夏、蟻と蝉と

 

 蟻。蟻って夏へ差し掛かると目にし始めるよなあ、という印象があり、逆に冬の時期はどうなんだろう? と思って調べてみたんですが、そんなことをするまでもなく『アリとキリギリス』の流れを思い出せば十分でしたね。すべての蟻が食糧を貯えるというわけでもないらしいですけれど、とはいえ、冬になるとあまり目にしなくなる(逆に、夏へ差し掛かると途端に目にするようになる)、という印象は概ね正しかったようです。へえ~。

 

 ここしばらく考えていた諸々について書こうと思います。

 

 先日の午前中、だいたい九時くらいの事ですけれど、諸々の所用があり最寄りの駅から電車に乗り込みました。自宅から駅までの、その道中での話です。自分の移動手段は主に徒歩でして、というのも自転車を持っていない(厳密にはどこかへ消えた)からなんですが、それはさておき、炎天下のアスファルト上を「あっつ~~~~」と思いながら歩いていたわけです(これは自分が未だに春服用のパーカーを着ているから、という説もある)。炎天下と言っても、先日までの梅雨と夏のタッグ攻撃に比べたら頗る快適で、外に出るのが苦だとは特に思いませんけれど……。からっとしてる感じで良いですよね、この季節(だから無意味に着込みたくなる)。こういう暑さ、何て表現するんですかね? それもさておき、まあ歩いていたわけです、道を、歩道を、西の方向へ。歩道と車道とを隔てている白線、といってもその白線に従っているとめちゃくちゃに狭い歩道の幅を進む羽目になるんですが、だから自分はその若干外側を歩いており、そのとき白線の上に見つけたんですね。何をかと言えば、蝉の死体を、です。八月ともなれば蝉の死体なんて然程珍しくもありませんけれど、そこに大量の蟻が群がっておりですね、白線の上ということもあってその様子がそこそこはっきりと見えたんです、普通に歩いていても気がつく程度には(気にならない人は気にならないと思うけど)。文章の流れ的には、この後では自分がその光景に対して抱いた何らかの感情について記述する、というのがお約束っぽいですけれど、特に何とも思わずに通り過ぎたので書くことは何もありません。強いて言えば「ああ、これが理科の教科書の。サイクル的な、分解的な」くらいのことは考えましたけれど、駅の階段を降りる頃には蝉の死体のことなんてすっかり忘れていました。ちなみに電車は自分が改札前に着いたくらいで出発していきました(目的の電車はその一〇分後のやつだったんですが、それに乗れていれば早めに着けた)。

 

 用事は午前中で終わりだったので、午後二時半になったかどうかというくらいの頃には最寄り駅まで戻っていました。それでまあ、当たり前と言えば当たり前なんですが、行きに通った道と同じ道を通って帰ろうとしました。いや、来た道と全然違う道を通って帰ることも普通にありますし、当たり前ということは全くないですけれど……。でも、最寄り駅から帰る道ってそんなに数がなくて、いや、道自体は幾らでもあるんですが、歩いていて楽しい道となるとそれほどなくて、それに帰宅途中に諸々(昼ご飯など)を済ませてしまおうとなるとほとんど一通りに定まってしまうのです、残念ながら。それが行きに通った道そのものだということですね。まあ、特段楽しくもない道を歩こうとはまず思わないので、普段から使っている道はほとんどイコールで歩いていて楽しい道ということにもなりますが。閑話休題。多くの人はここまでの流れで想像がついていると思うんですが、だからつまり『なるほど。帰り道、同じ道を通ったとき、朝にみつけた蝉の死体のことを思い出して、そのときに何らかの何かがあったということだな?』ということですが、残念ながらその推理はハズレです。実際に起きたことはこうで、まず最寄り駅に到達した先日の自分は、行きと同じ道で帰宅を試み、その道中では何も思い出さず、そして帰路にあるチェーンの飲食店で呑気に昼ご飯を食べていました。繋がらねえ~。

