性別とか


 性別という括りが、本当に煩わしくて仕方のない瞬間がある。別に社会全般からそういった分類を排除したいだとか、そんなことは全く思っておらず、なんていうか、社会としての構造的な部分に性差が絡んでくるのはもうどうしようもない話で、当たり前だけど。たとえば日本中の銭湯がある日を境にすべて混浴になったとして、そんなのは普通に嫌だし。だからまあ、そういうことを言いたいわけではないのだけれど。思うのは、よりもっとミクロな関係においてのことなんだよな。たとえばとても仲の良い相手がいたとして、「〇〇(君/さん)のこと、自分は好きだけどね」と言ったとして。全く同じ言葉を全く同じ抑揚で全く同じ場面に口にしたとして、そうであっても、指名した相手が同性なのか異性なのかで、言葉の意味合いが勝手に変異してしまうような気がするっていうか。いや。気がするじゃなくて、実際そうだろと思っていて。自分にそんなつもりがなくたって相手に誤解させるかもしれないし、あるいは自分と相手の両方にそのつもりがなくとも聞きつけた第三者が誤解するかもしれないし。そういうの。そういう配慮を思うたびに「性別とかいうの、邪魔だな~~」ってなる。なんていうか、好きな人には好きって言いたいんだよな、普通に。人として「この人のこと好きだな~」と思う相手なんて本当にたくさんいるし、そういう気持ちは(何度も繰り返し交わす必要はないけれど、ただ)一度くらいちゃんと伝えておきたいって気持ちがあって。あるのに。あるのにな~って。社会の構造に性別が絡むのは仕方がない、それはそう。でもそういう、社会的な営みから切り離された夜くらいもっと自由になれたらいいのになって、そう思わなくもないんよな~って話。……ところで「それはお前の自意識の問題では?」という指摘が当然あるはずで、……はい。いや~、自意識だよな。自意識なんですよね、結局、真に破壊すべきものがあるとすればそれは。

 

 たぶんちょうど一年くらい前からだと思うけれど、それからずっと疑問に思っていたことがあって。いや、未解決のまま積み上げられている疑問なんてそれこそ無数にあるのだけれど、そのうちの一つを外へ出す機会が最近にあり。誰かに話してしまった以上は自分の胸だけに留めておく必要もないなとなり、だからここに書いてみるのだけれど。いや、ずっと疑問に思っていたこととして。男性であれ女性であれ、大してよく知らない異性と二人きりで人通りの少ない夜道を歩くのって普通に怖くない? 怖くないのかな。怖くない……なんてことある? 本当?(ところで本当に怖くない人は普通にいるらしく、マジで人に依りそう) これもまた、だから性別という属性が絡んでくるけれど、いや、同性同士なら別に警戒も何もないなって感じで。まあ、女性二人で人通りの少ない夜道を歩くのは普通に危ないだろってツッコミがあるけれど、それは一先ず置いておくとして……。少なくとも、隣を歩く人間に払う警戒心はそれほど持ち合わせていなくても構わないと思う。ところで。ところで、なんだよな、だから。非対称性があるよなと思う。具体的には、男性視点と女性視点とでは話が変わると思っていて。男性的な目線で言えば、異性に襲われたところで正直に言えば(相手がヤバい武器を所持していたり、あるいは不意をつかれたりしない限り)力で勝てそうな気がするし、というか(足を怪我するなどしていない限り)普通に走って逃げられそうな気がする。だから、そういう意味で過剰に警戒する必要はないのかなと思うのだけれど(ところで、強固な敵意を以てして用意周到を徹底されたら普通にやられると思う)、一方で女性の側は一般にそうではないよなという気持ちがあり。馬鹿にしているとかではなく、本当にそんなんじゃなくて、これは生物学的にどうしようもないこととして。……いや、だから怖くない? 自分がその立場だったら……、多分だけどめちゃくちゃ怖い。めちゃくちゃってことはないかもしれないけど、でも警戒はすると思う、かなり。って自分なら思うんだけど、でも気にしすぎなのかな。みたいなことを、だからちょうど一年くらい前に考える機会があり、とはいえ、それを本人に直接訊ねるのは流石に自意識過剰が過ぎてて気持ち悪いなと思ったのでやめた。世の中、そんなに良い人ばかりじゃないのにな~と思いつつ、思うだけに留めつつ(自分の周りにいるのは良い人ばかりだけど)。なんていうか、思うんよな。良い人のふりをしてるだけかもしれないじゃんって。他人の本性がどこにあるのかなんて外からじゃ分かりっこないんだし、なんなら自分自身、常に疑っている。本性の在処なんて自分でも分かんないし。だからつまりは、加害可能性の話でもある。いつそっち側の人間になるかなんて分かんないしな~と思うから、だからこういうことを考えたりもする。……、あるいは。あるいは自分なら、信用できない他人と二人きりで会うときには個室を避け、比較的見晴らしがよくて、それでいて複数の脱出経路がある場所を選んだりとか。まあ仮に襲われても順当に逃げられるかなって想像したりとか。なんか、自分はそういうことを平気でする人間だからって、そういうのも関係あるかもしれない。でも、これはこれで人のことを信じていなさすぎかな。

 

 

 

代理戦争


 夜、ありえないくらいに月が綺麗で雲も散り散りで、なんていうか、空が凪いでいた。川沿いのベンチから星を探して、代理戦争みたいだな、と思ったりもした。代理戦争の正確な意味を知らないまま雰囲気で使っているけれど。実際、何の代理なんだよって感じはするし、そう考えると別に的を射た表現でもなんでもないなって気持ちにもなる。マジで向いてないな、こういうの。なんていうか、いったい何が誠実で何が不誠実なのか、分かんなくなってくる。というか、考えれば考えるほど少なくとも誠実では決してないよな、こんなの。単に、そのままだと何となく嫌だから、って理由しかない。なかった。いやだから、そう、だから代理戦争なんだよな。戦の相手は自分自身だけど、だとしたら鏡の向こう側はいったい誰の代理なんだろうな。

 

