった一つの物語を、どこかの誰かが後世に伝えたいと考えました。そうして生まれたのが『シンデレラ』です。自分たちが知っている『シンデレラ』を辿っていけば、そういう現実の物語に辿りつくのだという風に仮定しましょう。ここまでの全部が仮定です。

 それでようやく本題です。そんな少女のサクセスストーリーを物語として書き記したものが『シンデレラ』。二人の結婚からそう月日を経ないうちに、その初版が国のどこかから公開され、多くの人々がその物語を共有することになります。「王子の見出した少女には、そのような過去があったのか!」と。人によっては少女の境遇に涙するかもしれませんね。人によっては「そんな奴が王子の隣にいるのはやっぱり気にくわない」と思うかもしれませんけど。ともかく、様々な人が様々な印象をその『少女』に対して抱くことになるわけです。それはもう必然的に。そういったある種の感動を伴いつつ、『シンデレラ』の物語はより一層遠くまで広まっていくわけです。貨幣を払ってでも知りたい聞きたいという人がそのうち大勢現れ、ついに『シンデレラ』という物語はお金で買えるようになります。いくらぐらいでしょうね。時代設定を蔑ろにしていたのであまり考えていませんでしたが、まあ現代の日本円で1,500円くらいだとしておきましょう(絵本の相場を知らない)。具体的な金額はどうでもよいです。重要なのは、『シンデレラ』の物語が安価に手に入れられる、ということなので。そうして手に入れた1,500円ちょっとの『シンデレラ』を通じて、人々は少女の境遇や葛藤に心を動かされ、文字通り感動したというわけです。

「先述の幼馴染の少年は、そのような状況を受けて、一体どのように感じるのか」。それが昨日の夜に考えていたことです。繰り返しになりますけれど、少年は『家庭の内側にいる少女』についてはほとんど知らなかったわけです。姉との関係など、断片的には本人から聞き及んでいたとしても、具体的にどのような様相なのかということは把握していなかった。そんな少年のもとに『シンデレラ』の話が届くわけです。驚くでしょうね、きっと。「話には聞いていたけれど、こんなだったのか」って。でも、それだけだろうと思います、この時点ではまだ。問題になってくるのは、そんな少女の物語がある種の『商品』として流通し始めてから後のことです。初めにある『そのような状況』というのは、具体的にはこのことを指しています。少年と少女は仲が良かったんですよ、繰り返すように。少年の知らない『少女』がいたのと同様に、少年しか知らない『少女』もいたわけです。そんな中、少年の知らなかった『少女』だけにスポットの当たった『シンデレラ』が売りに出され、しかも1,500円ちょっとでその本は手に入ってしまうのです。中学生か高校生の小遣い程度で手に入ってしまうような『物語』を人々は求め、「感動した」だとか「涙なしには読めない」だとか、そういった言葉があちらこちらを飛び交って。いったいどんな気持ちになるのかなあ、って。昨日の夜に考えていたことを、なるべく言葉を割いて説明するのであれば、以上のようになります。どんな風に思うんでしょうね、少女の幼馴染である少年は。『シンデレラ』が少女の一側面であることには間違いがない。なので問題はそこではなくて、少女の一側面に過ぎない『シンデレラ』という物語が、大勢の人に感動を与える『商品』として存在する、ということです。分かりやすいサクセスストーリーとして広まっていく『少女』をみて、『シンデレラ』でない少女を知っている少年はどういう風に思うのかなって。不幸の象徴みたいなプロローグに身を埋めて、それでも不断の努力が実を結んだのか、不可思議な魔法によって王子と出会うことが叶い、最後はめでたくハッピーエンド。「感動した」。「涙なしには読めない」。そういった全部が、その少年の眼にはどんな風に映るのかなって、そんなことを考えていました。

 

 

 

 付き合いの長い友人が一人いて、自分は相手のことをあまりよく知らなくて、それでも、知らないなりには知っているつもりでいて。山上一葉としての自分とそうでない自分とがいるみたいに、相手にも二つ以上の立場があって。その中でも自分たちがいたのは現実とあまり縁のない場所というか、有体に言えば、実在の制約を受けない場所だったんです。なんだろうな。極論を言ってしまえば「相手の素性なんてどうでもいい」みたいな。社会に特有の「デキる先輩にはなるべく付き合うようにしよう」とか「あの人が気になるから、意識的に声を掛けてみよう」とか、そういった打算的な働きかけが関与する余地の全くない場所。だから自分は、相手のことをあまりよく知らないし、でも付き合いはそれなりに長いから、知らないなりには知っている。そんな風に考えていたんですね。

 歳を重ねれば重ねるほど、そのままではいられなくなるっていうか。お互いのことを話す機会も多少は増えていって。どうでもいいと思っていた相手の素性がどうでもよくなくなったという瞬間は無くたって、どうでもいいなんて言ってもいられないという瞬間も何度かはあって。やめておけばいいのに、調べてしまったんです、色々を。実在する個人としての相手はそれなりの立場にいる人間で、という事実は予め知っていたものの、自分は個人としての相手に興味を持っていたわけではなかったので、昨日までは特に知ろうとしたことは、思ったことさえなくて。でも、自分の想像を遥かに絶していたというか、なんかもう分かんなくなっちゃって。ぐちゃぐちゃっていうか。なんだろ。感動とか、共感とか、全部。何が呑み込めないのかも分かんなくて、あれこれと考えて、でもまだ分かんないままだし。悲しいわけではないし、苦しいわけでもないし。怒りも失望も全然まるっきり違っていて、じゃあこの感覚は何なんだよって話で。

