片道10分

 

 さっき、一時間ほど前、この記事が公開される頃には二時間以上前のことになっているかと思うけれど、南の空に明るい星が二つ並んでて。それを見上げて、あの二人はどのくらい離れてるんだろう、みたいなことを考えて。ここからみたら十数センチくらいの距離でも、実際には光が一年に進む距離、光年を単位にしないと語れないほどの闇がそこには在って。自分がそのことを知ったのは多分めちゃくちゃ昔、早くて保育所通いだった頃か、遅くても小学三年生くらい。小学生の頃、その他大勢と同じようにして自分も天体にそこそこの関心を持ち、図書室で借りた図鑑を読んだりして。小学校の図書室に足を運んだのなんて、片手で数えられるくらいしかなかったような気がするけれど、それはさておき、小学生当時、その事実に驚いたという記憶はないから、随分と前から、それなりに自立した思考が生まれるよりも以前からそのことは知っていたのだと思う。多分、銀河鉄道999で知った。記憶の限り、自分の触れたアニメーション作品で最初のもの。それだけ。

 

 家の近くにファミリーマートがあって、当たり前のことだけれど、自分はそこをよく利用する。今日も行った。自分は大学生の身分であり、そしていまはちょうど試験期間であり、今日の朝、試験中に喉が渇くだろうなと思いつつそこに立ち寄った。入って一番奥にある陳列棚からペットボトルのお茶を手に取って、そのままレジへ向かう。すると、身近にあるコンビニエンスストアを想像してもらえれば分かると思うけれど、レジの手前にあるおでんコーナーに赤い服を着たお婆さんがいて、「あ、これを買う人って本当にいるんだ」と思った。多くの人が利用する施設において供給があるということは需要があるということで、つまりそれを消費する人がいるのは当たり前なのだけれど、自分が覚えている限りで、そうして実際に購入していく人を目にするのは初めてのことだった。というのも、近くのファミリーマートに限らず、自分がコンビニエンスストアを利用するのは大体夜中零時の少し手前くらい。大学生協へ行くし。稀に午前中使うことはあるけれど、午前中というか、朝七時半とかで、そんな時間からおでんを食べようという人がそれほど多くはいないということなのかもしれない。自分はそもそもおでんを好んで食べたいとは思わない(熱い。猫舌)から、分からないけれど。しかしまあ、誰も買わないのかとばかり思っていたコンビニのおでんを、こうしてちゃんと求めている人がいるんだなって。それはなんとなく嬉しかった。深夜にコンビニへ行くとおでんコーナーは閉まっていて、だけどあの機械は出されたままだから売れ残っている具材がいやでも目につく。余談。買ったお茶は結局ほとんど飲まず、というか買ったことを試験開始から一時間が経過したくらいまで忘れていて、いまも半分くらい残っている。

 

 西に向かって下りながら、なんだか月が異様に大きいなと思った。目の前に映っていたから。家を出た直前にも少しだけ考えたけれど、目の錯覚かなにかかなあと軽く片づけて、でも遮るものが何もなくなるとやっぱり大きかった。上半分の欠けた大きな三日月は、どことなく怖かった。大きさもそうだけれど、なにより色が違っていて。いつもの綺麗な薄黄色じゃなく、なんていうか、濁った橙色をしていた。かき混ぜた直後のカシスオレンジみたいな。奇妙というか、作り物っぽいというか。

 