 秘密。誰にだって秘密にしていることの一つや二つはあるよなと思っていて、それはそう。その秘密を共有することになった人は可能な限りその存在を秘匿すべきだろうし、それもそう。でも、これはもうどうしようもないこととして、人間はたとえば機械のように定めた通りにのみ動くような代物ではなくて、要は他人の口に戸は立てられず。いやもちろん共有者の秘匿意思が薄弱という場合だけじゃなくて、「この人には話してもいいかもしれない」みたいな、そういった前向きな判断に基づいて秘密の在処が伝播することだってあるはずで。そんなの、共有者が勝手に判断していいことではないのだけれど、とはいえ、そういうことが起こり得るのが人間関係だろうとも思うし。でも、だからそうなった場合、次のような構図が生まれ得るわけで。『 A さんの秘密を知っている B さん』と『 B さんから A さんの秘密を教えてもらった C さん』と『 B さんしか秘密を知らないと思っている A さん』。A さんと C さんが全くの無関係なら、まあ不都合らしい不都合は何も起こらないだろうと思う。けれどそうでなかった場合、なんか、なんだろうな。率直に言って、対等でない。対等じゃないじゃんか、だってあまりにも。こういった非対称に陥ることは先に言ったように、人間関係を構築していく上で珍しくもないはずと思っていて、でも、だからこうなったとき、次にどう動くかというのは選びようがあるよなと思っていて。責任の取り方っていうか、B さんにはそれを決定する義務があると思っていて。これまでに C さんの位置に立たされたことは何度かあってそのたびに、どうするんだろう、と思っていた。その秘密を自分が知っていることを元々の持ち主に教えなくていいのかな、って。というか、そのようにしてほしくて。自分が A さんと接触するときに色々考えちゃうから。「自分はこの人の秘密を知っているけれど、この人は自分が秘密を知っていることを知らないんだな」みたいな、後ろめたさにも似た何か。そういうの。あくまで自分に限った話だけれど、純粋な友達同士ではいられなくなるんよな。なんていうか、そういう非対称性があると。だから、自分が秘密を知っていることを、ちゃんと元々の持ち主に知らせていてくれていたら、自分はかなり安心できる。対等なままでいられるなーって思う。思った。いま、天を衝く勢いで自分自身を棚に上げている。

 

 何をどうすることが誠実なのかって、そんなの自分の言動ひとつを切り取ってみても判断できないし、ましてや。そもそも人に依るはず、そういうのは。だから、自分が正しいと信じられる結果を選び取っているならそれでいいんだよなとは思う。たとえ他の誰かの目にはそうみえなくたって。でも。でもなあ。でもなあって思うこともある。対等と非対称。場合に依るし、人に依るし、気分に依るし。そうして並べたいくつかの中の、じゃあいったいどこに誠実さは宿るんだろうって考えることも、そういう夜もあるにはある。

 

 

 

20220813


 そういえば一、二年ほど前に「一葉は何を話しても "無関心" でいてくれそう」みたいなことを言われたなと思い返していた(ここでの「無関心」は辞書通りの意味ではない)。自分自身を本当の意味で客観視することはできないから、だから自分だと全然分かんないけれど、その辺のこと。ただ、過去から現在に至るまで、そのほか様々な人々からそれに類することを度々言われるので、自分じゃ分かんないってだけで、少なくとも周囲の人の目にはそう映っているってことなんだろうなとぼんやり考えている。

 

 信頼……、信頼って何だ? なんか、たまに怖くなる。人望とかって言葉にも同じことを思ってるんだけど、なんていうか、それほどの何かを預けられるに足るだけのことを自分は本当に果たしたのかなって。果たして果たした。いやまあ、全く何一つだってしていないだなんて、そんなことは言わないけれど、流石に。そこまで自分のことがみえてないわけでもなくて。でもなんか、なんていうか、要するに、本当に釣り合ってる? ってことなんだと思う、引っ掛かっているのは。なんかもう、マジで何も分かんないなーってずっと思ってて、半年以上前から。いっそ本人たちに直接訊けたら早いけど、「貴方はいったい、自分の何をどうして信頼してるんですか」って。みたいなことを言ったら相手にウケた。疑ってるわけじゃない。疑ってるわけじゃないんだけど、でも。釣り合ってるかなあ、と思ってしまう、どうしても。そんな大層な人間じゃないのにな、とも。

 

 最近なんとなく自分の書いた歌詞を読み返していたのだけれど、「こいつ、めちゃくちゃ手を繋ぎたがるな」という感想が湧いて出た。それで考えてみたのだけれど、自分にとって「手を繋ぐ」という行為は、なんていうか、「世界の共有」みたいな意味合いが強いのだと思う。世界。自分たちは同じ地球という星の上に生命活動をしている同士なわけだけれど、ところで生きている世界って一人ひとりで別物だよなって、そんな感覚があって。太陽の眩しさに救われる人がいて殺される人がいて、そういう話。なんていうか、「手を繋ぐ」という行為によって、その瞬間だけお互いの認識世界を行き来するためのゲートが生まれるような、そんな気がするっていうか。体温、脈拍、機微、「世界の共有」。『繋いだこの両手が 灯りを見失っても / ステラグロウ』、『不意に結んだ手に 触れる君の鼓動 / cor 』、『繋いだ手を 確かめあって 歩くのさ / 星降のパレーシア』。全部そう。二人がいまを生きているということを確かめ合うための方法の一つなんよな、自分にとっての手を繋ぐという行為は。

 

「お別れの唄ばっかり作ってるな」とも思った。これはまあ、ずっと昔から思っていたことだけれど、改めて。究極の命題。そう、そうなんだよな、だからつまりはそれ自体が。必然的に訪れる最後の瞬間に対して、自分はいったいどんな姿勢を取るべきだろうって話。たとえば『ステラグロウ』は肯定で、たとえば『 cor 』は否定で、たとえば『星降のパレーシア』は沈黙で。そんな風に、選ぶスタンスは曲ごとによって変わるのだけれど、でも、いずれにしたって「最後」をテーマにしているという事実には変わりなく。おんなじことしか書けないや、と思う。思いながら歌詞を読んでいた。でも、どうなんだろうな。自分とは違う、他人が読んだとしたらどんな風に感じるのだろうって、そういう好奇心があるにはある。おんなじことばっか書いてんなーって、やっぱり自分と同じでそうみえるのかな。

 

 

 

daikichi18_第一回投票


 大吉音 18 収録にあたって投票した曲について、公言してもよい(もちろん、しなくてもいい)とのことだったので開示ついでに感想戦をします。

 

 

 

〇入れるかどうかを迷いまくった曲

 毎回のことなんですが 2 点、3 点の曲はあまり苦労せずに決まり、一方で 1 点曲を絞り込むのに無限時間かけています。以下で紹介するのは、数ある「 1 点入れるかどうか迷った曲」の中でもさらに「 1 点入れるかどうかをマジでめちゃくちゃに迷った曲」です。マジで迷った! 仮に 1 点曲を 11 曲まで選んでよいという投票設定だったら全部に入れてました(意味ない)。

 


172_19:世界革命 / nion

youtu.be

 自分の中では長らく「 nion といえば『サイント』!」という気持ちだったのですが、コサメガ主催の『 172 号聴く会』へ立ち会ったときに「めちゃエエヤンケ……」となり、結果、ギリギリまで迷う羽目になりました。陰鬱な A メロからのサビの解放感!(開放感でもある!) ……と言いながら A メロが一番好きです。

