近況_20200318

 

 近況とはいきなり全くの関係がないんですが、目が覚めて、具体的には睡眠状態から意識が覚醒して、世界とのチャンネルがうまく合わせられないというような違和感に数分間襲われることが時たまあり(多分誰でもある)、夢の内容が幸福まさしくそのものであろうが(幸福そのものみたいな夢って、長らく見ていないような気がするけれど)、あるいは在りもしない恐怖感情を煽るようなものであろうが、その辺りに区別めいた境界線は大してなく、夢の世界に分け隔てなく引き摺られるというか、いまの自分がどういった日常の中に置かれているのかということを確認するところから行動を始めなくてはならない、みたいな状況がちょくちょく起こります。だから何だという話でもなく、今日、昼寝をしていたらそういう夢をみてそういう事態に陥ったというだけのことなのですが……。でもなんていうか、ああやって頭の中で複数の記憶(記憶?)が混線しているような奇妙な感覚が、自分は割と好きだったりもするんですよね。ついさっきまで入り組んだ美術館みたいな場所にいたはずで、そこで目測四十代ほどの大柄な男と何かしら切実な会話をして、たしか自分はその人にもう一度会わなくてはならないのではなかったっけ……、みたいな。こういうときはだいたい理性が勝つので、理性というよりは常識が勝つので、ああさっきまでのは夢だったのか、と文字通り無事に、事も無げに片づけてしまえるわけですけれど、そのために「どうして自分はベッドの上に?」という疑問を整理する時間が三分ほどあるというだけの話でした。どうなんでしょう。たとえば自分がもっと歳をとるとか、あるいは仮想と現実の境界がより曖昧になるとか、そういった場合、この「どうして」がもう少し重たくなったりもするんですかね。いや、知りませんけれど。

 

 いまの自分の立場とか、環境とか、大雑把にまとめると日々の生活のことを、自分はある種のボーナスステージみたいに捉えている節があって、だからというとたとえば彼なんかには申し訳ないとは思うのですけれど、今後の人生で成し遂げたいことの明確なビジョンみたいなものがおおよそなくてですね。こういう風に書くと曖昧なそれであれば多少はあるという読み方ができてしまいますけれど、残念ながらそれもなく。ただ何となくで前へ上へ後ろへ下へと進んでいたら、どうにもなんなくなってしまったというのが正直なところで。

 どうしてこんなことを急に言い始めたのかというと、遡ること一か月ほど前、自分はこのまま平穏無事に過ぎれば一年で卒業する身なので、今年は世間に所謂ったところの†卒論†があるんです。いや、ないんですけど。自分の所属する学科では卒論の代わりに課題研究があり、まああるんですよ、それが。自分はほとんど何も考えずに整数論分野を志望し、第一志望に据えるならより高度な内容を扱う教授のほうがいいのかなあ、くらいの気持ちで用紙を提出し、で何故か第一志望に通ってしまい。同じ教授のところに落ちたという連絡を知り合いから聞いていたので、正直通るとは露ほども思っておらず、何なら第三志望に回されるまで読んでいたので割と喜び、来期は頑張ろうという気持ちではあったのですけれど、今日、その教授と研究メンバーとの打ち合わせみたいなのがあり、そこでまあ、実際には吐いてないんですが、気分的にはそれはもう胃潰瘍かよってレベルの血反吐を撒き散らすほどのそれで。別に、何一つも成し遂げないままで学部四回生まで来てしまったとは全く思っておらず、だからといってやっていたことは何かといえば自分の場合、それは音楽ということになるのですが……。勉強面でいえば、自分は学科配属のためのボーダーを決定する試験に引っかかっていたり、一回生配当の線形微積の単位すら落としていたりと(再試験に救われた)、学科の落ちこぼれという自覚はそれなりに強くあったんですが、三回生の春におよそ初めて大学数学を楽しいと思い始め、だからもうそもそもの話スタートを切ったのが致命的に遅かったというのはあり、それもまた認識しつつ、後れを取り戻すではないですけれど去年度はそこそこに学問を頑張り、結果、卒研の第一志望に受け入れてもらえたところまではよかったんですが。

 今日の打ち合わせのときに教授から「大学院へ進学するまでには自分の研究したい分野を考えておいてください」という至極真っ当な論を直球ストレートのデッドボールみたく脳に食らい(『MAJOR』なら死んでた)、加えて同卒研の同期たちが割と研究者志望っぽいということを肌で感じ、別に研究者志望というわけでもなく、強いて挙げるなら楽しいからというだけの理由でここまで学問をやってきた自分としては、ぐえ~、みたいな気持ちになったわけです。卒研についても院試についても、なんなら大学受験でも、まあ上に行けるんならそうしたほうが後々いいんじゃない?(行けなくてもそれはそれでいいし)程度の認識だったので(冒頭の『ボーナスステージ』はそういう意味でもそう)、しかし学部四回ともなればいよいよその程度の意識ではいけないのだなあと痛感し、しかし痛感しただけで何かを変えることが出来るのなら苦労はなく、というわけで学部四回を無事に終えられるのかという不安に苛まれています、いま。

 これが近況です。三回後期も結局は何とかなったので、今回もまあ何とかはなるだろうという超楽観視をとりあえずはしているのですが……。

 

 卒研がそんな感じで早くもハードな様相を呈しており、さらに来期は避けに避けてきた幾何学などを討伐せねばならず、その上で院試もあり(なんと半年を切っている)、それはそれとして音楽は続けたいので、さてどうなるかなという感じです。いっそ他人事みたいに。まあ最悪、ここに遺書を掲載することにさえならなければそれでいいかなと思っています、いまのところ。

 

 あと、これは完全にただの報告ですが sasakure.uk の新譜『エルゴスム』がとてもよかったです。曲は言わずもがな、アルバム全体のデザインが(外装や歌詞カードも含めて)がめちゃくちゃによかった……。 

 

 

 

また明日

 

 それをいったいどのようにして定義するかということにも依存しそうですが、一先ず普遍的な定義を採用した上で考えてみたところ、いわゆるハッピーエンドみたいなものを自分はあまり信じられなくて。だからといってバッドエンド至上主義というわけでは全くないのですけれど、なんていうか、現実にありふれている終わり方って基本的に良いも悪いもないものばかりだよな、みたいな、そういった思いがありまして。これは、物語は悉く現実に即しているべき、という意味ではなく、というかもとより物語の結末について論じたいわけではなくて、だからこれは現実世界における話です。主人公であるところの阿良々木暦を前にして『俺もお前も大した人間でないし、劇的ではない』みたいなことを平然と言ってのけたのは貝木泥舟、もとい西尾維新ですが、この台詞について特別な思い入れがあるというわけではなく、しかしそれはそれとして共鳴はしておりですね。少なくとも自分は自分自身のことを、世界を認識し解釈するための唯一のデバイス的な意味で、たとえばライトノベルなんかで周囲の現象を淡々と記述する一人称をそう呼ぶみたいに、主人公と呼んで差し支えないと思っているのですが、しかしそれは、だからあくまで機能的な意味合いでしかなく。自己を経由することでしか物事を認識できないために些細なことでも劇的なそれに映ってしまったりするわけで、どんなに嬉しいことも、どんなに悲しいことも、七十何億か分の一でしかないんだよなという。いやまあ、その前提に立ったところで嬉しいものは嬉しいし悲しいものは悲しいので、こんなのはただの思考実験みたいなものですけれど。冒頭の話に戻るとすれば、結局、自分はいわゆるハッピーエンドみたいな経験をした覚えが大してなく、むしろバッドエンドとまでは言わないまでも少なくともハッピーエンドではないという結末のほうが強く思い出され、そういう次第でうまく呑み込めないのかもという風に考えてみたりもします。友情努力勝利みたいな学生生活とは程よく無縁だったので。

