星空


 新年におみくじを引きに行った。祇園四条にある八坂神社まで。三が日もあけて一日を経た後の平日正午前だというのに、大勢の人でごった返していてまあまあ驚いた。神社でおみくじを引いたことくらいならこれまでの人生に何度かあったけれど、ところで一人で来るのは記憶の限りだと初めてだな。みたいなことを考えながら境内を進んで、さて、おみくじ売り場はどこだろうと数秒ほど辺りを見渡した。微妙な死角になっていた左手側後方、誰がどうみたって迷わないくらいの大きな文字でかかれた「おみくじ」をみつけて、そりゃまあこの規模感だとそれくらいの親切はあるよな、と思った。事前に聞いていた通り、御籤は二種類あった。一般的に想像される真っ白なそれと、薄桃色のそれ。面白いかなと思って両方とも引くことにした。木製の筒から棒なり紙なりを引き抜くといった形式ではなくて、大量の御籤が桶のようなものの中に収められていて、その中の一つを自身で選んで受付へ持っていくといった形式だった。なんだかんだ言って、ただ運に任せてしまうよりは自分の手で選べた方が嬉しいかもな、と思って、目を瞑って適当に手に取るとかもせず、「どれがいいだろうな~」と外目には何の差異もない無数のそれらと睨めっこしていた。別に何の直感も確信もなく目に留まったそれを手に取って、それから受付へ。受付の人が異様に淡々としていて面白かった。まあ、これだけの数の人間を一挙に相手させられたらそうなるよなと思った。境内で開けてしまってもよかったし、というかそうするのが普通なのだろうけれど、そのことを何となく躊躇ってしまった。誰にもみられたくなかったのかもな、おみくじの中身とかを。別に、そんな強い気持ちで事に臨んだというわけでもないのだけれど、ところで無意味に引いたわけでもなくて。んー。境内の中にはくじに書かれてあることで一喜一憂する人たちの声が飽和していて、そこはかとない気まずさ。結局、境内では開かずにそのまま神社を後にした。どこで確かめよう。なるべく早く中身を知りたかった、そのときは。信号前、橋の上、なんか違う。このままだとバイトが終わって家へ帰るまでみられないかも、と思いつつ改札をくぐる。階段を下りながらふと、あり得ない可能性について考えた。昔からの癖で、自分にとって都合の良すぎる可能性、都合の悪すぎる可能性、そのなかでも特に両極端にあるものについて妄想することがあって、これはもう無意識的に。「たとえば、明日死んでしまったら」とか「たとえば、いきなり目の前の人に話しかけられたら」とか。確率上は決して起こりえないことでもない。けれど、ほとんど無視してしまってもよい程度の可能性ではあるはずで、そういう意味で「あり得ない」。階段を下りながらふと、両方とも大吉だったらどうしような、と考えた。それから、そんなことあるわけ、と笑う。去年の初詣に引いたおみくじは凶だった。学部三回のときにいった平安神宮のそれは、覚えていないけれど、少なくとも大吉ではなかった。二種類とも引いたから、今年は二枚分ある。まさかねえ。みたいに、あり得ない可能性について考えて、あり得ないなって笑い飛ばすまでが予定調和。都合の良すぎることも悪すぎることも、それらが現実にはおおよそ起こり得ないことを知っているから、だから架空世界の御伽噺として楽しむことができるのであって、現実がそうなることなんて別に望んじゃいない。階段を下りて、それから既に停車していた列車の中へ。最後尾の車両の、なかでも最後列の座席。始発駅ということも相まって、この時間のここはだいたい誰も座っていないことを知っている。誰もいないな、と思って、それから財布の中へしまいこんでいたおみくじを取り出した。好きなメニューは最後に食べる派なので、白のほうから開けた。大吉。マジか、と思った。どの項目にも軒並み「全部うまくいくからマジ頑張れ」的なことしか書かれていなくて笑った。こうなると、逆に何の意味もないような気がするけれど。いや、全部がうまくいくならそうであってほしいから、これはこれでいいのか。残る一つ、薄桃色のそれを手に取って、あまり慣れない開封作業をしながら考える。これが大吉だったら、どうしような。どうしよう。「あり得ないよ」って笑い飛ばした架空がもしも現実になったらだなんて、考えてもいなかった。そういえば、秋M3のときもそうだったっけと思う。あのときもそうで、あり得ないなと思って話していたことが実際に目の前で起きていて、気が気でなかった、正直に言って。だって、そういうのって決して起こり得ないからこそ現実味があるのであって、実際にそうなってしまったらそれはもう、なんていうか、違うじゃん。起こり得ないと思ったことだって叶ってしまうと知れば、何をどうしたって期待してしまう、その先があることを。どうやって開封するのが正解なんだろうな、と思いながら薄桃のそれを開く。大吉。目を疑った。うわ~、と思った。真っ先に確かめたのは『幸運の鍵』という項目だった。そういうものがあることを事前に聞いていたから、自分にとってのそれはいったい何なのだろうと思って。ほんの一瞬だけ目で探して、すぐにみつけて、それから思わず笑った。あまりにも、あまりにもすぎて。そうこうしているうちに目的地へ着いたので電車を降りる。それから歩き始めて、そういえばとイヤホンを装着した。リスティラ。もう一年半近く前なのかと思いながら、リリースは一昨年の 11 月頃だけれど、作詞作曲自体は 7 月には片付いていたから、だからだいたい一年半前。思えば、ものすごく背中を押してもらっているなと思う、たぶんこの世界の誰よりも。制作に関わってくれた人たちとか、作品を受け取ってくれた人たちとか、あの頃の自分が書いた歌詞とか、そういう全部に。まだ覚えている。それを確かめるためだけの唄だったはずが、なんていうか、いつの間にか、この先にあるはずの何かを信じるための唄にもなっている、自分の中で。前向き。自分がどれだけネガティヴなのかを知っているから、だから本当にびっくりする。梅田の街、ビルに囲われた青空を見上げて、まだまだ歩いていけるのかな、とか思う。思った。2023.01.05. のこと。

