始まり

 

 外へ出る。お気に入りのイヤホンを耳につけて、適当な音楽を聞き流しながら外を歩く。下ばかり向いているのもよくないということで意識的に見るようにしていたらいつの間にか大好きになっていた電線と青空を眺めながら、清々しい朝だなあ、とか呑気なことを考えつつ、目的地までぶらぶらと歩く。そういう綺麗でつまらない一日に、ふと思う――道に迷ってみたい、と。

 このご時世、何の知識もなしに山奥へ乗り込むといったような無茶なことをしない限り、道に迷うなんてことはそうそうない。スマートフォンを持っているならそれで地図を調べればいいわけだし、持っていなくとも道行く人に尋ねればその人が確認してくれるだろう。昔のように曖昧な記憶を頼りにした案内ではなくて正確な道筋が分かるわけだし、初めての地で不慣れだから五分程度立ち止まるということならあるだろうけれど、それにしても普通に生きていれば何十分も迷うなんてことはないと思う(相当な方向音痴の人以外は)。

 だからこそというか何というか、道に迷いたいなんてことを思うわけだ。携帯電話――まあ、僕の場合は主にはTwitterだけれど――を通じていつでも誰かと繋がっているなんて何だか気持ちが悪いという旨の発言をしたキャラクターがいたけれど、僕のそれもきっと似たような感覚で、いつでも道に迷わずにいられるのが何だか気持ちが悪い。その違和感を具体的に書き記すのはとても難しいのだけれど、一言で表すなら『上手くいきすぎている』という感じだろうか。あるいは『つまらない』かもしれない。

 人生がうまくいくのは概ね良いことで、僕も自分の人生くらいは何とか上手くいってほしいものだと常々思ってはいるけれど、でも、それにしても一抹の不安くらいはあってもいいというか、それが『上手くいきすぎている』であり『つまらない』であるわけだけれど、要するに不確定要素が欲しいんだと思う。でも、それはあまりに大きすぎるとその重さで自分が潰されてしまうから、だから道に迷うだなんて取るに足らない些細な不安を求めているんだろうと思う。

 僕が好きな言葉の一つに予定調和がある。でも、自分の思惑通りにすべての事が運ぶなんてことは現実においてまずありえない話だ。だからこそ僕はこの言葉が大好きなのだけれど、まあそれはいいとして、ともかく、予定調和でないことが当たり前なのがこの世界なわけで、だから、道に迷わずにいられることがとても奇妙に思えて仕方がなくなる瞬間がある。あの場所へ行きたいという僕の願いが何の妨害もなく果たされてしまうことに不満のような何かを覚える瞬間がある。僕は賭け事が嫌いな人間ではあるけれど、そんな僕の日常にだって少しくらい『きっと』があっていいんじゃないかなんて、そういうことを考える瞬間があるわけだ。

 いや、まあ実際のところ日常生活の大半は上手くいっていない。五月末から六月の中頃にかけては半分うつ病みたくなっていたし、二、三回目のバイトでいきなり遅刻するし、生活費は低空飛行どころか逆宇宙旅行マントル直行くらいの勢いだし、星井美希SSRは引けないし、いまは七月締切のタスクを三つ抱えて死にそうになっている。そうでなくても、このままこの大学でちゃんとやっていけるのかとか、というか大学出た後はどうするんだとか、現実に対する不安なんて腐るほどあるわけで、むしろ誰かに押し付けたいくらいではあるのだけれど、そういった底知れない沼に沈んでいくような重々しい不安ではなくて、僕が感じたいのはもっと気楽で心地よい不安だ。それはたとえば、小さな森の中を夕暮れ時まで大騒ぎして探検した小学生の頃に感じたような、好奇心と表裏一体になった不安のことだ。大学生になった今にもなって得体の知れない森の中を探検しようだなんて流石の僕でも思わないけれど、でも、似たようなことはしてみたいと思う。結局、それが『道に迷いたい』という感情として表れているんだろう。

