いまここにいる

 

 だからつまり結局のところ、僕らの日常ってどこまでいっても椅子取りゲームなわけじゃないですか。誰もが報われるわけじゃないし、誰もが救われるわけじゃない。誰かが幸せな笑顔を浮かべているときに地球の裏側では、涙すら零れないほどの悲しみに暮れている誰かがもしかしたらいるかもしれない。大学入試に受かった人がいれば落ちた人もいて、ホームに身を投げ出した人がいればそれを誹る人もいて、生まれてくる誰かがいれば死んでいく誰かがいるわけです。当たり前なんですよね、そんなことは。呼吸と同じくらいに当たり前のことで、だから普段はあまり意識しないんですが、時々息が苦しくなって鼓動の残響を思い出すように、ふとした瞬間にそんな当たり前を思い起こして、酷く恐ろしく感じることがあります。

 

 思うことがあって、それはたとえば、何かしらの気まぐれで第二外国語としてドイツ語を選択していたらどうなってたんだろうか、みたいな。あるいは、分岐点なんてもっと他にもあったと思うんですよね。自分以外の誰かのものまで考え始めたらそれこそ無数のそれがあったはずで、そのうちの一つでも違えていたら、いまはいったいどんな風になっていたんだろう、とか。いま自分は平然とした顔であいつの隣に座っているけれど、いまあいつはそれが当然という風に自分の隣に座っているけれど、もしかしたら自分じゃない誰かがここにいたかもしれないんだよなあ、とか。もしもあいつの隣にいられなかったとしたのなら、自分の居場所はどこになっていたのだろう、とか。誰かと一緒にいるときにはあまり考えないんですが、一人きりで何となく過ごしている時間に、たとえば電車に乗っているときとか、そんなときにはこんな感じのことをよく考えます。椅子取りゲームなんですよね、だから。自分は誰かの居場所を奪った結果ここにいて、誰かに居場所を奪われた結果ここにいるんだろうな、ということです。

 

 当たり前じゃないんですよね、何も。当たり前のことなんて何一つもない。昨日の昼、近くの大きな交差点で交通マナーの啓蒙活動に励む方々を目にしました。どうなんでしょうね。自転車であの交差点を突っ切る人たちは彼らのことを、何だこいつら、邪魔だなあ、とか考えるんでしょうか。悲しくなってくるんですよね、そう考えただけで。実際にそんな風の言動をする人を見ただけで。あんなにも報われない仕事があるかと思います。ビラ配りの人にもコンビニの店員にも、同じようなことを考えます。きっと誰も感謝しないんですよね。誰からも相手にされない。自分の身に置き換えてみてくださいよ、それを。死にたくなってきませんか。だから、というわけでもないですけれど、会計のときなんかには相手へ礼を伝えるよう心がけたりしています。その苦労を誰かが肯定しなきゃいけない。自分じゃなくてもいいけれど、自分でもいい。昨日の昼、あの人たちにも一言でも声をかけられたらよかったのにな、とずっと考えています。今更遅えよ。

 

 躊躇う自分がいて、馬鹿にする自分がいて、諦めたがる自分がいて、恥ずかしがる自分がいて、考えていた言葉のほとんどは言えないままで意味を失くして、もうずっとそんなことの繰り返しです。自分で決めたことをすぐに後悔して、でも今更引き返せなくて、とりあえずいまは実家から突発的に帰ってきたことを少し悔やんでいます。実家、嫌なんですよね。諸事情あって、いまは特にいたくない時期です。それでも、一日くらい泊っていけばよかったかなあ、と帰りの電車からぼーっと外の空を眺めながら思いました。両親だって僕だって、明日には死ぬかもしれないのに、少しくらい話せることがあったんじゃないのか、みたいなことを考えていました。結局、来週、地元で何の予定もないのに実家へ帰ることに決めて、それで手打ちにしたのですが。

 

 なんていうんですかね。大学で仲良くしてくれている人たちだって、あと一年もしたら就職したり院進したりで現状とはすっかり変わってしまうわけで、だから、いまじゃないと話せないようなことがもっとたくさんあるんじゃないかな、という気持ちで最近を過ごしています。絶対に後悔することになると思うんですよ、自分が、このままだと。まあだからって、無理に誰かを巻き込んだりはしませんけど。