20230108


 誰かと誰かの関係を天体に喩えてみたりする。一般的によく持ち出されるものとしては、例えば星座。ところで、自分は恒星間の距離を意識することが多い。小さい頃、宇宙に関することが書かれた本を読むのが好きだった。たしか、自分が小学四、五年生くらいの頃だったと思う。冥王星と呼ばれる惑星が準惑星という一つ下のカテゴリへ、まあ、事実上の降格ということに世界的に決まったらしいということを知った。あれは、当時通っていた学習塾の表彰式の会場、どこかのホールの、少なくとも高層階。規定よりも進んだ学習をしている生徒は年に一度、その表彰式へ呼ばれ、内部に表彰内容の刻まれた(たしか、虹色の線だった。どうやってたんだ)キラキラとした結晶を受け取る。先の内容を学ぶことそのものについてはさして興味はなかった。だから、その塾もよくサボっていた。ところでキラキラしたものは昔から好きだったから、だからその式自体も嫌いじゃなかった。ちなみに、その結晶はたぶん、実家のリビングにいまも飾られている。話が逸れすぎた。会場内、母親に手を引かれながら、『なぜ、めい王星は惑星じゃないの?』という、水色の表紙の本を見つけた。冥王星が惑星でなくなったことは、たしかその時点で知っていたように思う。ところで、特に強い関心があったわけでもなかった。なのに、その水色にものすごく心を惹かれて、その後なんらかのやりとりを経た上で母親に買ってもらった。表彰式を口実にしたのかもしれない、覚えていないけれど。帰ってから読んだ。これ自体もまあ本線から逸れた話ではあるのだけれど、というように。というように、宇宙関連のことにはおおよそ目がない、そういう小学生をやっていた。男子小学生の半分、いや、半分は言い過ぎにしても四分の一はそんなものだろうから、別に珍しいことじゃないと思う。一級検定問題であるところの「小学生の頃の将来の夢は何か?」の答えも「宇宙飛行士」なわけだし。これは「泳げない」という理由により早々に諦めたけれど。小学校の図書館へは、ほとんど足を運ばなかった。本を読むようになったのは中学へ上がってからだから。けれど、六年間も同じ場所で毎日生活していれば、何らかの理由で訪れるという機会だって少なからずはある。図書館は、扉から入って左手側に蔵書用の棚が伸びていって、視線の先、斜め左あたりの壁には南の空を映す窓があるという構図だった。ところで、図書館のカーテンは大抵閉まっていたような気がするな。表が黒で、裏地が緑色のカーテンだったと思う。扉のちょうど向かいに、たしか図鑑の類が収められている棚があった、たしか。その、どこだっけな。一番下の段だったと思うんだよね、宇宙の図鑑はたしかそこに置かれていた。小学生の頃、かなり早い段階だったと思う、それを読むことにハマっていた時期がたしかにあって。色んなことを知った。パッと思い出せるものなら、星だっていつかは消滅するのだということ。永遠を疑わない子どもにとって、この事実はかなりの衝撃だった。白色矮星とか、超新星爆発とか、当時読んだっきり以降の人生で一度も触れることのなかった言葉を、それでもすぐに思い出すことができる。「地球もいつかはなくなるのか!」と不安になって、同じページに書かれていた地球の寿命予想的な途方もない大きさをした数字に「めちゃくちゃ先だし大丈夫か」と胸を撫で下ろしたり、「いやでも、いつか地球がなくなるなら発展って何のためにあるんだ」と遠すぎる未来のことを考えたりした。けれど、そういったたくさんの発見の中で、何よりも衝撃的だったことは距離だった。光年という単位。光の進む速さを基準にしなければ語ることのできない距離。想像もつかない。正確な値は知らずとも、光があり得ないくらいに速いことなら、オリンピック選手とか車とか新幹線とかロケットとか、そういうのよりもずっと速いことなら知っていたから。それを知った当時に何を思ったかまでは流石に思い出せない、ただ衝撃的だったというだけ。けれど大学生になって、夜を歩くようになって、そうして星空をみつけるようになって。知識の底にあったそれを思い出して、たぶん、真っ先に想起されたのは孤独だったように思う。孤独。地球上から見上げている自分にとっては小指分の横幅もない、そのくらいに二つの光はとても近いもののように思えて。だけど、本当は物差しなんかじゃ到底測れないくらいの断絶がそこにあるんだなって。そういうの。誰かと誰かの関係を天体に喩えてみたりするとき、自分が意識するのはそういった距離感のこと。相手からの光はちゃんと届くし、自分からの光だってきっと届いている。だから通じ合っているみたいに錯覚をして、けれど本当は、その誰かと自分との間には想像も及ばないほどの空白が横たわっていて。寂しいなって思う、普通に。けれど、いつからか自分は人間関係をそういう風に定義することに対して、何の躊躇いも持たなくなった。というか、むしろ納得する。そうだよな。自分たちなんて結局は他人同士だし、分かりあえないし、踏み込まないし、喧嘩だってしない。それは、だから二つの恒星が光でも数十年かかるくらいの距離に離れていることと同じ構図なのかもしれないな、と思って。寂しいなとは思うけれど、でも、飛び越えようとも思わない。飛び越えてみたいと好奇心が顔を覗かせることはあっても、片道切符じゃちょっと難しそうだから。

 

 納得感。ちゃんと納得感がある、これは本当に。それは、対岸に灯台があったから、とかじゃない。灯台も松明も月明かりも、そんなのがなくたってそれでも進んでみたいと思ったし、思えたし、なにより信じてみたかった。自分自身のこともそうだけれど、景色を塗り替えた色とか、その先にあるのかもしれないまた別の景色とか、そういうのを。振り回すとか、同じものをみようとするとか、それはまあそうなんだけど。けれど、だからそういうのを全部ひっくるめて、距離を飛び越えてくるからなんだろうなって思う。境界線なんかよりもずっと手に負えない、光だって持て余すくらいの空白を、なのに不思議と全然感じない。心臓に触れられているみたいな、そんなのは錯覚だって分かってるのに。ほんと、笑っちゃうな。なんていうか、星空を見上げて、星と星との距離を考えて、孤独に浸ってみたりして。「寂しいな」とか、「でも、それが自然な在り方なんだよな」とか、そういう風に受け入れてこれまで生きてきたし、これからもそのままで構わなかったのに。なんか、なんかなあ。朝に目が覚めて、考えて、こんなに単純な人間だったのかって、まあまあ呆れたよね。