評価


 自分は他人による評価をあてにならないと思うと同時に大切だとも思っていて、その一方で、自分自身による評価は大切だと思うと同時にあてにならないとも思っていて。この二つは同じようでいて全く別の感情だという気もすれば、でもやっぱり同じようなものなんじゃないかって気もしていて。なんだかよく分かんない書き出しに始まっちゃいましたけれど、今回はそんな感じのことについて書こうと思います。どっちから話そうかなって感じですけれど、いやまあどっちだっていいんですが、なんとなく後者から先に。自分は自分自身による評価をそれなりに大切にしていて、創作物であっても僕個人のことであっても、何であってもそれはそうで。なんていうか、まあ、こんなことを言ってしまうのは身も蓋もない話ですけれど、自身にまつわるありとあらゆる事象については、他の誰でもない自分自身が最大の理解者だっていうか。それはまあ、当たり前といえば当たり前のことですよね。別に内面的な話に限らなくたって、どういった日常生活を送っているかだとか、どういった境遇で育ってきたかだとか、その過程でどのような思考が生まれたのかだとか、そんなの自分以外の他人は誰一人として知る由のないことで。でも、いまここに生きている自分を形作っているのはそういった全てなわけで。そうなると自分自身こそが自分の最大の理解者だっていうのは、それほど大袈裟な話でもないって感じですけれど。でも、その、初めに述べたように『あてにならない』とも思うんですよね、自分は、かなり。あえてなぞらえるなら最大の誤解者にもなり得るという印象があって、自分が、自分自身の。その、「自分はこういった人間だ」という理解が手の内にあったとし。なんだろうな、それが背中をふっと押し出すような追い風だとか何だとかになることもまあ当然あるのですけれど、一方で足枷や手錠みたいになっちゃうことも結構あるような気がしていて。……というのは、完全に僕の経験談ですけれど。なんていうか、むかしの自分はよく自分のことを『捻くれている』だとか、有体に言えば『性格が悪い』だとか、そういったことを自称していたんですよね、たしか、記憶通りなら。でもなんか、いまにして思えば、そういうことを本心から思っていたかといえばあんまりそんなことはなくて、だけど、それがなんか口癖みたいになっちゃってて、いつの間にか。「性格の悪い人間」という定義を自分に課していたというか、何の意味もなく。これもまあ、ルーツをたどれば幼少期の諸々が原因だったりするんですが、それはさておき。だから要するに、事実がどうであるかなんてさておいて、「自分はこういった人間だ」と一度思い込んでしまったら、その呪いを解除するのってそれほど簡単なことではないんですよね、きっと。それこそ『自分自身こそが自分の最大の理解者』という、あながち嘘だとも言い切れない感覚が備わっているくらいですし。そういう意味で、僕は自分自身による評価を『あてにならない』と思っています。でも、どちらかといえば僕は自分自身による評価を大切にしていたい側の人間なので、だから冒頭のような言い回しになっているというわけです。……『あてにならない』自己評価の判断法って結構分かりやすいとも思っていますけれど、自分は。なんていうか、これ、自分がそうだったからというだけかもしれませんけれど、しかし周囲の人間をみていても感じることとして、『聞いてもいないのに出てくる自己診断』ってだいたい『あてにならない』のほうに分類できるような気がしていて、というのは話ついでの雑談ですけれど。それこそ、かつての自分が自分のことを事あるごとに『性格が悪い』と称していたのと同じように。不特定多数の人間に向かって「自分は優しい人間です」と喧伝する人がいたとして、その相手を信じることができるのかみたいな話でもありますけれど。『優しい』をどのように定義するのかということはさておき、本当にそうであるならそもそもそれを誇張する必要もないっていうか。だから、なんていうかそれが思い込みというか、ペルソナ? 「自分はこういった人間だ」という意識、あるいはそれに類似した「他者の目に映る自分はこうであってほしい」という欲求? そういった何かしらの顕れなんじゃないかなと、自分はどうしてもそのように勘ぐってしまう節があって。いやまあ、昔の自分がそうだったからなんですけど。……話が逸れすぎた。ともかく、自分自身による評価は大切であると同時にあてにならないと、自分はそう思っているという話です。一方の前者。他者による評価ですけれど、こっちはやっぱり『あてにならない』という気持ちのほうがずっと強くて。それは何故かというと「自分自身こそが自分の最大の理解者」だという意識がどうしたって優勢だからという話でもあるのですけれど。めちゃくちゃな数の言葉を交わしたはずの相手が自分のことを全然分かっていなかったりだとか、そんなのはあるあるで。いや、これは別にその相手が悪いという話では決してなく、それは普通のことっていうか、というか、そもそも自分だってその相手のことを何も分かってなんかいないし、だからまあお互い様なんですけど。なんていうか、……どうなんだろう。