 

『「じゃあね、また明日」』を作った当時のことはあまり覚えておらず、なにせ一年以上も前の曲(自分で書いていて驚いている)なので。あの曲はサビのメロディが最初にあり、それ自体は保存してあるファイルの名前から2018/11/29時点でこの世に存在していたことが分かるのですが、本格的な制作に取り掛かったのは(これも保存してあるファイルデータから)翌年に入ってからのことで、なんていうか、そのインターバルが長すぎて本当に何も覚えておらずです。何を考えて作ったのかとか。多分、大したことは何も考えてなかったと思うんですが。唯一覚えていることといえば、自分は歌詞を書くとなったときにメロディラインをなぞりつつ思い浮かんだ単語なり一文なりを取っ掛かりにすることが多く、それでいえばあの曲はサビの歌詞で曲名にもなっている『「じゃあね、また明日」』という部分がその取っ掛かりでした、たしか。その段階では言葉を探すことさえしないので、とりあえず馴染むフレーズが降ってくるのを待つ、みたいな。まあ最初は『じゃあね またいつか』って言い回しだったんですけど、他の詞を考え始めた辺りで『明日』のがいいなってなって。曲名にしようとまでは考えていませんでしたが……。

 『「じゃあね、また明日」』は受けを狙って作った曲ではなくて、というか顧客のニーズに応えるではないですけれど、望んだ通り、望まれた通りの音楽を生み出せるほどの技量は残念ながら備わっておらず、あの曲にしても、いまみると結構無茶なコードの回し方をしていたりして、いまならもう少しうまく作れるなあって気になるんですが、だからなんていうか、当時も「意外性はあるかな」くらいの気持ちで作り、発表し、したんですが。所属のサークルのほうで約二年おきにベスト盤を作るみたいな伝統があり、その十六作目にこの曲が選ばれたという話はまあ以前にも書いた通りですけれど。自分の曲はそれと別に二曲ほど選ばれていて、どちらも合作だったんですが。こう言うとアレですけど、その二曲についてはまあ少なくともどちらか片方は入るだろうなって正直思っていて、というのも投票が始まる前くらいからそういった旨の発言を耳にしたりしなかったりしていたので、だからまあ収録される曲が発表されるというイベントの際にも、両方とも入っていたことにはそれなりに驚き、嬉しかったのは当然のこととしても、それとは別に予定調和みたいな思いが正直どこかにあって。収録曲の発表は獲得票数の低いものから行われる形式だったんですが、要するにその二曲が出た時点で自分はもう観客側だったというか、だから、その二曲よりも上位(たしか全体で三位)に『「じゃあね、また明日」』が出てきたとき、素で驚いてしまって。え、なんで? って。とはいえ、そのことを素直に喜べないほどひねてはいないので、心の底から嬉しかったことは紛れもない事実なんですが。

  その日、収録曲発表の行われた日の夜、自分より一学年だけ下の、最も平易な言葉で表現するとすれば後輩であるところの彼と、朝の五時とかそのくらいまでずっと話をしていて。そのときの衝撃っていうか、衝撃って表現は些か不適切かもしれませんけれど、どうしてこうなった感みたいなものははっきりと覚えていて、というのも、自分は彼と話すのはその瞬間がほとんど初めてみたいなもので。時系列的には三月のことで、一応出会ってから一年ほどが経過しようとしているというタイミングではあったのですが、それほど精力的に活動しているサークルでもないということと、より大きな要因としてはそもそも自分があまり例会へ参加しなかった(できなかった)ということがあり、だから彼に限らず、その時点での後輩との交流度はほとんど無と言ってよいレベルで、そういう意味でのどうしてこうなった感があり、完全な初対面ではないにせよ、ほとんど初の会話という場で取り上げるような内容ではおおよそない諸々を話していたような気もするので、まあ自分は誰かの話を聞くのがかなり好きなほうなので楽しかったのですが。いまになって思い返してみれば、という盛大な前振りをするほどのことでもないのですけれど、後にも先にも、彼と正面から話をしたのはあのときが最初で最後だったような気がするなという気がしており、その数時間のおかげで自分は彼のことを大切に思えるようになったのだと一年経ったいまでは思うので、あの偶然がなければと思うと少し怖くもあります。

 

 去年、一年がもうじき終わるというときに彼と会う機会があり、曰く、一月からは簡単には会えなくなる、という要約すればそういった感じの話を聞き、そのことで想像以上にダメージを負っている自分に気がついたのが帰宅後のベッドの上でのことで、なんていうか、いや、会おうと思えば会えるんです、多分、知りませんけど。自分も彼も同じ大学だし、下宿しているし、歩いて十数分かかるかどうかくらいだろうと思うし、というか会いたいなら空いている日がないかを尋ねればいいだけだし。でも、自分はそうしないのだろうなってのは薄々解っていて、それはなんか、それこそ『「じゃあね、また明日」』で歌っていたことでもあって、話したいことがどれだけあったところで、なかったとしても、でもそこに扉が一枚あればそこで終わってしまいうるんだよなっていう(そういえばNFのとき、ここの歌詞だけ少し変えたのだけれど、そのことに気づいていたのは彼だけだと思う)。彼と自分とは先述の通り、サークルの中ですらそれほど会わなかったくらいなので、況やをやという感じで。でも、何にもしないのは嫌だなと思いつつ、次の日の朝、適当にギターを弾いていたら曲がワンコーラスだけできて、歌詞も部分的に。じゃあこれでもいいかなと思って。それは別に彼に宛てたものとかではなく、というか自分の曲はほとんどいずれも明確な個人との関係をベースに作っていて、でもだからってそれはただの自己満足というか、こっちからみた向こう側というだけの話で、向こうからみたこっち側がどうかなんて知らないし、だからまあ、今回も結局はすべて自己満足ということで曲を作り、詞を書いて、一先ず完成したのが二月の七日。ワンコーラスができたといったのが一二月の二三日のことなので、まあそれなりという感じでした。

  先述のこともあって、この曲は三月のライブで披露したいという気持ちがあり(所属サークルでは毎年三月にライブをしている)、実際その通りに一昨日のステージで演奏したのですが、前に立っていると客席を見る余裕が本当になくて、というか暗いし、だから実際どうなのかは分からないんですが、彼はいなくて。まあ来てほしいとは言っていないし、言うつもりがもとよりなく、そもそも十中八九来ない読みでさえあって。『未完成の春』で書いてたことに近いのかな。こっちは勝手にやるから、そっちも勝手にやればいいよ、みたいな。相手を突き放しているわけでも、逆に孤立しようとしているわけでもなく、自分が思っていることに彼は無関係だし、彼の思っていることに自分は無関係だし、自分はそういう関係に納得してるからそれでいいやって。唄にして歌うこと自体に意味があるんだから、それで全部おしまいという。