 この世界にいる一部の人、少なくとも自分一人よりはずっと多くの数の人が『物語』めいたそれを認めていて。一個人としてたしかに生きているはずの誰かを、それがまるで一つの『物語』であるかのように消費していて。感動していて。共感していて。

 なんか、もう分かんないです。そういうの。全部。

 

 

 

潔癖症

 

 というタイトルをつけたものの、自分は別に潔癖症ではありません。それはまあ、自分の家に来たことのある人なら「そりゃそうだろ」と思うと思うんですけど、現実世界での自分を知らない人向けという意味も込めて改めて記しておきました。「じゃあ何で潔癖症なんてタイトルで書こうと思ったんだ」という話をしておくと、もしもこれ以降で『潔癖症』という言葉が用いられた場合には(使わないと思うけど)そういう風に読み替えてくれたらいいんですが、書こうと思ったのは狭義の意味でのそれではなく、比喩的なそれといいますか、比喩って何なのかよく分かってないので適当なことは言えないのですが、とにかく具体的な症例としての潔癖症ではありません。なんていうか、『間違ったことを嫌う気持ち』くらいに変換してもらえればと思います。

 それで言うと、昔の自分は相当な潔癖症でして。ここでいう『昔』は大体高校一年生くらいの頃のことなので、このブログを読んでいる九割九分の人は知らない頃の自分だと思うんですが、まあ、以前の自分はそのような感じでした。どうでしょう、想像に難くないですか? 真っ先に「まあ、お前はそうかもな」と考えた人がいたとすれば、そのことを嬉しく思う反面、なんかちょっと複雑な気持ちにもなりますね。なんか、なんだろ。理由はちょっと分かんないですけど。

 

 もしかしたらごく一部の人には「山上一葉は『間違ったことを正したがる人間』である」と思われてるんじゃないかなあ、と考える機会があって。自分としてはそういう立ち振る舞いをしたことはあまり無いつもりだったんですけど、でもまあ、こういう場で「間違っていることが嫌」ということは散々のように書いているので、断片的に繋ぎ合わせた情報からそういった結論が、あるいはイメージが、形成されてしまってもそれは仕方のないことのような、というか、それについては一方的に自分が悪いという気がしていて。だからまあ、別にその考えを正したいとかいう気持ちは今更なくて、「いや、お前はそういう人間でしょ」という決めつけに反論する気も特にありません。

 たしかにまあ、間違っていることを嫌だと思う気持ちは、かなり強くあります。それは今も昔もそうです。でも、なんだろ。こういう話も何年か前にしたような気がするんですけど、その、自分が『これは正しくない』と思うことをなるべくしたくない、というのが結局のところ全部で。その『これは正しくない』には一般常識的なものがあれば、きわめて個人的なものもあります。たとえば、『大人数で道を塞がない』は一般常識の枠です。自分がこれに遭遇すると嫌なので、場合によっては誰かに注意することがあるかもしれません。『公共の場で必要以上に騒がない』も一般常識の枠で、これについても同様に注意することがあります。といっても、騒がしさを必要以上に嫌うのはどうやら自分のほうに問題があるのでは、という可能性が数ヶ月ほど前から浮上してきているので、これの分類については審議を要するかもしれません。

 一方で、『赤信号を守る』。これは個人枠のもので、誰かに注意したことは(記憶の限りで)一度もありません。ああ、いや、これは嘘で、中学生か高校生かのときに一度だけ知人に注意したことがあるんですが、それっきりです。どうして他人にわざわざ注意しないかといえば、それは「『赤信号を守る』は自分だけが守っていればいいから」です。だからまあ、別に他の人がどうしてようが知ったことではないといいますか、あくまで自分は守るけど、というスタンスで基本的に動いています。以前「でも、信号を守らないとお前は怒るじゃん」と言われたことがあるのですが、これは若干見誤っていて、自分も普通に信号を無視する場合があります。それが一体どういう場合なのかというと、信号を守らない人と(2,3人で)一緒に歩いているとき、です。守らない、だなんて書き方をすると「ほら、やっぱ怒ってんじゃん」なんてことを言われそうですけど、しかしここに『守らない』以上の意味や意図は全くなくて。自分はそれを『正しくない』と思うんですが、一方で「いや、たとえば真夜中みたいに、車の往来が一切ないときは流石に信号無視していいでしょ(歩行者の場合)」という考え方が、『正しくない』と思うとはいえ、一方で間違っているとも全く思いません。いや、実際、その通りですし。その主張に反論の余地なんてなくないですか? だからどちらにしても間違いではないはずで、あとは自分がそのどちらを『より正しい』と考えるのかが問題なんじゃないかと自分は思っています。そのうえで、自分は『赤信号を守る』のほうが『より正しい』と考えるからそうしているというだけの話なわけで、他の人がどちらを選ぼうが別にどうでもいいんですよね。だって、どちらにせよ間違っていないことは分かっているので。なので『信号を守らないこと』に対して自分が不機嫌になっているようにみえた経験のある人がもしいるとすれば、それはただのバイアスか、あるいは別の要因で不機嫌だったというだけです。他人が信号を守るかどうかはどうだってよく、先述の通り、自分もたまには信号を破るので。

