もう五年は風邪ひいてないな。

 

 例えばの話、「自分、もしかして風邪引いてる?」くらいのことなら誰しもある程度は判断できそうなものですけれど、それはあくまで『できそう』というだけであり、その精度は必ずしも百発百中というわけではありません。そんなのは当たり前のことで、それは何故かと言うと、社会に生きる多くの人は専門的な医療知識を有してないからです。経験則として「微妙に気怠いし、普通に熱っぽいし、これはきっと風邪だろうな」と判断をしているだけで、そこに絶対的な基準があるかといわれれば、まああまりないんじゃないかと思います(風邪なら体温計が基準になりえますけれど)。

 風邪でさえこんな具合なのに、況やより複雑な現象をや、という感じです。いやまあ、風邪も風邪で、よく分かんないウイルスにやられている状況を総じて『風邪』と呼ぶ、みたいな話を耳にしたことがあるので、事態は決して単純ではないのでしょうけれど……。ともかく、自分の身に起きていることを個々人で正確に診断するのって結構無茶っていうか、ほとんど不可能だよなあと自分は思います。なんか、少し前に歯医者へ行ったんですけど、「君、歯の神経経路が異常だね(この職に就いてもう長いが、こういう例はほとんど見たことがない)」といった旨の話をされ、「へえ~、そうだったのか~」と思わず笑っちゃったということがあり。生まれてから二十年以上経ちますけど、それでも気づいていない身体のバグって結構数あるんだろうなあと、今更ながらに実感したというエピソードの一つです。

 で、書きたかったのは別にそんなことではなく、むしろ肉体よりも精神的な側面から自分の身に起こる現象についてです。早い話が、自分ってもしかして HSP の類か? ということで( HSP の何たるかは wikipedia を参照してください)。何年か前から薄々感じてはいたんですが、もしかするとそうなのかな、というのを昨日一昨日くらいに夜道を歩きながら考えていて。なんだろ。自分は自分の眼からしか世界を捉えられないので他の人がどんな感じか分からないんですけど、例を挙げることにすると、たとえば飲食店にいると周りの人の会話が全部耳に入ってくるとかいうのがあります。一人で行ってようが、大人数で行ってようが、これは変わりません。だから、飲み会とかの場が結構な地獄なんですよね、自分。「なんで飲み会ダメなんだろ?」と考えていた頃が一時期あったんですが、『酒を飲んだ人間は基本煩い(かつ低俗な話題を軽率に扱いがち)』と『周囲の音が全部入ってくる』の相乗効果でダメなんだな、ということに気づいたのが何年か前のことです。という風に書くと『声が大きい。だから、全部が耳に入る』と読まれてしまうかもしれませんけど、そんなことは全くなく、たとえば適度に賑わっている飲食店の中で、特に誰からも咎められないようなボリュームで会話している誰かの声なんかも普通に聞こえてきて。いや、聴力自体は全人類の平均をとっていると思うので、なんだろうな、聴力版マサイ族みたいな、そういう滅茶苦茶に優れた耳を有しているというわけではなくて。多分、普通の人なら無意識のうちにシャットアウトできる外部の情報を、遮断せずに全部飲み込んじゃってるんだろうなっていう、そんな感じの曖昧な理解をしています。たとえば、飲食店で二つ隣の席に座っている二人組、あるいは斜向かいに座っている四人組、そういった人たちの会話を食事中に意識する人って、そりゃまあ僕と同種の人たちは同じでしょうけれど、でも、多分これって少数派なんだろうなという気がしていて。だからまあ、普通に賑わっている飲食店に入るのも、飲み会ほどに敬遠したいものではないにせよ若干しんどくはあるなってことに最近気づき、ただまあそっちのほうは誰かと入る分にはかなり楽になる(そちらとの会話に意識を向けられるため)ので、一人で行かない限り問題ないんですが。んー、どうなんでしょう? 『意識する』って言っても、盗み聞きしようとしてるわけでは決してなくて『勝手に耳に入ってくる』が正しいですけれど、これが普通なんですかね?

