潔癖症

 

 というタイトルをつけたものの、自分は別に潔癖症ではありません。それはまあ、自分の家に来たことのある人なら「そりゃそうだろ」と思うと思うんですけど、現実世界での自分を知らない人向けという意味も込めて改めて記しておきました。「じゃあ何で潔癖症なんてタイトルで書こうと思ったんだ」という話をしておくと、もしもこれ以降で『潔癖症』という言葉が用いられた場合には(使わないと思うけど)そういう風に読み替えてくれたらいいんですが、書こうと思ったのは狭義の意味でのそれではなく、比喩的なそれといいますか、比喩って何なのかよく分かってないので適当なことは言えないのですが、とにかく具体的な症例としての潔癖症ではありません。なんていうか、『間違ったことを嫌う気持ち』くらいに変換してもらえればと思います。

 それで言うと、昔の自分は相当な潔癖症でして。ここでいう『昔』は大体高校一年生くらいの頃のことなので、このブログを読んでいる九割九分の人は知らない頃の自分だと思うんですが、まあ、以前の自分はそのような感じでした。どうでしょう、想像に難くないですか? 真っ先に「まあ、お前はそうかもな」と考えた人がいたとすれば、そのことを嬉しく思う反面、なんかちょっと複雑な気持ちにもなりますね。なんか、なんだろ。理由はちょっと分かんないですけど。

 

 もしかしたらごく一部の人には「山上一葉は『間違ったことを正したがる人間』である」と思われてるんじゃないかなあ、と考える機会があって。自分としてはそういう立ち振る舞いをしたことはあまり無いつもりだったんですけど、でもまあ、こういう場で「間違っていることが嫌」ということは散々のように書いているので、断片的に繋ぎ合わせた情報からそういった結論が、あるいはイメージが、形成されてしまってもそれは仕方のないことのような、というか、それについては一方的に自分が悪いという気がしていて。だからまあ、別にその考えを正したいとかいう気持ちは今更なくて、「いや、お前はそういう人間でしょ」という決めつけに反論する気も特にありません。

 たしかにまあ、間違っていることを嫌だと思う気持ちは、かなり強くあります。それは今も昔もそうです。でも、なんだろ。こういう話も何年か前にしたような気がするんですけど、その、自分が『これは正しくない』と思うことをなるべくしたくない、というのが結局のところ全部で。その『これは正しくない』には一般常識的なものがあれば、きわめて個人的なものもあります。たとえば、『大人数で道を塞がない』は一般常識の枠です。自分がこれに遭遇すると嫌なので、場合によっては誰かに注意することがあるかもしれません。『公共の場で必要以上に騒がない』も一般常識の枠で、これについても同様に注意することがあります。といっても、騒がしさを必要以上に嫌うのはどうやら自分のほうに問題があるのでは、という可能性が数ヶ月ほど前から浮上してきているので、これの分類については審議を要するかもしれません。

 一方で、『赤信号を守る』。これは個人枠のもので、誰かに注意したことは(記憶の限りで)一度もありません。ああ、いや、これは嘘で、中学生か高校生かのときに一度だけ知人に注意したことがあるんですが、それっきりです。どうして他人にわざわざ注意しないかといえば、それは「『赤信号を守る』は自分だけが守っていればいいから」です。だからまあ、別に他の人がどうしてようが知ったことではないといいますか、あくまで自分は守るけど、というスタンスで基本的に動いています。以前「でも、信号を守らないとお前は怒るじゃん」と言われたことがあるのですが、これは若干見誤っていて、自分も普通に信号を無視する場合があります。それが一体どういう場合なのかというと、信号を守らない人と(2,3人で)一緒に歩いているとき、です。守らない、だなんて書き方をすると「ほら、やっぱ怒ってんじゃん」なんてことを言われそうですけど、しかしここに『守らない』以上の意味や意図は全くなくて。自分はそれを『正しくない』と思うんですが、一方で「いや、たとえば真夜中みたいに、車の往来が一切ないときは流石に信号無視していいでしょ(歩行者の場合)」という考え方が、『正しくない』と思うとはいえ、一方で間違っているとも全く思いません。いや、実際、その通りですし。その主張に反論の余地なんてなくないですか? だからどちらにしても間違いではないはずで、あとは自分がそのどちらを『より正しい』と考えるのかが問題なんじゃないかと自分は思っています。そのうえで、自分は『赤信号を守る』のほうが『より正しい』と考えるからそうしているというだけの話なわけで、他の人がどちらを選ぼうが別にどうでもいいんですよね。だって、どちらにせよ間違っていないことは分かっているので。なので『信号を守らないこと』に対して自分が不機嫌になっているようにみえた経験のある人がもしいるとすれば、それはただのバイアスか、あるいは別の要因で不機嫌だったというだけです。他人が信号を守るかどうかはどうだってよく、先述の通り、自分もたまには信号を破るので。

