20220108

 

 昨日の朝、バイトへ出る前、「これ、一葉さん絶対に好きですよ」と言われて途中まで読んだままで積んであった本を、行きしなの電車内で読もうと思って探したら、何故だか自室空間から消失していて、いっそ折れるんじゃないかってくらいに首を傾げた。魔女の仕業か? だって、ハードカバー。なくそうと思ってもなくせないだろ、普通。そう考えつつ、遅刻するのもアレなので結局手ぶらで出た。バイト先が梅田にあるという事実を指して「面倒じゃない?」と言われることがままあって、でも自分はあんまりそう思っていない。駅までの歩く時間が好きだし、それに車内では本が読めるから。気分が乗らないなら車窓をぼーっと眺めつつ考え事をするでもいいのだし、割と気に入っている。そんなわけで本を読みたい気持ちはやまやま、でもあいにく手持ちはない。帰りこそは読みたいな~と思い、バイト先へ伸びる足を強固な意志でひん曲げ、そのまま書店へ寄った。二冊買って、バイトの昼休憩と帰り道を合わせて一冊の 3/4 くらいを読んだ。それが割とムズめの本というか、嘘で全然難しくはなく、単に考えさせられるところが多々あるという本で、なのでしばらくの間、ブログはそういう話が多くなるかもしれない。帰りの電車で様々を考えていたときには書籍の名前をブログで上げようと思っていたのだけれど、だけどその必要もなくなった。というか、自分は筆者でもそのファンでもないけれど、読んでもいないのに名前だけで判断されるのは普通に癪だし、そういう人が一定数いることも知っているから。まあ、どういう本なのかは今後の自分の更新を追いかけていれば何となく分かるはず。嘘で、全然書かないかもしれない。書くことを事前に決めたりといったことを、自分はあんまりしないし。白紙のワードパッドに向かって初めて「今日は何について書こうかな」と考えだすことがほとんど常。なので書かないかもしれない。書くかもしれない。未来のことは未来の自分に任せる。これくらいのことなら未来の自分に押し付けたっていいでしょ、別に。

 

 会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある。「何様だよ」と脳内の自分。いや、分かる。他人の文章を読んで同じことが書いてあったら、まあ人にも依るだろうけれど自分も全く同じことを思う可能性がある。というか、そういう可能性が容易に想像できるので、そういった脳内ツッコミが当然のように聞こえてくる。「自惚れすぎ」「何を気取っとんねん」「誰だってそうだろ」。この辺りはまあまあな声量で聞こえてくる。いや、分かる。そうよね、そう思う、自分も。まあ、誰だってそうだろという意見については少し的外れと思っていて、人一倍敏感になっていると思う、という話だから、これは。でも、それもまた結局は「何様だよ」に集約される。いや、だから普段はこういうことを書かないし、言いもしない。でも、今日はちょっと書いてみる、その辺りのことを。でないと結論に行けないから。『自分をみている自分がいる』と誰かが言っていた。たぶん全く違うと思う、自分の中に在る感覚と、その誰かの中に在る感覚とは。でも、言葉で表そうとすると同じになってしまう。自分をみている自分がいる。その正体も知っていて、自分の場合、それって普通に現在時点でこれを書いている最中の自分なんだよな。鏡。鏡という理解の仕方が自分はとても好きで、いや好きとか嫌いとかではなく、ものすごく自分の感覚に近い表現で、この場合は自分の書いた文章を鏡として自分をみているという感覚。ない人には絶対に伝わらないだろうけれど、ある人には伝わるかな、これで。伝わんないかも。まあいいけど。ともかく書いてて思う、「何様だよ」。分かる。本当に分かる。自分でさえそう思うんだから、ましてや他人はもっとそう思うはずだよなと思う、実際がどうであるかはさておいて。なので、そういうツッコミが入った文章を、それ単体でブログへ残すことを自分はあまりしない。だって、そう思われた瞬間に余計な先入観が入っちゃうじゃんか。たとえば、開始数行で水素水のすばらしさを語る記事があったとして、誰もそれを最後まで真面目に読もうと思わないでしょ? そういう話。たぶんだけど、もうこの時点で「また何か変なこと言ってるよ」と思っている人間は数人いるはずで、実際に自分自身もそう思っていて、だから二文目には脳内ツッコミをそのまま載せてケアしている。話を進める。会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある。「何様だよ」とケアの脳内ツッコミ。流石にしつこい? でも一応。会話には流れというものが存在すると自分は思う、他の人がどう思うかは知らないけど、まあ自分はそう思う。大人数の場であれば、いまその空間で何が注目されているのかが鍵になったりすることもある。たとえば、料理を作っているなら料理の話が飛び交うのはまあ自然なことだし、あるいは誰かのお祝いならその誰かに関する話で満ちていても自然。文脈に沿った正しい言葉、発言、態度、そういうのがあるよねと思う、少なくとも自分は。脱線。このさき、鬱陶しいと思われるくらいに「他の人がどうかは知らないが、自分はそう思っている」という意味の注釈をつけまくる。誤解されたくないから。他人がどう思っていようと自分は一切関与しないという立場を自分は取っていて、なのでこの文章中に自らの思想と反する一文があったとしても、勝手に傷つかないでほしい。自分は、自分と違う考えの人を否定したいとは思わないし、批判したいとも思わないし、議論したいとも思わない。どうでもいい、そんなの。ただ、自分はこう思っている、と表明しているだけ。誰を傷つける意図も一切ない、という意味でそういう注釈をつけている。それでも傷つく人はいるだろうけれど、それはもう申し訳ないとしか言えない。ごめんなさい。閑話休題。いわゆる自分語りが敬遠されがちのは、そういった発言の類が場を支配している自然な流れという目にみえない何かをものの見事に破壊してしまうからということが本質のような気がしている、少なくとも自分は。実際どうかは知らない。誰かのお誕生日会に集まった別の誰かが「そういえば、ここに来る途中でめちゃくちゃ嫌なことがあってさ~」とおもむろに話し始めたとして、残りの全員は多少嫌な顔をしたって誰にも責められることじゃないと思う。まあ、この辺りは人間関係の深さにも依るから一概には言えない。その誰かの誕生日と、別の誰かの不幸を同列に考えることのできる人間しかいない場であれば、もしかしたら許されるかも。でも、そうじゃないときはそうじゃないと思う。不幸自慢でも幸自慢でも。聞いてほしい、知ってほしい、認めてほしいってそれは分かる。そのことに気づいていないわけじゃない、流石に。でも、それよりも先に全体の共通認識として在る自然さに目を向けてくれよって。そんな感じのツッコミがあって、それがいわゆる敬遠されがちなほうの自分語りに対する気持ちの正体だと思っている、自分は。あくまで自分はそうで、他の人は知らない。余談。「つまり自分の話は一切するなということですか? 他の人間は自由に話すことができるのに、自分は口を出すなということ?」という声。ここまでを読んでそういう風に思ったなら、たぶん自分の文章をニュートラルには読んでくれなかったのだろうなと、ちょっと悲しくなる。そんなこと書いてないじゃん、だって。裏を読んだような気になってるだけ。だから、結局は場を考えることが必要という話。不幸自慢でも幸自慢でも、そういった話題が認められる文脈だって、自分たちの日常の中にはたくさん転がっていて。たとえば自分がブログを用意した理由は、半分くらいそのためだし。だから、それらを区別することぐらいはできるはず、という話。自分の話をちゃんと聞いてほしいなら尚更。「本当に聞いてほしいと思ってる?」と自分はよく思う、その類に出くわすと。陶酔じゃないの、と思ってしまう、これは本当に失礼なことだけれど。でも、声は聞こえない? 自分は幸も不幸も知っているから、幸せに酔うのは簡単で、悲劇に酔うのはよりもっと簡単ということだって当然のように知っていて。だからまあ、思ってしまう。でも、難しい。全人類の全部が上手くいけばいいのになと自分も思ってる、常日頃から、他人事みたいに。閑話休題。こういう余談の全部がただの注釈で、自分の言葉を履き違えられたくないから書いている。言葉を信用していない話はどうせいつか書くだろうし、これまでの記事でも散々したのでとりあえず割愛。話を戻して、会話は場を支配している自然さに乗っかって進められるものと自分は思う、というところ。大人数の場ではそう。一対一なら少し変わる。たとえばお互いの距離感なんかの比重がどうしたって大きくなってしまうから、言葉の選び方が変わる。でも、基本的にはやっぱり流れがあると思う。文脈。自然。「会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある」。これが何を指していたのかというと、自分はそういった自然さに沿わない発言、だから安直な表現に頼るなら不自然な発言ということになるけれど、そういったものに対してかなりの警戒を払っている。コード進行とかと同じなんだよな、本当に。ずっと 1456 だったのに突然 III7 が入って「お?」と思うのと同じで、というか気づくだけなら別に誰だって気づくんじゃないかと思う。誰だっては嘘か。でも、そんなに珍しいことでもないと思う、気づくだけなら。問題は、だからそれの処理。和音なら「お?」と思うだけで済むけれど、人間が相手ならそうもいかないから。人に依る。人に依るということを断った上で話を進めるけれど、自然な流れを遮って出てくる不自然な言葉って、それは多かれ少なかれ誰かに話したいという意思の顕れなんじゃないかな、と自分は思う。逸脱。脱線。人に依るだろうけれど、そんなもの。でも、自分はそう思う。不幸自慢でも幸自慢でも、それ以外の全部でも。それがある程度は誰かに話したいものであると仮定した上でさらに話を進めるとして、果たしてそうならそれはその人にとって大なり小なり重大な、少なくともいまその場にある自然さなんかよりは優先される事項であるのかなとも思ったりするわけで。身構えちゃうんだよな、だから。その先に何があるか分からないから。地雷原。取れない宝箱。相手の言葉に対してとても敏感になっている自信があるというのはそういうこと。気がつけないままで相手の領域へ踏み入ってしまうことが本当に嫌で、責任が取れないし、というか誰の荷物だって背負って歩いていけるというわけじゃないから。せめて気づかなければならないと思っている、少なくとも自分は。だから、そのトリガー、細いピアノ線みたく自然に紛れた不自然の、その更に向こう側に対して、それはもうめちゃくちゃに慎重。好奇心なら腐るほど、いっそ誰かに売りつけたいくらいには持っていて、でもそれで猫は死ぬらしいから。自分は猫じゃないけど、でも小さな怪我だってできれば避けたいと思う、お互いに。

 

