締切

 

 先日、以前の自分が言っていたらしい言葉に言及される機会があり、曰く『締切がないと何もできない。人生にも締切はあるのに』。これのことですね。

まあ、もしかしたらこれとは別に作業通話か何かで同じような台詞を言っていて、そちらが記憶に残っていたのかもしれませんけれど。言及された瞬間は「え、そんなこと言ったっけ?」と思ったものの、上とだいたい同じ文章を暗唱されたタイミングで「ああ、たしかに言ったような気がするな」となりました。記憶、曖昧がち。このツイートをしたときはたしか楽曲制作の真っただ中(クイズに出した六人のやつ)で。ただなんていうか、「何となく気分が乗らないなあ」となすべき作業を放棄し、ベッドの上でだらだらとしていたらそのまま一週間が終わってしまい、「この一週間、何してた?」とありえないくらいの自責の念に駆られ、その結果として生成された文面だったような気がします、たしか。「本当にそうだったか?」となり自分のツイートを遡ってみたんですが、その数日前にベースを買っていたので、スタートダッシュ感覚でベースの練習をしていたのが該当の一週間っぽく、そう考えると別にベッドの上でだらだらしていたわけではなかったっぽいです。……というかたしか、あれですね。この時期ってたしかずっと雨が降り続いていて、自分、雨が降っているとマジで行動不能になってしまうタイプの人間なので、それにやられていたような。と思えば、そのツイートをした前日に自分の知っていたアーティストが一人亡くなっていたりで、それにやられてしまったのかもしれなくて。いや、分かんないな。そのツイートをした当日、つまり 20210719 に書かれたブログ記事も一応あるにはあるんですが、でもそこに書き残していないことについては何も思い出せない。マジで曖昧、記憶とかいうの。

 今朝もまた目を覚まして、何となしに Twitter のタイムラインを眺めて、そのうちに某漫画家さんの訃報が流れてきて。上のようにかつての発言に言及されることがあったって、普段からその一切合切について逐一考えたりするものかと訊かれれば答えは恐らく否なのですけれど、ただ、なんか、タイミングが悪いなあって。悪いってこともないけれど、なんか重なっちゃったなーって感じ。訃報をみて、言及されたことを思い出して、締切かあと思うなどして。誰しもいつかは死ぬだなんて、その言葉を口に出して唱えてみても本当の意味で実感できたことは、指先を掠めたことさえ一度もなくて。なんとなく、そんなことはないはずなのにと分かってはいても、何となく自分は長生きするんじゃないかって気がしているし、周りの人たちもそうだと思い込んでいるし、というかこの世界さえ自分の生きているうちは大して変わりやしないんだと思っていたりもして。そんなこと絶対にないのに。人生ほどではないにせよ、卒業とかいう割と大きめの締切が周りに迫ってきて、だからあと半年かあと思ってしまう、どうしても。未達成のチェックリストなんて何一つもないはずで、なのに、なんていうか、真っ新な予定帳の空白に何かを期待して漫然と頁を捲るみたいな感覚。足りないものは、やり残したことだって何もないはずなのに、それでも何かを欲しがってしまうのっていったい何なんだろ。もしかすると、それは自分がそれほど大人にはなれていないことの証左なのかもしれないけれど、でも、それもまた分かんないな。別に、こういう風に考えてしまうこと自体を捨ててしまいだなんて、そう願っているわけでは全くなく、むしろ大切にしていたい気持ちではあって。でも、なんていうか、また繰り返すんだなって。夏が過ぎ春が来てって、平気な顔をして歌ってみても全然受け止めきれないままなんだなーと思って。同じことの繰り返し。いや、まあ、だからこそ繰り返す日常に埋没しないようにってことではあるんでしょうけど。なのでまずはベッドの上でだらだらするのをやめるところから始めようと思い、飛び起きてこれを書き始めました。そういう話です、今回は。昨日のうちに次曲の原案を生成したので、あとはゼミの準備を進めてハモリを生成すれば今日が終わりです、頑張ろう。

 

 

 

