散歩、絵馬

 

 冬の深夜が好き。一番好きな季節の、一番好きな時間帯。理由は、まあ何度か書いたことがあるように思うけれど、またそのうち書くことがあるかもしれない。誤解のないように断っておくと、冬という属性の中で深夜ばかりを好んでいるという意味ではなくて。そもそも自分は冬が好きで、そもそも自分は深夜が好きで、両者の共通部分にあるから冬の深夜は特に好きという、そういう話。冬の朝方も普通に好き、夜には勝てないけれど、だけどまあ勝ち負けの話でもないな。さておき。だから、何の目的もなしに歩くことがよくある。昨夜も三時間くらい、普段通りに生活していたら絶対に訪れないような場所を。知らない場所を歩くのが結構好きで、地図なんか無しに。昨夜の話。帰り道の途中で気になる路地をみつけて、だからそこで折れてみた。傍目にも明らかに異質な道というか、もしもこの世界が RPG だったなら、その先で何かしらのイベントが発生しそうな感じの。そんなのを交差点の向こう側にみつけて、それで来た道をわざわざ引き返して、それから渡った。まだ日付を跨いで一時間も経っていない頃とはいえ、人の気配はせいぜいコンビニの灯り程度というような。傾斜の掛かった細い路地を丸っこい街灯だけが疎らに照らしていて、夜遅くに人が通ることがあんまり想定されていなさそうな。正直なことを言えば、ちょっと不気味。夜を一緒に歩いたことのある人には話しているかもしれないけれど、自分は自分で結構なビビリなので。とはいえ、大抵は好奇心のほうが勝るので足を止めることはない。入ってすぐに気づいたこととして、道が割としっかりめに舗装されている。それまではどこにでもある黒のアスファルトだったのに、路地を折れた瞬間、京都ではおなじみの石畳がまっすぐに伸びていた。たぶん観光地だな、と思った。銀閣寺の周辺とか、あの辺り一帯と同じ類、恐らくは。もうちょっと進んでみると、よりそれっぽいものが、具体的には路地の両側に所狭しと並んだカフェやら京料理やらの店がみつかった。明らかに観光地だ。表札の出された民家や、もしかしたら学生が住んでいるのかもしれないアパートもいくつかあった。それもまた銀閣寺のことを思い出す。その近辺に住んでいた(いまも住んでいる?)先輩がいて、日常の舞台がほとんど観光地だと何かと大変だと言っていた。そして、ここにもそういう人たちがきっといる。それだけの話。上りながら考える、「観光客を迎えることを想定して作られた路なら、この先に何かがあるのかな」。それらしいものはみえない。だとすれば、それこそ銀閣寺のような、遠目にみつけられるほどの規模感ではないけれど、そこそこ著名な何か? 思いながら、登る。どこがゴールなのか、それが何なのかも当然知らないけれど、とはいえそれほどの距離もなかった。もうしばらく進むと明らかに道が折れていて、それまでは一本道だったのに、しかも目の前に何らかの施設が現われた。木造。数文字あまりが書かれた木目の看板。二つあって、片側には聖徳太子が何だとか、もう一方にはその場所の名前らしき何々寺という文字列が、これもまた京都ではお馴染みの、異様に達筆な字体で刻まれていた。寺か。寺かと思って、一瞬立ち止まって、そこでやっと気がついた。なんか、あった、目の前に、めちゃくちゃに大きい塔が。びっくりしてその場で調べた、八坂の塔というらしい。路地を上っている最中からみえていたのだろうな、と思った。昨夜はとても晴れていたから、雲のない夜空に溶け込んでしまって、そのせいで全く気がつかなかった。もしも最初からみえていたなら、路地を折れる瞬間に暗闇を怖がる必要も別になかった。この手の恐怖って正体不明に対するそれだから、少なくとも何かしらの文化物があることが保証されていれば、そんなものとは無縁だったはず。でも、これはこの前に誰かと歩いたときにも話していたけれど、そういう感情って人生で一回限りなんだよな。次、自分はこの道を歩いたとしても「この先には八坂の塔がある」という事実を知ってしまっていて、昨夜のようなわくわくを再体験することは叶わないわけだし。知ってしまえばなんてこともないようなこと。記憶の不可逆性。魔法が解けるだとか、そう言ってみたりもする。塔の足元、流石に地図をみることにした。この異質な路地の目的がこの塔であるなら、その先は本当に何もないという可能性が高かったから。地図を辿る。このまま真っすぐに進んでいくと、途中からは南へ向かうことになるらしい。別ルートからのアクセス口かな、だとするとここまでと同じように観光客向けの店が並んでいるのかも。