 ファミリーマートを通り過ぎた辺りで、前方に人影がいることに気がついて。気がついて、というか、その影を意識して。見たことある背中だとか考えるよりも前に思い至って、それは先述の、コンビニでおでんを買っていたお婆さんだった。間違いない。炬燵の似合いそうな赤服に、白いふわふわのついたニット帽。服装も勿論だけれど、後ろ姿が完全に記憶の中のそれだった。そのお婆さん自体は今日以外にも何度か、といっても片手で数えられるくらいだけれどファミリーマートの中で目にしていた。もしかすると片手じゃ足りないくらいすれ違っているのかもしれないな、と思う。実際、自分がこっちに越してきてもうじき二年になるし、その頃から既にファミリーマートはあったし、お婆さんがまさか最近になって京都の、しかもこんな辺境の地に越してきたということもないだろうから、そうなるとお互いの行動圏内にあるコンビニエンスストアですれ違った回数なんて、片手で収まるわけもない。でも、覚えていないから、自分にとってそのお婆さんをみるのは今日で三度目。初めて意識したのは、これがとても最近のことで、たしか今週のことで、というか火曜日二限の試験に向かう途中だったような気がする、たしか。あの日も自分は五百ミリのペットボトルを買って、レジに並んで、そのときレジには店員さんが一人しかいなくて、前の人の会計が済むのを自分は列で待っていた。それが終わるよりも先に、店のどこかからやってきた店員さんがレジに入って、でも自分は動こうとしなかったのだけれど、というのも、これも近くのコンビニを想像してもらえれば分かると思うけれど、レジのところにある揚げ物や肉まんなんかを売っているところにお婆さんが立っていて、その人は自分がレジに並ぶよりも先にそこにいたから、その人が先に会計を済ませるべきだろうと思って。五十代くらいの店員さんがお婆さんに「列、並んでました?」と尋ねて、お婆さんが言われて気がついたという風に自分のほうを窺って、「構いませんよ」みたいなことを返して、結局、自分は最初に待っていたほうのレジで会計を済ませた。途中、そのお婆さんに声を掛けられて「ごめんなさいね」。自分は本当に何も気になんてしていないのに、だから、なんだか悪いことをしたかもな、と思った。もし自分が順番を譲っていなかったのなら、この善良そうなお婆さんが見ず知らずの自分にわざわざ謝る必要もなかったのになって。つい最近にそんなことがあって、そのお婆さんのことがなんとなく自分の頭の隅に引っかかっていて、それで今日の朝にも見かけていたから、コンビニの外、街灯の少ない夜道であってもそのお婆さんに気がつくことができた。お婆さんは両手に大きな袋を二つ下げていて、またコンビニで大量に物を買ったんだろうなって。もしかしたらおでんもあるのかなあとか思った。というか、今にして思えば、最初、順番を譲ったあの日も、あのお婆さんは多分おでんの具を器に移している最中だったんだろうな。そう考えてみると、なるほどたしかに、あのときお婆さんが立っていたのは揚げ物コーナーの前でもあるけれど、同じくしておでんコーナーの前でもあった。好きなのかな。週に何度も食べるくらいのもの? 分かんない。自分は好きじゃないし。その後ろ姿に追いつくまで、ちょっとだけ考えた。もしかしていまは一人で住んでるのかな、とか。午後の十時半にコンビニへ来るって、その歳だとあまりなさそうなものだし。というかそれくらいの年齢だからこそ、一人だという想像は仮に当たっていたとしても何らおかしいことじゃない。そう思うと、なんだか嫌だ。寂しい。誰かが隣にいればいてほしい。両手にぶら下がる重たそうな袋の、その片方を持ってくれるような誰か。確かめようもない。それは自分じゃない。嫌だな。持てたらいいのに、自分が。でも、そうしない。不審者だろ、それ。というか、別にこのお婆さんは困っているわけでもないだろうし、普通に迷惑だと思う。善意の押し付け。自分がやりたいだけ。嫌だな、そういうの。西へ下る歩道は随分と狭くて、二人が横に並ぶと後ろが詰まるくらい。でもその隣をできれば歩きたくなかったから、歩道から少しだけ飛び出して車道の側を歩いた。お婆さんよりも自分のほうが歩くのは速い。どこかで必ず追い抜いてしまう。気づかれたくなかった。向こうは自分のことなんか絶対に覚えてない。だから、これも自分のため。

 

 曲がり角の奥の、街灯がほとんどない暗がりとか。非常階段の先にある、使われなくなった道具たちの置き場とか。そういう場所に何かがあればいいと思うことがある。何もないから。何もないと、自分はそう思うから。誰もみない。誰もいない。そういう場所に何かがあればいいと、だから思う。たとえば交差点の真ん中に、何台もの車が行き交うその中心に、大切な何かがあるんだとしたらきっと報われない。バス停の広告とか、塗装の禿げたカーブミラーとか、彼らみたいな存在だけがその在処を知っていればいい。

 

 手を繋ぐことの意味を考える。比喩とかじゃなくて、実際にそう行動することの意味。大切な人の存在を確かめ続けるためかもしれない。あるいは、単に寒いから。でも、手が寒いならポケットに突っ込んでいた方がずっと暖かい。手袋とかをしていたら別かも。そうしたら手を繋ごうって気にもなるのかな。自分にはよく分からない。手を繋ぐのって、怖くないのかな。いやもっと普遍的に、他人の身体に触れるのって怖くないか。他人、というか身近にいる存在に。肩がちょっとぶつかるとかそういうんじゃなくて、自分の右手で、あるいは左手で、意図的に他人の身体に触れるという行為。怖くないのかな、って思う。自分は怖い。といってもまあ別に恐怖症ってわけじゃないし、握手なんかは普通にするけれど、でも怖いからなるべく避ける。だって、もしも拒まれたらって考えたら、全身の血がすっと引くような感覚がする。それが、つまり怖いってこと。でも、どうなんだろうな。ここまで書いてみたけれど、自分も他人に触れることは少しくらいあるなって気持ちになった。頭を撫でるとか、やってたな、そういや。誰彼構わずってわけでは勿論ないけれど、それってどうなんだろう。こいつはそれを拒まないだろうからって無意識で決めつけていたのか、それとも、こいつには拒まれても構わないからって考えていたのか。前者だったら嫌だな。でも、多分、それが正解なんだろうな。

 