 別の例でいえば『自転車を路上に停めない』もそうですね。路上っていうか、自分がイメージしているのは裏路地とか、あるいは幅の狭い道についてですけれど、これもまた個人的な枠のそれです。京都市、というか自分の大学の近辺は路上駐輪の規制が割と強くって、用を済ませている間に自転車を回収されたという知り合いは、それはもう星の数ほどいるんですが、一応、料金を払うことで駐輪できるようなスペースがあるにはあって。なので自分は「そこに停めればいいのに」と思ったりします。自分の自転車は京都へ来てから二か月余りでお役御免になり、以来、自分の移動手段は徒歩に限られているので全く関係ないのですが、自転車持ちの知人と行動しているときなんかにそういうことを思います。言いませんけどね。これも別に「こいつの自転車が持ってかれようがどうだっていいし」的な考えに起因するものというわけではなくて、単純に「いや、いちいち駐輪場に停めるの、面倒だしお金かかるし嫌じゃん」という主張を、自分は間違ってはいないと考えるためです。だからあとはどちらが『より正しい』と自分が思うかどうかという話で、その結果が自分は「いや、やっぱり駐輪場を利用したほうがいいんじゃない?(自転車回収されたら面倒だろうし)」になっている、ということでして、なので他の人がどちらを『より正しい』と思ってどのように行動しようが、そのことにとやかく言おうという気持ちは全くありません。別に、どちらも間違ってはいないので。

 

 自分が何を『正しくない』と思うかについては何度か書いていて、それは例えば『赤信号を守る』の話なんかは結構数していると思うんですが、一方で「『正しくない』と思うことに対して、どう考えているのか」みたいな話はあまりしたことがなかった気がするな、ということを思って。そのせいで、もしかしたら『間違いを正したがる人間』みたいに思われてたりするのかなあ、と思って。こういうの、ちゃんと言わなきゃ伝わらないんだろうなって。いやまあ、あまりしたことがなかったというだけで、書いたことは一応あるんですけどね。その、「『正しくない』と思うことに対して、どう考えているのか」みたいな話は、何年か前に。

 なんだっけ、たしか飲酒運転の話なんですよ。思考実験ですけど、それはもうめちゃくちゃに切迫した状況の人がいて、いますぐに〇〇へ行かなきゃいけない(身内の不幸などを想像してもらえれば)のに、自分の家は相当な山奥にあってタクシーを呼んだりは出来ないし、いま家にいるのは自分だけだし、となれば自分で運転するしかないけれど数時間前にお酒を呑んでしまったし……、みたいな人がいたと仮定し、しかしその誰かは結果的に飲酒運転で捕まってしまいました。さてこのとき、その誰かの行動は間違っていたのだろうか? というのが大まかな内容です。この問いに対する自分の考えは当時と変わっておらず、「その誰かの行動は正しくなかった。でも、間違ってもいなかった」です。

 その誰かの行動が『正しい』ものだとは、自分には到底思えません。どんな理由がそこにあったとしても、飲酒運転という危険行為が『正しい』側に居座ることは、少なくとも自分の価値基準では決してありえません。「呑んだのは数時間前だから」とか「ちょっとしか呑んでないから」とか、あるいは「事態が本当に切迫していて、それしかなかった」とか、そういった状況証拠が『正しい』か否かの判定に繋がることはまずなくて、何故かと言えば、それを認めてしまうと『正しい』が絶対的なものではなくなってしまうからです。現代に生きる多くの人たちは『人を殺めてはいけない』というルールを『正しい』ものとして認識していますけれど、上のような思考実験で状況証拠の反映を認めるのであれば、例えば通り魔的な凶行に及んだ誰かがいたとすれば、その誰かの生い立ちや環境などを十分に考慮するという姿勢でその事件に向き合うべきだと思います。でも、自分の見る限り、世間の多数派はそうでないというか、勿論、そういうスタンスの人も大勢いると思うんですが、どうにも感情的に反応してしまいがちというか。『娘がトラックに撥ねられたという電話が来て、血相を変えて会社を飛び出し、結果、信号無視による事故を起こしてしまった人』と『なんとなくスピードを出しすぎて、普通に信号無視による交通事故を起こしてしまった人』の二人が同時にニュース番組へ上がってきたら、多くの人は前者に同情し、一方で後者を責めるんじゃないかと自分は思っていて。その反応が間違っているとは全く思いませんが、でも、結果だけをみれば両者ともに交通事故を起こしているわけで、もしかしたら怪我人や死者が出ているかもしれないわけです。そこに何の違いがあるのかなって思うことがあって。その誰かの事態が差し迫っていれば『信号無視による交通事故』は正当化されるんですか? 少なくとも自分はそうは思わず、しかし自分たちの直感というか感情というかは、どうしてもそういった周辺情報につられてしまいがちで。だから、『正しさ』の判定に状況証拠を反映することに、自分は否定的な立場でいます。『信号無視による交通事故』や、あるいははじめの例の『飲酒運転』が『正しい』かどうかは、もっと別の、個々人に依存しない因子で定義されるべきだと自分は考えていて、その一つが法律です。ともかく、そこにどんな事情があったとしても、自分は『飲酒運転』を『正しい』ものだとは思えませんし、思いません。