20210924


 小学生だとか中学生の頃は、いっそなかったことにしまいたいというものがたくさんあったような気がしていて。なんていうか、具体的に何がどうだとかって言及するつもりは全くないものの、そういうのがまあまああって。でも、タイムマシンのような都合のいい道具は、少なくとも現代社会には存在しないわけで、だからなかったことにはできなくて、じゃあどうしようかといえば忘れようとするしかないわけで。だからって簡単に忘れられるようなものでもなくて。忘れたくないことはすぐに忘れてしまうのに、忘れてしまいたいことだけ覚えたまま。世界、というと言葉が大きすぎるかもしれませんけれど、でも、昔の自分は間違いなく世界そのものを嫌っていて。……というよりは、何を怨めばいいのか分からなかったからこそ、世界とかいう茫洋とした相手を選んだのかもしれませんけれど、ともかく周囲や環境を嫌っていて。忘れたいことなんて、だからそこら中にたくさん転がっていたというか。校庭とか、リビングとか、そういった日常にたくさん、小石かなにかみたいに。もうずっとそんな感じで。いまにして思えば、この世界そのものに対する自分のそういった僻んだ考え方が変わるきっかけになったのは、高校生の頃にインターネットを通じて知り合った人たちだったりして。少しずつでしたけれど、まあ本当に『いまにして思えば』あの頃から風向き自体は変わっていたんだなという気持ちはあって。それは単に、自分でない誰かの世界に触れてみたという、言ってしまえばただそれだけの行為だったのでしょうけれど、でも、だからこそ「この世界って実はそんなに悪いものでもないんじゃ?」と思えたというのはあって。大学に入ってからも色んな人と出会って、色んなことを話して。明確な転換点は幾つかあったし、それについてはブログで書いたことも何度かあったような。でも、それ以上に些細な転換点が無数にあって、間違えたり勘違ったり。そういうのを繰り返すたびに世界を上書きしていく感覚っていうか。真偽はともかく自分は相対的に物事を捉えがちかも、という話はどこかで書いたような気がしますけれど、それってだからこういったことの副作用だったりもするのかなと思っていて。悪い気はしませんけれど、全然。いまの自分はいまの世界を気に入っているし、そのことを教えてくれた人たちにも、直で伝えたりはしませんけれど本当に感謝していて。いつかの自分が嫌っていた世界だって、人たちだって、自分のみているものが狭すぎただけで、上手く付き合う方法があったんじゃないかなと思ったりもするし。忘れたいだなんて思えないし、もう。散歩していて思うこととして、忘れたくないものばっかりが転がっている、道端に、いつかの小石みたいに。これは以前にも書いた気がする。鴨川、路地裏、公園。どこを歩いてみてもいつかどこかの誰かの記憶が結びついているみたいな。忘れたくないと思うものに出会うことのほうが圧倒的に多いというか、忘れたいと願う夜そのものがなくなった、そんな錯覚さえ起こしてしまいそうなくらい。自分はもうずっとの間、この大学生活をボーナスステージだって風に考えていて、それはあり得ないくらいに幸せだから。言葉にすると馬鹿らしいですけれど、でも、そうやって忘れたくないものに出会うたびに強く思うことではあって。というか、それがたとえ一方的なものだとしても、こんなにも多くを色んな人から貰っていて、なのに幸せじゃないなんて絶対に言えないし、言っちゃいけないことだとも思っていて。……忘れたくないものは本当にたくさんあって。それ自体は忘れてしまってもいいのだけれど、それが其処に在ったという事実だけは絶対に忘れたくない。そういう気持ちがかなりあって、っていうのもちょっと前にブログに書きましたっけ。自分がこうやって取り留めもない文章を書き残しているのだってその一環といえば一環ですけれど、でも、ここに載ってあるものは大概自分ひとりが覚えてさえいればいいものというか、当たり前ですけれど、そういう場所なので、ここは。ただやっぱり、貰ったものはちゃんと返したいと思うこともあるわけで、これも当たり前ですけれど。そんなの、押し付けられるものじゃ到底ありませんし、そんなつもりで動いているわけでは勿論ないのですけれど、でも、自分が忘れたくない何かを、他の誰かもまた忘れないでいてくれるなら、それってとても幸せなことだと思うんです、自分は。っていう話も書いた、この前。マジで全部書いてあるな、このブログ。それはさておき。だから、それこそラブレターとかが近いのかもしれませんけど……、どうだろ。別に返事がほしいわけじゃないからちょっと違うか。意思表明の一種というか、だって感謝という行為は見返りを求めるものではなくて、むしろそれ自体が見返りじゃないですか、相手に対しての。だからそれは「自分はそう思っている」という意思表明でしかなくて、押し付けるものでは到底ない。叫んですらいない。思っているだけ。全部を言葉で伝えてしまえば楽なんだろうけど、でもやっぱり、貰ったものは貰ったもので返したいって気持ちが若干あって。いや、場合に依りますけれど、でも今回はそうで。『startrail』や『未完成の春』なんかもそうだったけど。だから、それが出来上がるまでは何を言うつもりもなかったし、というか今だって具体的なことは何一つも言っていないし。……三年前くらいにこういうことを書いた記憶があるんですけど、自分が何かを作るのって基本的に外のものから何かを受け取ったときで。外のものというのは会話だったり作品だったり事件だったり、色々とありますけれど。たとえば既存の作品をみて「これはとても良いものだ!」と思ったとして、それで何かを作りたくなって。そういうのってめちゃくちゃ綺麗なサイクルだと思うんですよ。綺麗というのは整っているという意味ではなく、純粋という意味で。その純粋を繋いでいくことに自分はとても価値を見出しているし、繋いでいけたらいいなとずっと思っていて。それは、そうしたいという理由だけで叶うものではないし、とても難しいことですけれど。でも、そうなれたらいいな~とは思うし、そう思いながら何かを作ったり作らなかったりしていて。実際にそうなるかなんて、それはやってみなきゃ分かんないですけど。でもまあ、はい、そういうものです、ざっくりと。……本当のことを言えば、もうだいたい忘れちゃってて。その瞬間の温度感とか、感動とか、そういうの。人間の頭ってそんなに良くは出来ていないから。でもだけど、誤解を恐れずに言えば、だからそれ自体はどうだってよくて、本当は。忘れたくないのはそれが其処に在ったという、だからたったそれだけのこと。そういった全部を「まだ覚えている」と確かめるための、たったそれだけのものを作りたくて。まあ、そんな感じのテンションで作っていました、諸々を。……これ、何にも伝わんないだろうなと思いつつもここまで書いてみたんですが、いや、でもまあこのブログってだいたいそういうものっていうか。未来の自分にだけ伝わればいいやってやつ、過去にも結構数あったりしますしね。今更感が凄い、本当に。