 


173_4:Follow my heart / パリ

soundcloud.com

 パリが全然ライブで歌わないので記憶から消し飛んでいたんですが(責任転嫁)(嘘で、ひとえに自分のせいです)、コサメガ主催の『 173 号聴く会』ですべてを思い出し、「そういえばこれがあった~~~~」という気持ちでした。「好きだから」という理由だけでゴリ押すかどうかを悩みまくり、悩みまくって。悩みまくった末に断念しました。いやでも、マジで好きなんですよね、この曲。なんていうか、「音楽が好きです!」って感じが一曲を通してめちゃくちゃに伝わってきて(自分が勝手に受け取っているだけかもしれないが)。クオリティは無論のこと大切なんですけど、でも忘れちゃいけないものって他にもたくさんあるよねという。

 


174_4:BoundForUnknown / MES19

youtu.be

 これね~~~~~~~~~。聴き大会のときも「ぐわ~~~~~~~」ってなった記憶があるんですが何故か記憶が消し飛んでおり、これもまたコサメガ主催の『 174 号聴く会』へ立ち会ったときに「ぐわ~~~~~~~~~~~~~」となってすべてを思い出しました。クラブミュージックへの造詣が深くないので用語が分かんないんですが、後半のエキゾチックサイケペペペペーシンセゾーンがマジ好きで。シンプルでカッコいい! こういうの、自分は作りたいと思っても絶対に作れないので本当に尊敬してます。

 


・174_9:Kamogawa Hallucination / kosamega

youtu.be

 いや~~~~、これマジで好きで。『On the Last Day』に端を発する光の差す感じの破壊と創造 kosamega ミュージックというよりは、ただただ静かな停滞と緩やかな破滅があるだけって感じの。なんていうか……、陰鬱? でもないんだよな。妙に気怠い午後三時、廃校になった校舎の二階をひとりであてもなく歩いてるみたいな。なんか、そんな感じの気分になる。なんていうか、風景を想起させられる(=疑似的に視覚に訴えることのできる)音楽ってほんとにすごいな~と思っていて(こっちが勝手に妄想してるだけだけど!)。やっている音楽がそもそも違うというのは勿論あると思うんですけど、それはそれとして、これもまた自分には絶対にできないことなので。

 


・175_16:深海魚 / Σ

www.youtube.com

 聴き大会時の記憶が頭の片隅に留まっており、コサメガ主催の『 175 号聴く会』で再会して「うわ~~~~~~~」になりました。Σ君といえばエレクトロ系のイメージがどうしても強いんですが、その点、『深海魚』はマジ往年のベリーグッドボーカロイドミュージックを地で行っていて。最後、落ちサビから溜めに溜めての転調とかね(ネタバレ)。これもこれでマジ大好きな一曲で、本当にギリギリのギリギリまで入れるかどうか迷っていました。

 


〇 1 点曲

 マジで迷いまくった末に残った曲です。言うほど強く意識しているってわけでもないんですが、投票曲はジャンルがなるだけ偏らないように、という気持ちで毎回選んでいます( 2 点、3 点も同様)。

 


・171_6:宵の明星 / mamezo

www.youtube.com

 クラシック調(?)枠。たしか自分が四回生の、だから二年前の九月ライブで流れたような流れなかったような、そんな記憶が曖昧ながらもあるんですが。ともかく、初めて聴いたときからめちゃくちゃに食らった曲でした(マジで食らった)。全部良い。全部良い。全部良いですよね、なんか、怖いくらいに。自分は普段こういう曲全然聴かなくて、だからなんていうか、この楽曲を称賛するための言葉も素養もまるで持ち合わせていないんですが。それでもそれなりに感じたことを書き起こすとすると、ピアノのフレーズがまずもってめちゃくちゃ綺麗だなと思って。弦へ主旋律譲るとことかもめちゃグッとくるんですけど、いやでもやっぱピアノのラインが綺麗すぎる~、全体を通して。その、たとえば二点、三点を入れるくらいに推している曲だったとしても、仮にそういう曲を自分が作れるようになったとして嬉しいかといえば、必ずしもそうではないみたいな話があって。でも、一生に一度でもこんな曲作れたらめちゃくちゃに楽しいだろうな~って、『宵の明星』は聴くたびにそう思います。

 


・173_3:できそこないフライト / Imanishi

youtu.be

 疾走ロック枠。最初聴いたくらいの頃から既に「ぐわ~~~~」となっており、早く mix しなおした音源を YouTube に公開しなさ~~~~~いって一年以上前から言い続けています、本当に。真面目な話、展開の魅せ方が好きで。特にサビ前の七拍子。ああいったトリッキーさは当時の Imanishi 曲の特徴の一つかなと思うんですが(本当?)、それを大してカッコつけることもせずにサッとこなし、そのままサッと次の展開へ行くのがもうマジでカッコいい! こういう変拍子の組みこみ方、なんならめちゃくちゃ教えてほしいくらいです。

 


・175_3:Summer Cocktail / なずしろ

www.youtube.com

 通常歌モノ枠。この曲、マジでめちゃくちゃに好きなんですけど、投票結果みてみたら自分以外の人も大概好きらしくて笑ってました。終始おしゃれなフレーズを奏で続けるピアノとか、なんかよく分かんないけど良い感じの動きをし続けるベースラインとか、程よい余韻を残して消えていくリードギターとか、なんかもう全部が好きで。なんか、なんだろ。「なんかもう全部が好きで」以上に言うこと特にないんですけど。強いて言うなら、この曲もこの曲で『Kamogawa Hallucination』みたいに情景を想起させられる楽曲だな~と思っていて。思うに、自分はその要素をとても気に入っているのだろうっていう。あと、これは完全に関係ない話なんですが、『Summer Cocktail』と『深海魚』のどちらに 1 点を入れるかで最後の最後まで悩んでいました。

 


・175_11:Dysnomia / Mint

soundcloud.com

 ハードめクラブミュージック枠。公開当時からめちゃくちゃに好きでした。適切な用語を扱えているかという問題はこの際置いておくことにして、なんていうか、ハード系(メタル系?)のロックサウンドからワルいシンセの犇めくドロップへ雪崩れ込む楽曲が本当に好きで。というのは単純な理由としてあるんですが、他に推したいポイントとしてはロックパートのドラムスのフレーズですね( Mint 君がドラマーであることに関係する?)。リズム隊がマジでキマりまくってるんですよ、この曲。特に 1st drop のあと。なんか、あまりに自然だからサッと聴き流しちゃうんですけど。自分で曲作るときに毎回毎回ドラムの打ち込みで悲鳴を上げている身としては、「やってんな~~~~」って感じです。なんだろ、リズムそれ一つだけでも十分成立するくらいの、それくらいの強度があるなって。そういうのも含めてお気に入りの曲でした。

