ビニール傘

 

 ビニール傘。コンビニで傘を買うという人生初イベントに遭遇したのが半年前。電車が止まるんじゃないかってくらいに、あり得ないくらいの大雨が降っていた日。折りたたみ傘は持っていたのだけれど、流石に対処できなさそうだったので購入という流れ。思いのほかしっかりしてるんだなと思った、造りが。普通に何年も使えそうな感じだし、雑な扱いさえしなければ。まあ、あとは置き忘れも。とはいえ傘をどこかに忘れてきたという経験は、覚えている範囲では一度もないので、台風の真っ只中に持ち出したりしない限りは大丈夫だと思う。今朝、雪が降っていて。というか、いまも降っている、たぶん。涔々と。雨粒と違って雪は音を立てないから、だから扉を開くまでは気づいていないということがほとんど。そのたびに驚く。曲がり角、好きなんだよな、もう何百回も書いてるけど。嘘で、両手で足りるくらいしか書いてないと思うけど。みえないじゃんか、曲がり角の先って。だから、その光景を目の当たりにするたびに「この先に何があるんだろうな~」って気持ちになれる。散歩中に気になる路地と出くわして、なんだか曲がりたくなってしまうことも、言ってしまえば同一直線上にある感情というか。空想の自由? 曲がり角の向こうでは魔女がお茶会をしていてもいいわけだし、そう思うだけでも楽しいというか。雪も、だから同じような感じがする。外へ出るまでは気づけない。今朝、買い物へ行こうと思って支度をして、靴を履いて鍵を開けて。そしたら雪が降っていた。一瞬だけ面食らって、「あー、雪だ」みたいな。迷う。傘を差すときと差さないときとがあって、雪の日。明確な境界線があるというわけではなくて、何となくの気分で。それほど多く降っていたわけでもなくて、ちょっとした紙吹雪みたいな、だからどちらでもよかったのだけれど。とはいえ今日は傘の気持ちだったから部屋へ戻って、それからビニール傘を手に取った。雨具は好きじゃないけれど、傘は嫌いじゃない。ビニール傘を買ってからは特に。透明で、雨の跡がみえるから。雪。雪って、雲が然程厚くなくたって降ってくるものらしい。狐の嫁入りって言葉もあるけれど、雪はなんて言うんだろう。風花、……は違う気がする。晴天ではないから。特別な名前なんてないのかも、それでいいけれど。鈍色の雲、透ける太陽。透明に残るまるい水滴。きらきら。ほんの些細な、一瞬の。そういう欠片が、断片が、色んな場所に隠されているんだよなと思う、この世界って。

 

 

 

星を繰り返す

 

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 リスティラを英語で書くと restella になるということは、制作に関わったメンバーたちは恐らく共有していたファイル名か何かで知っていたりいなかったりするのかもと思いつつ。11 月ライブの途中、外へ食べに出た帰り道に、うち一人とそういう話をしたりした。re は英単語の接頭辞で「~繰り返す」の意味。stella はラテン語で「星」の意味。だから、リスティラという単語をそのまま訳すと「星を繰り返す」になるのだけれど、繰り返すって何を? そういう話。これ、note かあるいはあふきちかにそのうち書こうと思って、実際に途中まで書いていたのだけれど、でもなんていうか、あんまりありきたりに書きすぎるのもよくないのかもと思って、結局ゴミ箱へ捨ててしまった(嘘で、ちゃんと残している)。星。全部で三回。

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星という概念はこの曲にとってそれなりに大切にされているもので。歌い出しにも歌い終わりにも、そして曲名にも組み込まれていることから分かってもらえるはず、たぶん。でも、その辺りにどういった裏話があるのかを話すには、自分がどんな感じのスタンスで作詞をしているかについてをまず説明する必要があるのかも。作詞。自分は実体験ベースで歌詞を書くことが多く、というかほとんど全部がそれ。ところで、自分のみているものをそのまま歌詞にしたってしょうがないよなと思う自分がいて。自分じゃない誰かがそれをやっていたとしても別に何とも思わないのだけれど、ただ、自分がそれを実行するという一点に限っていえば、意味がないよな、と思ってしまったりする。意味がない、は言い過ぎかもだけど。自分は、たとえばこんな風にああだこうだと書き散らかせる場所を持っていて、表現さえ選ばないのであれば、だから本当はどんなことだって言葉に直してしまえるはず。実際、そうすることはある。たとえば、つい先日の散歩で感じたこととか。ああやって、全部を言葉にしてしまってもいい、別に。でも、それじゃ意味がないんだよな、と思うこともある。だってそれなら Twitter で事足りるし。思っていることを言葉に直すという作業は、悪く言えば消費だと思う。消費。消化、でもいい。自分の内側にしかないものって、そのままで放っている限りは色も形も持っていないはずで。それを与えるためにあるのが言葉だと思っている、少なくとも自分は。みえないはずのものを言葉によって区切って、染めて、可視化して。その行為を整理という表現によって理解することもできる。だけど、それって消費でもあるわけじゃん、と思ってしまう、自分は。そういうことをたくさんやってきたから、尚更。なので、しないときはしない。するときはするけれど、それこそ数日前みたく。そんなわけで、手付かずのまま留まっているものがたくさんあって、内側に。そのまま言葉に起こすよりももっと適切な方法で、もっとちゃんとした色と形を与えられるんじゃないかなと思う瞬間もあって、そういうのがたとえば歌詞になったりする、という話。歌詞が歌詞として在るためには音楽が必要で、そこから作り始めないといけなくて。安易に消費してしまいたくもないから、わざわざ手間暇をかけて可視化するっていう、言ってしまえばまあそれだけの話。バンド部。いやだから、「バンド部最高でした! めっちゃ感動しました!」ってツイートするだけで済む話だし、というか実際にそういったツイートはしたかもしれないし、なんならブログにだって書いたけれど、ライブ直後に。でも、それだけで片づけてしまいたくもないっていうか、薄まってしまうような気がして、自分の中で。だから曲を作ろうという発想。言葉を信用していない。大して感動していなくたって、それでも感動したとは言えるから。そうでないことの証明みたいな、自己満足の。ちょっと逸れすぎたかも。とにかく、自分は実体験ベースで歌詞を書くことが多くて、でもその経験をそのまま出力することってなくて、上に述べたような理由などから(他にもたくさんある)。なので何をするかというと、いわゆるレイヤーのような。自分の実体験を下に敷いたまま、その上に架空の光景をなぞるみたいにして。そんな気持ちで歌詞を書いたりする。リスティラ。他の人たちはどう読むんだろう、この歌詞。自分は裏側を全部知ってしまっているから、何も知らない人がみたときにどう映るのかの想像が、あんまり上手くできていない。……この先、この記事の最後までずっとネタバレが続きそうなので注意。一応。思うに、どうなんだろう、マジで分かんないな。どんなストーリーとして映るんだろう、これ。数日前に人が Twitter で言及しているのをみて、リスティラの歌詞に。いや、分かんない。もしかしたら同じようなフレーズのある、全く別の曲について触れていたのかもしれないけれど。『いつかの帰り道』と『あの日の帰り道』。どう映ってるんだろうな、と思った。そういうことを思って、数日前に。だから、いまになって思い出したみたいにこういうことを書いている、という裏話。閑話休題。とにかく自分の歌詞の下地には明確な実体験があって。別に言ってしまってもいいんだよな、このくらい。だって八か月前に書いた歌詞だし、時効よ時効。このくらい埋めておけばネタバレ阻止は大丈夫? たとえば歌い出し、『星に眩んだ一瞬』に始まるフレーズ。何に何をレイヤーしたかという話で、上に乗っかっているほうは分かりやすい。「星をみたことがあって、とても綺麗な。ちょっと昔のことだけど、だけどいまでもちゃんと覚えている」って、素直に読むのならそれだけのこと。ところで、下に敷かれているもの。こっちは自分しか知らない。星。冒頭でも言っていたけれど、リスティラにおいて「星」はとても大切な言葉で。受験生の頃によく言われた、現代文はタイトルと最初の一文と最後の一文を読めって。全部に入っている、「星」。それって、つまりはバンド部のことなんよな、結局。11 月ライブのときに話したと思う、二人くらいに。『遥か向こうに見上げた空』、これはライブステージのこと。自分は少し離れて客席側にいたから、それでも見上げるって程ではないけれど、でも若干の高低差があって。『眩んだ』のは、たとえばステージのライトが眩しかったから、物理的に。そこに別のものがレイヤーされている、感動だとか、憧憬だとか、そういうの。だから、ここまで書いてしまえば結構なネタバレだよなという感じがしてくるけれど、「バンド部最高でした! めっちゃ感動しました!」でしかないんだよな、この歌い出し。歌い出しに限らないけれど。もちろん、バンド部のことだけじゃない、たくさんの文脈が其処にあって。でも、何よりも大きなものの一つとしてバンド部があったっていう、そういう話。リスティラ。re+stella、「星を繰り返す」。繰り返すということは、つまり最初の一回目はもう既にあったということ。みつけあう合言葉。そんなものは必要ないけれど、でも、だからちゃんとあるんよな、ここに。そういう曲、「リスティラ」は。これだけ書いても、まだ言ってないことのほうが、それでも多いような気がするな。そんなことないのかな。いやでもだって歌詞だけでもこんななのに、音楽的なアプローチから詰め込んでいるものも幾つかあって。足りないなあ、と思う。足りない。なんていうか、だからこれが真ん中あたりでだらだらと言っていたことで、安易に言葉にしたくないっていう、それ。言葉じゃ足りないから。最近そういう歌詞を書いて、でもこれ自体はずっと前から思ってること。それこそ、「じゃあね、また明日」とかを作ったくらいの、学部二回生の頃から。言葉を信用していない、もそうだけれど。思ったこととか言いたいこととか、目にはみえない何かに適う言葉を探してみて、近似値的なものならいくつだってみつけられるけれど、でも所詮は近似値っていうか。無限回の近似ができるならそれでよくて、だけど自分たちに扱えるのは有限のものだけだし。足りない、どんなに選んだって。だから音楽なんだよな~、という感じ。一切の説明を放棄した、いま。でも、まあそんな感じ。せっかくだし、あともう少しだけ書こうかなという気持ちになってきた。誰にも話していないし、どこにも書いていない。リスティラで自分が一番気に入っているのは、いや、だからこの話をしようと思ったんだろうな。その、数日前に言及されているのをみた、『あの日の帰り道』。正確にはその近辺だけれど。歌い出しでは『空』、一人称の見上げているものが。一番サビではもう少し具体的に、それは『夜空』だったんだと分かって。そこから転調、間奏を挟んで元の調に。転調先のコードを使うから、ここでの『まだ覚えている』は高めのメロディで歌う。二サビでは言及しない。最後。ラスサビでは『見上げた夜空は』と言った後に、それを補う形として『星空は』というフレーズが入ってきて。最後は転調しない、だから『まだ覚えている』はそれまでの二回よりもずっと低い。リスティラのことを「まだ覚えていると確かめるための唄」という風に紹介した記憶があって、そのフレーズ自体は全部で三回ある。歌い出しと、一サビと、ラスサビで三回。でも、最後のそれだけが明確に違うというか、自分の中では。心情の変化って言ってたっけ。あくまで自分の中のイメージとして、高いトーンのフレーズはなんだか遠くへ叫んでいるみたいに聞こえて。逆に低いトーンのフレーズはなんだか独り言みたいというか、まるで何かを確かめるみたいな。BUMP ばっかり聴いているせいかもしれないけれど、そう思うのは。あとはまあ単純に声量の問題とか、あるいは帯域的な話もあるのかな、よく分かんないけど。でもまあそういうイメージがあって。音と歌詞の調和。自分がよく言っているアレ。自己満足だけど、それがめちゃくちゃ上手く機能したなと思ってて、曲のテーマ的な視点からみたときに。あの日、みていたものは星空だった。その呟きが遠くの誰かまで届く必要はなくて、自分ひとりに聞こえたらそれでいいことだから。「いつも」と「あの日」の話も最後に。いまでも覚えてる、その日はめちゃくちゃに眠くて。どうしてかというと、当日の朝までアートワーク作成のデッドラインに追われていたから。半分寝てる頭でライブへ行って、でも当日はそんなのがどうでもよくなるくらいに楽しくて。遅くまで話したりして、初めましての人もたくさんいたし、あの日は。それで後始末のゴミを BOX まで運んで、でも、そこで睡魔が来たんよな、ようやっと。ゴミの分別なんかをやるフェーズがあったんだと思う、恐らくは。一方で自分はめちゃくちゃに眠かったから、だから BOX へは上がらずにそのまま帰らせてもらうことにして。大学に入ってから数年あまり、もう何度歩いたんだって道。空を見上げていたことも、あの辺りは電線がたくさんあって楽しいから。ひとりきり、いつもの帰り道。いつもと言ってしまえばそれまでじゃんと思っていて、自分たちの一日なんて。いつもの繰り返しでしかないし、昨日も今日も、きっと明日も。でもなんていうか、「今日だけは」と思った自分が、ほんの一瞬だったとしてもたしかにちゃんといたはずで。忘れたくない、そういうのを。いつもの繰り返しだって知っていても、それでも。だから『あの日の帰り道』。無数に通り過ぎてきたものの一つに名前をつけたかったっていう、それだけ。裏話。調子に乗って書きすぎたかも。