この主張がどれほどの共感を集めるか分からないんですけど、人間って基本的に寝て起きたら次の日にはもう別人になっているものだと自分は考えていて。地続きじゃないっていうか、表面上ではどれほどそうみえていたって、水面下じゃ全然違う別の誰かになってしまっているというか。もっとわかりやすく言うと、昨日と今日とで考え方が 180°変わってしまっていたりだとか。それはまあ極端な話かもしれませんけれど、でも数分狂わず同じだってほうがずっと気持ちが悪いように自分は感じてしまうというか。0 に近似してしまえるほどの微小な変化だとしても、その個人の中で何かが変わったという事実には変わりがなくって、でも僕らはお互いにその小さな変化を見逃し続けていて。だって、常に思考を共有していられるわけではないんだし。そんなのは当たり前。だから『目の前にいる誰か』と『頭の中にある誰かの像』が次第に食い違ってくるというのはいたって普通のことで、だけど僕らはどちらかといえば後者を、すなわち主観的な印象を以てして他者を評価しようとしてしまうので、どうしても。だから『あてにならない』って、そういう話です。……ちょっと前だかだいぶ前だかに優しい人だと言われたことがあって、面と向かってではありませんでしたけれど。なんだろ、少なくとも自分は自分のことをそういう風には評価していなくって。そもそもこの話を書こうと思ったのが、その辺りの食い違いが少し前に何度かあって、もやもやではありませんけれど、なんだか心の奥のほうにぼんやりと留まり続けていたからだという裏話がありますが、それはさておき。それはまあ『優しい』をどういう風に定義するかって話でもあって、だからその相手と自分とで定義が食い違っていたというだけの話なのかもしれませんけれど、ともかく自分は自分のことをそうだとはおおよそ考えていなくて。どちらかといえば厳しいほうというか、冷たいほうのような気がしていて。なんだろう。たとえばの話ですけれど、恋人と別れてしまった人に対して「きっとまた良い人に出会えるよ」と声を掛けることが優しさなのかどうかっていう、それくらいの話。僕はそれを『優しさ』の一つだと思っていて、信じていて、でも自分はそのようなことを絶対に口にはしないので、何があろうとも。そういう意味で、自分の思い描く『優しい』には程遠い人間のような気がする、というのが自己評価で。……むしろ自分はその傷口を抉るような真似をしかねないというか。いやだって、その「きっとまた」で救われることってたぶんないじゃないですか。怪我をしたときにとりあえず持ってくる氷水みたいな、ただの応急処置でしかない一言っていうか、間違ったピースを無理やり嵌めてパズルを作るみたいな、なんだかそんな感覚が強くって。だったら傷口に正面から向き合うしかないじゃんかって、自分はどうしてもそういう風に思ってしまうというか。だから、意味のない慰めは絶対にしないんですけど。ただ、これが正しいとは全然思っていなくて、つゆほども。というか逆で。そういったときにたとえ本心でなくたって「きっとまた」と言える人のほうがずっと優しいに違いないって、そういう気持ちが自分の中にはたしかにあって。んー、だからまあ、自分と他人とじゃやっぱり色々と評価が食い違っているんだなって、そう思ったってだけの話なんですけど。……でも、それはそれとして、他人からの評価は大切すべきだとも自分は考えていて、良いも悪いも平等に。これについては確か以前にも書いたような気がしますけれど、自分じゃない誰かの言葉って呪いを解くに至るほとんど唯一の方法なんですよ、きっと。少なくとも自分はそんな風に考えていて。上のほうで、昔の自分はよく自身のことを『性格が悪い』と称していた、みたいな話をしましたけれど、当時の自分を前にして「素直」と言ってのけた人間が一人いて、たったそれだけ。そもそもの話、自分が幼少期にそんな感じのことを言われ続けて育ったからなんですよ、これのルーツが。親族との相性が悪かったみたいな話をどこかで書いた気がしますが、まあその一環で。いや、『性格が悪い』と直接的に言われたかどうかは覚えていませんが、『捻くれている』は間違いなく数回どころでない数言われたはずで、それがいつしか自分の内側で転じて『性格が悪い』ということになったのでしょうけれど。なんだろ。いやまあ、その程度のものなんですよ、呪いって。だけど、それゆえに強固でもあって。そういう、なんだ、檻? ……眼前の鉄格子にも気づかないんじゃ楽園のようなものかもしれませんけれど、まあ出口のない迷路でも天井に描かれた青空でも、なんだっていいです、別に。そういった閉鎖空間から自分を連れ出してくれるのって、時間でも奇跡でもない、もっとそこら中にありふれているものなんだろうなと自分は思っていて、いや、それが『他人の言葉』だって話ですけれど。直接的な表現をするとすれば、要はフィードバックですよね。『自分の定義する自分』と『他人のみている自分』は往々にして食い違っているものですけれど、前者を勘違ってしまったとしたら、それを正すことができるのは後者なんじゃないかって。そんなことを思ったり思わなかったり。『評価』というものに対して思うところがあるとするなら、一先ずはこの辺りかなという感じです。