 別の例でいえば『自転車を路上に停めない』もそうですね。路上っていうか、自分がイメージしているのは裏路地とか、あるいは幅の狭い道についてですけれど、これもまた個人的な枠のそれです。京都市、というか自分の大学の近辺は路上駐輪の規制が割と強くって、用を済ませている間に自転車を回収されたという知り合いは、それはもう星の数ほどいるんですが、一応、料金を払うことで駐輪できるようなスペースがあるにはあって。なので自分は「そこに停めればいいのに」と思ったりします。自分の自転車は京都へ来てから二か月余りでお役御免になり、以来、自分の移動手段は徒歩に限られているので全く関係ないのですが、自転車持ちの知人と行動しているときなんかにそういうことを思います。言いませんけどね。これも別に「こいつの自転車が持ってかれようがどうだっていいし」的な考えに起因するものというわけではなくて、単純に「いや、いちいち駐輪場に停めるの、面倒だしお金かかるし嫌じゃん」という主張を、自分は間違ってはいないと考えるためです。だからあとはどちらが『より正しい』と自分が思うかどうかという話で、その結果が自分は「いや、やっぱり駐輪場を利用したほうがいいんじゃない?(自転車回収されたら面倒だろうし)」になっている、ということでして、なので他の人がどちらを『より正しい』と思ってどのように行動しようが、そのことにとやかく言おうという気持ちは全くありません。別に、どちらも間違ってはいないので。

 

 自分が何を『正しくない』と思うかについては何度か書いていて、それは例えば『赤信号を守る』の話なんかは結構数していると思うんですが、一方で「『正しくない』と思うことに対して、どう考えているのか」みたいな話はあまりしたことがなかった気がするな、ということを思って。そのせいで、もしかしたら『間違いを正したがる人間』みたいに思われてたりするのかなあ、と思って。こういうの、ちゃんと言わなきゃ伝わらないんだろうなって。いやまあ、あまりしたことがなかったというだけで、書いたことは一応あるんですけどね。その、「『正しくない』と思うことに対して、どう考えているのか」みたいな話は、何年か前に。

 なんだっけ、たしか飲酒運転の話なんですよ。思考実験ですけど、それはもうめちゃくちゃに切迫した状況の人がいて、いますぐに〇〇へ行かなきゃいけない(身内の不幸などを想像してもらえれば)のに、自分の家は相当な山奥にあってタクシーを呼んだりは出来ないし、いま家にいるのは自分だけだし、となれば自分で運転するしかないけれど数時間前にお酒を呑んでしまったし……、みたいな人がいたと仮定し、しかしその誰かは結果的に飲酒運転で捕まってしまいました。さてこのとき、その誰かの行動は間違っていたのだろうか? というのが大まかな内容です。この問いに対する自分の考えは当時と変わっておらず、「その誰かの行動は正しくなかった。でも、間違ってもいなかった」です。