 

 なんていうか、とても気に入っている。自分にとって、それはとても重大な意味を宿した言葉という風に思うから。星空。星空って、本当にどこにでもあるものだと思っていて。どこにでもある類の中でも、かなり上位に食い込むだろうというレベルで。少なくとも自分は、曇が空を塞いでいるなら仕方がないけれど、そうでない限り、望みさえすればそれをいつだって手に入れることのできる環境にいて。支度をして、靴を履いて、玄関の扉をくぐって。そうやって、外の世界を確かめるだけでいい。鍵の掛けた部屋に閉じこもったままでは触れられないけれど、腕に力を入れてドアノブを回す、たったそれだけのことで簡単に届いてしまえる、それが自分にとっての星空だと思う。それに、どんな灰色の雲が塞いでいたところで、空へ火を投げればいいだけの話なのだし。だとしたら、自分の意思次第で本当にいつだって手に入れることができる。そういうもの。ただの偶然に意味を見出しすぎだな~って思う。だけど、だからそれさえも信じてみたいって、そういう気持ちも同時にあって。そういう気持ちがあったから、だからおみくじを引きに行った。その結果がこれなのだとしたら、あとはもう自分次第だよなって。そう思う。薄桃色、大吉、冬の空についての歌が記されていた。幸運の鍵は、曰く「星空」。冬、星、空。なんか、なんかなあ。あり得ないって架空は架空でしかないんだから、叶わないままで何の不満もなかったのに。なのにさあ、って。だって、期待するじゃん、そんなの。死にたくなくなるし、もっとずっと先の景色をみてみたくなる。永遠だって、何度も願ってしまうかも。怖いなって思う。一寸先の光景なんて知らないから当然のように脚は竦むし、永遠がどこにもないことは分かりきっているのに、だけど、それでも確かめたいって高揚感。何にも期待しなければ何かに裏切られることも同様になくて、それでよかった。それでよかったのに、世界はさあ。奇跡とか、魔法とか、曲がり角とか坂道とか。いったい、あといくつ隠してるんだって思う。笑っちゃうな、本当に。