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やがて君になる 佐伯沙弥香について』を読んだ。全三巻。今回はその感想戦、……ではなくて。そのための前準備として読みながら考えていたことを出力しておこうかと思って。なので作品のネタバレが無数にあり、ところで自分語りの類も無数にあり、読みたくない人はブラウザバックしてください。……って毎回毎回、一応の予防線として書いてはいるけれど、自分の Twitter を経由する他アクセスする術のないここへわざわざやってくるような人へ向けて、こういった注意書きって果たして本当に必要なのかなといつも思っている。でもまあ、作品やキャラクターの名前をたとえば google なんかで検索した結果、運悪くこのブログへ辿り着いてしまったという人もいるかもしれないし。どこの誰とも知らない人間の自分語りとか、別にみたくないだろうし。だから、意味がないってこともないか。と、これくらいの文章を埋めておけば注意書きを読み切る前にネタバレを踏むということもなくなるはず。なので以降は本当にネタバレまみれ。注意してほしい。

 

 そもそもの話。今回読んだのはいわゆる外伝的な立ち位置に置かれた小説で、本編に当たるのが『やがて君になる』という漫画。初めて読んだのは、……いつだろう、去年の八月? だと思う。八月の下旬にはこの作品の話を他の人とした記憶があるから。なので、原作を読んでからそれなりの月日を経過してはいるのだけれど、実を言うと、この作品について深く言及したことは一度もない、……はず、たぶん。なんていうか、些細な触れ方なら何度か、もとい何度もしたことがある。自分が小糸侑さんをきっかけにいろいろと新しいことをしたりしなかったりしているのなんかは、知っている人なら知っている話だろうし。そういった文脈で言及することは、それほど少なくもないように思う。でも、その程度に留まっているというか、なんていうか。踏み込まない理由は明確で、たとえば何年か前に作った『アイ』という曲、その歌詞について色々と話したり話さなかったりする際に軽く引用したりしたことがあった。

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 あの曲は別にこの作品に触発されて作られたというわけではなく(時系列を考えたら当たり前だけど)、気持ち悪い言い方をすると自分自身がそのまま外に出てきたみたいな、そんな感じのアレなのだけれど。その詳細を説明するために、『やがて君になる』という作品を持ち出すのはとても正しいことのように思えた、当時。正しい、あるいは自然。そんな言い回しからも分かるように、ものすごく深いところで自分と共鳴しているように思えた作品だったというか。『アイ』が何の捻りもなく自分自身を端的に表現した楽曲であって、『やがて君になる』という作品をその解説役として添えることに何の違和感もなかったのだから、つまりはそういうことで。だから、作品に深く踏み込むようなことを話そうという気になれない。なんていうか、何をどう話そうとしても最終的には自分の話に行きついてしまいそうな気がして、でも、そのためには相手と機会との両方を選ぶ必要があるから。それに単純な話、作品に対する向き合い方としてあまり真摯ではないよなというような気もしていて。ブログなら、という気にもならず。というのが昨日までの話。いや、別にいまだって乗り気で向き合っているというわけではないのだけれど、ただ、いったん言葉にして整理しないことには落ち着かないというか。そちらの気持ちのほうが勝ってしまい、結果、白紙のディスプレイと向き合う運びとなっている。どの辺りまでなら素直に書けるかな、と思いつつ書き出しはどうしようかと考えている、いま。

 と言いつつ、書き出しについては「そもそもの話」と言った段階でだいたい決めてあったんだった。少し脱線したせいで頭から抜け落ちていたけれど。そう、だから、そもそもの話ね。今回読んだ『やがて君になる 佐伯沙弥香について』という小説はあくまで外伝であり、『やがて君になる』という漫画が本編なわけで。前者の話をするよりも先に、まずもって後者について触れておくべきだろう、という気持ちにもなり。それで、だから「そもそもの話」といういつも通りの言い回しから書き始めたんだった。なので、これからそういう話をする。

 

 自分がこの作品に関心を持った最初のきっかけがサークルの後輩(後輩って言葉、ずっと避けて歩いてきたのに最近はなんだか口に馴染んでしまった)で、という話は以前ブログに書いた。佐伯沙弥香という人物について言及したその人の言葉がなんとなく頭の片隅に残っていて、書店まで足を運んだ理由はそれだけ。その日のうちに全巻買い揃えてしまって、でも一気に読むには心の余裕が作品のテーマに追い付かなかったから、ふだん漫画の類を読むときよりはずっと時間をかけて読み切ったように思う。そうして感じ得たことは読み終えるまでにも読み終えてからにもたくさんあって、それこそ先に言ったようなことだとか、なんだとか。そのうちの一つに、その、自分が作品を知ったきっかけに関連するものがあった。

