20240327


 来週から生活スタイルが緩やかに変化するということで、今年度(正しくは来年度だけど)の目標をとりあえず思いつく限り書いてみる。なんというか、いや、別にこれまでの自分のスタイルが貫けなくなること自体は構わないのだけれど、それにしたってなくせないものの一つや二つくらいはあるだろうという話で。そういうものをとりあえずリストアップしておく。まあ、なくしてしまったらなくしてしまったで、そのときはこのリストを思い出せばいいか……みたいな感じで。

 

 

○ 歩く

 歩くことをやめてはいけない! 決して比喩的な意味ではなく、徹頭徹尾物理的に。そりゃまあ、歩くのしんどいな~と思う日はまあ少なからずあるだろうけれど、そうであっても、そんな日がマジョリティを占めるようになってはいけない気がする! これは健康面での話とかではなくて、いやまあ、そういう側面もなくはないけれど。とはいえ、これは単純に、自分の生活がもはや散歩ありきのものになってしまっているから、というだけの話。これを捨てた後の生活を想像することができないし、そうなってしまってはいけない気がする。そういう意味で、歩くことをやめてはいけない! と思う。これはかなり緊急度の高い目標。

 というので、とりあえず四月の間は週平均 5km、月平均 6km の歩行をそれぞれ維持することを目標にする。まあ、どうだろう。これまでの生活を振り返ると週平均 9km 前後くらいなら普通にいくので、かなり抑えめに見積もっての目標ではある。ところで、いきなり高い目標を設定すると大変だし、というより、最大の目的は散歩というルーチンワークを維持することにあるので、達成難易度はほどほどに低いほうがいいだろう、という算段。本当に、これだけはなくしたくない。

 というか、シンプルに末永く健脚でありたいという気持ちもかなりある! いつまでも散歩を通じて世界を楽しむことのできる人生でありたい。

 

○ 深夜徘徊をする

 深夜徘徊をやめてはいけない!! これはもう本当にそうで、少なくとも月に一回は深夜徘徊をする。無人の駅へ行く。寝静まったブランコに乗る。大学生の騒いでいる鴨川デルタを睨みつける。夜と仲良くなる。月に一回は絶対にこれになる。

 

○ 自炊をする

 自炊をやめてはいけない、……ことはない! 別にやめてもいい。やめてもいいんだけど、これはなんていうか、なんだろうな。家へ帰ってきて、なのに食事を作る気力も残ってないみたいな状況を避けたい、という意味合いのほうが強い、……かもしれない。将来的に、体力は次第に衰えていくはずで、であればいまこの時点で帰宅→自炊の流れを定着させられなかった場合、この先に待っているものってあまり良い結果ではないような。というので、これは努力目標の範囲で構わないのだけれど、家に帰ったら自分で自分の晩御飯を作る、という習慣を身に着けていきたい。これはもう、何とかしようという意思を以て何とかするしかない。本当に病気にだけはなりたくない!

 というので、なるべく自炊をするぞという気持ち。

 

○ 日付が変わるまでに寝る

 平日は日付が変わるまでに寝たほうがいい! と最近思うようになった。ところで、それをするとショートスリーパー人格のせいで深夜二時とかに目が覚めることがある。助けて~。

 さっさと寝てしまって、朝起きてから家を出るまでの間に作業をしたほうが断然効率がいい、という話でもある。普通に考えて、日中動いて疲れ切った夜より、いちど睡眠を挟んだあとの朝のほうが集中できるし。あと、「まだ寝たいけど、そろそろ家出なきゃ~」みたいなのが本当に嫌! だって、寝たいときに寝たいし。たまーにめちゃくちゃ眠りの深い日があって、そういうときに遅寝早起きを強いられると本当に苦痛。全然起きるけどさ。起きるけど、嫌なものは嫌。というので、そのリスクヘッジも兼ねて、さっさと寝たほうがいい! というか、ここ一ヶ月くらいの生活習慣は実はそんな感じになっていて、明らかにこっちのほうが生活を回しやすいような気がしている! というので、これの継続は目標のひとつ。

 

音ゲーをする

 音ゲーをやめてはいけない! いけなさすぎる、あまりにも。と言いながら、実は大学へ入ってから三年間くらい、何の音ゲーにも一切触れていなかった時期があるのだけれど、いまはもう毎週のようにやっている。ところで、これがかなり自分のメンタルケアによい効果をもたらしていそうという気が薄々している。音ゲー、成長するしな。いいスコア出たら嬉しいし、昔の自分より上手くなってるな~って実感したら嬉しいし、なにより、音楽に合わせて何らかの動作をするのはシンプルに楽しい! というので、週に一回は音ゲーのできる人生でありたい。あってくれ~。

 

○ 映画を観る

 月に一作は絶対に映画を観る! できることなら映画館へ行きたいけれど、……どうだろう。果たして自分がそこまでするかなあ、という気はするし、三ヶ月目くらいで面倒になってそう。ところで、映画館の音響は映画館にしかないので、映画館で映画を観たい気持ちは存分にある!

 小説とかもそうだと思うけれど、創作の摂取ってどうしたって時間との勝負になるから、だから若いうちに触れられるだけ触れておきたい……という気持ちがある。ただでさえ、自分はこれまで映像作品の類に触れてこなかったので……(もったいない)。

 

○ 人間関係を維持する

 これはかなり難しい! なぜなら、人間関係は放置していると自動的に疎遠になるため。いや、放置って言い方はよくなくて。なんというか、お互いの時間の共通部分が減ると、当然ながら交流頻度も同時に減っていって、結果的に疎遠になるというのが正しい。誰も何も悪くない。ところで、これは本当にもったいない。というか、自分の中の人生観にあまりにも反している! 色んな人の話を聞きたいというのがそもそもの根底にあり、そのためには人間関係を維持する必要があり……ってそんな義務的なものでもなくてさあ。もっとポジティブに、何の特別感もなく仲の良いままでいたいなと思う、様々な人たちと。そして、これは自分の側に努力の余地が多分にあり、なのでなんとかする。なんとかするしかない!

 

マインスイーパーをもっと上手くなる

 別にマインスイーパーじゃなくてもいい! マインスイーパーじゃなくてもいいんだけど、現状、マインスイーパーがいちばん上手くなりたいのでマインスイーパーを挙げておく。いや、これは本当に何でもよくて、とにかく、自分が無心で打ち込めるものを一つ持っておく、という意味。無心というのは多分あんまり辞書通りじゃないんだけど、その、締切とか、クオリティとか、点数とか、評価とか、そういうのと全然関係ない領域にある何かを一つ持っておくという意味! 自分にとってのマインスイーパーはマジでもう純粋に、いかに早く解けるかという自分との勝負でしかない! なので、表題の文言は、自分自身と勝負し続ける、と言い換えていいのかも(本当に?)。

430時間?

