20201113

 

 生きる理由って人それぞれだと思うんですが、他の人とこういう話をする機会は今となってはあまり多くないので、そういうわけでここに記しておこうと思います。なんか、単純に気になるんです。こういうの、考えない人は考えないのかもしれませんけれど、でも考える人は考えるじゃないですか。それはどっちがいいとか悪いとかって話じゃなくて、個々人の性格だったり周囲の環境だったりがそうさせるものであると自分は考えますけれど、ともかく、考える人は考えるでしょう。そちら側の人々ってどういった理由を答えにしているのかなって、そのことに興味があるというか知ってみたいというか。自分もそういうことを考えたり考えなかったりする側だと思いますけれど、しかしながら自分の持っている理由が全人類に普遍的なものだとは到底思えず、というかそもそも生きる理由なんて一意的に定まるようなものじゃないと思うんです(これは以前にも書いたけれど)。目的の方向性も規模の大小も様々でいいと思うし、世界平和のために生きている人がいれば、地元の商店街で人気のコロッケを食べるために生きている人がいてもいいだろうって話で、そこに善し悪しや貴賤なんて無いんじゃないかなって気がしていて。だからこそ、他人が何のために生きているのかというのを知りたい、聞いてみたいという欲求が結構強くあります(思えば、『他人のみている景色を知りたい』という欲求は昔から相当にあった)。それって多分、その人が一番大切にしているものだろうし、もしかしたら自分はその内容に全く微塵ほども共感できないかもしれませんけれど、ならばこそ、自分の世界には無い概念を理解しようとしてみたいと思ったり思わなかったりするわけです。

 

 これは自分の話ですけれど、純粋な興味として「どうして生きていくのかな」と考えていた頃があって、動機は伴わないものの「さっさと死ねばいいのにな」と考えていた頃もあって。後者については「どうして生きていくのかな」という疑問がずっと背後に付きまとっている状態というか、疑問っていうか強迫観念みたいな。実際に死のうとしたことなんて一度もないし、その具体策を考えようとしたことさえ皆無なんですが、だからこそ、そういったことを考えられない自分に対して「どうして」という問いが返ってくる、そんな時期があったようななかったようなという感じで。それはいわゆる希死念慮というやつですけれど、たったの四文字で片づけられるのはちょっと違うなと、そこを通りすぎてしまった今でもそう思う程度には真剣に考えていたように思います。これが仮に多くの人類の抱えている問題であったとしても、実の当事者になっているのは今ここにいる自分自身に他ならないわけで、「誰だってそうだよ」なんて的外れな指摘で何かが解決したり救われたりなんてことはないんです。他人からみたら些細な事でも、本人にとっては重大な事なんていくらでもあるわけで、「ちょっと違う」というのはそういう意味での言葉です。あの二年余りを『希死念慮』なんて言葉でサッと片づけられてしまったら、僕は多分怒ります。

 

 何故そのような話をしたのかというと、それは今日の帰り道のことなんですが、いつの間にか考え方が逆転しているな、ということに気がついたというのがあって。それがどういうことかと言うと、「どうして生きていくのかな」じゃなくて「だから生きていくのかな」という方向に思考がシフトしていたという意味で。いつ頃からそうなっていたのかはいまとなっては定かではありませんけれど、でも考えてみれば確かに、「どうして」なんて自問を繰り返す夜はとうの昔に来なくなりましたし、それよりはむしろ「だから」と感じる機会のほうがずっと多くなってきていたような気がします。所属サークルのライブの直後とか、自分の作品が認めてもらえたときとか、もっと身近なところでいえば夕暮れの空を見上げたときとか。たまたま端末を家に放置したまま外出したせいで写真が撮れなかったんですが、今日の夕焼け空はとても綺麗な色をしていて、そういうものに出会ったときに「だから生きていくのかな」って考えがどこからともなく浮かんできて、あの頃とはすっかり逆転しているなって。『離れていても空は繋がってる』なんてありがちなフレーズですけれど、それはどうしようもないくらいに嘘まみれの綺麗事であると同時に、やっぱり間違ってもいないんじゃないかと思う自分がいて。なんてこともない日の帰り道に空を見上げて、その向こう側に遠くの誰かを思い出すことができるなら、自分にとってそれはとても幸せなことで。その一瞬は生きる理由たり得るのかも、と思ったり思わなかったりした帰り道でした。This is 日記らしい日記(本当に?)。

 

 近況! 曲を作っています。12月中には公開できるように頑張ります。