 一方で、間違っているとも思えません。はじめの思考実験に戻るとすれば、たとえばそこに身内の不幸などがあったとすれば、何を投げ捨ててでも急いで向かうでしょう、きっと、誰だって。飲酒運転がどうとか、そんなことを気にしてる場合じゃないと思います。だから、そこに選択があるのかなって自分は思っていて、それは「たとえ時間がかかるとしても、別の移動手段を試みる」か「とにかく急いで向かう」の二択ですが、自分はそのどちらも間違っているとは思いません。だから結局、どちらを『より正しい』と思うか、というような話になると思うんです、こういうのって。後者を選択することは場合によっては法に触れうる、それを理解した上でその誰かは「とにかく急いで向かう」ことを『より正しい』と判断した。この思考実験は、つまりそういう話なのかなと自分は思っています。そちらこそが『より正しい』と判断したのだから、飲酒運転で捕まってしまっても文句は言えないと思います。というか、『正しい』を踏み外すならそれくらいの覚悟が必要なんじゃないのかっていう話でもありますが……。飲酒運転って、普通に人を殺めうる行為ですし。何の覚悟もなしに『正しい』を犯そうというのは、それはただ単純に愚昧というだけではと思ったり思わなかったり、ですね。

 だから、「その誰かの行動は正しくなかった。でも、間違ってもいなかった」が自分の答になります。個々人に依らない尺度で測るなら「それは正しくなかった」。一方で、どちらを『より正しい』と思うか、という話なら「それは間違ってもいなかった」。そのように考える、という話でした。とはいえ、これはただの思考実験なのでこうして割り切った風に考えられるという話で、実際に発生する事件はなんていうか、もっと複雑な心境になりますね。つい先日の事件もそうですけれど……。自分がどの視点に立つのか。たったそれ一つだけのことで自身の考える『正しさ』、つまり「どちらを『より正しい』と思うか」なんてものはいとも容易く揺らいでしまうわけで、だからこそ絶対的な、自分自身も含めてあらゆる個人の事情を顧みない『正しさ』を唯一の基準にしたいと、そういった思いがあります。だから、自分の『より正しい』とか、他人の『より正しい』とか、そういったものを競わせることに意味なんてないんだろうなと、そう思います。

 

 以上が「『正しくない』と思うことに対して、どう考えているのか」ということに対する回答の一つになります。なんか結局、どちらを『より正しい』と思ったか、ということが自分の価値基準の中心にあって、そうして選んだ『より正しい』に対しては一切の責任を負うべき、というのが自分の考え方です。他人が何をどう比較して、結果的にどういう行動を起こすのかといったことは、多くの場合どうでもよいです。自分の『正しい』と他人の『正しい』が食い違っていようと自分は気にしませんし、先述の通り、状況によっては普段の自分が考える『より正しい』とは別の選択をすることもあります。だからまあ、例えば誰かと一緒に歩いていたと仮定して、そうして赤信号を守らなかったせいで自分が轢かれたとしても、それは他の誰のせいでもない、紛れもなく自分ひとりの責任だということですね。その行動を『より正しい』と思って選んだのは、その瞬間の自分だったわけなので。

 

 

 

20201021

 

 できれば誰にも嫌われたくない、というのは大なり小なり誰もが有している類の一つだと思います。それはまあ当然のことといいますか、誰だって必要以上に嫌われたくはないでしょうし、かく言う自分も例に漏れずそうです。しかし一方で、自分はあまり好かれたくもないなと思うこともたまにはあって。なんていうか、勘違いされたくないのが、それはいまの自分に対して好意的に接してくれている一部の人たちを無下にしようというわけではなくて、その、結果的にそうなっているのはもうよくて、なんだろうな、うまく言えませんけど、こう、その、アレです。いわゆるアレ。分かりますか? 自分は分かりません。「書いてるうちに考えがまとまるかなー」程度の見切り発車で word を立ち上げたのだろうな、ということが何となく分かってもらえたかと思います。その通りです。0時になったら睡眠の構えになるんですが、それまでまだ少し時間があるので、文字に起こして思考を整理しようという算段です。

 嫌われたくない気持ちと好かれたくない気持ちなら、恐らく前者のほうが強いとは思います。ただ、だからといって『好かれたくない』という欲求が無視できるほど小さいかといわれたらそうでもなくて。これはかなり昔に書いた話なんですが、自分、『友人』という関係に対するハードルがめちゃくちゃに高くて。人によっては「一回遊んだらもう友達」という考え方もあるかと思うんですが(考え方は人それぞれ。どちらがどうという話ではない)、自分の場合、知り合って五年近く経ったとしても『友人』にはカウントされないと思います。というか、そもそも『友人』の要件に経過日数が考慮されていないので、それはまあそうなんですが。というような話なんですけど、だから要するに、なんか、自分と他人との関係を言葉で表現するのがなんか嫌っていうか。嫌というより、なんだろ、押しつけがましい感じがするっていうか、きっと相手はそんなこと気にしないと思うんですけど。自分は誰かしらから友達として認定されることで不快になるなんてことはまずないんですが、いやでも、人によっては不快に思うかもしれないよな、と思ったり思わなかったり。だから、『友人』という言葉は滅多に使わないようにしていますし、それでも使う場合、その相手はかなり選んでいます。両手で足りるくらい。