 

 

 

20210908


 高校生くらいの頃の自分を振り返ってみて思うこととして、ものすごく狭い物事の捉え方をしていたなというのがあって。広けりゃいいってものでもありませんけれど。なんていうか、良くも悪くも自分基準っていうか(良くはない)。「自分ならこうするのに」という前提でしか他人を理解しようとしていなくて、たとえば、高校生当時の自分は教室の扉の前に突っ立って平然と喋っている同級生が結構苦手でした。だって、それが他の人の邪魔になるって、ほんの少し考えてみれば分かることだと思っていたし。でもなんか、こう、今となれば思うこととして、たとえばそういう「他の人の邪魔」みたいな感情って全然正確じゃなくて、だってそれはただ単純に「自分がみていて不快」というだけの話で、その苛立ちを「他の人の」という言葉で覆い隠しているだけだなって。他の人がどう思っているのかなんて何も知らないくせに、他人の一挙手一投足にイライラしている自己を認めたくないからって、そういう。他人に苛立ちを覚える理由って人それぞれかと思いますけれど、かつての自分に限って言えば、それって単純に自分がつまらない人間だったからなんだろうなとしか思えなくて。誰かに認めてもらいたがってるくせに、誰のことも認めようとしないし。自分以外の他人を理不尽に嫌うくせに、自分以外の他人から自分が嫌われるのは嫌で。そういうの。一言で言えば自分勝手、あるいは我儘。いやまあ、そういうやつだったんです、本当に。それがまあ、様々な様々による影響を受けまくった結果、いまみたいな感じに変化していったというのが顛末で。「自分ならこうするけどな」くらいのことは今でも思いますけれど、それをまあ押し付けたいとは思わないし、イライラも別にないし。なんでもかんでも変えていければいいってものでもないと思いますけれど、ただ、いまの自分の考え方を好意的に捉えてくれている人も少なからずいるわけで、だから変われて良かったなと思っています、いまのところは。

 

 最近、自分のブログに関する言及を耳にする機会がなにかと多く。「え、読んでたの?」みたいな人からのそれもあったりして。どれもこれも暇つぶしに書いているだけのアレですけれど、でも、こんなので何処かの誰かが前向きになれたり少しでも変われたり、あるいは何も変わらなくたって何かを思ってくれていたりするのであれば、それはとても嬉しいことだなと思うし。谷川俊太郎でしたっけ、『一生はいくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わるけど、そのひっかきかたに一生がかかっている』みたいなことを書いた人。偉人の文章を引用(曖昧な記憶を頼りに書いたので、正確には引用ですらない)(曖昧な知識で物を語るな 2021 )して何かを表明したつもりになるの、あんまり好きじゃないんですけど、ただ、これについては自分も本当にその通りだなと思っていて。自分に限った話じゃありませんけれど、自分みたいに創作(というか表現?)をやっている人たちからすると。それを至上命題にしているというわけではなくて、中心にあるのは「自分の中のものを形にする」という意識なのですけれど、ただまあ、だからそのついでに誰かのこともひっかけたらそれはいいことだよなって、そう思ったり思わなかったり。形にするだけでいいのなら、ブログなんて必要ないわけで。だからまあ、こうして出力された考えだったり言葉だったりで、ほんの一瞬でも何処かの誰かが何かを思ってくれたのなら、自分みたいな人間からすると、だからそれはめちゃくちゃに嬉しいことなんですよ、実際。……とはいえ、だからそれを狙って何かを書く、みたいなことは絶対にないんですけど。意味ないし。というか、「自分の文章のどこをどう読めばそのような結論に……?」みたいな感想も結構あったりして、それはそれで万華鏡みたいで面白いなと思っていて。なんか、言葉に起こす以上、読み手の反応を想像することは必須ですけれど、ただ狙い撃ちにするのは違う(し、そもそもできない)と思っていて。違うっていうか、誠実じゃない? 自分の言葉で言うなら、嘘っぽい、っていうか。やっぱり『勝手にしなよ。自分も勝手にするからさ』みたいな関係がいちばん性にあっていて、誰とだって。だからまあ、はい。これからも気が向いたら何かを書く程度に続けていけたらいいなって、そんな感じで。

 

 

 

選ぶ

 これから先の人生がどうなるかなんて分かんないですし、このブログもまあいつまで動かし続けるんだろうなって気持ちはあるんですけど、ただまあ今のところ、こうやって自分の考えだったり何だったりを放流して、それを周囲の誰かしらに読んでもらうというのは自分にとっては悪くないことで。なんか、現実世界で会ったときにブログの内容だったり何だったりに言及されるのってなんだかむず痒いというか、単純に恥ずかしいんですけど、でもまあ、だからそれもまた悪い気はしないという話で。こうしてただ書きなぐっただけの文章を、それでも読んでくれる人がいるというのは嬉しいことだし、飛んでくるリアクションだってそう。当たり前じゃないということをちゃんと知っているのなら、それを大切にしていかなきゃいけないなって、改めてそう思うなどしました。何の話?