ところで、帰り道は北。東へ向かうだけならまだよかったけれど、南となるとちょっと面倒かもしれない。というか、指先が痛い。スマホを取り出して操作することだって躊躇うくらいに、ポケットの内側から出したくない。親指があまりに動かなさすぎて、人差し指で文字入力したし。そういうわけで下りることにした。まあ、交差点で覚えた異質さの正体を確かめるという当初の目的は達せられたわけだし、十分。途中、なんとなく振り返る。少し気になって。たしかに塔がみえる、目を凝らせば何とかというレベルだけれど、それでもちゃんとみえる。みえた。上ってきたのと同じ道を下る。知ってしまったな、と思った。記憶力だけはそこそこにあるから、一度歩いた場所の景色はなんとなく覚えてしまう。両手じゃ足りないくらいの年月が経てば流石に忘れてしまうだろうけれど、でもその間ぐらいは覚えていられる。伏見への道だって、半年前の一回きりだったのにちゃんと覚えていた。二、三年前にもブログに書いた気がする、地図をみずに歩く理由。迷ってみたいんよな、特に深い理由もないけれど。目的地へ真っすぐに着いてしまうことが何となく味気なく思えるというか、それ以外の場所にだって、たとえばいまの路地裏みたいに、自分が楽しめるものはたくさん転がっているかもしれないのに。散歩が好きな理由の一つ。でもそれはそれとして、知ってしまったな、とも思う。消費する感覚。魔法が解ける、でもいい。二〇分くらい前の、交差点の向こう側からこの路地をみつけた、その瞬間の自分へはもう戻れないんだなと思ったりする。こんなもんじゃん、人生って。頭の中で誰かの声がして、でも、こんな当たり前をこんなものだって割り切りたくもない。そうは思えないから、だから自分は散歩を続けているのだし。そう思うようになってしまったら、きっと散歩だってやめてしまうはず。そんな気がする。関係なくはない話。魔法って、解かれるためにあるんだよなと思うことがある。この世界のどこを探しても、魔法なんてものはみつからないから。それがなくなって、初めてそれが魔法だったって知って、そういう形でしかみつけられない、少なくとも自分は。だから、解かれるためにある、そう思う。散歩が好きな理由。

 

 神社の類へ足を運んだときに、それをみつけると絶対に足が向かってしまうというものがあって、何かというと絵馬。二〇と数年を生きてきて、明確に覚えているのは二回だけ。高校受験のときと、今年の初めに初詣へ行ったとき。その二回でしか自分は絵馬を書いていない。とはいえ、今年の初詣はノーカンみたいなところがある。平安神宮。(その場に居合わせた人間の)サークル全体への(勝手な)願望に絵を添えただけだから。高校受験のときは、なんて書いたっけな。普通に、志望校に合格できるように、くらいの当たり障りのないことを書いた気がする、太字の黒ペンで。こっちはたしか北野天満宮。大学受験のときは書いていない。その頃の自分は尖りに尖っていて、学校全体で近くの神社まで足を運ぶイベントがたしかあったのだけれど、そのときでさえお参りをせず「神頼みなんか」と思っていた。ちなみに普通に落ちた。でもまあそれだって神頼みをしなかったからではなくて、ただ単に学力不足という話ではある。浪人のときは、そもそも行かなかった。両親は行っていた気がするけれど、ついていかなかった。このときも「神頼みなんか」と思っていたから。とはいえ、両親やら親戚の人やらが買ってきてくれたお守りを無下にするのもなんだか違うと思い、それだけは鞄にしまって持っていった。今度は受かった。いや、お守りのおかげとは思わなかったけれど。そうやって尖っていた自分がいつの間にいなくなったのか、御社イベントが恒常的にあるわけではないので正確には分からないけれど、少なくとも二年前の初詣のときには消えていた。某感染症が流行するより前、わざわざ真夜中に出掛けたのにあり得ない数の人でごった返していて、平安神宮。絵馬は書かなかったけれど、おみくじを引いた。なんて書いてあったかは覚えていない。吉とか凶とか、最も記憶に残るはずのものですら忘れている。本当にどうでもよかったんだと思う。でも、それを引くこと自体に意味があるんだと思った、そのときは。たしか結ばずに財布へしまった覚えはあるから、それほど悪いことは書かれていなかったのかもしれない。ちなみに今年引いたおみくじは引いてから一分くらいで結んだ。おみくじ、というかそういった神頼み的なもの(「神頼み」という言葉はあくまで一般的なそれとして持ち出しているのであって、実際の意図は知らない)に対して一定以上の意味を見出す人とこれまでに知り合ったことがなくて、それがここ最近になって数人増えた。