 

○ ブログを続ける

 ブログをやめてはいけない! このブログの更新が止まるのは、はてなブログのサービスが終わったときか、インターネットが滅んだときか、自分が死んだときか、世界が滅亡したときかのいずれかです。誰が読んでいようと、誰に読まれていなくとも、自分だけの言葉で何かを記述するという営みを放棄してはいけない! という気持ち。これは「歩く」と同じくらい緊急度が高い目標。なのだけれど、この目標が達成困難になるというビジョンがあまりにみえなさすぎて、最後の最後まで出てこなかった。

 

 

 以上! というわけで、米が炊けたのでいまから炒飯を作ります。

 

 

 

図書館、灯台

 

 自分のことをある程度知ってくれている人からすると、何を今更、という話かもしれないけれど。という前置きから始まる、あまりにも今更すぎる話として、地位とか名声とか、いわゆる出世欲? みたいなのが全然ない。全然ないというのは、なんだろ、将来的にそうなりたくないみたいな、そういう話ではなくて。自分の未来にそれがないかもしれない、と考えたとして、そうであってもある種の不安感に襲われるようなことがほとんどない、というのが正しいかもしれない。そりゃまあ、地位とか名声とか、あればあるだけいいのかもしれないけれど、いやでも、別になくてもいいかな……っていう。お金は……、生きていく上でどうしたって必要だから、それについては一定の不安が残るけれど。だからって、億万長者になりたいわけじゃないしな。と考えを進めてみると、自分が本当にやりたいことって何なんだろう、という、これもまた今更すぎる問いに対して向き合うための、その取っ掛かりくらいにはなるのかな、と思う。いや別に、それをいままでやってこなかったってわけじゃなくて、というか多分誰だってそういうのを無意識的にやっていて。ただ、明確に(言葉で)意識したことはそんなになかったかも、という話。とまあ考えてみると、家庭とかも、なんていうか、別にあれだなってことに気づく。どうでもいいというわけではないけれど、でも、自分の未来にそれがないから何なんだって気持ちはかなりあるな……みたいな。全然ないっていうのは、だから無関心の一種ではあるのだけれど、ところで無関心の一種でしかなくて。論争の種になりがちだけどさ、その、関心と無関心とを対比させるときって。要するに、関心と無関心とのいったいどの部分を対比させているのかという話ね。関心って、まあ、大きく分けて二つの要素があると思っていて、具体的には高校数学で習うベクトルなんだよな(ところで、現行過程ではベクトルは数Cに飛ばされたね)。向きと絶対値。向きを対比させると、いわゆる好きと嫌いとの対比になって。絶対値を対比させると、いわゆる関心と無関心との対比になるんだよね。今回は後者。だから、冒頭に書いたように、将来的にそうなりたくないとかいう話ではなく、その有無が自身の精神にそれほど影響を及ぼさないという話で、そういう意味で無関心ではある。ところでまあそもそもの話として、自分自身、未来の出来事に対して無頓着がちという傾向があるなとは思っていて。良くも悪くも。極度に悲観的になったりはしないし、一方で過度な楽観に根拠があるわけでもない。ざっくり言ってしまうなら、未来に期待なんかしていないというだけの話なのかもしれないな。これまた、良くも悪くも。

 

 じゃあ、自分にとって大切なことって何だろうなと考えてみて。つまりは、自分の未来にこれが欠けていたら……と考えると不安で仕方のないものって何だろうなと考えてみて。その一点を突き詰めると、最終的には、図書館になりたいんだよな、という結論へどうしたって行きついてしまう。図書館になりたい。意味は通らないけれど、間違ってもいない。音楽はまあ……、別に続けてなくてもいいや。いや、続けていてほしくはあるけどね、未来の自分に勝手なことを願うなら。ところで、なにか一つだけしか選べない状況にあるとして、当然のようにぎりぎりまで迷って、そして最後には道端に置いていくような、自分にとってはそういうものであってもいいとは思う。よくないんだけどね、全然。よくないけど、でも、そういう選択もあるのかなと思いはする。ところで、ところでなんだよな。ところで、図書館になりたいという欲求は捨てられないかも。図書館になりたい。より嚙み砕いて言えば、自分以外の一切を記録する場所でありたいんだよな。場所であることは一つのポイントで、カメラとかパソコンとか、そういった装置めいたものになりたいわけではなく。なんていうんだろうな。個々人が所有するような類じゃなくて、もっと大きな、万人にとって開かれている場所になりたいというか。それでいて、様々な記憶を保有するような。それってつまり図書館だよな~っていう。博物館とかはちょっと違う。あれは、既に潰えてしまった歴史を保存する場所だから。そうじゃなくて、いまこの瞬間を生きている人だったり物だったり景色だったり、そういうのを記憶していたいんだよな、たぶん。それが自分の未来に欠けているとしたら、……まあ、嫌だな~って思うかな。色んなものを記憶したいとは言ったけれど、別に、ずっと近くにいたいわけじゃないんだよな。比喩として図書館を選んでいることからもわかると思うけれど。週一で飲みに行きたいとか、そういう話では全くなくて。というか、別に全然会えなくたってそれはそれでよくて。なんていうか、そういった部分までを含めて、だから全部を記憶していたいっていう。その、もう全然会わなくなっちゃった人のこととかを忘れたくないっていうのは、まず間違いなくあるし。それは、自分にとっての図書館の一側面。自分だけが覚えているのでもよくて。約束は誰かと作るものらしいけれど、でもまあ、片方だけが持っていたっていいじゃんか、それはそれで。だから、その、なんていうんだろうね。言葉にしてみれば別にそんなつもりもないんじゃないと思いはするけれど、どこかの誰かが約束を忘れたときに、その存在を思い出すことのできるような場所でありたい、が一番近しいのかもな。そういう場所でありたいし、そういう人間でありたいし。それが、だから、図書館になりたいって欲求の本性かもしれない。とまあ、ここまで書いてみれば、これまでの自分がだらーっと書き続けてきた歌詞と照らし合わせてみて。……まあ、ずっと同じこと言ってんな~って気持ちにもなる。いつからなんだろうね、こういう風に考えるようになったの。間違いなく、大学入学以降のことだとは思うのだけれど。でもやっぱり、そういう人間でありたいな、少なくとも自分自身は。色んな人とかものとか景色とか、そういうのを記憶しておいて。それで、どこかの誰かがそれを失くしてしまったら、その在処を伝えてあげられるような、そういうものになりたい。なりたいわ。というか、だとすれば図書館じゃなくて灯台でもいいのかも、とは思った、いま。真っ先に思いついたのが前者だったというだけで、自分の中では、どちらも全く同じものの象徴ではあるわけだから。