 

『たった一つを特別として選ぶ』という行為を、覚えている限りにおいて、自分は人生で恐らく一度もやったことがなくて。たとえば音楽、文章、イラストといった創作行為は自分にとって間違いなく特別なものですけれど、「選んだ」という感覚は全くなくて。気付いたときにはそうなっていたっていうか、誰だってそんなものなんじゃないのかなと思いはするんですけど。幼い頃から野球というスポーツに触れて育ってきて、中学生くらいの頃にはプロになることを意識し始めて、甲子園だったり何だったりを通過し、そしてめでたくプロの野球選手になった……みたいな人がいたとして、でも、そのスタート地点はといえば、この世界に数多くあるスポーツの中から野球というたった一つを能動的に選んだわけでもなかった、ということだってあるわけじゃないですか。「親とキャッチボールをよくしていたから」とか「テレビでよく流れていたから」とか、初めはそれくらいの動機だった、みたいな。自分にとっての創作がそうで、創作以外に続いているものもほとんど全部がそう。ただ、上の例のようにプロまで到達するような人はきっとどこかで何かを選択しているのだろうなとも思うんですよね。たとえば、野球の強い高校へ進学するとか、その環境下で野球にあり得ないくらいのリソースを割くとか、そういう他の可能性を捨ててでもそれに賭けるという意思。一方の自分は、そういうのをめちゃくちゃ避けるっていうか、純粋に怖いっていうか。だって、たった一つを選んで、あとになってそれが間違いだったと知ってしまう可能性を思うと竦むじゃないですか、脚が。自分が大学受験で悩まなかった理由の一つには、京都大学というブランドが一般的に確立されていて何をどうやっても間違いにはならなさそうだった、というのもあるはずで、主観に依らない精度で「正しい」と思えないと選べないっていうか。中学の部活動すら結局決められなくて帰宅部でしたし、まあそれはそれで楽しかったからいいんですけど。とにかく選べない。たった一つを選んでしまうと、それ以外の全部が選べなくなってしまうから。これだけじゃない、もっとたくさんの理由があったりなかったりするんですが、だから『やがて君になる』という作品において自分が最も共感できたのは主人公の小糸さんでした。恋人とかいうのは『たった一つ』の極地にあるような概念と自分は思っていて、だって、場合によっては自分が死んでしまう瞬間までずっと運んでいかなきゃいけないものになったりもするわけじゃないですか。中学の部活とか最終学歴なんかとは違って、忘れることは絶対にできないもの。実際にそうなるかどうかとかはさておいて、でも万が一にでもそういった可能性を含有する選択を、二〇か三〇そこらでしなきゃいけないのが人生だっていうんなら、なんていうか、もう終焉って感じじゃないですか? たった一つ、その選択だけで五、六〇年先の未来まで全部決まってしまうかもしれないのに、それでも手を伸ばして選ばなきゃいけないもの。自分にとってそれは、あり得るかもしれない全部の可能性を捨てることに同義のように思えてしまって、だから怖くて、普通に。冒頭でいつまでブログを続けるんだろうって話をして、でもこれからも続けていくならどこかで触れることになるのだろうなと思うのでいま書いておくんですが、まあ、友人の一人と付き合うことに決めて。相手は自分のことを好きだと言ってくれたし、自分も相手のことが好きではあるし、だけど、それを決めて相手に伝えて、その後の夜はめちゃくちゃに怖くなって。過去一の恐怖でした。上で言ったようなことだったり何だったりが一気に押し寄せてきたような。胸の真ん中あたりが意味もなくざわついたり、風邪を引いたときみたいな寒気に襲われたり、漠然とした不安が意識を覆いつくす感じ。「選ばない」ということを選んだときにはやって来なかった、呆然と立ち尽くしてもいられないくらいの感情の嵐。それまで自分はそういった選択を避け続けて生きてきたので、だから知らなくて。これ以上ないと思える結末でも、自分自身の手で選び取ってしまうのはこんなにも怖いことなんだって。今年で二四になるらしいですけど、なんか、初めて知りました、そういう感覚を。いまもまだ少し怖くて、そのうち慣れたりするのかなとは思うんですけど、でも世の中の人間って全員こんな恐怖感と一緒に恋愛してんのかなとも思ったり。だとしたら、こんなものを積み重ねて今日まで続いてきたのだとしたら、本当にすごいと思います、人類とかいうの。あり得ないです、正直。

 

 

 

