始まり

 

 外へ出る。お気に入りのイヤホンを耳につけて、適当な音楽を聞き流しながら外を歩く。下ばかり向いているのもよくないということで意識的に見るようにしていたらいつの間にか大好きになっていた電線と青空を眺めながら、清々しい朝だなあ、とか呑気なことを考えつつ、目的地までぶらぶらと歩く。そういう綺麗でつまらない一日に、ふと思う――道に迷ってみたい、と。

 このご時世、何の知識もなしに山奥へ乗り込むといったような無茶なことをしない限り、道に迷うなんてことはそうそうない。スマートフォンを持っているならそれで地図を調べればいいわけだし、持っていなくとも道行く人に尋ねればその人が確認してくれるだろう。昔のように曖昧な記憶を頼りにした案内ではなくて正確な道筋が分かるわけだし、初めての地で不慣れだから五分程度立ち止まるということならあるだろうけれど、それにしても普通に生きていれば何十分も迷うなんてことはないと思う(相当な方向音痴の人以外は)。

 だからこそというか何というか、道に迷いたいなんてことを思うわけだ。携帯電話――まあ、僕の場合は主にはTwitterだけれど――を通じていつでも誰かと繋がっているなんて何だか気持ちが悪いという旨の発言をしたキャラクターがいたけれど、僕のそれもきっと似たような感覚で、いつでも道に迷わずにいられるのが何だか気持ちが悪い。その違和感を具体的に書き記すのはとても難しいのだけれど、一言で表すなら『上手くいきすぎている』という感じだろうか。あるいは『つまらない』かもしれない。

 人生がうまくいくのは概ね良いことで、僕も自分の人生くらいは何とか上手くいってほしいものだと常々思ってはいるけれど、でも、それにしても一抹の不安くらいはあってもいいというか、それが『上手くいきすぎている』であり『つまらない』であるわけだけれど、要するに不確定要素が欲しいんだと思う。でも、それはあまりに大きすぎるとその重さで自分が潰されてしまうから、だから道に迷うだなんて取るに足らない些細な不安を求めているんだろうと思う。

 僕が好きな言葉の一つに予定調和がある。でも、自分の思惑通りにすべての事が運ぶなんてことは現実においてまずありえない話だ。だからこそ僕はこの言葉が大好きなのだけれど、まあそれはいいとして、ともかく、予定調和でないことが当たり前なのがこの世界なわけで、だから、道に迷わずにいられることがとても奇妙に思えて仕方がなくなる瞬間がある。あの場所へ行きたいという僕の願いが何の妨害もなく果たされてしまうことに不満のような何かを覚える瞬間がある。僕は賭け事が嫌いな人間ではあるけれど、そんな僕の日常にだって少しくらい『きっと』があっていいんじゃないかなんて、そういうことを考える瞬間があるわけだ。

 いや、まあ実際のところ日常生活の大半は上手くいっていない。五月末から六月の中頃にかけては半分うつ病みたくなっていたし、二、三回目のバイトでいきなり遅刻するし、生活費は低空飛行どころか逆宇宙旅行マントル直行くらいの勢いだし、星井美希SSRは引けないし、いまは七月締切のタスクを三つ抱えて死にそうになっている。そうでなくても、このままこの大学でちゃんとやっていけるのかとか、というか大学出た後はどうするんだとか、現実に対する不安なんて腐るほどあるわけで、むしろ誰かに押し付けたいくらいではあるのだけれど、そういった底知れない沼に沈んでいくような重々しい不安ではなくて、僕が感じたいのはもっと気楽で心地よい不安だ。それはたとえば、小さな森の中を夕暮れ時まで大騒ぎして探検した小学生の頃に感じたような、好奇心と表裏一体になった不安のことだ。大学生になった今にもなって得体の知れない森の中を探検しようだなんて流石の僕でも思わないけれど、でも、似たようなことはしてみたいと思う。結局、それが『道に迷いたい』という感情として表れているんだろう。

 高校生の頃、あれはたしか二年生のときだったと思うけれど、何を思ったのか休日の昼間に家のベランダから見える謎の煙突のそばまで行ってやろうと突然思い立ち、さっそくその煙突の立っている方へと山道を自転車で突っ走り、まあ当然のように道に迷った挙句、これまで聞いたこともなかった路線の終点に辿りついたという経験がある。あの瞬間――誰もいないような山奥にまるで誰かが置き忘れていった想い出のようにひっそりと佇む小さな駅のホームに出会った瞬間、自分の内で沸き上がった感傷にも似た何かがいま『道に迷いたい』と願う自分を形成しているんだと思う。だから、『道に迷いたい』と思う僕が本当に求めているのは、そういった偶然そのものなのかもしれない。偶然、不安、不確定。どの言葉を使っても結局は同じことで、二度と巡り合えないような、そして二度と巡り合えなくてもいい何かにばったり出会いたいと僕は思っているのだろう。

 僕だって人間なので、タスクに追われているとどうしても現実逃避がしたくなるもので、だからこんなとりとめのない記事をいま書いているわけだけれど、そうはいっても何の因果もなしにこんな話を書き始めたというわけではなくて、まあ有体に言えば、僕の所属している某サークルが某コミに出す某誌に向けて頑張って書いている物語にある程度関係しているように思う。その物語に影響されてこの記事を書いたというわけではなく、むしろ逆で、この記事に書いたようなこと――つまり、あの日の光景に影響を受けて僕はいま物語を書いている。だから、あの瞬間が僕にとっての『始まり』の一つなんだと思う。他の誰かが聞けば「なんだ、それ。くっだらねぇ」と言われてもおかしくはないくらいどうでもいい出来事のはずなのに、どうしてだかずっと忘れられなくて、そうして気がつけば自分の一部に融け込んでしまっているような、そういう暖かな記憶――それが多分『始まり』というやつで、僕の場合は今さっきの話がその一つだったということだ。