 

 

 

20240310

 

 なんとなく秘密にしておこうかと思ったのだけれど、ということに特別な理由はなくて。まあなんというか、なにかと不定な人間のほうが面白いかなと思って。これは知っている人にだけ伝わればいい例えだけれど、影縫さんとか忍野メメとか、ああいう立ち位置のキャラクターにものすごく憧れるというか。カッコいいな~って思う、普通に。ところで、だよな。有体に言って、本意でないんだよな。その、自分の不定性がどこかの誰かを心配させる要因になっているかもしれないという可能性そのものが。考えすぎ? あるいは自己中心的すぎるかも。でも、なくはない可能性だよな、と思う。というか、何回か訊かれたことあるしな、実際に。その全部がまあ、なんというか、深刻な心配に由来するものと受け取るほどの自分勝手もないけれど。それにしても、と思う。皆無というわけでもなさそうな雰囲気を感じ取ってはいる。というので、隠しておくってのもなんか違うよな……と思う、思った。さっきから何かを思いすぎだろ、同一単語の濫用は避けようね。話を戻すと、だからといって大々的に公言するようなものでもないから、というので、こんなブログなんかにしれっと載せておくことにする。便利だねえ、こういう場所があると。

 

 塾講のアルバイトをやめた。正しくは、まだ契約期間内ではあるのだけれど、とはいえ二月内に後の担当者へ一切を引き継いだため、実質的に三月はもうないようなものとなっている。件のバイトは自分が学部二回生のとき、当時付き合いのあった先輩に誘われて入ったのが最初で、それからなんだかんだ六年も続けてしまった。学生バイトではあるから、六年もいたら最年長なんじゃないかと思われるかもしれないけれど、実はそんなことなくて、自分よりも歴の長い人がまだ上に二人いた。結局、バイト先の人とはあんまり仲良くなれてないな。そもそも話をする機会がそんなにないからあれなんだけど。改めて振り返ってみると、めちゃくちゃ良い労働環境だったなと思う。そりゃまあ、行きたくないな~と思う日もないではなかったけれど、とはいえ、かなり前向きな気持ちで続けられたかな。少なくとも、本気でやめたいと思ったことは一度もないはず。六年も続けていれば色んな生徒に出会うというか、そもそもの話、自分が勤めていた場所はちょっと特殊で。簡単に言うと、何らかの事情で全日制高校に通っていない(通えない)高校生を相手に仕事をしていた。というので、単純に高校生の相手をするという場合よりも、ずっと色んな話を聞いたんじゃないかなと思う。もちろん、自分はそっちの道を通っていないので、想像の上でしか比較はできないのだけれど(まずもって比較自体に意味がないのだけれど)。なんていうか、案外普通なんだよね。あんまり想像の外にはないというか、その、やっぱり自分が不登校とかを経験せずに育ってきてしまっているから。だから、そういう環境にいる(ことを選んだ/選ばざるを得なかったに問わず)子たちのことを、なんていうか、ズレた視点からモデリングしてしまいがちになるのだけれど、でも、実際に当人たちと接してみると本当に自分の、高校生当時の自分とほとんど同一の延長線上にあるというか。そんな感じがしていた、六年間ずっと。もちろん、まあ、大なり小なりの事情があっていまこの場所に来ているわけだけれど、なんか、なんていうんだろうな、こういうの。そのことを悪い意味で特別視するのはなんか違う感じがしたというか、うーん。誰だってそうだよ、ってたぶん一番言っちゃいけない言葉だし、だから言わないし、言いたくもないけれど、でも、誰だってそうだよ、と思いはする。あるいは、誰だってそうだよ、っていつか心から思える日が来たらいいね、と思いながら話していた、他人事のように。自分事じゃないから他人事なのはそりゃそうなんだけど。人間、というと主語が大きいけれど、でも人間、誰だって得意なことと苦手なこととがあって。たとえば、自分は部屋を片付けるのが苦手だし、約束の時間を守るのも苦手。それが得意、……ってのも違うか。得意とかじゃなく、何の苦労もなしにこなしてしまう人だってこの世にはたくさんいるのだろうけれど、でも、たぶんそういう人たちだって苦手としていることがあるはずで。そして、その中のいくつかは自分が何の苦労もなしにこなしてしまえるものなんだろうな、と思ったりする。当たり前の話すぎるって思うよね。そう、当たり前の話すぎるんだけど、とはいえやっぱり高校生くらいまでの頃って、もちろん早熟な子もいる一方で、どうしたって考え方が自己中心的であってしまうというか。これはいわゆる自己中とかの意味ではなくて、原義通りの自己中心的、あるいは天動説という意味で。だって、触れることのできる人間の数が限られてるもんね。インターネットが普及してそんなこともなくなったのかもしれないけれど、でもやっぱりインターネットを介して接するのと生で接するのとだとコミュニケーションの質が(どっちがいいとか悪いとかではなく、単純な話として)違うわけだし。自分という人間のライブラリは日々増えていく一方で、自分でない他者に関する情報はあまり蓄積されないがちな年頃というか、そういう意味で自己中心的。これが、だから大学へ入ったり就職したり、よりもっと多様な人間関係を構築できる(せざるを得ない)環境へ移ったらまた話は変わるよねと思うのだけれど、でも高校生の頃は(一般には)そうじゃないし。というので、難しい時期だよなって思う。そういう状況にある誰かへ向かって、もうその場を脱した側である別の誰かが、誰だってそうだよ、だとか言ったところで何になるんだろう。何にもならないよね、別に。人は一人で勝手に助かるだけ、らしい。本当にそうだと思う。だから別に自分は何もしなかったし、何もしないなりにできることはした、……つもりではある。うまくいっていたかは知らないけれど。だからあとはもう、祈るくらいしかできないな。全員の人生がよりよいものになることを祈るしかない。人生がよくなるっていうのは良い大学へ合格するとか大金持ちになるとかそういうんじゃなくて、ちゃんと納得のいく道を選ぶことができるということ。後悔のない選択とかは無理だと思うけど、というか後悔のない一生なんてたぶんどこにもないと思うけれど、でも、そういうのもきちんと肯定していける、そういう人生になったらいいね、って祈るくらいしかできない。幸い、今年度担当していた生徒の内、受験学年だった人はみんな合格したし、残りの人たちは……バイトをやめる以上どうなるか見届けることはもうできないけど。まあ頑張ってくれや、と思う。俺も俺で勝手に頑張るので、君も君で勝手に頑張ってくれ、みたいな。何様だよって感じ。何様だよって感じだけど、でも、全人類に対してこういうスタンスでありたいなって思う。一人でも多くの人と仲良くなること。それが一生を賭しての自分の目標なのだけれど、でもそれって結局のところ、あとは勝手にしろよって思える人の数を増やすってことだよな~って自分は思うし。あとは勝手に幸せになってね、って感じだ、本当に。