 なんていうか、相手のことをひとたび『友人』と呼んでしまったが最後、そう振る舞うことを相手に押し付けてしまうような気がして、何度も言うように、きっと相手はそんなことを気にしないと思うんですが、自分は気にするので。『友人』と呼ばれないことで傷つく人ももしかしたらいるかもしれませんけれど、うーん、実のところ、その辺りのことをよく考えてないのではという気は自分でもしています。いやまあ、だからこういう面倒な部分こそが『好かれたくない』の顕れって気がするんですよね。自分の中にそういう気持ちが少なからずあるから、そういったことを他人に対して安易にはたらきたくない、みたいな感じの。でも『嫌われたくない』という気持ちもあり、そのことも一応分かってはいるので、そもそも他人のことを、関係性を示す名詞で呼ばないという中間択を採用し続けているわけですが……。他の例でいえば『後輩』という言葉もそうですが、最近ようやく一部の相手には抵抗なく使えるようになってきましたけれど、これにも何だか押しつけがましいような感じを覚えていたので、以前は意識的に使わないようにしていました。めんどくせー。

『特別になりたくない』っていうのが一番近いような気がしていて。『嫌われたくない』にせよ『好かれたくない』にせよ、なんか、めちゃくちゃ自意識過剰っぽいですけど、特別視されたくないという風に結局はまとめられるのかなって。嫌いだったり好きだったり、何かしら特別視している相手のことを想像してみてほしいんですけど、その相手のことを客観的に理解することができるかどうかという話で、自分は全く以てそんな気はしません。なんだろうな、プラスマイナスは問わず一定の特別視をしている相手に対しては『彼/彼女はこういう人間だ』と、大なり小なり決めつけてしまうような気がするんですよね、どうしても。それって、なんか失礼じゃないですか、相手に対して。そんな酷い役割の押し付けってそうそうないと思います。じゃあ「失礼と思うならやめろよ」という話にもなりますけれど、いや、それができないから特別に思っているのであって、こっちからはもうどうしようもないっていうか……。だから、せめてそういった『決めつけ』をなるだけ行わないよう、常に相手を正しく捉えようと努力するのが精一杯です。自分が相手に対して思っている『こういう人間だ』が良い内容であれ悪い内容であれ、相手にそれを押し付けるのってただの人格否定になりかねませんし。主観に歪んだ眼で相手(特に、好意的に思う対象)に向き合いたくないっていうか。人間なので限界はあるんですけど、それでも本人じゃない誰かが決めつけている『こういう人間』なんて一割も当たっていないに決まっているので、そういった先入観みたいなのはなるべく無しで付き合っていきたいよなって、そういう話です。

 これでやっとはじめの話に戻れるんですけど、だから、自分が『嫌われたくない』とか『好かれたくない』とか思うのって、要するに、そうなると自分自身のことを真っ直ぐにみてもらえなくなるからなのかなあ、と思うわけです。なんだろ。『こいつはこういう人間』みたいな思い込み、あるいはバイアスを介した付き合いかたを極力避けたいと思っていて。そういう意味で『嫌われたくない』し『好かれたくない』のかなあ、っていう。ニュートラルな視点を心がけろって、言うのは簡単ですけれど実行するのは至難ですし、というか自分は出来ないので。だからまあ、最初に言ったようなことを頭の片隅で考えつつ、でもそもそもの話、こういうめんどくさいことを考えるような自分にさえ、結構な特別視をしている相手が少なからずいるという以上、そんなの土台無理な話だよなというところに落ち着くんですよね、結局。

 

 あまりまとまらなかったなー。大人しく寝ます。

 

 

 

もう五年は風邪ひいてないな。

 

 例えばの話、「自分、もしかして風邪引いてる?」くらいのことなら誰しもある程度は判断できそうなものですけれど、それはあくまで『できそう』というだけであり、その精度は必ずしも百発百中というわけではありません。そんなのは当たり前のことで、それは何故かと言うと、社会に生きる多くの人は専門的な医療知識を有してないからです。経験則として「微妙に気怠いし、普通に熱っぽいし、これはきっと風邪だろうな」と判断をしているだけで、そこに絶対的な基準があるかといわれれば、まああまりないんじゃないかと思います(風邪なら体温計が基準になりえますけれど)。

 風邪でさえこんな具合なのに、況やより複雑な現象をや、という感じです。いやまあ、風邪も風邪で、よく分かんないウイルスにやられている状況を総じて『風邪』と呼ぶ、みたいな話を耳にしたことがあるので、事態は決して単純ではないのでしょうけれど……。ともかく、自分の身に起きていることを個々人で正確に診断するのって結構無茶っていうか、ほとんど不可能だよなあと自分は思います。なんか、少し前に歯医者へ行ったんですけど、「君、歯の神経経路が異常だね(この職に就いてもう長いが、こういう例はほとんど見たことがない)」といった旨の話をされ、「へえ~、そうだったのか~」と思わず笑っちゃったということがあり。生まれてから二十年以上経ちますけど、それでも気づいていない身体のバグって結構数あるんだろうなあと、今更ながらに実感したというエピソードの一つです。