  一昨日、ライブが終わって帰宅即就寝し、二二時頃に起きると彼からメッセージが届いていて。その日にライブがあったことは彼の知るところでもあったはずなので、このタイミングに何の連絡だろう? と思いつつ開いてみると一つのURLと数行の文章があり、それを読んでめちゃくちゃ驚いたというか、感動したというわけでもなく、なんか、とにかく変な気分になって。彼は、それこそライブの夜なんかの空いた時間でよく『「じゃあね、また明日」』を弾いてくれていて、自分はその演奏をとても気に入っていて、それは別に自分の曲だからというわけでは全くなく、本当に全くなく、単純に彼の演奏が頗る上手いからで。いつだったか、Twitterで「(彼の弾いてくれるそれが)音源化しないかな」みたいな発言をし、それを目にしたらしい彼とご飯を食べたときに「いつでもいいから、気長に待ってる」みたいなことを言い、言うだけ言ってすっかり忘れていたので救いようがないんですが、彼から送られてきていたのが件のそれで。いや、だから本当に予想外の想定外で。いま!? っていう。iPhoneだとうまく再生できないっぽかったのですぐにデスクのPCを立ち上げて、メッセージを読んだ段階で相当終わっていたのに、PCの安っぽいスピーカーから「ああ、これだ」って音が流れてきたところで本当に終わってしまい。何より嬉しかったのは、彼が自分へ音源を送るタイミングとしてこの日を選んでくれたことで、ファイル名をみるに去年の、それこそ自分がワンコーラスできたと言っていた次の日には録音されていたはずなのに、わざわざこのときまで待ってたんだろうか? と思い。流石に泣きはしませんでしたけど、もう成人なので……。でも、泣いてしまうかもってくらい嬉しくて。これを書いているいまもずっと流してるんですが。それでなんていうか、全部おしまいになり、結局、その日に唄った曲を自分も送り返して。先述の通り、そういうことをするつもりはなかったんですけど。

 

 歌詞でよく『きっと』って言葉を使うんですが、一応理由みたいなものはあり、それはなんていうかある種の揺らぎで。『きっと届く』と書いた場合、自分の中では真逆のことを考えていて、つまり『届かないことは解っている』が自分の中では正しくて、でもなんか、そうと解った上で『きっと届く』と唄うことに意味があるんじゃないかっていう。背中を押してくれる、ではないですけれど、何となくそんな気がしてくるっていうか。気休めではなくて、純粋な希望? 届かなくたっていいと思うのは本当のことだし、届いてほしいと思うのも本当のことだし、そういう自己矛盾的な揺らぎを曖昧に表現してくれるのが『きっと』という言葉のいいところだと思っていて、だから自分はよく使うのだろうと思うんですが。『「じゃあね、また明日」』も、『また明日』なんてこの数年で言ったことは多分ほとんどなくて。だって明日会えることが分かっている相手にはわざわざ言う言葉じゃないですし、そう滅多に会えない相手なら尚更不適切ですし。昔、それこそ小学生の頃は言ってたのかなあ、とか考えたりもするんですが。でもなんかあの曲は『また明日』と言って手を振ることや、そうして繋げていく明日について歌いたかったのではなく、明日にでも会えるような相手といま会うことの意味を自分なりに考えた曲のはずで、それがいまは一年前と今とを繋ぐ曲になっているのはちょっと面白いっていうか、意味は、自分も、こうして変わっていくのだなあという気持ちです、いまは。

  自分の人生が劇的ではないことくらい自分なら分かってるんですけど、劇的ではないなりに様々な様々があり、なんか、誰を助けたこともないはずなのに誰かに助けられてばっかりで、こうして死ねない理由は勝手に増えていくのだなあという。いや、死ぬつもりなんてもとよりないですけれど、でも、それにしたってどんどん死にたくなくなってくるっていうか。幸せになりたいわけではなく、かといって不幸になりたいわけでは勿論ないんですが、単純に勿体なくて。ハッピーエンドかはさておき、こんなに助けられたんだから、という。

 

 与えられた幸福を測る絶対的な尺度なんてあるはずがないんですが、それでも、これまでに最も幸福を感じた瞬間の一つだったと思います。本当に嬉しかった。ありがとね。

 

 

 

Kronecker の定理

 

 三回生の間に知った事実のうち面白かったもので,かつ証明が比較的容易なものをひとつ紹介したいと思います.

 以下の定理を示します.

 

Kronecker’s Theorem  f \left( X \right) = X^ n + a_ 1 X^ {n-1} + \cdots + a_ n \in \mathbb{Z} \left[ X \right] のすべての根の(通常の)絶対値が 1 であるならば,それは 1 のべき根に限る.

 

 根の絶対値が 1 ということはつまりガウス平面の単位円周上にあるということなので,パッと見は当たり前ではという感じがしますが,しかし少し考えてみるとそれほど当たり前ではないことが分かります.たとえば \displaystyle \frac{3}{5} + \frac{4}{5} i の絶対値は 1 ですが,これは 1 のべき根ではありません.証明は,多分漸化式みたいなのをこねくり回しても証明できると思うんですが,体論を知っているのであれば次のように示すことができます.

 三辺の長さが全て有理数である直角三角形において直角でない角度の一つを \theta [rad] とおく.このとき \displaystyle \frac{\theta}{\pi} \notin \mathbb{Q}

(証明)

 \displaystyle \frac{\theta}{\pi}有理数であると仮定する.すなわち p,q を互いに素な正整数として \displaystyle \theta=\frac{q}{p} \pi と表せるとする.このとき 2qp よりも小さい正整数である.p,q は互いに素なので qa \equiv 1 \mathrm{mod} \, p となるような a \in \mathbb{Z} がとれる.すると \displaystyle e^ {\frac{\pi i}{p}} = \left( \mathrm{cos} \, \theta + i \, \mathrm{sin} \, \theta \right) ^ a1 の原始 2p 乗根.これを \zeta とおく.

 いま \mathrm{cos} \, \theta , \mathrm{sin} \, \theta はともに有理数であり \zeta \notin \mathbb{Q} であることに注意すると \mathbb{Q} \left( \zeta \right) = \mathbb{Q} \left( \sqrt{-1} \right) である.よって \mathbb{Q} \left( \zeta \right)\mathbb{Q} 上二次拡大で,そのような pp=2 に限る.よって矛盾.

\Box

 

 \displaystyle \frac{3}{5} + \frac{4}{5} i は日本一有名な直角三角形から得られる複素数ですが,これが 1 のべき根であるなら整数乗すれば 1 にできるということ,しかしそれは上の事実より矛盾です.なので 1 のべき根ではありません.

 \displaystyle \frac{3}{5} + \frac{4}{5} i\mathbb{Q} 上の共役元との和と積を考えることで,根の絶対値がすべて 1 であるような多項式として,たとえば \displaystyle X^ 2 - \frac{6}{5} X + 1 を作ることができます.しかしこれは整数係数でないので命題の反例にはなりません.分母を払って 5 X^ 2 -6X +5 としてみても,今度はモニック(最高次の係数が 1 )でなくなるので,これも反例にはなりえません.Kronecker の定理は,『整数係数』で『モニック』な多項式の『すべて』の根の『絶対値が 1 』である,というところまで条件を課したなら根はすべて 1 のべき根であると結論付けられるということを主張しています.そう考えると結構不思議な感じがしてきませんか?

 では証明しましょう.細部では体論の基本的な事項を用いますが,クリティカルな部分は割と初等的な操作ばかりです.

 

 

 f \left( X \right)\mathbb{Z} 上既約のときに示せば十分.このとき f\mathbb{Q} 上既約なモニック多項式だから,ある \alpha \in \mathbb{C}\mathbb{Q} 上の最小多項式となっている.\mathbb{Q}標数 0 ,特に完全体なので f\mathbb{C} に重根を持たない.よって f の根を \alpha _ 1 , \cdots , \, \alpha _ n とすると,これらはいずれも相異なる.

 \beta _ k = \alpha _ 1 ^ k + \cdots + \alpha _ n ^ k として Newton’s identities を用いると,f は整数係数モニック多項式だったから \beta _ k \in \mathbb{Z} が任意の k \geq 0 で成り立つことが分かる.また  | \, \alpha _ k \, | = 1 だから | \, \beta \, | \leq n .ゆえに \beta _ k としてあり得る値は高々有限個である.ここで \omega _ k = \left( \beta _ k , \beta _ {k+1} , \cdots , \, \beta _ {n+k-1} \right) \in \mathbb{Z} ^ n とおく.すると先に述べたことから \omega _ m = \omega _ {m+h} となるような m \geq 0 ,  h \geq 1 をとることができる.このとき \beta _ {m+j} = \beta _ {m+h+j}j=0, \, 1, \cdots , \, n-1 で成り立つ.

