白紙の空へ火を投げろ

 

「ミサトはサンタクロースがいったい何のためにあるんだと思う?」

 真冬の川沿いを二人で歩いていた。空一面をどこか不機嫌そうな色を滲ませた雲が覆っていた。鋭く尖った冬の冷たさに乗せられて、草の匂いが微かに鼻をついた。星も月もない夜道でひっそりと佇む彼らを照らすのは、なんとも所在なげな街灯だけだった。あと一ヶ月もすれば午前零時はもっと寒くなる。そんな当たり前の未来がいやに寂しく感じられた。

「突然ですね」

 落ち着いた調子で上下に揺れていたミサトの背中が僅かに跳ねた。彼女はあれでいて意外と解り易い。

「クリスマス気分ですか。ユイ君もそんな気持ちになることがあるんですね」

「違うよ。分かってるくせに、いつもそういうことを言う」

「冗談ですよ」

 ミサトの表情は見えない。でも、その代わりに彼女の声が優しく微笑んでいた。

「すっかり無関係ってわけでもないけれど。今日はそういう日だし」

 灰色の空に向かって言った。いまのところ雪は降っていない。天気予報は調べていないけれど、この寒さならいつ降り始めてもおかしくないかもしれない。

 視線を下へ降ろすと、少し前を歩くミサトもまた同じようにどこか遠くを見上げていることに気がついた。彼女はいったい何を見ているのだろうかと考えて、でも無駄なことだとすぐに止めた。その先にはきっと雲しかない。あるいは雲さえない。そんなことは分かっていた。

「ちょっぴり酷いことを言ってもいいですか?」

 わざわざ訊かなくてもいいのに、と思ったが口には出さない。ミサトは一歩通行のコミュニケーションを何よりも嫌い、同じくらいに不誠実な会話を嫌っている。だから、余計かもしれない言葉を口にしようとしたとき、彼女はいつだってこんな風に確認をとろうとする。僕がそれに応えることはないと知っているはずなのに、律儀だなあ、と感心するばかりだ。

「今夜ばかりは来てくれなくてもよかったのに、と正直思いました」

「本当に酷いことを言うね」

 僕は小さく笑った。吐いた息が仄かに白へ変わる様を見て、それなりの時間が経過していることを知った。

「僕だって、今夜こそは君が待っていなければいいと思っていたよ」

「それなら、私と同じですね」

「全然違う」

 僕は即座に否定する。

「僕は家を出るときにはいつだってそう考えている」

 僕とミサトは毎週決まった曜日の日が変わる頃に集まって、電車で二駅分ほどの距離を川沿いに歩く。その行為に目的や理由なんてものは存在しないし、そもそもこのことは明確に決められたことですらなかった。投げたボールが地面に向かって落ちるように、ヒマワリの花が太陽に向かって咲くように、それでも空高くに浮かぶ月が地球へは決して落ちてこないように、僕らにとっては今の関係が他の何よりも自然な在り方だったというだけの話だ。

「今夜こそは誰も待っていなければいい。もう先に行ってしまったのか、そもそも来なかったのか、そんなのはどっちだっていいのだけれど、とにかく僕が着いたときには誰もいなければいいと思っている」

「だけど、ユイ君はいつも来てくれます」

「人を待たせない方がいい。当たり前のことだよ」

「そうかもしれませんね。そうじゃないかもしれませんけれど」

 水流の音と砂利を踏みしめる音との隙間を縫って、ミサトの静かな息遣いが聞こえてくる。夜は静寂に包まれていて詩的だ。周囲に沈んだ真っ暗闇は、僕らに歩き続けることも立ち止まることも求めない。どこまでも冷たくて、無関心で、だからこそ何物よりも優しい。彼女が日中よりも夜間の、その中でも特に深夜の散歩を好むのはきっとそういう理由なのだろうと僕は思う。

 少し前方にひときわ明るい街灯があって、その下では一つのベンチが暖を取っていた。二人で座ればちょうどいいくらいの大きさだった。規則正しく刻まれていた音が一つ不意に消えて、次いで僕も立ち止まる。ぎりぎりまで張りつめた水面のような静けさが一瞬だけ辺りを満たして、でも二人分の足音がすぐにそれを掻き消した。

