20211231

 

 これは自覚している癖として、自分自身に近すぎるものを出力しようとするとき、何かしらの歪みがどこかしらで発生しがち。歌詞だと、たとえば一人称が変わったりする。書かれている言葉があまりにも自分と近いから、分かりやすく自分でない第三者を立てようとしているのかもしれない。文章だと、たとえば所謂です・ます調ではなくなる傾向にある。いまがそう。逆は必ずしも成立しなくて、つまり所謂です・ます調で書かれてある内容が自分の感覚から遠く離れたところにあるということは、まあそれほどない。というより、高々数時間程度の作業とはいえ、こうして長々と文章へ起こす手間をかけてまで出力しているものが自分自身からかけ離れているだなんて、そんなはずはおおよそなくて。であれば、いったい何が基準線になっているのかという話だけれど、思うにそういったセンサーは意識下なり無意識下なりにたくさんあるはずで、なかでもひときわ強く自覚しているものを一つ挙げるとすれば、それは他人に読ませる意思があるか否かだと思う。ブログへアップロードする用の文章を書いているとき、基本的に自分はずっと壁へ向かって喋っているという感覚で、実際に向き合っているのは PC だけれど。反応の類は別に求めていなくて、そういう意味で壁。ただなんていうか、壁に向かって一人で話していると自分の声だけはしっかりと反射して、これは比喩。ブログを続けている理由は前回あたりの記事で書いていた通りだけれど、感情墓地とかいうタイトルからも何となく察せられるように、ここに並んでいるだいたいの文章は当時、あるいは未来の自分へ宛てた手紙という側面もあったりする。なんにせよ忘れてしまいたくなくて、車窓とか公園とか何だとか、全部。ところで言葉には呪いのような側面があって、一度でも形にしてしまったものはどうしたって頭に残りがち。人にも内容にも依るだろうけれど、たとえば咄嗟に吐いてしまった嘘や選び違えた言葉をずっと覚えていたりする。言葉という媒体が持つそういった性質を経験則的になんとなく知っていて、だから逆にブログを続けているというのもある、忘れたくないから。それは、だからたとえばスマホのメモ帳だとか、あるいは実物の日記帳だとか、そういったものに書き記すでも全く問題はなくて、それはそれとして自分は周りの人間にも文章を書くという行為に触れてほしい……というのは前回書いたとおりだけれど、なのでブログという形で継続している。「自分の中にこういうものがあった」ということを自分も他人も含めた全員が閲覧できるように残しておくための場所がここで、ここで冒頭の話題へ戻るとすると、です・ます調で書かれたものはどちらかといえば後者、他人からのアクセススポットという役割を念頭に置いている場合が多い。ここでいう『他人』は不特定多数。逆に言えば、特定少数の人間にしか伝わらないようなことだとか、そもそも誰に読まれたいでもないもの、それがたとえば自分自身に近すぎるものだったりすることがあるという話だけれど、そういった文章を書いている自覚があるときにはこんな風の文体になりがちという自覚がある。直近だと二日前。もっと前だと八月。まあ、もともとここはそういう場所だったというのがあって、当時の後遺症のようなものかもしれない。数年前はこういう文体で書くことのほうがずっと多かった。

 