異文化交流。鳥居に礼をしていたのが印象的。自分は隣で眺めていた。理由も分からないままでするようなことじゃないよな、と思いながら。自分の中にない感覚。神頼み。神頼みというわけでもないんだろうな、とは思った、話を聞く限り。勇気がほしいときに何をするか。本を読む人がいれば音楽を聴く人もいて、おみくじを引く人だっている。それだけのことなのかもしれない。絵馬だったりおみくじだったり、それそのものに自分が関わることへの感動は少なくとも自分の中には何もなくて、だから書きたいとも引きたいとも思わない、あんまり。今年の初詣で引いたのだって、そういえば数日前におみくじの話を聞いたな、とふと思ったから。初めは引くつもりなんて別になかった。それくらいの感覚。だけど、その文化自体に思うところは色々ある。たとえば絵馬を眺めることが好き。おみくじもそうだけれど、みんな何か思うところがあってそれに手を伸ばすのかなと自分は考えていて。まあ、自分と同じくらいの軽い気分で遊んでいる人だっているだろうけれど。神社にはそんな一瞬の残滓のようなものがたくさんあって、結ばれたおみくじだってそうだけれど、絵馬なんかは特に、文字が書かれてあるから。顔も名前も知らない誰かの願い事が書かれたそれが、自分の背丈よりも高い看板にこれでもかと吊り下げられていて。多いところだと、それが四つ五つも連なって。ものすごい気持ちになる、そういうのをみると。昔の自分は、それこそ「神頼みなんか」と思っていた頃の自分は、相手の気持ちを考えるということを、たぶん本当の意味ではやっていなくて。やっている気にはなっていたけれど、できていなかった、たぶん。当時の自分は、たとえば絵馬の大群をみてもなんとも思わなかった。自分以外の他人を NPC みたいに捉えていたというか、無意識的に。でもなんか、違うんだよな、それって。自分たちは普段、自分以外の他人の内側に触れる機会がそれほど多くはないから、だからまるで自分以外の全員は頭空っぽの伽藍みたいな、自分ひとりだけが苦しんでいるみたいな、そういう錯覚をともすれば起こしてしまいがちだけれど、だけどそんなことはなくて。そんなことはないはずなんだよな、と思う、こうやって絵馬をみるたびに。そこには色んな悩み事が書かれていたりして、あるいは抱負のようなものもあって。どこの誰だかは知らないけれど、でもどこかの誰かが何かを思いながらこれを書いたということだけは、紛れもない事実なんだよなと思ったりもして。絵馬。良い文化だと思う、たったそれだけのことで。自分がそれを書くことはもう滅多にないだろうけれど、できればなくならないでほしい、自分が死ぬくらいまでの間は。余談。年末、一二月三〇日、墓地を歩いた日。連れとはぐれて、というか向こうは向こうで堂内を巡っていて、一人で動けるタイミングが少しだけあった。そのときも絵馬をみていた。昨夜の安井金比羅宮ほどはなかったけれど、それでもそこそこの数。まだしばらく出てこないみたいだったから少し歩いて、それから神社の片隅、アイテムを全部回収していくタイプの RPG プレイヤー以外には見つかりっこないような場所で、たくさんの絵馬を食べさせられた段ボールを一つみつけた。妙な感覚。こうやって消えていくんだな、と思った。こういうのって、どうなんだろう、人に依るのかな。自分は手紙の返事なんて要らないと思ってしまうタイプの人間だから、だから言葉に起こす機会を与えたという時点で、絵馬の役割はすべて果たされているのかなとも思ったりする。手紙。誰への? 未来の自分? 知らない。それこそ人に依る。誰かが捨てていったものは、別の誰かが守らないといけなくて。それが神社だったり、約束だったり、あるいは魔女だったりする。そういう話なんだと思っている、勝手に。帰り道、知り合いに頼まれたおつかいの内容を思い出しながら、だけどスマホの電池が切れてしまって確かめられなかった。卵、野菜生活、しらす。他に何か追加されていても必然的に買い逃してしまうから、それはちょっと申し訳ないなと思いながら。たとえばこんな風に、自分がそう思っていたということを他でもない自分自身が書き残しておかなかったら、その事実を知っているのはこの世界に自分以外の誰一人もいないわけで。絵馬。だから好きなんだよな。自分以外の全人類にとってはどうだっていいような、だけど自分にとっては何よりも大切な、そういう一瞬が詰め込まれたものだったりするのかなと思うから。