 

 というので塾講をやめたのだけれど、それと同時に就職することにもなった。ワロタ。自分の身近(リアル)にいる知り合いとかはワロタって感じだろうけど、インターネット上でだけ繋がりのある人からすると意味わかんないよね。というのも、大学を出てからおよそ一年間、定職につかずに過ごしていたという話がある、実は。まあ先述の塾講はやっていたのだけれど、逆に言うとそれしかやっていなかった。せっかくそこそこの大学出てるのに勿体ないね~みたいなことを知人の結婚式のときに言われたけれど、うん、いや、分かる。でも、だから、その、そういうのが本当に心底嫌だったんだよな。ところで、まあ、そうは問屋が卸さない状況となってきたので流石にね、という話。就職の運びとなった理由はいくつかあるけれど、たとえば、例の塾講は言っても大学生向けのバイトだったから。自分の知る限り、博士後期課程の人がいたこともあったから、だから最長で九年くらいは在籍できたのだろうし、それに人手が足りているわけでもなかったから厄介払いされることもなかっただろうけれど、でもまあそんなの遅かれ早かれだし。いつまでも留まっているわけにはいかないし。それと、普通にお金の問題とかもある。一人で生きていくならお金とか、まあ別にいいんだけど。何処へも出かけずに霞だけ食べて生きてればいいんだから。でもまあ、そうじゃないし。あとは、将来のこととかか。何事もなければ数年以内に結婚とかしてるのかな~みたいな予感があって、でもそういう可能性を想定する場合、定職についていないというのは流石に問題がありすぎるというか。自分ひとりで勝手に破滅するならそれは自由だけれど、たぶんこれから緩やかに自分ひとりのための人生ではなくなっていくんだろうな、みたいな薄らとした予感。ひとりで勝手に破滅する人生もたぶん面白くて、というか自分はそういう生き方を(意識的なり無意識的なり)選んできたつもりだったけれど、あれよこれよという間にそうではないルートに乗っかっていて。悪い気はしないし、これでよかったとも思うし、自分で決めたことだし。でも、だとしたらそれに見合うだけの、なんていうか、代償を支払う覚悟は必要だよな~、みたいな。代償って言葉はよくないか。でも、代償だしな。とはいえ、なんだろうな。これだけはちゃんと言葉にしておきたいのだけれど、いつかの自分が死んでしまったって感じは全然ないんだよね。昨夜の夜、人とそういう話になって色々考えてみたのだけれど、でも、やっぱりそんな感じはいまのところしない。というかむしろ、ものすごく正しい道へ進んでいるような感じがする。これまでの自分と整合性が取れているというか、一貫性があるというか、少なくとも、何かを殺しながら日々を生きていくようなことにはならなさそうな、そんな予感がある。まあ、一年とか二年とか経ってからじゃないと分かんないってのは本当にそうなんだけど、あくまでいまのところの話。もしもの話、一年とか二年とかが経って自分が闇落ちしていたら、そのときは、じゃあ、どうしようかな。飲みとかに誘って話聞いてやってください。たぶん、それが一番効くので。そんなことにはならないよう努めるけども。

 

 というので、来年いっぱいは京都にいるかな。その次からは大阪に住んでるかも。まだちょっと分かんない。少なくとも関西圏にはいると思う。親しい人間がみんな関東に行っちゃって寂しいので、全員もれなく関西に骨を埋めてくれやと思いながら、ここ最近は生活をしている。勝手にしろよとかって口では何とでも言えるけれど、でも本当に会えなくなっちゃうと寂しいよな、それはそう。直近で有名な方々の死が相次いで、有名っていうか、単に有名ってだけじゃなくて自分が幼少期からよく触れていたような人たちが。なんていうか、他人の死によってでしか死に向き合えない自分が嫌だって気持ちは十二分にあるんだけど、そういうのは一旦置いておくとして、寂しいときはちゃんと寂しくなったほうがいいし、会いたい人には会えるときに会っておいた方がいい。あまりにも当たり前の話すぎる。あまりにも当たり前の話すぎるけれど、それが難しいんだよな。だって、他人だしな。関係ないし、勝手にしろよの精神だし、そしてそれが一番ちょうどいいと思ってもいて。だから難しい。でも、ちゃんと寂しくなるのはかなり上手くなってきたと思う、大学へ来てからの七年間で。要するに、ちゃんと終わらせるということ、だと思う。なあなあにしない。けじめをつける。エンドロールを受け入れる。その白紙から先の景色がどうなるのかは知らない。まあセカンドシーズンがあるならあるで望むところだし、ないならないで本棚の一番奥へ大切にしまっておけばよくて。だから、白紙にビビってるのが一番よくない。よくないなって思う。何の話だよ。寂しさと仲良くなろうねって話。あるいは、冬と仲良くなるって話でもあるし、ペンを折るなって話でもあるか。そういえば、数日前に通りがかった道、もう桜が咲いてて笑っちゃったんだよな。春が来るらしいよ、近いうちに。卒業とか入学とか、別れとか出会いとかの季節がまた来るんだなーって思うと、なんていうか、楽しみだなって思うよね。

 

 この文章を書いている途中にそういえば思い出して、何だっけ。もういつ言われた言葉なのかも覚えてないけれど、「一葉さんにとっての青春の終わりが、自分にとっての青春の終わり」みたいな。なんかの帰り道だっけ、そういう言葉を向けられた記憶があって。いや、でも、だったら終わんないよ。ずっとかは分かんないけど、少なくともまだしばらくは終わんない。終わらせてたまるか。って、つまるところそういう気持ちなんだよね、だからいまは。就職ワロタとかって言いはしたけれど、でもそこにネガティブな気持ちは本当に一切なくて。延長戦なんだよ、だからここから先は。社会性とかって普遍のパラダイムは勿論あるだろうけど、でも別にそこへ収まろうとしているわけでは全然なくて、なんていうか、なんていうんだろうな。言語化が難しいけれど、でも、終わらせる気なんか全然ないということだけは強く主張しておきたい! 二年後とかの自分がどうなっているかは分かんないので、こういうことは言えるうちに言っておく。過去からの声は何も知らないから勝手な事ばかり、って藤原基央も言ってるし。というか良い曲なのでよかったら聴いていってください、BUMP OF CHICKEN の pinkie 。