 他の例だと、なんだろうな。たとえば電車に乗るときとか、ホームの待機列でもし自分が列の先頭にいたのなら、乗り込んでから座る場所はなるべく奥のほうにするとか。……これ、例として適切ですか? よく分かりませんけれど、なんだろ、これは別に自分が親切だからとかではなく、そこでもし自分が扉に近い側の席へ座ろうとした場合、僅かな時間とはいえ通路を塞いでしまうことになり、一方で電車の扉は一定以上の広さがあるので一気に多くの人がなだれ込んできて、結局、後続にいる全員が不利益を被ることになるのは想像に難くない、という辺りにモチベーションがあるんですが。この話を以前知り合いにしたときに「それは想像力の産物では?」みたいな反応をされ、当時は「そうなのかも」と思ったものの、コロナ云々による自粛期間が終了し、また普段通りに鉄道を利用するようになってから「本当にそうかなあ」と考え始め。列に並んでいるとき、自分の後ろに人がいることは常に意識させられるわけで、……っていう認識がそもそも他の人と一致しているのかが分かりませんけれど、後ろに人がいるのは分かってるんだから、その邪魔になるようなことはなるべくすべきではない、という意識からそういった行動に移してるんじゃないかな、って思うことが最近多くて。だから、なんだろうな、これも『勝手に入ってくる情報』の一つなんですが。目? 目っていうか、なんだ、もうよく分かんないですけど。

 普通に歩道を歩いていて、すれ違った誰かと誰かの話している内容なんかも一瞬で入ってきます。その分、一瞬で忘れるんですが(一瞬は嘘で、二、三十秒したら忘れる)。そういえば、自分はやたらめったに人の多い場所が昔からとても苦手で、それはまあ『単純に人が多い』ことが『自身の進行の妨げになりうる』からって理由がちゃんとあるにはあって、実際それはそれで人混みが嫌いな理由の一つだと思うんですが、最近気づいたこととして、「自分、別に人混みを避けたくて仕方がないってわけではないな」というのがあって。なんだろ、二年前かな、何年ぶりに東京へ行ったことがあって、その夜は複数人の知り合いと行動を共にしていたんですが、そのときの人混みが本当にダメだったってのがあって。あのとき滅茶苦茶機嫌が悪くて、っていうか普通に気分が悪くて、知り合い全員に迷惑をかけてしまったな、と反省してるんですが。一方で梅田の駅前も大勢の人で溢れかえっていて、あるいは祇園四条でも構いませんけれど、あの日の東京と同じくらいの人だかり、なんならこっちの方が多いってくらいの、でもそこを歩いていても特にしんどくはならないな、ってことに気づいたというのがあって。「じゃあ何がダメだったんだ?」と考えたとき、理由はもしかすると他にもあるかもしれません(例えば、その日の体調とか)が、思いつく限りで最も妥当性の高そうなものとして、『イヤホンで音楽を聴いていたかどうか』なんじゃないかなあと、いまの自分は理解しています。複数人で行動をするとき、まず当然のこととしてイヤホンは耳にしません(それはそう)。加えて、これは実際に自分が団体のうちの一人として移動している時を想像してほしいんですが、『誰かとのコミュニケーションを常にとっている』という状況は(人によっては)あまり成り立たないんですよね。なんだろ、複数人、たとえば五人で移動しているとして、だからといってその五人全員が歩きながらの会話に参加しているわけではないっていうか。五人いるとしたら、会話をしているのなんてせいぜいそのうちの二、三人じゃないですか。だから状況としては『一人で歩いている』のと大して変わらないっていうか。それでじゃあ『複数人の知り合いと歩いた東京』と『一人で歩く梅田、祇園四条』を比較してみたときに、『一人で歩いている(誰とも会話をしていない)』という状況は同じで、一方で明確に異なっているのが『イヤホンを着けていたかどうか』なんです。「いや、そこでどうしてイヤホンが出てくるんだよ」って話ですけれど、それはもうこれまでの話を踏まえれば分かってもらえるはずで、色んな音が勝手に聞こえてくるんですよ、イヤホンをせずに歩いていると。思えば自分は一人で外を歩くときには十中八九イヤホンを着けていて、静かな朝や夜は外すことも勿論ありますけれど、でも基本的には着けていて、多分それのおかげで『勝手に聞こえてくる音』をシャットアウトできてるんだろうなって気がしていて(他にも、音楽のほうへ集中するので、視覚的な情報もある程度は断絶できる)。梅田とか祇園四条とか、そういう雑多な場所を一人で歩くときにイヤホンを外すことはまあなくて、だから平気なのかなあって。翻って、あの日の東京が本当にダメだった理由は、『人混みが嫌いだから』というよりはむしろ『人が多いことによって音が過剰に聞こえてくる』ことだったんじゃないかな、という風に理解を得ました(それによって気分が悪くなり、機嫌も悪くなり、怒りの対象が人混みそのものになっていた)。二人で歩いているときは全然平気なんですよね。それは多分、自分と誰かの二人しかいない場合、その誰かとのコミュニケーションにある程度のリソースを割く必要があって、それが結果として外部の情報を必要以上に認識しないことに繋がっているんじゃないか、と推理しています。なのでまあ、今後は同じような状況になっても手の打ちようがありそうだ、という感じです。自分一人のせいで周りに迷惑かけるわけにもいきませんしね……(もう既に何度かやってしまっているので)。