 高校生の頃、あれはたしか二年生のときだったと思うけれど、何を思ったのか休日の昼間に家のベランダから見える謎の煙突のそばまで行ってやろうと突然思い立ち、さっそくその煙突の立っている方へと山道を自転車で突っ走り、まあ当然のように道に迷った挙句、これまで聞いたこともなかった路線の終点に辿りついたという経験がある。あの瞬間――誰もいないような山奥にまるで誰かが置き忘れていった想い出のようにひっそりと佇む小さな駅のホームに出会った瞬間、自分の内で沸き上がった感傷にも似た何かがいま『道に迷いたい』と願う自分を形成しているんだと思う。だから、『道に迷いたい』と思う僕が本当に求めているのは、そういった偶然そのものなのかもしれない。偶然、不安、不確定。どの言葉を使っても結局は同じことで、二度と巡り合えないような、そして二度と巡り合えなくてもいい何かにばったり出会いたいと僕は思っているのだろう。

 僕だって人間なので、タスクに追われているとどうしても現実逃避がしたくなるもので、だからこんなとりとめのない記事をいま書いているわけだけれど、そうはいっても何の因果もなしにこんな話を書き始めたというわけではなくて、まあ有体に言えば、僕の所属している某サークルが某コミに出す某誌に向けて頑張って書いている物語にある程度関係しているように思う。その物語に影響されてこの記事を書いたというわけではなく、むしろ逆で、この記事に書いたようなこと――つまり、あの日の光景に影響を受けて僕はいま物語を書いている。だから、あの瞬間が僕にとっての『始まり』の一つなんだと思う。他の誰かが聞けば「なんだ、それ。くっだらねぇ」と言われてもおかしくはないくらいどうでもいい出来事のはずなのに、どうしてだかずっと忘れられなくて、そうして気がつけば自分の一部に融け込んでしまっているような、そういう暖かな記憶――それが多分『始まり』というやつで、僕の場合は今さっきの話がその一つだったということだ。

 

 

 

 

 初めてこのブログを本来そうあるべき正当な用途として使おうとしている気がする。というのも、こういうところにでも書いておかないとこの話を外へ持ち出す機会もそうないだろうし、いや、特に言いふらして回りたいという思いがあるというわけでもなく、どちらかと言えば、いまこの瞬間の自分の感情を文章として残しておきたいという気持ちが大きい。以前も書いたけれど、記憶というものはどうにも信用ならないんだ。だから、なるべく新鮮なうちに具体的な何かとして決して忘れないような場所へアウトプットしておきたかった。以下に続く文章は誰かが読むことを想定したものではない。強いて言うのなら、未来の自分へ宛てたメッセージだ。こう考えた自分がいたことを忘れないように、あの日の自分をいつでも思い出せるように、そういった目的で書かれている。そういうわけで、この先にあるのはただの自分語りだ。長ったらしいと思ったら読み飛ばしてくれていいし、そもそも読むことを僕はお勧めしない。これはただの自己満足だ。

 それとこの記事では色々なことを包み隠さずに書くつもりなので、もしかすると不快に感じる表現があるかもしれない。それについては先に謝っておく。申し訳ない。でも、それらは当時の僕が感じ、考えていたという紛れもない事実だ。ここはそういう感情を留めておくための場所でもあることを断っておく。

 

 もしも京都大学に受かったら吉田音楽製作所(以下、吉音)に参加しようというのは、たしか高二くらいの頃から決めていた。11月祭に来たときにサークル一覧(そんなのあったっけ?)でその存在を知り、作曲サークルなんてものがあるのかと驚いたのを覚えている(音ゲーサークルがあるのだから、あってもおかしくないとは何故考えなかったのか)。それからしばらくして、この御時世、作曲サークルなんてどこの大学にだってあるのだということを知るわけだけれど、それでもなお『京都大学』という属性を有する吉音へだけ向けられていた特別な感情はきっと「上に行けば行くほど面白い人たちが多くいるに違いない」なんて幼稚な思考の産物でしかなかった。その名前を知っているというだけで、そこにいる人たちの曲を聴いたことがあるわけでもなかった。だから、京大合格後に吉音の新歓へ行き、その時点での会員たちが作った楽曲をまとめたCDディスクをもらっても、すぐに聴こうとはしなかった。吉音へ参加できることがほぼ決まった時点で僕の目的は果たされたのだから、いますぐにその先へ進む必要はなかった。