 

 

 

疑うということ


『お互いを疑わずに済む関係』と言うと聞こえはいいですけれど、それってめちゃくちゃに気持ちが悪くないですか? ……という問題提起から今回は始まりますけれど、いきなり何なんだというと、無条件の信頼と責任の放棄ってほとんど同義だよなあって、そのようなことをつい最近考えていたので、それについて書こうと思っただけです。いや、なんていうか、これまでに生きてきた二〇とちょっとの人生を振り返ってみて思うことといえば、疑うという行為はかなり重要なものだったんじゃないか、みたいなことで。三日前の記事でも書きましたけれど、……昨日一昨日と更新ができていないのは様々な様々が重なった故のことなのですが、それはさておき。相対している対象の感情を推し量ろうとする行為は、見方によっては相手の言葉や表情を疑うということでもあるわけで、そう思えば、いまの自分を形作っているものって結局はそういった考え方だったりもするのかなって。なんだろう。その、なんていうか、別にそれがダメだってわけじゃないと思うんですけど、でも、たとえば目の前にいる誰かの言葉や表情を一から十まで徹頭徹尾なにひとつを疑うこともせずに受け入れてしまうのって、だけどそれは単に責任から逃れているだけだって、僕はそんな風にも思ってしまうというか。「だって、貴方がそう言ったじゃないですか」って、思考の放棄みたいな。いやまあ、意識的にそんなことをやっているとまでは流石に思っていないので、きっと無意識なのでしょうけれど。でも、そんな無意識があったりもするのかなって、そういう気持ちになるということは確かで。……まあ、疑い続けるのってしんどいじゃないですか、普通に。いや、全人類がそうなのかは知りませんけれど、少なくとも自分はまあちょっとしんどいかなというくらいで。だから、線引きをするわけですよね、だいたいの場合。それがたとえば商品なのであれば、一定以上の信頼を置いてもよい企業、いわゆるブランドというやつなのかもしれませんけれど、そういったものを基準に購入したりだとか。人間関係であれば、誰と話をするのかによって「これは大丈夫、これはダメ」と話題をあらかじめ選んでおくだとか。要するに、なるべく疑わなくて済むようにしておくっていうか、そうやって負担を軽減しているというか。破格に安いけれど動くかどうかも怪しい機械を、だからわざわざ買ったりしないし。顔と名前を知っているからって、たったそれだけのことで家に泊めたりしないし。いや、だからまあ、そのレベルの話です。『ここから先は信用してもいい』というラインは何を問題にしているかによってまちまちで、それこそたとえば商品の場合は、それが有名どころのものであれば、たとえばマイクロソフトだとかアップルだとかであれば、自分は基本的に信用していますし。一方で人間関係であれば、全面的に信頼している人間というのは、……まあいませんが。「こいつになら騙されてもいいかな」と思っている相手なら数人いますけれど、でもだからって、その誰かの話や意見を一から十まで真に受けるわけでもありませんし。ああ、いや、話が複雑になってしまうので、以降は人間関係に限って話を進めますね。実際、どうなんでしょう。冒頭でも書きましたけれど、『お互いを疑わずに済む関係』になれたらいいって、皆さんはそう思いますか? それとも自分と同じように、そんなのはちょっと気持ちが悪いって、そう感じるのでしょうか。と問いかけたところで実際に会話をしているわけではないので何が返ってくるでもないですけれど、まあよければ一度考えてみてくださいよ、自分がどっちの側なのか。ここから最後まで、僕はその関係性のどういった部分を気持ち悪いと思っているのかについて話をすることになると思うので、そういった余計な情報を抜いた状態で自分の考えを整理しておくと良いと思われます、色々と。とだけ言っておいて、早速話を進めていくのですけれど、やっぱり一番大きい要素としては、これも初めのほうで書きましたけれど、自分はそれを『責任の放棄』という風に解釈してしまうことがあります。なんていうか、ここら辺の考え方は人それぞれだと思うので、別に「そんなことないんじゃね?」って人がいてもおかしくないと思うというか、むしろいないほうがおかしいと思っているのですけれど、相手のことを何を疑わないのって、つまり相手のことをどうでもいいと感じているってことなんじゃないかって、そういう風に思うんですよ。「君の言葉なら全部信じるよ」って、裏を返せばそれは「君の言葉なんてどうだっていいよ」と言ってるのと同じじゃないですか? というように自分は感じてしまうんですよね、どうしても。無条件に信頼するということは、『君』が何と言おうがそのことについて何かを思考することは絶対にないということで、それはつまりその聞き手の世界に『君』は存在していないということじゃないですか? いや、もちろんのことですけれど、存在してはいると思いますよ。『君』が傷ついていたら慰めるだろうし、悲しんでいたら寄り添うだろうし、そこで『君』を無視することはきっとないだろうし、だから『世界に存在していない』というのはそういう意味ではないんですよ。……僕のブログを読んでくれている方なら、「こいつ、多分、誰かと話すのが好きなんだろうな」というくらいは察しているかもしれませんけれど、まあ実際そうで。自分は会話、もとい他者とのコミュニケーションというものにかなりの価値を見出していて、それこそ最上級のそれを。だからこういう風に考えてしまうのだろうなと自分でも思うのですけれど、『無条件の信頼』って、だから結局は関係性の全否定なんじゃないかって思うんですよ、僕は。「たとえ世界中が君の敵になっても、僕だけは君の味方だ」って、それ自体は格好いいセリフですけれど、でも僕はそういうのをみると「いや、お前が本当に『君の味方』なんだったら、きちんと『君』に向き合えよ」って、そう思ってしまうっていうか、だからそれが『責任の放棄』だって話ですけれど。目を逸らしてるっていうか、そもそも見えてすらいないんじゃないかって感じで、そういう意味で『世界に存在していない』と思いもするわけです。いてもいなくても変わんないんじゃんっていう。「だって、私が何を言ったところで、どうせ貴方はそれを信じるんでしょう?」みたいな。これがたとえば宗教であればお告げを下さるのは上位の存在なわけで、その存在・非存在はさておくとして、少なくとも目に見える存在でないことは確かなので不都合は起きないのでしょうけれど。でも、それが人間関係となると別の話で、だって僕らは生きているんですよ、お互いに。息を吸って、吐いて、言葉を話して、飲み込んで、そういう生き物じゃないですか、人間って。だからなんていうか、「貴方の言葉なら全部信じます」だなんて言われると、自分はめちゃくちゃ悲しい気分になるっていうか、有体に言えば空しくなるんですよ。「自分が何を言ったって、この人の心へは何一つも届きはしないんだな」って。というか、「この人、自分の話なんて一切聞いてないんだな」って、そういう風にしか思わないというか、思えないというか。詐欺師であれば望むところでしょうけれど、でもそうではないわけで。だからというわけでもないですけれど、僕は相手の言葉を疑わないのはむしろ失礼とさえ思っていて、親しい間柄か否かなんて関係なしに、というより親しい仲であれば尚のこと。……途中でも触れましたけれど、僕はこの考え方が絶対的に正しいだなんて思っていなくて、色々な捉え方があって然るべきだし、自分とは真逆の考え方をする人がいてもいいと思っています。というか、こんな考え方で世界が染まってほしくはないし。あまりに窮屈すぎるので。なので同様に、このような他人へ強要するつもりだって全くありませんけれど、あくまで自分はこのように考えていて、誰かと接触するときは常にそういったモチベーションで動いているって、そういうことが書きたかっただけです。

 

 

 