 僕とミサトは少しだけ間を空けてベンチに座り込んだ。座面はかなり冷たかった。この寒さなのだから当然だ。

「ユイ君は星空が何のためにあると思いますか?」

 ミサトが言った。透き通った声だった。

「たとえばオリオン座が、冬の大三角が、何千年も前から沈黙することを選び続けている彼らが、今もなおそこにいる理由はいったい何だと思いますか?」

「考えたこともないな。それがサンタクロースの話に関係あるのかい?」

「関係がある、というよりは全く同じ話なんじゃないかと私は思います」

「そうかな。サンタクロースみたいな作り話とは違って、惑星が宇宙にあるということの意味は僕ら人間がいようがいまいが変わらないだろう?」

 人が遠くを見上げることも、雲が空を埋め尽くしていることも、遥か彼方で輝きを放つ星の存在意義には何の関係もない。僕はそう思う。

「そんなことはありませんよ」

 しかし、ミサトは首を振る。それは彼女にしては珍しくはっきりとした力強い否定だったけれど、彼女はすぐに言葉を付け足した。

「そんなことはあってほしくない、の方が正しいですね。ごめんなさい」

 酷く悲しそうな声だった。いまにも泣き出してしまいそうな色をしていた。

「どうして?」

 当たり障りのない、真綿のような声色を意図的に選んでから僕は慎重に尋ねた。彼女を傷つけるようなことは出来ることなら避けたかった。

 もしも、とミサトは言った。

「星空が人間に依存する物ではないのだとしたら、そんなに悲しいことはないでしょうから」

 微かに震えている彼女の言葉をほんの一欠片も聞き逃さないようにしながら、見上げた雲の向こうに満天の星空を思い浮かべてみる。脳裏に浮かぶ文字通りの空想こそがきっと、ついさっきのミサトが眺めていた景色そのものだ。彼女はいつだってそういうものばかりを追いかけている。

「別に私たち人間でなくてもいいんです。何でもいい。野良猫でも、凪いだ水面でも、悠久の時間でも、本当に何だっていい。それでも彼らではない誰かが彼らの存在を肯定してあげないと、いくらなんでも可哀想だと思うんです」

「だから星空は僕らに依存していると?」

 ミサトは小さく頷いた。でもそれはただ俯いただけのようにも見えた。

「もしも星空そのものに意味があるのだとしたら、価値があるのだとしたら、こんな夜は来てほしくありません。彼らを孤独の底へ突き落す曇り空なんて、消えてなくなってしまえばいい」

「君にはあまり似合わない言葉だね」

「そうですね。これは私の考え方ではありませんから」

「それにしては感情が籠っていた」

「感情移入は得意なんですよ。知っているでしょう?」

 そんなことはもちろん知っている。でも、知っているからといって何もかもが分かるわけじゃない。本当に大切なことは何一つも分かっていない。

 ミサトが僕に伝えようとしている感情を、しかし僕は未だに掴めずにいる。

「星空が意味を持っているのではないとしたら、では星空は何のためにあるんだろう?」

 僕は尋ねる。

「簡単な話ですよ。何も難しいことじゃありません」

 ミサトは答える。

「私たちが星空を見ているからです。私たちが星空を見ているから、だから星空はいまもそこにあるんです」

「その言葉があれば、雲に覆われた星空は孤独から救われるのかな」

「救われますよ。だって、満天の空に意味を見出さない人の前では、星空は星空であるという呪縛から解放されるわけですから」

 だから、きっと孤独なんかではないでしょう。ミサトはそう言った。僕は頷かなかった。

「サンタクロースも同じだと思います」

「誰かが望んでいるからいまもある?」

「はい」

 ずっと胸の奥に溜め込んでいた言葉を、無音の呼吸にこっそりと隠して捨てた。ミサトと何かを話すとなると、その話題が何であれ最後には必ず同じ結論に至る。それは、言葉はどこまでも無力だということだ。彼女はいつだってこんなにも多くの言葉を尽くしてくれるというのに、それなのに、ミサトに見えているものがいったい何なのか、僕には何一つも分からない。こんなにも近くにいるのに、僕らは一度だって分かり合えないまま、ずっと離れたままだ。

「私たちは同じ空を見ているわけじゃない」

 ミサトがまるで独り言のように言った。あるいは、本当に独り言だったのかもしれない。そのくらいにとても小さな声だった。遠くでブレーキの音一つでも鳴っていたら、僕は彼女の言葉を聞き逃していただろう。

