手のうちにある感覚にどんな理解を与えることができるかなと考えるのが割と好きで。好きというのは正しくなく、好きとか嫌いとかの領域の外、ほとんど無意識のうちにそういうことをやっている自分がいる。知っている感覚はそれほど多くなくて、歌詞を書いているときなんかによく思う。傍目にどう映るのかは分からないけれど、少なくとも自分の目には全部同じに見えるというか、歌詞で書いていることの話。作詞というものを本格的にやり始めた三年前から今に至るまで、ずっと同じことを書き続けているなという感じがする。状況、文脈、視点、立ち位置、捉え方、向き合い方。細部が少しづつ変化しているだけで、根本的なところでは言いたいことも表したいことも、何一つだって変わっていないような。自分の場合、結局のところ自分の知っているものしか扱うことは出来なくて。だからってわけでもないけれど、たった一つのものを何度もくるくると回してみて、「これはこういう風にもみえるのか」って、そんなことを繰り返すみたいな。あるいは洞窟。迷い込んだ感覚の核、到達点のようなものを何となくで知っていて。「前はこっちの入口だったから、今回はあっちから行ってみようかな」みたいな。どこから入ってどう進んだって、結局は同じ結末に行きつくことを知っていて。だけど、その結末に対する向き合い方というやつは、選んできた道によって決定されるというような気もしていて。肯定、否定。寂しいとか寂しくないとか、大丈夫だとかそうじゃないとか、そういうの。……みたいなことを歌詞を書いているときにはよく思うという話。とはいえ、思い返してみれば自分は普段からそういうことをやっているなという気がして。このブログなんかが正しくそうだけれど、何回言うんだよってくらいに同じようなことを、それでもああだこうだといろんな風に喩えてみて。「自分はこういうことを思っていて、それはたとえばあれに似ている。あるいはこれにも似ている」みたいな。比喩を捏ねくり回すこと自体が好きなわけではないのだけれど、でもやっぱり、自分の持っているものを他人へ伝えるには、その誰かがちゃんと知っている別のものに言い換えることがどうしたって必要で。それを伝える相手がいなくたって、ほしいときにすぐ取り出せるようにしておきたいから。そういうわけで冒頭の話へ戻る。たった一つの理解がほしいのではなくて、というかそれだと意味がないような気がする。一面的に捉えて正しく映るものなんて何一つもないと思っているし、自分は。ああいう風にみえて、こういう風にもみえる、じゃあ次はどんな風にみることができるかな、みたいな。そんな感じの、自分以外の全人類にはどうだっていいことをずっとやっている気がする、この数年くらい。
会話って何だろう。広くコミュニケーションと言ってしまってもいいのだけれど、自分にとってのそれは主に会話のことを指すので、だから今回はそういうことにしておく。会話。たとえば相手の世界を覗き込む行為だと思う。自分たちは一人称視点でしか世界を享受することができないから、その目に映る光景を相手の言葉を借りることで再認識しようとしているのかも。あるいは、辞書に言葉を書き加えていく行為。自分たちは同じように聞こえる全く違う言語を使っているのではという考えが頭の中にあって。だから相手の言葉を自分の辞書に書き足して、記憶して、そうやって理解できる領域を拡大しようとしている? みたいな。これまでに考えた全部がいまも残っていて、というか手に馴染んでいて。ブログを書いているときなんかにはひっきりなしに登場したりする。辞書と翻訳という理解の仕方は、自分の感覚と特に近いたとえ話で、だからよく引っ張り出されては雑に放り投げられがち。それはそうと、別のアプローチもできるような気がずっとしていて、ここ数ヶ月くらい。なので考えていた、会話って何だろう。きっかけは八月。すっかり日の沈んだ、住宅地と呼んでいいのかも分からないような、車が一台通ればそれだけで埋まってしまうくらいの暗い夜道。いま思うと相当に不思議な経験で、顔をあわせるのは四回目くらい。そんな誰かと歩くのは、帰り道なら何度も覚えのある出来事だったけれど、行きはない。よく知らないどころじゃない、ほとんど何も知らない。顔と声はやっと覚えられたかなくらいの、お互いに。いったいどんな話をするのだろうと考えてはいた。とはいえ不思議と会話に困ることはないような予感があって、実際に大して困らなかった。例によって聞いてばかりだったけれど、趣味のこととか最近読んだ漫画のこととか、そういうの。地図をみたり信号に立ち止まったり、歩幅につられて行ったり来たりする会話の途中、だけど明らかに異質なものが挟まった一瞬。その瞬間が自分にとっては鮮烈で、だから今もずっと覚えていて、きっかけらしいきっかけがあるとすればたぶんそれ。そのことをまた最近になって思い出して、だから考えて、そうしていまはこれを書いている。