 流れに沿わない不自然な言葉。たくさんあるよなと思う。この記事にだって、なんかもう両手じゃ足りなくなってくるくらいには書いたように思える。気がつく? 気がつかないならつかないで全く問題はなくて、だって余計な一言だから、そういうのって。余計な一言というか、なんだろ。たとえば自分は道を歩いていて、よく看板に書かれてある言葉を目で追ったりする。飲食店のメニューでもいいけれど、電柱とか、町内掲示板とか、そういうの。でも、みない人は全くみないと思っていて、視界に映り込んでいないわけではないだろうけれど、意識のレンズには入りきってこないというか。でもそれって何の問題もなくて、そしてこの街のいたるところにはその類のものが置かれていると自分は思う。棄てられたビニール傘、誰かの落とした手袋、煙草の吸殻、風に飛ばされるレジ袋。もっと大きなものもあるけれど、なんとなくで小さいものばかり挙げてしまった、理由はない。とにかくそういうのがたくさんあって、でもそれは全人類が目を向けているという対象ではない。自分だって、見落としているものはたくさんあるはず。現に、自分はつい最近まで他人のファッションとかを気にしていなかったから。最近といっても、もう何ヵ月か前のことだけれど。山ほどあると思う、そういうのは。他人とかかわりを持っていると、その人が普段何をみているのかが何となく分かったような気になったりすることがある。この人はよく信号の話をしている。この人はよくコンビニのゴミ捨て場の話をしている。この人はよく自動販売機の商品の話をしている。そんな風に。ブログを書いていて、余計な一言を添えることが自分は割とある。信号をみている人には信号に、コンビニのゴミ捨て場をみている人にはコンビニのゴミ捨て場に、自動販売機の商品をみている人には自動販売機の商品に、そういった、その相手がよくみているなと感じた部分に手紙を隠しておくというような感覚で余計な一言を書いている。その人以外の全員は気がつかなくてよくて、だけどその人だけは絶対に気がつけるような場所。だからまあ、言ってしまえば合言葉に近いものでもあるけれど、だけど少なくとも自分の場合はお互いの合意があるわけでもなく、自分が勝手に隠して自己満足しているだけだから、合言葉という喩えはあんまり正確じゃない。とにかく、自分はそういうことをする、かなり意図的に、それも息を吸うような頻度で。だからというわけでもないのかもしれないけれど、だからたとえば他人の文章を読んでいてそういったものに出くわしたときに思ってしまうことがある、「読めばわかる」。自分宛ての文章でなくたって、宛てられたであろう別の誰かに関する情報がある程度自分の手元に揃っていた場合、そういうことが起こりがち。だからというわけでもないと書いたけれど、でもこれは完全に順接かな。自分がそういうことをよくするから、他人がやっているそれにも稀に気がつけるっていう。気づいていないことのほうがはるかに多いと思うけど、当然ながら。それはそれとして自分は信号も、コンビニのゴミ捨て場も目で追うし。商品まではあまり気にならないけれど、だけど真夜中の自動販売機は好き。それもまた、だから「他人の言葉に対してとても敏感になっている」の一例ではあるんだよな。自分に向けられていない言葉を相手にしている分、これは本当にただの好奇心でしかない。暴くことは絶対にないし、そもそも触れたいとも思わないけど。自分が同じことをされたら嫌だし、というより普通に怖いから。でも、目の前を走り去っていった車のナンバープレートを何となしに読んでしまうのと同じ構図なんだよな、これ。そう思ってやろうとしているわけではなくて、なんていうか全自動。様々な様々に対してそういうことを考えて、文章でも日常会話でも、箱の中身を考えるだけは考える。

 

 いつチルとかいう言葉がいつ頃かに爆誕して、割と困っている。何に困っているかというと、向き合い方。説明する。これはまあ流石に自惚れではないと思うけれど、その言葉が冗談であれ本心であれ、多少の関心が自分へ向けられているのだな、という風にまず思う。そして、その関心を数直線的な何かに射影したとして、程度の差こそあれど、正の方向のどこかしらに落ちるのだろうなという気がしている。関心というものは思うにかなり複雑で、というか多種多様で、一次元の枠に収まるものとはあんまり思えず、だから射影。要するに、大なり小なり肯定的な感情を向けられているのかな、という気持ちになりはする。ところで、ここで問題が。どのような問題かというと、まず段落が始まってすぐに登場した自惚れという言葉、これはかなり最悪な言葉選びだと自分では思っている。だって、これってただの予防線なんだよな。「自分はこう思ってるんですけど、でも皆さんの本心は分からないので真偽は不明です」みたいな。めちゃくちゃに失礼。だって、考えたら分かるじゃんか、そんなの。この予防線はつまり「自分は皆さんを信用していません」と言っていることとほとんど同義にみえる、少なくとも自分にとっては。最悪。本当に最悪だと思う。プレゼントの話。だからこれ、差し出された花束を踏みにじっていることと同じじゃない? この世界にいる全人類が自分と同じ価値観で他人の姿を捉えているとは露ほども思わないけれど、それにしたって疑っていいようなものでもないと思う、そういうのって。「勘違いしたら嫌だから」って、花束に勘違いも何もないでしょ。そう考えつつも、一方で手癖の予防線として「自惚れ」という言葉を引っ張り出してしまう自分に「お前はさあ~」と思う。いやもう、本当にね。問題はまだある。じゃあそんな言葉を使わないように心掛ければいいじゃないという話にもなるけれど、でもそういうわけにもいかない。だって、その評価に甘えてしまったらそれはただ単に調子に乗っているだけの人では? という脳内ツッコミが依然として存在しているから。いや、これについては実際にその通りだと思う。よく動画をみている VTuber の人がいて、まあ自分が追いかけているのは一人だけなのだけれど、これは余計な一言。その人が言っていた、「スパチャ(投げ銭)をくれるのは本当に嬉しいし、実際に助かっているのだけれど、それに甘えてしまうのは絶対に違うし、だから反応の仕方に困ることがある」。なんとなく構図が似ている気がする。「(とりあえずその言葉を自発的に使っている人は)みんな自分のことを多少は評価してくれてるんだな~~。最高~~~~」という人間になってしまったら終わりという気がする。絶対に嫌だ。何が嫌って、そのことを当たり前だと思ってしまうことが嫌。全然当たり前じゃないし、慣れたくなんかない。慣れるって、良くも悪くも大切に扱えなくなってしまうということだし。たとえば親しい友人。粗雑な会話ができるようになっていく一方で、彼/彼女はこういう人間だという偏見が頭の中に蓄積されて気がついたらちゃんとみれなくなってるっていう、よくある話。それと同じ。調子に乗っているだけの人というのは、だから要するに花束をちゃんと大切にすることができない人という意味。相手のことをよくみない人という意味でもある。あるいは花束しかみえていない人でもいい。花束すらみえていない可能性もあるけれど、まあ何だっていい。何であれ、それらが誠実な向き合い方だとは思えない、自分にとっては。そういうわけで困る。本当に困っている。お年玉を貰ったときに何て返せばいいのか分からなくなる、あの感覚みたい。好かれたくも嫌われたくもない。一昨年の一一月とか、そういう記事を書いた気がして。いま読んでみたらちょっと違うことが書かれていたけれど、まあどうでもよくて。いや、本当に好かれたくも嫌われたくもないんだよな。好かれたくないのは、自分がどう振舞えばいいのか分からないからという理由。嫌われたくないのは、嫌われていると悲しい気持ちになるからという理由。とはいえ勘違いされたくないのは、好かれること自体が嫌というわけでは決してなくて。そこまで捻くれてはいない。その質が何であれ、好意を向けられたら嬉しくはなる、自然な反応として。「どう振舞えばいいのか分からない」についても言葉が足りないかも。相手の好意に応じて自分の振る舞いを変えるという意味ではなくて、単に花束の扱いに困るという話。喜んでいいよなと思う、普通に。でも、それに甘えたらダメだろ、という脳内ツッコミが存在する、明らかに。えー、僕ってどうすればいいですか?(定型文) いや、喜んではいるんだよな、割と普通に。嫌がらせかというくらいにいつチルという言葉を繰り出す人間がいて。その言葉に対して困っているということも伝えたはずなのに、これは余計な一言。いやでも、それって深刻な困りでは全くなくて、自分なりの答えをちゃんと持っておかないといけないなとは思うけれど、ポジティブな困りというか。だからまあ、頭の中で「新手の嫌がらせか?」と軽口程度に思いはするものの、疑ったりはしていない、微塵も。向き合い方、マジで考えなくてはいけない。卒業したら忘れそうだけど、でも本質的に一生付きまとう問題という気がしている。分かんないけど。

 

 自分がどのくらい最悪な人間かを、自分はそれなりに知っている。まだ気づけていない部分も多分にあるとは思うけれど、それにしたって結構数を知っている。自分はまあこんな感じでブログを書いていて、だからなのかは知らないけれど、いや、たぶんだからで合っていると思うのだけれど、他人から何かしらの話をされる機会が少なからずあって。するとまず、こう、線を引く。グラウンドに白線を引いていく感覚で。「ここからここまでが自分の領域で、自分はこれよりも外へは出ないから、あとはよろしく」みたいな。ドッジボールのコートと同じ。他人の言葉に対して敏感になっているだとかなんだとかという話は、実は全部この話のための注釈で、こっちが本題。要は、踏み越えてはいけないラインがどこなのかを予め知っておきたいという気持ちがある。相手が「これから自分にとっては何よりも重大な話をするからな」と丁寧に前振りしてくれているなら尚更。でも、そのラインは大抵の場合において曖昧で、だいたいの見当はつくのだけれど、それは本当に第三者的な見当でしかなく、それはそれとして誤って踏み越えてしまうととんでもないことになるのは火をみるより明らかなので、だから「だいたいこの辺りだろうな」のさらに五メートルくらい前に線を引く。五メートル。一般的な学校の教室の、教壇から最後列の椅子まででそれくらいかな。本当に、気持ち的にはそれくらい離れた状態で会話へ臨む、勝手に。その結果として現れるのは「へえ~」くらいの相槌しか打たない、アヒルよりはちょっとマシだけど実質アヒル役の人間。これは自分なりの相手に対する誠実な態度で、だからそれ自体に不満も何もないのだけれど、それはそれとして最悪の一つではあるよなと思っている。相手のことを何も助けないから。たとえば目の前で相手が突然涙を流したとして、自分は何もしないんじゃないだろうかという疑念。そんな状況には流石に行き当たったことがないから想像だけれど。なんていうか、その姿勢が上手く機能する場面があればそうでない場面も当然あって。上手く機能しない相手を前にしたときに、最悪だな、と思う、かなり。雨に打たれている人がいたとして、自分の手に傘があったとして、比喩。ずぶ濡れの身体を乾かすことはまあ無理にしても、これ以上濡れないように傘を差しだすことくらいは誰にだってできるはず。それも優しさの一つだと思う。でも、自分にはそれができなくて。なぜなら五メートル前に境界線を引いてしまっているから、会話が始まった瞬間に。ここからは外に出ないと勝手に決めてしまっていて、自分が。だから、「ああ、この人には傘を差しだすほうが正しかったのかもな」と思う一方で「いや、でも自分には絶対にできないしな」とも思う。最悪。五メートル前に引いた勝手な防衛線なんて優に飛び越えられるはずなのに。そうは思うけれど、でもしない。自分勝手。それはそれとして、これはまた別の話だけれど、他人の話を聞いているとき、自分はそれがどんな種類のものであっても大抵は面白がっている。これも最悪。努めて言わないようにするのだけれど、それでも気を抜いた瞬間に言ってしまったりする、「面白い」。「面白いって何やねん」と脳内ツッコミ。分かる。普通に失礼すぎると思う、いくらなんでも流石に。でも、面白いと感じることに対する後ろめたさなんかは実は全くなくて、こちらが真の最悪だけれど、そういった感覚も諸々全部含めての「他人の話を聞くのが好き」なんだよなという理解がある、自分の中に。その人が大切にしているものを、自分は割と面白がって聞いているという事実。面白がるというのは軽んずるという意味ではなくて、誤解されたくないので注釈をつけるけれど、他人にとっては重大な話を、だから自分にとっては事実としてなんてこともないそれを、可能な限りで大切にするための自分なりの方法がそれなんだという話。でも、受け手からするとどっちも変わんないよなと思ってもいる。だから最悪、嫌われても文句は言えない。面白がるという言葉をもう少し言い換えると、たとえば小説。世界に一つしかない小説を読んでいるみたいな気分。まだ世に出ていない、原稿用紙に書かれただけで製本はされていない草稿。そういうの。それをみせてもらっている感覚というか、なんというか。自分にとって相手の話を大切にするというのがどういうことかというと、それは絶対に分かったつもりにならないという意味で。最大公約数と特効薬。たとえばその草稿をいい感じに要約して、あらすじとして数行程度に書き出してみたら、なんだ案外よくある話だなって。七〇億だか八〇億だかのうちの一人が抱える悩みって、丸善でもジュンク堂でも古本屋でも、どこかしらの書店に行けば絶対に見つけられる程度のものだろうし、と自分は思う、本気で。でも、だから、そういった最大公約数的なステレオタイプの目線で相手の草稿を読んでしまうことが自分にとっては「軽んずる」という行為に該当しているという話で。いや、だって、真逆じゃない? と思う。だからそれだけは避けたいなと思う自分がいて、その結論としてちょうどいいのが五メートル。相手の話を分かった気にならないで済むライン。だからちょうど小説くらいの、自分があくまで読み手の立ち位置でいられるライン。これは相談事をされるたびにどこかのタイミングで絶対に言う、「自分は他人のことに興味がない」。これは言い換えれば、ステレオタイプとしては考えないけれど、だけど具体的にも考えないということ。登場人物の顔とか名前とかは本当にどうだってよくて、何ならいま目の前で話している相手、一人称の実体でさえ別にどうでもいいというか。だって小説を読んでいるときに気にしないじゃんか、そんなの、ライトノベルなんかは別だろうけれど。そういう捉え方が自分にできる自分なりに最大限誠実な方法と思うから。相手に依っては不快な思いをさせるだろうなと頭の片隅に、だけど自分にとってはそれが最善なのでそうする。興味がないなんて、別にわざわざ言わなくてもいいのかもしれないけれど、そうしないと嘘を吐いたような気持ちになって気持ち悪いので言う。ルールの押しつけ、いわゆる最悪の一つ。自分がされて嫌なことを相手にしている。

