とある世界の海の話

 

 僕が生まれてすぐの頃の話だ。世界はまるで平和だった。当時の僕はまだ幼かったから、その時にどこかで起きていた争いに気づいていなかっただけなのかもしれない。それでも、少なくとも僕の視界に映しこまれた世界だけは間違いなく平和だった。そんな世界に生まれ落ちた僕が最初に見たのは、辺り一面に大きく広がった海だった。とても澄んだ青をしていた。それは、あるいは頭上に張り付けられた大空を投影していたのかもしれない。だとすれば、純粋な無色だった。いずれにせよ、僕が初めて見た世界はその気高い美しさを惜しみなく振り撒いていた。あの水平線のさらにずっと向こうではきっと空と海が交わっているに違いないと、あの頃の僕は信じて疑わなかった。……笑わないでくれよ。言葉だけじゃ何も伝わらないだろうけれど、そう思ってしまうぐらいには綺麗だったんだ。写真の一枚でもあればよかったのだけれど、たとえそうでもあの瞬間の僕の気持ちは一割ほども伝わらないだろうね。

 眼前に広がる青にすっかり魅了された僕は、その秘密が知りたくなった。うっかり秘密と言ってしまったけれど、でも本当はそんなに大したことじゃないんだ。ただ単にその海へ流れ込む河川を遡ってみたくなったのさ。よくある話だろ。すっかりその気になった僕は、それまで眺めていた海に背を向けて歩き出す。嫌になったわけじゃない。飽きたわけでもない。できることならずっと眺めていたかった。ただ、今この瞬間だけはその先が少し覗いてみたくなって、だから歩き始めたんだ。

 その川は僕が想像していたよりも遥かに長く、大きく、そして偉大だった。自分がどのくらい歩いたかなんて覚えていないし、疲れを感じる余裕さえもなかった。少し歩くだけで瞬く間に世界の色ががらりと変わり、僕にはそれが楽しくて楽しくて仕方なかったんだ。光の主張が激しい大都市や、太陽までをも遮るほどの大自然の中だって歩いた。途中には少し荒らされた場所もあった。何か大きな争いごとがあったことを想起させるような傷跡がいたる所に散りばめられていた。でも、僕はそういったものも含めたすべてが愛おしくて仕方なかったんだよ。何というか、まるで時の流れそのものを遡行しているかのような、そんな錯覚に陥ったんだ。だから、この大きな河川はきっと世界の歴史そのものなんだと、いつの頃からか僕はそう考えるようになっていた。

 何日も、何十日も歩き続けてようやくたどり着いたのは、たった一本の樹だった。驚きはしなかった。だって、僕は知っていたんだ。この世界はたった一つの種から作られたもので、あの海も、都市も、森も、すべてがその例外でないことくらい初めから分かっていた。それでもわざわざここまで来てしまったのは、それを自分の目で確かめたかったからなのかもしれない。それが必要不可欠な儀式であると、そう思っていたからなのかもしれない。感動なんて此処へ来る途中で手に余るほど受け取ってしまったから、感動することも大してなかった。あったとすれば感謝の念くらいだろうか。この樹がなければ僕はここにいなかったのだと思うと、それは生まれて当然の感情だった。ここまでずっと歩いてきた疲れが出てきたのか、僕はすぐに帰ろうとはしなかった。単にゆっくりしていたかったのかもしれない。どちらでもいい。あの海はいまも変わらずあの場所にあるのだろうから、少しくらいのんびりしていっても構わないだろう。そう思っていた。

 それからしばらくして海へと帰り着いた僕が見た景色は地獄と言ってもよかった。いや、地獄なんて言葉でも生ぬるい。それは地獄よりも地獄的な様だった。あの樹が生み出す水の価値に目を付けた連中が海を荒らしに来ていたんだ。奴らは海の美しさに目をやることすらもせず、その水を踏みにじっていた。自分の欲を満たすためだけに海を濁していた。多大な資源を費やして海から持ち帰った水を誰かに自慢することで自己顕示欲を満たし、あるいはどれだけ汚いゴミを海へ棄てることができるかを競って名誉欲を満たしていた。ゲラゲラと小汚い笑い声をあげながら、まるで海の意思なんて存在しないかのように、それは消費されて然るべきものであるかのように振る舞っていた。自分さえよければいい。それがあいつらの主張だった。

 大好きだった海がそうやって汚されてゆく様を黙って見ていることなんてできるはずがなかった。だからって僕一人に何が出来るっていうんだ。何も出来るはずがないだろ。僕はただの人間だ。カミサマじゃない。あいつらを消し去るだけの戦力も、海を元通りにするだけの魔法も、何も持ってはいない。だから、僕は其処から立ち去った。見ていられなくなったから、目を背けたんだ。いつかあいつらがすっかりいなくなって、そしてあの樹が綺麗な海を作り直してくれればそれでいいと思った。時が解決するのが一番だと、そう思った。その日まで、あの海のことは何もかも忘れようと決めた。それが最も正しい選択であったと僕は今でも思っている。そうして、僕は海から離れてゆく。次は何処に行こうかと考えた。どこでもよかったけれど、できればあの下品な笑い声の届かない場所がいい。だから、海からかなり離れた地区にある小さな町へ行くことにした。

 しばらくはまた平和な日々が続いた。その町はとても居心地が良くて、そこに住む人たちの大半はとても優しかった。ずっとこのままでいられればいいのになんて願ったりもした。そんなことがあるはずないと思いながらも、願わずにはいられなかったんだ。でも、やっぱり駄目だった。またあいつらがやってきた。町を踏みにじり、我が物顔で世界を蹂躙する連中の影が見え始めた。奴らはそのちっぽけで下らない器を満たすためだけに、僕の愛した世界を壊していく。もううんざりなんだよ、そういうのは。僕は自分の大好きな場所をこれ以上失いたくはないんだ。そんなのは、あの海が最初で最後であるべきなんだ。だから、僕は今度こそ武器を手に取った。奴らと戦うために。これはそういう戦争だ。

  

 いま君の目に映る海は何色だ? 青、それとも無色? 君の見ている海と僕の見ている海は絶対に一致しない。僕には海が酷く汚れて見える。今にも崩れ落ちてしまいそうな色をしているように見える。君の目にはそんな悲しい海の色が映ることの決してないように、僕は願ってやまない。