 

 

・175_13:夜と傷 / 人間マン

youtu.be

「好きだから」という理由だけでの投票枠。毎回毎回、好きだからって理由だけでクオリティ等の一切を度外視して票を入れる曲が一つあるんですが、今回は人間マンくんの『夜と傷』がそれでした。『Follow my heart』のところでもちょっと書いたんですが、音楽としてのクオリティはもちろん大切で。それを蔑ろにすることは違うと思うんですが、一方でそれはそれはとして、他にも忘れちゃいけないものがたくさんあるだろ! という気持ちもあるにはあって(誰への叫び?)。そんな大切を自然と思い出させてくれる音楽が自分は本当に大好きで、クオリティとか関係なしに。そういう意思表明としての 1 点です(誰へのアピール?)。……この曲、『夜と傷』は聴き大会で聴いたときから、何ならライブで初めて聴いたときからかなりの衝撃を食らっていて(聴き大会の discord チャンネルをみにいったら、この曲の好きなところを全部むかしの自分が書き込んでいた)。「自分が大吉に収録されてほしいと思う楽曲を選んでください。」(投票フォームに掲載されていた文章)というのであれば、この曲を入れないと全部が嘘になる! とそう思えたくらいには好きな楽曲です。

 


・175_14:Dummy Head / MOAN Sound

youtu.be

 BGM 枠。本人たちはおふざけ(?)で作ったらしいですが、自分としてはとても好きな一曲です。いや真面目な話、この曲めちゃくちゃ良くないですか? 探索系ゲームのマップ BGM みたいっていうか、こんな良い BGM の流れるステージがあったら入り浸りますって、間違いなく。ジャンル的には Ambient ……で合ってるんですかね、分かりませんけど(ホンマに合ってる?)。『宵の明星』と同じで、自分で作れたらマジ楽しいだろうな~~~、って思います。特にカッコいい展開やキメキメのフレーズが詰め込まれているというわけでもないのに、というかむしろ単調なくらいなのに、なんだろ。飽きさせないというのとはまた違っていて、飽きる飽きないとかじゃないっていうか。自然? いや、だからそれこそ BGM なんですよね。ものすごく自然に四分を経過する。すげ~。

 


〇 2 点曲

・172_20:On the Last Day / kosamega

soundcloud.com

 穏やかインスト枠。マジで好き!!!!!!!!! マジで好きです、本当に、嘘偽りなく。初めて聴いたときからもうめちゃくちゃに好きで、何が好きかってオタク語りをするんですけどこれから。『Kamogawa Hallucination』や『Summer Cocktail』でも同じことを言っていたんですけど、情景描写としての音楽!!! 『On the Last Day』はその一点があまりにも極まっているなと思っていて。その、どんな音楽でもイヤホンをして目を閉じてって、そうしたら幾つかの景色は大なり小なりみえてくるはずと思うんですけど(嘘で、人に依るかもしれない)。なんていうか『On the Last Day』は、そう、感覚的には映画の域なんですよね。あるいは夢? いや、自分で言っといてなんですけど夢のほうが感覚的に近いです、自分的には。よく言われますけれど、夢って体感時間上は長く感じても実際にみている時間はほんの数分だとか。いや、だからそれなんですよ、『On the Last Day』って。たった七分弱の間に一時間半くらいある映画を観たみたいな、そういう気分。伝わってほしい~~~。最後の最後に満を持して展開されるピアノフレーズもかなり好みで、起承転結~~~~。起承転結。夢遊? そういうの!

 


・173_1:回想車 / マコトシアカ

www.youtube.com

 真っ直ぐポップス枠。もはや逆に何も言うことないです。嘘で、言いたいことはめちゃくちゃあって、というかどんだけ良い曲作んねん!!!!!マコトシアカ!!!!!!! って気持ちです、とりあえず(呼び捨てにしてごめん)。こんなこと言うのもアレですけど、なんていうか、マジのマジに自信(?)を粉々に打ち砕かれた一曲で。後にも先にも、この曲以上にそういったインパクトを食らう楽曲はないんじゃないかって気さえします。それくらいやられた。いまだから言うんですけど(マジ全然関係ない話なんですけど)、『回想車』で自信をズタズタにされ「このままじゃダメだ~~~!!!!!」って気持ちになって、それを一因として『リスティラ』が生成されました(当初『リスティラ』のリファレンスには『回想車』があった)。でも、全然勝てた気がしない! 音楽って勝ち負けじゃないけど! じゃないけど、それはそれとして! いや、本当に凄いと思います。こんな素晴らしい楽曲を生み出してくれる人と同じサークルにいれて、マジで幸運だな~とも思います。

 


・175_2:しゃぼん玉フロート / マコトシアカ

www.youtube.com

 オシャポップス枠。こういった曲調の音楽を自分は普段全然聴かなくて、そんな人間であってもそれでも惹きつけて離さないだけの魅力と強度があるな、と思います。街で偶然耳にして shazam するみたいな、そういう意味。何様だよって目線のコメントをしてしまって申し訳ないんですけど、いやでも、そのくらい完成度の高い、それでいて単に完成度の高いというだけでない楽曲だなと思っていて、本心から。いや~、めちゃくちゃ好きです。ボーカルのニュアンスもちゃんとこだわってるっぽくてすごいな~というのも勿論あり。自分はかなり適当に済ませてしまうので。三分弱の曲なのに一回聴いただけでもすげ~と思う要素が多すぎて、いちいち全部に触れてたら言葉があまりに足りないよ~って感じです(いま思い出したけど、尺が短いのもすごい。いや正しくは、三分足らずしかないのにそうと思わせない構成力がすごい)。ほんとにすごいと思う、マコトシアカ君。

 


・173_14:Finalizer / ITSUHA.+Rakuno.α

soundcloud.com

 疾走インスト枠。「自分の曲に票入れるのどうなん~」って後ろめたさにも似たささくれがありつつ、それはそれとしてこの曲は(これまでも何度か言っているんですが)九割くらい(控え目に見積もっても八割くらい)Rakuno.α の曲で。自分の携わった曲としても勿論好きなんですけど、それはそれとして Rakuno.α の制作した曲という側面をしてもめちゃくちゃに好きな曲で。なんていうか、音ゲー曲に課せられた「二分以内」という制約の中で、それでも全体を通してそれなりにうまくまとまっているように思えるというか(手前味噌っぽいですけど……)。そういう意味で自分の中での評価値が高かったです(一般に、二分以内で展開のまとまった曲を作るのはムズい)。……曲がりなりにも自分が関わっているのであんまり語ることないな。結構色んな人に投票してもらえてるっぽくて嬉しかったです、ありがとうございました。

