20210908


 高校生くらいの頃の自分を振り返ってみて思うこととして、ものすごく狭い物事の捉え方をしていたなというのがあって。広けりゃいいってものでもありませんけれど。なんていうか、良くも悪くも自分基準っていうか(良くはない)。「自分ならこうするのに」という前提でしか他人を理解しようとしていなくて、たとえば、高校生当時の自分は教室の扉の前に突っ立って平然と喋っている同級生が結構苦手でした。だって、それが他の人の邪魔になるって、ほんの少し考えてみれば分かることだと思っていたし。でもなんか、こう、今となれば思うこととして、たとえばそういう「他の人の邪魔」みたいな感情って全然正確じゃなくて、だってそれはただ単純に「自分がみていて不快」というだけの話で、その苛立ちを「他の人の」という言葉で覆い隠しているだけだなって。他の人がどう思っているのかなんて何も知らないくせに、他人の一挙手一投足にイライラしている自己を認めたくないからって、そういう。他人に苛立ちを覚える理由って人それぞれかと思いますけれど、かつての自分に限って言えば、それって単純に自分がつまらない人間だったからなんだろうなとしか思えなくて。誰かに認めてもらいたがってるくせに、誰のことも認めようとしないし。自分以外の他人を理不尽に嫌うくせに、自分以外の他人から自分が嫌われるのは嫌で。そういうの。一言で言えば自分勝手、あるいは我儘。いやまあ、そういうやつだったんです、本当に。それがまあ、様々な様々による影響を受けまくった結果、いまみたいな感じに変化していったというのが顛末で。「自分ならこうするけどな」くらいのことは今でも思いますけれど、それをまあ押し付けたいとは思わないし、イライラも別にないし。なんでもかんでも変えていければいいってものでもないと思いますけれど、ただ、いまの自分の考え方を好意的に捉えてくれている人も少なからずいるわけで、だから変われて良かったなと思っています、いまのところは。

 

 最近、自分のブログに関する言及を耳にする機会がなにかと多く。「え、読んでたの?」みたいな人からのそれもあったりして。どれもこれも暇つぶしに書いているだけのアレですけれど、でも、こんなので何処かの誰かが前向きになれたり少しでも変われたり、あるいは何も変わらなくたって何かを思ってくれていたりするのであれば、それはとても嬉しいことだなと思うし。谷川俊太郎でしたっけ、『一生はいくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わるけど、そのひっかきかたに一生がかかっている』みたいなことを書いた人。偉人の文章を引用(曖昧な記憶を頼りに書いたので、正確には引用ですらない)(曖昧な知識で物を語るな 2021 )して何かを表明したつもりになるの、あんまり好きじゃないんですけど、ただ、これについては自分も本当にその通りだなと思っていて。自分に限った話じゃありませんけれど、自分みたいに創作(というか表現?)をやっている人たちからすると。それを至上命題にしているというわけではなくて、中心にあるのは「自分の中のものを形にする」という意識なのですけれど、ただまあ、だからそのついでに誰かのこともひっかけたらそれはいいことだよなって、そう思ったり思わなかったり。形にするだけでいいのなら、ブログなんて必要ないわけで。だからまあ、こうして出力された考えだったり言葉だったりで、ほんの一瞬でも何処かの誰かが何かを思ってくれたのなら、自分みたいな人間からすると、だからそれはめちゃくちゃに嬉しいことなんですよ、実際。……とはいえ、だからそれを狙って何かを書く、みたいなことは絶対にないんですけど。意味ないし。というか、「自分の文章のどこをどう読めばそのような結論に……?」みたいな感想も結構あったりして、それはそれで万華鏡みたいで面白いなと思っていて。なんか、言葉に起こす以上、読み手の反応を想像することは必須ですけれど、ただ狙い撃ちにするのは違う(し、そもそもできない)と思っていて。違うっていうか、誠実じゃない? 自分の言葉で言うなら、嘘っぽい、っていうか。やっぱり『勝手にしなよ。自分も勝手にするからさ』みたいな関係がいちばん性にあっていて、誰とだって。だからまあ、はい。これからも気が向いたら何かを書く程度に続けていけたらいいなって、そんな感じで。