 

 

 

散歩、絵馬

 

 冬の深夜が好き。一番好きな季節の、一番好きな時間帯。理由は、まあ何度か書いたことがあるように思うけれど、またそのうち書くことがあるかもしれない。誤解のないように断っておくと、冬という属性の中で深夜ばかりを好んでいるという意味ではなくて。そもそも自分は冬が好きで、そもそも自分は深夜が好きで、両者の共通部分にあるから冬の深夜は特に好きという、そういう話。冬の朝方も普通に好き、夜には勝てないけれど、だけどまあ勝ち負けの話でもないな。さておき。だから、何の目的もなしに歩くことがよくある。昨夜も三時間くらい、普段通りに生活していたら絶対に訪れないような場所を。知らない場所を歩くのが結構好きで、地図なんか無しに。昨夜の話。帰り道の途中で気になる路地をみつけて、だからそこで折れてみた。傍目にも明らかに異質な道というか、もしもこの世界が RPG だったなら、その先で何かしらのイベントが発生しそうな感じの。そんなのを交差点の向こう側にみつけて、それで来た道をわざわざ引き返して、それから渡った。まだ日付を跨いで一時間も経っていない頃とはいえ、人の気配はせいぜいコンビニの灯り程度というような。傾斜の掛かった細い路地を丸っこい街灯だけが疎らに照らしていて、夜遅くに人が通ることがあんまり想定されていなさそうな。正直なことを言えば、ちょっと不気味。夜を一緒に歩いたことのある人には話しているかもしれないけれど、自分は自分で結構なビビリなので。とはいえ、大抵は好奇心のほうが勝るので足を止めることはない。入ってすぐに気づいたこととして、道が割としっかりめに舗装されている。それまではどこにでもある黒のアスファルトだったのに、路地を折れた瞬間、京都ではおなじみの石畳がまっすぐに伸びていた。たぶん観光地だな、と思った。銀閣寺の周辺とか、あの辺り一帯と同じ類、恐らくは。もうちょっと進んでみると、よりそれっぽいものが、具体的には路地の両側に所狭しと並んだカフェやら京料理やらの店がみつかった。明らかに観光地だ。表札の出された民家や、もしかしたら学生が住んでいるのかもしれないアパートもいくつかあった。それもまた銀閣寺のことを思い出す。その近辺に住んでいた(いまも住んでいる?)先輩がいて、日常の舞台がほとんど観光地だと何かと大変だと言っていた。そして、ここにもそういう人たちがきっといる。それだけの話。上りながら考える、「観光客を迎えることを想定して作られた路なら、この先に何かがあるのかな」。それらしいものはみえない。だとすれば、それこそ銀閣寺のような、遠目にみつけられるほどの規模感ではないけれど、そこそこ著名な何か? 思いながら、登る。どこがゴールなのか、それが何なのかも当然知らないけれど、とはいえそれほどの距離もなかった。もうしばらく進むと明らかに道が折れていて、それまでは一本道だったのに、しかも目の前に何らかの施設が現われた。木造。数文字あまりが書かれた木目の看板。二つあって、片側には聖徳太子が何だとか、もう一方にはその場所の名前らしき何々寺という文字列が、これもまた京都ではお馴染みの、異様に達筆な字体で刻まれていた。寺か。寺かと思って、一瞬立ち止まって、そこでやっと気がついた。なんか、あった、目の前に、めちゃくちゃに大きい塔が。びっくりしてその場で調べた、八坂の塔というらしい。路地を上っている最中からみえていたのだろうな、と思った。昨夜はとても晴れていたから、雲のない夜空に溶け込んでしまって、そのせいで全く気がつかなかった。もしも最初からみえていたなら、路地を折れる瞬間に暗闇を怖がる必要も別になかった。この手の恐怖って正体不明に対するそれだから、少なくとも何かしらの文化物があることが保証されていれば、そんなものとは無縁だったはず。でも、これはこの前に誰かと歩いたときにも話していたけれど、そういう感情って人生で一回限りなんだよな。次、自分はこの道を歩いたとしても「この先には八坂の塔がある」という事実を知ってしまっていて、昨夜のようなわくわくを再体験することは叶わないわけだし。知ってしまえばなんてこともないようなこと。記憶の不可逆性。魔法が解けるだとか、そう言ってみたりもする。塔の足元、流石に地図をみることにした。この異質な路地の目的がこの塔であるなら、その先は本当に何もないという可能性が高かったから。地図を辿る。このまま真っすぐに進んでいくと、途中からは南へ向かうことになるらしい。別ルートからのアクセス口かな、だとするとここまでと同じように観光客向けの店が並んでいるのかも。ところで、帰り道は北。東へ向かうだけならまだよかったけれど、南となるとちょっと面倒かもしれない。というか、指先が痛い。スマホを取り出して操作することだって躊躇うくらいに、ポケットの内側から出したくない。親指があまりに動かなさすぎて、人差し指で文字入力したし。そういうわけで下りることにした。まあ、交差点で覚えた異質さの正体を確かめるという当初の目的は達せられたわけだし、十分。途中、なんとなく振り返る。少し気になって。たしかに塔がみえる、目を凝らせば何とかというレベルだけれど、それでもちゃんとみえる。みえた。上ってきたのと同じ道を下る。知ってしまったな、と思った。記憶力だけはそこそこにあるから、一度歩いた場所の景色はなんとなく覚えてしまう。両手じゃ足りないくらいの年月が経てば流石に忘れてしまうだろうけれど、でもその間ぐらいは覚えていられる。伏見への道だって、半年前の一回きりだったのにちゃんと覚えていた。二、三年前にもブログに書いた気がする、地図をみずに歩く理由。迷ってみたいんよな、特に深い理由もないけれど。目的地へ真っすぐに着いてしまうことが何となく味気なく思えるというか、それ以外の場所にだって、たとえばいまの路地裏みたいに、自分が楽しめるものはたくさん転がっているかもしれないのに。散歩が好きな理由の一つ。でもそれはそれとして、知ってしまったな、とも思う。消費する感覚。魔法が解ける、でもいい。二〇分くらい前の、交差点の向こう側からこの路地をみつけた、その瞬間の自分へはもう戻れないんだなと思ったりする。こんなもんじゃん、人生って。頭の中で誰かの声がして、でも、こんな当たり前をこんなものだって割り切りたくもない。そうは思えないから、だから自分は散歩を続けているのだし。そう思うようになってしまったら、きっと散歩だってやめてしまうはず。そんな気がする。関係なくはない話。魔法って、解かれるためにあるんだよなと思うことがある。この世界のどこを探しても、魔法なんてものはみつからないから。それがなくなって、初めてそれが魔法だったって知って、そういう形でしかみつけられない、少なくとも自分は。だから、解かれるためにある、そう思う。散歩が好きな理由。

