20220729

 


 最近思っていたことについて雑多に書く。

 

 ついさっきまで眠っていた。なんか、妙な夢をみた。中学生くらいの小さな女の子と夜、どこかの一室にいてそのまま一緒に眠るだけの夢。自分はいわゆるアニメ調の夢をみることが昔から多くて(アニメ全然観ないのに)、今回もそうだったのだけれど、その女の子の顔に見覚えはなかった。夢の中ではそれなりに親しい間柄だったようで、ただ目が覚めてから「あれ、いまの誰だ?」ってなって。自分が忘れてしまったのか、そもそも知らない相手だったのか、どっちなんだろうと考えてみたり前者だったら嫌だなあとか思ったり、目が覚めてからの一〇秒弱。誰かと一緒に眠ると安心できるっていう、たぶん自分の中にはそういう感覚が在って、本当に幼かった頃からずっと。昨夜はそこそこ嫌な、というか不安定な気持ちのまま眠ったから、だからこんな夢をみたのかもなと、身体を起こした後、室温に馴染んですっかり温くなったアクエリアスを口にしながら思った。だとしたら感謝しないといけないな~とか思ったりもして、あの女の子に。だけどもう、夢の中でどんな表情をしていたのかさえ忘れてしまった。あんな近くにいたのに。……まあ、夢ってそんなもんだよな。

 

 昔の自分は、ここでいう昔とはほんの三、四年ほど前のことだけれど、自分の嫌と思うものに対して、割と明確に嫌ということを発信していたように思う。ように思うっていうか、実際そうだった。最近は、ここ二年くらいは、そういうのが極端に減った。これは世界から自分の嫌なものが一斉に消滅したというわけではなく、まあ自己の許容ラインが大幅に改善されたというのは事実としてあるけれど、それはそれとして。単に、嫌だな~、って気持ちを内側に溜め込むようになった。嫌なものを嫌だと発信することは、それ自体が誰かのことを傷つける可能性があるし、何よりも、ただ自分が気持ち良くなりたいがための行為でしかないなと思って、大学へ入って以降のどこかのタイミングで。どこかにストレスがあって、抑圧があって、その当て擦りとして嫌なものについて嫌と言う。最悪の一種。だからあんまり言わないよう心掛けるようになった、そういったことを。だけど、それはそれとして心は摩耗していくんだよな、と思う。その『嫌』が自分の失敗だとか、あるいは性格上の問題だとか、そういったものに起因しているのなら納得もいく。仕方ないと割り切れる。でも、そうじゃない、外界から一方的に割り込んでくる負の情報によって擦り減っていく部分が明らかに多くて、ここ一年くらいは。それが本当にしんどい。しんどいな~ってよく思う、最近。

 

 何かを心底憎んで、嫌って、嘲笑って罵って蔑んで。そうしないと呼吸のできない人たちが大勢いることは知っている。高校まではそんな人、インターネットでだってほとんど見かけなくて、だから大学へ来てから知った、そういう人たちがいることを。そのうちの何人かと交流を持っていた。なんていうか、同情って言葉も気持ち悪いな。なんだろ、共感……でもないか。境遇? その個人の背景事情に理解を寄せるというか、そういったことはできる、ある程度なら。だからそうやってさ、自身と相容れない存在、主義、思想に対して暴言を吐きたくなる気持ちも、まあ何となく分かる。何となくでしかないけれど、その不明を根拠に突き放すような真似をするつもりはない。でも、いや、それでもやっぱ無理だ、ごめん。これは二〇と数年を生きての経験則なのだけれど、他人の負の感情に触れすぎると本当に良くなくて、自分は。自分と同じような人はたくさんいるだろうし、そうでない人もたくさんいると思う。どっちがどうとかはない。ないのだけれど、ただ事実として、自分は誰かの負の感情にやたらと飲まれがちな傾向がある。毒される。暴言を吐くなとは言わないよ、別に。それは自由だから。でも、こっちにだってお前のことを嫌いになる自由があるんだぞって、最近はそんなことばっか考えてる。誰かを、何かを嫌いで居続けるなら、自分も同じように嫌われることへの覚悟をしろよと思う。思ってしまう、自然な感覚として。それで、そういうことを考えている自分を認識するたびに嫌な気持ちになる。そういうのが溜まっていく。本当に最悪。なんでこんなことを繰り返さなきゃいけないんだ、本当に。

 

 嫌だなあと思ったことをこうやって吐き出している。どこかで吐き出さないと本当に心臓をやられてしまうから。それにブログってそういうものだしな、と割り切ってもいる。アクセスするもしないも、最後まで読むも途中で止めるも全部、読む人のほうへ任せている。自分から「読んでくれ」と言うことなんてないし、喧伝したりもしない。というか読まなくていい、こんなの。誰かに読んでほしいというわけじゃなく、ただ単に負荷が閾値を超えそうだから出力しているってだけで、読んでて楽しいようなものでもないだろうしさ。それに、自分と同じようなタイプの人はたぶん読んでいて良い気分はきっとしないだろうと思う。ごめんなさい。いるかは分かんないけど、そういう人が。なんにせよ、読みたくなくなったところで止めたほうがいいと思う、本当に。自分は最後まで書くけれど。

 

 なんていうか、某感染症が流行し始めて、全員が等しく不自由を背負うようになって、そうしてしばらく経った頃から色んなところの歯車が狂い始めてきたなって感覚がある。それくらいの時期からだと思うんだよな。なんでもかんでも安易に結びつけてしまうのはよくないけれど、なんていうか、やたらと攻撃的な人たちが散見どころじゃなく日常生活の中にすら現れ始めたのって。それまでは現実世界のあらゆる要素によって何となく取れていたバランスが、とはいえ何となくでしかなかったから、だから簡単に崩れてしまったのかなあ、とか。自分がそうでない側にいまいるのは、単に運が良かったってだけの話なのかもなとも思ったりする。運が良かっただけ。まあ、そうなんだろうな、きっと。