 その誰かの行動が『正しい』ものだとは、自分には到底思えません。どんな理由がそこにあったとしても、飲酒運転という危険行為が『正しい』側に居座ることは、少なくとも自分の価値基準では決してありえません。「呑んだのは数時間前だから」とか「ちょっとしか呑んでないから」とか、あるいは「事態が本当に切迫していて、それしかなかった」とか、そういった状況証拠が『正しい』か否かの判定に繋がることはまずなくて、何故かと言えば、それを認めてしまうと『正しい』が絶対的なものではなくなってしまうからです。現代に生きる多くの人たちは『人を殺めてはいけない』というルールを『正しい』ものとして認識していますけれど、上のような思考実験で状況証拠の反映を認めるのであれば、例えば通り魔的な凶行に及んだ誰かがいたとすれば、その誰かの生い立ちや環境などを十分に考慮するという姿勢でその事件に向き合うべきだと思います。でも、自分の見る限り、世間の多数派はそうでないというか、勿論、そういうスタンスの人も大勢いると思うんですが、どうにも感情的に反応してしまいがちというか。『娘がトラックに撥ねられたという電話が来て、血相を変えて会社を飛び出し、結果、信号無視による事故を起こしてしまった人』と『なんとなくスピードを出しすぎて、普通に信号無視による交通事故を起こしてしまった人』の二人が同時にニュース番組へ上がってきたら、多くの人は前者に同情し、一方で後者を責めるんじゃないかと自分は思っていて。その反応が間違っているとは全く思いませんが、でも、結果だけをみれば両者ともに交通事故を起こしているわけで、もしかしたら怪我人や死者が出ているかもしれないわけです。そこに何の違いがあるのかなって思うことがあって。その誰かの事態が差し迫っていれば『信号無視による交通事故』は正当化されるんですか? 少なくとも自分はそうは思わず、しかし自分たちの直感というか感情というかは、どうしてもそういった周辺情報につられてしまいがちで。だから、『正しさ』の判定に状況証拠を反映することに、自分は否定的な立場でいます。『信号無視による交通事故』や、あるいははじめの例の『飲酒運転』が『正しい』かどうかは、もっと別の、個々人に依存しない因子で定義されるべきだと自分は考えていて、その一つが法律です。ともかく、そこにどんな事情があったとしても、自分は『飲酒運転』を『正しい』ものだとは思えませんし、思いません。

 一方で、間違っているとも思えません。はじめの思考実験に戻るとすれば、たとえばそこに身内の不幸などがあったとすれば、何を投げ捨ててでも急いで向かうでしょう、きっと、誰だって。飲酒運転がどうとか、そんなことを気にしてる場合じゃないと思います。だから、そこに選択があるのかなって自分は思っていて、それは「たとえ時間がかかるとしても、別の移動手段を試みる」か「とにかく急いで向かう」の二択ですが、自分はそのどちらも間違っているとは思いません。だから結局、どちらを『より正しい』と思うか、というような話になると思うんです、こういうのって。後者を選択することは場合によっては法に触れうる、それを理解した上でその誰かは「とにかく急いで向かう」ことを『より正しい』と判断した。この思考実験は、つまりそういう話なのかなと自分は思っています。そちらこそが『より正しい』と判断したのだから、飲酒運転で捕まってしまっても文句は言えないと思います。というか、『正しい』を踏み外すならそれくらいの覚悟が必要なんじゃないのかっていう話でもありますが……。飲酒運転って、普通に人を殺めうる行為ですし。何の覚悟もなしに『正しい』を犯そうというのは、それはただ単純に愚昧というだけではと思ったり思わなかったり、ですね。

 だから、「その誰かの行動は正しくなかった。でも、間違ってもいなかった」が自分の答になります。個々人に依らない尺度で測るなら「それは正しくなかった」。一方で、どちらを『より正しい』と思うか、という話なら「それは間違ってもいなかった」。そのように考える、という話でした。とはいえ、これはただの思考実験なのでこうして割り切った風に考えられるという話で、実際に発生する事件はなんていうか、もっと複雑な心境になりますね。つい先日の事件もそうですけれど……。自分がどの視点に立つのか。たったそれ一つだけのことで自身の考える『正しさ』、つまり「どちらを『より正しい』と思うか」なんてものはいとも容易く揺らいでしまうわけで、だからこそ絶対的な、自分自身も含めてあらゆる個人の事情を顧みない『正しさ』を唯一の基準にしたいと、そういった思いがあります。だから、自分の『より正しい』とか、他人の『より正しい』とか、そういったものを競わせることに意味なんてないんだろうなと、そう思います。

 

 以上が「『正しくない』と思うことに対して、どう考えているのか」ということに対する回答の一つになります。なんか結局、どちらを『より正しい』と思ったか、ということが自分の価値基準の中心にあって、そうして選んだ『より正しい』に対しては一切の責任を負うべき、というのが自分の考え方です。他人が何をどう比較して、結果的にどういう行動を起こすのかといったことは、多くの場合どうでもよいです。自分の『正しい』と他人の『正しい』が食い違っていようと自分は気にしませんし、先述の通り、状況によっては普段の自分が考える『より正しい』とは別の選択をすることもあります。だからまあ、例えば誰かと一緒に歩いていたと仮定して、そうして赤信号を守らなかったせいで自分が轢かれたとしても、それは他の誰のせいでもない、紛れもなく自分ひとりの責任だということですね。その行動を『より正しい』と思って選んだのは、その瞬間の自分だったわけなので。