 

 神社の類へ足を運んだときに、それをみつけると絶対に足が向かってしまうというものがあって、何かというと絵馬。二〇と数年を生きてきて、明確に覚えているのは二回だけ。高校受験のときと、今年の初めに初詣へ行ったとき。その二回でしか自分は絵馬を書いていない。とはいえ、今年の初詣はノーカンみたいなところがある。平安神宮。(その場に居合わせた人間の)サークル全体への(勝手な)願望に絵を添えただけだから。高校受験のときは、なんて書いたっけな。普通に、志望校に合格できるように、くらいの当たり障りのないことを書いた気がする、太字の黒ペンで。こっちはたしか北野天満宮。大学受験のときは書いていない。その頃の自分は尖りに尖っていて、学校全体で近くの神社まで足を運ぶイベントがたしかあったのだけれど、そのときでさえお参りをせず「神頼みなんか」と思っていた。ちなみに普通に落ちた。でもまあそれだって神頼みをしなかったからではなくて、ただ単に学力不足という話ではある。浪人のときは、そもそも行かなかった。両親は行っていた気がするけれど、ついていかなかった。このときも「神頼みなんか」と思っていたから。とはいえ、両親やら親戚の人やらが買ってきてくれたお守りを無下にするのもなんだか違うと思い、それだけは鞄にしまって持っていった。今度は受かった。いや、お守りのおかげとは思わなかったけれど。そうやって尖っていた自分がいつの間にいなくなったのか、御社イベントが恒常的にあるわけではないので正確には分からないけれど、少なくとも二年前の初詣のときには消えていた。某感染症が流行するより前、わざわざ真夜中に出掛けたのにあり得ない数の人でごった返していて、平安神宮。絵馬は書かなかったけれど、おみくじを引いた。なんて書いてあったかは覚えていない。吉とか凶とか、最も記憶に残るはずのものですら忘れている。本当にどうでもよかったんだと思う。でも、それを引くこと自体に意味があるんだと思った、そのときは。たしか結ばずに財布へしまった覚えはあるから、それほど悪いことは書かれていなかったのかもしれない。ちなみに今年引いたおみくじは引いてから一分くらいで結んだ。おみくじ、というかそういった神頼み的なもの(「神頼み」という言葉はあくまで一般的なそれとして持ち出しているのであって、実際の意図は知らない)に対して一定以上の意味を見出す人とこれまでに知り合ったことがなくて、それがここ最近になって数人増えた。異文化交流。鳥居に礼をしていたのが印象的。自分は隣で眺めていた。理由も分からないままでするようなことじゃないよな、と思いながら。自分の中にない感覚。神頼み。神頼みというわけでもないんだろうな、とは思った、話を聞く限り。勇気がほしいときに何をするか。本を読む人がいれば音楽を聴く人もいて、おみくじを引く人だっている。それだけのことなのかもしれない。絵馬だったりおみくじだったり、それそのものに自分が関わることへの感動は少なくとも自分の中には何もなくて、だから書きたいとも引きたいとも思わない、あんまり。今年の初詣で引いたのだって、そういえば数日前におみくじの話を聞いたな、とふと思ったから。初めは引くつもりなんて別になかった。それくらいの感覚。だけど、その文化自体に思うところは色々ある。たとえば絵馬を眺めることが好き。おみくじもそうだけれど、みんな何か思うところがあってそれに手を伸ばすのかなと自分は考えていて。まあ、自分と同じくらいの軽い気分で遊んでいる人だっているだろうけれど。神社にはそんな一瞬の残滓のようなものがたくさんあって、結ばれたおみくじだってそうだけれど、絵馬なんかは特に、文字が書かれてあるから。顔も名前も知らない誰かの願い事が書かれたそれが、自分の背丈よりも高い看板にこれでもかと吊り下げられていて。多いところだと、それが四つ五つも連なって。ものすごい気持ちになる、そういうのをみると。昔の自分は、それこそ「神頼みなんか」と思っていた頃の自分は、相手の気持ちを考えるということを、たぶん本当の意味ではやっていなくて。やっている気にはなっていたけれど、できていなかった、たぶん。当時の自分は、たとえば絵馬の大群をみてもなんとも思わなかった。自分以外の他人を NPC みたいに捉えていたというか、無意識的に。でもなんか、違うんだよな、それって。自分たちは普段、自分以外の他人の内側に触れる機会がそれほど多くはないから、だからまるで自分以外の全員は頭空っぽの伽藍みたいな、自分ひとりだけが苦しんでいるみたいな、そういう錯覚をともすれば起こしてしまいがちだけれど、だけどそんなことはなくて。そんなことはないはずなんだよな、と思う、こうやって絵馬をみるたびに。そこには色んな悩み事が書かれていたりして、あるいは抱負のようなものもあって。どこの誰だかは知らないけれど、でもどこかの誰かが何かを思いながらこれを書いたということだけは、紛れもない事実なんだよなと思ったりもして。絵馬。良い文化だと思う、たったそれだけのことで。自分がそれを書くことはもう滅多にないだろうけれど、できればなくならないでほしい、自分が死ぬくらいまでの間は。余談。年末、一二月三〇日、墓地を歩いた日。連れとはぐれて、というか向こうは向こうで堂内を巡っていて、一人で動けるタイミングが少しだけあった。そのときも絵馬をみていた。昨夜の安井金比羅宮ほどはなかったけれど、それでもそこそこの数。まだしばらく出てこないみたいだったから少し歩いて、それから神社の片隅、アイテムを全部回収していくタイプの RPG プレイヤー以外には見つかりっこないような場所で、たくさんの絵馬を食べさせられた段ボールを一つみつけた。妙な感覚。こうやって消えていくんだな、と思った。こういうのって、どうなんだろう、人に依るのかな。自分は手紙の返事なんて要らないと思ってしまうタイプの人間だから、だから言葉に起こす機会を与えたという時点で、絵馬の役割はすべて果たされているのかなとも思ったりする。手紙。誰への? 未来の自分? 知らない。それこそ人に依る。誰かが捨てていったものは、別の誰かが守らないといけなくて。それが神社だったり、約束だったり、あるいは魔女だったりする。そういう話なんだと思っている、勝手に。帰り道、知り合いに頼まれたおつかいの内容を思い出しながら、だけどスマホの電池が切れてしまって確かめられなかった。卵、野菜生活、しらす。他に何か追加されていても必然的に買い逃してしまうから、それはちょっと申し訳ないなと思いながら。たとえばこんな風に、自分がそう思っていたということを他でもない自分自身が書き残しておかなかったら、その事実を知っているのはこの世界に自分以外の誰一人もいないわけで。絵馬。だから好きなんだよな。自分以外の全人類にとってはどうだっていいような、だけど自分にとっては何よりも大切な、そういう一瞬が詰め込まれたものだったりするのかなと思うから。

 

 

 

20220114

 

 ちょうど一週間くらい前に伏見へ行って、その数日後に八坂へ行った。八坂神社も円山公園も、少なくとも一度は来たことがある場所で、だけど名前とは一致していなかった。連れられながら、「ああ、これが八坂だったのか」と思った。明らかに整備の行き届いた公園は、夜遅く、日付を跨ぐ頃ということもあって人影はなく、それはそれで幻想的。夜の公園を歩くこと自体は初めてでなかったけれど、でも自分が好んで足を運ぶのは、それこそ日中は子どもが駆け回っていそうな、むき出しの土が敷き詰められた場所だから。新鮮ではある。一人でも歩いてみたいと思って、昨日の夜、あり得ないくらい冷え込んだ深夜三時に家を出た。なんとなく電話をかけて、そのまま話をしながら。手袋なんてないから耳元に当てた指先が痛くて痛くて。数分おきに手を入れ替えて、ポケットの中で温めていた。八坂に着いて、数日前に人に連れられたときと全く同じ順路で歩いてみた。道中に野良猫。なんとなく近づいてみて、でもすぐに距離を取られる。怖がらせたいわけでもないから、こちらからも距離を取る。一週間前の伏見でも、数日前の八坂でも野良猫をみた、伏見の野良猫を思い出す、彼は逃げなかった。逃げるどころか、向こうから近付いてきて、針金みたいな尻尾が上着を掠めていったことを覚えている。野良猫ってこの辺りにも案外いるんだな、と考えながら。だけど結局、猫に触れることはなかった。昔だったらそうしてたのかもな、と思ったりもした。

 今朝、というか午前五時過ぎ。進めていた作業が微妙に行き詰ったので、休憩がてらということで外へ出てみたら、普通に雪が積もっていた。そういえば Twitter で誰かが言っていた、雪が積もっている。外へ出て確かめようとまでは思わなかったけれど、実際、目の当たりにしてみるとそこそこテンションが上がる。雪は好き。特に理由なんてないけれど、白いからかも。みてみたら、家の前の道路には既に一人分の足跡がついていた。それと、恐らくは二台分の車輪の跡。一番乗りじゃなかった、と思った、真っ先に。こんなことなら Twitter でみた瞬間に外へ出ておけばよかったな。なんだか損をしたみたいな。そんな気持ちも、歩きながら雪の踏む音に耳を傾けているうちにどこかへ消えてしまった。やっぱり雪は好きだ。いまこの瞬間だけは、世界の全部が自分のためだけにあるみたいな錯覚。みんなまだ寝てる。自分しか知らない。そんな馬鹿みたいなことを考えて、それから、昨日の夜、自分から逃げていった野良猫のことを思い出した。つられて伏見の猫も。雪。雪か。いったいどうしてるんだろ。この真っ白な夜に、自分なんかはすっかり浮かれてしまっているけれど、彼らとしては死活問題だったりするのかな。こんなに積もっちゃって、寒そうだな。自分はこれから買い物に行って、好きなだけ雪を満喫したら部屋へ戻って、暖かいとは言えないけれど死にはしない程度の場所で暢気に朝ご飯を食べるけれど、あの猫たちは? 思い出す。思い出すことしかできないから。なんか、いい感じのところで暖かくしてくれていたらいいな、と思う。まるで他人事。今日はこれからバイトらしい。