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 という話で終わりです、今回は。余談、なんやかんやで就活をサボり散らかして最終的に行きついた職業、そこそこ、というかかなり自分の中では納得のいく結論になっていて。これまでの自分との整合性とか一貫性とかって途中では言ってたけど。だから、暇だったら予想してみてほしいかもな、面白そうだし。当てようと思えば全然当てられる範囲内な気がするし、一級問題かもだけど。

 

 

 

言葉

 

 加害性、ねえ。いつの頃からか、インターネット男女論、あるいはインターネット恋愛論の文脈においてそういった用語が散見されるようになったような気がするけれど、それってどうなんだろうという気はしている、個人的に。中二病という言葉がむかし流行って、いまでも使ってる人っているのかな? いやまあ、いるか。いるだろうな。いや、別にその用語自体はどうだって構わないのだけれど、構わなくもないのだけれど、なんていうか、自分はあの言葉をどうにも好きになれなかった。と文字に起こしながら思い出すのは、ちょっと前の冬、人と歩いていたときのこと。「言葉に対して好きとか嫌いとかって気持ちがあまり分からない」。その言葉を耳にしたとき、そういう感覚の人も当然いるよな、と思った。ところで、自分は(そこまで明確ではないにせよ)苦手な言葉というのが少なからずある。当然だけれど、これはどちらがいいとか悪いとかという話ではなくて、またどちらが優れている劣っているという話でもなくて、つまりは完全なるイーブンとして、そういった二分がたしかに存在はしているという話。中二病という言葉自体に思うところがあっても、その言葉を使っている人に対して何らかの感情を抱くことはまあないし、あくまで言葉そのもの、あるいはそれが用いられる文脈に対する若干の嫌悪感というだけであって。話を戻す。昨今そこかしこで囁かれるようになった加害性という言葉は、何年か前に流行した中二病という言葉にどこか似ているな、と思う。具体的には、ある意味では普遍的ともいえる属性に名前を与える、という点において。名前が与えられると何が起こるか? 一言で言うと、理解が可能になる、のだと思う。誤解のないように断っておくと、名称が付与された瞬間に理解が発生すると言っているわけではないし、ここでいう『理解』が真の意味での理解であるとも限らない。あるいはそれは、古来の日本において、未知の現象や妖怪変化の類に対する解決法が命名であったことと同じなのかもしれない、と思う。類型化、と言ってもいい。そうして、本来であれば個々人に帰属していたはずの問題意識が、幅広く認知されるまでの名称を獲得することによって、それは社会全体に共有された問題意識となる。そういった一連のプロセスそのものが、なんていうか、自分にとってはあまり正しいことと思えないというのがある、あるな。では、社会全体に共有されることで何が起こるか? これは簡単なことで、その名称に付随する最大公約数的な認識こそが語義の第一事項であると広く周知されるようになる。中二病という言葉はまさしくそうだった。いわゆる、ちょっとイタい感じの子ども、という認識。それは、大枠においては間違っていないとは思う。だから、ここまでならまだいい。ここまでならまだよくて、問題はその先にある。何よりも自分が忌避感を抱くのは、それは、そうして社会全体で共有された問題意識を一個人のもとに還元してしまうこと、あるいはそういう社会の仕組みそのものに対してだった。だって、順序が逆だから。いわゆる少年期(という言葉を使うが、男子に限った話をしたいわけではない)に起こりがちな事象全般を中二病という言葉で理解することは構わない。ただ、その理解に基づいて、いま目の前にいる少年あるいは少女を理解しようとすることは間違っている、と思う。仮にその『中二病』と称される症状に類似性をみるような何かが起こっていたとして、そうであっても、その問題は個々人に固有のものであるという認識を強く持つべきだと、少なくとも自分はそう思う。要するに、他人のことを属性的に捉えようとしてはいけない、という話。なぜなら、それは最も理解からかけ離れた行為であると、少なくとも自分はそう考えるから。同じような語句で言うなら『メンヘラ』とか、あとは最近流行りの漢字四文字とかもそう(該当の文字列が自分のブログ内に記載されているという状態がかなり嫌なのでぼかしているだけで、それ以上の意図はない)。なんていうか、すでに出来上がったストーリーラインにあてはめて理解するのは簡単なんだよ。誰にだってできる。だって、人間の抱え得る感情なんておよそこの世には出尽くしてるのだから、映画や小説、漫画、舞台、なんだって構わないけれど、いくつか当たればクリティカルと思える事例にはすぐ出会えるはず。それが昨今ではインターネットになっているというだけの話で、そういう意味でこれはインターネットの功罪とはいえない。ただ、インターネットにはインターネットに固有の問題があるような気がしていて、それは、ありえない速度で一般化が行われ、ありえない速度でその結果が普及するということ。みんな、議論が好きだもんね。議論っていうか、レスバ。レスバっていうか、マウンティング。マウンティングっていうか、自己防衛。自己防衛っていうか、無自覚の加害。なんだって構わないけれど、とにかく、(現実がどうであるかは一旦置いておくとして)自分と無縁(と少なくとも当人は思っているよう)な現象に対しても真摯でいられるような人はさほど多くなくて、その結果として浮かび上がってくるのが最大公約数的な理解であるという認識を自分は持っている。要するに、負の側面ばかりを詰め込んだ呪いだということ。インターネットをみていれば誰だって分かる。インターネット上で何らかの言葉が創出されるとき、特にここ近年は、決まってよくないものとして扱われてばかりいる。『中二病』はまだマシな部類に留まっていて、たとえば『メンヘラ』なんかはもっと酷い。いまや呪いのハッピーセットみたいになっている。そして、そういう言葉がこの社会に満ちている。しかも、個々人に帰属するはずの問題意識の一般化として、だ。そうして抽出された呪いをもう一度、各々の人の手元へ還元するということが、果たしてどれほどに罪深い行為か、という話だよな。それは決して本質的な理解なんかじゃない。でも、他人のことなんか心の底ではどうだっていいから、そんな相手の問題意識だって本当のところはどうだってよくて、だからこそ、そうした問題意識をほんの一言で要約してしまう便利な言葉がこんなにも広く用いられる。まあ、自分たちはカウンセラーじゃないからさ。他人のことをある程度割り切って考える必要があるという主張は、それは本当にそうなんだよ。ただ、それは本当に正しいのかな、とは思う、少なくとも自分は。……ただ実際のところ、より深刻な問題はそっちじゃないんだよな。『中二病』という言葉が広く定着することによって、その言葉に宿る呪いを自分自身に自ずから還元してしまう人が出てしまうこと。「自分はまさしくこういう人間だ」と自分自身を類型化してしまうこと。これが一番よくない。本当によくない。マジでよくないよ。何度だって繰り返すけれど、それは本質的な理解から最もかけ離れたものだと思う、少なくとも自分は。その類型化を行ってしまった時点で出口のない迷路に迷い込んでしまっているのと同義だから、本当に何とかしてさっさと抜け出す方法を探したほうがいい。だって、だから、世間で取沙汰されているそれは、社会の構成員である個々人の抱えている問題意識の共通部分をとってきただけのものに過ぎないんだよ。それも、大抵の場合は悪とされる領域のそれをとってきている。だから本当は、そうして語られる領域の内、どの程度の割合が自分の中の問題意識と共通するのかまでを熟考しないといけない。いけないはずなんだよ、本当はさ。中二病だって、別に悪い側面ばかりじゃない。ここではないどこかに焦がれる感情、あるいはそういった初期衝動、それを原動力に生み出された素晴らしいものだってこの世にはたくさんあるのだし、なんなら創作なんてその最たる例だろう。そうやって、自分の中にあるかもしれない(勿論、ないかもしれない)可能性をどこかの誰かが振りまいた呪いなんかで簡単に見失うなよって、そう思っちゃうんだよな、自分は。でも、これには難しいところがある。というのも、この社会の在り方がそういう風に出来すぎている。なんていうか、なんていうんだろうな。あらゆる属性を自身に還元しやすい構造というか、鏡写しの構造というか、見当違いの納得を手に入れてしまいやすい環境というか。色んな人間が色んな方法でその属性を説明しようとする。それは時には音楽であったり、映画であったり、漫画であったり、小説であったり、劇であったり、イラストであったり、評論であったり、学問であったり、まあ色々とある。SNS の時代と言ってもいい現代において、最も優先的に目に付くのは言葉だろう。自分のことなんて顔も名前も知りもしない第三者たちが日夜ああだこうだと言葉を尽くして、その属性に対しての説明を与えようとする。その断片に触れ続けることによって、自分の中の何かが詳らかにされたような気持ちになってしまう。ものすごく自然な心の動きだと思う。それと同時に、ものすごく危険な考えだとも思う。第三者たちは自分自身のことなんてそもそも考えちゃいない、という視点がすっかり抜け落ちている場合に限るけれど。そこは、なんていうか、マジで、なんていうんだろうな。他人を属性で理解しようとするな、みたいな話を上のほうで散々書いたけれど、それと同じくらい、自分自身を属性で理解することも間違っているような気がする。というか、なんならそちらのほうがより健全でないようにも思える。結局、自分のことは自分の言葉で説明するしかないのだと思う。中二病とかメンヘラとか、あるいは加害性とか、そうして広く一般化されてしまった名称で説明のつく事象なんて、現実世界にはおよそ一つだって存在しない。一方で、これは、なんていうか、強すぎる意見だとは思う。強いというのは言葉が強いとかって意味じゃなくて、なんていうんだろ、精神的な面で。言ってしまえば、自分の問題は自分の力でなんとかしろよ、って意見なわけだからこれは。だから別に他人へそれを求めようとは思わないし、そうすべきだと主張したいわけでもない。誰にだってできることではないと思うから。ただ、いま SNS で流行している漫画、およびそれに付随する議論(引用ツイート等)をざっと追いかけて感じたこととして、以上のようなものがあったというだけ。