 


〇 3 点曲

・172_3:Come Tonight / Noctavation

www.youtube.com

 横ノリダンスミュージック枠。どこが好きって言われたら難しいんですけど。いや、本当は全然難しくなくて、むしろ一言で説明できるくらい単純なことなんですけど。聴いてるとめちゃくちゃ自然に身体が動くな~、っていう、言ってしまえばただそれだけの。でも逆に言えば、一見たったそれだけのことに思えるような理由だとしても、それでも迷わず 3 点を入れたくなるくらいには、自分にとってはとても魅力的な楽曲なんですよね。なんかもう、『Come Tonight』をバカでかいスピーカーで一生聴いていたい以外の感情がないし、それはそれとして夜の散歩中にもずっと流していたいです。って話だけで片づけるのもあれかなと思うのでここ好きポイントを挙げておくと、一曲を通して Bass(で合ってる?)の存在感が絶妙だなってのと、あとは 2nd drop で一瞬だけ変なピッチ感になるベースラインがあまりに好きすぎ。補足で、パーカッションのアタック感がシンプルかつ小気味良くて。そういった諸々から生じているのであろう横ノリ感っていうか、心地良さみたいなのが何よりも好きです。

 


・175_15:Looking for / がき

youtu.be

 バラード枠、……というとちょっと違う気がしますけれど、気持ち的にはそんな感じで選びました。これに関しては、なんかもう、どうして選んだのか自分でもよく分かってないです。ただなんていうか思うこととして、好きなものに順位をつけたいわけじゃないんですけど、結果的にはそれと変わらないことを自分は(あるいは、投票者全員が)やっていて。別にライブや何やがなくたって、バイト先へ向かう途中の電車だとか散歩中だとか、日常生活の合間合間に何度も繰り返し聴くくらいには好きだった曲はたくさんあって。投票した曲としてこれまでに紹介したものの中にも、あるいは今回は投票を見送ったものの中にも、本当にたくさん。でもなんていうか、そういう一切を全部ぶち破ってきたのがこの『Looking for』で。当時の聴き大会時点で記憶に引っ掛かってたってのは当然あるんですけど、ただ、例の『 175 号聴く会』で聴いたのが本当に久しぶりって感じで。たぶん半年ぶりとか、それくらい。なのに、「ああ、3 点入れるとしたらこれしかないわ」って。本当にびっくりするくらい自然な感覚としてそういう気持ちが在って、いつの間にか。他の投票曲は勘違いに思い込みを重ねたものだとしても、「こういうところが良いと思ったから」って主張できるくらいには自分なりの理由を以て選んだつもりだったんですけど、なんていうか。それで言うなら『Looking for』はものすごく本能的に選んだな~って感じです。「あれが好き」「これが好き」って感覚をすっ飛ばして選んでしまう程度には突き刺さったっていうか、自分の心臓にめちゃくちゃ近い音楽だなあって。本当に、順位をつけたいわけじゃないんですけど、本当に。ただ、どうしても言いたいので先のように断った上で書くことにするんですが、第一回の投票対象曲の中で一番好きな楽曲でした。

 


〇終わりに

 好きなものに順位をつけ、さらには取捨選択をし、しかもその結論が間接的に相手へと伝わり。この地獄は? って気持ちです、いつもいつも、大吉投票のときは。でも、だけど決して無意味ではないよなと思っていて。こうして選ぶ必要性に迫られて初めて、自分の中にある曖昧なままの「好き」が整頓されていくっていうか。……2021 年聴いた音楽 BEST10 のときも同じようなことを思った気がする(気がするではなく、間違いなく同じことを思っていた)。

 あと三回もあるんですね、これが。やば~。残りの投票も真面目に考えます。今回みたいに投票先を開示するかどうかは、そのときの気分次第ですけれど……。

 

 

 

20220803


 ツイートするほどでもないこととか、ツイートするようなことでもないこととか、最近思ったそういうことを書く。

 

 

 京都の夏、基本的に暑すぎ。「暑すぎだろ!」と思ったので半袖でバイト先へ向かったところ、帰りの電車が死ぬほど寒くて本当に後悔した。羽織るものを持って行けという教訓ではあるのだろうけれど、いや、うん、まあそう。自分が悪いな。

 

 修論とかいうの、めんどくさいな~ってずっと思ってる。数学は好きだし、勉強も好きだし、新しいことを学んでいくこと自体は嫌でも何でもないのだけれど、他にやりたいこともっとあるんだよなあ……っていう。「大学に入ったんならちゃんと勉強しろよ」みたいなことを訳知り顔で言う人は山ほどいるけれど、自分は懐疑的。大学へ入ってから勉強以外に大切なものをみつけて、そうして人生の舵を切った人を何人か知っているから。そりゃまあ勉強は大事だけれど、何をどう優先するかなんてその個人が勝手に決めればいいことなんだし。勉強しろだとか何だとか、少なくとも他人が他人にとやかく言うようなことではないよね、と思う。

 

 何を思い立ったのか、一昨日昨日今日とゴールデンボンバーの曲を聴き漁っている。面白い。なんか、メタル調のオケに重たいボーカルが歌を乗せる傍ら、謎の女性陣が「もっと酒飲め!」みたいなコールを延々と入れ続ける曲とかあった。どういうコンセプト? 歌詞全文が中国語のやつとかもあったな。そうかと思ったらめちゃくちゃ染み入ってくるようなバラードなんかも混じっていて、なんだかよく分からない。でも、自分はかなり好きだな。ボーカルの人(鬼龍院さん)、きっと音楽が好きなんだろうなあと思う。

 

 ギターの楽譜って手書きのほうが断然早くね? と悟った結果、musescore を破壊してしまった。同様に数式も手書きのほうが早い。TeX を破壊。

 

 同性相手なら特に抵抗はないのだけれど、異性が相手となると流石に話が違うよなあと思う。なんていうか、ぞわぞわする。気にしすぎ? 「最近、色んなものがおかしくなっていってるよね」だとか、遠くの空を眺めたりして、炎天下。頭の片隅ではそういうことを考えてた。

 

 攻撃と批判は別だとか言うけれど、それってある種の信頼関係が前提だよねと思う。深夜、友人と通話をしながらたまーに話す、「あのアーティスト、最近同じネタ擦りすぎじゃない?」「最近、流石にちょっとやりすぎだよね」「別に悪い曲ではないけれど、でも良くもないよな」。相槌を打ちながら、そのアーティストを好きだと言っていた人のことを思い出す。その人の前じゃこんな話できないな、と思いながら(するつもりは勿論ないし、したいとも思わんけど)。相手を選んでいる、お互いに。自分はその友人の言葉に不快感を覚えない。相手がどういう気持ちで言っているのかを(ある程度)分かっている(つもりだ)し、つまり、相手のことを一定以上には信用しているから。攻撃か批判かを決めるのは、それらに限らずともあらゆる心象を決定するのはいつだって受け手の側なんだよな。自分はその友人のことを信用しているから、その信用に基づいて発言を区別することができる。でも、同じことを全然知りもしない人が言っていたとしたら「はあ、そうですか」って受け流すだけだろうなと思う。説得力の話よな、要するに。人って信じたいものだけを信じて生きているらしい、みんなもそうでしょ?