telepath


 これについてはどの程度の共感を得ることができるのか分からないんですが、たとえば『横断歩道の向かい側で信号待ちをしている人』を観測したときに、その人物のその時点での心境を考えたりってこと、皆さんはしますか? 自分はするんですよね、そういうことを。いや、するしないの話じゃないっていうか、なんか条件反射的にそうなっているというか、縁も所縁もない他人であっても観測した瞬間に、その対象にまつわる想像(妄想と同義)が一瞬のうちに頭の中を駆け巡ってゆくというか。「よし、考えてみよう」とかじゃなくて「……ああ、あの人、こんな感じのことを考えてるのかな」みたいな。三点リーダのうちに想像の結果が脳内には出力されていて、対象の人物を認識するのはむしろそのあとというくらいのスピード感で。形式的にはテレパシーの領域っていうか、いや、相手の考えを読み取っているというわけでは勿論なく、ただ自分が妄想しているというだけなので、つまりは何の中身もないものの例えなのですけれど。だからなんか、自分の場合、外を歩いているだけで結構色んなことを考えさせられるというか。仕事帰りの人とか、子連れで歩いてる人とか、自分と同じような大学生とか。まあ、だいたいのことは考えた直後に忘れてしまうのですけれど。というか、人とすれ違うたびにそういった諸々を考えさせられるので、いちいち覚えていられないというのもあるのだろうと思います、推察するに。この性質が昔は結構なストレスになっていたような気がしていて、ここでいう『昔』は大学二回生くらいまでの頃ですけれど。だからってわけでもないんでしょうけど、人の多い空間が自分はかなり苦手でした。いまはもうこういったことに、つまり一対多にあまり有利でなさそうな自分の性質に自覚的なので、それなりの対処法を持っていて、だからまあ昔に比べればかなりマシにはなったと思うのですけれど。……でも、やっぱり閑散としている場所のほうが歩いていて楽しいというのは変わらずありますね。早朝だったり深夜だったり、物音の遠い時間帯のほうが自分には向いています、恐らく。それはさておき。いつ頃からこうだったんだろう。これは比較的特殊な部類なのだろうなと思い始めたのが、何を隠そう、大学進学以降のことなので、それまでの自分がこのような性質を持っていたのかということを、あまりはっきりとは思い出せなくて。高校生の頃にはもう既にそうなっていたというところまでは明確に覚えているのですけれど、中学生の頃はどうだったかなあって。曖昧な記憶を曖昧なままに辿ってゆくとすれば、小学生の頃にそういったことをめちゃくちゃにやっていたような覚えがあるようなないようなという感じなので、中学のときも同じような感じだったのだろうなと思います、多分。……小学生の頃、というかもう少し前の幼少期からか。まあ、そうですね。自分は親族のことが心底嫌いでした。いまは全然そんなことないんですけど。なんだろうな。あんまり身の上話をしすぎるのもよくないと思うので具体的なところは避けますけれど、どうなんだろう、嫌われてたのかな? 疑問形になっているのはなぜかといえば、自分の受けていた印象通りであれば『嫌われていた』となるのですけれど、事実通りにたどっていけば『別にそうでもなかった』ということになるのかなという気がしていて。被害妄想? いや、事実として被害は受けていたので決して妄想ではないはずなんですけど、それはそれとして益することもあったというか。嫌われっぱなしではなかったという意味ですけれど。んー、なんか、子どもの頃はその辺りの感覚を不気味だと思っていたことを思い出してきました、いま、唐突に。いや、なんていうんだろうな。嫌いっぱなしだったら楽なんですよ。こちらからもそういった態度を取ればいいだけですし、昔の自分は結構捻くれていたので、その程度のことであれば容易に行動へ移していたはずと思わなくはないです。でも、だからそうじゃないときはどうしたらいいんだって話で。嫌なことをしてくるけど、良いこともしてくれる、みたいな。そういった相手への距離感って、難しくないですか? ……というようなことを、幼い頃の自分は親族という存在に対して思っていました。どの程度本心から言っていたのか今となっては不明ですけれど、自分が嫌われているというか、そういった扱いを受けている理由について本人が口にしていたこともあり、当時の自分にとっては(いまの自分も同様だけれど)かなり理不尽なものだったので、それをまあ理不尽だと認識してしまった以上、自分の側からへらへらと媚び諂う動機もなく、だからもう昔はずっと「早く大きくなって、こいつらとの関わりを断ちたい」とばかり思っていました。いや、本当に。……どうしてこういう話を思い出したのかといえば、だいたいそれくらいの時期から相手の心情を推察する(妄想すると同義)ことをやり始めたんだなって、そう思ったからです、いまさっき。というか、正しくはそれ以前のことを全く覚えていないって話なんですけれど。それくらい昔の話で、アルバムを開いたって思い出せないくらいの。でもまあたしかに、いまの自分が道ですれ違った人相手に無意識でやってしまうようなことを、意識的か否かはさておき、あの頃の自分もやっていたんだなって。というか、そうせざるを得ない状況だったのかな。あまりに嫌すぎていまでも覚えてるんですけど、……不幸自慢していいですか? というのは冗談で、話半分に読み飛ばしてほしいのですけれど。休日に仕事や会社の付き合いなんかで両親が同時に家を空けるときに、その親族のところへ預けられるんです。まあ、年齢を思えば当然のことですけれど。自分には年の離れた姉がいて、なので二人同時に預けられることとなるわけですが、ここで問題だったのは姉は比較的好かれていたんですよ、その親族に。いや、いまにして思えば姉も姉で結構な扱いを受けていたような気がしますけれど、だからまあ、要は構図の問題です。立場(年齢)的には親族が最上位にいて、僕が一番下にいるという状態なわけで、姉は親族の側へつくことを選んでいたっていう、それだけの話。……そう考えてみると、当時の姉を怨むのもなんだか筋違いのような気がするっていうか。いまでも仲が悪いとか、別にそんなことは全くないんですけど、でも当時は相当に嫌いでしたね。という状況で、そのまま一日過ごしたりしなきゃいけないわけですよ。両親の迎えが来るのは次の日の朝になることが多かったので。いや、もう地獄ですよ、地獄。マジで。いまにして思えば自分も多少悪かったのかなって思うんですけど、だからまあ、適当にへらへらとしていい子ちゃんぶっておけば親族は概ね満足していたのだろうなって。でも、当時の自分はすでに『理不尽な理由』を知ってしまっていたので、「なんでこんな奴に」という気持ちのほうが勝ってしまっていて。一方で、その親族がただ純粋な悪というわけでもなく、時たまに優しく接してくるせいで分かんなくなっていたというか。いやまあ、要するに昔の自分がやっていたのって、その辺りの機微をなるだけ正確に汲み取ろうとすることだったんでしょうね、多分。できれば相手と直接接触することはせずに、口調だとか所作だとか、そういった部分から相手がいまどちらの状態にあるのかを理解しようとする試みというか。そんなことをしようと思ってしていたわけじゃないんでしょうけれど、でも、それをしなきゃやってらんない状態だったのだろうなというのは今の自分でも想像できて。……どうなんでしょう。いまの自分なら苦手な人が相手でもかなり上手くやれるような気がしていて、というのもあの頃の自分と今の自分とで明確に異なっているのは、会話をするのが苦ではないという点で。その相手がどれだけ理解できなくても、いまの自分は会話をすることができるので、そういう意味で上手くやれるようなやっぱりだめなような。まあ、やってみなきゃわかんないですし。まあでも、いまじゃ親族だったり姉だったりと普通に話せるのは、別に自分が当時のことを許したからとかではなく、単純に会話ができるようになったからなんだろうなって、電話越しに話したりするときなんかにはそう思ったりもします。……いや、アレですよ。あの、文字ってあくまで記号であってそれ自体は無表情だから、いまの自分がどういった心境でこの文章を書いているのかだとか、こんな内容なのでともすればめちゃくちゃ真剣な表情を想像してしまうかもしれませんけれど、これまでの記事と同じノリですよ、いやもう本当に。全然シリアスじゃないっていうか。もう一五年以上前の話ですし、シリアスにもなりきれませんね、今更。ああ、だからまあ今日書いてみたかったのは、結局のところ冒頭で話していたそれだけです。道ですれ違った人の心情を考えてみたりしますか? っていうやつです。このブログ、質問形式の話題を扱うことがままあるんですけど、これはあれですね。普段、日常会話でこういったことを話す機会ってほとんどないので、いや、相手によってはあるのですけれど、でも相手によってはないから。だから、こういったところで不特定多数に向けて発信を行うことで、自分の中にある『他の人の話を訊いてみたい欲求』みたいなそれを昇華しているという、そういった意図でのそれです。そのくせ、リアルで話したときにブログの内容について触れられるのは結構恥ずかしいんですけど、でもまあ、それ以上に得られるものがあればいいなという感じではあるので。なので、まあ、はい。感想はいつでもお待ちしております(?)。そんな感じでした。