 

 恋愛なんて、加害ありきのものだと思うけれど、実際はどうなんだろうね。だからといって開き直っていいものでは決してないのだけれど、思うにそもそも恋愛って、あるいは一般に人間関係って、お互いの心を双方的に近づけていく過程なわけで。ところで、自分たちって別に他の誰かのコピーじゃないからさ。だから、相反するところとか気に食わないところとか、そういうのは大なり小なり出てくるはずで、そういったすれ違いを根拠に何らかの精神的な負担を背負う、あるいは背負わせることになる可能性があるというのは、なんていうか、可能性があるとかないとかの話じゃなく、もうほぼほぼ確実に起こり得る事態で。むしろ向き合うべきは、そういった必然をどうやって乗り越えるかということなんじゃないのかな、と思う。回避なんてできるはずがない、だって互いに人間なんだから。どちらが悪いとかの話でもない。そういうことはいつだって、誰が相手だって起こり得るのであって。強いて言うのなら、それを乗り越えようとしないことは罪に近いと、少なくとも自分はそう思う。自分の世界観では、それは相手のことを信じていないのと同義だから。この人とであれば何であれ乗り越えられると、そういう認識を常に更新し続けていくことが、それこそが(結婚とかを念頭に置いた)恋愛なんじゃないのかなって、少なくとも自分はそう思うから。

 

 一方で、例の漫画は上の話とは異なる軸のことを問題にしていたな、と思う。あれはだから、交際関係が開始するよりも前の話だった。だから、上の話とは切り分けて考えなきゃいけない。……立場を表明しておくと、例の漫画については先輩側にも後輩側にも明確な非はないと自分は思っていて。恐らく、例の漫画は後輩側の問題点を抉り出す意図で描かれたものだろうとは思う。いや、執筆時点での意図までは汲めないけれど、少なくともリリースの順番ではそうなっていた。一般に物語作品において、同場面の別視点での描き直しというのは、それが対等な視点であるということが確約されている場合(群像劇など)を除いて、大抵は後半に描かれるものであればあるほど真実に近いということを意図して用いられる技法だから。つまり、あの順番でページが並べられていたということは、先輩視点で語られる後半部分のほうが、少なくとも順番を決めた人間の意識としては真実に近いものなのだろうということ。まあ、それ自体はどうだっていいか。とりあえず、自分は先輩と後輩とのどちらにも明確な非はないという立場であるという話。一言、悲しいすれ違いだったね、で終わってしまう。ただ、強いて言うなら、最後のシーン、(実際に本人に誤解なく伝わる形で行われたのか、かなり怪しいが)告白を断られても結局諦めない点については、それだけは明確に悪だと感じた。それ自体が、相手のことを真正面から捉えきれていないことの証左、あるいは裏付けであるとさえ思う。真正面から捉えるというのは、つまり、相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の中にある種の意思決定が存在するように、自分以外の全ての他人の中にも意思決定が存在していて。相手のことを本当に好きだというのなら、そこは受け入れなきゃいけないラインなんじゃないのかと思う。それを受け入れられない、あるいは受け入れようと努めない時点で、なんていうか、……難しいものがあるなと思ってしまう。代替可能な人間関係なんてない、それはそう。ただ人間関係というのは、場合によってはお互いの感情のぶつけ合いであって。自分の気持ちを受け入れてほしいと願うなら、相手の気持ちだってちゃんと受け入れなきゃいけないはずで。うわ、ずっと同じ話してる。何年前からこの話をし続けてるんだってくらい、ずっと同じことを書いている。でも、それくらい自分にとっては大切な規範なんだよな、これが。受け入れるというのは、相手を自分の領域内に連れ込むって意味じゃない。そもそも、どこかの時点で完了する類のものでもない。思うにそれは、相手の気持ちを正確に汲み取ろうと努め続けること。要するに、だからさっきまでの話と同じだよ。相手を真正面から捉えること。相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の思い込みで相手を(あるいは自分を)決めつけないこと。自分がこういった話題を扱うと、結局は、だからそういう話に帰着されてしまうんだな、良くも悪くも。例の漫画において、先輩側はその努力をしているように描写されていた(少なくとも前半は)。一方で後輩の側は、その人なりに努力しているのだろうと推察できる描写はたくさんあった(し、その結果は認められるべき)。ただ、それは先輩の方向を向いているものではない。いや、後輩の意識としては、つまり主観的には先輩に向けられたものだったのかもしれないが、客観的にはそうでない。事実、先輩側の機微にはついに何一つも気づくことができなかったわけで、その時点で人間関係としてズレてしまっている。先輩の側に落ち度があるとすれば、自分の抱えている違和感を当人へ直接伝えなかったこと。ただ、これはほとんど不可能と言っていい。同じ研究室にいたのなら尚更そうで、さらに女性側であるならもっと難しい。そのくらいは誰にだって想像できるはず。だから、これを落ち度というのはものすごく気が引けるし、できればしたくない(し、仮に実行へ移したとして、事態が悪化するという可能性が無視できない程度にはあるので、純粋な落ち度であるとも言いづらい)。一方、後輩の側にも落ち度を見出すことはできるだろうけれど、ただ、これもクリアすることはほとんど不可能であったと思われる。でなければ、例の漫画はあんな結末にはなっていない。だからこそ、悲しいすれ違いだったね、で片づける他ない。それ以上の答えは、少なくとも例の漫画に描かれた情報からは引き出すことができない。ただ、何度でも言うけれど、やっぱり最後のシーンだけは明確に間違っていると思う。あの結末を美しいものだとは、少なくとも自分には全く思えない。

