20220101

 

「愛がある」とか何だとか、最近になってそんな風のことを言われる機会が謎に増えて、そのたびに思う、愛って何? 気持ちに名前を付けて飾っておくことは割と得意なほうだと思う。嬉しい、楽しい、寂しい、悲しい。羨望も嫉妬もよく知っているし、独占欲やシャーデンフロイデだってわざわざ探し回らなくたっていい程度には近いところに隠している。好きも嫌いも善意も悪意も、ちゃんと一式が自分の中に揃っていて、元々自分が持っていたものだったり、あるいは他人から受け取ったものだったり、その辺りはまちまちだけれど、だけどたしかに手元にある。でも、これが自分にとっての愛であると断じてしまってもいいような感情は、少なくとも身体の内側には存在しない。だからというわけでもないけれど、とりあえずその件については決まってこう返す、「愛なんて無いですよ」。照れ隠しとかじゃなく、本気でそう言っている。だって実際にみつけられないから。

 

 ちょっと前、人にモーニングコールをお願いされまくっていた時期があって、ほとんど毎日。自分は自分でバイトだとか何だとかがあったりするので、その全部にきちんと対応できたわけではないのだけれど、それでもなるだけ要望通りに動けるようにはしていた。お互いに生活習慣がバグりまくっているので、向こうが起床しなければならない時間にこっちは眠っているというサイクルで対峙することも結構数あり、そういうときにはこっち側で睡眠時間を動かしたり、あるいは少し短めに眠ったりで調整して何とかしていた。……こちらが正しいリズムで生活できているならまだしも、自分も大概最悪の生活習慣を構築しているわけで。無理をしていたという自覚はない(本当に全くない)けれど、だけど第三者的には理解不能なラインの行動ではあるのかもなと思うことはあった、割と何度も(ただ、自分にとってはそれなりに理に適っていた)。たとえばそれらを指して、それは愛の顕れでは、と指摘されたとして、というか指摘されたことが実際にあって、何度か。でも自分の感覚としては「愛なんて無いですよ」という答えになる、そうであっても。第一に、こちら側にもそれなりのメリットがあることくらい誰だって気づくはず。普通に考えて、他人の役に立つよう振舞っておけばある程度の好感度を稼ぐことができる。そして、好感度の類はいくら稼いだって困ることがない。むしろ、生きていく上ではあればあるほどいい。まあ都合のいいように使い捨てられるという可能性もなくはないけれど、流石に相手の人間性くらいは判断できる。他人のことを一切考慮しないような人であれば、自分はまず頼まれた時点で断っている。第二に、相手は相手でそこそこ大変そうな感じだったというのがある。本当に何のアレもない人間にモーニングコールを頼まれていたとしたら、まあ自分は途中で放り出していたか、あるいはそもそも受けていないだろうけれど、今回に限って言えば、相手には相手なりののっぴきならない事情があり、だから自分の認識としてはそれを手助けするような、そんな感覚。向こうは向こうで慌ただしい毎日を送っているようで、自分ひとりの時間と体力を多少使うくらいのことである程度をうまく回せるというのなら、それくらいの手伝いはしてもいい。……という風に、とりあえずは二通りの考え方が自分の中にあって、どちらもちゃんとある。右手と左手に、それぞれ一つずつ。ここで問題になるのは、そのどちらが本心により近いのかということ。前者は明らかに人間関係を打算的に捉えている。その相手だけでなく、周囲の人間へも遠回しに良い人アピができるし、コスパが見合っているかは別の話としてかなりお得だよねとは思う。みたいな。自分はそのような考え方を、つまり人付き合いを損得勘定で済ませることを是としないけれど、けれどそういう風に思えるのは、他でもない自分自身の中にそういった感覚が息衝いているから。知らなければ嫌う必要もない。それでも嫌うのは知っているから。そういうこと。後者は、恐らくは純粋に良い人だと思う。自己犠牲。献身的。そういう言葉が容易に思いつく、事実がどうであれ。どっちも本当だと思う。右手も左手も、どちらにも何かを握りしめているような感覚が在って、だいたいの形も大きさも温度も分かっている。だから確かめるべきはその正体で、結局、どちらが本当なんだろう? 後者が本心に近いのなら、それは愛でもいいのかもしれないと思う。いわゆる無償の愛? 本当の意味での無償ではないにせよ、大きな見返りを求めないという点ではそうかもしれない。そういうことにしてしまえば「自分は良い人間なんだなあ」と思って満足してそれで終わりだけれど、本当にそうなのかなと思う、どうしても。見返りを求めないなんて、そんなことはないはず。打算的に動くことを嫌っていても、知ってしまっているから、だから頭の片隅にはそういう考えが転がっていて。それをきちんと分離できているって、いったい何をどうすれば確かめられるんだろう。少なくとも、自分にはその辺りの判断がつかない。というか、そもそもこの比喩が自分の感覚と違っている。右手と左手の話。こう言ってしまうとあたかもその二つが完全に二分されているような印象を受ける。でもそうではなくて、感覚としてそれは一体として自分の中に転がっている気がする。それを手に取って、くるくる回してみて、「これはどちらなんだろう?」って言っているみたいな、要は視点の問題? 角度、距離、焦点の位置。そんな気がしている。判断はできない。たぶんどちらも正しくないし、そして間違ってもいないと思う。そういうことにしている。だからこれを愛だとは呼べないし、呼びたくもないし、呼ぶつもりもない。誤魔化している気がする。なんていうか、そうやって他人にとって良いように振舞おうとする自分のことを。良いとか悪いとかではなく、意味のありすぎる嘘だという話。半年くらい前にも書いた気がする、こういうこと。判断がつかないものってたくさんあるよねって、そういうの。グラデーション。どっちかには決めたくないし、決まらなくていいと思う、一生。自分は正しいだけの人間だとか、そんな勘違いはしたくないし。