 

 右にも左にも、正義なんてその実ないのかもな、と思う。思った。なんていうか、これまでは別にそんなこともなかった。いわゆる右翼には右翼なりの理念があって、いわゆる左翼にも左翼なりの理念があって、その二つはたしかに相容れないかもしれないけれど、それでも自分たちなりの正しさを信じて生きているんだなと思っていて。こと政治的な領域において、自分にはそういうものがなかったから、本当に。右でも左でもないし、なんていうか、それを決定せしめる数直線の上にさえ乗っかっていないような気がする。たった一本の綱を引き合っている様を観戦席から眺めているみたいな、そういう気分。それは、いや、本当のところがどうなのかは分かんないけど、それは自分が真剣に生きていないからなのかなと思ったこともあって。だから逆に、彼らは真剣に生きていてすごいなと思ったりしたこともあって。でも、なんか、なんかなあ。

 

 っていうのは嘘なんだよな。嘘、というか錯覚。ノイジーマイノリティって言葉があって、それ自体、自分はあまり好きではないのだけれど。なんていうか、ものすごく排他的だなと思うから。ただ、そういった副産的な心象は一旦抜きにして、文字通りの意味としてのノイジーマイノリティ。結局はこれ。右翼にせよ左翼にせよ、理性的な人はきっといるはずで。インターネットで大声で騒いでいる人たちが悪目立ちしているだけっていう、それだけの話なんだろうなと思う。そういう意味で嘘。なんか、そういう一部のノイズだけを摘まみ上げて「これだから△△は~」だとか言ってしまうのは、その界隈の人たちとやってること変わんねえなとも思う。名前を出すと怖い人が寄ってきそうだからしないけれど、フェから始まる六文字のアレも、きっとそうだったのだろうな。正しい理念を持って戦っている人はきっと大勢いて、それと同じくらいの数、欲望の捌け口として利用している人もいて(尤も、本人にはその自覚がないかもしれないけれど)、後者が悪目立ちしているっていう。なんていうか、だとしたら誰も幸せになっていないな。正しさを信じる人たちも、蚊帳の外にいた人たちも。傷つけることでしか証明できない人たちですら。こういう、もはや誰の手にも負えなくなってしまった構造を思うたびに胸が痛くなる。どうしようもなさすぎて。

 

 自身と相容れない思想を攻撃する心理。それは結局、自身にとっての正義に与える証明を欲しているからなのだろうなと思う。正しさを証明するためには大きく分けて二通りの手段があって、直接法と背理法。まあ、どっちのほうが楽かって話だよな、体力的にも精神的にも。そりゃ背理法、つまり自身と相容れない側の思想を否定する方がずっと楽だろうと思う。直接法……って例えばなんだろう。その手の組織を作ったり、論文を書いたり著書を出版したり、あとは選挙へ出馬したり、そういうのかな、全然想像つかないけど。排斥する方が楽なんよな、実際、あらゆる場面において。だって、話し合いで解決することなんてないし、選挙に出たからって必ず勝てるわけでもないし。直接法を実践したところで正しさが証明されるとは限らないわけで。一方、排斥だとその辺りが容易に達成できる。だって、それらを自分の世界にとっての異物と定義して、たったそれだけで自分が正義の側に立てるから(この場合の正義は「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」でしかないという問題があるけれど、それでも目標は一応達せられている)。あと、気持ちがいい。自分の嫌いなものを扱き下ろす快感って、大なり小なり誰にだって備わってるはずのものでしょ、たぶん。そこを制するのが理性の役割、のはずだけれど。

 

 ……自身にとっての正義というのが何処に由来するかに依るんだろうなと思う。それが右ないしは左、あるいは自身の信じる理想、そういったものに基づいている人たちは多分暴走しない。そういう例はちゃんと知っている。一方で、それがプライベートな問題に基づいている人たちは往々にして暴走しがちだなとも思っている。ストレス発散としての証明。いやまあ、そりゃそうだろうな、とも思う。ストレス発散のためにやってるなら直接法で証明しようなんて思いもしないはず、だって本末転倒だし。まあ、本人たちにそんな自覚はないんだろうけど。

 

 椅子取りゲームだよな、と思う、結局。自分は友人に恵まれているし、環境に恵まれているし。学業も趣味もそれなりには上手くいっていて、不満はあんまりなくて。そんな人間が何を言ったところで、と自分でも思う。だから言わない。Twitter とかじゃ絶対に言わないし、こんなこと。外でも言わない、よっぽど気の知れた相手じゃない限りは。いやでもさ、それでも削れていくものは削れていくんだって。そういう話がしたくて、いまこの記事を書いている。何かを傷つけることで存在証明を果たそうとする人たちが、かつて他の何によって傷を負ったのかは知らないし分かんないし、そういう事情がもしかしたらあるのかもしれないなって理解しようと試みるくらいのことはする。でもなんていうか、なんていうか。だとしても、と思う。思った。思ってしまったよな、ここ最近に発生したすべてを受けた結果として。自分だって嫌なことなんて、それこそいっそ死にたいなって思うくらいのことなんてこれまでに山ほどあったし、いまもたまにあるし。余裕がないってのは分かる。無理を言ってるなってのも分かる。だとしても。

 

 嫌われることへの覚悟をしろよ、と思う。自分は自分以外の何一つも愛しはしませんが、貴方たちはどうか私のことを深く愛していてくださいって。いくらなんでも都合が良すぎるよ、それは。