相対


 そろそろ寝ようかなと思ってベッドへ入った後、なんだか胸が苦しくなるってことが割と頻繁にあって。物理的に、じゃなくて、感覚的にそうっていうか。苦しいというより、締め付けられるような? そんな感じの、ほんの一瞬のことなのですけれど。これについては自分でもあまりよく分かってはいなくて、というのも、その現象自体はそこそこの頻度でやってくるものの、「あ、まただ」と認識した瞬間に意識から抜け落ちてしまうっていうか。「いまの、何だったんだろう?」って。なんだろ。曖昧な記憶を頼りに物を語るとすると、こう、風景画のようなものが頭のなか一面に広がっていく、そういう一瞬。高速道路とか、都会の街並みとか、夕暮れの海辺とか、広大な草原とか。絶対に経験したことのないような、たとえば南極のような、そういったものも中にはあったと思うんですが。たぶん、僕が忘れてしまっているだけでもっとたくさんの光景が、こう、眠ろうと目を閉じた瞬間にふっと湧き上がってくることが稀にあって。そのたびになんだか苦しくなって、「あ、まただ」と思って、そうして忘れてしまうっていう、その繰り返し。ついさっき二時間ほどの仮眠をとったんですけど、そのときにもこれがあって、「ああ、またこれだ」と思ったなーと、目を覚ました後になってふと思い出して。なんだろう。なんか、本当によく分かってないんですけど、その一瞬にやってくる苦しさって、あえて近しいものを探すのだとしたら『寂しさ』がそれに該当するような気がしていて。気がするだけですけれど。その、自分じゃ絶対に手の届かない光景に対して抱く寂寥感っていうか。このブログのどこかに多分転がっていると思うんですけど、自分の実家は山の麓にあって、山と言っても大したものではありませんけれど、だから実家へ帰ると早朝にそこへ登ったりするんです。午前五時とか、そのくらいに。まだ覚醒しきっていない空と町を高くから見下ろして、その瞬間に湧き上がってくる感覚と同じだなって、自分はそんな風に思っていて。それもまた寂しさに似ているだけの、色も形もよく分かっていない何かという感じで。何なんでしょうね、これ、本当に。自分が散歩をよくしている理由はいくつかあるんですが、……という文章を書こうと思ったところで気がついたことがあって、そういえば、そうやって眠る前に込み上げてくる景色に人間がいたことってない気がするなーって。だったら、僕が早朝や深夜の散歩をよくやっている理由と、その寂しさのような何かって案外似ていたりするのかも。しないのかも。……自分でもよく分かっていないことをよく分かっていないままに書いたので、めっちゃくちゃ感覚的な文章になっちゃってますね。たぶん、自分以外の他人がこれを読んでも、何について書いてあるのか全然分かんないよなって、自分でもそう思うんですけど。まあ、今日の本題はこれについての話ではないので許してください。

 

 改行。空模様 - 感情墓地と同じ話をします。上の記事を読み返していて「そういえば」と思い出したんですが、例の作品は他のいくつかと一緒に文庫本のような感じになっていたという経緯があって、だからまああとがきのようなものがあったんですよ、当時。今更それを読み返すのはアレかなと思ってしていませんが、でも何を書いたのかは大体覚えていて。たしか『死生観も恋愛観も自分にとっては同じ』みたいなことを書いたなって。いまでもそんな風に思っている自分はいて、何ならひと月前の記事でも『友人と恋人』で同じようなことを言っていましたし。あの頃からずっとそうなんだなあと、別に懐かしむでもなく、ただ何となく思い返すなどしました。

 上の記事だとぼかしていましたけれど(恥ずかしいので)、でもまあもう二年前の作品になるらしいし(二年前……?)、結局、あの中で自分の書きたかったことは何だったのかという話をしてもいいのかなと思って、あれな人は適当にブラウザバックなどしてもらうとよいかと思うのですが。書きたかったことは勿論たった一つに定まってしまうようなものでもなくて、だから本当に一から十まで説明をするのであれば、より多くの時間をかけてより正確な言葉を探すべきなのだろうなと思いつつ、それでもざっくりと言ってしまうとすれば、『どれだけ違って見えても全部同じ』という意識が中心にはあったように思います。あとがきでそういう話を書いたって、さっき言ったばかりでしたけれど、だからまあ、別に隠していたわけじゃなかったし、このことについては作中でも色んなところで言及しまくったつもりでしたが。上の記事の最後で「どこの誰に向けたメッセージとかではなく、強いて言えば自分に宛てたそれ」と書いていますけれど、そういったことを他の誰でもない、昔の自分に教えてやりたかったっていう、あれはそういう作品です。

 男性が女性を好きになることがあって、女性が男性を好きになることがあるんだとしたら、男性が男性を好きになることがあっても、あるいは女性が女性を好きになることがあっても、別に良いと思うんですよね。何が違うんだろう? って。そりゃまあ、生物学的にどうこうって話を議論の場へ持ち出すことは可能ですけれど、でも生物学的にどうこうって視点で恋愛をする人がマジョリティだってわけでもないでしょう。人類の繁栄を願っての結婚が規範とされる社会であれば、まあ、間違っているのは僕のほうになるのかもしれませんけれど。でも、少なくとも自分は、恋愛ってそういうものじゃないんじゃないのと思っていて。だから、別に各々が何でも好きにしたらいいっていうか、『好き』という言葉の定義が自分と他人とで食い違っていたとして、それがなんだっていうんだという気持ちがかなりあって。異性が異性へ抱く好意が正常であるとして、同性間のそれが異常なのだとして、その主張を受け入れた上でも自分は「正常か異常かどうかが、そんなに大切?」という気持ちになってしまうっていうか。仮に自分が異常な側にいるとして、周りの人間が全員正常だとして、その感情を疑う必要が本当にあるのかなって。なんていうか、そういった固定観念のような何かが、まるで酸素みたいにこの社会の中には満ちていたとして、それが架空の敵であるとしてもそう認識してしまいかねない状況があったとして、その程度のことでどこかの誰かが自分の感情に名前を付けることを躊躇ってしまうのだとしたら、それは悲しいことだなーって。そんな感じのことを、もうずっと前から思っています。僕は同性愛者ではありませんけれど、でも、だからたとえばの仮定の話、僕がどこかの異性に好意を抱いたとして、その誰かに向ける感情と、たとえば友人へ向ける感情とを比べてみて、その二つに違いなんてきっとないって、そういう思いがかなり強くあったという話で。それがだから先月の記事で書いたことだって話でもあります。