 CDを聴いてみようと思ったのはそれを貰ってから五日後、2017年4月15日のことだ。吉音では二十ヶ月に一枚ベスト盤を製作することになっていて、新しいベスト盤制作の対象になるのが五月締切のCDまでだった。吉音へ参加する気満々だった僕はそれに曲を次の目標として、とりあえずそのレベルが如何ほどのものなのかということを知るために、新歓で貰ったCDへと手を伸ばした。よく覚えていないが普段の僕の習慣からすれば一曲目から順に聴いていったはずだ。この曲はここが凄いとか、この曲はここが微妙とか、いまにして思えばお前は何様なんだよとなるようなことを考えながら聴いていた。合格したばかりで調子に乗っていただけなのでどうか許してほしい。まぁその話はともかくとして、とにかく僕はCDを聴いていたわけなのだけれど、五曲目に差し掛かったところで僕の認識は大きく変わることになる。

 一部の人は薄々感づいているだろうが、そのCDの五曲目に収録されていたのは霧四面体さんの楽曲『アオルタ』だ。

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こんなことを言うと各方面から怒られるだろうけれど、それを承知の上で書くけれど、CDを聴いていたと言ってもそれほど真剣に聴いていたわけではなかった。何かをしながら聴いていたとかそういうことではなく、音楽として聴いていなかったんだ。さっきも書いたけれど、僕は吉音へ曲を出すということのハードルはどの程度のものかということを評価するためにCDを聴いていた。いや、本当に何様なんだよお前は、と思うし、責められたら返す言葉もないけれど、あの時の自分は「これなら自分でもいけそうだな」なんて風に考えていた。要するに、ある意味では、その楽曲たちを下に見ていた(本当に調子に乗っていた)。そのことははっきりと覚えている。僕の認識が大きく変わったというのは、そういう意味での話だ。そんな僕のふざけた考えは『アオルタ』によって打ち砕かれることになる。

 『アオルタ』という曲は、誤解を恐れずに書くと、それこそニコ動やYouTubeなんかで何十万、何百万回と再生されている楽曲たちのようにクオリティがめちゃくちゃ高いというわけではない。チープというと聞こえが悪いが、でも、聴く人によってはそう聴こえるかもしれない。そんな曲だと思う。でも、僕は『アオルタ』を初めて聞いた時、ひどく心を打たれた。本当に不思議だった。音の良さという一点だけで比較するのなら、そのCDにはもっと他にも秀でている曲があったはずで、自分の好みの音楽という点で考えても『アオルタ』は該当しなかった。それなのにどうしてこんなにも頭に焼き付いて離れないのだろうかと思った。それからしばらくはずっと『アオルタ』をリピートしていたと思う。当初の目的なんて完全に忘れていた。そこで綴られている歌詞を知りたくて、ネットに公開されていた動画をわざわざ見つけ出したりもした。夢中だったんだ。そして、ふとした瞬間に僕はこう思った。吉音のCDは自分の曲なんかが入ってもいいものではない、と。正しくは、音楽を平面的にしか捉えられないままの自分の作った曲なんかが、だ。音の良さとか、そういう分かりやすい対象よりももっと考えるべきものがあるに違いないと、『アオルタ』に触れた僕はそう考えた。だから、それに向けて作っていた曲は没にした。この曲を完成させてしまっていなくて本当によかったと心底思った。

