存在意義

 

 記憶なんていうものは、大抵の場合、その個人にとって都合のいいように修飾されている。愛おしく感じる思い出も、忘れられないトラウマも、言うなれば過剰の調味料と保存料を山ほど混ぜ込んで作られたコンビニ弁当のようなものだ。主観的であり、人工的であり、作為的だ。余計なものがそぎ落とされて、あるいは必要なものを勝手に付け加えて、その断片に触れたのが誰であっても上手く作用するように加工されている。そんな紛い物に意味を見出すこと自体が馬鹿げているわけで、要するに、思い出なんてものは自分の胸の内だけに留めておけばいい。他の誰かに聞かせるほどの価値がある思い出なんてこの世界のどこにもない。これが僕の考えだ。そう分かってはいても語りたくなってしまうのが思い出話というやつであり、せっかくこういう場があるのだし、少しだけ昔の話をしたいと思う。僕以外の誰かにとっては何の価値もない話だけれど、嘘か本当かも分からないような話だけれど、もしよければ少しだけ僕の雑談に付き合ってほしい。

 世間一般で友人と称される概念がよく分からない何かに変容してしまったのは、僕が高校生の頃だ。それまでは僕も例に漏れず一般的な考えを有していたわけで、つまり、それなりに仲のいい相手は友人と呼んで差し支えないだろうと考えていた。今となってはどうしてそれほど安直に考えることが出来ていたのかが分からないけれど、本当に過去の自分と今の自分は連続した存在なのかと疑いたくなるほどだけれど、しかし、何にせよ当時の僕はそう考えていた。そんな僕の考え方が一変することになった直接的な要因は、高校一年生の頃にある人物――以降では『彼』と呼ぶことにする――と知り合ったことだった。いま思えば、僕の価値観は大なり小なり彼の影響を受けている。というよりも、彼と出会っていなければ、きっと僕はいまごろ自分の忌み嫌う人々と同じ何かになっていたに違いない。そう思えるくらいには、彼の存在は僕の内面を大きく変えた。『友人』という概念も、またそのうちの一つだ。

 彼は僕と同い年だった。彼は『友人』と呼ぶべき対象に独自の基準を持っていて、それをこの場で詳細に書き下すつもりは全くないけれど、その考え方は、彼と知り合ったばかりの僕にしてみれば全く不可解極まりないものだった。でも、それと同時に、そんな彼の在り方に僕はとても憧れた。知っている人は知っているだろうけれど、僕は今でも中二病が治っていない。況や高校生の頃なんて中二病真っ盛りなわけで、だから、自分の周りにいる誰よりも大人びた彼の思考に僕は強く惹かれた。すっかり成人した今でさえ自分が十分に成熟した考えを有しているなんて口が裂けても言えないが、それにしても当時の自分はひどく幼稚だったと記憶している。だからこそ、変容という表現が何よりも相応しい。それを引き起こすだけの種が僕の内に元々あったものなのか、あるいは彼の存在によって無理矢理作られたものなのか、いまの僕には区別ができない。でも、どちらでもいい。だって、僕はいまの考え方を気に入っている。だから、どうでもいいんだ。

 僕の中には『友達』という概念と『友人』という概念が存在している。この二つは全く別物だ。決して明確な境界線が引けるわけじゃないけれど、でも、全く違う属性だ。僕は何か肯定的な対象を定義するとき、その否定の補集合として定めることが多い。好きな対象の条件として、嫌いな対象の条件を多くは満たしていないことを掲げる。そんなに上手く二分化できるものでは決してないし、このような定め方だと余計な要素が入ったりもするけれど、僕はよくこういうことをする。というのも、生きていれば負の感情を持つことの方が多いからだ。好ましい要素を必死に探すより、不快な要素を省いていった方が何かと楽なんだ。しかし、こと『友人』という概念を定義する上ではそうじゃない。肯定的かははっきりしないが、少なくとも否定的ではない文言で僕はそれを定義している。どうしてかは僕自身もよく分かっていない。でも、もしかすると、そういう相手を探しながら生きていきたいからなのかもしれない。

 僕が『友人』の定義として掲げるのは至極明快な一文で、それは『お互いの考えを話し合うことのできる関係性』だ。逆に言えば、『友人』は『お互いの考えを話し合うことのできない関係性』だ。ここでの『できる』は物理的なことじゃない。話し合いなんて、やろうと思えば誰とだってできる。僕が言いたいのはそういうことじゃない。相手が普段どんなことを考えて、どんな目線で日常を捉えて、どんな世界を生きているのか。そういうことを気楽に話せる相手のことを、僕は『友人』と定義している。何でもいいんだ。たとえばゴミのポイ捨て問題とか大学周辺の交通マナーの悪さとか、別に政治的な話題だって構わない。そういう下らないことから大事なことまで、お互いの感じたことをお互いが暇なときにでも議論できる相手のことを僕は『友人』と定義した。そういう話し合いを通じて、互いの世界を擦りあわせることのできる相手を『友人』と定義した。他人が何を考えているかなんて完全に理解できるはずがないけれど、それを理解した上で関わりあっていくことのできる相手こそが僕にとっての『友人』だ。

 そういう意味で、僕の初めての『友人』は彼だった。彼と過ごした時間は本当に楽しくて、かけがえのない思い出だ。そういう時間を共有できる相手が片手で数えられる程度にはいる毎日が過ごせるのなら、それはきっととても幸せなことなのだろうと思う。だから僕はわざわざこんな場所を作ってまで、自分の考え方を外部へと発信しているわけだ。そういう相手は受け身じゃいつまで経っても見つからないから、だから、あくまで僕の考え方はこうだと述べるだけの一方的で稚拙な文章を公開する場所を作った。需要なんてどこにもなくていい。別に誰かに承認してほしいわけでもない。それでも、いつか彼のような『友人』たちに出会えることを期待して、僕はこうして文章を書いている。それが感情墓地の存在意義だ。