 \beta _ {m+j} = \beta _ {m+h+j} より \alpha _ 1 ^ {m+j} + \cdots + \alpha _ n ^ {m+j} = \alpha _ 1 ^ {m+h+j} + \cdots + \alpha _ n ^ {m+h+j} .移項して x_ i= \left( \alpha _ i ^ h -1 \right) \alpha _ i ^ m とおくと x_ 1 \alpha _ 1 ^ j + \cdots + x_ n \alpha _ n ^ j = 0 となる.x_ ij に無関係であることに注意して,これらを j=0 から n-1 まで計 n 個の,x_ 1 , \cdots , \, x_ n を未知数とする連立方程式とみる.\left( i,j \right) 成分が \alpha _ j ^ {i-1} であるような n 次正方行列を V とすると,先の方程式の解は V \left( x_ 1 , \cdots , \, x_ n \right) ^ T = \left( 0 , \cdots , \, 0 \right) ^ T を解くことで得られる.いま V は Vandermonde 行列で,さらに \alpha _ i はすべて相異なるとしていたから  \mathrm{det} V \neq 0 .すなわち V逆行列をもつので,それを左から乗ずることで結局,任意の i について x_ i = 0 であることがわかる.\alpha ^ i \neq 0 なので \alpha _ i ^ h -1 =0 .よって f の根はすべて 1 のべき根である.

\Box

 

 多項式 f \left( X_1 , \cdots , \, X_ n \right) \in \mathbb{C} \left[ X_ 1 , \cdots , \, X_ n \right] に対して定義される概念として Mahler 測度というものがあります(あるらしいです).0 でない代数的数 \alpha \in \mathbb{C} に対して Mahler 測度が 1 であることと \alpha1 のべき根であることが同値,というのが本来の Kchronecker’s Theorem です.Wikipedia なんかを参照してもらえれば,定理で仮定されている状況から Mahler 測度が 1 になることは直ちに分かります.

 この問題を口頭で発表する機会があり,そのときに「問題文の条件から根の高さが抑えられるから,そういう場合にはこういったことを示すことができる」というような補足説明(細部は違うかも)を受けました.代数的数 \alpha とその次数 d ,Mahler 測度 M ,絶対的高さ H について等式 M = H^ d が成り立つので,あの説明はそういうことだったのかもという気持ちです、いまは(でも詳しいことは何一つも分かっていない).

 

 

 

片道10分

 

 さっき、一時間ほど前、この記事が公開される頃には二時間以上前のことになっているかと思うけれど、南の空に明るい星が二つ並んでて。それを見上げて、あの二人はどのくらい離れてるんだろう、みたいなことを考えて。ここからみたら十数センチくらいの距離でも、実際には光が一年に進む距離、光年を単位にしないと語れないほどの闇がそこには在って。自分がそのことを知ったのは多分めちゃくちゃ昔、早くて保育所通いだった頃か、遅くても小学三年生くらい。小学生の頃、その他大勢と同じようにして自分も天体にそこそこの関心を持ち、図書室で借りた図鑑を読んだりして。小学校の図書室に足を運んだのなんて、片手で数えられるくらいしかなかったような気がするけれど、それはさておき、小学生当時、その事実に驚いたという記憶はないから、随分と前から、それなりに自立した思考が生まれるよりも以前からそのことは知っていたのだと思う。多分、銀河鉄道999で知った。記憶の限り、自分の触れたアニメーション作品で最初のもの。それだけ。

 

 家の近くにファミリーマートがあって、当たり前のことだけれど、自分はそこをよく利用する。今日も行った。自分は大学生の身分であり、そしていまはちょうど試験期間であり、今日の朝、試験中に喉が渇くだろうなと思いつつそこに立ち寄った。入って一番奥にある陳列棚からペットボトルのお茶を手に取って、そのままレジへ向かう。すると、身近にあるコンビニエンスストアを想像してもらえれば分かると思うけれど、レジの手前にあるおでんコーナーに赤い服を着たお婆さんがいて、「あ、これを買う人って本当にいるんだ」と思った。多くの人が利用する施設において供給があるということは需要があるということで、つまりそれを消費する人がいるのは当たり前なのだけれど、自分が覚えている限りで、そうして実際に購入していく人を目にするのは初めてのことだった。というのも、近くのファミリーマートに限らず、自分がコンビニエンスストアを利用するのは大体夜中零時の少し手前くらい。大学生協へ行くし。稀に午前中使うことはあるけれど、午前中というか、朝七時半とかで、そんな時間からおでんを食べようという人がそれほど多くはいないということなのかもしれない。自分はそもそもおでんを好んで食べたいとは思わない(熱い。猫舌)から、分からないけれど。しかしまあ、誰も買わないのかとばかり思っていたコンビニのおでんを、こうしてちゃんと求めている人がいるんだなって。それはなんとなく嬉しかった。深夜にコンビニへ行くとおでんコーナーは閉まっていて、だけどあの機械は出されたままだから売れ残っている具材がいやでも目につく。余談。買ったお茶は結局ほとんど飲まず、というか買ったことを試験開始から一時間が経過したくらいまで忘れていて、いまも半分くらい残っている。

 

 西に向かって下りながら、なんだか月が異様に大きいなと思った。目の前に映っていたから。家を出た直前にも少しだけ考えたけれど、目の錯覚かなにかかなあと軽く片づけて、でも遮るものが何もなくなるとやっぱり大きかった。上半分の欠けた大きな三日月は、どことなく怖かった。大きさもそうだけれど、なにより色が違っていて。いつもの綺麗な薄黄色じゃなく、なんていうか、濁った橙色をしていた。かき混ぜた直後のカシスオレンジみたいな。奇妙というか、作り物っぽいというか。

 