 吉音に初めて出す曲は歌モノにしようと決めた。元々歌モノがやりたかった――僕がDTMを始めたのはボカロがきっかけだ――というのもあったけれど、どちらかといえば霧四面体さんに影響されてのことだった。音のクオリティや曲のカッコよさという面からじゃなく、『アオルタ』のように誰かの心に響く曲を作ってみたいという気持ちからだった。その機会は意外と早くやって来て、それが吉音一回生合作企画として提出した『カナタ』だった。といっても、あの曲で僕が担当したのは主に編曲だったから、満足したというわけでもなかった。もちろん作品に不満があるとかそういうわけじゃなくて、自分一人だけの力で作ってみたいという思いがあった。だから、次こそは一人で作り上げた歌モノを提出してやろうと考えていた。

 夏はBOFUで忙しかったので、それに向けて本格的に取り組みだしたのは九月の終わり頃だ。十一月に開かれる聴き大会に提出するつもりだった。サビとそこに当てる歌詞だけは何故か一瞬で作れた。しかし、まぁこれは単に僕の能力不足なのだけれど、歌モノを作ろうとするとコード進行を真面目に考える必要があって、それが楽器経験のない自分にはかなりハードルが高かった。ならばと簡単なコードを付けてみても、特にBメロ辺りは「いや、これは歌えねぇだろ」というようなメロディしか作れなかった。結局サビしか満足にできないまま当日を迎え、その日は総会へ出席せずに帰宅した。やるせない気持ちだった。

 そこからはNFやボーパラなど、曲提出案件を馬鹿みたいに詰め込んでしまい、かつ自学習の時間を取る必要や別サークルのタスクなどが相まって全く手が付けられなかった。それでも、この曲は三月までには公開しないといけないんだという思いがあった。霧四面体さんが卒業する前に出してしまわないと、この曲を作った意味が完全になくなってしまう。これはそういう歌であり、そういう曲だった。そこで目を付けたのが、吉音で毎年やっている(らしい)三月ライブだ。三月に開かれるCD収録曲の募集に出すことを目標にしてもいいけれど、どうせなら大々的に公開してやろうと思った。ただの自己満足だ。でも、きっと三月ライブが霧四面体さんに会える最後の機会になるのだろうし、だから、むしろちょうどいいと思った。僕が九月からずっと作っていたのは別れの歌なのだから、これほど相応しいシチュエーションはない。そうして僕は三月ライブに出演することを決意し、そこで完成したこの曲を流すことに決めた。初めにあったのは、ただそれ一つだけだ。

 三月ライブに出るぞとなって自分が掲げた目標は「この一年にできなかったことをやり切ること」だった。たとえば、六月ライブの場で次こそは出演すると言ったのに結局出なかったNFライブのこととか、必ず出すと決めたのに結局出せていなかった一人で作った歌モノのこととか、あるいは、ずっとやりたくて、それなのに最初の一歩を踏み出せないままでいた霧四面体さんとの合作とか、そういったものだ。それらすべてを清算して、一年という区切りを前向きに飛び越えていくための機会にしようと思った。僕が霧四面体さんに合作の話を持ち掛けたのは2017年12月10日のことだ。ボーパラ用の楽曲を作っている途中だったので作業に取り掛かるのは一月からということにしていたけれど、話をするのは早い方がいいだろうと思ってのことだった。

 まぁそこまでは順調だったのだけれど、一月はボーパラの曲を完成させるのが遅くなったり、試験勉強で異様に時間を割いてしまったり、二月は二月で下宿先を探すのに奔走したり、あと実は『RTA』のアレンジを作っていたり、三月初めは引っ越し作業に追われたりといった感じで、全く作業する時間が取れなかった。いや、これはただの言い訳で、作業自体はちゃんとやっていたんだ。それなのに曲が完成しなかったのは、偏に僕の作業スピードが遅いというのと、あとは絶対に妥協したくなかったからというのもあるように思う。だって、こんなの二度とない機会だ。そこで手を抜くなんて有り得ないことだと思っていた。ムンベを作ったことは一度もなかったから、色んなリファレンスを並べてベースの置き方とか処理法とかを何回も試行錯誤した。霧四面体チックなピコピコを再現するために氏の楽曲をひたすら聞き漁って、時には耳コピしたりもした。そんなことをやっている傍らで、例の歌モノも作っていたわけで、いや、お前は馬鹿なのかといまでは思う。二月の終わり頃に『RTA』のアレンジの完成を泣く泣く諦めて合作曲と歌モノの方に専念するも、切り替えが遅すぎたせいで引っ越し作業に時間が食われ、ちゃんと取り組みだしたのはこっちに住み始めてからのことだった。とりあえず絶対に出すと決めた歌モノの方は完成させて、合作の方をギリギリまで粘ることにした。霧四面体さんに色々と無理を言いつつ頑張ったものの、締め切りに追われて作るよりもひと段落ついてからゆっくり作ることにしようという話になり、合作曲を三月ライブで公開することは断念した。

