今週読んだ本についての話5

 

 まあ主に試験期間のせいなんですけれど、ここ最近あまり本を読めていなかったという自覚があって、自覚というか現に読んでいなくて、それでも少しずつは読んでいたのですがほとんど皆無と言ってもいいくらいで、そういうわけでこの記事を書くのも何だか随分久しぶりのことのように思います。今日からはまた一週間ごとに何かを読んでいこうとは思っています。以上、言い訳です。

 早く読むことが正しいとは全く思っていなくて、沢山の数を読むことも、あるいは同じ本を繰り返し読むことも、それと同じくらいに正しいことだとは考えていません。これはそもそも何を以て正しさを定義するかという話なんですが、正当性なんてものはきっと結果からしか生まれなくて、要するに嘘で、ハウツー本なんてものはその典型例なんじゃないかと思いますけれど、逆に言えば、結局のところやってみないと何も解らないということでもあって、そんなのは誰もが縦に頷く全く当たり前のことではあるわけですけれど、だからってそれを実践できる人間はそうそういなくて、正しさを語る権利があるのはそういった人たちだけなんだろうなと思います。少なくとも自分にその資格はありません。

 

 

 今週は『サクラダリセット5 片手の楽園 / 河野裕』、『サクラダリセット6 少年と少女と、 / 河野裕』、『サクラダリセット7 少年と少女と正しさを巡る物語 / 河野裕』の三冊を読みました。

 それと試験期間中のどこかのタイミングで『サクラダリセット4 さよならがまだ喉につかえていた / 河野裕』も読んでいました。

www.kadokawa.co.jp

www.kadokawa.co.jp

www.kadokawa.co.jp

www.kadokawa.co.jp

 サクラダリセットは全七巻なので、これで一先ず終了です。あまりにも限定されすぎた範囲から好きなものを挙げるという行為は、見方によっては差別と同義だと考えるのでなるべくしたくないのですが、あえて選ぶなら、自分は二巻と、それに六巻が好きでした。六巻は特にそうで、言葉にすると嘘っぽいので何も言いませんけれど、こんなに心を殴られるのは久しぶりの感覚だなあ、と思いながら読み進めていました。泣き出したくなるような、でも何も哀しくなんかない、純粋な感動だった気がします。やっぱり嘘っぽいですね。言葉なんてその程度です。

 四月二六日には階段島シリーズの完結版が出版されるとのことなので、とりあえずはそれを待つことになるのかなと思います。一巻と二巻は、特に一巻は結構な頻度で読み返しているんですが、三巻以降は二回くらいしか読んでいないので、まあストーリーを忘れていて、いや覚えてますけど、できることなら折角の最終巻を最高の状態で楽しみたいので、きっとどこかのタイミングで読み返すことになるんだろうなと思います。春休み中でしょうね、多分。そんな余裕あるかなあ。なくても作りますけど。

 

 

 自分が正しさという概念について自分なりに考えてみたのは、記憶する限りにおいては『終物語(上) / 西尾維新』を読んだときが最初でした(以前、ブログに書いた気がする)。では、それまでは一度も考えてこなかったのかといえばそんなわけもなくて、ずっと自分の中にあった不満とか疑念とか、そんな何かと初めて真正面から向き合ったのがそのときだった、という話です。

 僕はどこか高校生より前の自分とそれ以降の自分とを分けて考える癖があって、連続したものだとは解っていつつも意識的にそうすることがあって、それは高校生という肩書を持っていたあの三年間こそが自分の中の色んなものを定義しているのだという思いがあるからで、まあ実際のところ、それ以前の十何年のほうが自分を形成していることは疑いようもない事実なのですけれど、その全部がちゃんと綺麗に縁取られたのはきっとあの三年間で、だから僕はその期間だけをどうしようもなく特別視してしまいます。

 自分とそれ以外とがあって、誰かには見えるものがあって、誰かには見えないものがあって、自分にも見えるものがあって、自分にも見えないものがあって、そんなことは小学校の道徳の時間にでも習うような当たり前の事で、そんな当たり前に気がつくのに僕は二十年近くを費やしてしまったわけですけれど、だから、無駄ではなかったなと思うことがあります。嬉しかったことも悲しかったことも、楽しい思い出も嫌な記憶も、何もかもを背負ったままでここまで来て、そして彼と出会えて、その先のいまがあって、やっぱり無駄じゃなかったなと思います。

 誰にだって自分なりの正義があって、僕にだって僕なりの正義があって、色んな感情と、記憶と、事実と、嘘と、解釈と、自己憐憫と、軽蔑と、憧れとを全部まとめてミキサーにかけたような、ぐちゃぐちゃで混ざり合っているようで何も混じっていない、自分自身それが何色なのか全く解らないような、でもそれを通して空を見上げてみると案外悪くなかったりもする、どうしようもなくすべての光を捻じ曲げてしまうから、使いようによっては拭いきれないバイアスにもなる、だけど正しく使えばきっと何よりも美しくクリスタルみたいに煌めく、それほどに綺麗な何かがどこかに、胸の奥でも頭の中でも手の内でも瞼の裏でも、どこかにあるわけです。それを語る資格はなくとも、持ち合わせることなら誰にだって許されていると思います。

 誰にだって、綺麗なものが一つくらいあればいい。

 心の底からそう思います。本当に。