 それは彼女の口癖の一つだった。そして、僕はその意味を知っている。

「見えるのに見えないものがあれば、見えないのに見えるものもある。自分にははっきりと見えているのに他の誰にも見えていないものがあって、その逆だってある」

 ミサトという少女を、神海隣空無という人間を定義する何かがこの世界にあるのだとすれば、それはきっとこの言葉なのだろう。たったそれ一つだけで彼女のすべては簡単に説明できてしまう。

 理解はできなくとも、説明だけならば誰にだってできる。

「それを決めるのは、彼らの存在に意味を与えるのは、いつの瞬間でも私たち自身なんですよ」

 どこか遠くの方を、恐らくは溢れんばかりの星空を、ミサトはずっと見つめていた。

 彼女の横顔はいつだって真っすぐだ。

 素直で、純粋で、だから眩しい。

「そろそろ行きましょうか。流石にちょっと肌寒くなってきましたし」

 ミサトがすっと立ち上がって言った。それをそのままなぞるように僕も腰を上げた。言われてみればたしかに辺りは一段と寒さを増しているような気がする。微々たる差異とはいえ、しばらくの間、身体を動かさずにいたからだろう。

 そんなことを考えていると、不意に頭の上へ何だか冷たいものが当たったような気がした。ずっとポケットに突っ込んだままだった右手で軽く振り払う。やっぱり気のせいじゃない。空から何かが降っている。

「雪ですね」

 ミサトが言うよりも先に僕は空を見上げていた。遥か上空では不機嫌そうな灰色の雲から零れ落ちているとは思えない程に鮮やかな白色が、まるで桜の花びらみたいにひらひらと地面に向かって落下していた。

「雪だね」

 僕は繰り返した。意味のないことだな、と思いつつも何となくそうした。それのいったい何が可笑しかったのか、ミサトが笑った。釣られて僕も笑った。夜の静寂を奪ってしまわないように出来る限り小さな声で、それでもお互いの耳へ届くように笑い合った。

「メリークリスマス」

「メリークリスマス」

 その言葉が合図だった。夜の静寂は僕らに何一つだって強制したりはしない。だから僕らは歩き続けて、時々こんな風に立ち止まって、意味のないことで笑いあって、そしてまた歩き始める。

 何も分からないまま、何も見えないまま。

 それでも自分の意志で歩き続ける。

「ユイ君はいわゆる記念日が嫌いじゃありませんでしたっけ?」

 すぐ隣を歩いていたミサトがからかうように笑いかけた。

「嫌いだよ」

 僕は答える。

 たしかに記念日という概念は苦手だ。その一日だけを特別視する理由がどうしても解らなくて、それなのに記念という価値観が広く共有されている現実に対して到底拭いようのない違和感を覚えるから。

 でも、と思う。

「でも、いまこの瞬間ぐらいは気にしないよ。だってここには僕らしかいないんだから」

 それが夜という時間だった。僕らは互いに赤の他人で、どこまでも孤独で、だからこそこうして笑いあうこともできる。夜は無口で不透明だけれど、僕らが解りあうことを望むのなら、恐怖のあまりに震えてしまう心を優しく支えてくれたりもする。彼女が僕を待ち、僕が彼女と会う。その時間に深夜が選ばれたことには、それ相応の理由があった。

「ミサト」

 僕は短く呼びかけて、

「いまはどんな空が見える?」

 と尋ねた。

 ミサトはどこかご機嫌そうな雰囲気を滲ませた声色で、そうですね、と答えた。ちょうど十歩分を歩いたところで、再びミサトの声がした。

「白紙の空が見えます」

 ミサトは手のひらに雪の欠片を受け止めながらそう言った。その白色がどこかへ消えてしまわないうちに僕は言葉を返した。

「それなら同じだ。僕にもそう見える」

「全然違いますよ」

 ミサトはやっぱり何だか嬉しそうだ。

「私ならその紙全体に満天の星空を描きます。見える星も見えない星も、好きなように。でも、ユイ君はそうしないでしょう?」

「そうだね。僕ならそうはしないと思う」

 ミサトとの会話でだけは嘘を吐きたくない。だから、僕は思ったことを正直に答えた。

「僕なら火を投げるよ」

 その先に星空があるというのなら、白紙の空なんてものは、空白の障壁なんてものはいっそのこと燃やしてしまえばいい。だって、それが一番手っ取り早い。

 そんな僕の返事を聞いて、ミサトはいよいよ堪えきれないという風に笑った。