 三月ライブではずっと作り進めていた歌モノである『キミとボクと時の箱庭』を無事に流すことができた。そして時は流れて、それから二ヶ月後の五月総会では霧四面体さんとの合作曲である『終末的存在仮説』を公開することができた。この二曲はともに同じCDに収録され、しかも何故かトリに連続で並んでいる――これには全く関与していない。割と嬉しい――ということで、最終的には満足のいく形で終わった。一年間の清算というには少し遅くなってしまったけれど、何にせよ初めに決めたことはやりきれた。だから、僕はいまこうして一年間を整理する記事を書いている。

 

 少しだけ、あの二曲のことについても書いておく。

 『キミとボクと時の箱庭』は「別れ」をテーマにした曲だ。サビのメロディと歌詞が同時に決まった曲で、つまり、あの曲で何よりも伝えたかったのはサビで綴った詞だけだった。僕がこの曲を作ったのも、こうして完成させることができたのも、そしてそれを吉音へ提出できたのも、すべてはここを去っていく「キミ」のおかげだった。あれはそういう歌だ。あとは余談だけれど、サビ以外の一部の歌詞は氏の楽曲から引っ張ってきていたりする。一番気に入っているのは「移ろう歯車」。

 『終末的存在仮説』は「終わり」をテーマにした曲だ。その理由は言うまでもない。全体的な雰囲気に関しては、中二病全開な感じでいきましょう、と氏に言った記憶がある。作るのには本当に苦労した。吉音に入ってから作った曲はどれもこれも一からの挑戦でやっているつもりだけれど、それにしてもかなり苦労した。『キミとボクと時の箱庭』とは対照的に、こちらではオケの方で氏の楽曲へのリスペクトを混ぜている。 

 

 以上で、この記事で書きたかったことは大体終わりだ。勢いだけで推敲せずに書いたからところどころ変な文章があるかもしれない。まぁこうなるとは思っていたが、それにしても長々と書いてしまった。この時点で5,000字以上ある。本当はさっさと書き切って誰も見ていないであろう深夜のTLにひっそりと流すつもりだったんだ。なのにもう六時じゃねぇか。今日提出のレポートまだやってないだろお前。何してんだよ。そういう思いがないわけでもないけれど、でも、こうしてアウトプットする機会はいずれ設けようと思っていたから、仕方がない。一度くらい出さなくても大丈夫だろう。

 

 

 自分の音楽観を大きく変えたと感じる曲がいくつかある。DJ YOSHITAKAの『Evans』、cosMo@暴走Pの『』、daiの『hope』、そして霧四面体の『アオルタ』だ。僕が京都大学を志した理由の一つに「退屈な日常を変えてくれるような面白い人間に出会いたいから」というものがあって、だから、僕はとても幸せだった。だって、それ以上の存在に出会うことができたのだから。こんな気恥ずかしいことをTwitterの鍵垢以外で発信することになろうとは思っていなかったけれど、それでも、この想いを忘れないようにここへ残しておく。

ありがとうございました。

 

 

 

 

存在意義

 