 ファミリーマートを通り過ぎた辺りで、前方に人影がいることに気がついて。気がついて、というか、その影を意識して。見たことある背中だとか考えるよりも前に思い至って、それは先述の、コンビニでおでんを買っていたお婆さんだった。間違いない。炬燵の似合いそうな赤服に、白いふわふわのついたニット帽。服装も勿論だけれど、後ろ姿が完全に記憶の中のそれだった。そのお婆さん自体は今日以外にも何度か、といっても片手で数えられるくらいだけれどファミリーマートの中で目にしていた。もしかすると片手じゃ足りないくらいすれ違っているのかもしれないな、と思う。実際、自分がこっちに越してきてもうじき二年になるし、その頃から既にファミリーマートはあったし、お婆さんがまさか最近になって京都の、しかもこんな辺境の地に越してきたということもないだろうから、そうなるとお互いの行動圏内にあるコンビニエンスストアですれ違った回数なんて、片手で収まるわけもない。でも、覚えていないから、自分にとってそのお婆さんをみるのは今日で三度目。初めて意識したのは、これがとても最近のことで、たしか今週のことで、というか火曜日二限の試験に向かう途中だったような気がする、たしか。あの日も自分は五百ミリのペットボトルを買って、レジに並んで、そのときレジには店員さんが一人しかいなくて、前の人の会計が済むのを自分は列で待っていた。それが終わるよりも先に、店のどこかからやってきた店員さんがレジに入って、でも自分は動こうとしなかったのだけれど、というのも、これも近くのコンビニを想像してもらえれば分かると思うけれど、レジのところにある揚げ物や肉まんなんかを売っているところにお婆さんが立っていて、その人は自分がレジに並ぶよりも先にそこにいたから、その人が先に会計を済ませるべきだろうと思って。五十代くらいの店員さんがお婆さんに「列、並んでました?」と尋ねて、お婆さんが言われて気がついたという風に自分のほうを窺って、「構いませんよ」みたいなことを返して、結局、自分は最初に待っていたほうのレジで会計を済ませた。途中、そのお婆さんに声を掛けられて「ごめんなさいね」。自分は本当に何も気になんてしていないのに、だから、なんだか悪いことをしたかもな、と思った。もし自分が順番を譲っていなかったのなら、この善良そうなお婆さんが見ず知らずの自分にわざわざ謝る必要もなかったのになって。つい最近にそんなことがあって、そのお婆さんのことがなんとなく自分の頭の隅に引っかかっていて、それで今日の朝にも見かけていたから、コンビニの外、街灯の少ない夜道であってもそのお婆さんに気がつくことができた。お婆さんは両手に大きな袋を二つ下げていて、またコンビニで大量に物を買ったんだろうなって。もしかしたらおでんもあるのかなあとか思った。というか、今にして思えば、最初、順番を譲ったあの日も、あのお婆さんは多分おでんの具を器に移している最中だったんだろうな。そう考えてみると、なるほどたしかに、あのときお婆さんが立っていたのは揚げ物コーナーの前でもあるけれど、同じくしておでんコーナーの前でもあった。好きなのかな。週に何度も食べるくらいのもの? 分かんない。自分は好きじゃないし。その後ろ姿に追いつくまで、ちょっとだけ考えた。もしかしていまは一人で住んでるのかな、とか。午後の十時半にコンビニへ来るって、その歳だとあまりなさそうなものだし。というかそれくらいの年齢だからこそ、一人だという想像は仮に当たっていたとしても何らおかしいことじゃない。そう思うと、なんだか嫌だ。寂しい。誰かが隣にいればいてほしい。両手にぶら下がる重たそうな袋の、その片方を持ってくれるような誰か。確かめようもない。それは自分じゃない。嫌だな。持てたらいいのに、自分が。でも、そうしない。不審者だろ、それ。というか、別にこのお婆さんは困っているわけでもないだろうし、普通に迷惑だと思う。善意の押し付け。自分がやりたいだけ。嫌だな、そういうの。西へ下る歩道は随分と狭くて、二人が横に並ぶと後ろが詰まるくらい。でもその隣をできれば歩きたくなかったから、歩道から少しだけ飛び出して車道の側を歩いた。お婆さんよりも自分のほうが歩くのは速い。どこかで必ず追い抜いてしまう。気づかれたくなかった。向こうは自分のことなんか絶対に覚えてない。だから、これも自分のため。

 

 曲がり角の奥の、街灯がほとんどない暗がりとか。非常階段の先にある、使われなくなった道具たちの置き場とか。そういう場所に何かがあればいいと思うことがある。何もないから。何もないと、自分はそう思うから。誰もみない。誰もいない。そういう場所に何かがあればいいと、だから思う。たとえば交差点の真ん中に、何台もの車が行き交うその中心に、大切な何かがあるんだとしたらきっと報われない。バス停の広告とか、塗装の禿げたカーブミラーとか、彼らみたいな存在だけがその在処を知っていればいい。

 

 手を繋ぐことの意味を考える。比喩とかじゃなくて、実際にそう行動することの意味。大切な人の存在を確かめ続けるためかもしれない。あるいは、単に寒いから。でも、手が寒いならポケットに突っ込んでいた方がずっと暖かい。手袋とかをしていたら別かも。そうしたら手を繋ごうって気にもなるのかな。自分にはよく分からない。手を繋ぐのって、怖くないのかな。いやもっと普遍的に、他人の身体に触れるのって怖くないか。他人、というか身近にいる存在に。肩がちょっとぶつかるとかそういうんじゃなくて、自分の右手で、あるいは左手で、意図的に他人の身体に触れるという行為。怖くないのかな、って思う。自分は怖い。といってもまあ別に恐怖症ってわけじゃないし、握手なんかは普通にするけれど、でも怖いからなるべく避ける。だって、もしも拒まれたらって考えたら、全身の血がすっと引くような感覚がする。それが、つまり怖いってこと。でも、どうなんだろうな。ここまで書いてみたけれど、自分も他人に触れることは少しくらいあるなって気持ちになった。頭を撫でるとか、やってたな、そういや。誰彼構わずってわけでは勿論ないけれど、それってどうなんだろう。こいつはそれを拒まないだろうからって無意識で決めつけていたのか、それとも、こいつには拒まれても構わないからって考えていたのか。前者だったら嫌だな。でも、多分、それが正解なんだろうな。

 

 繋がることで確かめられる何かがあるんだったら、繋がらないことで確かめられる何かもあるはずだよな、と思う。友人と恋人の違い。ずっと考えてる。去年の夏くらいから。もっといえば三年前から。その二つを明確に区別して扱う理由って、何なんだろう。世間一般的な意味での恋愛的でない男女の関係があってもいいと思うし、逆に、世間一般的な意味で恋愛的な同性関係があってもいいと思う。なんだろう。それを否定するのは、少し違う気がする。だからって、そればかりを手放しで賛美するのも、同じくらい違う気がする。色んな形があっていい。というか、一つの正解なんてあってほしくない。新年に高校同期と会って、そのときに色んなことを話して、男子大学生だからって書くと怒られそうだけど、下世話な話題が上がることもやっぱり多くて、自分は縁のない場所にいるから適当に相槌を打つだけだったけれど、でもなんか、そういうのもいいなってちょっと思って。いや、下世話って形容がよくないな、これは。あれはあれで純粋な一つ。だから、ああ、こいつらもそれを持ってるんだって。なんだろう。男女関係なんて全部ぶっ壊れちまえばいいのになって気持ちはやっぱり強くあって。それは主義思想とかっていうよりも、なんていうか、ほとんど先天的に根付いていた感情というか、いや明らかに後天的なんだけど、でも勝手に押し付けられたっていうか。最も簡易な言葉で記述するなら肉体関係。自分はそれがどうにも受け入れられなくて。恋だの愛だのって笑いあって、その先にあるのがその程度でいいのかよ、みたいな。小学生の頃からずっと思っていて、いまもそう。でも、なんだろうな。手放せないものが誰にだってあって、自分にもあって、高校同期のそいつらにも勿論あって。自分にとってのそれは彼で、あいつらにとってのそれは多分彼女で。その二つに違いなんてあるかなあと思って。どっちがどうって話じゃないよなって。将来結婚しているか否かみたいな話を周りの人間がたまにしていて。そのたびに、何だかんだ言ってお前らは全員結婚するだろ、と自分は思うし、一方で自分はしないんだろうなと思っていたけれど、もしかしたら自分も同じかもなって気がした。しただけ。現代社会において家庭を持っていることの重要性云々って話じゃなくてさ。違うんだよ。そういう尺度で人間関係を、測ったことはあるかもしれないけれど、測りたいと思ったことは一度もない。健康とか、貯蓄とか、躁鬱とか、孤独とか、そんなのは心底どうだっていいんだよな。それが自然ならそうなるだろって、そういう話。

 