 

 最後に。もう四年半も前のことになるけれど、古の自分が書いた作品をパッと貼り付けて終わりにする。別に読まなくていいし、わざわざ読んでほしいわけでもなく、それなりに長いしね。ただ、上記に関連するような問題意識は自分の中にはずっと昔からあって、それに対する自分なりの答えもみつかってはいて、というだけの話をするためだけに残しておく。自分のことは自分の言葉で説明するしかない、それが何であれ。

 まあ、この作品自体は何度かブログで紹介(紹介?)しているので「またかよ」と思う人が少なからずいるかもしれないけれど、とはいえ、だから、自分自身のものすごく根幹にあるものを描こうとしたものだったから、これは。だから、手探りで掘り進めていくと、結局ここに当たっちゃうみたいなことが結構あるんだよな。というので、暇な人だけ読んでください(拙い作品ですが)。

www.pixiv.net

 

「あの人の答えが何であれ、できることなら、わたしはそれになりたいと思ってたんすよ。なんだか嘘みたいっすけど、多分本気で」

 

 いまの自分だったら、ここの『多分』は『たぶん』で書くだろうな。

 

 

 

観た映画2

 

 前回はこちら。

kazuha1221.hatenablog.com

 

 

 

グレイテスト・ショーマン (2017)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07CWKBNWT

監督:Michael Gracey
脚本:Jenny Bicks,Bill Condon

 

 作詞のリファレンス……というわけではないけれど、気持ちを固めたいという目的で選んだ作品。舞台というかショーというか、登場人物全員を巻き込んでの大団円みたいなのを一度思い出しておきたくて(インド映画とかを観てもよかったのかもしれない(本日の固定観念))。過去に一度観ていて、そのときにかなり感動した覚えがあったので、というので選んでみた。

 This Is Me が好きすぎる! spotify で配信されているので是非いちど聴いてみてほしい。

open.spotify.com

ところで、この曲は曲単体としてもかなり好きなのだけれど、当映画の中で流れるシーンと文脈があまりにも熱すぎるんだよな。アニメオタクみたいなこと言うけど、いや、でも実際そう。文脈込みだと一層楽しめるものというのは、確実にこの世に存在する、ゲームミュージックとかね。

 グレイテスト・ショーマンの舞台設定を簡単に説明しておくと、そもそも、これは P・T・バーナム(Phineas Taylor Barnum)という 19 世紀のアメリカ人の生き方を基にして作られたものらしい。彼は興行師で、その内容というのが、言い方を選ばないのなら "人を見世物にする" というものだった。実際にはもうちょっと非人道的な様相(時代観によるところではあるので判断が難しい)だったみたいだけれど、映画においては現代の価値観にある程度迎合した演出がなされている(少なくとも著しく気分を害するような展開はない)。とにかく、そういった、何かしらの身体的特徴を有する人を集めてサーカスを行うというのが、映画のメインストーリーとなっている。そういった理解の上で This Is Me の歌詞の話をしたくて、サビなんだけど

I am brave, I am bruised
I am who I'm meant to be, this is me

本当にすごい。このテーマの映画にこのタイトルでこの詞を唄う楽曲が存在するということ自体がすごすぎる。this is me って、たったの三単語なのにな。胸に突き刺さったまま抜けない。本当にすごいと思う。これを食らうためだけにでも『グレイテスト・ショーマン』を観てほしいと思うくらいには。

 余談。以下の楽曲が流れるシーンが本当に激アツ。文脈とかじゃなく、純粋に映像がカッコいい。

open.spotify.com

 

 

ラ・ラ・ランド (2017)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0714LYZ3G

監督:Damien Chazelle
脚本:Damien Chazelle

 

 監督の人、『セッション』の人だったのか。あまりにも映像作品を通らずに生きてきたので申し訳ないながら観たことはないのだけれど、名前くらいは知っている。名作と名高い、はず。というか、『バビロン』の人でもあるんだな。どちらも気になっていて、あとで観る用のリストへ入れている作品だった。すご。

 公開当時にいたるところでその名前を耳にしたことからも、当然のように存在は把握していたのだけれど、ただ『グレイテスト・ショーマン』と違って、こちらは観たことがなかった(何故か冒頭の数分だけ見覚えがあった。なんで? ティザーとか?)。ところで、先述の『グレイテスト・ショーマン』と並んで語られることの多い作品という認識が(正しいかはともかく)あったので、こちらも作詞のリファレンスとして観てみることにした。