 記憶なんていうものは、大抵の場合、その個人にとって都合のいいように修飾されている。愛おしく感じる思い出も、忘れられないトラウマも、言うなれば過剰の調味料と保存料を山ほど混ぜ込んで作られたコンビニ弁当のようなものだ。主観的であり、人工的であり、作為的だ。余計なものがそぎ落とされて、あるいは必要なものを勝手に付け加えて、その断片に触れたのが誰であっても上手く作用するように加工されている。そんな紛い物に意味を見出すこと自体が馬鹿げているわけで、要するに、思い出なんてものは自分の胸の内だけに留めておけばいい。他の誰かに聞かせるほどの価値がある思い出なんてこの世界のどこにもない。これが僕の考えだ。そう分かってはいても語りたくなってしまうのが思い出話というやつであり、せっかくこういう場があるのだし、少しだけ昔の話をしたいと思う。僕以外の誰かにとっては何の価値もない話だけれど、嘘か本当かも分からないような話だけれど、もしよければ少しだけ僕の雑談に付き合ってほしい。

 世間一般で友人と称される概念がよく分からない何かに変容してしまったのは、僕が高校生の頃だ。それまでは僕も例に漏れず一般的な考えを有していたわけで、つまり、それなりに仲のいい相手は友人と呼んで差し支えないだろうと考えていた。今となってはどうしてそれほど安直に考えることが出来ていたのかが分からないけれど、本当に過去の自分と今の自分は連続した存在なのかと疑いたくなるほどだけれど、しかし、何にせよ当時の僕はそう考えていた。そんな僕の考え方が一変することになった直接的な要因は、高校一年生の頃にある人物――以降では『彼』と呼ぶことにする――と知り合ったことだった。いま思えば、僕の価値観は大なり小なり彼の影響を受けている。というよりも、彼と出会っていなければ、きっと僕はいまごろ自分の忌み嫌う人々と同じ何かになっていたに違いない。そう思えるくらいには、彼の存在は僕の内面を大きく変えた。『友人』という概念も、またそのうちの一つだ。

 彼は僕と同い年だった。彼は『友人』と呼ぶべき対象に独自の基準を持っていて、それをこの場で詳細に書き下すつもりは全くないけれど、その考え方は、彼と知り合ったばかりの僕にしてみれば全く不可解極まりないものだった。でも、それと同時に、そんな彼の在り方に僕はとても憧れた。知っている人は知っているだろうけれど、僕は今でも中二病が治っていない。況や高校生の頃なんて中二病真っ盛りなわけで、だから、自分の周りにいる誰よりも大人びた彼の思考に僕は強く惹かれた。すっかり成人した今でさえ自分が十分に成熟した考えを有しているなんて口が裂けても言えないが、それにしても当時の自分はひどく幼稚だったと記憶している。だからこそ、変容という表現が何よりも相応しい。それを引き起こすだけの種が僕の内に元々あったものなのか、あるいは彼の存在によって無理矢理作られたものなのか、いまの僕には区別ができない。でも、どちらでもいい。だって、僕はいまの考え方を気に入っている。だから、どうでもいいんだ。

 僕の中には『友達』という概念と『友人』という概念が存在している。この二つは全く別物だ。決して明確な境界線が引けるわけじゃないけれど、でも、全く違う属性だ。僕は何か肯定的な対象を定義するとき、その否定の補集合として定めることが多い。好きな対象の条件として、嫌いな対象の条件を多くは満たしていないことを掲げる。そんなに上手く二分化できるものでは決してないし、このような定め方だと余計な要素が入ったりもするけれど、僕はよくこういうことをする。というのも、生きていれば負の感情を持つことの方が多いからだ。好ましい要素を必死に探すより、不快な要素を省いていった方が何かと楽なんだ。しかし、こと『友人』という概念を定義する上ではそうじゃない。肯定的かははっきりしないが、少なくとも否定的ではない文言で僕はそれを定義している。どうしてかは僕自身もよく分かっていない。でも、もしかすると、そういう相手を探しながら生きていきたいからなのかもしれない。