 

 露悪的と言われたことがある。言った本人は忘れているかもしれないし、どういう意図で言ったのかも自分は知らない。最初はあんまりピンときていなかったけれど、でもまあ今では「的確だな」と思う。だって、たとえば上に書いた最悪に関する文章が全部そうだから。これには、まあ多分ちゃんとした理由がある。有体に言って、良い人ぶるのが嫌、これに尽きる。もっとちゃんと書くなら、まず脳内ツッコミという存在が自分の中にいる、かなり恒常的に。その脳内ツッコミが喧しく口を出してくる場面は色々とあるけれど、でもおおよその場合は決まっていて、それが何かというと肯定的な印象を他人に付与し得る何かを実行するとき。たとえば、モーニングコールと焼肉の話は前にしたけれど、だからあれは自分の気持ち的な部分と、それはそれとして独立して存在する脳内ツッコミとの両方を書いていたわけで。いや、でもだからどっちが本当なのかの判断がつかないんだよな、ああいうの。気持ち的な部分だけをじーっとみていると、背後に忍び寄った脳内ツッコミが「いやいや、そうは言ってもさ」と言ってくる。「良い人としてみられたいだけなんじゃないの?」。否定できない、実際。良い人でありたいし、どちらかといえば。それはそう。でも、ところでそういった行動を無意識的に起こすと脳内ツッコミは「いやいや、そうは言ってもさ」と肩を叩きに来るし、意識的に起こそうとすると脳内ツッコミは冒頭近くの文章みたく「何様だよ」と耳元で突っかかってくる。ずっとこれ、本当に。そして、自分でも割と思う。「いやいや、そうは言ってもさ」とか「何様だよ」とか、冷静になってみると。脳内ツッコミはそこそこ信用できる。まあ鏡は嘘を吐かないから、それはそうなのだけれど。でも、それはそれとして鬱陶しい。ただただ鬱陶しい。何かをするたびに「これって自分のためなのかな、それとも相手のためなのかな」とか、いちいち考えたくない、普通に。それはとても大切な問題ではあるけれど、だからって頻度はこんなじゃなくたっていい。一挙手一投足にツッコまれてたまるかという気持ち。どんな漫才だよ。それはそれとして、自分の意思と無関係に脳内ツッコミは自然発生するので、鏡から目を逸らすことはもはや不可能だから、じゃあどうするかというと、それが結局は露悪的であればいいという、そういうところに落ち着く。良い人ぶっていると脳内ツッコミが煩いので、それが嫌だから良い人ぶるのも嫌という、そういう話。「愛なんて無いですよ」って、だからそれだけで済ませておいたほうが自分は楽なんだよな。愛というか、特別な感情は特にないということだけ言う。これは半分嘘で、自分はそれなりに好意的にみている、その相手のことを。いや勿論、友人としてだけれど。それはそれとして「貴方のことを好意的にみています」と直で言ってくる相手を遠ざけることは実際問題それなりに困難なはずで、嫌でも好感度は上がりそうというか、いやまあ上がる、たぶん、方法を盛大に間違えたりしない限りは。でも、だからそれを指して「相手にとって自分を良いように映したいだけなんじゃないの?」と言ってくる自分がいて、そして自分はそれを否定できない。だから、半分だけ正しい「愛なんて無いですよ」だけを言う。いや、まあ愛だなんて大層なものは実際に無いんだけど。人からの相談を受けたときに言う「自分は他人のことに興味がない」も大体同じで、これもやっぱり半分だけ正しい。本当のことを言っていいなら、他人のことにはめちゃくちゃ興味があるし、そうでないなら他人の話を聞くのが好きとはならない。だけどこれだって、だから例えば相談事を持ち掛けた相手が「めちゃくちゃ興味ある」という反応を示した場合、大抵の人間は嬉しい気持ちになるんじゃないかなという想像が自分の中にあって。別に相談事じゃなくたって、自分の話を興味津々で聞いてくれる相手がいれば嬉しいじゃんか、恐らくは。いやでも、だからここで脳内の自分が「相手の気分を良くすることで、この人は良い人だという印象を持ってもらいたいだけなのでは?」ということを言ってきて、これもまた自分には否定できない。というか、普通に納得する。たしかにそれはそうかも、としか思わない。だから「興味がない」ということにしておく。話が大きければ大きいほど強調する。「興味がない」。ただ、「自分は他人のことに興味がない」と伝える場合には「自分は他人のことにめちゃくちゃ興味がある」とも同時に言うようにしている。場が場。半分だけ正しいで済ませるのは正しくないという気もするから。でも、なるべく「興味がない」のほうを先に言う。こうと決めているわけじゃないから絶対とは言えないけれど、たぶんそうなっていると思う。だけどこんな数の言葉は割かないから、割けないから、おおよそ言葉以上のことは何も伝わっていないはず。全く問題ないけど、それで。自己満足だし。みたいな。こういう話は、だから結局のところ、嘘を吐きたくないということに尽きるわけで。ここでいう嘘は、自分が偽物だなと思ってしまうもの全部を指しての言葉。良い人ぶるのが嫌もそう。「良い人としてみられたいだけなんじゃないの?」という声が聞こえた時点で、仮にそういう意識の存在を無意識下まで全部捜索してなおも確認できなかったと仮定して、だけど自分の中ではそれはもう嘘になってしまっているというような感覚がある。気持ちの問題が十割。だから、半分だけ正しいことを言う、良い人ぶらなくて済むほうを。あるいは脳内ツッコミとあわせて両方とも言う。自分の中ではそういう風な折り合いがついている、ある程度。

 

 

 

野良猫、口約束


 ここ数日考えていたことについて。雑記。

 

 猫。野良猫を世話していた時期がある。世話していたというのは嘘で、……どこから話せばいい? 小学生当時、たぶん三年生とかそのくらい? もう少し前かもしれない。自分の住んでいた場所の近くにあった公園に、猫が住み着いていた。白と茶の毛が均等に混じった、本当に一般的な猫だったと思う。首輪もない。野良猫だなと思った。話は逸れるけれど、もう少し別の場所にも野良猫が山ほど住み着いている場所があって、裏路地のようなところなのだけれど。そこがお気に入りで、よく自転車を引っ張り出しては、停める場所もないのに一人で通っていた。野良猫。公園でみるのは初めてだった。公園といっても、それほど広くはない。どのくらいかというと、大学生が敷地内で鬼ごっこをしたとして、きっと五秒おきには鬼が入れ替わる。そのくらい狭い。子供の目にはいまの運動場と同じくらいに思えたけれど。ともかくある日、公園に野良猫がいて、彼は二、三日経ってもまだそこにいた。いまにして思えばよく分からないけれど、だから段ボールで家を作ってやった、居合わせた三人で。本当に分からないな、別にそれで寒さが凌げるわけでもないのに。でも、当時は何の疑問も持たなかった。そこにずっといるのなら、家があるのが自然。父親だか母親だか、たぶん母親、いや姉だったかもしれないけれど、猫が食べられるご飯を用意できないかと訊いたような記憶がある。嘘で、自分はそういうことを伝えたと思うが、向こうがどう受け取ったのかは知らない。聞き入れてもらえなかった気がする、たしか。別に飼いたいって言ってるわけじゃないのに、これだから大人は。そのまま公園へ戻って、野良猫に謝った。これはよく覚えている。日の暮れた公園が暗くて怖かったから。段ボール作りに参加していた一人が、家から何かを持ってきて、そのことに安堵したことも覚えている。その猫はしばらく公園にいた。学校から帰ってきたら、真っ先に向かうのは公園。そんな感じの数日が続いて、ある日の朝、野良猫はどこかへいなくなった。通学の途中に覗いた公園。ちっぽけな段ボールだけが残っていて、別になんてこともなかったけれど。放課後には帰ってきているかもしれないと思いもして、だけどそんなこともなかった。「ああ、いなくなっちゃったね」。自分を含めた三人は口々に言いあって、それからさらに数日もしたら誰も話題に出さなくなった。小学生の毎日なんて、まあそんなもの。それで大学生になった今。なんとなく、一年に一度くらいは思い出す。そういう野良猫がいたことを、一年に一度くらいは誰かに話す。あの猫はどこへ行ったんだろう。流石にもう死んでいると思う。少なめに見積もっても一五年は前のことなんだし、生きているとは思えない。野良猫なら尚更。でも、だけど、いまもどこかで生きていてくれたらいいなと思う。そんなわけがないけれど、願うだけなら勝手だし。「いまも思い出すから、だから生きている」。ついこの前、どこかで聞いた言葉。思い出すだけの相手はたくさんいて、それは人であっても猫であっても、最初から生きていなくたって。会いに行くことはできる、いつだって。野良猫にはあんまり触らないようにしていたけれど、でも公園に住み着いた彼には何度か触れたような気がするから、撫でることもできると思う。空の色も思い出せない、いつかの公園。生きているといえば生きている。……この言葉の意味を、意味というか意図を、あるいは裏側を、自分はあんまり呑み込めていないんだろうな。生きていてほしいと思う、やっぱり。いまもどこかで呼吸をしていてほしい、会えなくたっていいし、思い出せなくてもいいから。

 