 で、書きたかったのは別にそんなことではなく、むしろ肉体よりも精神的な側面から自分の身に起こる現象についてです。早い話が、自分ってもしかして HSP の類か? ということで( HSP の何たるかは wikipedia を参照してください)。何年か前から薄々感じてはいたんですが、もしかするとそうなのかな、というのを昨日一昨日くらいに夜道を歩きながら考えていて。なんだろ。自分は自分の眼からしか世界を捉えられないので他の人がどんな感じか分からないんですけど、例を挙げることにすると、たとえば飲食店にいると周りの人の会話が全部耳に入ってくるとかいうのがあります。一人で行ってようが、大人数で行ってようが、これは変わりません。だから、飲み会とかの場が結構な地獄なんですよね、自分。「なんで飲み会ダメなんだろ?」と考えていた頃が一時期あったんですが、『酒を飲んだ人間は基本煩い(かつ低俗な話題を軽率に扱いがち)』と『周囲の音が全部入ってくる』の相乗効果でダメなんだな、ということに気づいたのが何年か前のことです。という風に書くと『声が大きい。だから、全部が耳に入る』と読まれてしまうかもしれませんけど、そんなことは全くなく、たとえば適度に賑わっている飲食店の中で、特に誰からも咎められないようなボリュームで会話している誰かの声なんかも普通に聞こえてきて。いや、聴力自体は全人類の平均をとっていると思うので、なんだろうな、聴力版マサイ族みたいな、そういう滅茶苦茶に優れた耳を有しているというわけではなくて。多分、普通の人なら無意識のうちにシャットアウトできる外部の情報を、遮断せずに全部飲み込んじゃってるんだろうなっていう、そんな感じの曖昧な理解をしています。たとえば、飲食店で二つ隣の席に座っている二人組、あるいは斜向かいに座っている四人組、そういった人たちの会話を食事中に意識する人って、そりゃまあ僕と同種の人たちは同じでしょうけれど、でも、多分これって少数派なんだろうなという気がしていて。だからまあ、普通に賑わっている飲食店に入るのも、飲み会ほどに敬遠したいものではないにせよ若干しんどくはあるなってことに最近気づき、ただまあそっちのほうは誰かと入る分にはかなり楽になる(そちらとの会話に意識を向けられるため)ので、一人で行かない限り問題ないんですが。んー、どうなんでしょう? 『意識する』って言っても、盗み聞きしようとしてるわけでは決してなくて『勝手に耳に入ってくる』が正しいですけれど、これが普通なんですかね?

 他の例だと、なんだろうな。たとえば電車に乗るときとか、ホームの待機列でもし自分が列の先頭にいたのなら、乗り込んでから座る場所はなるべく奥のほうにするとか。……これ、例として適切ですか? よく分かりませんけれど、なんだろ、これは別に自分が親切だからとかではなく、そこでもし自分が扉に近い側の席へ座ろうとした場合、僅かな時間とはいえ通路を塞いでしまうことになり、一方で電車の扉は一定以上の広さがあるので一気に多くの人がなだれ込んできて、結局、後続にいる全員が不利益を被ることになるのは想像に難くない、という辺りにモチベーションがあるんですが。この話を以前知り合いにしたときに「それは想像力の産物では?」みたいな反応をされ、当時は「そうなのかも」と思ったものの、コロナ云々による自粛期間が終了し、また普段通りに鉄道を利用するようになってから「本当にそうかなあ」と考え始め。列に並んでいるとき、自分の後ろに人がいることは常に意識させられるわけで、……っていう認識がそもそも他の人と一致しているのかが分かりませんけれど、後ろに人がいるのは分かってるんだから、その邪魔になるようなことはなるべくすべきではない、という意識からそういった行動に移してるんじゃないかな、って思うことが最近多くて。だから、なんだろうな、これも『勝手に入ってくる情報』の一つなんですが。目? 目っていうか、なんだ、もうよく分かんないですけど。