 僕が『友人』の定義として掲げるのは至極明快な一文で、それは『お互いの考えを話し合うことのできる関係性』だ。逆に言えば、『友人』は『お互いの考えを話し合うことのできない関係性』だ。ここでの『できる』は物理的なことじゃない。話し合いなんて、やろうと思えば誰とだってできる。僕が言いたいのはそういうことじゃない。相手が普段どんなことを考えて、どんな目線で日常を捉えて、どんな世界を生きているのか。そういうことを気楽に話せる相手のことを、僕は『友人』と定義している。何でもいいんだ。たとえばゴミのポイ捨て問題とか大学周辺の交通マナーの悪さとか、別に政治的な話題だって構わない。そういう下らないことから大事なことまで、お互いの感じたことをお互いが暇なときにでも議論できる相手のことを僕は『友人』と定義した。そういう話し合いを通じて、互いの世界を擦りあわせることのできる相手を『友人』と定義した。他人が何を考えているかなんて完全に理解できるはずがないけれど、それを理解した上で関わりあっていくことのできる相手こそが僕にとっての『友人』だ。

 そういう意味で、僕の初めての『友人』は彼だった。彼と過ごした時間は本当に楽しくて、かけがえのない思い出だ。そういう時間を共有できる相手が片手で数えられる程度にはいる毎日が過ごせるのなら、それはきっととても幸せなことなのだろうと思う。だから僕はわざわざこんな場所を作ってまで、自分の考え方を外部へと発信しているわけだ。そういう相手は受け身じゃいつまで経っても見つからないから、だから、あくまで僕の考え方はこうだと述べるだけの一方的で稚拙な文章を公開する場所を作った。需要なんてどこにもなくていい。別に誰かに承認してほしいわけでもない。それでも、いつか彼のような『友人』たちに出会えることを期待して、僕はこうして文章を書いている。それが感情墓地の存在意義だ。

 

 

 

とある世界の海の話

 

 僕が生まれてすぐの頃の話だ。世界はまるで平和だった。当時の僕はまだ幼かったから、その時にどこかで起きていた争いに気づいていなかっただけなのかもしれない。それでも、少なくとも僕の視界に映しこまれた世界だけは間違いなく平和だった。そんな世界に生まれ落ちた僕が最初に見たのは、辺り一面に大きく広がった海だった。とても澄んだ青をしていた。それは、あるいは頭上に張り付けられた大空を投影していたのかもしれない。だとすれば、純粋な無色だった。いずれにせよ、僕が初めて見た世界はその気高い美しさを惜しみなく振り撒いていた。あの水平線のさらにずっと向こうではきっと空と海が交わっているに違いないと、あの頃の僕は信じて疑わなかった。……笑わないでくれよ。言葉だけじゃ何も伝わらないだろうけれど、そう思ってしまうぐらいには綺麗だったんだ。写真の一枚でもあればよかったのだけれど、たとえそうでもあの瞬間の僕の気持ちは一割ほども伝わらないだろうね。

 眼前に広がる青にすっかり魅了された僕は、その秘密が知りたくなった。うっかり秘密と言ってしまったけれど、でも本当はそんなに大したことじゃないんだ。ただ単にその海へ流れ込む河川を遡ってみたくなったのさ。よくある話だろ。すっかりその気になった僕は、それまで眺めていた海に背を向けて歩き出す。嫌になったわけじゃない。飽きたわけでもない。できることならずっと眺めていたかった。ただ、今この瞬間だけはその先が少し覗いてみたくなって、だから歩き始めたんだ。

 その川は僕が想像していたよりも遥かに長く、大きく、そして偉大だった。自分がどのくらい歩いたかなんて覚えていないし、疲れを感じる余裕さえもなかった。少し歩くだけで瞬く間に世界の色ががらりと変わり、僕にはそれが楽しくて楽しくて仕方なかったんだ。光の主張が激しい大都市や、太陽までをも遮るほどの大自然の中だって歩いた。途中には少し荒らされた場所もあった。何か大きな争いごとがあったことを想起させるような傷跡がいたる所に散りばめられていた。でも、僕はそういったものも含めたすべてが愛おしくて仕方なかったんだよ。何というか、まるで時の流れそのものを遡行しているかのような、そんな錯覚に陥ったんだ。だから、この大きな河川はきっと世界の歴史そのものなんだと、いつの頃からか僕はそう考えるようになっていた。