 小学校から中学校までの間、一番仲の良い相手を一人連れて来いと突然言われたとして、それでも当時の自分は迷わなかったに違いないと思う。初めて接点を持ったのは、たぶん小学三年生の頃。同じクラスになったのがきっかけだったはず、あんまり覚えていない。彼、……でいいか。野良猫も彼と呼んでいたから紛らわしいけれど、どっちも別人だ。まあ、猫と混同することは流石にないだろうけれど。彼は、当時から認めていたこととして、自分よりも圧倒的に頭が良かった。頭が良かったというのは勉強ができるという意味でもそうだけれど、なんだか考え方が小学生っぽくないというか。いや、いまの自分が当時の彼と話をしたら「こどもだな」と感じるのだろうけれど、当時の彼は明らかに周りのクラスメイトと違う場所にいたように思える。それでいて、純粋な子供っぽさも持ち合わせていて、クラスの中心からは外れた場所にいたけれど、でも、何かがあればいつだって中心の輪へ飛び込んでいって、それでいて歓迎されるタイプの、とにかく変な奴だった。彼は自分に色んなものを教えてくれたと思う。たとえば、絵。自分は小学校から中学校にかけての間、よく絵を描いていた。元々好きだったというのはある、当然。でも、それはそれとして、彼の存在も大きかった。彼は漫画を描いていた。それをたまにクラスメイトにみせてはめちゃくちゃに面白がられていた、もちろん良い意味で。自分にそういう欲求があったわけではないけれど、凄い奴だなとは思っていた。というか、絵が上手かった、普通に。あとは、音楽。自分が作曲を始めたのは高校一年生、厳密には中学三年生の頃だけれど、音楽に興味をもったのはもう少し前のことで、たぶん小学六年生のとき。自分たちの教室には何故か電子キーボードが置かれていた。先生の趣味だと思う。楽器を習っている女子がたまに弾いていたそれを、彼が弾いてみせたことが何度かあった。彼はピアノを習っていて、そのとき「こいつ、マジで何でもできるな」と思ったのを覚えている。見様見真似で鍵盤を教えてもらった。まあ当たり前のように何にも身につかなかったけれど、だけど、その年度の音楽発表会で自分はキーボードを弾いている。自分から立候補した。いま思えば意味が分からないけれど、それは彼のおかげだ。それから中学生になって、二年生の頃だったと思う、彼の右腕を折った。故意ではない、不慮の延長線上にある事故だったけれど、とはいえ明確に自分が加害者で、彼は被害者だった。あんなにもあからさまに他人を傷つけてしまったのは、たぶんあれが初めてだと思う。当時の自分がどんなことを考えていたのか、あんまり思い出せない。彼の病室までお見舞いに行くのが、なんだかものすごく怖かったことだけ覚えている。不便を強いるわけにもいかないから、毎朝、登校時刻から逆算して彼の家まで行って、彼の分の荷物を持って歩いた。たまに明らかに遅刻しそうになって、彼の母親に車で送ってもらったりもした。そんなことをしているうちに高校生になり、彼と自分とは別々の高校へ進学した。いまとなってはそんな感覚もないけれど、高校生当時の感覚で言えば彼のほうが上のランクの高校に。学校が別々になると、接点は自動的に減っていく。それでもたまの休日に予定をあわせてゲーセンへ行ったりしていた。高校生になってからいつかの夏祭り、彼と久しぶりに話す機会があった。その頃にはもう進路のことを薄々考えていたのだろう、自分は訊いた。「どこの大学へ行こうとかあるの?」。彼はたしか曖昧な答えを返した。それから「行こうと思えば阪大でも京大でも行けるでしょ」。自分はその頃からなんとなく京大を志望していて「だったら一緒に京大へ行こう」と言った気がする。彼は、……どうだったんだろう、頷いたのかな。笑っていたような気もする、あんまり覚えていない。自分が京大を志した理由はいくつもあって、彼はその中の一つだった。だけど、たしか自分が浪人していたときだったと思う。突然、彼との連絡が一切つかなくなった。自分だけじゃない、同じコミュニティにいた全員が。誰も連絡が取れなくて、だけど自分たちは彼の家を知っているから、用があるなら直接会いに行けばいいだろうという話になって、だからインターホンを鳴らしてみた、一度だけ。でも、会えなかった。そのあと自分は京大に受かって、嘘みたいに。夏祭り、最後の最後。それっきり会えなくなるならもっと話すことはあっただろうに、ついでで交わしたどうだっていい口約束をひとりで叶えて、なんていうか、なんていうか。実家へ帰る機会はそれほど多くもないけれど、そのたびに彼の家の前を通る。遠回りなのに、わざと。歩きながら考える。いまならもう一度インターホンを押せるかな。表札も、自転車も、閉じっぱなしのカーテンも。小学生の頃から何も変わらないなと思って。何も変わんないのになと思って。ずっとそのまま。

 

 

 

20220104

 

 以前、小さめのプレゼントを渡したら翌日にゴミ箱へ棄てられていたのをみつけたことがあって。これは比喩。バイトの昼休憩だった、たしか。外の空気が吸いたくて自動ドアをくぐって。まだそれほど冷え込むような時期でもなかった。手癖でポケットからスマホを取り出して、そこでみつけた。なんか、めちゃくちゃな気持ちになったような気がする、あんまり覚えていない。ブログにでも残しておけば鮮明に思い出せたのだろうけれど、だけどそうしておかなくて本当に良かったと思う。あのときのテンションに任せたら、どんなに最悪な結果が出力されていたか分からない。たしか、虚しかった。怒りとか悲しみとか、そういう類よりもずっと早くに虚しさが来た。抉られるというよりは、抜き取られるみたいな、ほんの一瞬で。そのプレゼント、夜なべで作ったんだけどな。次の日の朝からバイトがあるっていうのに、でもいま渡したほうがいいと思ったから。なのに、捨てちゃうのか。小学校の頃にも同じようなことがあって、授業参観だった、たしか。ペットボトルを使って何かを工作するという話で、たぶん石鹸。クラスメイトの一人が、だけどペットボトルを忘れてきたらしい。それはそれとして、自分は何故か二つ持っていた。予備だったのかな。形状によっては上手くいかないことがあるからとか、そんな話だった気がする。余っていて、だから渡した。その後、どういった流れがあったかは覚えていない、というか自分の作業で手いっぱいだったのでそもそもみていないのだけれど、それをゴミ箱の中にみつけたことだけは覚えている。よく分からない。両親はなんだかんだと言っていたけれど、怒りとか悲しみとか、そういうのはあんまりなくて、ただ、よく分からないという感覚だけが手元にひとつ。どうしてそんなことができるんだろうと思って。プレゼントの類は、究極的にはどうしたって消耗されることになる。だって、この世にあるおおよそすべてのものは消耗品だから。宝石とか不動産とかなら話は別だろうけれど、それはもうプレゼントとかの次元じゃない。だから、いつかはゴミ箱へ行く。ここでいうゴミ箱も比喩。役目を終えるということ。旅先で買ったチョコレ-ト、夏場を眠って過ごすマフラー、貸したままのビニール傘、言葉だってそう。遅かれ早かれ消耗される。それは分かっている。分かっていて、だけど今回のは違う。普通に晴れた午後の空。歩き出すのもなんだか億劫で、スマホを片手に突っ立っていた。たぶん、気づかれなかった。それが自分からのプレゼントであることに。そんな虚しいことはないと思う。皆まで言わなきゃ伝わらないものかな、そういうの。自分なら、たぶん気づく。自分がそうだからって他人に同じことを求めるのは全く正しくないけれど、だけど考えてほしかった、少しくらい。というか、考えてくれていると思ってたんだよな、そのくらいのこと。有体に言えば、期待していた。その程度の期待なら許されると思って、でもダメだったらしい。自分のことだけ。それはそうだろうけれど。失望っていうのかな、こういうの。勝手に期待しておいて、上手くいかなかったら勝手に見損なうって、そんな自分も大概に自分勝手で、それもなんか嫌。嫌だな。プレゼントなんか渡していない。ゴミ箱へも棄てられていない。比喩だし、全部。本当はもっと別のものを渡して、それがもっと別の場所へ棄てられた。気づかれなかったことも、気づいてくれなかったことも、その結果にどこかで失望している自分も、何もかもが嫌。しばらくずっと引きずって。ずるずると。その人の目には、自分のプレゼントが悪意のこもった悪戯か何かにみえたらしい。そう言っていた。あるじゃんか、封筒の中に剃刀を仕込んで、開いた瞬間に指を切るようにするみたいな、そういうの。その類だと思ったらしい。虚しいとかじゃない、もはや。底抜け。その点に関してはちゃんと伝えた、それは誤解。伝えはしたけれど、でも何も伝わっていないのだろうなと思った。そういう言葉が返ってきた。箱を開けるどころか、そもそもゴミ箱から拾い上げることさえしてくれなかった、きっと。言いはしなかった。自分がどういう気持ちでそれを贈ったのかとか、睡眠時間を割いてまで用意して、次の日にはバイトもあったのに、全部が全部勝手にやったことではあるけれど、どうして何も考えてくれないんだろう。棄てる側の気持ちを考えろって、だったら贈った側の気持ちも考えてほしかった。言わない。言っても無駄と思ったから。その程度のことでさえ期待したくないし、失望もしたくない。勝手に線を引く。境界線。すべての人間を好きになることはできない。そんなに優しくないから。もっと嫌わなくて済むようにするだけ。愛していると言う。その人は、自分以外の全員を。その中には自分も含まれているのかな、と思う、そのたびに。いまもまだ期待している。できれば入っていてほしくない。嫌われていたい、心の底から。その程度の救いは、誰にだって与えられていいと思う。

 

 

 

空想の街

 

 手のうちにある感覚にどんな理解を与えることができるかなと考えるのが割と好きで。好きというのは正しくなく、好きとか嫌いとかの領域の外、ほとんど無意識のうちにそういうことをやっている自分がいる。知っている感覚はそれほど多くなくて、歌詞を書いているときなんかによく思う。傍目にどう映るのかは分からないけれど、少なくとも自分の目には全部同じに見えるというか、歌詞で書いていることの話。作詞というものを本格的にやり始めた三年前から今に至るまで、ずっと同じことを書き続けているなという感じがする。状況、文脈、視点、立ち位置、捉え方、向き合い方。細部が少しづつ変化しているだけで、根本的なところでは言いたいことも表したいことも、何一つだって変わっていないような。自分の場合、結局のところ自分の知っているものしか扱うことは出来なくて。だからってわけでもないけれど、たった一つのものを何度もくるくると回してみて、「これはこういう風にもみえるのか」って、そんなことを繰り返すみたいな。あるいは洞窟。迷い込んだ感覚の核、到達点のようなものを何となくで知っていて。「前はこっちの入口だったから、今回はあっちから行ってみようかな」みたいな。どこから入ってどう進んだって、結局は同じ結末に行きつくことを知っていて。だけど、その結末に対する向き合い方というやつは、選んできた道によって決定されるというような気もしていて。肯定、否定。寂しいとか寂しくないとか、大丈夫だとかそうじゃないとか、そういうの。……みたいなことを歌詞を書いているときにはよく思うという話。とはいえ、思い返してみれば自分は普段からそういうことをやっているなという気がして。このブログなんかが正しくそうだけれど、何回言うんだよってくらいに同じようなことを、それでもああだこうだといろんな風に喩えてみて。「自分はこういうことを思っていて、それはたとえばあれに似ている。あるいはこれにも似ている」みたいな。比喩を捏ねくり回すこと自体が好きなわけではないのだけれど、でもやっぱり、自分の持っているものを他人へ伝えるには、その誰かがちゃんと知っている別のものに言い換えることがどうしたって必要で。それを伝える相手がいなくたって、ほしいときにすぐ取り出せるようにしておきたいから。そういうわけで冒頭の話へ戻る。たった一つの理解がほしいのではなくて、というかそれだと意味がないような気がする。一面的に捉えて正しく映るものなんて何一つもないと思っているし、自分は。ああいう風にみえて、こういう風にもみえる、じゃあ次はどんな風にみることができるかな、みたいな。そんな感じの、自分以外の全人類にはどうだっていいことをずっとやっている気がする、この数年くらい。