20210822


 全然眠れなかった。思うに、想像以上にきたんだと思う。いや、わかんないけど。でも、眠ろうと思ってベッドへ入ってみても、なんとなくそればっかりが頭の中をぐるぐると回っていて。なんていうか、言葉があふれてくる感じ? 誰一人も聞いてなんかいないのに、今にも虚空へ向けて話し始めてしまいそうな、そんな感じの夜。一時間だけ寝た……、と思う。曖昧だけど、多分。今日バイトなのに大丈夫なのかと思うけれど、まあ、そうは言っても眠れないものは仕方ないし。こういうときは意識を一度睡眠から切り離して、しばらくしてからまた入眠の構えになるとよいことが経験則としてあって。だからいま文字を打ち込んでる。めちゃくちゃ眠いのに。いつも以上に後先考えずに文章を書いている気がする。だって、そもそも丁寧語というか、普段の文体じゃないしこれ。マジで普通に喋ってる感じじゃん。なに、なんていうか、あの、あれ、ボイスメモ? そういうのをそのまま文字へ起こしているみたいな感じ。変なの。でも、めちゃくちゃ楽だな、こうやって文章を書き続けるの。なんていうか、普段からずっとこんな感じだし、何か考え事をしてるときって。次から次へとああだこうだって声が浮かんでくるみたいな、処理が追い付かない、普通に。追いつけなかったものは、そもそも認識さえできてないのだろうな。忘れているとかですらない、多分。そのまますり抜けてる。何考えてたんだろ、さっきまで。さっきって言っても、もう三時間くらい前だけど。人間関係。勝手に変わっちゃうんだな、本当に。なんか、どうなんだろう。改めて振り返ってみても、自分がどんな風に考えていたのか思い出せないな。気づかれないと思ってたのかな。思ってた気がする。いや、わかんない、どっちだろ。気づかれないっていうか、気づかない? 自分が黙っていればこのまま緩やかに終わりへ向かっていくのだろうな、っていう。そんな予想はあったかもしれない。かもじゃないな。あった、間違いなく。なんていうか、特別を望んでいたわけではなくて、これは本当。たとえばの話、自分にそんな事象がなくたって、自分でない他の何かに何かしらの変化があって、それで全部が終わってしまうという未来は、可能性なんてものですらない、見据えておくべきルートの一つではあったし、実際、それでいいと思ってたんだよな、本当に。というか、途中までそのルートに乗っかっていたはずで。会えなくなったって死にはしないし。寂しいとは感じるだろうけれど、その事実を受け入れられないなんてことは絶対にないし。だから、それでいい。みたいな結論に至った気がする、三年くらい前に。恋という言葉には自分なりの定義があって、それはなんていうか、あえて一言で表すなら『欠落』。元々持っていたものをなくしたのか、あるいはそもそも持っていなかったのかはさておき、いまの自分の手元にはない何かをそれでも探し出そうとする感情のこと。本来ならもっと言葉を割くべきだけれど、自分はそんな風の理解をしていて。だったら、それはもはや恋とかですらない。自分がどっちなのかは知らないけど、たしかに何かを探していたと思う。四年くらい、あるいはそれよりも少し後のこと。探して、探して、探し回って。結局、何を見つけたのかといえば、何にもないことを見つけた、という感じで。前に書いたじゃんか、このブログのどこかで。「空っぽのままでも生きていけるし」みたいな。「その空っぽすら愛せるようになる」みたいな。いや、あれは別に気取ってそんな文章を書いたわけでもなく、実際にそうで。昔の自分はそれを『欠落』として捉えたのだと思う、恐らくは。でも、だから、それを埋める何かを探し続けた結果、手にした答えは「それって『欠落』でも何でもないんじゃないの」みたいな、それまでの全部を根底から覆してしまうようなもので。もう何年前だろ、三年? 当時の自分がどれだけ考え抜いてその答えに至ったのかはもう忘れちゃったけれど、でも、たしかにそうだったって思った気がする。なんか、今でも覚えてるし。なんだっけ。京都芸大の敷地に勝手に入り込んで、小さな公園みたいな場所から夕焼けを眺めてたんだよな、そのとき確か。そこで色々考えて、たしかその帰り道だったような。たぶんそう。二年近く抱え続けていた諸々が、たった一瞬で全部消えちゃった感じがして。消えたっていうか、なんだ。透明になった? みたいな。嬉しいもないし、イライラもないし、悲しくも楽しくもない。ほんとうにただそこにあるだけの、空気みたいな感情。それ自体にどうこうってことはなかったけど、それを見つけられたことは嬉しくて。生きるのが楽しくなったし、間違いなく。というか、自分の作った曲はだいたい全部あの辺の感覚から生えてきてるし。大切なものではある、間違いなく。……みたいな気持ちになったのが数年前のことで、以降はずっとそのまま。だから、誤解を恐れずに言えば、本当に終わってしまってもよかった。そりゃまあ、事故だの病気だのは嫌だけど、もちろん。でも、生きてさえいるなら会えなくたっていいんじゃないのって、そんな感じの。だから、なんだろ。いや、そう。だからそうで。なんていうか、有体に言えば「今更それに気づいちゃうんだ」と思ったのだと思う、たぶん。今更なんて言葉は流石に失礼かもしれないけれど、でも今更じゃん。終わってしまってもそれはそれでいいって、いまでもそう思ってるし。本当、どうなっちゃうんだろうな。

 

 

 

後悔ではない何か

 

