続き

 

 世界が明日滅んでしまうとしたら、という設問、誰でも一度くらいは尋ねられたことがあるんじゃないかなあという気がしており、例に漏れず自分にもそのような機会が幾度となくあったようななかったような気がするんですが、それに対して自分がどういった答えを返してきたのかをその実まったくと言っていいほど覚えていません。どうせ自分のことなので「いや、特段何もしないけど」という感じの当たり障りのない返事をしていたのではないかという予想があるんですが、覚えていないということはつまり、少なくとも真剣には考えていなかったということです。いやまあ、真剣に考えるような問いでは恐らくないでしょうし、訊いた側としても真剣に答えられても困るだろうとは思うんですが。

 

 先のことを予め決めてしまうのが自分は苦手で、これは嫌いという意味ではなくて不得意という意味ですけれど、先の行動を一度決めてしまうと後はそのシナリオ通りに動かなきゃいけないというような気がして、というか実際そうで、それが上手くやれないっていうか。いや上手くやらなきゃいけないときは出来る限りで上手くやろうとするんですが、上手くやろうとしなきゃいけないというのがもうダメな感じで。逆に、突発的に行動を起こすのは……得意って形容詞は不自然ですけれどまあ好きで、先日、流星群が極大だった夜、大学の知り合い数人(と初対面の一人)で急遽ドライブへ行くことになり、そういうのは全力で楽しめるっていうか、実際に超楽しかったんですが。いや、予め決まっている用事だと全く楽しめないってわけじゃ勿論なくて、それもまた行動へ移してしまえばそれまでの憂鬱なんて消し飛んでしまうわけですけれど。だからまあ、「やらなきゃいけない」と考えさせられる時間の有無ですかね。学校や会社なんかは別として、何でもないプライベートな一日の行動を、まるで遠足のしおりみたいに一から十まで決めた上で過ごすことはあまりしたくない、というわけです。

 

 先日、散歩をしていたときに階段をみつけて、河川を跨ぐ二、三メートルほどの橋の傍でした。初めて訪れる場所だったので、その階段に出会うのも当然初めてだったわけで、そうなると、何となくそこを下りてみたくなるっていうか。これもまた上で述べた突発的行動の一つですけれど。下は普通にただの川で、幅の広い鴨川のような歩行可能なスペースがあるわけでもなさそうな風貌で、だからまあ階段を下りたところで何があるわけでもなさそうな、強いて言えば水と雑草と石がありそうな感じでした。だからこそ、一見無意味なところに階段が敷かれているからこそ下りたくもなるわけですけれど。自分一人だけなら考えるまでもなく秒で下りるんですが、ただその日は連れが一人おり、なので特に何事もなく通り過ぎようとしたところで相手が「下りてみようよ」と言ってくれて。自分は橋のほうに数歩ほど踏み出していたので多少驚き、結局下りて、そこでみつけたのが謎のベンチでした。車や人の行き交う橋の真下、陰にすっぽりと隠れるみたいに置かれた、三人くらいは座れそうな木製のベンチ。雨が降ったわけでもないのに足元は濡れていて、それは何故かと言うと、川の流量があと三ミリでも増加すれば完全に浸水するんじゃないかってくらいの高さしかなかったからですが。自分たちはまさかそんなものが橋の下にあるとは思っていなかったので、揃いも揃って「どうしてこんなところに?」と言い合い、しばらく考えてみてもその答えは出ず。「この場所で本を読むとしたらどの季節だろう?」みたいな話もしたんですが、そちらのほうは秋という結論で一先ず落ち着きました。

 

 ベンチのあった橋下には人の手が施された形跡のある道のようなものが西へと続いており、それを歩いていくのも選択肢としてはあったんですが、対岸の道はこちら側の道と違って東のほうへと続いていました。「向こうにも道がある」と言ったのが自分、次に「向こうのほうが気になるね」と言ったのが相手。というのも、向こう側の道は途中で南の方角に折れていて、その先に何があるのかがその場所からでは分からなかったからです。曲がり角があると曲がりたくなる、というのは自分もそうだったので、そういうわけで階段を上り、橋を渡り、向こう側の階段を下って、じゃあ歩いてみようということになりました。先ほどのベンチの正体はその途中でおおよそ判明して、実はその川は舟に乗って往復することができるらしかったんですね(いま調べたら普通に観光スポットっぽかった)。舟といっても小さな木造船で、自分たちが通りかかったときに停まっていたのは一隻だけでしたが。例のベンチはだからもしかすると、休憩所だったり乗り継ぎ場だったり、あるいはそれらの名残だったりするのかなあという感じです。あと、その川沿いを歩いているときに羽の黒いトンボを生まれて初めて目にして「これは何??????」となりました(最初は「あれはトンボ?」「胴体長いからトンボじゃない?」「本当に?」という感じだった)(結構な数いた)。『ハグロトンボ』って種類らしいですね。『神様の使い』なんて表現もされるみたいで、それは単純に黒色をしているからでしょうか?(みられる時期とかも関係ありそう) 黒猫が不幸の象徴という文化は西洋からの輸入で、古くの日本では縁起の良いものとされていた……みたいな話もありますし。とはいえ完全に真っ黒というわけでもなくて、自分が見たのは胴体が青緑色をしたものが多く、それがオスでメスのほうは完全に黒いらしいですね。