その場に立ち会わせているのが二人だけか、あるいはそれより多いのか。そういう基準線で会話というものをざっくり区別してみる。なぜかというと、二人きりで話しているときと大人数で話しているときとでは、取り出す言葉の種類が変わるような気がするから、感覚的に。種類というか、色味? たとえばセピア色という、比喩表現においては使い古されたそれがあって。そのような色味を帯びた表現が多数の場で持ち出されるとは、あんまり考えられない。場合によるというのはそれはそう。卒業式だとかお葬式だとか。だけど日常的な場面で、たとえば飲み会なんかでそういった言葉が出てくるとはあまり思えなくて。そういった言葉に触れることは、恐らくは少人数の集まる場でしか叶わない。逆に、大人数の場でしか触れられない言葉もあって、当然ながら。みたいなことを踏まえた上で、自分が考えていたのは前者、一対一で行われる会話のほうについて。自分にとってのコミュニケーションといえばどちらかというとそちらがメインで、だからって多数を蔑ろにしているというわけではないけれど。そういうことで考えてみた。結論から言うと、自分にとって他者との会話というものは街を歩く(これは厳密でないけれど)みたいな感覚に近い、という気がしている。と言われても、人によってはあんまりピンとこないかもなと思っていて、だとすればそれは会話における自分の立ち位置が関係している、たぶん。自分はどうしたって聞き手側にいたい気持ちがあるので、実際の会話でもそのようにしていて。だからこそこんな風に感じるのかもな、という気がしていて。なので、以降は聞き手としての会話が主体と思って読んでほしい。話し手に回ることが多い人からは、また違ったものがみえているのかもしれないから、それはそれで知ってみたい、いつかのうちに。
会話が始まった瞬間に、自分はどこかの街の入り口にいる。広場でもいい。RPG のそれを思い浮かべてもらえたらいい。特にポケモン、自分はダイパを想像している。分かりやすいように街と言ったけれど、会話が始まった時点で、そこが本当に街なのかどうかは分からない。とにかく広い場所に立っていて、初対面であれば、そこに建築物の類はほとんど何もない。人がいる、自分以外に、会話相手。目の前に立っている気がする、隣でもいい。隣にいるように感じるのは、歩きながら話すときのイメージに引っ張られているだけだと思うから、あまり本質的じゃない。いま自分はどこにいるんだろうなと思いながら、もう一人と一緒に歩き始める。歩きながら、相手は色々と説明をしてくれる。道案内。ここがどういう場所で、どんな建物があって、どんな景色がみえているのか。それを聞いているうちに、段々と自分の目にもそういうものがみえ始めるみたいな、そういう感覚。霧が晴れていくとかではなくて、たしかに何もなかったはずなのに「ああ、そこにはこういうのがあるんだよ」と言われた途端に、振り返ってみるとたしかに其処に其れが在る、みたいな。そういう感覚。たとえば。たとえば、部室がある。初めの例から街っぽくないけれど、それは街という言葉のイメージが多分違うから。渋谷とか新宿とかを想像しているのではなく、いや、渋谷のゴチャゴチャ感は近いかもだけど。なんていうか、あまり現実に即したものを考えすぎないほうがよくて。夢でみるような、空想の。そういうものを考えている。話を戻すか。部室。街に部室があることは珍しくないと思う。生徒会、野球、軽音、サッカー。会話相手が中高時代の部活の話をする。ああいうことをした、こういうことをした。その場所にはこんな感じの人たちがいて、自分はその中でもこういう役回りをしていて。みたいな。実際に部室に類するものがあったのか、話題に上がらないこともままあるけれど、だいたい勝手に室内をイメージしている。イメージして、それが街に現れる。距離感によって場所が変わる。その人にとってはもう過去のものなのだという印象があれば外れのほうに、そうでなければより中心近く。細部はよく分からない建物がとつぜん現れて、「ああ、そこに部室があるんだな」と思ったりする。他の例。建築物に限った話じゃなくて、たとえば季節。暑いのか寒いのか。温度感。たとえば夏が好きという人の街は、どうしても勝手に夏の空気を想像してしまう。けれど、たとえばさっきの部室をもう一度取り上げるとして、部活の話をするときによく出てくる季節が冬だったなら、部室のある場所だけがとりあえず冬になる。寒そうだな、と思いながら、実際に自分がそこにいるわけではないから、別に何ということもないのだけれど。他には、海がある人もいた。沿岸を何時間も歩いたと言っていた。すると「この人の街には海があるんだ」という気持ちになり、向こうのほうに水平線がみえ始める。あるいは、いま歩いているその場所がそのまま海になる。どちらもある。これもやっぱり相手の距離感による。その記憶とどれくらいの距離を保っているのか。相手の語気とか口調とか、言葉の断片に滲む情報からこっちで勝手に想像する。それに従って、海をみつける。みつけた。そういうことがあった、たしかに。こんな感じに、会話を重ねて、そのたびに街のどこかに何かが増えていくみたいな。何があったかな。実家の自室、高校の校舎、最寄りの駅、よく通る道、この辺りは誰の街にだってある気がする。神社、大きめの山、行きつけの喫茶店、駅のホーム、図書館、夜の高速道路、予備校、港、公園、水族館、自動販売機。こういうのは人によってあったりなかったりする。早朝の御茶ノ水とか夜中の祇園四条とか、固有的な地域の破片が、バグったゲーム画面よろしく埋め込まれていることもある。なんだか適当だ、その辺は。とにかく、会話相手の話に出てくるものを詰め込んだ街。そういうのがある気がする、自分の頭の中に。