 後悔というわけではないんですけど、何となしに過去を振り返って「あのとき、自分はどうするのがよかったんだろう」と、それでも考えることは結構あって。とはいえ、どれだけ考えてみたって大局的には自分の結論が変わることはなくて、どうもこうもなく、その瞬間へ至るまでに十分な猶予が与えられたとしても、結局は今へ繋がるんだろうなあって、そう思うことがほとんどですけれど。ただ、「もっとやりようがあったんじゃないか」って、そう思うことも同じ数くらいあって。ゴールが同じだとしても道筋は変えられたんじゃないかって。通る道が変わっていれば、ゴールの向こう側に続く景色も多少は変わっていたりしてたんじゃないかなって、そういう。なんていうか、そのうちの一つをとある作品を読んでいる最中に思い出したっていうか、今回はそういう話なんですけど。その、作中のとある人物が同じ部活の先輩に告白をするんですよ。まあ振られるんですけど。そのときの理由が「いまは部活に集中したいから」というような内容で、しかし後になってこれが嘘であることが発覚して……っていう。それで、その話を聞いていた登場人物の一人がめちゃくちゃに怒るんですよね。具体的な台詞はさておき要約すると「勇気を出して告白してきた人間に嘘を吐くのは間違ってるだろ」みたいな感じで。作中だと一連の話はそこで一区切りで、かたや読み手の自分は「だよなあ」と思うなどして。それが先に言っていた後悔ではない何かですけれど。高校まではともかく大学に入ってからの自分は人間関係もそれなりにそれなりだったので、告白だなんだってイベントが皆無だったというわけでもなく、断ったんですが。初めに言っていた通り、その選択の正当性を疑っているというわけではなくて、仮に人生を 100 万回やり直したとして 100 万回とも同じ結果なんだろうなと本心から思っていて、ただ、方法がよくなかったというか。その一点だけは割とずっと引きずっていて、なのでその作品を読んでいる最中に、なんていうか、めちゃくちゃ責められてるような気持ちになって、ただの被害妄想ですけれど。いやでも、それはそうだよなと思って。というか反省して。反省はこれまでにし尽くしたつもりだったんですけど、自分と関係のない他人の出来事として客観的に捉えてみると、これはたしかに怒られても文句の言えない、というか自分も第三者の立場なら同じようなことを(言いはしないかもしれないけど)きっと思うだろうな、と思って。なんか、そんな感じのアレもありつつだったので、もうめちゃくちゃな気分のままで読み進めていました。……たしかに、嘘を吐くのは良くないことだよなと思ってはいて、そう思っているからこそ未だに引きずってるんですけど、でも、これもさっきのと同じように、何度やり直したところで自分は 100 万回分の嘘を吐くだけなんじゃないかなあって気がしていて。というのも、その状況下でどういった行動を起こすのか正解だったのか、自分は今でもよく分かっていないままだから。なんていうか、思っていることがそのままで伝わればいいのになって思うことが結構あって。自分以外の他人へ何かを伝えるためには言葉を頼る必要があって、でも自分は言葉をあまり信用してなくて、なんだか曖昧じゃないですか、言葉って。「興味がないから」は本当のことだけど、でもこれだけだと嘘になる。自分がどういった意味で『興味がない』という言い回しを用いているのかだとか、あるいは『興味がないから』と結論との間にある些細なギャップだとか、そういった全部が欠けていて。だから言葉って苦手なんですけど、だけど自分たちの主要なコミュニケーションツールといえばこれしかないから、頑張って探して。でも、見つかんなくないですか。その、相手のことを無下にするに足る言葉なんて、どこにも。本当のことを伝えるとして、どれだけ多くの言葉を選んだところで相手を傷つけるだけだろうなって気が自分はどうしてもしてしまって。それならたとえ嘘だとしてもかすり傷程度の言葉を選んだほうがいいんじゃないかと、まあ、当時の自分はそのように考えたわけで。でも、今でこそ思うこととして、それって悲しんだり傷ついたりする権利を相手から一方的に奪うことと同義なんだなと思って、しかもそうとは自覚させないうちに。なんていうか、それってめちゃくちゃ卑怯だなと思うし、失礼だなとも思うし。全部が全部、今となってはの話でしかありませんけれど。というところまで考えはしても、それでも言葉は見つかんないし。だから「どうしたらよかったんだろう」って、そんな感じのことを考えたり考えなかったりして。そのたった二文字を伝えることがどれだけ難しいかって、そんなことはちゃんと知っていたはずなのに。あの一瞬をやり直したいだなんてほんの一度だって考えたことはありませんけれど、ただ、だからこそ他人の気持ちにもっと正面から向き合える人間にならなきゃいけないって、後悔ではない、その思いだけはどこまでも引きずっていくことになるんだろうなって、死ぬまでずっと。

 

 

 

どうにもならない

 