 

 来た道を引き返すまでもなくゴール地点には同じような階段があって、そこから地上へと戻り、さてここはどこだろうとなりました。とはいえ、それほど長くも歩いておらず、というか歩いてきた川に沿って逆行していけば最初の場所へ戻れはするわけですけれど、そもそも目的地があるわけでもなかったので、別にどこへ向かってもいいなという感じでした。階段は東側にあって、そこから北、西、南の三方向(厳密には少し違う)へ道が一本ずつ。そのときの自分はなんとなく西へ行きたいなあという風に考えていて、どうしてかというと、それは西へ向かう道もまた曲がり角っぽくなっていたというのが一つあるんですが、それ以上に西の道は夕陽がいい感じに差し込んでいて、暗と明のグラデーションっていうか、一歩踏み込んでみたら何かが始まりそうな感じの雰囲気を醸し出していたということがあります。なのでこれもまた繰り返しですけれど、自分一人だけなら迷わず西へ向かって歩き始めるんですが、その日はそうではなかったので「ここからどうする?」と意見を仰ぐことにし、しかし結局、もう一人も西のほうを向いて「こういう光の差し方をしてると気になるよね」と言い、それでやっぱり西へ向かうことになるわけですが、そのときに思ったのが冒頭の『世界が明日滅ぶとしたら、こういう今日が良い』みたいなことで。そういうことを半ば本気で考えたのは(多分)その日が初めてで、どうしてだろうと自分でも思うんですが、なんていうか、これほどに通じた感じのする相手と友人でいられるってこと自体がもう何だか奇跡的で、自分は院試間近だし、もう一人は社会人だし、知り合ってから片手じゃ足りないくらいの年が経っているのに、まだあの頃みたいに道に迷っていられるんだ、みたいなことを思ったり思わなかったり。それが彼でなかったら階段を下りることはなかっただろうし、謎のベンチに出会うこともなかっただろうし、黒い羽根のトンボを目にすることもなかっただろうし。だから、こういう一日が最後だったらと思ったり思わなかったりという感じでした。

 

 そのとき歩いていたのは伏見桃山という駅の周辺なんですが、そこは日本酒の諸々で有名な場所らしく、なのでその後無事に全部が終わりました。十八種の日本酒を呑み比べられるという店があり、それは知人づてに聞き及んでいた事実だったんですが、ともかくそういう店があることを知っていたので足を運び、結果、マジの酔いをしました。そもそもお酒をそんなに飲まない(この日も五ヶ月ぶりとかだった)というのがあるんですが、酔っていることを自覚したという経験が自分にはなくて(乗り物酔いはめちゃくちゃする)、勿論のこと、若干熱っぽくなってるな~、頭がぼーっとするな~くらいのアレは何度もあったんですが、足元がふらつくとか記憶が消し飛ぶとか、そういうレベルのアレに陥ったことが未だかつてなく、しかしこの日はマジの酔いをしたために本当に真っ直ぐ歩けず、慣れない浮遊感に半ば感動しつつ、覚束ない足取りで店内の階段を下ったのを覚えています。とはいえ流石に理性が効いていたので、店を出る頃には普通に真っ直ぐ歩けるようにはなっていたんですが、でも貴重な経験でした。他の知り合いと呑むときは絶対にラインを越えないようにしてたんですが、それもまあ、外すならここなんだろうなあという気はずっとしていて。酷いことにはならなくて本当によかったんですが、朝起きたとき(というか就寝途中から)両腕がマジの激痛を発していて終わりました(午後には治った)。

 

 二二。「『現実を見なきゃいけない』じゃなくて『現実が見えてくる』が正しいんじゃないか」みたいなことを言った記憶があり、おおよそその通りかもしれないと後で改めて思ったんですが、なんていうか、夢のような選択が手の届きそうな範囲に現れてくるというか現実まで降りてくるというか。たとえば結婚とかって高校生の頃は(当然、人に因るだろうけれど)全く考えられないと思うんですが、これくらいの歳になるとそれは夢物語ではない一つの可能性として映り始めるんだなあと思って。「『現実を見なきゃいけない』じゃなくて……」というのはそういう意味です。「来年はあの橋を渡ろう」って口約束みたいにこれからもそうであれたら良いと思う一方で、変わらなきゃいけない部分もあるんだよなと思ったり思わなかったり。見えない何かに対して誠実でありたいと思う一方で、たった一つだけを選ばなきゃいけないんだなと思ったり思わなかったり。ちょうど一年前くらいに作った『ここにいるよ。』って曲を今日たまたま聴き返してて、それで『手を振って じゃあねって笑いあった あの日の続きに 何度だって出会えるから』って歌詞を書いたときのことを思い出して、あれは「もしかしたらそうじゃないかもしれない」と疑い、「そうであってほしい」と願い、そんな宙ぶらりんの状態で書いたフレーズで、でも、たしかにその通りだったかもと今になって思えた気がして。昔の自分が書いた歌詞に対して何かしらを感じることって自分は割とあるんですが、一年前の続きにあったのがあの階段だったり、あのベンチだったり、あのトンボだったり、あの分かれ道だったりするんだろうなあと思ったり思わなかったり思ったり。『何度だって出会える』なんて見え透いた嘘を今に変えていけるなら、自分にとって最上級の幸福ってもしかするとそれのことなのかもしれませんね。