 

 

 

 

 

眠すぎる


 そういえば『信じる』という言葉を歌詞に組み込んだのって初めてだなって、いまこの白紙のワードパットを前にした瞬間にふと思いました。といっても、現在製作中の楽曲に関する話なので、その歌詞を知っているのは自分ともう一人しかいませんが。歌詞に関して、いや、歌詞に限った話ではなく自分が作るもの全部に対し強く思っていることとして「嘘だけは絶対に書きたくない」というのがあって。ここでいう『嘘』というのは『正しいと思っていないこと』程度の意味ですけれど。だからまあ、ここから導き出される結論として、自分は『信じる』という言葉があまり好きではなかったんですよね、結局。好きじゃないっていうか、嘘っぽいと思っていたというか。少なくとも自分の考えの枠組みには当てはまらない概念だなって、そんな風に感じていたような気がして。なのに、そういえばいま作っている曲の歌詞を書くときに、かなり自然と『信じる』って言葉が出てきたなーといま思って。不思議だと思う反面、そりゃまあ、何年もずっと同じ考えのままで生きているはずもなく、どこかでアップデートが入ったのだろうなと思っています。そのアップデートがいったいどのタイミングでなされたのかということも大体想像はついているんですが、まあ、歌詞の全文がまだ世に出ていない段階でああだこうだ言っても仕方がないので、それについては保留しておきましょう。曲が公開されたときに覚えていたらどこかで書き起こすかもしれません。さて。『信じる』という言葉のどの辺りを避けていたのかという話。それについては何度かこのブログで書いたような気がしていて、なのでまたかって感じですけれど一応述べておくと、『信じる』という行為の裏には必ず『疑う』があるからです。いや、これは心理学的な話でも抽象的な話でも似非哲学でもなくて、単純に事実としてそうっていうか。いやだって実際、「私は貴方のことを信じるよ」というセリフがあった場合、ここで登場している『貴方』には何か疑わしい要素があるのだと受け取るのが自然で、だって『貴方』の背景にそんなものが全く何もないのなら、そもそも『信じる』なんて言葉は出てこないはずじゃんかって話で。というのは人間相手に限った話でもなく、万物に対して言えることで、いわゆる信仰というやつ。存在が疑わしいからこそ信仰は発生するのであって、逆も然り。その裏側を感じさせるのが嫌だったので、自分は『信じる』という言葉を意図的に避けていました、これまでは。……いや、こう書いてみて思ったこととして、別に裏を感じさせるのが嫌だったってわけではないような気がしましたけれど、ここでは一旦置いておくとして。『信じる』の代わりに使っていたのは『知っている』だとか『解っている』だとか、そういった状態動詞で。これらは(基本的には)絶対的な事実に対して用いられるので、こっちのほうが性に合っていたというか、自分の表現したいこと、要するに自分の考えの枠組みに沿っている言葉かなと思っていました。『未完成の春』とか『startrail』とか『スカイブルーナイトメア』なんかは露骨にそう。本当は知っているはずのことを無意味に信じたくはないっていうか、ああ、そうですね。さっき上のほうで「別に裏を感じさせるのが嫌だったってわけではない」と書きましたけれど、ここまで書いてみて思ったこととして、他の何かや誰かを信じるという行為を、あるいはそういった状態を、単純に自分が避けていただけだって話になるような気がしてきました、やっぱり。「裏を感じさせるのが嫌」は完全に嘘で、だって自分、『きっと』や『いつか』のような副詞だったり仮定法だったり否定形だったりをかなりの頻度で用いますし。その辺りの感覚は、むしろ好きまであるような。だから、そうなると『信じる』を避けている理由は、単純に『何かを信じたくないから』ということで説明してしまえるのではという感じで。んー、少なくともいまの自分ではこの主張に反論することはできないっぽいですね。というのも、だから結局、自分の中から『信じる』という言葉が自然と落ちてきたのだって、つまりはそういうことなんだろうなという納得があって。「本物かどうかは分からないけれど、それでも本物だと思ってみたい」みたいな、そんな感覚? あるいはもっとシンプルに、「本物でなくたって構わない」という感覚? 『信じる』というのは、つまりはそういうことなのだろうなという感覚。そういった何かがあったといえばあったような、なかったといえばなかったような。……ダメだ。眠すぎて全く思考がまとまらない。いやもう、いまめちゃくちゃに眠くって。そもそも昨日のブログを更新できなかった理由が、昨日の自分が昼過ぎに寝て 23:50 に起床するという大ポカをやらかしてしまったというものなのですけれど。その負債を回収するために今日の昼過ぎに三時間ほどの仮眠を挟み、就寝時間が日を跨ぐ前後となるよう調整したので、だからいまそれはもうめっちゃくちゃのやたらめったに眠いです。人ってここまで眠くなれるんだなって感じ。……あー、なんか、全体的に意味わかんない記事になっちゃってる気がする。ごめんなさい。最近また曲作ってますって、そういう近況報告がしたかっただけです。マジでそれだけ、本当に。まだ書き始めてから四〇分くらいしか経ってないんですが、眠気がマッハなので寝ます。おやすみなさい。

 

 

 