 しばらくの間考えていたことがあって、でも Twitter に書くようなことじゃないかなと思ったので、そんなわけでブログに載せておこうと思います。なんていうか、まあ何についての話かくらい先に書いておいたほうが見通しが良いのかなとは思うのですけれど、でも、なんだろ。何の話なんだろうな、これは。ただまあ、何年か前から折をみて触れている話題ではあって、だから要するに以前から繰り返し考え続けているテーマということなのですけれど。まあ、はい、そんな感じです。本題。……と言ってもそんな大それたものでもないのですけれど、いや、先に予防線を張っておくか。何というか、自分はアレなんですよ。あの、個々人がどういった主義・思想に従って生きていてもいいと思っていて。なんか、色々あるじゃないですか。〇〇イストとか〇〇主義者とか、ああいうの。いや、もう本当に何だっていいと自分は思っていて。何だっていいというか、どのような主義・思想であれ、それに従って生きるくらいの自由は全人類に保障されているべきと考えるといいますか。もちろん基準はありますよ。危険思想だとか過激思想だとか、そういった分類は自分の中にも当然あって。でも、それがその思想を無条件に排除する根拠にはなり得ないっていうか、少なくとも自分にとってはそうで。みたいな。いや、だから、なんだろうな。本当にどうだっていいんですよ、別に。自分でない他人が何を信じて、何に縋って、何を求めて生きていようが、どうだって。それ自体に口を挟む権利なんて自分にはないし、そんなことをするつもりもないし、したいわけでもないし。右でも左でも上でも下でも、別に好きにしたらいいんじゃないのって、自分は本気でそう思ってるんですよね。……なんていうか、これは別に突っぱねるわけじゃなくて、単純に自分が普段からそういう風に感じつつ生きているからという理由に基づくものなのですけれど、何かしらの強い主義・思想を持っている人からすると到底想像の及ばない事象なのかもしれませんが、自分にはそういったものが本当になくて。いや、嘘です。ある。あります。ありますけれど、自分が強く信じているそれといえばほとんど空想のようなもので。なんていうか、現実的な部分に対してあまり関心がないっていうか。だから右も左もないし、多数も少数もないし。どちらにも属さないというよりは、どちらでも構わないっていうか。どちらか一方だけが正しいという風に自分は考えられなくて、同様にどちらか一方だけが間違っているという風にも考えられなくて、だから、片方にだけ肩入れすることはしないっていうか。いやまあ、だからどうだっていいんですよね、結局。というかそもそもの話、これは以前の記事でも触れたことがあると思うんですが、絶対的に正しいものなんてこの世界には存在しないと自分は思っていて。道徳だとか、倫理観だとか、そういったものですら時代やら環境やらで変化していって然るべきものだよなって。人類が絶滅してしまったらそんなものに価値はなくなってしまうわけだし、という主張はあまりにも極論が過ぎますけれど、でもそんな感じで。信じたいものを信じていればいいと思うんですよね、だから。というより、誰だってそうなんだということに気づいてほしいっていうか。ああ、いや、これはだから自分の信じているものを前提としてしまっているということになりますね。『絶対的に正しいものなんてない』っていう、そういう信念に。ここが色んな人と食い違うんだろうなって気はしていて。なんていうか、あの、別に自分の周りの人間がそうだって話をしたいわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、ただ Twitter なんかをぼけーっと眺めていて思うこととして、「多くの人って、自分の信じているものこそが絶対的に正しいんだと、そんな風に信じていたりするのかなあ」という疑問があって。というのも、みんな好きじゃないですか、自分の主義・思想を振りかざして他人を殴りつけるやつ。具体例を挙げることは控えますけれど、ああいうのって自分の信じているものが絶対的に正しいと、そういう風に考えているからそういった行動を起こせるのだろうなって。いや、『そういう風に考えている』かどうかは微妙で、だって考えていない可能性、あるいはそもそも考えられない可能性もあるから。馬鹿にしてるわけじゃなくて、いたって真剣に。この前、精神病棟へ入れられた人の話を聞く機会があったんですけど、その、統合失調症っていう、名前だけなら知っている人も多いんじゃないかという症状を持っていた(厳密には、いまも持っている)人の話を。なんか、自分も大概狭い考え方をしていたなって、そのときに実感させられたんですけど、その、ありもしない虚構を真実だと認識してしまう(と本人が言っていた)人が一定数いて。それはどうしようもないことで、本人の意思とか関係なく。信じるとか、信じないとか、そんな選択肢が眼前に提示されることもなく、なんていうか、まるで脳に直接インプットされたみたいに『そう』としか考えられなくなってしまう人。そういう人がいるんだなって、いや、知ってはいましたけれど、でもこうして会って話せるくらいの距離にいるんだって、そういうことをそのときに初めて知って。だから、「自分の信じているものこそが絶対的に正しいのだと信じている」ではなくて、「自分にとって正しいものこそが絶対的に正しいのだと、そういう風にしか思えない」という人も結構数いるのかもしれないなって。そこに選択権なんて端から存在しないというパターン。……他人の在り方に対してどうこう言うのって基本的に失礼なことだなと思っていて、自分は。「あいつは不幸な人間だ」とか何だとか。幸せかどうかなんて他人が定義するものじゃないし、本人以外の誰も触れるべきでないものだろうし。自分は本心からそう思っていて、という前置きをした上で、しかし誤解を恐れずに言うのであれば(できることなら誤解されたくはないけれど)、それって不幸なことだなって、自分は思ってしまうんです、どうしても。だって、その考え方の行きつく先って破滅じゃないですか。「自分の考え方こそが絶対的に正しいんだ!」と主張する人たちがどういった末路を辿るのかって、インターネットの海を少し徘徊してみれば、その例はいくらだって拾うことができるわけで。