 とまあ長々と書いてきましたけれど、自分が本当に HSP の類なのかどうかということはさておき、自分が過剰な音に弱いのは間違いないと思ってます、いまのところ。過剰というのは、情報量が膨大、という意味であって(音が大きいという意味ではない)、それでいえば音に限った話ではなく、多分『勝手に入ってくる情報』が一定値を超えると気持ち悪くなってくるっていうか、処理能力のキャパシティをオーバーするんだろうなというように理解しています。対処法も分かっていて、音はイヤホンで耳を塞げば遮断できるし、視覚的な情報はいっそ眼鏡を外してしまえばいいですね(その分ちょっと危ないですけれど、これも実はよくやっている)。まあ先述の通り、音楽に意識を傾けていれば歩行者の顔や電光看板なんかが視界に割り込んでくる頻度は少なくなるので、イヤホンを着けておくだけで今のところはおおよそ凌げているわけですが。それにまあこれまでに書いたことがじゃあ果たして正解かというと、それはもう「いいえ、分かりません」って感じで、最初に書いた通り、自分で自分のことを正確に診断するのって不可能だと思うので。自分のことを一番よく知っているのは間違いなく自分自身ですが、だからこそ客観的にみれない部分もあって、それに自分は特別な知識を有しているわけでもないので、あくまで経験則的に導き出したこれまでの事実が、本当に自分の考えていた通りのものなのかということは分かりません。……だからって、別に詳細を知りたいとも特段思いませんけどね。この性質に名前が欲しいわけではないので。

 

 実際、自分が HSP なのかどうかということは心底どうだってよくて、いや、本当にどうでもいいんですよ。この性質、つまり周囲の人間(あるいは、より広く物体)の情報が必要以上に入ってくるという性質に悩まされ始めたのがだいたい高校一年生の頃、「どうやら自分はそういう性質を持っているらしい」ということに気がついたのが学部一回生になる手前か後かという辺り、それでその対処法を知っていること(具体的には、イヤホンで耳を塞ぐこと)に気づいたのが何ヶ月か前の話です。その間はといえばもうずっと「世界、うるせえ~~~~~~~」という感じで、周りの人間にも随分と迷惑をかけましたが、うまく折り合いをつける方法があるらしいことは薄々分かっていたので、だとしたら必要以上に気にすることはないかなあという感じ。むしろ、なんだろ、いまとなっては感謝している感さえあって。何度も言っているように『勝手に情報が入ってくる』のって相当なストレスなんですが、でもそのおかげでたとえば道端の石ころみたいな、日常の中に紛れている些細なものにも少しは気づけていたりするのかなと思ったり思わなかったりして。曲を作っていたり、文章を書いていたり、その瞬間の自分を支えているのは間違いなくそういった『勝手に入ってきた情報』、言い換えれば『探したわけでもないのに持っていたもの』だなあという気がしていて、だからなんていうか、これは完全に不毛な想像ですけれど、この厄介な性質をもし持っていなかったとして、いまと同じ自分が果たしてここにいたのかなあ、って考えたりして。いなかったんじゃないかなって思ったりして。そうだとしたら多分、作曲なんてしてなかったと思いますし。していたとしても、ここまで生活に根付いてはいなかったでしょうし。なので、少し感謝しています。自分はいまの自分と、その周囲にいてくれる人々のことをかなり気に入っているので。

 

 

 先日、「一葉さんって何で曲作ってるんですか?」みたいな質問を(同じく作曲が趣味の相手から)受け、返事はもう済ませたんですが、それはそれとして自分なりに真剣に考えてみたので、その結果をブログにも残しておこうと思い word を立ち上げ、しかし前置きの、しかも全く関係のない話だけで 5,000 字近く使っちゃいましたね。どうして?

「なんで創作やってんの?」って話は散々尽くされているような気がしていて、二年以上前にもブログに書いたんですが、当時の自分曰く「やりたいから」らしいです。間違ってはいませんけれど、それでは不十分ですね。もっと噛み砕けるっていうか、それこそ二年前の自分が『人混みが嫌い』な理由を『人が邪魔だから』だと認識していたみたいに、間違ってはないんですが、でも本質はそこじゃない、みたいな。要するに、全く尽くされていなかった。昨日の帰り道に考えてみるまで、正直何一つも分かってませんでした。だからまあ今回、偶然にもその『何故』に再び向き合う機会が訪れたので、二年前の自分を更新するという意味でも自分なりのアンサーを残そうと思ったんですが、それはまた次回にします。もう書きすぎちゃったんで。