答えなんかあってたまるか


 自分は現在、数学科に在籍している学生の身分ですけれど、かつての自分が数学の、特に整数論のどの辺りを気に入ってこの道へやってきたのかといえば、それは一見非自明な答えが明確な論理を伴ってバチっと導き出せるという部分だったんですよね。たとえば、自分の整数論好きを決定づけた問題の一つに『 y^2 = x^3 - 2 の正整数解をすべて求めよ.』というものがあるんですけど、知っている人は知っている問題かなと思います。自分は一度これに関する記事を書いたこともありますし、まあ、それはここではない別のブログでの話ですけれど。上の方程式の見方を少し変えて『 y^2 + 1 = x^3 - 1 』という風に見てみると、左辺(左側)は『平方数に 1 を足した値』になっていて、一方で右辺(右側)は『立法数から 1 を引いた値』になっています。なので要するにこの問題は「『平方数→?→立法数』という並びになっている数字の組は何?」という風に読むこともできるわけです。たとえばですけれど『 y^2 = x^3 -2 』で『 x=3, y=5 』とするとこの組は方程式の正整数解になっていることがすぐに確かめられます。右も左も 25 になりますしね。だから、先の話を受け継ぐとすれば『 25→26→27 』がまさしく『平方数→?→立法数』という並びになっているわけですね。なのでまあ、上の方程式を解けばこういった並びになっている正整数が全部分かるというわけです。しかし、ですけれど。しかし、実をいうと『 y^2 = x^3 - 2 の正整数解は \left(x,y\right)=\left(3,5\right) しか存在しない』ということが知られています。だからつまり、『平方数→?→立法数』という並びになっている数字の組は『 25→26→27 』しかない! ということです。これ、めちゃくちゃすごくないですか? だって、正整数って無数にあるんですよ。なのに、こういった並び方をしているのはたったの一組しかないなんて。……みたいなことにかつての自分はかなり感動し、なのでいまも整数論を齧りつつ院生ライフを送っているわけですけれど。整数論のこういった側面が僕は結構気に入っているというか、『非自明な答えが出てくる』というのが。なのでまあ、自分はそういったことを好ましく感じる人間なのですけれど、それはそれとして、また別の部分では「答えなんていらないな」と思う瞬間も結構あって。いずれか一方の考え方しかもっていないというわけではないというか、体感的には後者の、つまり答えなんていらないと思っていることのほうが多いような気さえしていて、だから個人的には自分が整数論に対して持っている感覚のほうがレアなんですけど。少し別の話をしますけれど、自分は大学に入って一年弱ほど仏教を齧っていた時期があって。という話は何度か書きましたけれど。仏教に興味があったということは全くなく、新入生として構内をうろついていた時に誘われたから、というだけの理由で参加していた会合だったんですが。でも、いまにして思えば、結構楽しい話が聞けたので良い経験だったなと思っています。なんだろうな。やたらと強調されていたのが「生きる意味って何だ?」という問いで、自分はまあ不真面目なリスナーだったのでかなり話半分で聞いていたのですけれど。でもまあ、そういった話を聞く機会があれば、それと同様に考える機会もやってくるというわけで。というか、それこそ高校時代の延長でしたけれど、『生きる意味』みたいなのを考えるのって。それはさておき、その問いに対していまの自分が思う結論としては「『生きる意味』なんかなんでもよくね?」なんですけど、どうですか? 「そういえば、このブログでそういう話を書いたことが前にあったな」って、思い出しての今日こういった話なのですけれど。んー、なんていうか、そうですね。単純に『生きる意味』なんていうものに対する明確な解答があってほしくないっていうか、そんな気持ちが強くって。そういうのって、自分で見つけなきゃ意味がないものじゃないですか? そんなことありません? 他人から与えられるものじゃないっていうか、いや、これは文意を正しく伝えなくてはなりませんけれど、「『生きる意味』とはつまりこういうことなのですよ」だなんて誰かの言葉を受け入れただけで見つけられるようなものじゃないだろうっていう、そういう意味です。逆に、だからこそ「『生きる意味』なんかなんでもよくね?」とも思うんですよね。個々人が勝手に決めればいいじゃないですか、そんなの。自分は自分なりの『生きる意味』に従って生きていて、他の誰かはその誰かなりの『生きる意味』に従って生きていて、別にそれでもうよくないですか? でもこう、センセーショナルじゃないですか、こういうのって、どうしても。この手の話題を扱ったそれって書店とか行けば腐るほどあるでしょうし、Twitter ですら大量のリツイートを伴って流れてきますし。そういったあれこれを目にするたびに、みんな、本当に人類普遍の解があってほしいのかなって、そう思うことがあったりなかったりするというか。仮にそういった普遍的な解があったとして、それに従って生きていくことが本当にできるのかなって、そういった疑念も自分にはあり。なんだろ、いやまあ、今日の話はこれでもうおしまいなのですけれど。『生きる意味』は自分で見つけるしかないし、見つけられたのならそれをもう『生きる意味』と定義してしまえばいいじゃんって。話題が飛ぶように感じられるかもしれませんけれど、『愛』や『友情』みたいなのも同じだと思うんですよね。だから要は、他者と比較のしようがないこの世の全部。そういうのって自分で見つけてしまうしかないような気がするっていうか、正しくは「自分で見つけたものでないと意味がない」と自分は思ってしまうんですよね。誰かを傷つけて、誰かに傷つけられたことで初めて痛みを理解するのと同じように、「これが『愛』ですよ」、「これが『友情』ですよ」だなんて、そうやって誰かから与えられた言葉に価値が宿るとは、自分にはどうしても思えなくって。ここで言っている『価値』というのは『自分にとっての価値』という意味であって、人類普遍の価値という意味ではないのですけれど。……んー、だからまあ、自分はありとあらゆる価値の基準を人類普遍なものとして理解したくはないんでしょうね、多分。相対的なものとして理解したいっていうか。というか、絶対的なものだと思いたくないっていうか。そんなものあってたまるかって、だから自分はそう思っていたりします、色んなものに対して。

 

 

 