 たとえば忌み嫌う存在がこの世を去ったとして、それを笑えるものなのかな。なんか、なんだろうな。いま新型肺炎が話題になっていて、インターネットが、というか日本中が騒がしくなっていて。漫画や映画、というかフィクションの世界でよくあるじゃない、こういうシチュエーション。なんていうかさ、信じられなくて。いざこういう状況に陥ったとき、当のフィクションで描かれているような言葉があちこちから聞こえてくるのが。でも、現実なんだよな。そういう声が、ニュース記事のリプライ欄とかに無数にくっついてる。タイムラインにもよく流れてくる。これもたとえばの話、オリンピックが中止になったとしてさ、感染力の強いウイルスが世界的に蔓延しているんだからって、そうなったとして、それを笑えるものなのかな。東京オリンピック自体は前々から計画の杜撰さっていうか、そういう欠陥が指摘され続けていたけれど、そのたびにいっそ中止しろって声が上がって、じゃあ実際に中止にしますとなったとして、その結末を望んだ人たちは満足するのかなって。なんか、それが信じられなくて。だってさ、色んな人がいるだろ。四年に一度のオリンピックに向けて必死で頑張ってきた選手がいるし、それを支えてきたトレーナーだったり家族だったり、その活躍を心待ちにしていたファンもいるだろうし。会場だってわざわざ作ってさ。現場では多くの人が動いて、あれだけ無能だと叩かれた委員会だって別に何もしていなかったわけじゃないだろうし。そうやって繋いできた一つの未来が簡単に潰れてさ。それで満足なのかなって。別にオリンピックだけじゃない。話題のウイルスへの対応とか、もっと辿れば共通テストの件だってそうだし。正しいかもしれない。誰がどうみてもその場しのぎの対応策で、細部を照らしてみれば実はボロボロの欠陥住宅でしたみたいな。共通テストに関して言えば実際にそうだったわけだけれど。でもなんか、それがたとえ相対的には正しくない目標であったとしても、数え切れないくらいに大勢の人がその一瞬に向けて動いていたわけで、そうやって地道に重ねてきた時間がさ、何の関係もない、何もしようとしない連中に潰されたんだとしたら、たまったもんじゃないよなあって思う。もう十何人も亡くなってて、その誰にしたって自分とは無関係な他人だけれどさ、そういう状況で、よくもまあそんなことが言えるよなって。たとえばあいつらの忌み嫌う相手がそのウイルスに侵されたとして、亡くなったとして、あいつら、その死をまるで自分たちの勝利みたいに高笑いするんじゃねえかなって。そういう不信感と不快感がある。あった。バーガーキングのやつとかね。昨日の夜に見て、普通に気分が悪くなった。戦争、なくなんないな。飽きもせず。争いを放棄する理由なんて、青空が綺麗だからとか、それくらいの些細なもので事足りると、自分は本気でそう思うのだけれど。そう信じたいのだけれど。だけど、そうも言ってられないよな。

 

 

 

円分体の中間体

 K = \mathbb{Q} \left( \zeta _ {15} \right) の中間体を求めます.

 まず K / \mathbb{Q} は円分拡大なので \left[ K : \mathbb{Q} \right] = \varphi \left( 15 \right) = 8 .また  \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right) \simeq \left( \mathbb{Z} / 15 \mathbb{Z} \right) ^ {\times} \simeq \left( \mathbb{Z} / 3 \mathbb{Z} \right) ^ {\times} \times \left( \mathbb{Z} / 5 \mathbb{Z} \right) ^ {\times} なので \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right) は位数 2 の元一つと,位数 4 の元一つで生成されることがわかる.\sigma \in \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right) は位数 2 の元とする.\sigma \left( \zeta _ {15} \right) = \zeta _ {15} ^ i としておくと位数が 2 であることから i^ 2 \equiv 1 \, \mathrm{mod} \, 15 .これと i \neq 1 から i=4,11,14\zeta_ {15} の行き先が決まれば写像が定まり,それらは高々 8 通り.\mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right) の位数は 8 なのですべて存在する.よって \sigma , \tau \in \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right)\sigma \left( \zeta _ {15} \right) = \zeta _ {15} ^ 2 , \tau \left( \zeta _ {15} \right) = \zeta _ {15} ^ {11} を満たすものとしてとれる.\sigma , \tau はそれぞれ位数 4 の元と位数 2 の元.\sigma , \sigma ^ 2 , \sigma ^ 3 はいずれも \tau と異なるので \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right) = < \sigma , \tau > である.

 \tau ^ i \sigma ^ j \left( i=0,1 \, j=0,1,2,3 \right)\left( I,j \right) \in \left( \mathbb{Z} /2 \mathbb{Z} \right) \times \left( \mathbb{Z} / 4 \mathbb{Z} \right) = G と対応させる.G の部分群は

 位数 1H _ 1 = \left\{ \left( 0, 0 \right) \right\}

 位数 2H _ 2 = < \left( 1,0 \right) > ,H _ 3= < \left( 0,2 \right) > ,H _ 4 = < \left( 1,2 \right)

 位数 4H _ 5= < \left( 0,1 \right) > ,H _ 6= < \left( 1,0 \right) , \left( 0,2 \right) > ,H _ 7 = < \left( 1,1 \right)

 位数 8H _ 8 = G

ですべて.これより \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right) の部分群は

 位数 1H _ 1 = \left\{ e \right\}

 位数 2H _ 2 = < \tau > ,H _ 3= < \sigma ^ 2 > ,H _ 4 = < \tau \sigma ^ 2

 位数 4H _ 5= < \sigma > ,H _ 6= < \tau , \sigma ^ 2 > ,H _ 7 = < \tau \sigma

 位数 8H _ 8 = \mathrm{Gal} \left( K/ \mathbb{Q} \right)

ですべて.部分群 H _ i に対応する体を M _ i と表すことにする.H _ 1 には K が,H _ 8 には \mathbb{Q} がそれぞれ対応するので,M _ 1 = K , M _ 8 = \mathbb{Q} である.また包含関係は H_ 2 , H _ 4H_ 6 のみに含まれ,H _ 3H_ 5 , H _ 6 , H_ 7 のいずれにも含まれている.

M _ 2 について

 \zeta _ 5 = \zeta _ {15} ^ {3} \in K なので \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right)K/ \mathbb{Q} の中間体.\mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right) \mathbb{Q} 上の拡大次数は 4 なので,M_ 2M_ 3 の一方がこれに一致する.もし M_ 3 = \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right) となるなら \zeta _ 5H_ 3 の元で不変だが,\sigma ^ 2 \left( \zeta _ {15} ^ 3 \right) = \zeta _ {15} ^ {12} より矛盾.よって M_ 2 = \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right) である.

M _ 7 について

 M _ 2 のときと同様の議論によって M _ 7 = \mathbb{Q} \left( \zeta _ 3 \right) が分かる.

M _ 6 について

 M _ 6M _ 2 = \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right) の部分体であるから,M _ 2 の元であって \sigma ^ 2 によって不変なものを考えればよい.\zeta _ 5 + \zeta _ 5 ^ {-1} \in M _ 2 であって \sigma ^ 2 \left( \zeta _ 5 \right) = \zeta _ 5 ^ 4 = \zeta _ 5 ^ {-1} だから,これは \sigma ^ 2 で不変.ゆえに \zeta _ 5 + \zeta _5 ^ {-1} \in M _ 6 なので \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 + \zeta _ 5 ^ {-1} \right) \subset M _ 6 となる.p= \zeta _ 5 + \zeta _ 5 ^ {-1} , q= \zeta _ 5 ^ 2 + \zeta _ 5 ^ {-2} とすると p+q = pq=-1 だから p , qx^ 2 +x -1 の根である.これより \sqrt{5} \in \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 + \zeta _ 5 ^ {-1} \right) ,つまり \mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) \subset M _ 6 がわかり,\mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right)M _ 6 はともに \mathbb{Q} 上の拡大次数が 2 だからこれは等号になる.よって M _ 6 = \mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) である.