 

 バイトに寝坊した。働き始めてもう五年くらいになるけど、二度目かな。やってしまった~~と思ったけど、端末の時計表示を目にしたときは一周回って冷静だった。「いやもう、どんな焦ったところで手遅れだし」みたいなテンションで、逆に気持ち悪いくらい落ち着いていた。ちゃんと時間通りに起きたんだけどね。まだ微妙に寝れるな~と二度寝してしまったのがよくなかった。二度寝のときにアラームをかけなかったのもよくなかった。いや、本当のことを言うと前日に夜更かしで作業をしていたのが何よりもよくなかった。次の日に予定があるときは早く寝ようね。

 

 バイト。そういえば、いまのバイト結構気に入ってるんだよな。塾講なんだけど。院試ゼミやってたときも感じたけど、誰かに何かを教えるのが好きなんだろうな~って思う。相手の理解度に合わせて「どう説明すればうまく伝わるかな~」って考えてるときもなんだか楽しい。そういう目線で教科書を読み返していると、思いのほか漏れなく記述されていてすごいな~ってよく思う。そりゃまあ、国レベルで使われているものなんだから出来がいいのは当たり前っちゃ当たり前なんだけど。いやでも、すごいことだと思う。すごい。

 

 高校生の頃、自分の作った曲を可能な限り詰め込んだ CD を渡したら喜んでくれた人がいて。今年の春、MIRINN として作った CD を、つい先日、その人に渡してきた。八年越しくらいだと思う。どうして音楽なのって、その日にも訊かれた。「分かんないだよね」と返した。実際、分からないから。昔から歌は好きだったけれど人並みだったと思うし、幼少期の自分に馴染んだ創作道具は紙とペンだった。音楽を選ぶ必然性なんてどこにもなかったなと思うし、これは本当に心の底から。とはいえ、だからそうやって、昔の自分が作った落書きみたいな音楽でも喜んでくれた人がいたから、だからいまも続けてられてるんだよなっていう、そっちの理由はちゃんと解ってる、ずっと前から。流石に本人に直接言うのは無理だったけど、恥ずかしすぎて。でもよかった、ちゃんと渡せて。奇跡みたいな一瞬だったな。高校生の自分に教えてやりたい。

 

 書き始めてから一時間で終わろうと思ってたけど、こんなもんかな。もっと書けることありそうだけど。

 

 そういえば、一時期はバカみたいに顔を合わせていたのに最近はめっきりだった後輩と会う機会があった。心配(?)してくれていたらしい、自分のことを。それが意外だったというわけでは全くないのだけれど、「そういえば、こいつはそういうのを直接言ってくる奴だった!」と思い出して、返す言葉も見つからず適当に誤魔化してしまった。いや、良いところだと思う。そういう真っすぐさはずっと大事にしてほしいとも思う、本当にね。というかまあ、心配してくれ~アピでしかないしな、あれは(アピではないが、でもまあ部分的にそう)。ところで、心配してくれ~って声をあげたはいいものの、いざ誰かに心配されると申し訳なくなるっていうか。自分があまりにも人間的に未熟なせいですまねえ~~~~って気持ちになる。すまん、マジで。でも、ちゃんと終わらせたのは本当だから心配御無用わよ。

 

 アップロードしようとブログを開いたら「今月の PV 数が 100 を超えました!」って書かれてて笑った(みてみたら 150 くらいあった)。今月、まだブログ動かしてないんだけど。どこの誰が読んでるんだよと思いながら、でもまあ、流石にちゃんと分かってるって。いやほんと、ありがとうございます、いつもいつも。拙い文章ですけれど、生きている限りはこれからも生きていますアピをしていこうと思います、ここで。

 

 

 

 

 

20220729

 


 最近思っていたことについて雑多に書く。

 

 ついさっきまで眠っていた。なんか、妙な夢をみた。中学生くらいの小さな女の子と夜、どこかの一室にいてそのまま一緒に眠るだけの夢。自分はいわゆるアニメ調の夢をみることが昔から多くて(アニメ全然観ないのに)、今回もそうだったのだけれど、その女の子の顔に見覚えはなかった。夢の中ではそれなりに親しい間柄だったようで、ただ目が覚めてから「あれ、いまの誰だ?」ってなって。自分が忘れてしまったのか、そもそも知らない相手だったのか、どっちなんだろうと考えてみたり前者だったら嫌だなあとか思ったり、目が覚めてからの一〇秒弱。誰かと一緒に眠ると安心できるっていう、たぶん自分の中にはそういう感覚が在って、本当に幼かった頃からずっと。昨夜はそこそこ嫌な、というか不安定な気持ちのまま眠ったから、だからこんな夢をみたのかもなと、身体を起こした後、室温に馴染んですっかり温くなったアクエリアスを口にしながら思った。だとしたら感謝しないといけないな~とか思ったりもして、あの女の子に。だけどもう、夢の中でどんな表情をしていたのかさえ忘れてしまった。あんな近くにいたのに。……まあ、夢ってそんなもんだよな。

 

 昔の自分は、ここでいう昔とはほんの三、四年ほど前のことだけれど、自分の嫌と思うものに対して、割と明確に嫌ということを発信していたように思う。ように思うっていうか、実際そうだった。最近は、ここ二年くらいは、そういうのが極端に減った。これは世界から自分の嫌なものが一斉に消滅したというわけではなく、まあ自己の許容ラインが大幅に改善されたというのは事実としてあるけれど、それはそれとして。単に、嫌だな~、って気持ちを内側に溜め込むようになった。嫌なものを嫌だと発信することは、それ自体が誰かのことを傷つける可能性があるし、何よりも、ただ自分が気持ち良くなりたいがための行為でしかないなと思って、大学へ入って以降のどこかのタイミングで。どこかにストレスがあって、抑圧があって、その当て擦りとして嫌なものについて嫌と言う。最悪の一種。だからあんまり言わないよう心掛けるようになった、そういったことを。だけど、それはそれとして心は摩耗していくんだよな、と思う。その『嫌』が自分の失敗だとか、あるいは性格上の問題だとか、そういったものに起因しているのなら納得もいく。仕方ないと割り切れる。でも、そうじゃない、外界から一方的に割り込んでくる負の情報によって擦り減っていく部分が明らかに多くて、ここ一年くらいは。それが本当にしんどい。しんどいな~ってよく思う、最近。