 この作品における主要人物は(最も大きく、かつ大雑把な捉え方をすれば)三人いる(ちなみに全員女性)。いちいち「さん」をつけるのも面倒なので、以下すべてフルネームで呼ぶことにする。物語の主人公、かつ物語を読者へ伝える一人称の役割も担う人物、小糸侑。その主人公を物語の中枢へと導く役割を担う人物、七海燈子。そして、この二人のいずれとも異なる立場から物語の奥行きを演出する役割を担う人物、佐伯沙弥香。本当は他にももっとたくさんの登場人物がいるけれど、多くの読者がまず最初に興味を惹かれるのはこの三人のうちの誰かになるんじゃないかと思う。サークルの後輩が、当人からすれば知ったことではないだろうけれど、『やがて君になる』という作品への関心を自身へ植え付けた人が言及していたのは、先述の通り、佐伯沙弥香というキャラクターで。だから、その人にとって三人のうち興味値の最も高いキャラクターが彼女だったのだろうと思う、思った。その出処がいったい何なのかを知りたくて、だから手に取ってみたというのが事の経緯。そういった事情が前段階としてあったから、それでより一層強く感じたのかもしれない。というのも、ひととおり読み終えたばかりの自分にとって興味値の最も高かったのは、あるいはより単純に最も共感できたのは、主人公であるところの小糸侑というキャラクターだった。言い換えれば、佐伯沙弥香ではなかった。なんていうか、それはとても面白い事実というか。これは別にこの作品に限った話でもないだろうけれど、一つのフィクションには大抵の場合において複数のキャラクターが伴うわけで、より分かりやすい表現を用いるなら「誰が一番好きか?」という話題はどうしたって発生し得る。たとえば自分は『アイドルマスターシャイニーカラーズ』なら大崎甘奈、『<物語>シリーズ』なら忍野扇、『とあるシリーズ』なら食蜂操祈、『階段島シリーズ』なら七草、『パワポケ』なら神条紫杏、『ダンガンロンパシリーズ』なら春川魔姫、みたいな感じで(……なんだか意図せず女性キャラばっかりになってしまったけれど(七草は男性))。その判断を下すための要素はたくさんあって、それら基準には個人の主観が大いに含まれているはずで。共通で追いかけているフィクション作品があればの話だけれど、相手がどうしてそのキャラクターを好きになったのかを知ることは、あるいはそれに興味を向けることは、対人コミュニケーションの一つとして純粋に面白いように、個人的にはそう思う。閑話休題。自分は佐伯沙弥香というキャラクターよりも小糸侑というキャラクターのほうに共感を持った。別の誰かはそうでなかった。同じものを同じように読んだはずなのに。……だとか。そういった風に作品を捉えるための視点を、物語を読み終えた瞬間から持てていたというのは、いまにして思えばこれまでにあまり経験のない事態だった。

「こういうキャラクターいるよね」ではなく「こういう人いるよね」という風に感じるのは、『やがて君になる』という作品が各々の人物をどこまでも等身大として描いているからだろうなと思う。七海燈子。主人公であるところの小糸侑を物語の中へと引きずり込む、そういう役割を果たすキャラクター。自分は、たとえば、彼女の言動にはほとんど共感できなかった。物語の要所要所に挟まれるイベントにおいて、七海燈子と同じように考え行動するという人は、きっとこの世界にたくさんいる。それは分かるし、理解もできる。だから設定に無理があるだとか、言動に不可解な点が多いとか、そういう意味で共感できなかったわけではない。筋はちゃんと通っていると思う、作中を一貫して。ただ、自分の中にそれがないというだけの話。二巻。『「こういうあなたが好き」って「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?』。言いたいことは分かる。本当のところでは分からないとしても、分かっているつもりではある。こういう人はきっといる。でも、共感はできない。そんな風に思ったことが一度もないから。裏表を使い分けるだなんて器用なことはできないし、ああやって誰かを振り回すことだってできない。自分自身に対する評価の与え方も何もかも、七海燈子というキャラクターは自己認識の領域から大きくかけ離れた場所にいた(最終巻だけはそうでもなかった)。この作品を読み終えた後、仲の良い数人に読むよう勧めてみた。そのうちの一人は七海燈子という存在に特に興味を持ったらしかった。『「こういうあなたが好き」って「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?』。これは、そのときにその人が言及した七海燈子の台詞だった。共感できる、と言っていた気がする、たしか。自分にはできなかった。でもそれで、なるほどと思ったというのもある。なるほど、この人はもしかすると普段、こんな風のことを考えながら生きているかもしれないのか。七海燈子のように極端ではなくとも。そう考えると、全然知らないことばっかりだ。