 

 

 

20220112

 

 読み始めてからずっと、出来の悪い間違い探しよろしくあからさまな違和感が視界の大部分を占めていて、p.79 あたりまで読んだところで思った、「だとしたら、どこにもないな」。『所有への願望』。その主張自体には頷くことができるし、納得もできる。体験として理解することも、まあできていると思う。書かれていることを否定したいというわけではなくて、そこに書かれたものが筆者にとっての本質であると一先ずは認めて、その上で思った、「だとしたら、どこにもない」。だとしても、でもいい。頭の片隅で考えながら、それからも読み進めた。それで、どこだっけな。いま該当の頁を探していて、p.114、『人間一般に及ぶべき筈のもの』。「だとしたら、ちょっとはあるかもな」と思ってしまった、正直。何の話をしているかがみえている人からするとかなり笑えるだろうなと思う、こんなこと言ってるの。わかる、自分でもそう思う。p.150 からの節は、割と自分の感覚と近かった。という言い方はあんまり正確じゃないかも。それ以外の部分だって、別に自分の感覚から離れていたわけじゃなかったから。正しく言えば、今の自分の感覚と近い。それ以外の部分は、昔の自分のほうがよく知っているはず。とはいえ、p.153、最後から四行目の件だけは自分のそれと真逆だった。人によっては何の躊躇いもなく頷けることなのだろうな。おかしいとは思わない、全く。本当に思っていない、良いとか悪いとかじゃないし。単に、自分とは違うな、と思っただけ。ただ、p.155 から p.156 にかけての、表題にもなっている節、最後の四行はちゃんと一致した。それはそうだと思う。読み終えてみて、良い本だな、と思った。間違ったことが書かれてあるとは、あんまり思わなかった。ところどころ前時代的な部分もあったけれど、それはまあ時代の問題だろうと思うし、本質的でもない気がする。良い本だな、と思った、たしかに。でも、やっぱり、ないんだよな、そんなもの。孤独もその裏側も、ちゃんと経験と理解を両方持っているような気がしていて、それはまあ自惚れかもしれないけれど。とはいえ、初見でだってすっと吞み込める程度には慣れている感覚で、だけど思うんだよな、「だとしたら、だとしても、どこにもない」。どこにもない、そんなもの。

 

「好き」という言葉を、この一週間ちょっとであり得ない数聞いた。場所も人も様々。でも、一年分は聞いた。食傷、はマイナスのニュアンスが強すぎるか。単に同じ言葉をめちゃくちゃに聞いたなって、それ以上の意味合いはない、本当に。その言葉を発する人ごとに意味合いは、定義は異なっているはずで、だけどおおよそあの本に書かれてある通りなんじゃないかなと思っている自分がいる。そうでもないのかな。ここからは自分の意見。笑いながら面白半分に読んでくれればいいのだけれど、思うに、他人へ向かう感情というものは二つの矢印が重なってできているのだと思う。一つは「相手に幸せになってほしい」という気持ち。分かりやすい。そりゃそうだろうと思う。具体例が必要なら、たとえば恋愛感情なんかで考えるといい思う。いつもとは違う服を着てみるだとか、待ち合わせのプランをあれやこれやと思案するだとか、人に依るだろうけれど、でもまあ、何かしらの形で行動に現れるんじゃないのかなと思う。相手が望む自分自身を演じる、とかもそう? 自分のためか相手のためかって、明確に二分できるものなんてそれほど多くもないだろうけれど、どちらかといえば、で区別することならある程度はできるはず。『他者の孤独の所有』? あの本でいえば、その言葉で説明されていたのがこっちなのかな、違うかもしれない。もう一つが「自分が幸せになりたい」という気持ち。これもこれで分かりやすい。なんていうか、説明するのも馬鹿馬鹿しいという感じがするし、胸にでも手を当てて、各々で勝手に考えてほしい。読者への演習問題とする。昨日の夜、専門書にそう書かれていた問題が一向に解けず、本当に最悪のテンションだった。今朝、目覚めた瞬間の冴えまくっている頭で向き合ったら何とかなったのでよかった。閑話休題。ともかく、そういう二つの矢印が重なっているよな、と思う、どうしたって。初期段階において、どちらかが欠けているってことはあんまりないんじゃないかな、と思っている。あくまで初期段階においての話。所有欲とか独占欲とか性欲とか、そんな大層なものでなくたってちょっとした寂しさとか胸の中の微かな痛みとか、そういった全部が恐らくは後者の矢印に包含されていて、だいたいの場合はそちらが先行するんじゃないのかなとも思っている。でも、正直どうでもいい、その辺りの話は。何のためにこんなことを? 「だとしたら、どこにもない」を説明するため。

 

 読んでいても思ったし、数人の話を聞いていても思った。「昔の自分がよく知っている」。本当によく知っていると思う。というか、いまでもはっきりと覚えている。自分は、その発生を錯覚だと思った。自分というのは、色々と諦めないといけなくなったタイミングの自分。だいたい五年前。錯覚。芹沢の小説もどき。愛と依存の違いは何? 何なんだろうと考えていた、二年くらいの間ずっと。答えは、ちゃんと見つかった。といっても、これは自分だけに適用できる答えで、ということはちゃんと小説もどきの中にも書いておいたけれど、全人類に共通する回答だとは全く思っていない。自分だけに正しい答え、「違いなんてない」。愛と依存、結局は視点の問題だと思う、思った、当時の自分は。いまも思っている。どっちも同じ。愛が綺麗にみえるなら依存だって綺麗と思えるし、依存を醜いとみなすなら愛だって醜く思えるはず。本質的な部分では大差ないようにみえる、少なくとも自分には。錯覚だと思った、発生を。好きだから寂しい。順序的にはそう。でも、結構な数の自己否定を重ねるだけ重ねて、それから思った。逆。実際、寂しいなんて思ったこともなかったし、欠落の存在に気がつくまで。何かがどこかから抜け落ちて、それから抜け落ちたことを知って、心が痛んで。そういったプロセスを自覚して、でもそれって逆なんだよな。失くして初めて気がついたものはそもそも最初から欠け落ちていて、だけど当たり前みたいに手の届く場所にあるから、欠けた部分でさえなんだか埋まっているような気がしていただけ。自分にとってはそういう風に考えるほうが自然だった。最初から欠けていた。だから、痛みだってちゃんとあったはず。当たり前に埋もれて気づいていなかっただけで。その痛みを自覚した瞬間に欠落の存在を知って、あるいは欠落の存在を知った瞬間にその痛みを自覚して。それらの前後関係があんまりに曖昧だから、「傷があることを知った。だから痛んだ」というように解釈しているだけなんじゃないかなと思った、当時の自分は。錯覚。恋という言葉を欠落として定義している。これは以前の記事でも書いたこと。だけど、そもそも最初から欠落してるんだよな、そういう、自分が大切にしているつもりになっているものって。気づいていないだけで。だから、錯覚。何度だって断るけれど、あくまで自分に限った話。他の人がどうかは知らない。でも、自分にとっての好意はそういうものだった。錯覚。幻想。勘違い。『何回だって勘違って 繰り返した夜を』って歌詞、あるじゃんか。実はそういう意味なんだよな、あれ。

 

 発生は錯覚だった。自分はそういうことにした。だったとして、それが自分を疑う理由になる? これも例の小説もどきで書いた。あれ、本当に全部書ききってるんだよな。結論を言えば、ならなかった、少なくとも自分にとっては。これだって、たとえば今朝のゼミ準備みたいに、寝覚めの冴えた頭で一瞬のうちに出した答えだってわけじゃない。二年ちょっと。地獄かよ。疑い続けたんだよな、その、自分の手の中に在る感覚を。最初、それはとても純粋なもののように自分の眼にはみえていた。でも、割とすぐに嘘と、錯覚だと思った。当時の自分はそのことを受け入れた。そのうえで、だからまだ疑ってみた。錯覚であるとして、だとしてもそこに純粋さは本当になかったのかな。考えたし、探した。それでみつけた、たしか一一月。何となしに飛び出した散歩からの帰り道、夕暮れの空を眺めながら、そのときに。欠落。欠け落ちたもの。それがもう自分の手の届く場所になくたって、それでも大切に思う自分がちゃんといるような気がして。その瞬間は、なんだか嘘みたいだなと思った。それすら疑う。話が逸れるけれど、いまの自分に備わっているとにかく全部を疑う癖、たぶんこの頃の後遺症なんだよな。戻す。そんな自分、本当にいるか? と思った。あまりにも都合が良すぎだろうと思って。そういうことにしておきたい自分が作り出した勝手な虚像なんじゃないのかな、みたいな。色々と考えて、でも、こちらの判断には何年もかからなかった、一年弱かな。その結果として生成されたのが、例の小説もどきと、さっき引用した歌詞の曲。『そうやって恋を知った あの夏の色を』。どっちにせよハッピーエンド、自分の中では。ちゃんといるんだなと確信できた、そういう自分のことを。まあ、本当はいなかったんだとしても、もういることにしてしまったから、それはいるんだと思う。信じているとかじゃない。知っている。そういうことになった。

 