 

 何かを心底憎んで、嫌って、嘲笑って罵って蔑んで。そうしないと呼吸のできない人たちが大勢いることは知っている。高校まではそんな人、インターネットでだってほとんど見かけなくて、だから大学へ来てから知った、そういう人たちがいることを。そのうちの何人かと交流を持っていた。なんていうか、同情って言葉も気持ち悪いな。なんだろ、共感……でもないか。境遇? その個人の背景事情に理解を寄せるというか、そういったことはできる、ある程度なら。だからそうやってさ、自身と相容れない存在、主義、思想に対して暴言を吐きたくなる気持ちも、まあ何となく分かる。何となくでしかないけれど、その不明を根拠に突き放すような真似をするつもりはない。でも、いや、それでもやっぱ無理だ、ごめん。これは二〇と数年を生きての経験則なのだけれど、他人の負の感情に触れすぎると本当に良くなくて、自分は。自分と同じような人はたくさんいるだろうし、そうでない人もたくさんいると思う。どっちがどうとかはない。ないのだけれど、ただ事実として、自分は誰かの負の感情にやたらと飲まれがちな傾向がある。毒される。暴言を吐くなとは言わないよ、別に。それは自由だから。でも、こっちにだってお前のことを嫌いになる自由があるんだぞって、最近はそんなことばっか考えてる。誰かを、何かを嫌いで居続けるなら、自分も同じように嫌われることへの覚悟をしろよと思う。思ってしまう、自然な感覚として。それで、そういうことを考えている自分を認識するたびに嫌な気持ちになる。そういうのが溜まっていく。本当に最悪。なんでこんなことを繰り返さなきゃいけないんだ、本当に。

 

 嫌だなあと思ったことをこうやって吐き出している。どこかで吐き出さないと本当に心臓をやられてしまうから。それにブログってそういうものだしな、と割り切ってもいる。アクセスするもしないも、最後まで読むも途中で止めるも全部、読む人のほうへ任せている。自分から「読んでくれ」と言うことなんてないし、喧伝したりもしない。というか読まなくていい、こんなの。誰かに読んでほしいというわけじゃなく、ただ単に負荷が閾値を超えそうだから出力しているってだけで、読んでて楽しいようなものでもないだろうしさ。それに、自分と同じようなタイプの人はたぶん読んでいて良い気分はきっとしないだろうと思う。ごめんなさい。いるかは分かんないけど、そういう人が。なんにせよ、読みたくなくなったところで止めたほうがいいと思う、本当に。自分は最後まで書くけれど。

 

 なんていうか、某感染症が流行し始めて、全員が等しく不自由を背負うようになって、そうしてしばらく経った頃から色んなところの歯車が狂い始めてきたなって感覚がある。それくらいの時期からだと思うんだよな。なんでもかんでも安易に結びつけてしまうのはよくないけれど、なんていうか、やたらと攻撃的な人たちが散見どころじゃなく日常生活の中にすら現れ始めたのって。それまでは現実世界のあらゆる要素によって何となく取れていたバランスが、とはいえ何となくでしかなかったから、だから簡単に崩れてしまったのかなあ、とか。自分がそうでない側にいまいるのは、単に運が良かったってだけの話なのかもなとも思ったりする。運が良かっただけ。まあ、そうなんだろうな、きっと。

 

 右にも左にも、正義なんてその実ないのかもな、と思う。思った。なんていうか、これまでは別にそんなこともなかった。いわゆる右翼には右翼なりの理念があって、いわゆる左翼にも左翼なりの理念があって、その二つはたしかに相容れないかもしれないけれど、それでも自分たちなりの正しさを信じて生きているんだなと思っていて。こと政治的な領域において、自分にはそういうものがなかったから、本当に。右でも左でもないし、なんていうか、それを決定せしめる数直線の上にさえ乗っかっていないような気がする。たった一本の綱を引き合っている様を観戦席から眺めているみたいな、そういう気分。それは、いや、本当のところがどうなのかは分かんないけど、それは自分が真剣に生きていないからなのかなと思ったこともあって。だから逆に、彼らは真剣に生きていてすごいなと思ったりしたこともあって。でも、なんか、なんかなあ。

 

 っていうのは嘘なんだよな。嘘、というか錯覚。ノイジーマイノリティって言葉があって、それ自体、自分はあまり好きではないのだけれど。なんていうか、ものすごく排他的だなと思うから。ただ、そういった副産的な心象は一旦抜きにして、文字通りの意味としてのノイジーマイノリティ。結局はこれ。右翼にせよ左翼にせよ、理性的な人はきっといるはずで。インターネットで大声で騒いでいる人たちが悪目立ちしているだけっていう、それだけの話なんだろうなと思う。そういう意味で嘘。なんか、そういう一部のノイズだけを摘まみ上げて「これだから△△は~」だとか言ってしまうのは、その界隈の人たちとやってること変わんねえなとも思う。名前を出すと怖い人が寄ってきそうだからしないけれど、フェから始まる六文字のアレも、きっとそうだったのだろうな。正しい理念を持って戦っている人はきっと大勢いて、それと同じくらいの数、欲望の捌け口として利用している人もいて(尤も、本人にはその自覚がないかもしれないけれど)、後者が悪目立ちしているっていう。なんていうか、だとしたら誰も幸せになっていないな。正しさを信じる人たちも、蚊帳の外にいた人たちも。傷つけることでしか証明できない人たちですら。こういう、もはや誰の手にも負えなくなってしまった構造を思うたびに胸が痛くなる。どうしようもなさすぎて。

 

 自身と相容れない思想を攻撃する心理。それは結局、自身にとっての正義に与える証明を欲しているからなのだろうなと思う。正しさを証明するためには大きく分けて二通りの手段があって、直接法と背理法。まあ、どっちのほうが楽かって話だよな、体力的にも精神的にも。そりゃ背理法、つまり自身と相容れない側の思想を否定する方がずっと楽だろうと思う。直接法……って例えばなんだろう。その手の組織を作ったり、論文を書いたり著書を出版したり、あとは選挙へ出馬したり、そういうのかな、全然想像つかないけど。排斥する方が楽なんよな、実際、あらゆる場面において。だって、話し合いで解決することなんてないし、選挙に出たからって必ず勝てるわけでもないし。直接法を実践したところで正しさが証明されるとは限らないわけで。一方、排斥だとその辺りが容易に達成できる。だって、それらを自分の世界にとっての異物と定義して、たったそれだけで自分が正義の側に立てるから(この場合の正義は「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」でしかないという問題があるけれど、それでも目標は一応達せられている)。あと、気持ちがいい。自分の嫌いなものを扱き下ろす快感って、大なり小なり誰にだって備わってるはずのものでしょ、たぶん。そこを制するのが理性の役割、のはずだけれど。