 槙聖司。高校生の頃から現在に至るまでの自分と一番近いポジションのキャラクターだな、と思った。ここまで振り切れてはいないけれど、割と素直に。……本当にする必要のない話をするけれど、中学生の頃、実を言うと恋愛事なんて馬鹿らしいと思っていた。いまでも覚えている、修学旅行か何かで移動中のバスの中だった。別に盗み聞きをしたわけでもない、勝手に耳へ飛び込んでくる声。誰かと誰かが色恋沙汰で揉めて面倒事になっているだとかなんだとか。馬鹿馬鹿しい。他所でやってほしい、本当に。だいたい、中学生の恋愛なんて真似事でしかないというか、どうせすぐに破滅するんだし。うまくいっている例なんて校内広しと言えど、観測範囲の限りで一例もみたことがない。なのに喧嘩したり傷つけあったり、その過程にいったい何の意味があるんだろう。……みたいなことを考えていた、本心から。いまは違う。中学時代の、いや別に高校でも大学でも社会に出てからだって、その一瞬一瞬ごと、生まれてくる恋愛の形って全然違うのだろうなと思っていて。中学生にしかできない恋愛があるし、高校生にしかできない恋愛があるし。大学生にしかできない恋愛があって、社会人にしかできない恋愛がある。そう思う。だから、きっと大切なことのはずとも思う。たとえそうやって傷つけあう結果になるとしたって、好きになった他人と向き合うという行為そのものが。まあ、うまくいくに越したことはないけれど。話が逸れた。ともかく、中学生当時の自分はそんな感じの考え方をしていたのだけれど、高校へ入ってある種のパラダイムシフトがあったというか。高校生になっても色恋沙汰の話題は消えなかった、それが当たり前みたいに。中学の時と違ったのは、所属するコミュニティ内でそれが発生したことだった、それも複数が同時に。相談相手なんて他にもいただろうに、その相手には何故か自分が据えられた。これは本当に何故かでしかない。けれど、そのおかげで色々とみえたものもあった。他人の恋愛観とか、傍からみると取るに足らなくとも本人たちは真剣極まりないこととか、知るはずもないことから当たり前のことまで、いろいろ。それがあってアップデートされたというのはある、中学時代の思考回路から。……大学へ入ってからもそういう話へ相槌を打つだけの役回りに落ち着くことは少なくなくて、ただ、いまにして思えば高校時代からそうだった。あの頃の感覚は今でも覚えていて、誤解を恐れずに言うのなら、面白がっていたんだな、自分は。「小説を読んでいるみたい」と、たしか以前ブログにも書いた気がする。槙聖司は舞台と客席の関係に喩えていた、そういう距離感。些細なことで一喜一憂して、そのたびに前進したり後退したり。そういう話を毎晩のように聞かされて、自分はそれを面白がっていた、かなりの部分で。揶揄っていたわけではない、そうなら相談相手になんか選ばれない。当人たちが真剣なら、その相談に乗りかかった自分だって真剣になれる。でも、究極的には他人事というか、だって自分は第三者なのだし。その距離感が、自分にとっては小説を読んでいるときと同じだった。そういう話。だから、槙聖司は自分とかなり近い場所にいる。読んでいてそういう風に感じた。でも、なんていうか、それと同時にものすごくかけ離れた場所にもいるキャラクターだとも思った。かけ離れたっていうか、一線を画すというか、文字通りに。すぐ隣にいるけれど、跨いではならない白線が間に一本引かれていて……みたいな。槙聖司の立ち位置にはかなり共感できる。けど、どこかが致命的に食い違っている。近くて遠いし、遠くて近い。