 その頃から自覚していたこととして、手放したんだよな、自分は。二つあった矢印の、うち一方。当時のブログを読めばそういうことを仄めかす文章が大量にあると思う。いや、大量にはないかもしれないし、ここまで有体には書いていないから、書かれていたとして自分以外の人には分からないかもしれないけれど。『君』の実在性。昨年の一一月末、そういう話をされたときにも頭の片隅で考えていた。実際どうなのか知らないし、それはその話を持ち込んだ当人からはそうみえていたというだけの話ではあるのだろうけれど、だけどそのことにもしも理由めいた何かがあるんだとしたら、それはだから手放したことなんだろうなと思う。「自分が幸せになりたい」。ほとんどないんだよな、本当に、そういう感覚。嘘じゃなくて。このことは彼にもちゃんと伝えた。「いまからめちゃくちゃに酷いことを言うし、かなり傷つけるかもしれない」みたいなことを断って、それにしたって傷つけただろうな。想像に及ばないくらい。泣いていた気がする、声が。でも、嘘はつけないし、つきたくないし。これはだから、数年前から気がついていたこと。自分の中に残っているものは「相手に幸せになってほしい」の矢印ひとつだけで、もう片方がどこかしらへ消失してしまっている。完全にとは言わずとも、気に留まらないくらいには見当たらない。これは、誰を相手にしたって割とそう。モーニングコールの件にしたって、いくらなんでも付き合いがよすぎだろうと思う、自分でも、他人事のように。良い人ぶってんじゃねえよ、と脳内ツッコミ。いや、でも実際そうじゃない? 相手のスケジュールに合わせて睡眠時間ずらしたり削ったりって、狂ってると思う、普通に。誰がするんだ、そんなこと。自分は相手のことをかなり好意的にみているけれど、だけど言ってしまえばそれだけで、お金を貰ってとかならまだしも、特に何かの見返りが約束されていたわけでもなく(実際には、彼は(より正確には彼ともう一人は)曲を作ってくれた。良い奴)。その話をしたときに「相手からの好感度を稼ぎたかったのか」、あるいは「相手のことを助けたいと思ったのか」の判断がつかない、ということを書いた、たしか。要は、相手のためなのか自分のためなのか。判断がつかないのは事実そう。自分を正しいだけの人間だと勘違いしたくないのもそう。良い人ぶりたくないのもそう。でも、自分の感覚と近いほうに強いて旗を上げるとするなら、それは後者なんだよな。いや、これは自分が出来の良い人間だからというわけじゃなくて、本当にそういうのとは違っていて、単に「自分が幸せになりたい」という感覚がどうにも希薄だから。見返りとか、割と本当に要らない。あれば勿論嬉しいけれど、別になくてもいいと思っている。こういうことを書くと、良い人ぶってんなー、と思う。そう思われてるだろうなー、とも思う。というか、他人がこういうことを平然と言っていたら、大なり小なり「は?」と思うと思う、自分なら。いやまあ、だったら良い人ぶっているということにしてもいい、逆に、いっそのこと。良い人ぶってんなーとツッコんでくる自分自身を、あるいは同じように騒ぎ立てる自分の中の無数の他人を、心の底からどうでもいいと思えるくらいには自分の中に確固として在る理解なんだよな、これが。「自分が幸せになりたい」という気持ちがないわけじゃない。気持ち自体はある、割と普通に。たぶん、他の人たちと同じくらい。ただ、矢印としては希薄だと思うというだけ。そうやって、だから他人のことと天秤にかけてみたときにほとんど無重力というだけで。天秤にかけない限りは普通にある。自覚している、その辺りはちゃんと。

 

「どこにもない」。本気でそう思っている。読んでいる最中、ずっと視界に映っていた明確な違和感。出来の悪い間違い探し。その、いわゆる双方向性のようなものが必要なのだろうな、と思った。相手の幸せを願う気持ちと、自分の幸せを願う気持ち、その両方。自分の場合、他人に向かう矢印としては後者がかなり希薄で、彼相手となれば尚更無い。そんな気がする。手放してしまったから。「昔の自分がよく知っている」。手放す前の、疑い続けていた頃の自分。あんなにも寂しかったのにな。忘れてなんかいないし、いまだってはっきりと思い出せるけれど、だけどほとんど他人だなと思ってしまう、どうしても。愛という名前を付けてしまってもいいのかもしれないけれど迷っている、そういう感覚がある。みたいな話を、たしか以前に書いたっけ? それは、だからこれ。片いっぽうが消えて、そのあとに残った矢印のこと。名前を付けてしまってもいいと思っていて、だけど何となく嫌で。あの本を読んで、余計に強まった。こんなものを愛だとか、あんまり呼びたくない。自分にとってはもうこれしかないのだけれど、だとしたって。だから「どこにもない」。どこにもないと思う、本当に。

 

 

 

呼吸

 

 こういうことを言うと普通に引かれそうだなと思うので言わないようにしているけれど、人の寝息を聞いていると自分はとても安心する。それがどんな人間であれ、生きているということは本当で、だから息をしているということだって本当で、たったひとつそれだけは絶対に疑わなくていいと思えるから。日常生活の大部分を支配している言葉というものを本当に信用していなくて、自分は。広く言語一般をその人らしさが顕れる媒体と信じているのは本当で、だけどそれと同じくらい、あるいはそれ以上に強く、言葉という概念そのものを信用していない。何も感謝していなくたってありがとうと言えるし、何とも思っていなくたって愛していると言えるし、理由はそれだけ。それだけでも十分すぎる。自分の言動に対して疑いの目を向け続けている自分自身がいて、それと同じように他人の言葉を疑い続けている自分がいる、どこかに。事実はいくらだって美化できるし、悲劇的に語ることだってできるだろうし、話し手のさじ加減一つで。相手の言葉に寄り添うという行為は、恐らくは優しさと呼ばれる謎の何かが析出した一つの形で、それはとても素敵なことだと思っている、心の底から。だけど、自分にとっての正しさって何だろうなと考えてみたとき、それが答えになることはまずない。相手の言葉に寄り添うということは、つまり相手の言葉を一旦受け入れるということだと思う。すべてを事実として認める。怒りだとか、悲しみだとか、喜びでも何でも構わないけれど、それらを自分の内側へ迎え入れるという行為。尊いことと思うし、偉大なことだとも思う、皮肉とかではなく、本心から。自分にとっての正しさでないというだけで、ものすごく綺麗な在り方だと思う、それは。自分は、そのままで受け入れるということをしない、絶対に。疑ってかかる、そのために五メートルのラインを引いている。理由。それが自身の深くに息衝いた問題であればあるほど、主観的にしか語れなくなってしまうことを知っているから。相手の言葉をそのままで受け入れるというのは、だから相手の問題を一人称的に解釈しようと試みる行為だと思う。共感。同情。問題意識の共有。そういうの。自分たちは本質的に孤独であるということを何となく知っていて、相手のことを本当の意味で理解することは、氷山の一角だって叶わないことも知っていて、そんな大層な領域まで風呂敷を広げることもないけれど、だから結局、相手の言葉をそのままで受け入れるという行為は、相手の心理状態を一先ず分かったこととして、その上で同じ問題に向き合う行為と同義のように映ってしまう、自分の眼には。綺麗だと思う。相手の気持ちを丸ごと飲み込むのって、この世界にいる全人類ができるようなことではないだろうから。一方で、自分にとっての正しさではない。嘘を吐いているなと思ってしまうから、相手に。何も分かってなんかいないのに、全部を分かったような気になって。本当に嫌。小説。だから、三人称的に捉えようと努めることが自分にとっての正しさで、自分に扱える唯一の方法。五メートル。傍観者。地の文を読みながら、会話を目で追いながら、それが誰かにとって大切なものであればあるほど強く疑う。自分なんかのところへ持ってきたお前が悪いと思いながら、どこまでなら信じることができるかなと考える。色々。ときどき息が切れていた。目的地はあれど、急ぐような歩調でもないのに。ところどころ声が震えていた。寒いから? たまに躓く。足下がみえていない。事あるごとに笑う。どうして笑えるんだろう。まるで言い聞かせるみたいに、整然と並んだ言葉。誰のためのもの? それでも滲む、知らなかった誰かの口調。知らないな、と思った。言葉の外で探す。冒頭の話。呼吸は疑わなくていい。心臓は嘘を吐かない。アヒル役の相槌を打ちながら、目は合わせないけれど、目なんて合わせなくたってできる、それくらいのこと。目を覚まして、それからも少し探した。「誰かに話すだけでも気が楽になる」という主張を生きていればどこかしらで耳にするはずだけれど、だけどあれって普通に嘘だよなーと思う。それが事実なら今頃、地球上からありとあらゆる悩みの種は消失している。任意のカウンセラーは御役御免、宗教だって目的を見失う。だけど、現実はそうなっていないし、それが当たり前みたいに。どこの誰にいったい何をどんな多くの言葉を割いて話したって、本当のところでは微塵も理解してもらえるはずがなくて、伝わらなくて、分かりきっているはず、そんなこと。何も解決しない。せめて誠実ではあろうとする、自分なりに。大切にするくらいなら頑張れるし、というかそれしかできないから。だから、勝手に助かってほしいと思う、本当に。何もできないし、何をするつもりもないけれど、一度信じた分くらいは祈るから。「全部が上手くいけばいいと思う」。本当に上手くいけばいいのにな、全部。

 

 

 

20220108

 