 

 会話って何だろう。広くコミュニケーションと言ってしまってもいいのだけれど、自分にとってのそれは主に会話のことを指すので、だから今回はそういうことにしておく。会話。たとえば相手の世界を覗き込む行為だと思う。自分たちは一人称視点でしか世界を享受することができないから、その目に映る光景を相手の言葉を借りることで再認識しようとしているのかも。あるいは、辞書に言葉を書き加えていく行為。自分たちは同じように聞こえる全く違う言語を使っているのではという考えが頭の中にあって。だから相手の言葉を自分の辞書に書き足して、記憶して、そうやって理解できる領域を拡大しようとしている? みたいな。これまでに考えた全部がいまも残っていて、というか手に馴染んでいて。ブログを書いているときなんかにはひっきりなしに登場したりする。辞書と翻訳という理解の仕方は、自分の感覚と特に近いたとえ話で、だからよく引っ張り出されては雑に放り投げられがち。それはそうと、別のアプローチもできるような気がずっとしていて、ここ数ヶ月くらい。なので考えていた、会話って何だろう。きっかけは八月。すっかり日の沈んだ、住宅地と呼んでいいのかも分からないような、車が一台通ればそれだけで埋まってしまうくらいの暗い夜道。いま思うと相当に不思議な経験で、顔をあわせるのは四回目くらい。そんな誰かと歩くのは、帰り道なら何度も覚えのある出来事だったけれど、行きはない。よく知らないどころじゃない、ほとんど何も知らない。顔と声はやっと覚えられたかなくらいの、お互いに。いったいどんな話をするのだろうと考えてはいた。とはいえ不思議と会話に困ることはないような予感があって、実際に大して困らなかった。例によって聞いてばかりだったけれど、趣味のこととか最近読んだ漫画のこととか、そういうの。地図をみたり信号に立ち止まったり、歩幅につられて行ったり来たりする会話の途中、だけど明らかに異質なものが挟まった一瞬。その瞬間が自分にとっては鮮烈で、だから今もずっと覚えていて、きっかけらしいきっかけがあるとすればたぶんそれ。そのことをまた最近になって思い出して、だから考えて、そうしていまはこれを書いている。

 その場に立ち会わせているのが二人だけか、あるいはそれより多いのか。そういう基準線で会話というものをざっくり区別してみる。なぜかというと、二人きりで話しているときと大人数で話しているときとでは、取り出す言葉の種類が変わるような気がするから、感覚的に。種類というか、色味? たとえばセピア色という、比喩表現においては使い古されたそれがあって。そのような色味を帯びた表現が多数の場で持ち出されるとは、あんまり考えられない。場合によるというのはそれはそう。卒業式だとかお葬式だとか。だけど日常的な場面で、たとえば飲み会なんかでそういった言葉が出てくるとはあまり思えなくて。そういった言葉に触れることは、恐らくは少人数の集まる場でしか叶わない。逆に、大人数の場でしか触れられない言葉もあって、当然ながら。みたいなことを踏まえた上で、自分が考えていたのは前者、一対一で行われる会話のほうについて。自分にとってのコミュニケーションといえばどちらかというとそちらがメインで、だからって多数を蔑ろにしているというわけではないけれど。そういうことで考えてみた。結論から言うと、自分にとって他者との会話というものは街を歩く(これは厳密でないけれど)みたいな感覚に近い、という気がしている。と言われても、人によってはあんまりピンとこないかもなと思っていて、だとすればそれは会話における自分の立ち位置が関係している、たぶん。自分はどうしたって聞き手側にいたい気持ちがあるので、実際の会話でもそのようにしていて。だからこそこんな風に感じるのかもな、という気がしていて。なので、以降は聞き手としての会話が主体と思って読んでほしい。話し手に回ることが多い人からは、また違ったものがみえているのかもしれないから、それはそれで知ってみたい、いつかのうちに。

 

 会話が始まった瞬間に、自分はどこかの街の入り口にいる。広場でもいい。RPG のそれを思い浮かべてもらえたらいい。特にポケモン、自分はダイパを想像している。分かりやすいように街と言ったけれど、会話が始まった時点で、そこが本当に街なのかどうかは分からない。とにかく広い場所に立っていて、初対面であれば、そこに建築物の類はほとんど何もない。人がいる、自分以外に、会話相手。目の前に立っている気がする、隣でもいい。隣にいるように感じるのは、歩きながら話すときのイメージに引っ張られているだけだと思うから、あまり本質的じゃない。いま自分はどこにいるんだろうなと思いながら、もう一人と一緒に歩き始める。歩きながら、相手は色々と説明をしてくれる。道案内。ここがどういう場所で、どんな建物があって、どんな景色がみえているのか。それを聞いているうちに、段々と自分の目にもそういうものがみえ始めるみたいな、そういう感覚。霧が晴れていくとかではなくて、たしかに何もなかったはずなのに「ああ、そこにはこういうのがあるんだよ」と言われた途端に、振り返ってみるとたしかに其処に其れが在る、みたいな。そういう感覚。たとえば。たとえば、部室がある。初めの例から街っぽくないけれど、それは街という言葉のイメージが多分違うから。渋谷とか新宿とかを想像しているのではなく、いや、渋谷のゴチャゴチャ感は近いかもだけど。なんていうか、あまり現実に即したものを考えすぎないほうがよくて。夢でみるような、空想の。そういうものを考えている。話を戻すか。部室。街に部室があることは珍しくないと思う。生徒会、野球、軽音、サッカー。会話相手が中高時代の部活の話をする。ああいうことをした、こういうことをした。その場所にはこんな感じの人たちがいて、自分はその中でもこういう役回りをしていて。みたいな。実際に部室に類するものがあったのか、話題に上がらないこともままあるけれど、だいたい勝手に室内をイメージしている。イメージして、それが街に現れる。距離感によって場所が変わる。その人にとってはもう過去のものなのだという印象があれば外れのほうに、そうでなければより中心近く。細部はよく分からない建物がとつぜん現れて、「ああ、そこに部室があるんだな」と思ったりする。他の例。建築物に限った話じゃなくて、たとえば季節。暑いのか寒いのか。温度感。たとえば夏が好きという人の街は、どうしても勝手に夏の空気を想像してしまう。けれど、たとえばさっきの部室をもう一度取り上げるとして、部活の話をするときによく出てくる季節が冬だったなら、部室のある場所だけがとりあえず冬になる。寒そうだな、と思いながら、実際に自分がそこにいるわけではないから、別に何ということもないのだけれど。他には、海がある人もいた。沿岸を何時間も歩いたと言っていた。すると「この人の街には海があるんだ」という気持ちになり、向こうのほうに水平線がみえ始める。あるいは、いま歩いているその場所がそのまま海になる。どちらもある。これもやっぱり相手の距離感による。その記憶とどれくらいの距離を保っているのか。相手の語気とか口調とか、言葉の断片に滲む情報からこっちで勝手に想像する。それに従って、海をみつける。みつけた。そういうことがあった、たしかに。こんな感じに、会話を重ねて、そのたびに街のどこかに何かが増えていくみたいな。何があったかな。実家の自室、高校の校舎、最寄りの駅、よく通る道、この辺りは誰の街にだってある気がする。神社、大きめの山、行きつけの喫茶店、駅のホーム、図書館、夜の高速道路、予備校、港、公園、水族館、自動販売機。こういうのは人によってあったりなかったりする。早朝の御茶ノ水とか夜中の祇園四条とか、固有的な地域の破片が、バグったゲーム画面よろしく埋め込まれていることもある。なんだか適当だ、その辺は。とにかく、会話相手の話に出てくるものを詰め込んだ街。そういうのがある気がする、自分の頭の中に。

 初対面でなくとも、あまりちゃんと話したことのない相手であれば、だからその街はほとんど更地。何にもない。あっちにはあれがある、こっちにはこれがある。そういうのを重ねていって、要するに会話の回数を増やしていって、そうやって街ができる。やろうと思えば自分ひとりで歩くことだってできる、その街の中を。たとえば部室に行ってみる、ひとりで、教わった通りの道を歩きながら。扉の前に到着する。なんだか変な感じもする。扉の色は知らない。そもそも校舎内にあるのか、そうでないのかも知らないし。でもまあ、街の中にはたしかに在って、その場所だって一度は聞いたはずなのだから、あとは道さえ覚えていればいつだって行けるはず。扉に手を伸ばしてみて、思う。入れない。正しくは、入れることもあるけれど入れないこともある。躊躇っているとかではない。たとえば部活の話を聞いて、なんとなく部室をイメージする。その内側でどのようなことが行われていたのかを聞いていれば、たぶんだけれど入ることができる、たぶん。でも、たとえばその会話相手にとって部活というものが遠くにあったとして、だったら自分はその中へは入れない。なんとなく期待してノブを回してはみるけれど、がちゃん、と乾いた音がするだけ。そこで思う。そういえば鍵は貰ってないな、みたいな。鍵。そうなると、まあ引き返すしかない。蹴破ったって仕方がないから。帰り道を歩きながら考える。次に話したとき、案内を頼めば部屋の中へまで連れていってくれるだろうか? だって、それはそう。そこは相手の街、他人の場所。入れない場所があるなら、入れてもらえばいいだけの話。相手はきっと鍵の形を知っている、もう失くしてしまっているかもしれないけれど、それならそれでいい。中身が気になるなら直接訊いてみればいい、実際に。そういうことを考えるだけ考えて、でも大体の場合、自分は実行に移さない。理由は色々とあるけれど、何より思うのは、相手が開かないというなら開く必要がないんだろうということ、その扉が。それに、何度も歩いているうちに自ずと入れてくれるかもしれないし、あるいは合鍵を渡してくれるかもしれない。知らない。知らないし、そんな未来を期待しているわけでもないけれど、でもそういうことにする。フィルター。誰にだって分かるようにかけてくれている鍵を、つまらない好奇心ひとつで壊してしまうのはきっとよくないこと。

 そんな風に考えてみて、このブログの捉え方も若干変わった。変わったというか、また別の視点を獲得したというのが正しい。というのも、恐らく自分は街を作っている、ここに。他人からのアクセス。自覚的に用いた言葉ではなかったけれど、でも、だからこそ自分の感覚に近いと思う。誰かと話をして、その誰かと一緒に街を歩いて。あの場所には海がある、ここでは星がみえる、その先は途端に寒くなるから気をつけて。手を引かれながら、自分の街にもそういうものがあった気がする、と思う。思って、実際に置いている、こんな風に。このブログは、だから案内図のようなものなのかもしれない。あるいは看板。ここはこういう場所です、少し向こうに行くとあれがあります。そんな感じで。鍵が掛かっているかどうかも、実際に行ってみれば分かる、たぶん。とはいえ、地図に載っている場所はだいたい掛けていないことが多いから、空き巣されまくりかもしれない。ブログを読みましたと言われて、なんだか気恥しいような感じがするのも、なんとなくわかる。自分が勝手に作った部屋の中に、気づいたら誰かが立っていたみたいな。誰かに来てほしくて作ったくせに、来たら来たで変な感じがするというのも随分勝手な話だけれど、でもそっちのほうがやりやすいなとは思う。鍵は開いているとはいえ、部屋の中にわざわざ入ってきてくれるなら、少しは話をしてもいいのかなと思うから。分かりやすく切り取られた空間。部屋はそういうもの。そういうのを、たぶん作りまくっている、このブログのいたるところに。だから、これが自分の街。他人の街は頭の中にある。あるいは、会話の中にある。ひとりでも歩くことができる、覚えているから。だけど、ふたりで歩いているほうが楽しい気はする、どうせなら。「この間、あそこにケーキ屋さんができたんだ」みたいに、街のどこかへ建物が増えていくその過程自体も、どうせなら知っておきたいと思うから。