 普通に歩道を歩いていて、すれ違った誰かと誰かの話している内容なんかも一瞬で入ってきます。その分、一瞬で忘れるんですが(一瞬は嘘で、二、三十秒したら忘れる)。そういえば、自分はやたらめったに人の多い場所が昔からとても苦手で、それはまあ『単純に人が多い』ことが『自身の進行の妨げになりうる』からって理由がちゃんとあるにはあって、実際それはそれで人混みが嫌いな理由の一つだと思うんですが、最近気づいたこととして、「自分、別に人混みを避けたくて仕方がないってわけではないな」というのがあって。なんだろ、二年前かな、何年ぶりに東京へ行ったことがあって、その夜は複数人の知り合いと行動を共にしていたんですが、そのときの人混みが本当にダメだったってのがあって。あのとき滅茶苦茶機嫌が悪くて、っていうか普通に気分が悪くて、知り合い全員に迷惑をかけてしまったな、と反省してるんですが。一方で梅田の駅前も大勢の人で溢れかえっていて、あるいは祇園四条でも構いませんけれど、あの日の東京と同じくらいの人だかり、なんならこっちの方が多いってくらいの、でもそこを歩いていても特にしんどくはならないな、ってことに気づいたというのがあって。「じゃあ何がダメだったんだ?」と考えたとき、理由はもしかすると他にもあるかもしれません(例えば、その日の体調とか)が、思いつく限りで最も妥当性の高そうなものとして、『イヤホンで音楽を聴いていたかどうか』なんじゃないかなあと、いまの自分は理解しています。複数人で行動をするとき、まず当然のこととしてイヤホンは耳にしません(それはそう)。加えて、これは実際に自分が団体のうちの一人として移動している時を想像してほしいんですが、『誰かとのコミュニケーションを常にとっている』という状況は(人によっては)あまり成り立たないんですよね。なんだろ、複数人、たとえば五人で移動しているとして、だからといってその五人全員が歩きながらの会話に参加しているわけではないっていうか。五人いるとしたら、会話をしているのなんてせいぜいそのうちの二、三人じゃないですか。だから状況としては『一人で歩いている』のと大して変わらないっていうか。それでじゃあ『複数人の知り合いと歩いた東京』と『一人で歩く梅田、祇園四条』を比較してみたときに、『一人で歩いている(誰とも会話をしていない)』という状況は同じで、一方で明確に異なっているのが『イヤホンを着けていたかどうか』なんです。「いや、そこでどうしてイヤホンが出てくるんだよ」って話ですけれど、それはもうこれまでの話を踏まえれば分かってもらえるはずで、色んな音が勝手に聞こえてくるんですよ、イヤホンをせずに歩いていると。思えば自分は一人で外を歩くときには十中八九イヤホンを着けていて、静かな朝や夜は外すことも勿論ありますけれど、でも基本的には着けていて、多分それのおかげで『勝手に聞こえてくる音』をシャットアウトできてるんだろうなって気がしていて(他にも、音楽のほうへ集中するので、視覚的な情報もある程度は断絶できる)。梅田とか祇園四条とか、そういう雑多な場所を一人で歩くときにイヤホンを外すことはまあなくて、だから平気なのかなあって。翻って、あの日の東京が本当にダメだった理由は、『人混みが嫌いだから』というよりはむしろ『人が多いことによって音が過剰に聞こえてくる』ことだったんじゃないかな、という風に理解を得ました(それによって気分が悪くなり、機嫌も悪くなり、怒りの対象が人混みそのものになっていた)。二人で歩いているときは全然平気なんですよね。それは多分、自分と誰かの二人しかいない場合、その誰かとのコミュニケーションにある程度のリソースを割く必要があって、それが結果として外部の情報を必要以上に認識しないことに繋がっているんじゃないか、と推理しています。なのでまあ、今後は同じような状況になっても手の打ちようがありそうだ、という感じです。自分一人のせいで周りに迷惑かけるわけにもいきませんしね……(もう既に何度かやってしまっているので)。

 とまあ長々と書いてきましたけれど、自分が本当に HSP の類なのかどうかということはさておき、自分が過剰な音に弱いのは間違いないと思ってます、いまのところ。過剰というのは、情報量が膨大、という意味であって(音が大きいという意味ではない)、それでいえば音に限った話ではなく、多分『勝手に入ってくる情報』が一定値を超えると気持ち悪くなってくるっていうか、処理能力のキャパシティをオーバーするんだろうなというように理解しています。対処法も分かっていて、音はイヤホンで耳を塞げば遮断できるし、視覚的な情報はいっそ眼鏡を外してしまえばいいですね(その分ちょっと危ないですけれど、これも実はよくやっている)。まあ先述の通り、音楽に意識を傾けていれば歩行者の顔や電光看板なんかが視界に割り込んでくる頻度は少なくなるので、イヤホンを着けておくだけで今のところはおおよそ凌げているわけですが。それにまあこれまでに書いたことがじゃあ果たして正解かというと、それはもう「いいえ、分かりません」って感じで、最初に書いた通り、自分で自分のことを正確に診断するのって不可能だと思うので。自分のことを一番よく知っているのは間違いなく自分自身ですが、だからこそ客観的にみれない部分もあって、それに自分は特別な知識を有しているわけでもないので、あくまで経験則的に導き出したこれまでの事実が、本当に自分の考えていた通りのものなのかということは分かりません。……だからって、別に詳細を知りたいとも特段思いませんけどね。この性質に名前が欲しいわけではないので。

 

 実際、自分が HSP なのかどうかということは心底どうだってよくて、いや、本当にどうでもいいんですよ。この性質、つまり周囲の人間(あるいは、より広く物体)の情報が必要以上に入ってくるという性質に悩まされ始めたのがだいたい高校一年生の頃、「どうやら自分はそういう性質を持っているらしい」ということに気がついたのが学部一回生になる手前か後かという辺り、それでその対処法を知っていること(具体的には、イヤホンで耳を塞ぐこと)に気づいたのが何ヶ月か前の話です。その間はといえばもうずっと「世界、うるせえ~~~~~~~」という感じで、周りの人間にも随分と迷惑をかけましたが、うまく折り合いをつける方法があるらしいことは薄々分かっていたので、だとしたら必要以上に気にすることはないかなあという感じ。むしろ、なんだろ、いまとなっては感謝している感さえあって。何度も言っているように『勝手に情報が入ってくる』のって相当なストレスなんですが、でもそのおかげでたとえば道端の石ころみたいな、日常の中に紛れている些細なものにも少しは気づけていたりするのかなと思ったり思わなかったりして。曲を作っていたり、文章を書いていたり、その瞬間の自分を支えているのは間違いなくそういった『勝手に入ってきた情報』、言い換えれば『探したわけでもないのに持っていたもの』だなあという気がしていて、だからなんていうか、これは完全に不毛な想像ですけれど、この厄介な性質をもし持っていなかったとして、いまと同じ自分が果たしてここにいたのかなあ、って考えたりして。いなかったんじゃないかなって思ったりして。そうだとしたら多分、作曲なんてしてなかったと思いますし。していたとしても、ここまで生活に根付いてはいなかったでしょうし。なので、少し感謝しています。自分はいまの自分と、その周囲にいてくれる人々のことをかなり気に入っているので。

 

 

 先日、「一葉さんって何で曲作ってるんですか?」みたいな質問を(同じく作曲が趣味の相手から)受け、返事はもう済ませたんですが、それはそれとして自分なりに真剣に考えてみたので、その結果をブログにも残しておこうと思い word を立ち上げ、しかし前置きの、しかも全く関係のない話だけで 5,000 字近く使っちゃいましたね。どうして?