 昨日の朝、バイトへ出る前、「これ、一葉さん絶対に好きですよ」と言われて途中まで読んだままで積んであった本を、行きしなの電車内で読もうと思って探したら、何故だか自室空間から消失していて、いっそ折れるんじゃないかってくらいに首を傾げた。魔女の仕業か? だって、ハードカバー。なくそうと思ってもなくせないだろ、普通。そう考えつつ、遅刻するのもアレなので結局手ぶらで出た。バイト先が梅田にあるという事実を指して「面倒じゃない?」と言われることがままあって、でも自分はあんまりそう思っていない。駅までの歩く時間が好きだし、それに車内では本が読めるから。気分が乗らないなら車窓をぼーっと眺めつつ考え事をするでもいいのだし、割と気に入っている。そんなわけで本を読みたい気持ちはやまやま、でもあいにく手持ちはない。帰りこそは読みたいな~と思い、バイト先へ伸びる足を強固な意志でひん曲げ、そのまま書店へ寄った。二冊買って、バイトの昼休憩と帰り道を合わせて一冊の 3/4 くらいを読んだ。それが割とムズめの本というか、嘘で全然難しくはなく、単に考えさせられるところが多々あるという本で、なのでしばらくの間、ブログはそういう話が多くなるかもしれない。帰りの電車で様々を考えていたときには書籍の名前をブログで上げようと思っていたのだけれど、だけどその必要もなくなった。というか、自分は筆者でもそのファンでもないけれど、読んでもいないのに名前だけで判断されるのは普通に癪だし、そういう人が一定数いることも知っているから。まあ、どういう本なのかは今後の自分の更新を追いかけていれば何となく分かるはず。嘘で、全然書かないかもしれない。書くことを事前に決めたりといったことを、自分はあんまりしないし。白紙のワードパッドに向かって初めて「今日は何について書こうかな」と考えだすことがほとんど常。なので書かないかもしれない。書くかもしれない。未来のことは未来の自分に任せる。これくらいのことなら未来の自分に押し付けたっていいでしょ、別に。

 

 会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある。「何様だよ」と脳内の自分。いや、分かる。他人の文章を読んで同じことが書いてあったら、まあ人にも依るだろうけれど自分も全く同じことを思う可能性がある。というか、そういう可能性が容易に想像できるので、そういった脳内ツッコミが当然のように聞こえてくる。「自惚れすぎ」「何を気取っとんねん」「誰だってそうだろ」。この辺りはまあまあな声量で聞こえてくる。いや、分かる。そうよね、そう思う、自分も。まあ、誰だってそうだろという意見については少し的外れと思っていて、人一倍敏感になっていると思う、という話だから、これは。でも、それもまた結局は「何様だよ」に集約される。いや、だから普段はこういうことを書かないし、言いもしない。でも、今日はちょっと書いてみる、その辺りのことを。でないと結論に行けないから。『自分をみている自分がいる』と誰かが言っていた。たぶん全く違うと思う、自分の中に在る感覚と、その誰かの中に在る感覚とは。でも、言葉で表そうとすると同じになってしまう。自分をみている自分がいる。その正体も知っていて、自分の場合、それって普通に現在時点でこれを書いている最中の自分なんだよな。鏡。鏡という理解の仕方が自分はとても好きで、いや好きとか嫌いとかではなく、ものすごく自分の感覚に近い表現で、この場合は自分の書いた文章を鏡として自分をみているという感覚。ない人には絶対に伝わらないだろうけれど、ある人には伝わるかな、これで。伝わんないかも。まあいいけど。ともかく書いてて思う、「何様だよ」。分かる。本当に分かる。自分でさえそう思うんだから、ましてや他人はもっとそう思うはずだよなと思う、実際がどうであるかはさておいて。なので、そういうツッコミが入った文章を、それ単体でブログへ残すことを自分はあまりしない。だって、そう思われた瞬間に余計な先入観が入っちゃうじゃんか。たとえば、開始数行で水素水のすばらしさを語る記事があったとして、誰もそれを最後まで真面目に読もうと思わないでしょ? そういう話。たぶんだけど、もうこの時点で「また何か変なこと言ってるよ」と思っている人間は数人いるはずで、実際に自分自身もそう思っていて、だから二文目には脳内ツッコミをそのまま載せてケアしている。話を進める。会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある。「何様だよ」とケアの脳内ツッコミ。流石にしつこい? でも一応。会話には流れというものが存在すると自分は思う、他の人がどう思うかは知らないけど、まあ自分はそう思う。大人数の場であれば、いまその空間で何が注目されているのかが鍵になったりすることもある。たとえば、料理を作っているなら料理の話が飛び交うのはまあ自然なことだし、あるいは誰かのお祝いならその誰かに関する話で満ちていても自然。文脈に沿った正しい言葉、発言、態度、そういうのがあるよねと思う、少なくとも自分は。脱線。このさき、鬱陶しいと思われるくらいに「他の人がどうかは知らないが、自分はそう思っている」という意味の注釈をつけまくる。誤解されたくないから。他人がどう思っていようと自分は一切関与しないという立場を自分は取っていて、なのでこの文章中に自らの思想と反する一文があったとしても、勝手に傷つかないでほしい。自分は、自分と違う考えの人を否定したいとは思わないし、批判したいとも思わないし、議論したいとも思わない。どうでもいい、そんなの。ただ、自分はこう思っている、と表明しているだけ。誰を傷つける意図も一切ない、という意味でそういう注釈をつけている。それでも傷つく人はいるだろうけれど、それはもう申し訳ないとしか言えない。ごめんなさい。閑話休題。いわゆる自分語りが敬遠されがちのは、そういった発言の類が場を支配している自然な流れという目にみえない何かをものの見事に破壊してしまうからということが本質のような気がしている、少なくとも自分は。実際どうかは知らない。誰かのお誕生日会に集まった別の誰かが「そういえば、ここに来る途中でめちゃくちゃ嫌なことがあってさ~」とおもむろに話し始めたとして、残りの全員は多少嫌な顔をしたって誰にも責められることじゃないと思う。まあ、この辺りは人間関係の深さにも依るから一概には言えない。その誰かの誕生日と、別の誰かの不幸を同列に考えることのできる人間しかいない場であれば、もしかしたら許されるかも。でも、そうじゃないときはそうじゃないと思う。不幸自慢でも幸自慢でも。聞いてほしい、知ってほしい、認めてほしいってそれは分かる。そのことに気づいていないわけじゃない、流石に。でも、それよりも先に全体の共通認識として在る自然さに目を向けてくれよって。そんな感じのツッコミがあって、それがいわゆる敬遠されがちなほうの自分語りに対する気持ちの正体だと思っている、自分は。あくまで自分はそうで、他の人は知らない。余談。「つまり自分の話は一切するなということですか? 他の人間は自由に話すことができるのに、自分は口を出すなということ?」という声。ここまでを読んでそういう風に思ったなら、たぶん自分の文章をニュートラルには読んでくれなかったのだろうなと、ちょっと悲しくなる。そんなこと書いてないじゃん、だって。裏を読んだような気になってるだけ。だから、結局は場を考えることが必要という話。不幸自慢でも幸自慢でも、そういった話題が認められる文脈だって、自分たちの日常の中にはたくさん転がっていて。たとえば自分がブログを用意した理由は、半分くらいそのためだし。だから、それらを区別することぐらいはできるはず、という話。自分の話をちゃんと聞いてほしいなら尚更。「本当に聞いてほしいと思ってる?」と自分はよく思う、その類に出くわすと。陶酔じゃないの、と思ってしまう、これは本当に失礼なことだけれど。でも、声は聞こえない? 自分は幸も不幸も知っているから、幸せに酔うのは簡単で、悲劇に酔うのはよりもっと簡単ということだって当然のように知っていて。だからまあ、思ってしまう。でも、難しい。全人類の全部が上手くいけばいいのになと自分も思ってる、常日頃から、他人事みたいに。閑話休題。こういう余談の全部がただの注釈で、自分の言葉を履き違えられたくないから書いている。言葉を信用していない話はどうせいつか書くだろうし、これまでの記事でも散々したのでとりあえず割愛。話を戻して、会話は場を支配している自然さに乗っかって進められるものと自分は思う、というところ。大人数の場ではそう。一対一なら少し変わる。たとえばお互いの距離感なんかの比重がどうしたって大きくなってしまうから、言葉の選び方が変わる。でも、基本的にはやっぱり流れがあると思う。文脈。自然。「会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある」。これが何を指していたのかというと、自分はそういった自然さに沿わない発言、だから安直な表現に頼るなら不自然な発言ということになるけれど、そういったものに対してかなりの警戒を払っている。コード進行とかと同じなんだよな、本当に。ずっと 1456 だったのに突然 III7 が入って「お?」と思うのと同じで、というか気づくだけなら別に誰だって気づくんじゃないかと思う。誰だっては嘘か。でも、そんなに珍しいことでもないと思う、気づくだけなら。問題は、だからそれの処理。和音なら「お?」と思うだけで済むけれど、人間が相手ならそうもいかないから。人に依る。人に依るということを断った上で話を進めるけれど、自然な流れを遮って出てくる不自然な言葉って、それは多かれ少なかれ誰かに話したいという意思の顕れなんじゃないかな、と自分は思う。逸脱。脱線。人に依るだろうけれど、そんなもの。でも、自分はそう思う。不幸自慢でも幸自慢でも、それ以外の全部でも。それがある程度は誰かに話したいものであると仮定した上でさらに話を進めるとして、果たしてそうならそれはその人にとって大なり小なり重大な、少なくともいまその場にある自然さなんかよりは優先される事項であるのかなとも思ったりするわけで。身構えちゃうんだよな、だから。その先に何があるか分からないから。地雷原。取れない宝箱。相手の言葉に対してとても敏感になっている自信があるというのはそういうこと。気がつけないままで相手の領域へ踏み入ってしまうことが本当に嫌で、責任が取れないし、というか誰の荷物だって背負って歩いていけるというわけじゃないから。せめて気づかなければならないと思っている、少なくとも自分は。だから、そのトリガー、細いピアノ線みたく自然に紛れた不自然の、その更に向こう側に対して、それはもうめちゃくちゃに慎重。好奇心なら腐るほど、いっそ誰かに売りつけたいくらいには持っていて、でもそれで猫は死ぬらしいから。自分は猫じゃないけど、でも小さな怪我だってできれば避けたいと思う、お互いに。

 