 

 どうして気がつかなかったのか、分かりますか? こう訊いてみると何だか軽い日常系ミステリっぽいですよね(偏見)(読んだことない)(怒らないで)。自分の注意力が散漫だったから、ではありません。自分の記憶力は超ド級ポンコツでしたが、通れば必ず思い出したはず……というか行きと同様に嫌でも気がついたはずです。行きと帰りで同じ道を通ったはずなのに、じゃあどうして気がつかなかったんでしょう? こういうの、出題者である自分は答えを知っているので簡単な謎とおもえるわけですけれど、何も知らない側からしたら割と理不尽だったりしますよね。当てさせる気あんのかよ、みたいな。まあ十分に推理可能だとは思うんですが、だからって別に謎解きがしたいわけではないので答えを言ってしまうと、それは行きと帰りで同じ道を使ったものの、歩いている場所が行きと帰りで異なっていたからです。車線のない少し広めの車道の両側に白線があって、行きも帰りも自分はその左側を歩いていました。行きは西へ向かって、帰りは東へ向かって、それぞれ左側です。蝉の死体があったのは西へ向かっての左側だったので、帰りに通った東へ向かっての左側、つまり西へ向かっての右側を歩いているときには蝉の死体に気がつかなかった……というのが事実ですね。腑に落ちましたか?

 

 蝉の死体に気がつかなかったんなら、じゃあ今までの話はいったい何だったんだよ、ということになりますけれど、呑気に昼ご飯を食べ終えた後、自分はつい先ほど通り過ぎたばかりの道を、もう一度通ることになるわけです、所用で。このときには初めの行きと同じように西へ向かっての左側を歩いていたので、なので帰りと違って気がつくことができたというわけですね(上の『通れば嫌でも気づいたはず』という記述は、実際に気がついたのでそう断じることができる)。そして、ここでやっと何らかの何かが起こりました。蝉の死体、朝に見つけたときから五時間余りが経過していました(電車の時刻などがあるので、おおよその経過時間も分かる)。朝には蟻が群がっていたという話をしましたけれど、では五時間後に再発見したときはどうなっていたかと言いますと、そこには蝉の死体の跡だけが残っていました。的確な例が思いつかないんですが、人間で喩えたほうが幾分か分かりやすいと思います。というか、その蝉の死体の跡をみつけたときに自分で思ったのが「これ、アニメでみるやつだ」でした。言って伝わるかは微妙ですけれど、まあ何でもいいです。浴びた人間を液体に変えてしまう光線銃みたいなものがあったとして、それを浴びてしまった人間がいたとして、その誰かがいたはずのところに液体と衣服とだけが落ちているような、そんな感じです。伝わりました? まあ液体はなかったんですが、衣服にあたる殻だったり羽だったりがそこに落ちているばかりで、中身はすっかり蟻に運ばれてしまったんだなあ、という風の。二十何年も生きていたら、そういうものは一度や二度じゃない回数目にしていると思うんですが、まじまじと観察したことはなかったかもしれません。いや、まじまじとは見ていませんし、しゃがみこんだりもしていませんが。その様子から特別な何かを受け取った、ということもあったりなかったりという気がしたりしなかったりという感じでした。それで何ていうか、そういえば去年の今頃も同じようなことがあったなあ、ということを思い出していました(ブログに書くと、こういうときに自然と浮かび上がってくるのがいい)。そのときは抜け殻でしたが、ともあれ、蝉にまつわる諸々について考える時期が来ると「いよいよ夏だなあ」って感じがしてきますね。夏ですよ、夏。院試のせいで楽しくない!(これは嘘)

 