 彼はそれなりに離れた場所にいて、少なくとも関西圏にはいない。なので滅多に会えず、実際、年に片手で事足りる回数しか会っていない。八月の一件以降に会うのは昨日が初めてで、当日に顔をあわせるまでその一日に何をする予定なのかは一切知らなかった。たったの数回しか会えないのに、自分たちはいつもそう。気楽でいい、少なくとも自分は。彼は彼なりに行きたい場所があったらしく、地図をみせてもらうとサークルの BOX のすぐ近くが映されていて笑った。地図なんかなくても案内できる、それくらいには知っている。歩き始めて、目的地へ着くまでの間はずっと変な感覚だった。自分のプライベートとものすごく近い空間に彼がいることがなんだか不思議で、もっとずっと遠く、それはもう恒星と同じくらい離れた場所にいる人と思っていたから。自分は寺社仏閣の類に然程興味がなく、興味がないというのはマイナスの意味ではなくて、この世界にたくさんある様々と同列に並んでいるということ、ニュートラル。行きたい場所だとか何だとか、そもそもの話、その類の感覚が自分にはあんまりない。テーマパークも知らない駅も裏路地も、自分の目には同じレイヤーで映っている。一方で彼はそうでもないらしいから、それに付き合うのもまたいつものこと。昨日のメインは別にあったのだろうけれど、ほとんどずっと墓地を歩いていた。最初に来るのが墓地なのか、と思った。思いながら、色々と考えた。墓地を歩く機会なんて日常の中には当然なくて、毎年のお墓参りにちゃんと付き合っていればまた別の話だろうけれど、少なくとも自分は小学生あたりの記憶を最後に、それ以降、墓地の真ん中へ立ち入ったことはないように思えた。しばらく進んだ先には恐らくは家族であろう子連れの男女がいて、あんまりまじまじとみるものでもないなと視線を他にやった。反対側には専門書で見慣れたフラクトゥールの墓石があって、すこし考えれば想像できることではあるけれど新鮮だった。そういうのもあるらしい。ふと気づいたら彼がいなくて、あの方向音痴が帰ってこられるのかと心配しつつ探し回ったり。明らかに天然のものではない、きっと誰かに手向けられるはずだった花の残骸が落ちていて、どうすればいいんだろうと困ったりもした。所狭しと並んでいるわけでもない、それでいて信じられない数の墓石に囲まれた道を歩いたり立ち止まったり。これまでを生きてきて一度も知り合いになったことのない苗字のそれがあったり、名前らしい名前はどこにも書かれていないそれもあったり。立ち止まって、考えて、また歩き始めて。車窓と同じ。窓の向こうにはたくさんの人がいて、誰かへ電話をかけていたり、踏切に立ち止まっていたり、ほんの一瞬で通り過ぎていく顔も名前も知らない人。その更に向こうにはたくさんの民家が並んでいて、つまり家庭と生活があって、それもまた自分の知らない世界。湧き上がる感覚には寂寥感という名前をつけている、それ以外の表現を知らないから適当に。交わりようのない相手。お墓の中にいるのであれば尚のことそう。そんな誰かの痕跡が見渡す限りの一面に広がっていて、それがつまりは寂寥。死にたくないとも長く生きていたいとも人並みには思う。でも、その類とは全く違う、遠く離れたところに落ちている、それでもよく知っている感覚。二日前、ちょうどそういう話をしたばかりだったから、余計に強く来たんだと思う。他人にとって価値のあるものを自分もそうと思いたい、みたいな話。そもそもの話、出会うことのできる人間の数が高々有限で、そんなの誰だって知っていること。自分の関与し得ないところでは民家や墓石と同じ数だけの人が生きていて、死んでいて、それもまた誰だって知っていること。どうということではないし、どうしようもないことでもあるけれど、その感覚を思い出すたびに、できることなら知りたかったな、と思いもする。思うだけではあるけれど、そうであってもそう思う。思った。2021 年 12 月。これまでの白紙を一気に埋めていくみたいに、入れ替わり立ち代わり、色んな人と会って話して知りあって。自転車を挟んで歩いたり、河沿いで星をみたり、クリスマスプレゼントを選んだり。数冊の本が未だに積まれたままだけれど、フルーツ大福は回収できた。その辺りのスーパーで適当に総菜を買い漁って、お酒を飲みながらどうでもいい話に耽る夜だってきっと今にしかない。冬が好きで、夜が好きで、歩くのが好きで。同じことを何度も教え合って、前にも聞いた気がするなと思ったり。実は兄弟がいるだとか、この店のパンが好きだとか、些細なきっかけで新しい一面を知ったり。そんなに多くもないのだろうけれど、それでもたくさんのことがあったような気がして、そういうことを思い出していたのが墓地の真ん中。生きていたんだよな、と思った。二日前にも同じことを書いたけれど、自分以外の誰かだってみんな生きていた、365 日間、ずっと。そのなかで起きたことについては何一つだって知らないけれど、お互いに。それでもずっと生きていて、だから 12 月のどこかで笑いあえたりもして、だから死にたくなんかないと思いもする。雪の降った夜なんて忘れたみたいな陽気が街を覆った昨日、だけど夕方の風はやっぱり冷たくて、帰り道を歩きながら寒いと何度呟いたか分からない。できれば身近にいる誰よりも先に死にたい、と彼はよく言う。だったら一緒のタイミングで一生が終わればいいのに、と自分はよく思う。思うだけで口にしたりはしないけれど。