 流れに沿わない不自然な言葉。たくさんあるよなと思う。この記事にだって、なんかもう両手じゃ足りなくなってくるくらいには書いたように思える。気がつく? 気がつかないならつかないで全く問題はなくて、だって余計な一言だから、そういうのって。余計な一言というか、なんだろ。たとえば自分は道を歩いていて、よく看板に書かれてある言葉を目で追ったりする。飲食店のメニューでもいいけれど、電柱とか、町内掲示板とか、そういうの。でも、みない人は全くみないと思っていて、視界に映り込んでいないわけではないだろうけれど、意識のレンズには入りきってこないというか。でもそれって何の問題もなくて、そしてこの街のいたるところにはその類のものが置かれていると自分は思う。棄てられたビニール傘、誰かの落とした手袋、煙草の吸殻、風に飛ばされるレジ袋。もっと大きなものもあるけれど、なんとなくで小さいものばかり挙げてしまった、理由はない。とにかくそういうのがたくさんあって、でもそれは全人類が目を向けているという対象ではない。自分だって、見落としているものはたくさんあるはず。現に、自分はつい最近まで他人のファッションとかを気にしていなかったから。最近といっても、もう何ヵ月か前のことだけれど。山ほどあると思う、そういうのは。他人とかかわりを持っていると、その人が普段何をみているのかが何となく分かったような気になったりすることがある。この人はよく信号の話をしている。この人はよくコンビニのゴミ捨て場の話をしている。この人はよく自動販売機の商品の話をしている。そんな風に。ブログを書いていて、余計な一言を添えることが自分は割とある。信号をみている人には信号に、コンビニのゴミ捨て場をみている人にはコンビニのゴミ捨て場に、自動販売機の商品をみている人には自動販売機の商品に、そういった、その相手がよくみているなと感じた部分に手紙を隠しておくというような感覚で余計な一言を書いている。その人以外の全員は気がつかなくてよくて、だけどその人だけは絶対に気がつけるような場所。だからまあ、言ってしまえば合言葉に近いものでもあるけれど、だけど少なくとも自分の場合はお互いの合意があるわけでもなく、自分が勝手に隠して自己満足しているだけだから、合言葉という喩えはあんまり正確じゃない。とにかく、自分はそういうことをする、かなり意図的に、それも息を吸うような頻度で。だからというわけでもないのかもしれないけれど、だからたとえば他人の文章を読んでいてそういったものに出くわしたときに思ってしまうことがある、「読めばわかる」。自分宛ての文章でなくたって、宛てられたであろう別の誰かに関する情報がある程度自分の手元に揃っていた場合、そういうことが起こりがち。だからというわけでもないと書いたけれど、でもこれは完全に順接かな。自分がそういうことをよくするから、他人がやっているそれにも稀に気がつけるっていう。気づいていないことのほうがはるかに多いと思うけど、当然ながら。それはそれとして自分は信号も、コンビニのゴミ捨て場も目で追うし。商品まではあまり気にならないけれど、だけど真夜中の自動販売機は好き。それもまた、だから「他人の言葉に対してとても敏感になっている」の一例ではあるんだよな。自分に向けられていない言葉を相手にしている分、これは本当にただの好奇心でしかない。暴くことは絶対にないし、そもそも触れたいとも思わないけど。自分が同じことをされたら嫌だし、というより普通に怖いから。でも、目の前を走り去っていった車のナンバープレートを何となしに読んでしまうのと同じ構図なんだよな、これ。そう思ってやろうとしているわけではなくて、なんていうか全自動。様々な様々に対してそういうことを考えて、文章でも日常会話でも、箱の中身を考えるだけは考える。

 

 いつチルとかいう言葉がいつ頃かに爆誕して、割と困っている。何に困っているかというと、向き合い方。説明する。これはまあ流石に自惚れではないと思うけれど、その言葉が冗談であれ本心であれ、多少の関心が自分へ向けられているのだな、という風にまず思う。そして、その関心を数直線的な何かに射影したとして、程度の差こそあれど、正の方向のどこかしらに落ちるのだろうなという気がしている。関心というものは思うにかなり複雑で、というか多種多様で、一次元の枠に収まるものとはあんまり思えず、だから射影。要するに、大なり小なり肯定的な感情を向けられているのかな、という気持ちになりはする。ところで、ここで問題が。どのような問題かというと、まず段落が始まってすぐに登場した自惚れという言葉、これはかなり最悪な言葉選びだと自分では思っている。だって、これってただの予防線なんだよな。「自分はこう思ってるんですけど、でも皆さんの本心は分からないので真偽は不明です」みたいな。めちゃくちゃに失礼。だって、考えたら分かるじゃんか、そんなの。この予防線はつまり「自分は皆さんを信用していません」と言っていることとほとんど同義にみえる、少なくとも自分にとっては。最悪。本当に最悪だと思う。プレゼントの話。だからこれ、差し出された花束を踏みにじっていることと同じじゃない? この世界にいる全人類が自分と同じ価値観で他人の姿を捉えているとは露ほども思わないけれど、それにしたって疑っていいようなものでもないと思う、そういうのって。「勘違いしたら嫌だから」って、花束に勘違いも何もないでしょ。そう考えつつも、一方で手癖の予防線として「自惚れ」という言葉を引っ張り出してしまう自分に「お前はさあ~」と思う。いやもう、本当にね。問題はまだある。じゃあそんな言葉を使わないように心掛ければいいじゃないという話にもなるけれど、でもそういうわけにもいかない。だって、その評価に甘えてしまったらそれはただ単に調子に乗っているだけの人では? という脳内ツッコミが依然として存在しているから。いや、これについては実際にその通りだと思う。よく動画をみている VTuber の人がいて、まあ自分が追いかけているのは一人だけなのだけれど、これは余計な一言。その人が言っていた、「スパチャ(投げ銭)をくれるのは本当に嬉しいし、実際に助かっているのだけれど、それに甘えてしまうのは絶対に違うし、だから反応の仕方に困ることがある」。なんとなく構図が似ている気がする。「(とりあえずその言葉を自発的に使っている人は)みんな自分のことを多少は評価してくれてるんだな~~。最高~~~~」という人間になってしまったら終わりという気がする。絶対に嫌だ。何が嫌って、そのことを当たり前だと思ってしまうことが嫌。全然当たり前じゃないし、慣れたくなんかない。慣れるって、良くも悪くも大切に扱えなくなってしまうということだし。たとえば親しい友人。粗雑な会話ができるようになっていく一方で、彼/彼女はこういう人間だという偏見が頭の中に蓄積されて気がついたらちゃんとみれなくなってるっていう、よくある話。それと同じ。調子に乗っているだけの人というのは、だから要するに花束をちゃんと大切にすることができない人という意味。相手のことをよくみない人という意味でもある。あるいは花束しかみえていない人でもいい。花束すらみえていない可能性もあるけれど、まあ何だっていい。何であれ、それらが誠実な向き合い方だとは思えない、自分にとっては。そういうわけで困る。本当に困っている。お年玉を貰ったときに何て返せばいいのか分からなくなる、あの感覚みたい。好かれたくも嫌われたくもない。一昨年の一一月とか、そういう記事を書いた気がして。いま読んでみたらちょっと違うことが書かれていたけれど、まあどうでもよくて。いや、本当に好かれたくも嫌われたくもないんだよな。好かれたくないのは、自分がどう振舞えばいいのか分からないからという理由。嫌われたくないのは、嫌われていると悲しい気持ちになるからという理由。とはいえ勘違いされたくないのは、好かれること自体が嫌というわけでは決してなくて。そこまで捻くれてはいない。その質が何であれ、好意を向けられたら嬉しくはなる、自然な反応として。「どう振舞えばいいのか分からない」についても言葉が足りないかも。相手の好意に応じて自分の振る舞いを変えるという意味ではなくて、単に花束の扱いに困るという話。喜んでいいよなと思う、普通に。でも、それに甘えたらダメだろ、という脳内ツッコミが存在する、明らかに。えー、僕ってどうすればいいですか?(定型文) いや、喜んではいるんだよな、割と普通に。嫌がらせかというくらいにいつチルという言葉を繰り出す人間がいて。その言葉に対して困っているということも伝えたはずなのに、これは余計な一言。いやでも、それって深刻な困りでは全くなくて、自分なりの答えをちゃんと持っておかないといけないなとは思うけれど、ポジティブな困りというか。だからまあ、頭の中で「新手の嫌がらせか?」と軽口程度に思いはするものの、疑ったりはしていない、微塵も。向き合い方、マジで考えなくてはいけない。卒業したら忘れそうだけど、でも本質的に一生付きまとう問題という気がしている。分かんないけど。

 