 何日も、何十日も歩き続けてようやくたどり着いたのは、たった一本の樹だった。驚きはしなかった。だって、僕は知っていたんだ。この世界はたった一つの種から作られたもので、あの海も、都市も、森も、すべてがその例外でないことくらい初めから分かっていた。それでもわざわざここまで来てしまったのは、それを自分の目で確かめたかったからなのかもしれない。それが必要不可欠な儀式であると、そう思っていたからなのかもしれない。感動なんて此処へ来る途中で手に余るほど受け取ってしまったから、感動することも大してなかった。あったとすれば感謝の念くらいだろうか。この樹がなければ僕はここにいなかったのだと思うと、それは生まれて当然の感情だった。ここまでずっと歩いてきた疲れが出てきたのか、僕はすぐに帰ろうとはしなかった。単にゆっくりしていたかったのかもしれない。どちらでもいい。あの海はいまも変わらずあの場所にあるのだろうから、少しくらいのんびりしていっても構わないだろう。そう思っていた。

 それからしばらくして海へと帰り着いた僕が見た景色は地獄と言ってもよかった。いや、地獄なんて言葉でも生ぬるい。それは地獄よりも地獄的な様だった。あの樹が生み出す水の価値に目を付けた連中が海を荒らしに来ていたんだ。奴らは海の美しさに目をやることすらもせず、その水を踏みにじっていた。自分の欲を満たすためだけに海を濁していた。多大な資源を費やして海から持ち帰った水を誰かに自慢することで自己顕示欲を満たし、あるいはどれだけ汚いゴミを海へ棄てることができるかを競って名誉欲を満たしていた。ゲラゲラと小汚い笑い声をあげながら、まるで海の意思なんて存在しないかのように、それは消費されて然るべきものであるかのように振る舞っていた。自分さえよければいい。それがあいつらの主張だった。

 大好きだった海がそうやって汚されてゆく様を黙って見ていることなんてできるはずがなかった。だからって僕一人に何が出来るっていうんだ。何も出来るはずがないだろ。僕はただの人間だ。カミサマじゃない。あいつらを消し去るだけの戦力も、海を元通りにするだけの魔法も、何も持ってはいない。だから、僕は其処から立ち去った。見ていられなくなったから、目を背けたんだ。いつかあいつらがすっかりいなくなって、そしてあの樹が綺麗な海を作り直してくれればそれでいいと思った。時が解決するのが一番だと、そう思った。その日まで、あの海のことは何もかも忘れようと決めた。それが最も正しい選択であったと僕は今でも思っている。そうして、僕は海から離れてゆく。次は何処に行こうかと考えた。どこでもよかったけれど、できればあの下品な笑い声の届かない場所がいい。だから、海からかなり離れた地区にある小さな町へ行くことにした。

 しばらくはまた平和な日々が続いた。その町はとても居心地が良くて、そこに住む人たちの大半はとても優しかった。ずっとこのままでいられればいいのになんて願ったりもした。そんなことがあるはずないと思いながらも、願わずにはいられなかったんだ。でも、やっぱり駄目だった。またあいつらがやってきた。町を踏みにじり、我が物顔で世界を蹂躙する連中の影が見え始めた。奴らはそのちっぽけで下らない器を満たすためだけに、僕の愛した世界を壊していく。もううんざりなんだよ、そういうのは。僕は自分の大好きな場所をこれ以上失いたくはないんだ。そんなのは、あの海が最初で最後であるべきなんだ。だから、僕は今度こそ武器を手に取った。奴らと戦うために。これはそういう戦争だ。

  

 いま君の目に映る海は何色だ? 青、それとも無色? 君の見ている海と僕の見ている海は絶対に一致しない。僕には海が酷く汚れて見える。今にも崩れ落ちてしまいそうな色をしているように見える。君の目にはそんな悲しい海の色が映ることの決してないように、僕は願ってやまない。