 

 RPG によくある、序盤は取れない宝箱。八月のきっかけ。ここまでを言語化してようやく、あのときに覚えた感覚の正体はこれだったんだな、という気がした。ほとんど何も知らない他人の街。目につくものといえば大学の校舎くらいで、あとは更地。歩きながら話をして、話しながら街を歩く。空想の街。あれがある、これがある。連れられながら眺めながら、そうしてふと見つけた取れない宝箱。建物と建物の隙間に、ほんの一瞬だけ。いったい何が入っているんだろう、と好奇心。鍵と同じ。蹴破ったりはしない。ただ、その一瞬をいまでもなんとなく覚えている。それだけの話。

 

 

 

20220102

 

 一周回って書けるだけ書いてみるかという気持ちになっている、逆に。昨年の六月は一時間という縛りをつけてキーボードを叩いていた。一方でいまは三が日。普通に何の予定もない。普段はなんだかんだ時計を気にしてやめてしまうから、たまにはそういうのがあっていいかもしれない。なのでそうしてみる。どこまで書けるかな。

 

 優しいだけの人なんてどこにもいないと思う。どこかにはいるのかもしれないし、自分の過ごしてきた時間のどこかにはいたのかもしれないけれど、とりあえず自分はそう思っている。優しいだけの人なんていない。もちろんのこと、自分自身も含めて。ところで自分はどちらかといえば性善説の立場を取っている。感覚的には性善説に二票、性悪説に〇票、白票が九八票くらいという割合。本当に「どちらかといえば」でしかない。両者のほとんど中点にいる。とはいえ、そうであっても性善説寄りではある、どちらかといえば。優しいだけの人はいない。性善説。この二つは矛盾しているように思われるのかな、と思ったりもする。自分の中ではそれなりにちゃんとまとまっている感覚なのだけれど、でも、どうだろうな。性善説については本当にどうだってよくて、だって自分は実質的に九八票の白と同じ立場を取っているから。人類に備わったイデアが何であるかとか、そういうのはあんまり興味の中心にない。なんにせよ自分が関係を持つことになる他人は全員生きていて、思想の上にいる存在なんかではないから。それ自体を考察の対象とすることに意味がないとは全く思わないし、というより大いにあるようと思う。仮に自分がそういったことに対して意味を見出さない人間だったとして、であればこんな場所は要らないわけで。そうでないからそうでない、という気がする。実際は分かんないけど、言葉でだったらどうだって言えるし。それはまあいいとして、話を戻すか。性善説についてはそう考えるということは、だからもう一方の、優しいだけの人なんていない、のほうに関しては思うところが色々とあるという話になる。てにをは大事。結局は昨日の話と同じようなことでもあるのだけれど、でも長くなってしまう前に結論だけざっと要約しておくなら。優しい人はたくさんいる。優しくない人もたくさんいる。ただ、優しいだけの人はどこにもいない。これに尽きる。

 自分以外のものを通さないと自分自身を理解することができない。つい最近にそういうことを書いた。これは本当にそう思っているし、なんなら数年前からずっと同じことを書き続けている気がする。相対化。自分はかなりのものを相対的に考える癖があると思う、事実がどうであるかはさておいて。辞書通りの意味じゃないから、この文章を読んでいる九割九分の人間を誤解させている自信がそれなりにある。後でまた触れるかもしれない(触れないかもしれない)けれど、直近のものであれば「相対」というキーワードでブログ内検索をかけるといくつか読むことができるので、気になった人がもしいればそちらへどうぞ。気にせず読み進めてもらって何の問題もない。話を戻すと、とかく物事を相対的に考える癖が自分にはあるように思う。鏡。鏡という比喩はとても馴染んでいるように思う。自分の感覚と、ものすごく近いところにある、本当に近くに。人の振り見て我が振り直せという言葉もあって、これとは少し違う。いや、実際には全然違くて、このことわざは自分の持っている考え方を適用した特殊例のうちの一つというか、だから鏡という比喩はもっと大きな枠組みとして存在するのだけれど。人と会う。会って話す。会わなくても話せるけども、今の時代。なんにせよ話してみて、思うこととして自分と他人とは全く違う。当たり前。どっちが優れているとか、そういう風に考えることは、少なくともいまの自分にはない。競わせるものではないし、否定する必要もないと思うから。他人の考えに触れて、何をするかというとこれは辞書の話。ひとまず自分の言葉で翻訳しようとしてみる。自分の中にもそういった類の感覚はあるだろうかと考えてみる。場合によってあったりなかったりするけれど、とりあえず探してみる。そういった一連の流れのなかで「鏡」というものを思い出したりする。自分はいまこの相手のことを鏡にして自分をみているんだな、と思ったりする。相対的? 自分の感覚と相手の感覚とを照らしてみて、違っている部分がどこなのかを考えたり。違っていたからってどうということはない。合っていたからといってどうということもないけれど。そういうことを考える。自分自身を理解するという表現は、自分の中ではそういった行為のことを指している。だから、自分以外の存在を通さないと実行できない。これも昔に書いた、迷路の話。知らなくて問題ない。表現が多少変わっても、それでも同じことを繰り返し書いているから、「以前はこういう言葉を使ったな」と思って、だからそう書いているだけ。

 優しいだけの人はいない。いないと思う。思っている、少なくとも自分は。二〇と数年を生きてきて、自身をただの善人と自称する人と知り会ったことは何度もあるけれど、そうと思ったことは一度もない。本当に一度も。「優しいね」と言われて、だけどやっぱり思うこととして、優しいって何なんだろう? これも何度も書いたことではある。自分の中での結論はちゃんと出ていて、それについては後述するとして。結論が決まっているから、だからこれ以上考えても発展性はおよそ期待できないのだけれど、だからといって考えることを止めることもできない。自動的だし、その辺りは。それに、もしかしたらもっと新しい何かに気づくことがあるかもしれないし、実際、何度もあった、そういうことは。自分はこうだと思っていたものが、他人の何気ない一言で全く別の角度から捉えられるようになったり。アップデートの余白。思考を続けないことは、つまりそれを諦めてしまうことと同じだと思うから、だから別に自動的でなくたって止めたりはしない。たとえば、と考えてみる。たとえば、ひどく参っている誰かが身近にいたとして、その誰かの相談に付き合うことがあるいは優しさの証左になる? なるのかな。そういう文脈で「優しい」と言われたことが何度かあり、そのたびに「別に優しくはないけどな」と自分は思う。実際にそうだから。そもそも、話を聞くくらいのことならアヒルの人形にだってできる。ラバーダッキング。まあ、どのくらい真剣に耳を傾けるかという違いはあるだろうけれど、自分だって別にそれほど真面目に聞いているわけじゃない。聞きはする、たしかに。記憶しもする、たしかに。でもだけどだからそれだって、別に慈善事業ってわけじゃないと思う。というのも、だって悩み相談に付き合ったら分かりやすく好感度を稼げるじゃん、と考えている自分がやっぱりいるから。鏡。相手の姿を介して自分の内側を覗いてみて、たしかにあるんだよな、そういう感覚が。面倒だなと思うこともある、正直。自分の時間を使ってまでやることなのかなと思ったりもする。心の奥底だろうと片隅だろうと規模は問わず、ともかくそういう風に考える自分自身を自分は知っていて、というかみえていて、だから優しくはないけどなと思う。そういう自分のことを知っているので、他人を前にしても同じようなことを考えている。優しいだけの人。失礼な言葉だなと思う、あくまで自分の価値観に照らせばの話。相手がどういうことを考えて自分に時間を割いているのかとか、そういったことを少し考えてみると、優しいだけなんてことはあり得ないという結論へ自分はどうしても辿り着いてしまう。自分がそうだから。優しいだけに思えるなら、それは相手のことを何も考えていないかよく知らないかのどちらか、これは自戒。疑っている。そうしないと失礼だと思っている、少なくとも自分は。自分に向き合ってくれる誰かが実は優しいだけの人だなんて、それはきっと都合のいい幻想だと思う。思っている。

 ところで、そういった評価は第三者が下すものだったりもする。「優しいね」と言われて「優しくはないけどな」と思いもするし、それをそのまま口にしたりもするけれど、だからってそう言われたことを忘れたりはしないし、その言葉を否定したいという気持ちもないし、嬉しいと思いもする。矛盾してる? 自分の中ではしていない。自分がどう考えているかと他人がどう考えているかは全くの別物だと思う。自分の価値観に沿えば自分は優しくない。でも相手の価値観に沿えば自分は優しいらしい。定義の問題。辞書が違う。だから嬉しくなる、普通に。自分で自分のことを性格が良くはないと称する人を知っている。数人いる。12 月、そのひとりと会う機会があって、いろんなエピソードを聞いたりもして、だけど自分は「そんなことないと思うけどな」と思っていた。言いはしなかったけれど。地雷原。優しいという言葉の定義の問題。自分にとっての主観的な優しさは、地雷を踏み抜かない能力だと思う。正解を選び続ける能力と言ってもいいし、もっと単純に手っ取り早く信用を得る能力と言ってもいい。自分が何をすれば相手から「優しい」という評価を貰えるのかを見抜く能力。それを実行に移すかどうかは別の話で、とりあえずは地雷原を五体満足で突っ切ることのできる能力、それが優しさの正体なんじゃないかと思っている。あくまで主観的な、自分で自分を指さしてみたときのそれについての感覚。逆に言い換えることもできる。地雷を踏み抜かない能力は、その気になればすべての地雷を踏み抜くことのできる能力に等価だし。正解を選び続けられる人は、やろうと思えば不正解を選び続けることだってできる、意図的に。誰かに対して優しくできる人は、だから同じくらいに誰かを傷つけることのできる人なんだと思っている、少なくとも自分は。何をすれば相手を傷つけることができるかをちゃんと知っていて、壊し方も分かっていて、だから相手がそうならないように振舞うことだってできる。ちょっと性善説がすぎるかな。だけど、そう思っている、これは本気で。自分のこういうところがダメで、ああいうのが良くなくて、そういうことはちゃんと分かっていて、そういう風にその誰かは言っていた。性格が悪いとは思わなかった、別に。自分の目から見る限り、その誰かは自分の欠点をそれなりに理解した上で、うまく乗りこなせているようだったから。だから要は、さっきの地雷原の話。地雷の場所を知っていて、分かっていて、それを避けながら歩こうとしている。そういう風にみえる。みえた。本当のところは何も知らない、第三者の意見。第三者の自分は「そんなことないと思うけどな」と思った。自分の欠点を開き直るのとは違う。そういう人もたくさん知っているけれど、少なくともその誰かはそうではなかった、自分にとっては。純粋。そういった生き方を、自分はとても綺麗なものと思う。