 佐伯沙弥香。先述の通り、本編を読んで自分が最も関心を抱いたのは小糸侑というキャラクターだった。ところで、その外伝であるところの『やがて君になる 佐伯沙弥香について』を、もし仮に本編を読み終えた直後に読み始めていたとしたら、その場合はどういった印象になっていたのだろうな、と今更読み終えてみて思った。それでもまだ小糸侑のほうに興味を惹かれていただろうか。でも、どうだろう。去年八月の自分と今年五月の自分とじゃ、経験値に差がありすぎるという話もあって。当時に読んでいたとしても、だからこれほどには響かなかったかもしれない。そういうわけで、あんまり意味のない反実仮想のようにも思うけれど、とはいえ考えないではいられないな。『その時、心臓にヒビが入った。』。ハートを象った何かがひび割れて崩れていく演出なんて古今東西あらゆる媒体に存在するし、だからこれ自体、別に目新しい表現でも何でもないのだけれど。ただ、ものすごくしっくりきた。これしかないって質量がたしかに在るみたいな。全三巻を通して読んで、最も印象に残っている一文が自分の場合はこれだった。欠落。恋とかいう単語を手持ちの使い古した辞書で引いて、そうしたら真っ先に目につく類義語。抜け落ちたもの。破損。戻らない何か。それを見つけ出そうとする感情。二巻でも三巻でも、ふとした隙間に言及される小学校時代の話。佐伯沙弥香にとってはこの一瞬が、つまりは欠落の瞬間だったのかも。そう思えば、いや別にそうは思わなくたって、自分の領域と最も近い場所に立つ人物として存在していたのは、もしかすると佐伯沙弥香だったのかもしれない。本編からはそれがみえてこなかった。いや、外伝によって初めて描かれた前日譚を受けての反応なのだから、そんなのは当たり前のことなのだけれど。『一年近くがあっさりと不要な時間になった。』。この一文も印象に残っている。印象に残っているということは、それだけ強く共感できたという意味でもあり。……思うに佐伯沙弥香にとっての明確な分岐点は、高校入学直後に七海燈子と出会ってしまったことだよな、と思う。出会ってしまった。出会うことができた、でもいい。読み手の意識によって肯定的にも否定的にもとれる出来事と思うから。大学へ進学してから枝元陽と出会ったことはあんまり重要でないように思えるというか。いや、そんなことはなくて、その一件があるから佐伯沙弥香の(とりあえず作中で描かれた部分までで言えば)人生はハッピーエンドという形を迎えることになるわけで。だから論点をはっきりさせる必要がある。「重要でないように思える」と言ったのは「『その時、心臓にヒビが入った。』を解決するまでの物語として」という論点に基づいての言葉だった(ところで、枝元陽のキャラクター性はかなり好印象だった。どうでもいい補足)。二巻の最後に添えられた四行を読むと、一層そう思う。姉の死に始まった七海燈子の妄執が小糸侑の存在によって救済されたみたいに、佐伯沙弥香は七海燈子の存在によって救済されている、……そういう風にみえる。「宛名付きの言葉が内側にあったとして、でも相手に渡すことができなくなったとしたら、行き場を失ったそれは一体どうすればいいんだろう?」。ついこの前、そういう話を人とした。佐伯沙弥香の場合、そういうのを必要以上には引き摺らずに済んだんだなと思って。忘れたわけではないだろうけれど、適切な傷として然るべき場所に収まったというか。分岐点。どうしたって消えないその傷を強がりじゃなく心から肯定できるくらい、脚とか眼とか感情とか、そういう全部を自ずと前へ向かせてくれる新しい何か。佐伯沙弥香という人物にとって七海燈子の果たした役割はそれだったのか、と思った、小説を読み終えてようやく、今更みたいに。自分の領域と最も近い場所に立つ人物として存在していたのは、もしかすると佐伯沙弥香だったのかもしれない。その言葉は本心からのものだけれど、でも、やっぱり明確に違う。ずるいじゃんか、だって。……いや、佐伯沙弥香はちゃんと行動を起こしていたし、実際、入学式の直後に彼女は七海燈子へ声を掛けに行っている。だからまあ、ずるいってのもおかしな言い分かもだけれど、でも。佐伯沙弥香の生き方には共感できる、とても。でも、やっぱり違うな。自分には、あんな生き方はできなかった。

 

 小糸侑についても書こうかと思ったけれど、この時点で分量がとんでもないことになっているのでパス。またそのうち。