 

 深夜。だから、驚いた。「化物語」に代表されるいわゆる物語シリーズには各巻ごとに後日談というものが巻末に用意されていて、その一冊で一人称が経験したことを最後の最後に第三者がざっくりまとめたりまとめなかったりというコーナーなのだけれど、「あー、現実にもあるんだ、こういうのって」という気分だった。その一日に感じた全部の答え合わせみたいな、完全に偶然だけれど。二年前に書いた小説もどきの二次創作があって、それはたしか読まれているはず。あれはだから、欠落に対する自分なりの理解をまとめたもの。失恋にせよ死別にせよ、その誰かが自分の世界から抜け落ちるという点においては全く同じで、生きているか死んでいるかの違いはあるにせよ。少なくとも自分にとって、両者の間に本質的な違いはないように映っている。転校。トリガー。いまも思い出すから、だから生きている。向こう側にある感覚と自分の理解は大概食い違っているのだろうけれど、でもまあ、なんとなくそういうことなのかもなと思ったりもした。自分を覚えていてほしいのか、あるいは誰かを覚えていたいのか。両方ともたしかな感覚としてあるなら、どちらのほうがより強いのか。きっと答えは簡単に出せるだろうけど、それが同じでも違くても、いずれにせよ根源的なところでは似た形のものを持っているんじゃないかという気がする、した。自分は他人のことを、というかこの世界にある自分以外のすべてを鏡だと思っていて。音楽とか、漫画とか、映画とか。自分以外のものを経由することでしか自分自身を理解できないというか。スピーカー越しに聞こえた声に従って、そういえば自分の中にもこんなのが落ちてたな、と拾い上げるみたいな感覚、そういうの。記憶に残っている覚えている誰かの何かみたいに、自分の何かしらも誰かにとっての鏡になっていたならそれは嬉しいし、鏡合わせみたいで。そういう意味で、自分を覚えていてほしいという風にも言い換えられる気がして、だからなんとなくそういうことなのかもなと分かったような気になったりもした。先の小説もどき、自分で作ったものに対してこういうことを言うのはめちゃくちゃアレな感じがするけれど、とても気に入っている、というより自分の考え方をものすごくストレートに表現できたと思っている、だから今でもよく思い出すという一節があって。そのことについて触れるのは初めてかもと思いつつ、でも、分かんないな。もしかしたらどこかで誰かに言ったことがあるかもしれない。ないと思うけど。ともかくそういうのがあって、その文章を思い出しながら話を聞いていたという話。最後にそれを引用して 2021 年の更新は終了。年末鍋会、完全に遅刻だな。

 

 だったら、魔法みたいな不思議が失われてしまった空の色だって、私は好きになれそうだ。あの人が最後に残していった胸の痛みが、心の奥のほうでいまも強く響いている。これから先、新しい何かに出会う度に私はあの人のことを考えるのだろう。そして、その度にこの息が詰まるような感覚を思い出すのだろう。

 だから、これはつまり、いまの私にかけられている魔法の一つだ。悲しみは透明の空をどんな色にでも塗り替える。思わず目を細めてしまう茜色にも、遥か遠い夏を思わせる水色にも、いまにも崩れ落ちてしまいそうな赤色にも、宇宙を丸ごと敷き詰めたような黒色にも、あるいは、懐かしい耳鳴りが聞こえてきそうな灰色にだって。こんなにも温かくて、優しくて、寂しい痛みがあるから、たとえばあの人のことを好きになれたように、あの人のいなくなった今だってきっと好きになれる。そんな気がした。