 自分がどのくらい最悪な人間かを、自分はそれなりに知っている。まだ気づけていない部分も多分にあるとは思うけれど、それにしたって結構数を知っている。自分はまあこんな感じでブログを書いていて、だからなのかは知らないけれど、いや、たぶんだからで合っていると思うのだけれど、他人から何かしらの話をされる機会が少なからずあって。するとまず、こう、線を引く。グラウンドに白線を引いていく感覚で。「ここからここまでが自分の領域で、自分はこれよりも外へは出ないから、あとはよろしく」みたいな。ドッジボールのコートと同じ。他人の言葉に対して敏感になっているだとかなんだとかという話は、実は全部この話のための注釈で、こっちが本題。要は、踏み越えてはいけないラインがどこなのかを予め知っておきたいという気持ちがある。相手が「これから自分にとっては何よりも重大な話をするからな」と丁寧に前振りしてくれているなら尚更。でも、そのラインは大抵の場合において曖昧で、だいたいの見当はつくのだけれど、それは本当に第三者的な見当でしかなく、それはそれとして誤って踏み越えてしまうととんでもないことになるのは火をみるより明らかなので、だから「だいたいこの辺りだろうな」のさらに五メートルくらい前に線を引く。五メートル。一般的な学校の教室の、教壇から最後列の椅子まででそれくらいかな。本当に、気持ち的にはそれくらい離れた状態で会話へ臨む、勝手に。その結果として現れるのは「へえ~」くらいの相槌しか打たない、アヒルよりはちょっとマシだけど実質アヒル役の人間。これは自分なりの相手に対する誠実な態度で、だからそれ自体に不満も何もないのだけれど、それはそれとして最悪の一つではあるよなと思っている。相手のことを何も助けないから。たとえば目の前で相手が突然涙を流したとして、自分は何もしないんじゃないだろうかという疑念。そんな状況には流石に行き当たったことがないから想像だけれど。なんていうか、その姿勢が上手く機能する場面があればそうでない場面も当然あって。上手く機能しない相手を前にしたときに、最悪だな、と思う、かなり。雨に打たれている人がいたとして、自分の手に傘があったとして、比喩。ずぶ濡れの身体を乾かすことはまあ無理にしても、これ以上濡れないように傘を差しだすことくらいは誰にだってできるはず。それも優しさの一つだと思う。でも、自分にはそれができなくて。なぜなら五メートル前に境界線を引いてしまっているから、会話が始まった瞬間に。ここからは外に出ないと勝手に決めてしまっていて、自分が。だから、「ああ、この人には傘を差しだすほうが正しかったのかもな」と思う一方で「いや、でも自分には絶対にできないしな」とも思う。最悪。五メートル前に引いた勝手な防衛線なんて優に飛び越えられるはずなのに。そうは思うけれど、でもしない。自分勝手。それはそれとして、これはまた別の話だけれど、他人の話を聞いているとき、自分はそれがどんな種類のものであっても大抵は面白がっている。これも最悪。努めて言わないようにするのだけれど、それでも気を抜いた瞬間に言ってしまったりする、「面白い」。「面白いって何やねん」と脳内ツッコミ。分かる。普通に失礼すぎると思う、いくらなんでも流石に。でも、面白いと感じることに対する後ろめたさなんかは実は全くなくて、こちらが真の最悪だけれど、そういった感覚も諸々全部含めての「他人の話を聞くのが好き」なんだよなという理解がある、自分の中に。その人が大切にしているものを、自分は割と面白がって聞いているという事実。面白がるというのは軽んずるという意味ではなくて、誤解されたくないので注釈をつけるけれど、他人にとっては重大な話を、だから自分にとっては事実としてなんてこともないそれを、可能な限りで大切にするための自分なりの方法がそれなんだという話。でも、受け手からするとどっちも変わんないよなと思ってもいる。だから最悪、嫌われても文句は言えない。面白がるという言葉をもう少し言い換えると、たとえば小説。世界に一つしかない小説を読んでいるみたいな気分。まだ世に出ていない、原稿用紙に書かれただけで製本はされていない草稿。そういうの。それをみせてもらっている感覚というか、なんというか。自分にとって相手の話を大切にするというのがどういうことかというと、それは絶対に分かったつもりにならないという意味で。最大公約数と特効薬。たとえばその草稿をいい感じに要約して、あらすじとして数行程度に書き出してみたら、なんだ案外よくある話だなって。七〇億だか八〇億だかのうちの一人が抱える悩みって、丸善でもジュンク堂でも古本屋でも、どこかしらの書店に行けば絶対に見つけられる程度のものだろうし、と自分は思う、本気で。でも、だから、そういった最大公約数的なステレオタイプの目線で相手の草稿を読んでしまうことが自分にとっては「軽んずる」という行為に該当しているという話で。いや、だって、真逆じゃない? と思う。だからそれだけは避けたいなと思う自分がいて、その結論としてちょうどいいのが五メートル。相手の話を分かった気にならないで済むライン。だからちょうど小説くらいの、自分があくまで読み手の立ち位置でいられるライン。これは相談事をされるたびにどこかのタイミングで絶対に言う、「自分は他人のことに興味がない」。これは言い換えれば、ステレオタイプとしては考えないけれど、だけど具体的にも考えないということ。登場人物の顔とか名前とかは本当にどうだってよくて、何ならいま目の前で話している相手、一人称の実体でさえ別にどうでもいいというか。だって小説を読んでいるときに気にしないじゃんか、そんなの、ライトノベルなんかは別だろうけれど。そういう捉え方が自分にできる自分なりに最大限誠実な方法と思うから。相手に依っては不快な思いをさせるだろうなと頭の片隅に、だけど自分にとってはそれが最善なのでそうする。興味がないなんて、別にわざわざ言わなくてもいいのかもしれないけれど、そうしないと嘘を吐いたような気持ちになって気持ち悪いので言う。ルールの押しつけ、いわゆる最悪の一つ。自分がされて嫌なことを相手にしている。

 

 露悪的と言われたことがある。言った本人は忘れているかもしれないし、どういう意図で言ったのかも自分は知らない。最初はあんまりピンときていなかったけれど、でもまあ今では「的確だな」と思う。だって、たとえば上に書いた最悪に関する文章が全部そうだから。これには、まあ多分ちゃんとした理由がある。有体に言って、良い人ぶるのが嫌、これに尽きる。もっとちゃんと書くなら、まず脳内ツッコミという存在が自分の中にいる、かなり恒常的に。その脳内ツッコミが喧しく口を出してくる場面は色々とあるけれど、でもおおよその場合は決まっていて、それが何かというと肯定的な印象を他人に付与し得る何かを実行するとき。たとえば、モーニングコールと焼肉の話は前にしたけれど、だからあれは自分の気持ち的な部分と、それはそれとして独立して存在する脳内ツッコミとの両方を書いていたわけで。いや、でもだからどっちが本当なのかの判断がつかないんだよな、ああいうの。気持ち的な部分だけをじーっとみていると、背後に忍び寄った脳内ツッコミが「いやいや、そうは言ってもさ」と言ってくる。「良い人としてみられたいだけなんじゃないの?」。否定できない、実際。良い人でありたいし、どちらかといえば。それはそう。でも、ところでそういった行動を無意識的に起こすと脳内ツッコミは「いやいや、そうは言ってもさ」と肩を叩きに来るし、意識的に起こそうとすると脳内ツッコミは冒頭近くの文章みたく「何様だよ」と耳元で突っかかってくる。ずっとこれ、本当に。そして、自分でも割と思う。「いやいや、そうは言ってもさ」とか「何様だよ」とか、冷静になってみると。脳内ツッコミはそこそこ信用できる。まあ鏡は嘘を吐かないから、それはそうなのだけれど。でも、それはそれとして鬱陶しい。ただただ鬱陶しい。何かをするたびに「これって自分のためなのかな、それとも相手のためなのかな」とか、いちいち考えたくない、普通に。それはとても大切な問題ではあるけれど、だからって頻度はこんなじゃなくたっていい。一挙手一投足にツッコまれてたまるかという気持ち。どんな漫才だよ。それはそれとして、自分の意思と無関係に脳内ツッコミは自然発生するので、鏡から目を逸らすことはもはや不可能だから、じゃあどうするかというと、それが結局は露悪的であればいいという、そういうところに落ち着く。良い人ぶっていると脳内ツッコミが煩いので、それが嫌だから良い人ぶるのも嫌という、そういう話。「愛なんて無いですよ」って、だからそれだけで済ませておいたほうが自分は楽なんだよな。愛というか、特別な感情は特にないということだけ言う。これは半分嘘で、自分はそれなりに好意的にみている、その相手のことを。いや勿論、友人としてだけれど。それはそれとして「貴方のことを好意的にみています」と直で言ってくる相手を遠ざけることは実際問題それなりに困難なはずで、嫌でも好感度は上がりそうというか、いやまあ上がる、たぶん、方法を盛大に間違えたりしない限りは。でも、だからそれを指して「相手にとって自分を良いように映したいだけなんじゃないの?」と言ってくる自分がいて、そして自分はそれを否定できない。だから、半分だけ正しい「愛なんて無いですよ」だけを言う。いや、まあ愛だなんて大層なものは実際に無いんだけど。人からの相談を受けたときに言う「自分は他人のことに興味がない」も大体同じで、これもやっぱり半分だけ正しい。本当のことを言っていいなら、他人のことにはめちゃくちゃ興味があるし、そうでないなら他人の話を聞くのが好きとはならない。だけどこれだって、だから例えば相談事を持ち掛けた相手が「めちゃくちゃ興味ある」という反応を示した場合、大抵の人間は嬉しい気持ちになるんじゃないかなという想像が自分の中にあって。別に相談事じゃなくたって、自分の話を興味津々で聞いてくれる相手がいれば嬉しいじゃんか、恐らくは。いやでも、だからここで脳内の自分が「相手の気分を良くすることで、この人は良い人だという印象を持ってもらいたいだけなのでは?」ということを言ってきて、これもまた自分には否定できない。というか、普通に納得する。たしかにそれはそうかも、としか思わない。だから「興味がない」ということにしておく。話が大きければ大きいほど強調する。「興味がない」。ただ、「自分は他人のことに興味がない」と伝える場合には「自分は他人のことにめちゃくちゃ興味がある」とも同時に言うようにしている。場が場。半分だけ正しいで済ませるのは正しくないという気もするから。でも、なるべく「興味がない」のほうを先に言う。こうと決めているわけじゃないから絶対とは言えないけれど、たぶんそうなっていると思う。だけどこんな数の言葉は割かないから、割けないから、おおよそ言葉以上のことは何も伝わっていないはず。全く問題ないけど、それで。自己満足だし。みたいな。こういう話は、だから結局のところ、嘘を吐きたくないということに尽きるわけで。ここでいう嘘は、自分が偽物だなと思ってしまうもの全部を指しての言葉。良い人ぶるのが嫌もそう。「良い人としてみられたいだけなんじゃないの?」という声が聞こえた時点で、仮にそういう意識の存在を無意識下まで全部捜索してなおも確認できなかったと仮定して、だけど自分の中ではそれはもう嘘になってしまっているというような感覚がある。気持ちの問題が十割。だから、半分だけ正しいことを言う、良い人ぶらなくて済むほうを。あるいは脳内ツッコミとあわせて両方とも言う。自分の中ではそういう風な折り合いがついている、ある程度。