必然性


 いまにして思うことといえば、「どうして自分は音楽をやっているのだろう」というのがあります。事の発端はといえば、昨年のいつ頃かに「一葉さんってなんで作曲してるんですか?」(要約)という旨の話を受けたことがあって、その当時のことを昨日か一昨日かに何故かふと思い出して。その質問に対するそれなりの回答は持ち合わせていて、実際、当時の自分が当時の自分なりに考え、返事を済ませたところでそのやり取り自体は解決しているのですけれど。しかし、だから、いまにして思うこととして、「そもそもなんで音楽だったんだ?」というやつがあるなって、そんな疑問に行き当たったというか。これが考えてみると結構不思議な話で。いま『不思議な話』を『不思議な那覇市』にタイプミスしちゃって一人でニヤニヤしてたんですが、それはさておき。というのも、自分にはいわゆる『音楽経験』のようなものが一切ないんですよね。これはあの、なんだろう、謙遜的な意味合いで使っているのではなく、本当の本当に皆無で。習い事で嫌々ピアノ教室に通っていただとか、あるいは実家に何かしらの楽器があっただとか、そんなことは一切なくて。正確に物事を伝えるのであれば、まず実家には姉の電子ピアノがありましたが、僕の記憶している限りでそれがケースの外へ出されたことは一度もなく(とはいえ、姉とは結構歳が離れているので、姉は姉でそれなりに使い倒していたのかもしれません)、それと父親のベースが父親の部屋にあったんですが、触ったことは一度もなく(「ベースって変な音しかせんし、そもそも弦硬すぎだし、どうやって演奏すんねん」と思っていました、当時。全国のベーシストに謝罪したい)。あとは祖父母の家にいたって普通のピアノがあり、記憶の中の姉はたしかそれをよく演奏していたなと思うものの、しかしまあ、自分が触ったことは一度もありません。なので、中学校卒業段階までに触れたことのあった楽器って、それこそリコーダーとハーモニカくらいのもので、いや、マジなんですよ、これが。完全に音楽とは無縁の幼少期を送っていたという感じで、それが何を思ったのか、中学三年生のときに DTM というものの存在を知り、そこから傾倒していくわけですけれど。冷静になってみると、これ意味が分かんないよなって。いやまあ、たしかに中学生くらいの頃に音楽へ目覚めるというか、楽器を始めてバンドを組んで……みたいな、そういうのと同様に捉えてみるとありがちな話かもなって思いもしますけれど。でも、自分の幼少期といえばそれこそ絵のほうがメインだったというか。幼少期から中学卒業にかけてですけれど。絵は昔からずっと描いていて、もちろんお遊びみたいな出来のものばかりでしたけれど、漫画を描いたりもしたし、あとは小説の真似事をしたりもしていて。いまはもうそんな文化消えちゃってるかもしれませんけれど、むかしは小説掲示板という、その名の通り小説専門の掲示板がインターネットにはあって、今でいう SSVIP みたいなものですかね。そこで色々遊んだりもしていたんですが。だから、音楽とは無縁の人生どころか、音楽以外とは縁がありまくりの人生を送っていたんですよ、気持ち的には。当時は自由帳が友達でしたし、本当に。いや、ならばこそですけれど、「真っ当に進むのであればそっちじゃね?」という感覚があるっていうか、そのような考えに至ったのが昨日だか一昨日だかのことで。「なんで音楽だったんだろう?」って。いまだって絵は描いてるし、小説の真似事もまあやってはいるし、漫画はさすがに描いていませんけれど……。でも、どれにしたって音楽ほどの熱量は割いていないというか、いま自分が最も熱心に向き合っているのは音楽のはずで、「いや、なんで?」っていう。これがマジで分かんなくて、結論も何も一切出ておらず、というか答えなんて見つからないような気がしますけれど。でも、なんだろうな。昨日の記事で書いたような『気づいたらこうなっていた』とはまた違っているような気がしてはいるんですよね、これに関しては。必然性なんてなかったはずといいますか。というのも、自分が音楽を始めた明確な起点のようなものははっきりと覚えていて、その後の道をどういう風にここまで辿ってきたのかということも思い出せる状態にあって。だから『気づいたら』というような不明な点はなく、完全にかつての自分の意思に依って今がこうなっているということはまあ間違いがないんですが、ただ、その『かつての自分の意思』とかいうものがあまりに分からなさすぎるって話で。マジで、どうしてこんなにも音楽へ傾倒することになったんだろ。別に音楽に溢れた家庭で育ったというわけでもなく、そもそも自分がある程度自由に音楽を聴くことのできる環境を手に入れたのって、たしか中二くらいのはずで。そのときの誕生日プレゼントかなんかで買ってもらったウォークマンが手持ちアイテムに加わるまでは、音楽を聴くことのできた場所ってテレビの前(アニメの OP,ED )と父親の車の中だけでしたし。マジで謎。かつての自分は音楽のいったい何にそれほど強く惹かれたんでしょう。それこそ、あれほど自由帳に描きまくっていた絵をめっきり描かなくなる程度にはのめりこんだわけで。それがこうしていまもずっと続いているわけですけれど。うーん。どうしてなんでしょう、本当に。

 

 

 