 だれか一人の内側だけに優しさというもの(それがつまりは『主観的な』という言葉の意味)があるとするなら、それは悪意を言い換えたものに過ぎないという風に理解しているという話。言葉で誰かを傷つけたことがあって、何度も、数えきれないくらい。その一瞬をいまでも覚えていて、だから地雷の場所は何となくで知っていて。何度も踏み抜きまくっているうちに少しずつそれを避けられるようになって、一方で自分が地雷を踏み抜きまくっていたことを知らない人からは、それがだから優しさみたいにみえるんじゃないのかという、そういう話。傘。雨に打たれている誰かを守るための傘を偶然持っていたとして、その誰かにとってのそれは救いに思えるかもしれないけれど、でももしかしたら駅だとかコンビニだとかで盗んできた傘なのかもしれないし。手。転んだ誰かに差し伸べられた手が、数秒前には別の誰かを殴りつけていたかもしれないし。関与できない場所。ただ知らないというだけ。隠れている月の裏側。自分の中に優しさと呼べるものがあるなら、それはだからそういうものではないかという話。これまでの人生で数えきれないほどの地雷を散々に踏み抜きまくっていて、満身創痍。反省もする。だから新しく出会う誰かの地雷を踏む確率が低くなっている。「優しくはないけどな」と思う、だから。踏み抜こうと思えばいつだって踏み抜けるし、傷つけようと思えばいつだって傷つけられる。そうしないのはそうする意味が一つもないから。悪意は普通にある。頭の中をよぎっている、いつだって。

 長々と書いてみて、でも優しさってそれだけじゃないんだよな、と思ったりする。主観と客観、正しい用語ではないだろうけれど。誰かと誰かの間にある優しさ。どちらかといえばそちらのほうが本質と思っているけれど、自分は。受け手の問題。誰かを思い切り殴りつけた手で、別の誰かを助けることは果たして悪いことなのかなと思う。思わない、あんまり。できれば誰も殴らないほうがいいとは思うけれど、それは助けを否定する根拠にはならない。受け手からみるとそれは疑いようのない救いで、だったらそれでいいのではと思う。偽善。動機が不純である行為には意味が宿らないと叫ぶ人がいる。理解はできる。間違っているとは思わない。ところで、正しいとも思わない。助かっている人がいるということは事実だし。主観と客観。だから、優しいという言葉に対する理解は、自分の中では異なる二つによって定義されていて。自分ひとりだけのものを重要視するのなら、確かに動機が不純なら意味がないと思う。それは自分が「優しくはないけどな」と思うのと、それほど違わないんじゃないかと思う。一方、自分はそれでも誰かに「優しい」と言われると嬉しく思うし、それはもう一つの客観的なものとして定義された優しさも知っているから。受け手がそう思うなら、そうなんだと思う。自分がどう思っていようが。だからどっちが正しいとか間違っているとかではない、自分にとっては。向き合った相手がその人自身のことをどれほど悪く言っていても、自分が優しいと思えばその誰かは自分にとって優しい人。優しいだけではないけれど、優しい人。そういう風に理解しておきたい、できることなら。

 

 無駄に何かを書きたい気分が高まっている気がする、ここ最近。色んな人と話をする機会が一二月に多かったからかもなと思う。分からないけれど、でもたぶんそう。鏡の過剰供給。翻って自分自身について考えるということが何かと多かったから。毎日更新するのは、まあ普通に無理。でもまあ、書けるだけ書こうかなという気分ではある。忘れてしまわないうちに残しておきたい、教えてもらった様々を。

 

 

20220101

 

「愛がある」とか何だとか、最近になってそんな風のことを言われる機会が謎に増えて、そのたびに思う、愛って何? 気持ちに名前を付けて飾っておくことは割と得意なほうだと思う。嬉しい、楽しい、寂しい、悲しい。羨望も嫉妬もよく知っているし、独占欲やシャーデンフロイデだってわざわざ探し回らなくたっていい程度には近いところに隠している。好きも嫌いも善意も悪意も、ちゃんと一式が自分の中に揃っていて、元々自分が持っていたものだったり、あるいは他人から受け取ったものだったり、その辺りはまちまちだけれど、だけどたしかに手元にある。でも、これが自分にとっての愛であると断じてしまってもいいような感情は、少なくとも身体の内側には存在しない。だからというわけでもないけれど、とりあえずその件については決まってこう返す、「愛なんて無いですよ」。照れ隠しとかじゃなく、本気でそう言っている。だって実際にみつけられないから。

 

 ちょっと前、人にモーニングコールをお願いされまくっていた時期があって、ほとんど毎日。自分は自分でバイトだとか何だとかがあったりするので、その全部にきちんと対応できたわけではないのだけれど、それでもなるだけ要望通りに動けるようにはしていた。お互いに生活習慣がバグりまくっているので、向こうが起床しなければならない時間にこっちは眠っているというサイクルで対峙することも結構数あり、そういうときにはこっち側で睡眠時間を動かしたり、あるいは少し短めに眠ったりで調整して何とかしていた。……こちらが正しいリズムで生活できているならまだしも、自分も大概最悪の生活習慣を構築しているわけで。無理をしていたという自覚はない(本当に全くない)けれど、だけど第三者的には理解不能なラインの行動ではあるのかもなと思うことはあった、割と何度も(ただ、自分にとってはそれなりに理に適っていた)。たとえばそれらを指して、それは愛の顕れでは、と指摘されたとして、というか指摘されたことが実際にあって、何度か。でも自分の感覚としては「愛なんて無いですよ」という答えになる、そうであっても。第一に、こちら側にもそれなりのメリットがあることくらい誰だって気づくはず。普通に考えて、他人の役に立つよう振舞っておけばある程度の好感度を稼ぐことができる。そして、好感度の類はいくら稼いだって困ることがない。むしろ、生きていく上ではあればあるほどいい。まあ都合のいいように使い捨てられるという可能性もなくはないけれど、流石に相手の人間性くらいは判断できる。他人のことを一切考慮しないような人であれば、自分はまず頼まれた時点で断っている。第二に、相手は相手でそこそこ大変そうな感じだったというのがある。本当に何のアレもない人間にモーニングコールを頼まれていたとしたら、まあ自分は途中で放り出していたか、あるいはそもそも受けていないだろうけれど、今回に限って言えば、相手には相手なりののっぴきならない事情があり、だから自分の認識としてはそれを手助けするような、そんな感覚。向こうは向こうで慌ただしい毎日を送っているようで、自分ひとりの時間と体力を多少使うくらいのことである程度をうまく回せるというのなら、それくらいの手伝いはしてもいい。……という風に、とりあえずは二通りの考え方が自分の中にあって、どちらもちゃんとある。右手と左手に、それぞれ一つずつ。ここで問題になるのは、そのどちらが本心により近いのかということ。前者は明らかに人間関係を打算的に捉えている。その相手だけでなく、周囲の人間へも遠回しに良い人アピができるし、コスパが見合っているかは別の話としてかなりお得だよねとは思う。みたいな。自分はそのような考え方を、つまり人付き合いを損得勘定で済ませることを是としないけれど、けれどそういう風に思えるのは、他でもない自分自身の中にそういった感覚が息衝いているから。知らなければ嫌う必要もない。それでも嫌うのは知っているから。そういうこと。後者は、恐らくは純粋に良い人だと思う。自己犠牲。献身的。そういう言葉が容易に思いつく、事実がどうであれ。どっちも本当だと思う。右手も左手も、どちらにも何かを握りしめているような感覚が在って、だいたいの形も大きさも温度も分かっている。だから確かめるべきはその正体で、結局、どちらが本当なんだろう? 後者が本心に近いのなら、それは愛でもいいのかもしれないと思う。いわゆる無償の愛? 本当の意味での無償ではないにせよ、大きな見返りを求めないという点ではそうかもしれない。そういうことにしてしまえば「自分は良い人間なんだなあ」と思って満足してそれで終わりだけれど、本当にそうなのかなと思う、どうしても。見返りを求めないなんて、そんなことはないはず。打算的に動くことを嫌っていても、知ってしまっているから、だから頭の片隅にはそういう考えが転がっていて。それをきちんと分離できているって、いったい何をどうすれば確かめられるんだろう。少なくとも、自分にはその辺りの判断がつかない。というか、そもそもこの比喩が自分の感覚と違っている。右手と左手の話。こう言ってしまうとあたかもその二つが完全に二分されているような印象を受ける。でもそうではなくて、感覚としてそれは一体として自分の中に転がっている気がする。それを手に取って、くるくる回してみて、「これはどちらなんだろう?」って言っているみたいな、要は視点の問題? 角度、距離、焦点の位置。そんな気がしている。判断はできない。たぶんどちらも正しくないし、そして間違ってもいないと思う。そういうことにしている。だからこれを愛だとは呼べないし、呼びたくもないし、呼ぶつもりもない。誤魔化している気がする。なんていうか、そうやって他人にとって良いように振舞おうとする自分のことを。良いとか悪いとかではなく、意味のありすぎる嘘だという話。半年くらい前にも書いた気がする、こういうこと。判断がつかないものってたくさんあるよねって、そういうの。グラデーション。どっちかには決めたくないし、決まらなくていいと思う、一生。自分は正しいだけの人間だとか、そんな勘違いはしたくないし。

 

 関係なくはない話。モーニングコールに限らなくても、こういうことはよく考える。たとえば、焼き肉の食べ放題なんかへ行ったとき、自分はひたすら肉を焼いて他人の皿へ次々に入れまくることが好きだったりする。だって、より多く食べられたほうが基本的には得じゃんかと思うから。自分が焼き係に徹することで周囲がその辺りのことを存分に楽しめるなら、それはまあそれでいいかなとも思うから。一方で、本当に? とも思う。そういう行動をとれば、周囲の人から多少なりとも感謝してもらえるという結果は考えれば、というかわざわざ考えずとも分かりきっているくらいに当たり前なことで。肉を次々に焼いているというタイミングでは流石にもう気づいている、そういう感覚を思い出して比べている自分自身に。そのたびに、どっちが本心なんだろうな、と思ったりする。喜んでほしいのはそう。感謝されたがりなのも、まあそうだと思う。感謝されて気分が悪くなるということはないから、少なくとも自分は。というか普通に嬉しいし、だからまあそういうのもある、ちゃんと。どっちもある。じゃあどっち? 分からないなーと思う。暗い足元をライトで照らして、溜まった洗い物を片付けて、これはどっち? 助けたいからそうしたのか、感謝されたいからそうしたのか。どっちにせよ相手を助けることにはなるし、どっちにせよ感謝はされるし、だから本当のことを言えばそんなのはどうだっていいことなのだけれど、だけど、どうしても考えてしまうよな。自分のためなのか、相手のためなのか。本当にどうだっていいんだけど、そんなこと。愛がどうとかって話ではなくて、……というかそもそもの話、何度か言われたから考えていたというだけで、愛とかいう概念に近いものを自分の中で探すのなら、こんな例はまず絶対に出てこないんだけど。有るとか無いとかじゃない。そもそも違う、ジャンルが。とはいえ、だからそのこととは全然関係のないところでひっかかっていることとして、たとえばこういうのがあったなって、そういう話。

 

 

 

20211231

 