M _ 3 について

 M_ 7 = \mathbb{Q} \left( \zeta _ 3 \right) = \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} \right) だから M_ 6 = \mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) とあわせて \sqrt{-3} , \sqrt{5} \in K .よって \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} , \sqrt{5} \right) は拡大 K/ \mathbb{Q} の中間体.\mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right)\mathbb{Q} 上の拡大次数は 2\mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} , \sqrt{5} \right)\mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) 上の拡大次数は高々 2 であるが,\sqrt{-3} \notin \mathbb{R} より 1 となることはない.したがって \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} , \sqrt{5} \right)\mathbb{Q} 上の拡大次数は 4 である.拡大次数 4 の中間体で M_ 6M _7 をともに含むものは M _ 3 しかない.よって M _ 3 = \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} , \sqrt{5} \right) である.

M _ 5 について

 \sqrt{-15} \in M _ 3 = \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} , \sqrt{5} \right) だから \mathbb{Q} \left( \sqrt{-15} \right) \subset M _ 3 .まず \mathbb{Q} \left( \sqrt{-15} \right) \neq \mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) は明らか.さらに,もし \mathbb{Q} \left( \sqrt{-15} \right) = \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} \right) なら,ある a,b \in \mathbb{Q} があって \sqrt{-15} = a + b \sqrt{-3} とかける.両辺二乗すると ab=0 が分かるが,いずれにせよこれは矛盾する.ゆえに \mathbb{Q} \left( \sqrt{-15} \right) \neq \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} \right) だから,残る M _ 6 がこれになる.よって M _ 6 = \mathbb{Q} \left( \sqrt{-15} \right) である.

M _ 4 について

 \tau \sigma ^ 2 \left( \zeta _ {15} \right) = \zeta _ {15} ^ {-1} だから \zeta _ {15} + \zeta _ {15} ^ {-1} \in M_ 4 .よって \mathbb{Q} \left( \zeta _ {15} + \zeta _ {15} ^ {-1} \right) は拡大 M_ 4 / \mathbb{Q} の中間体.これが M_ 4 に一致しないなら M _ 6 = \mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) M_ 8 = \mathbb{Q} のいずれかに一致する.しかし \zeta _ {15} + \zeta _ {15} ^ {-1}\tau で不変でないので M_ 6 にも M _ 8 にも含まれない.よって \displaystyle M _ 4 = \mathbb{Q} \left( \zeta_ {15} + \zeta _ {15} ^ {-1} \right) = \mathbb{Q} \left( \mathrm{cos} \frac{2}{15} \pi \right) である.

 以上より,拡大 \mathbb{Q} \left( \zeta _ {15} \right) / \mathbb{Q} の真の中間体は \mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right) , \displaystyle \mathbb{Q} \left( \mathrm{cos} \frac{2}{15} \pi \right) , \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} , \sqrt{5} \right) , \mathbb{Q} \left( \sqrt{-3} \right) , \mathbb{Q} \left( \sqrt{5} \right) , \mathbb{Q} \left( \sqrt{-15} \right) の六つですべてである.

\Box

 

 Galois 群の部分群が六つくらい出てくるようになると,各部分群の元で不変な元をいちいち計算していたら面倒です.今回は比較的低次の円分拡大なので中間体がどうなっているかの予想が割とつきやすく,たとえば 15 の素因数であるところの 35 に注目すると \mathbb{Q}\zeta _ 5\zeta _ 3 を添加した体は間違いなくあるし,ガウス和のことを思えば,正負はさておきにせよ \sqrt{ \pm 3} だったり \sqrt{ \pm 5} だったり,あとはその積の \sqrt{ \pm 15 } だったりを \mathbb{Q} に添加した体が出てきそうな気がします.あとは一般に 3 以上の整数 n に対して \mathbb{Q} \left( \zeta _ n \right) \cap \mathbb{R} = \mathbb{Q} \left( \zeta _ n + \zeta _ n ^ {-1} \right)(実円分体)なので,\zeta _ n + \zeta _ n ^ {-1} \left( n= 3,5,15 \right) を添加した体も出てきそうなアレがあります.そこら辺の当たりをつけておいて,分かりやすいところ( \mathbb{Q} \left( \zeta _ 3 \right)\mathbb{Q} \left( \zeta _ 5 \right) あたり)から順に包含を利用して決定していくというのが手っ取り早いという気が個人的にはします(実際どうなのかは知らない).

 

 

 

空模様

  

 SS を公開したので全人類読んでください(先制攻撃)(初手絶対零度)(確一)(命中率三割)。

www.pixiv.net

  アイマスのアの字も出てこないので、タグに書いてある主人公の名前さえ知っていれば、他の前提知識がなくても読めます、親切設計(二次創作としてそれはどうなのという指摘がある)(分かる)(アイマスじゃなくてよくない?)(ぐえー)。

 

 

 吉音のほうで諸々があり、あったので、自分の書いた何かしらをブログにでも貼り付けておくかなあと思い今まさにこれをしてる最中なんですが、まあ、最中です。最中って、なんか、自分の脳がバグってるだけかもしれないんですけど、最中(さいちゅう)よりも先に最中(もなか)と音声変換されてしまい、自分の打ち込んだ文字列を見て、何だコイツ、と思いました。それだけ。

 一次創作、という言い方もおかしいですけれど、同じような因子がごく身近に複数いることが判明しモチベーションのあれこれがあり、色々と書いては消してを繰り返した正月三が日だったんですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。あけましておめでとうございます。こちらは進捗ゼロ。いや、書けなくない? そもそも自分が何を書きたいのかもよく分かってない。助けてくれ。

 

 

 ちょっとだけ作品の話(にみせかけた自分の話)をします。読みたくない人はブラウザバックするか、スマホあるいは PC を破壊するかしてください。僕の計画通りなら全人類が上の SS に目を通したはずなので、ネタバレとかは考慮しません。嘘です。でも、なんか迂闊に書いちゃうかも。

 

 上の作品を書いていたのがちょうど去年の六月から七月頃なので、そこら辺のブログ記事を読んだ方が早いと思います、という書き出しから始めようとしたんですが、珍しく大した記事が上がっておらず初手で詰んでます。助けて。このブログ、トップページに冠されている通り、どこかの自分が考えていたことをいつでも思い出せるようにするための備忘録みたいなものなんですが、ここ数ヶ月くらい、更新頻度が落ちまくっていてアレですね。更新するために書いているわけではないので、だからといって更新頻度が上がるということはないんですが……。

 

 この作品を提出して、まあそれが本になり(様々な人々の多大な労力によって同人誌(文庫本)になる。自分は特に何も関与していないので本当に頭が上がらない)、出来上がったそれをマス研の民々(たみだみ)は読んだり読まなかったりするんですが、好きと言ってもらえるのは当然のように嬉しいので覚えており、それはそれとして「これ一葉のブログやん」と言われたことも覚えており、ああいや、勿論嬉しかったからですけど。

 嘘だけは書きたくないなあ、みたいな気持ちがどこかにあり、嘘っていうのはこう、物語論とかではなく、自分自身が嘘だと思うような、思ってしまうことという意味であって、要するに、自分でもよく分かっていないことを知った風な口で書くのだけはやりたくないという意味なんですが、なんか、よくあるじゃないですか、そういうの(社会への全体攻撃)。カッコいいこと言ってるけどめちゃくちゃ薄っぺらいみたいな、アレ。あれにだけはなりたくない。だから「自分のブログ」と言われたことは割と嬉しく、書きあがったそれをみて、ああ、嘘じゃなかったんだ、と思うことができるので。まあ、その作者補正(?)がなくなったときに、この作品がどういう風に映るのかという懸念はありますが……。