 

 関係なくはない話。モーニングコールに限らなくても、こういうことはよく考える。たとえば、焼き肉の食べ放題なんかへ行ったとき、自分はひたすら肉を焼いて他人の皿へ次々に入れまくることが好きだったりする。だって、より多く食べられたほうが基本的には得じゃんかと思うから。自分が焼き係に徹することで周囲がその辺りのことを存分に楽しめるなら、それはまあそれでいいかなとも思うから。一方で、本当に? とも思う。そういう行動をとれば、周囲の人から多少なりとも感謝してもらえるという結果は考えれば、というかわざわざ考えずとも分かりきっているくらいに当たり前なことで。肉を次々に焼いているというタイミングでは流石にもう気づいている、そういう感覚を思い出して比べている自分自身に。そのたびに、どっちが本心なんだろうな、と思ったりする。喜んでほしいのはそう。感謝されたがりなのも、まあそうだと思う。感謝されて気分が悪くなるということはないから、少なくとも自分は。というか普通に嬉しいし、だからまあそういうのもある、ちゃんと。どっちもある。じゃあどっち? 分からないなーと思う。暗い足元をライトで照らして、溜まった洗い物を片付けて、これはどっち? 助けたいからそうしたのか、感謝されたいからそうしたのか。どっちにせよ相手を助けることにはなるし、どっちにせよ感謝はされるし、だから本当のことを言えばそんなのはどうだっていいことなのだけれど、だけど、どうしても考えてしまうよな。自分のためなのか、相手のためなのか。本当にどうだっていいんだけど、そんなこと。愛がどうとかって話ではなくて、……というかそもそもの話、何度か言われたから考えていたというだけで、愛とかいう概念に近いものを自分の中で探すのなら、こんな例はまず絶対に出てこないんだけど。有るとか無いとかじゃない。そもそも違う、ジャンルが。とはいえ、だからそのこととは全然関係のないところでひっかかっていることとして、たとえばこういうのがあったなって、そういう話。