右か左か


 人生を『自分』という視点で、しかもたったの一度しか経験できないのって、自分はどうしても結構な損をしているというように感じてしまうのですけれど、皆さんはどうですか? んー、どうなんでしょう。損という表現は正しくないかもしれませんけれど、それに近いような感覚が自分にはあって。でも、だからって例えば小説だとか映画だとか、そういった媒体で別視点でのストーリーを追体験してみたいって、そんな欲求があるというわけでもないんですよね。感受性……。感受性って何なんでしょう。これは以前、知り合いとこういった話題を扱ったときの言葉をそのまま引きずっているのですけれど、感受性。他の人たちがどういった風に物語を楽しんでいるのか、それを知る術は勿論ありませんけれど、自分は割となんでもかんでも感情移入してしまう側の人間のような気がしていて。いや、どうなんでしょうね。こういうのを自分で言っちゃうタイプの人の話って、仮に自分が読み手の側であれば「信用ならねえ~」と斜めに構えてしまいますし、まあそう思われるのもアレなので普段はこんなこと言わないんですけど。でも、今回はそういうテーマなので、その辺りのこともちょっとだけ触れておきます。感情移入するとかしないとかじゃなくて、なんだろう。臨場感? ……ともまた違うな。一人称視点だろうが三人称視点だろうが、それが小説なのであれば自分は常にその目線であることを前提として物語を理解しようとするといいますか。いや、しようとするとかしないとかじゃなく、そういう風にしか向き合えないっていうか、そんな感じなんですけど。だから、自分と全く違う考え方をするキャラクターが一人称の作品とかは、読んでいて結構楽しかったりします。こう、自分の中には存在しない行動理念のようなものが自然とインプットされてくる感じで。映画も同じ。作り手側の意図とかは特に気にせず、操り人形の視点から物語を理解しようとする、みたいな。自分は基本的にそんな感じの楽しみ方をしています。いや、でも、ならばこそって話なんですけど。その、だから「人生を一回しか経験できないのって損じゃね?」という風に思ったとき、それを小説や映画で埋め合わせる、みたいなことが全然できなくって。というのも、そういった媒体に触れているときの自分は完全に別人のつもりだというか、要するに山上一葉という人格は完全に消滅してしまって、主人公なり神の視点なりと同一化しているわけで。でも、自分がやりたいのはそういうのじゃないっていうか。自己の連続性を保ったままで別視点での人生を経験してみたいんですよ。わかりやすく言うと、異世界転生がしたい。これは嘘で、異世界へは飛ばされたくないし、転生をしたいわけでもなく、ただイメージしやすいかなって理由だけで言いました。別に異世界転生はしたくありません。でもまあ、イメージとしてはそんな感じで。たとえば、それこそ感受性とか? 「いや、知らんやん」ってなりません? 自分が持ち合わせている感覚の多寡って、そんなの他人と比較しようがないし。比較することに意味は何一つありませんけれど、それでもまあ知りたくなったりするじゃないですか、そういうの。でも、知りようがないし。だから、自分のままで別人になってみたいって、そういうことを思うんですよね。たとえば、自分はかなりの頻度でぼーっと空を眺めることがあって、電車に乗っているときとか、あるいは普通に歩いていてもそんな感じですけれど、でもそうじゃない人だって当然いるわけじゃないですか。歩いているときにずっと俯いている人とか、別に何をみているでもない人。どっちが良いとか悪いとかって話ではなくて、そもそも良し悪しなんて存在しませんが、だから、そういう人生を送ってみたいって思うんですよね、単純に。空を全く見上げない人生。面白そうじゃないですか。他にも、たとえば自分は食への関心がほとんど皆無で、だいたい何を食べても美味しいと言うので、友人と会うときなんかには店の選定も予約も全部投げちゃう(かわりに和洋や金額など、すべての設定権が相手にある)のですけれど、そうじゃない人生も一度くらい経験してみたいなって。「あの店の〇〇は口に合わない」だとか、「この店の〇〇は特に美味しい」だとか、そういった感覚に少しは振り回されてみたいって、食にかなり拘りのありそうな友人とご飯へ行った際には、そういったことを思ったり思わなかったり。ほかにも、自分の家はいまもむかしもめっちゃくちゃに散らかっていて、綺麗好きの人が訪れたら卒倒するレベルだと思うんですが、逆にそういった綺麗好きな人としての人生もやってみたいなって思うし。なんていうか。こういう人格周りのことって決定権がないじゃないですか、自分たちに。気づいたらそうなっていたっていうか。別に空をみようと思ってそうしているわけではないし、食への関心を持たないようにしようと思ってこうなったわけではないし、部屋は散らかっていたほうがいいと思って散らかしているというわけでもなく、『なんか知らないうちにそうなっていた』が結局のところ全部っていうか。もちろん、ルーツみたいなものをたどっていけばそれっぽいものがいくつか見つけられるだろうと思うのですけれど、でもそんなのは卵と鶏でしかないような気が個人的にはしていて。だから、なんていうか、『自分じゃどうにもならなかった部分』を今とは別の状態にして、そのうえでこの世界を捉えてみたいっていうか。そういう欲求がめっちゃくちゃ強くあるんですよね、自分には。極論を言うと、性別とか。男性としての人生しか送れないってあり得なくないですか、マジで。ふざけんなって気持ちが自分には結構あるのですけれど、皆さん、そんなことないですか? いやだって、いまどき RPG だって性別くらいは選べますよ。なのに、なんで選べないの? みたいな。……まあ、ここまでに書いた話は半分くらい冗談で残りの半分くらいは本気ですが、いやまあ、それこそ最後の性別の話を受け継ぐとしたら、だからって別に性転換をしたいだとか、そういうことは一切思ってません。ここら辺、ちゃんと書いておかないと誤解されそうだなと思うので、一応断っておきますけれど。というか、でも、だからそういう話じゃないんですよね。空も食も綺麗好きも性別も、だから要するに『その片一方しか経験できない』って事実が自分は許せないっていうか。それを「もったいねえ~~~~」と感じるというだけの話で。『空を見上げない』、『食への関心が高い』、『綺麗好きである』、『女性である』といった、いまの自分が持ち合わせていない要素そのものに価値を見出しているのでは全くなくて、それらに共通している『自分には一生涯経験できない』という属性に対して価値を見出しているっていう、そういう話です。だからまあ、自分にとってはあくまで右か左かという程度の違いしかないというか。別にどっちがどうとかって話でもなく、だからたとえば「では、そんなあなたを明日から女性にしてあげましょう」とどこかの神様が親切にしてくれたとしても、まあ普通に断るだろうと思います。男性としての人生しか経験できないという事実に不満があるだけで、男性であること自体に不満を持っているわけではありませんし。この辺りの感覚の違い、自分はそれなりに明確なものとして持っているのですけれど、まあでも、そういうことをあまり思わない人にとっては同じもののように映ってしまうのかなという懸念があり、なので少し多めに注釈をつけておきました。……これはもう何度も書いていることなので、わざわざここで取り立てて話すようなことでもないのですけれど、だから結局、自分が他の人の話を聞きたがるのもつまりはそういうことで。自分と他の誰かとでは考え方が異なっているわけで、価値観も同様に異なっているわけで、だったら見えている世界も別物のはずで、自分が知りたいのは、だから正しくそれなんですよね。手っ取り早いのは自分の意識がその誰かの身体へ入り込むことですが、昔の漫画にありがちな頭を思い切りぶつけて Let's 人格交換みたいな、ああいうの。でもまあそれは不可能なので、だから会話として理解してみたいって、そういう気持ちが自分にはかなりあって。二〇と数年生きてきて、自分に最も合っていると感じた追体験の方法が、結局のところは会話なんですよね。会話。このブログで自分の考え方をああだこうだと書き散らかしているのも、自分と同じようなことを考えている人がどっかにはいるかもしれないなという気持ちが多少はあるっていうか。なんだろ、そういう、「他の人が何をどういう風に考えているのか知りたい」みたいな人。いるのかな、知らないけど。いやでも、そういう人が身近にいるのだとしたら全くの無意味というわけでもないなと思っていたりいなかったり。っていうかもう、自分の考え方や普段見ている風景なんかは散々書き尽くしてしまっていて、このブログのいたるところに。なのでというわけでもないですけれど、最近マジで他の人と話をできる機会がめっきり減ってしまったことも相まって、なんか、いわゆる感覚のアップデートのような何かが滞っているような気もしており。とはいえ、気軽に会って話せるような状況でもないので難しいですよね。んー、まあ、別に誰かと話していないと死に至るような病に侵されているというわけでもなし、というか、いわゆる雑談のようなそれは雑に話すからこそ意義があるのであって、会話をするという目的で行われる会話は会話じゃないという意見にはかなり賛成している側の人間ですし、自分は。なのでまあ、何かしらの機会があるときでいいでしょうって、だいたいそんな風のテンションで生きています、最近は。もうすぐしたら色々とイベントがありますしね。そのときに色々を話したり話さなかったりできたらいいかなって、そんな感じです。