 

 四万四千字。恋愛観とか死生観とか、そういったテーマを扱うには少なすぎるって気がしますよね、自分でも思います。マジで、反省してる。そういうあれが作品の終盤を書いているときに意識として浮かび上がってきて、「日記帳なんかに書き起こしたとして」の件はそういった意味があったりします。大概の物語は既存の形よりも簡潔に要約できてしまうわけで、それは内容を削ぎ落し、前提と過程と結果の三つを箇条書きにするという意味ですけれど、だからというかなんというか、そのたった数百字で収まるような話を数千、数万、あるいは数十万にするのがクリエイターなんだろうなあ、って。何の話? いやまあ、もっと書けたよねって話ではなくて。もう書けんし(「もうかけんし」って変換したら「猛火玄師」が出てきた。ジャンプ作品の中ボスくらいに出てきそう。ナルトでいうところの中忍試験)。そうではなく、結局、これだけの字数を使ってでも書きたかったのはたった一つだけだったという話です。作家ってすごいな、マジで。思った。だってこれを一生涯続けるんだろ。擦り切れて死ぬよ、普通。

 

 といっても、自分が何を書きたかったのか、正直あんまりよく分かってないです。完成当時、書きたいことを書けた! と思い、まあいまもそう思ってはいるんですが、その「書きたいこと」ってなんだ? と問われると答えに窮するというか、窮鼠になります(子年なので)。なんだろう。でも結局、どうしようもない別れを繰り返しながら死ぬまで歩き続けるんだなって、それくらいのことのような気もします。それは自分の恋愛観でもあるし、死生観でもあるし、いや、ないかもしれませんが(というか死生観って実際のところ何?)。その瞬間からしばらくずっとは苦しいし、悲しいし、僕は身近な人の死を経験したことがないのでこんなのはただの憶測でしかありませんけれど、それでも知ったような気になれる程度には似たような経験をいくつかしたつもりだし、そういった寂れた痛みが失くせない灯りになる日がきっとやってくるから、だから理由なんて分からなくたって歩いていかなきゃいけないんだなって、どこの誰に向けたメッセージとかではなく、強いて言えば自分に宛てたそれです、多分。だから、僕が一番気に入っているのは最後の、電車に乗って事務所へ向かうシーンです。

 

 

 そんな感じ。一月中にはなんか新しいの、それこそ一部の吉音民(きちおとたみ)と話したみたいな、自分だけの話を書き始められたらいいなあと思ったり思ってなかったりします(超希望的観測)(試験勉強)(留年)。

 

 

 

関数列と区分求積法

区間 I = \left[ 0,1 \right] で定義された連続関数列 \left\{ f_ n \left( x \right) \right\} とその極限関数 f \left( x \right) について次のことが成り立ちます.

関数列 \left\{ f_ n \left( x \right) \right\} If \left( x \right) に一様収束するならば
\displaystyle \lim_{n \to \infty} \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) = \int_0^1 f \left( x \right) dx

(証明)

関数列 \left\{ f_ n \left( x \right) \right\} If \left( x \right) に一様収束するので,任意の正数 \epsilon _ 1 に対してある正整数 N_ 1 があって n \gt N_ 1 ならば,任意の x \in I について

| \, f_ n \left( x \right) - f \left( x \right) | \lt \epsilon _ 1

が成り立つ.

また f \left( x \right) I 上可積なので,任意の正数 \epsilon _ 2 に対してある正整数 N_ 2 があって n \gt N_ 2 ならば

\displaystyle \left| \, \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f \left( \frac{k}{n} \right) - \int_0^1 f \left( x \right) dx \right| \, \lt \epsilon _ 2

が成り立つ.

\epsilon は任意の正数,\displaystyle \epsilon _ 1 = \epsilon _ 2 = \frac{\epsilon}{2}N= \mathrm{max} \left\{ N_ 1 , N_ 2 \right\} としておくと,n \gt N ならば三角不等式から

\displaystyle \left| \, \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) - \int_0^1 f \left( x \right) dx \right| \, \leq \left| \, \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) - \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f \left( \frac{k}{n} \right) \right| + \left| \, \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f \left( \frac{k}{n} \right) - \int_0^1 f \left( x \right) dx \right|

であって,第一項は

\displaystyle \left| \, \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) - \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f \left( \frac{k}{n} \right) \right| \lt \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n \frac{\epsilon}{2} = \frac{\epsilon}{2}

となるので,第二項とあわせて

\displaystyle \left| \, \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) - \int_0^1 f \left( x \right) dx \right| \, \lt \frac{\epsilon}{2} + \frac{\epsilon}{2} = \epsilon

を得る.

\Box

 

この主張は一様収束という仮定を外すと成立しません.たとえば次のように定義される I 上の連続関数列 \left\{ f_ n \left( x \right) \right\} を考えてみます.まず  f_ 1 \left( x \right) = 1 として,n \geq 2 のときは

\displaystyle x \in \left[ 0, \frac{1}{n} \right] ならば f_ n \left( x \right) = n^ 2 x .    
\displaystyle x \in \left[ \frac{1}{n} , \frac{2}{n} \right] ならば f_ n \left( x \right) = n \left( 2-nx \right)
\displaystyle x \in \left[ \frac{2}{n} , 1 \right] ならば f_ n \left( x \right) = 0 .     

と定めます.n \geq 2 のとき,これは 3\left( 0,0 \right) , \displaystyle \left( \frac{1}{n} , n \right) , \displaystyle \left( \frac{2}{n} , 0 \right) を頂点とするような三角形のグラフになります.このとき \left\{ f_ n \left( x \right) \right\} は定数関数 0 に各点収束しますが,\mathrm{sup}_{x \in I} | \, f_ n \left( x \right) | = n なので一様収束はしません.

n \geq 2 のとき主張の左辺は

\displaystyle \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) = \frac{1}{n} f_ n \left( \frac{1}{n} \right) = 1

ですが,主張の右辺は

\displaystyle \int_0^1 f \left( x \right) dx = \int_0^1 0 \, dx = 0

となり,両者は一致しません.

 

最後にこの命題を利用して問題を一つ解いてみます.

\displaystyle \lim_{n \to \infty} \sum_{k=1}^n \mathrm{tan} \left( \frac{k}{n^ 2} \pi \right) = \frac{\pi}{2}

(証明)

\displaystyle f_ n \left( x \right) = n \, \mathrm{tan} \left( \frac{x}{n} \pi \right) n \geq 3 )として I 上の連続関数列 \left\{ f_ n \left( x \right) \right\} を考える.

\displaystyle \left( f_ n \left( x \right) -\pi x \right) ^ {\prime} = \left( \frac{1}{ \left( \mathrm{cos} \left( \frac{x}{n} \pi \right) \right) ^ 2 } -1 \right) \pi

より f_ n \left( x \right) -\pi xI 上単調増加で,x=1 で最大値をとる.ここで

\displaystyle f_ n \left( 1 \right) -\pi = n \, \mathrm{tan} \left( \frac{\pi}{n} \right) - \pi = \frac{ \mathrm{sin} \left( \frac{\pi}{n} \right) }{ \frac{\pi}{n} } \frac{ 1 }{ \mathrm{cos} \left( \frac{\pi}{n} \right) } \pi - \pi

なので n \to \infty とするとこれは 0 へ収束する.ゆえに関数列 \left\{ f_ n \left( x \right) \right\}I\pi x に一様収束する.したがって,初めの命題より

\displaystyle \lim_{n \to \infty} \frac{1}{n} \sum_{k=1}^n f_ n \left( \frac{k}{n} \right) = \int_0^1 \pi x \, dx

が成り立ち,これより主張の等式を得る.

\Box