 蟻。蟻をみるたびに頭の片隅で何となしに思い出す話があって、それは『自分たちは無意識のうちに多くの命を殺めている』ということです。突然何の話だよ、と思われるかもしれませんけれど、別にこの主張自体には何の意味もなくて、「そういう話を思い出すなあ」というだけのことです。いや、本当に。先の主張自体はまあ、そりゃそうだろう、って感じですし。この事実が果たしてどれほどの知名度があるのか分からないんですが、学部一回生の頃に仏教を齧っていた時期がわずかながらにあって、さっきのはそこで聞いた話です。『私たちは気がつけないけれど、外を歩いていたら蟻の一匹くらいは踏んでいるはずだよね』という感じの。一寸の虫にも五分の魂と言いますけれど、でもまあ当時から思っていたこととして、万人にとってもそうなのかと言えばそれはどうなんだろうという感じでして。全生命は等価値であるとする人がいれば、イルカが好きなので人間の次に価値があるのはイルカという人もいるでしょうし、イルカではなくて犬や猫の人、あるいは人間中心主義的な人も。全生命が等しく等価値であるという思想そのものは素晴らしいと本心からそう思うんですが、でもその考えに共鳴できない人に対してその主張は通らないんじゃないかなあ……っていう。反発を持っていたわけではなく、「それもそうだなあ」と思う一方でそんな感じのことも思うわけで。ほんの小さなことでも全員の思想を統一するということができないことを思えば、『命の価値』の定義を統一するなんてことは土台無理な話でして、だから『全生命は等価値である』という思想を強要することにも大した意味はなくて、じゃあ「多くの命を殺めている」ことはいったい何に繋がるんだろうっていう。『これは悪いことですよね? 私たちは無意識のうちにこのような罪悪をはたらいているのです』じゃなくって、もう少し別の結論を導くことももしかしたらできるんじゃないかなあと、当時からそういうことを漠然と考えていました。考えていただけですが。

 

 彼と少しだけ話す機会が最近あって、そのときに「自分たちの命の価値って普遍的に定義できるのかな」みたいなことを若干考え、「他人の命についてどうこう言うこと自体が烏滸がましいよなあ」という結論に落ち着きました。それは『生きている意味のない人間』という言葉に(ある意味で)端を発した会話だったんですが、「そこで言われる『意味』は誰にとっての意味なんだろう?」という。自分たちは全員違ったフィールドの上で生きているはずで、子どもは学校、主婦は家庭、芸能人はテレビの中、政治家は議会、個人個人で自己を見出す場所は異なっているはずなのに、誰かの言っていた『意味』という表現は、果たして正しく機能しているのかなあと思ったり思わなかったり。たとえばの話、通り魔的な犯行に及んだ人が『自分は価値のある人間だ』と声高に主張していたとしたら、それに対して反感を覚えるのは至極真っ当なことだと思うんですが、だからってその人の主張が否定できるのかと言えばそんなこともないだろうと、少なくとも自分はそう思います。なんていうか、個人個人が勝手に定義したらいいと思うんですよね、命の価値なんて、別に。本人が『自分は価値のある人間だ』と思っているならそれはそれでいいし、『自分は無価値な人間だ』と思っているならそれもそれでいいんじゃないかなって。前者に対して「いや、お前は何の役にも立ってないだろ」と思うことは勿論あるし、後者に対して「いや、お前は十分すぎるくらい役に立ってるだろ」と思うこともありますけれど、それは自分が勝手に思っているだけで、結局のところを決めるのは本人なわけですし、だからって手を差し伸べる行為が全くの無駄だとも思いませんし思えませんけれど、『命の意味』について本人以外が口出しするのってどうなのかなあ、って思ったり思わなかったりしました。まあ、他者の言葉によって肯定的に変化できた自分のような例もあるので、これもまた一概には言えないことだと思いますけれど。ともかく自分はそのような考えに基づいているので、人間中心主義だろうが動物愛護団体だろうが博愛主義者だろうが、その存在自体は許容されて然るべきという立場です。自己を定義するためだけに宿った思想は、それがどのような内容であれ気高く立派なものであると、自分はそのように思うので。

 

 なんか、久しぶりにこの手の記事で長文書いちゃいましたね。お疲れさまでした。