 これは自覚している癖として、自分自身に近すぎるものを出力しようとするとき、何かしらの歪みがどこかしらで発生しがち。歌詞だと、たとえば一人称が変わったりする。書かれている言葉があまりにも自分と近いから、分かりやすく自分でない第三者を立てようとしているのかもしれない。文章だと、たとえば所謂です・ます調ではなくなる傾向にある。いまがそう。逆は必ずしも成立しなくて、つまり所謂です・ます調で書かれてある内容が自分の感覚から遠く離れたところにあるということは、まあそれほどない。というより、高々数時間程度の作業とはいえ、こうして長々と文章へ起こす手間をかけてまで出力しているものが自分自身からかけ離れているだなんて、そんなはずはおおよそなくて。であれば、いったい何が基準線になっているのかという話だけれど、思うにそういったセンサーは意識下なり無意識下なりにたくさんあるはずで、なかでもひときわ強く自覚しているものを一つ挙げるとすれば、それは他人に読ませる意思があるか否かだと思う。ブログへアップロードする用の文章を書いているとき、基本的に自分はずっと壁へ向かって喋っているという感覚で、実際に向き合っているのは PC だけれど。反応の類は別に求めていなくて、そういう意味で壁。ただなんていうか、壁に向かって一人で話していると自分の声だけはしっかりと反射して、これは比喩。ブログを続けている理由は前回あたりの記事で書いていた通りだけれど、感情墓地とかいうタイトルからも何となく察せられるように、ここに並んでいるだいたいの文章は当時、あるいは未来の自分へ宛てた手紙という側面もあったりする。なんにせよ忘れてしまいたくなくて、車窓とか公園とか何だとか、全部。ところで言葉には呪いのような側面があって、一度でも形にしてしまったものはどうしたって頭に残りがち。人にも内容にも依るだろうけれど、たとえば咄嗟に吐いてしまった嘘や選び違えた言葉をずっと覚えていたりする。言葉という媒体が持つそういった性質を経験則的になんとなく知っていて、だから逆にブログを続けているというのもある、忘れたくないから。それは、だからたとえばスマホのメモ帳だとか、あるいは実物の日記帳だとか、そういったものに書き記すでも全く問題はなくて、それはそれとして自分は周りの人間にも文章を書くという行為に触れてほしい……というのは前回書いたとおりだけれど、なのでブログという形で継続している。「自分の中にこういうものがあった」ということを自分も他人も含めた全員が閲覧できるように残しておくための場所がここで、ここで冒頭の話題へ戻るとすると、です・ます調で書かれたものはどちらかといえば後者、他人からのアクセススポットという役割を念頭に置いている場合が多い。ここでいう『他人』は不特定多数。逆に言えば、特定少数の人間にしか伝わらないようなことだとか、そもそも誰に読まれたいでもないもの、それがたとえば自分自身に近すぎるものだったりすることがあるという話だけれど、そういった文章を書いている自覚があるときにはこんな風の文体になりがちという自覚がある。直近だと二日前。もっと前だと八月。まあ、もともとここはそういう場所だったというのがあって、当時の後遺症のようなものかもしれない。数年前はこういう文体で書くことのほうがずっと多かった。

 

 彼はそれなりに離れた場所にいて、少なくとも関西圏にはいない。なので滅多に会えず、実際、年に片手で事足りる回数しか会っていない。八月の一件以降に会うのは昨日が初めてで、当日に顔をあわせるまでその一日に何をする予定なのかは一切知らなかった。たったの数回しか会えないのに、自分たちはいつもそう。気楽でいい、少なくとも自分は。彼は彼なりに行きたい場所があったらしく、地図をみせてもらうとサークルの BOX のすぐ近くが映されていて笑った。地図なんかなくても案内できる、それくらいには知っている。歩き始めて、目的地へ着くまでの間はずっと変な感覚だった。自分のプライベートとものすごく近い空間に彼がいることがなんだか不思議で、もっとずっと遠く、それはもう恒星と同じくらい離れた場所にいる人と思っていたから。自分は寺社仏閣の類に然程興味がなく、興味がないというのはマイナスの意味ではなくて、この世界にたくさんある様々と同列に並んでいるということ、ニュートラル。行きたい場所だとか何だとか、そもそもの話、その類の感覚が自分にはあんまりない。テーマパークも知らない駅も裏路地も、自分の目には同じレイヤーで映っている。一方で彼はそうでもないらしいから、それに付き合うのもまたいつものこと。昨日のメインは別にあったのだろうけれど、ほとんどずっと墓地を歩いていた。最初に来るのが墓地なのか、と思った。思いながら、色々と考えた。墓地を歩く機会なんて日常の中には当然なくて、毎年のお墓参りにちゃんと付き合っていればまた別の話だろうけれど、少なくとも自分は小学生あたりの記憶を最後に、それ以降、墓地の真ん中へ立ち入ったことはないように思えた。しばらく進んだ先には恐らくは家族であろう子連れの男女がいて、あんまりまじまじとみるものでもないなと視線を他にやった。反対側には専門書で見慣れたフラクトゥールの墓石があって、すこし考えれば想像できることではあるけれど新鮮だった。そういうのもあるらしい。ふと気づいたら彼がいなくて、あの方向音痴が帰ってこられるのかと心配しつつ探し回ったり。明らかに天然のものではない、きっと誰かに手向けられるはずだった花の残骸が落ちていて、どうすればいいんだろうと困ったりもした。所狭しと並んでいるわけでもない、それでいて信じられない数の墓石に囲まれた道を歩いたり立ち止まったり。これまでを生きてきて一度も知り合いになったことのない苗字のそれがあったり、名前らしい名前はどこにも書かれていないそれもあったり。立ち止まって、考えて、また歩き始めて。車窓と同じ。窓の向こうにはたくさんの人がいて、誰かへ電話をかけていたり、踏切に立ち止まっていたり、ほんの一瞬で通り過ぎていく顔も名前も知らない人。その更に向こうにはたくさんの民家が並んでいて、つまり家庭と生活があって、それもまた自分の知らない世界。湧き上がる感覚には寂寥感という名前をつけている、それ以外の表現を知らないから適当に。交わりようのない相手。お墓の中にいるのであれば尚のことそう。そんな誰かの痕跡が見渡す限りの一面に広がっていて、それがつまりは寂寥。死にたくないとも長く生きていたいとも人並みには思う。でも、その類とは全く違う、遠く離れたところに落ちている、それでもよく知っている感覚。二日前、ちょうどそういう話をしたばかりだったから、余計に強く来たんだと思う。他人にとって価値のあるものを自分もそうと思いたい、みたいな話。そもそもの話、出会うことのできる人間の数が高々有限で、そんなの誰だって知っていること。自分の関与し得ないところでは民家や墓石と同じ数だけの人が生きていて、死んでいて、それもまた誰だって知っていること。どうということではないし、どうしようもないことでもあるけれど、その感覚を思い出すたびに、できることなら知りたかったな、と思いもする。思うだけではあるけれど、そうであってもそう思う。思った。2021 年 12 月。これまでの白紙を一気に埋めていくみたいに、入れ替わり立ち代わり、色んな人と会って話して知りあって。自転車を挟んで歩いたり、河沿いで星をみたり、クリスマスプレゼントを選んだり。数冊の本が未だに積まれたままだけれど、フルーツ大福は回収できた。その辺りのスーパーで適当に総菜を買い漁って、お酒を飲みながらどうでもいい話に耽る夜だってきっと今にしかない。冬が好きで、夜が好きで、歩くのが好きで。同じことを何度も教え合って、前にも聞いた気がするなと思ったり。実は兄弟がいるだとか、この店のパンが好きだとか、些細なきっかけで新しい一面を知ったり。そんなに多くもないのだろうけれど、それでもたくさんのことがあったような気がして、そういうことを思い出していたのが墓地の真ん中。生きていたんだよな、と思った。二日前にも同じことを書いたけれど、自分以外の誰かだってみんな生きていた、365 日間、ずっと。そのなかで起きたことについては何一つだって知らないけれど、お互いに。それでもずっと生きていて、だから 12 月のどこかで笑いあえたりもして、だから死にたくなんかないと思いもする。雪の降った夜なんて忘れたみたいな陽気が街を覆った昨日、だけど夕方の風はやっぱり冷たくて、帰り道を歩きながら寒いと何度呟いたか分からない。できれば身近にいる誰よりも先に死にたい、と彼はよく言う。だったら一緒のタイミングで一生が終わればいいのに、と自分はよく思う。思うだけで口にしたりはしないけれど。

 

 深夜。だから、驚いた。「化物語」に代表されるいわゆる物語シリーズには各巻ごとに後日談というものが巻末に用意されていて、その一冊で一人称が経験したことを最後の最後に第三者がざっくりまとめたりまとめなかったりというコーナーなのだけれど、「あー、現実にもあるんだ、こういうのって」という気分だった。その一日に感じた全部の答え合わせみたいな、完全に偶然だけれど。二年前に書いた小説もどきの二次創作があって、それはたしか読まれているはず。あれはだから、欠落に対する自分なりの理解をまとめたもの。失恋にせよ死別にせよ、その誰かが自分の世界から抜け落ちるという点においては全く同じで、生きているか死んでいるかの違いはあるにせよ。少なくとも自分にとって、両者の間に本質的な違いはないように映っている。転校。トリガー。いまも思い出すから、だから生きている。向こう側にある感覚と自分の理解は大概食い違っているのだろうけれど、でもまあ、なんとなくそういうことなのかもなと思ったりもした。自分を覚えていてほしいのか、あるいは誰かを覚えていたいのか。両方ともたしかな感覚としてあるなら、どちらのほうがより強いのか。きっと答えは簡単に出せるだろうけど、それが同じでも違くても、いずれにせよ根源的なところでは似た形のものを持っているんじゃないかという気がする、した。自分は他人のことを、というかこの世界にある自分以外のすべてを鏡だと思っていて。音楽とか、漫画とか、映画とか。自分以外のものを経由することでしか自分自身を理解できないというか。スピーカー越しに聞こえた声に従って、そういえば自分の中にもこんなのが落ちてたな、と拾い上げるみたいな感覚、そういうの。記憶に残っている覚えている誰かの何かみたいに、自分の何かしらも誰かにとっての鏡になっていたならそれは嬉しいし、鏡合わせみたいで。そういう意味で、自分を覚えていてほしいという風にも言い換えられる気がして、だからなんとなくそういうことなのかもなと分かったような気になったりもした。先の小説もどき、自分で作ったものに対してこういうことを言うのはめちゃくちゃアレな感じがするけれど、とても気に入っている、というより自分の考え方をものすごくストレートに表現できたと思っている、だから今でもよく思い出すという一節があって。そのことについて触れるのは初めてかもと思いつつ、でも、分かんないな。もしかしたらどこかで誰かに言ったことがあるかもしれない。ないと思うけど。ともかくそういうのがあって、その文章を思い出しながら話を聞いていたという話。最後にそれを引用して 2021 年の更新は終了。年末鍋会、完全に遅刻だな。

 

 だったら、魔法みたいな不思議が失われてしまった空の色だって、私は好きになれそうだ。あの人が最後に残していった胸の痛みが、心の奥のほうでいまも強く響いている。これから先、新しい何かに出会う度に私はあの人のことを考えるのだろう。そして、その度にこの息が詰まるような感覚を思い出すのだろう。

 だから、これはつまり、いまの私にかけられている魔法の一つだ。悲しみは透明の空をどんな色にでも塗り替える。思わず目を細めてしまう茜色にも、遥か遠い夏を思わせる水色にも、いまにも崩れ落ちてしまいそうな赤色にも、宇宙を丸ごと敷き詰めたような黒色にも、あるいは、懐かしい耳鳴りが聞こえてきそうな灰色にだって。こんなにも温かくて、優しくて、寂しい痛みがあるから、たとえばあの人のことを好きになれたように、あの人のいなくなった今だってきっと好きになれる。そんな気がした。