 愛とか依存とか。これもこれで分かりやすくそうっていうか。なんだろ。これについても以前の自分はかなり考えたような気がして、というのも、最もクリティカルな問題だったから、自分にとって。作中でも書いていたと思うんですが、「どちらも同じくらいに綺麗で、同じくらいに歪んでいる」みたいな文章を。この問題に対する自分の答えは一先ずこれで、だから結局、区別なんてする必要はなかったんだって、そういう結論に落ち着くのですけれど。誰かや何かのことを好きになるのって本来はとても綺麗な感情なんだって、自分はそう信じていて。それは別に恋愛的な意味でなくたって、友情だとか尊敬だとか、あるいは憧憬でも畏怖でも何でも。でも、なんだろうな。その、見え方が少し変わってしまったというただそれだけのことで、なんだか全く別物のように思えてしまうっていうか。依存。依存が良いことだって話ではないんですよ、もちろん。悪いって話をしたいわけでもありませんけれど、でも、だからそうじゃなくて、良いとか悪いとかじゃなくて。なんていうか、本質的な部分はそこじゃないっていうか。表面的な要素ばかりを見すぎてしまっていたような気がして、当時の自分が。だからまあ、これについては昔の自分に向かって説教したいことでもあるんですけど、依存を歪みと定義するのなら恋愛もまた十分に歪んでみえるはずだっていう。両者の違いをわざわざ探して、その一つ一つにああだこうだって苦しむ必要も別にないんじゃないのって、そういう。とはいえ、そういった時間がもしなかったなら、こんなことを言うような人間にもなってはいなかったのだろうなって、そう思いますけれど。

 空。気の持ちようで空の見え方ってかなり変わるような気がしていて。自分はもうずっと、この作品を書く少し前くらいからそういったブレみたいなものは少なくなっていて、だいたいどんな感じの天気でも同じ風にみえるんですけど。でもまあ、そういった時期もあったことにはあって、それこそ、自分がとても大切にしていた何かを失くしてしまった日とか、それからしばらくずっととか。でも、なんだろう。そうじゃなくなってから振り返ってみて思うこととして、当時の自分がみていた空といまの自分がみている空って別に何にも変わんないよなって。比喩的な意味じゃなく、当たり前の事実として。空は空で、どこかの誰かが喜んだって悲しんだって怒ったって笑ったって、それに応じて色合いを変化させるわけではないんだし。いや、これもまた、だから昔の自分へのメッセージでしかなくって。「お前がそうやって忌み嫌っている空だって、数年後の自分は十分に愛せてるよ」って。曇り空も雨空も、青空や夕焼けと同じくらいに好きになれるって、そういう日がいつか来るからっていう、過去宛てのメッセージ。昔の自分といまの自分とで変わったことなんてほとんど何もなくって、大学へ入って歳を重ねた程度のことしかなくて。それでも全部同じだって思えるようになる、そのうち。

 何者かになる必要なんかあるのかなって。書き出しがこれであることからも分かるように、これ自体が当時の自分の中心にあった問題意識だったのですけれど、これがだからこれまでの話を一斉に抽象化した問いになっていて。『特別な何か』になる必要が、あるいはそういう『特別な何か』を特別視する必要が、本当にあるのだろうかって、そういう。社会にとっての特別でも、誰かにとっての特別でも、何であっても。その問いに対する自分の答えは、まあ作中で書いた通りですけれど。青空を愛せるなら曇り空だって愛せるし、失くしてしまったあとの今だってきっとそうで。なんていうか、その空白を埋めるための『特別な何か』なんて本当は必要がなくて、空白のままだって十分に生きていけるし、実際、自分はいまもまだ生きているし。空白は空白のままだけど、それでも動けるし、全然。その空っぽをむしろ大切にしていたいとさえ思えるようになっていって、……みたいな話を昔の自分にしたらきっと怪訝な顔をされるのだろうなって、そんな感じのことを考えながら書いていたような気がします、この作品を。

 

 今日、正しくは昨日のことですけれど、なんかそういう気分だったからあの作品を久しぶりに読み返してみて、「そういえばそうだったな」と思い出したり思い出せなかったり。当時の自分が当時の自分なりに色々と考えて頑張って書いたんだろうなーと思ったり思わなかったり。二年も経つともうほとんど他人の文章みたいに思っちゃうこともあるんですけど、でもやっぱり自分の言葉だなって感じはあって。あの中には自分の考え方のほとんど全部が詰まっているような、だけどいまの自分のそれとはやっぱり少し違っているような、そんな感じでした。……この作品について書けることはまだまだたくさんあるはずで、でもやっぱ書きすぎるのもアレかなって気持ちがあるにはあるので、とりあえずこの辺りで。