初対面でなくとも、あまりちゃんと話したことのない相手であれば、だからその街はほとんど更地。何にもない。あっちにはあれがある、こっちにはこれがある。そういうのを重ねていって、要するに会話の回数を増やしていって、そうやって街ができる。やろうと思えば自分ひとりで歩くことだってできる、その街の中を。たとえば部室に行ってみる、ひとりで、教わった通りの道を歩きながら。扉の前に到着する。なんだか変な感じもする。扉の色は知らない。そもそも校舎内にあるのか、そうでないのかも知らないし。でもまあ、街の中にはたしかに在って、その場所だって一度は聞いたはずなのだから、あとは道さえ覚えていればいつだって行けるはず。扉に手を伸ばしてみて、思う。入れない。正しくは、入れることもあるけれど入れないこともある。躊躇っているとかではない。たとえば部活の話を聞いて、なんとなく部室をイメージする。その内側でどのようなことが行われていたのかを聞いていれば、たぶんだけれど入ることができる、たぶん。でも、たとえばその会話相手にとって部活というものが遠くにあったとして、だったら自分はその中へは入れない。なんとなく期待してノブを回してはみるけれど、がちゃん、と乾いた音がするだけ。そこで思う。そういえば鍵は貰ってないな、みたいな。鍵。そうなると、まあ引き返すしかない。蹴破ったって仕方がないから。帰り道を歩きながら考える。次に話したとき、案内を頼めば部屋の中へまで連れていってくれるだろうか? だって、それはそう。そこは相手の街、他人の場所。入れない場所があるなら、入れてもらえばいいだけの話。相手はきっと鍵の形を知っている、もう失くしてしまっているかもしれないけれど、それならそれでいい。中身が気になるなら直接訊いてみればいい、実際に。そういうことを考えるだけ考えて、でも大体の場合、自分は実行に移さない。理由は色々とあるけれど、何より思うのは、相手が開かないというなら開く必要がないんだろうということ、その扉が。それに、何度も歩いているうちに自ずと入れてくれるかもしれないし、あるいは合鍵を渡してくれるかもしれない。知らない。知らないし、そんな未来を期待しているわけでもないけれど、でもそういうことにする。フィルター。誰にだって分かるようにかけてくれている鍵を、つまらない好奇心ひとつで壊してしまうのはきっとよくないこと。
そんな風に考えてみて、このブログの捉え方も若干変わった。変わったというか、また別の視点を獲得したというのが正しい。というのも、恐らく自分は街を作っている、ここに。他人からのアクセス。自覚的に用いた言葉ではなかったけれど、でも、だからこそ自分の感覚に近いと思う。誰かと話をして、その誰かと一緒に街を歩いて。あの場所には海がある、ここでは星がみえる、その先は途端に寒くなるから気をつけて。手を引かれながら、自分の街にもそういうものがあった気がする、と思う。思って、実際に置いている、こんな風に。このブログは、だから案内図のようなものなのかもしれない。あるいは看板。ここはこういう場所です、少し向こうに行くとあれがあります。そんな感じで。鍵が掛かっているかどうかも、実際に行ってみれば分かる、たぶん。とはいえ、地図に載っている場所はだいたい掛けていないことが多いから、空き巣されまくりかもしれない。ブログを読みましたと言われて、なんだか気恥しいような感じがするのも、なんとなくわかる。自分が勝手に作った部屋の中に、気づいたら誰かが立っていたみたいな。誰かに来てほしくて作ったくせに、来たら来たで変な感じがするというのも随分勝手な話だけれど、でもそっちのほうがやりやすいなとは思う。鍵は開いているとはいえ、部屋の中にわざわざ入ってきてくれるなら、少しは話をしてもいいのかなと思うから。分かりやすく切り取られた空間。部屋はそういうもの。そういうのを、たぶん作りまくっている、このブログのいたるところに。だから、これが自分の街。他人の街は頭の中にある。あるいは、会話の中にある。ひとりでも歩くことができる、覚えているから。だけど、ふたりで歩いているほうが楽しい気はする、どうせなら。「この間、あそこにケーキ屋さんができたんだ」みたいに、街のどこかへ建物が増えていくその過程自体も、どうせなら知っておきたいと思うから。
RPG によくある、序盤は取れない宝箱。八月のきっかけ。ここまでを言語化してようやく、あのときに覚えた感覚の正体はこれだったんだな、という気がした。ほとんど何も知らない他人の街。目につくものといえば大学の校舎くらいで、あとは更地。歩きながら話をして、話しながら街を歩く。空想の街。あれがある、これがある。連れられながら眺めながら、そうしてふと見つけた取れない宝箱。建物と建物の隙間に、ほんの一瞬だけ。いったい何が入っているんだろう、と好奇心。鍵と同じ。蹴破ったりはしない。ただ、その一瞬をいまでもなんとなく覚えている。それだけの話。