「なんで創作やってんの?」って話は散々尽くされているような気がしていて、二年以上前にもブログに書いたんですが、当時の自分曰く「やりたいから」らしいです。間違ってはいませんけれど、それでは不十分ですね。もっと噛み砕けるっていうか、それこそ二年前の自分が『人混みが嫌い』な理由を『人が邪魔だから』だと認識していたみたいに、間違ってはないんですが、でも本質はそこじゃない、みたいな。要するに、全く尽くされていなかった。昨日の帰り道に考えてみるまで、正直何一つも分かってませんでした。だからまあ今回、偶然にもその『何故』に再び向き合う機会が訪れたので、二年前の自分を更新するという意味でも自分なりのアンサーを残そうと思ったんですが、それはまた次回にします。もう書きすぎちゃったんで。

 

 

 

20201016

 

 Windows が唐突にアップデートを始めたおかげで、いま DAW を立ち上げると PC が爆発しそうな感じなので、「久々にブログでも書くか」と word を開きました。とはいえ、書くことは何ひとつもないんですが……。いや、ないことはないんですけど、なんていうか、書きたいことがないっていうか。書こうと思えば書けるけども、みたいな感じです。

 

 これは日記なんですが、シャニマスを全然やらなくなりました。なんか、前回はたしか芹沢のイベントだったと思うんですけど、イベコミュは当然のように未読、芹沢も一枚分確保しただけでした。何だろう、理由は色々と思いつくんですが、中でも最たるものといえばプロセカ(初音ミクなどが出てくる音ゲー)をインストールしたことが大きいような気がしています。というのも自分、ソシャゲに限らずゲーム全般について、同時にプレイすることのできる作品数が 1 で固定されているっぽく。振り返ってみれば確かにそうで、幼少期がどうだったかは覚えていませんけれど、高校時代にやってたデレステはミリシタがリリースされてから全く触れなくなったし、そのミリシタはシャニマスにハマりだしてから全く触れなくなったし、そして今に至る、という感じです。前例を見るに、こうやって離れたコンテンツに戻ったことが一度もないので、その辺りはちょっと怖いですね。別にシャニが嫌いになったとかではないので、普通に追いかけたくはあるんですが。なんだろ。自分の考えることはよく分からないんですが、推察するに、あまり多くのことにリソースを割きたくないんでしょうかね。知りませんけど。

 

 これも日記なんですが、先述の通り、プロセカをインストールしました。リリース初日のインストールは何故か見送ったんですが、友人がプレイしているらしいということで二日目からは楽しく遊ばせてもらっています。自分、高校生の頃は普通にゲーセン型の音ゲーマーで、だから音ゲーは大好きなんですが、音ゲー型のソシャゲって疲れるし似たり寄ったりだしそもそも音ゲーじゃなくてキャラゲーだしといった感じで、多分もう一生やらないだろうなと思ってたんですが、そんなことは全くありませんでしたね。まあやっぱり音ゲーが好きなので。あとは、なんだろ。アイマスよりもボーカロイドの方が自分の文脈に近いというのが単純に大きいような気はします。向けた熱量的には後者のほうが大きいような気はするんですが、最初に触れた時期とか、あとボーカロイドは音楽や創作と直接結びついている(コンテンツとしての音楽ではなく、音楽そのものがコンテンツ)からとか。いやまあ、こういうのっていくらでも後付けできるからアレですけど、単に「そっちのが好きだから」の一言でまとめてしまえるような気もします。「アイドルが特段好きかと言われたら、別にそうでもないしなあ」っていう。いやでも、そのうち復帰したい気持ちはあります、一応。

 

 この時期、前後に所属サークルの大きめのイベントがあるのでいつも思うんですが、結局のところ音楽が一番楽しいなあっていう。もちろん、自分にとって、という話ですけれど。なんか、色々とやってみて、どれもこれも楽しかったり苦しかったりは共通だったんですが、『楽しい』のピークが一番大きいのは自分の場合、音楽になるのかなあ、という今更のことを何度目かぶりに認識しています。まあその分『苦しい』のピークも音楽が最高なんですが、それも含めて楽しいのが良いところだなと思ったり思わなかったり。いや、というか、こんなことはわざわざ言語化するまでもないことではあるのですけれど。実際、誰に何を言われたわけでなければ、特に重要な締切があるわけでもなく、何なら時間が溶けていくだけなのに、それでも別にやめようと思わないことが何よりの証左かなあって。楽しいと思わないことなんてわざわざやりたくないですし。一番楽しいと思えることを優先してやりたいですし。それだけの話ではありそうです。いまも懲りずに新曲を作ってるんですが、っていうかそのために DAW を起動しようとして、でもアップデートが入ったおかげで出来なくなったという流れでしたね。

 

 どうやらアップデートも終わったっぽいので今日はここでおしまいです。未だかつてないくらいに何の中身もない記事を書いてしまったんですが、ここまで読んでくださった方がいればありがとうございました。また何かあればブログを動かすと思うので、そのときはよろしくお願いします(何を?)。僕は作曲を頑張ります。