 

 ……自身にとっての正義というのが何処に由来するかに依るんだろうなと思う。それが右ないしは左、あるいは自身の信じる理想、そういったものに基づいている人たちは多分暴走しない。そういう例はちゃんと知っている。一方で、それがプライベートな問題に基づいている人たちは往々にして暴走しがちだなとも思っている。ストレス発散としての証明。いやまあ、そりゃそうだろうな、とも思う。ストレス発散のためにやってるなら直接法で証明しようなんて思いもしないはず、だって本末転倒だし。まあ、本人たちにそんな自覚はないんだろうけど。

 

 椅子取りゲームだよな、と思う、結局。自分は友人に恵まれているし、環境に恵まれているし。学業も趣味もそれなりには上手くいっていて、不満はあんまりなくて。そんな人間が何を言ったところで、と自分でも思う。だから言わない。Twitter とかじゃ絶対に言わないし、こんなこと。外でも言わない、よっぽど気の知れた相手じゃない限りは。いやでもさ、それでも削れていくものは削れていくんだって。そういう話がしたくて、いまこの記事を書いている。何かを傷つけることで存在証明を果たそうとする人たちが、かつて他の何によって傷を負ったのかは知らないし分かんないし、そういう事情がもしかしたらあるのかもしれないなって理解しようと試みるくらいのことはする。でもなんていうか、なんていうか。だとしても、と思う。思った。思ってしまったよな、ここ最近に発生したすべてを受けた結果として。自分だって嫌なことなんて、それこそいっそ死にたいなって思うくらいのことなんてこれまでに山ほどあったし、いまもたまにあるし。余裕がないってのは分かる。無理を言ってるなってのも分かる。だとしても。

 

 嫌われることへの覚悟をしろよ、と思う。自分は自分以外の何一つも愛しはしませんが、貴方たちはどうか私のことを深く愛していてくださいって。いくらなんでも都合が良すぎるよ、それは。

 

 

 

20220727


 なんか、ずっと昔から本当に受け入れられない考え方が一つあって。受け入れられないっていうか、正しくは自分の中にない思考回路ってことなんだけど。なんだろうな、変に例え話へ持ち込んだりすると却ってややこしくなりそうだから直接的に記すことにするけれど、「生きていてはいけない」とか「死んで当然」とか、そうやって他人の命を一方的に値踏みする考え方のこと。まだ小さかった頃、そういった考えを言いふらす人がものすごく身近なところにいて、そのたびに嫌な気持ちになっていた。そういうのを思い出した、今朝。

 怖いんだよな。なんていうか、まあ、そう。怖いって表現が最も感覚に適っていると思う。別に死刑制度に反対だとか、そういう話をしたいわけじゃない。というか、倫理面での諸問題とか持続可能性とか、そういうのを考慮していけば順当に同じ結論へ辿り着くんじゃないかとも思うし。だから、そのシステムについて思うところは特にない。そればかりはどうしようもないことだから。問題は、そうして死刑宣告を言い渡された人、いわゆる死刑囚に対して冒頭で書いたような「死んで当然」みたいなことを(思うのは勝手だとしても)なんでもないような顔で口にする人が事実として一定数いるということ。マジで怖いし、胸の辺りがざわざわする、その手の発言を見聞きすると。で、今朝くらいにそういうのを偶然見かけてしまって、ぞわってなったって話。と書いてみたはいいけれど、でもこういうの、分かんない人は一生分からないままなんだろうなとも思う。なんていうか、それ自体が一番の恐怖なんだよな、本当は。

 同じ直線上にいるな、と思う。思ってしまう。想像力の欠如だとか、そんな風に揶揄されるのもなんだか心外だから断るけれど、被害者側の気持ちを汲めないわけではない(とはいえ想像を遥かに絶している、当たり前だけれど)し、自分をその立場に置くことができないわけでもない(正しくは、その立場に置かれたつもりになるくらい。実際にその立場へ置かれることは叶わない(叶ってほしくもない)ので、どこまでいっても「分かったつもり」でしかない)。そんな大前提の話はしていない。なんていうか、まずもっての話だけれど、そもそも見分けがつかないんだわ。被害者および遺族のことを心から想って「死んで当然」という言葉を発しているのか、それとも、単に社会的弱者の立場にいる相手を扱き下ろしたいという利己的な事情のために「死んで当然」という言葉を発しているのか。本当に見分けがつかない、外からじゃ。前者ならいい。ところで、本心では後者の動機に基づいていながらも、自分自身は前者の立場を取っているのだと信じて疑えない人。疑わないんじゃなくて、疑えない。そういう人が一定数いる。いるようにみえる、自分の目には。そのことが本当に怖い。だって、証明じゃん、それは。どこかの誰かが一連の犯行へ至った経緯が、その実何も間違ってなんかいなかったって、そんな救いのない結論を人類規模で証明しているようにしかみえない。だから、同じ直線上にいるな、と思う。同じ。同じでしょ、だってさ。その二つって実際に人を殺したか、そうでないかの違いしかないじゃんか。あるいはもう殺したか、まだ殺していないか。その一点の差異でしかない。怖すぎる、普通に。自分は殺人なんて罪に手を染めませんって、だからその思い込みが一番怖いんだよ。

 

 いつだっけ。なんか、どこかの誰かが何らかの方法で自殺して(情報量、無)、それで一時期インターネットだか映像メディアだかで「死ぬなら一人で勝手に死ね」って言葉が流行ってたんだよな。その当時と似た感覚。本当に嫌だった。そうやって社会に蔓延った思想の澱が、どこかの誰かを自殺へと駆り立てるに違いないのに。……いやまあ、実際のところ、別にどうだっていいんだわ。そういう考え方の人がいたところで、どうだっていい。彼らの存在を認められないとかそんなことは全くないし、否定したいわけでもないし、感覚的に怖いとは思うけれど、でもまあ怖いだけだし。そもそも関係ない他人だし、たぶん一生の間に関わることもないだろうし。身近なところにいても問題なく、だって人間関係を構築する段階でちゃんと選んでいるから。誰だってそうだろうけど、自分だってそう。仲良くする相手は選んでる。自分にとってはそれで十分で、だから別にどうってことでもない、こんなの。