私たちは同じ空を見ているわけじゃない

 

「生き急いでいる、と言われたことなら何度もありますね」

 そう言ってから彼女は、ちょうどいま買ったばかりのジュースを口元に近づけて、そのままぐいと大きく傾けた。結構な速さで消費されてゆく薄緑色の液体をペットボトルの容器越しに観察していると、不意に彼女の身体がくるりと回った。そうして僕は彼女の背をしばらく眺めることになったわけなのだけれど、彼女の服装といえばその大部分が固定されてしまっていて、何だか新鮮味がない。黒のキャップをいつも被っていて、ちょうどいいサイズの黒のトレーナーを着ていて、そこら辺の店で売られていそうなジーンズにバーゲンセールで安売りされていそうなスニーカーを履いていて、女性用にしては少し大きめのカバンを右肩に引っ掛けている。年相応のお洒落よりも実用性をこそ重視するというのが彼女のポリシーのようで、たとえばそれが彼女、神海隣空無という人間が持っている側面の一つだった。

「そんなにジロジロと見られたら、流石の私でもちょっと恥ずかしいです」

 彼女はすっかり空になった容器を、自動販売機の横に設置されている青いゴミ箱にぽいと棄てた。その中身は昨日にでも回収されたばかりなのか、彼女の手を離れたペットボトルはからんと乾いた音を鳴らして落ちた。

「生き急いでいるなんて、そんなつもりはこれっぽっちもないんですけれどね」

 どうやら周りのみんなにはそう見えているようで、と彼女は小さく笑う。

 実際のところ、僕の目からでも彼女はいつだって何かを急いでいるように見えていた。

 いや。

 何かを急いでいるというよりは。

 何かに急かされているという風に。

「たまに不思議に思うんです。みんなはどうしてそんなにゆっくりとしていられるんだろう。どうして走り出さずにいられるんだろう。そんなことをふと考えるのです」

 青空を背にした彼女の表情は、いつになく真剣で、それでも遠くて、だからうまく感情が読み取れない。それはこの瞬間だけのことではなくて、自分自身を隠してしまうことが彼女はきっと誰よりも得意だった。彼女以外の誰も、もちろん僕だって、彼女の奥底にじっと沈んでいる誰かの顔をまるで知らない。

「私からすれば、私のことを指さして生き急いでいると言う彼らの方がよっぽど生き急いでいますよ。私たちに与えられた時間はどうしようもなく有限のものなのに、代わり映えのない日常の連続に埋もれて過ごすことは、果たして生きていることになるのでしょうか? それは迫りくる死を無抵抗に受け入れることでは? 避けようのないデッドエンドがやがて訪れるというのなら、だから、限りある今を最大限有効に活用することがつまり生きるということなんじゃないかなと、私はそう信じているのですよ」

 彼女は左手を空に翳しながら言った。微かに細めたその両目で、彼女は今いったいどんな世界を見ているのだろう。

 その世界に僕の姿はあるのだろうか。

 彼女以外の影はあるのだろうか。

 そんなことを考えた。

 あるいは、と彼女は続ける。

「彼らの言うことの方が正しいのかもしれません。空っぽでなにも無い。私はそういうつまらない人間で、きっと自分以外の何かを吸収していないと生きていけない。私にとってそれは食生活と同じくらいに必要不可欠な行為で、それ以上に大切なことで、だけど、その貪欲さが生き急いでいるということなのかもしれませんね」

 その言葉に僕は頷けない。

 何も言えない。

「私は私なりにこれでも頑張って生きているつもりなのですけれど。どちらがより正しいのでしょうね」

 彼女の呟いた言葉は、突き抜けるような青空に吸い込まれ消えてゆく。彼女を真似て、僕もまた右側の手を高く伸ばしてみた。そうすれば、彼女に寄り添うための言葉が掴めるんじゃないかと思った。

 でも、何にも触れなかった。何も見えなかった。

 そんなのは最初から分かりきっていたことだ。

 僕と彼女は決して分かり合えない。生きている世界が違う。

 僕は手を下ろした。

 やっぱり、僕は何も言えなかった。

 僕らの隙を埋めるように、彼女は言った。

「私たちは同じ空を見ているわけじゃないんです。一つの空を見ているとしても、喜ぶ人がいれば悲しむ人もいて、もしかしたら怒る人もいて、何とも思わない人だって勿論いる。たかが一色だけのそれを、それでも私たちは様々に捉えようとする。私はそれだけが知りたい。だって、こんなにも色に溢れた世界を、こんなにも感情に溢れた世界を、私というたった一人の意識でしか認識できないだなんて、何だかとても悔しいから。それがたとえ死を急ぐことだったとしても、そんなことはどうだっていいんです。だから――だから、いつか貴方の話も聞かせてください」