今週読んだ本についての話4

 

 

 ところで話は変わるのですけれど、僕は多分これまでの人生で何かを成し遂げようと思って何かに取り組んだことが一度もないのですよね。いや、まあ一度くらいはもしかしたらあるかもしれませんけれど、でも恐らくないだろうと思います。自分の性格から考えてほとんど間違いありません。音楽も絵も数学も、それが楽しかったからずっと続けてきただけであって、かといって何かしらになりたかったというわけでは全くないという話です。だから、上達したいとかはあまり思わなかったんですよね。こんな言葉を使おうとする時点で自分に対する甘えがあるわけですけれど、いわゆる才能だとかセンスだとか、そんな感じのものが自分にも一つくらいあればいいのになあ、と考えた事なら何度もありました。そのくせ練習しないんだから、そりゃ上手くならねえよ。まあ大学へ入ってからはそういうことを考える機会は少なくなったのですけれど、しかしまた最近になって考えるようになったんですよね。もっと力があればいいのになあ、みたいなことを。形にしたいものは幾らだってあるのに、何にしても中途半端なんですよ。手に余っている。ギターの一つでも弾けたならいくらだって曲を作るんですけどね。能力が足りねえ。いや、本当に足りていないのは能力や才能なんかじゃなくて覚悟なんですよね。覚悟。だから今年の抱負は何かを成し遂げることです。あけましておめでとうございます。

 

 今週は『サクラダリセット3 機械仕掛けの選択 / 河野裕』を読みました。

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 先週の記事にもちょっと書きましたけれど、あの記事を更新した時点で半分くらい読んでたんですよね。何なら月曜日のうちに読み終えてました。これが何を意味するか解りますか? はい。つまり今週ほとんど何も読めていないということです。はあ。俺はゴミだよ。

 

 本についての話はあまり乗り気でないのでせずに端末の話をします。僕が携帯端末を嫌っているという話です。よろしくお願いします。

 ごくたまになのですけれど、手元にある携帯端末を眺めて、こいつさえいなけりゃなあ、と思うことがあります。最近の端末はそりゃもう便利で、それ一つあれば大体のことは出来て、世界中どこへでも行けてしまうわけで、SNSとかもありますし、コマンド一つで誰かしらと繋がることができて、退屈を紛らわせることができて、そしてそれが何よりもつまらない。滅べばいいと思う。でも便利だから決して手放さない。滅べばいいのはお前だよ。

 誰とも繋がってなんかいないのに、繋がっているような気になってしまうのが嫌いです。自分の問題なのでしょうけれど、端末のせいにします。おのれ、ぐぬぬ。いや、そういうことなんですよね、結局、だから、そういう話なんですよ。端末ってやつはあまりに便利過ぎて、それ一つで大体のことが完結してしまうんですよね。問題も、迷子も、会話も。面白くねえ。まあでもそれに頼り切っている自分が一番ゴミだ。ゴミです。

 大して知りもしないのに知ったような気になって、大して知りもしない相手を知ったような顔で批判して、一度も正面から向き合ったことのない器を満たそうと躍起になって、たったの一度さえ繋がったことのない相手と何かを分かち合ったような気になって、それってあまりにも虚しいよなあ、と最近思うんです。僕が誰かと会話することに重きを置いているからなのでしょうけれど、端末越しじゃ何も分からないんですよね。それなのになまじ時間だけは多くを共有しているから、知ったような気になれてしまう。あいつはああいう奴だよ。あの人はああいうことをよく言うよね。そういうことを思うようになる。よくないんですよね、こういうの。自分の世界の幅を狭めるだけなんじゃねえかな、と思います。これは自戒です。

 幸福度は科学の発展によらずほとんど一定を保っているという調査結果があるじゃないですか。だから何なんだって話ですけれど、でも、何となくそういうことなんじゃねえかなあと思うんですよね。昔以上に壁を作りやすい環境だと思うんです、現代は。簡単に壁を作れてしまう一方で、壁に気づくことは困難になっていて、さらには壁をノックすることを酷く躊躇うほどに臆病になってしまっているという印象があります。自分の話であり、他人の話でもあります。踏み込めってことを言いたいわけじゃない。ただ、踏み込めないという事実だけがそこに在る。悲しくなってきませんか? 文明はこんなにも発展したのに、さて、僕らはいったい何を得られたのでしょう? 失ったものの方が多いような気がしませんか? 失ったものよりも得られたものをこそ数えた方がいいというのは当たり前ですけれど、それは失ったものに盲目であってよいということではないと思うのです。それも、もしかすると当たり前のことなのかもしれませんけれど。