目が覚めてからずっと、泣きたくて泣きたくて仕方がない。

 

 日常的に何か言葉を書いていて何よりも感じることといえば、言葉はどこまでも無力だということです。文字を書くという習慣が僕についたのは、このブログを立ち上げてからのことですが、本当のことを言えば、もっと以前からあったのだろうとは思います。僕は何度でも彼のことを話題に上げますけれど、僕と彼との関係を繋いでいたのはいつだって電子世界の文字でした。それ以外には何も、僕らの間には約束や取り決めさえなかった。なんてことのない日の夜。嫌なことがあった日の夜。嬉しいことがあった日の夜。気が向いたときに二人で集まって、飽きるまで話し合って、疲れたら眠って、たったそれだけの関係でした。いま僕がこのブログで行っていることといえば、結局のところ、その数年間にわたる彼とのやり取りの延長線上でしかなくて、要するにずっと会話をしているつもりなんです、僕は。自分自身と。あるいは、この文章をいま読んでくれている誰かと。会話なんていいつつも、行われているのはどうしようもなく一方的で独善的な行為ですけれど、別に会話の相手は僕じゃなくていいんです。これを読んでくれた人がその人自身とゆっくり話し合ってくれればいい。自分の内側を覗いてみてくれたらいい。そう思いながら書いています。どこまでも自分勝手な考え方で、本当に申し訳ないという思いはありますけれど、ごめんなさい。それでも、少しでいいから、自分のことを考えてあげてほしいんです。

 言葉は無力です。どこまでも無意味だと思います。何も伝えられない。だって何も伝わってないでしょう、多分。僕がここでどれほどの言葉を使って何かを主張したところで、たとえば真夜中の信号機を守ることの是非について雄弁に語ったところで、それを読んだ人の九割九分は何とも思わないでしょうし、何も考えないに違いないと思っています。別に何かを変えたいというわけではないんですけれど、なんというか、結局そうなんだよな、という気持ちになります。自分が手に抱えている感情がいくつもあるでしょう。好意、愛情、劣情、嫉妬、羨望。大きなものも小さなものも、温かいものも冷たいものも、たくさんあると思います。それは他の誰かから与えられたものだと思いますか。まあ、言葉の定義にもよりますけれど、それは自分で拾い上げたものでしかないと僕は思います。拾うきっかけをくれたのは他の誰かかもしれません。でも、拾ったのは自分です。だから、僕が何を語ってもそれは全くの無意味なんです。信号を守れ、という主張を聞いた人に、ああたしかに、そうした方がいいな、なんてことを思ってほしいわけじゃないんです、僕は。何をしてほしいか、ちゃんと伝わっていますか? 考えてみてほしいんです。少しでもいいから、自分自身と会話をしてみてほしい。自分と話をする機会なんてそうそうないでしょう。だって面倒ですから。だから、ここにある言葉のいくつかを鏡にして、自分のことを見てやってほしい。納得できないならそれでもいいし、こいつは馬鹿だと感じたならそれでもいい。自分の考え方は少し軽率かもしれないと思ったなら正すように意識すればいいし、遠い世界の話だと思ったら忘れてくれたって構わない。自分の姿を見てほしい。それだけなんです。だって、自分の手で拾い上げなきゃ何の意味もないから。

 以前にも何度か書いたような覚えがありますけれど、他人は自分を映す鏡だと思います。他人に向けた矢は必ず自分に返ってくるんですよね。僕はそう思います。あいつはここがダメだなあ、と感じた刃は自分の心にも突き刺さっているはずなんです。気が付かないだけで。あるいは目を背けているだけで。だから、自分のことをちゃんと見てやってほしいと思います。ここにある言葉はそのための鏡です。また意味の解らないことを言ってるよ、と思うならそのままで構いません。それもまた鏡が映した一つの事実だと思います。本当に何も解らないなら、それは何よりも自分のことが解っていないということだと、僕はそのように考えるので。

 

 言葉は無力です。こんなにも泣きたくて仕方がないのに、自分でさえ一体何が悲しいのかも解りません。長ったらしい文章でもいいから言語化することができたのなら、自分の胸のどこが痛んでいるのか、それが解るだろうに。何も言えない。何も解らない。

 文字を書くということは、あるいはもっと一般に作曲なんかもそうで、自分の考えを誰かに伝えようとするということは、自分自身の中、奥深くへと潜っていく行為だと僕は思います。だから、書き起こせば少しは何かが解るかもしれないかもしれないと期待しましたけれど、でも、なかなか上手くいきませんね。