夏の色

 

 いまどこにいるのかといえば、京都大学吉田キャンパス構内共北37に設置されたパイプ椅子の上ですが、去年のNFからもう一年も経ったのか、みたいなことを考えながら暇つぶしがてらにこの記事を書いています。

 人生の転機みたいな瞬間は恐らく毎秒、数え切れないほどにあるのだろうとは思うのですが、僕らは大抵の場合その事実に無自覚的で、だから、明確に思い出せるような分岐点に思いを馳せたりするわけです。高校二年生の頃、まだ作曲を始めて一年経ったかどうかというくらいの頃に、同人イベントで頒布するコンピレーションへの参加を勧められたことがあり、というのもそれは当時近くにあったコミュニティの人たちが身内ノリで作ったものという要素が強く、収録されている曲も初心者のそれから上級者のそれまで様々あり、かなり足踏みを踏んだ覚えがあるものの、結局自分はそれに参加しました。結論から言えば、あれが自分にとっての分岐点の一つであり、あの一瞬のせいで曲を作るという行為の自分の中における地位のようなものが確立されたという気がします。以来、僕は作曲にドハマりし、そうして明日には京大の作曲サークルで自分の曲を唄うってんだから、人生ってのは本当に何があるか分からないものです。一年前の自分も、五年前の自分も、まさかいまこうなっているとは夢にも思うまい。そういえば、京大音ゲーサークル京音のほうで自分の曲が二曲ほど遊べるそうなので、暇な音ゲーマーは足を運んでみてください。高校生の頃、京音に憧れていた時期もあった(その頃の自分はバリバリの音ゲーマーだった)ので、これもなんだか夢みたいです。楽しみ。

 分岐点。というのであれば、去年のNFもそうだったのかもしれません。ちょうど一年前に作った曲に『スカイブルーナイトメア』というのがあり、以来、自分は歌モノばかりを作るようになりました。作曲を始めた当初から自分がやりたかったのは歌モノだったのですけれど、しかし高校生の頃は何度試してもついぞ一曲たりとて完成することはありませんでした。自分には向いていないのかな、などと当時は考えていたわけですけれど、いまならその理由も何となく分かる気がしていて、多分、伝えたいことが何もなかったから、何を伝えるための曲を作ることもできなかったというだけの話なのだろうな、と。だから『スカイブルーナイトメア』は自分にとって、実はかなり思い入れのある曲です。誰にも言えないような話を、誰にも言う気がないくせに、それでも誰かに聞いてほしくって、そんな一年前の自分は寝る間も惜しんで曲を作っていたなあと、今は懐かしく思い出します。この曲も明日唄います。いや、まさかだよ、本当に。

『スカイブルーナイトメア』が生まれた経緯は様々あり、経緯というか要因というか、中でも間違いなく欠かせないものの一つが京大アイマス研だったりします。正しくは、その中の一人なのかもしれませんけれど。というか、こうして自分の書いた文章を投稿できる場所があるというのも不思議な感覚で、全く当たり前ではなく、それも含めてそのおかげだったりするのですけれど、大学入学当時、吉田音楽製作所(さっきから話に出ている作曲サークル)のほうへ所属することは決めていたものの、それとは別、もう一つの候補にアイマス研があり、しかしアイマス研って実際は何をやってるんだよという気持ちもあり、足踏みしたりしなかったりをしていたのですが、そうして六月終わりか七月に片足を突っ込んだくらいの時期に突然、会誌を作るので作品を書いてください、という話になり、まあ、なりました(この話、何度もしてる気がする)。強制では全くなかったのですけれど、面白そうだと思った自分は何かしらを書き、そしてそれが本になり、そんなことが十二月、つまり冬コミにも行われ、そこで様々があり、自分が得たものはといえば、自分の考えに触れてもらうという体験そのものでした。分かりやすくいえば、自分の感情を言葉にすることへの恐怖みたいなものがなくなったというか、いや、全くなくなってないんですが、むしろ書けば書くほど強くなっていくという気さえしますけれど、同じ恐怖でも正体不明から実態を伴ったそれへと変化したといいますか、怖いけど怖くないみたいな、怖くないけど怖いみたいな、そういった認識が生まれたわけです。だから『スカイブルーナイトメア』があり、『「じゃあね、また明日」』があり、『想造世界のプレリュード』があり、『ここにいるよ。』があり、あの日あの時あの場所で自分の声に耳を傾けてくれた貴方がいたから、いまは素直な気持ちで歌詞を書くことのできる自分がいるのだな、という気がしています。

 歌詞について話す機会というのはあまりなく、というか動機がなく、それはなんというか、言葉にしてしまったらわざわざ曲にした意味がなくなるということがあり、たとえば何か楽しいことがあったとして、嫌なことがあったとして、それを言葉にすること自体は大して難しくもなく、小学生でも使えるような言葉に大学生らしい体裁を添えてTwitter辺りへ流せばいいわけです。それが良いとか悪いとか、そういった話では全くなく、でも何というか、それが自分にとって大事なものであればあるほど、そうやって安直に、容易に、誰にでも分かるように、言葉に直してしまうのってどうなんだろうと思う自分もいて、他人がどうであるかはさておき、少なくとも自分はそうありたくないなと考えるわけです。だから、意味がなくなる。自分の考えていることのすべてを言葉で説明してしまえるなら、この世に芸術なんて要らない。言葉じゃ言い表せないから、何も伝えられないから、だから音楽があって、文学があって、美術があって、自分もまたその片隅に立っているのだなあ、とか思うわけです。自惚れみたいに。

 でも、歌詞の話、本当はしたいんですよね。大切なものだから気安く触らせたくないのは本当で、しかし、その大切な何かの輝きをしっているからこそ、誰かに見せてやりたいという気持ちもなくはないというか。『スカイブルーナイトメア』、一年前の自分はあの曲について「あえて俗っぽく言えば失恋の唄ということになるのかもしれません。いや、ならないと思いますけれど」などと言っているわけですけれど、あれは失恋の唄です、疑いようもなく。分岐点。自分のことを話そうとするとどうしても彼のことを思わずにはいられないのですが、あれは彼と自分とのことだけを歌った唄です。失恋っていうか、いまとなっては彼自身のことが好きだったのか、彼の言葉が好きだったのか、あるいは彼の性格か、その辺りがよく分からなくて、というか恋愛というもの自体よく分からないし、人を好きになることと概念を好きになることの違いもあまり分からないし、だからそうやって言い切るのも何だかなとは思うのですが、でも多分あれは失恋なんだろうな、やっぱ分かんないけど。

 一年前のあの曲を明日の自分が唄うという今は完全にただの偶然で、僕が主体的に動いたというわけでもなく、成り行きというか神の見えざる手というか、気がつけばそうなっていて、だからいまはなんだか不思議な気持ちです。自分はあの曲を、彼のためでさえもなく、ただ自分ひとりのためだけに作ったわけですけれど、それを唄うことのできる機会があって、一緒に演奏してくれる人たちがいて、なんていうか、自分ばかりがこんなに幸せでいいのかな、みたいな。あの曲は、というか自分の曲は全部、自分自身で唄わないとやっぱり意味がないなと思うので、だから明日はいつも以上に頑張ろうと思います。楽しみ。今年はちゃんと寝るぞ。