そういう未来をどうしても想像してしまって、口に出しはしませんし、別に見下しているだとかそういうのでもなく、なんか、純粋に「不幸だな」と思ってしまって。だから、なんだろう。どんな主義・思想でも信じること自体は自由で、それを絶対的に正しいと思うことも本当は自由。だけど、後者の考えに行きついてしまうと、次は自分の主義・思想に沿わない人間への不当な攻撃に手を染めてしまう可能性が高くって。なんか、一度そこへ落ちてしまうと取り返しがつかなくなっちゃうっていうか。不当に攻撃された人間は当然のこと、それを傍目にみている人たちも決して良い思いはしないだろうし、となると周囲からはどんどん人が離れていって、嫌われていって、すると自分の考えが正しいと思っているその誰かは「なぜ自分は認められないのか。自分は正しいのだから、間違っているのは奴らのほうだ」と更なる過激思想へ転落していって……、という負のスパイラル。いやもう、こんなのインターネットじゃ日常的に発生していることじゃないですか。あまりにもテンプレすぎるっていうか、でも、だからこそ気をつけなきゃいけないことでもあるのですけれど、それはまあさておくとして。だから、その、なんていうか、「あの人、そのスパイラルの一歩手前にいるっぽいな」と察してしまったときに、自分は手を指し伸ばすべきなのかなって、そういうことをもうここ数年考え続けているって、結局はそういう話で。そのスパイラルから必ず連れ出せるというわけではないにせよ、でもいま手を伸ばさなければいつ手遅れになったっておかしくないのに、そういうことを分かっていてもなお躊躇ってしまう自分がいて。そして、足踏みする理由の大半を占めているのが『面倒だから』という感情なんですよ。言葉通りの意味ではありませんけれど。なんていうか、それってめちゃくちゃに時間がかかることなんですよ、きっと。人って簡単には変わらなくて、一瞬の雷鳴程度じゃ何一つも変えることはできなくて。それこそお医者さんとかカウンセラーの方々とか、そういった専門職がわざわざあるくらい、長い時間をかけて付き合わなきゃいけないものだと思うんです、自分は。加えて、本人が問題を正しく自覚しない限りは決して先へ進まないものだとも思っていて、だからまずその相手へ正面から問題点を突き付けるための覚悟が必要だし、しかもこっちがその気で相手に向かい合ったからといって、相手がそれに乗ってくれるとも限らないわけで。そのスパイラルから抜け出すって、要は自分自身を否定し続ける作業に等価で、自分が正しいんだって思って過ごすよりも遥かに苦痛を伴うことだと自分は思っていて。だから、自分が行動を起こしたからって何かが変わるとは限らなくて、というかむしろ悪化する可能性さえあるんですよね。自分の考えこそが絶対的に正しいと思っている人に「いや、そうとも限らないんじゃないの?」と言ってみたらどうなるかって、そんなの想像力とかの話ですらないじゃないですか。でも、その人がスパイラルから抜け出すためには言わなきゃいけないんですよ、誰かが、その言葉を。ここまで言えばもう「誰がわざわざそんなことすんねん」という気持ちにしかならないっていうか、だから見て見ぬ振りが正解で、というか自分以外の人間がどんな人生を送ろうが知ったことじゃないしって、そうやって割り切ってしまうのが賢い生き方なんじゃないかなと自分も思うんですが。でも、自分にはそれができなくて、どうしても。だからって手を伸ばすこともできない、リスクがあまりにも高すぎるから。……どうすればいいんだろう、本当に。どうにかできるものなのかな。どうにもできなくないですか? ……なんていうか、これは冗談だと思って聞き流してもらって構わないんですが、自分がどうにかしてもらった側の人間なんですよね、多分ですけれど。といっても、別に右だの左だのに傾倒していたわけではなくて、もっと別のところで。今でも覚えてるんですが、まあ、あれやこれやと色々な様々を言っていたんですよね、その、有体に言えば不満のようなものを。すると、それを聞いていたもう一人に「それって貴方自身と何が違うの?」というようなことを言われて。当時の自分がどう思ったのかは忘れてしまったんですが、後々になってから、そういうことを正しく指摘してくれる友人がいるのって本当に恵まれていたんだなと強く思って。要は運が良かったんですよね。偶然。ラッキー。別に自分が何かをしたというわけでもなく、ただいつからか仲良くしていた相手がそういう人だったというだけの話で。いやまあ、もちろんさっき上で話したように、それから今に至るまで本当に自分が何もしてこなかったのかいえば、そんなことは決してないのですが……。ただ、最初の一歩は完全に幸運だったという話で。その友人が正確な鏡になってくれていたから、自分の持っている何が正しくて何が間違っているのかを、時間はかかりましたけれど、それなりに知ることができたっていうか。だから、その、鏡があればいいんだろうなって思うんです。自分を映す鏡。抽象的ですけれど、本当に必要とされているものが仮にあるとするならば、きっとそういうものなのだろうなって。でも、それっていまからでも間に合うものなのかなと思ってしまって。高校生の頃、毎晩毎晩夜更かしして、色んなことを話し合って、そのたびに考え方を整理していって。そんなことを繰り返して自分はいまのようになったのですけれど、でも、社会人への期限が迫った今、そんなことをする余裕なんて本当にあるのかって、やっぱりそう思ってしまうというか。ただの言い訳ですけれど、こんなの。なんていうか、だからもう、奇跡的な何かの到来を祈るくらいのことしかできなくて。誰でもいいから、あの人の鏡になってあげられる誰かがいつか現れますように、みたいな。自分じゃそうはなれないから、自分がそうだったみたいに、偶然が救ってくれることを期待するしかないっていうか。……いや、何度も言うように全部が全部、ただの言い訳なんですけど。でも、なんていうか、もうそうするしかできなくねって気持ちが結構あって。まあ、はい、そんな感じです。人間関係、ムズすぎ。嫌になっているわけでもないけれど、だけど、それにしたって報われなさすぎる。どうすればいいんだろ、本当に。