 繋がることで確かめられる何かがあるんだったら、繋がらないことで確かめられる何かもあるはずだよな、と思う。友人と恋人の違い。ずっと考えてる。去年の夏くらいから。もっといえば三年前から。その二つを明確に区別して扱う理由って、何なんだろう。世間一般的な意味での恋愛的でない男女の関係があってもいいと思うし、逆に、世間一般的な意味で恋愛的な同性関係があってもいいと思う。なんだろう。それを否定するのは、少し違う気がする。だからって、そればかりを手放しで賛美するのも、同じくらい違う気がする。色んな形があっていい。というか、一つの正解なんてあってほしくない。新年に高校同期と会って、そのときに色んなことを話して、男子大学生だからって書くと怒られそうだけど、下世話な話題が上がることもやっぱり多くて、自分は縁のない場所にいるから適当に相槌を打つだけだったけれど、でもなんか、そういうのもいいなってちょっと思って。いや、下世話って形容がよくないな、これは。あれはあれで純粋な一つ。だから、ああ、こいつらもそれを持ってるんだって。なんだろう。男女関係なんて全部ぶっ壊れちまえばいいのになって気持ちはやっぱり強くあって。それは主義思想とかっていうよりも、なんていうか、ほとんど先天的に根付いていた感情というか、いや明らかに後天的なんだけど、でも勝手に押し付けられたっていうか。最も簡易な言葉で記述するなら肉体関係。自分はそれがどうにも受け入れられなくて。恋だの愛だのって笑いあって、その先にあるのがその程度でいいのかよ、みたいな。小学生の頃からずっと思っていて、いまもそう。でも、なんだろうな。手放せないものが誰にだってあって、自分にもあって、高校同期のそいつらにも勿論あって。自分にとってのそれは彼で、あいつらにとってのそれは多分彼女で。その二つに違いなんてあるかなあと思って。どっちがどうって話じゃないよなって。将来結婚しているか否かみたいな話を周りの人間がたまにしていて。そのたびに、何だかんだ言ってお前らは全員結婚するだろ、と自分は思うし、一方で自分はしないんだろうなと思っていたけれど、もしかしたら自分も同じかもなって気がした。しただけ。現代社会において家庭を持っていることの重要性云々って話じゃなくてさ。違うんだよ。そういう尺度で人間関係を、測ったことはあるかもしれないけれど、測りたいと思ったことは一度もない。健康とか、貯蓄とか、躁鬱とか、孤独とか、そんなのは心底どうだっていいんだよな。それが自然ならそうなるだろって、そういう話。

 

 たとえば忌み嫌う存在がこの世を去ったとして、それを笑えるものなのかな。なんか、なんだろうな。いま新型肺炎が話題になっていて、インターネットが、というか日本中が騒がしくなっていて。漫画や映画、というかフィクションの世界でよくあるじゃない、こういうシチュエーション。なんていうかさ、信じられなくて。いざこういう状況に陥ったとき、当のフィクションで描かれているような言葉があちこちから聞こえてくるのが。でも、現実なんだよな。そういう声が、ニュース記事のリプライ欄とかに無数にくっついてる。タイムラインにもよく流れてくる。これもたとえばの話、オリンピックが中止になったとしてさ、感染力の強いウイルスが世界的に蔓延しているんだからって、そうなったとして、それを笑えるものなのかな。東京オリンピック自体は前々から計画の杜撰さっていうか、そういう欠陥が指摘され続けていたけれど、そのたびにいっそ中止しろって声が上がって、じゃあ実際に中止にしますとなったとして、その結末を望んだ人たちは満足するのかなって。なんか、それが信じられなくて。だってさ、色んな人がいるだろ。四年に一度のオリンピックに向けて必死で頑張ってきた選手がいるし、それを支えてきたトレーナーだったり家族だったり、その活躍を心待ちにしていたファンもいるだろうし。会場だってわざわざ作ってさ。現場では多くの人が動いて、あれだけ無能だと叩かれた委員会だって別に何もしていなかったわけじゃないだろうし。そうやって繋いできた一つの未来が簡単に潰れてさ。それで満足なのかなって。別にオリンピックだけじゃない。話題のウイルスへの対応とか、もっと辿れば共通テストの件だってそうだし。正しいかもしれない。誰がどうみてもその場しのぎの対応策で、細部を照らしてみれば実はボロボロの欠陥住宅でしたみたいな。共通テストに関して言えば実際にそうだったわけだけれど。でもなんか、それがたとえ相対的には正しくない目標であったとしても、数え切れないくらいに大勢の人がその一瞬に向けて動いていたわけで、そうやって地道に重ねてきた時間がさ、何の関係もない、何もしようとしない連中に潰されたんだとしたら、たまったもんじゃないよなあって思う。もう十何人も亡くなってて、その誰にしたって自分とは無関係な他人だけれどさ、そういう状況で、よくもまあそんなことが言えるよなって。たとえばあいつらの忌み嫌う相手がそのウイルスに侵されたとして、亡くなったとして、あいつら、その死をまるで自分たちの勝利みたいに高笑いするんじゃねえかなって。そういう不信感と不快感がある。あった。バーガーキングのやつとかね。昨日の夜に見て、普通に気分が悪くなった。戦争、なくなんないな。飽きもせず。争いを放棄する理由なんて、青空が綺麗だからとか、それくらいの些細なもので事足りると、自分は本気でそう思うのだけれど。そう信じたいのだけれど。だけど、そうも言ってられないよな。