 結論から言うと、かなり好きだった。扱うテーマが異なる以上、比較という行為には何の意味もないのだけれど、そのことを承知の上で言うのなら『グレイテスト・ショーマン』よりも好みだったかもしれない。冒頭のシーンを最後に回収するというのは物語の構成としてはよくある(時間軸が錯綜しがちな作品によくみられる)ものの、その組み込み方が上手い! いや、自分が知らないだけでこういう例はたくさんあるのかもしれないけれど。ただ「え、もしかしてそこへ戻る?」という驚愕と「そうやって繋げるのか……」という感動とがあった。だって、これはタイムリープものじゃないし、まさかそんな展開が待っているとは思ってなかったから……。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『STEINS;GATE』を通ったことのある人なら本当に一瞬で解る、「あ、これ来るな」って。本当に感動した。

 お互いに自己実現を掲げる男女の恋愛模様という点でも面白かった。それと、これまでに物語中で提示された情報を使って、次の展開へと繋いでいく構成もかなり鮮やかだった(特に図書館のくだりが好き)。伏線を伏線と思わせないのが上手い。これが(アマプラだと)無料で観れるの、流石におかしいだろ。どうなってんの。

 余談。「ようこそ、セブズへ」のシーン、本当に痺れた。いわゆる見せ場的なシーンにおいて必要十分な台詞を選ぶことはかなり難しいと思っていて。狙いすぎな気取った感じのしない、そうであって的の中心を正確に射貫くもの。この台詞は、そういう意味で完璧。たったの一言で、これまでの物語のすべてに意味を与えている。感動した。

 

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー (1985)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00YTNH4V2

監督:Robert Zemeckis
脚本:Robert Zemeckis,Bob Gale

 

 往年の名作枠ね。子どもの頃に観て、いまに至るまでずっと好きな作品。そんな、何十回も観たとかではないはずと思うのだけれど、それでも物語の展開をそこそこ思い出せる程度には繰り返し観ていたんだろう。昔のことすぎて思い出せない。

 これね、あの、最初に言っておくと、本当にすごい。何がすごいって、物語の構成が完璧すぎる。というのも、作品の中で発生する出来事がすべて雪だるま式になっているというか、連鎖反応的に進行していくんだよな。要するに、すべての出来事が関連性をもって次へと繋がっていく。無駄なものが一つもない。そして、その枠組みの中に立ったままで、「これはどうなっちゃうんだ!?」と観客をハラハラさせるような山場を構築している。ジョージがマーティと一芝居演じようと思ったら、行き違いでビフに喧嘩売っちゃうシーンとかね。あとは、マーティーがトランクに閉じ込められることと、ビフが成敗されるだけでは未来が書き換えられないこととが繋がる理由とか。本当にすごい、し、その山場自体にも物語的にちゃんとした意義が与えられており、もう流石にスタンディングオベーション

 あと、あまりにも一筋縄じゃいかなさすぎる展開も、改めて観返すと好きだったな。これ、実際に物語的なものを一度でも夢想したことがある人は分かると思うんだけど、一つのメインストーリーを進めながらそれに付随する複数のサブミッションを用意するのって、本当に難しいんだよな。その点、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はすごい。最後の、「あとは未来へ帰るだけだな!」ってシーンでさえ全然ウイニングランじゃない。しかも、そこで起きる障害が「ああ、たしかにそれはそうなるよね……」って納得できるものばかりで、うわ~。22 時 4 分に落雷が起きることは事前に知っていて、天気が荒れることも知っていて、ということはこういった事態が当然起こり得るよね、っていう。

 昔に好きだった作品はいま観ても好きなままだったし、昔よりも場面構成に対する解像度がずっと上がっていてよかった。また何年後かに観れたらいいな。

 余談。この企画を始めてから、洋画は基本的に字幕版で観ているのだけれど、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だけは吹替版で観た。懐古厨の宿命からは逃れられない……。

 

 

○ ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー (2023)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8S4LYY6

監督:Aaron Horvath,Michael Jelenic
脚本:Matthew Fogel,上田誠

 

 知り合いからの勧めで観た。かなりの深夜に観ていて、2 時とかから観始めたんだっけ? というので、途中で寝落ちしてしまった。翌日、起きてから改めて観たのだけれど、終盤も終盤で寝落ちしていた。悔しい。ちゃんと眠くないときに観ようね。

 なんか、テーマパーク的な面白さがあった。マリオが好きな人なら、いや、特別好きというわけでなくとも何度かプレイしたことのある人なら、かなりニヤッとできるような構成になっているように思えた。序盤の、工事へ向かう途中の横スク要素とか。何気ないところに「これは!」と目が向くような要素が散りばめられていた。個人的には、門番のノコノコ(たしかノコノコだったと思う)がちゃんとコインをかすめ取っていたシーンが好き。おもろい。

 というか、ピーチ姫が強すぎる! ピーチ姫って、なんていうか、ああいうキャラクター性でいいんだ。もうちょっとたおやかな感じを想像していたから、生まれてからこの方ずっと。いやまあ、たしかにスマブラでは武闘派だけれども。でもなんか、あんなイケイケな感じなんだ、と思った。ところで、どちらかというと前に立って歩いていく風のピーチ姫はかなりカッコよく、かなり好きだった。たしかに、マリオの立ち位置をああいう風に設定するのなら、世界のことについて説明する強キャラポジが必要で、それを旅へも同行するピーチ姫に委ねようとすれば、必然的にああいったキャラクターメイキングになるのかな。

 全体的に、ユニバのマリオゾーンみたいな感じの映画だった。あれで感動する人は、たぶんこっちでも感動できる。

 余談。レインボーロードってそういう壊れ方するんだ……、と思った。ていうか、壊れるんだ。あんなにボム兵とかトゲ甲羅とかが散々飛び交ってるのに。

 

 

○ 翔んで埼玉 (2019)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07X8RXWHN

監督:武内英樹
脚本:徳永友一
原作:魔夜峰央

 

 名前は知っているけれど通ったことのなかった作品シリーズ。どういったコンセプトの作品なのかということもある程度は知っていて、アマプラをぐるぐる巡っていたら「そういえば」と目に留まったので観ることに。

 結論から言うと、もう本当に面白かった。エンタメとしてすごすぎる。特に感動したのが、物語の枠組みの外に冷静なツッコミ役(つまり観客と同じ目線のキャラクター)を置くことで、ともすれば不快感へも繋がりかねない展開を続けまくる本編とのバランスを取るという作品構成。これによって観客は物語の外側からの視点を獲得して、物語の中で語られている内容は一言一句取るに足らないものである、という理解のもとでスクリーンへ臨むことができる。すごい。wikipedia によると、これは原作にないオリジナルパートらしく(というか、そもそも原作は未完のままで連載が中断されたらしい)、つまりは監督と脚本の手腕。というか、この二人って『電車男』や『のだめカンタービレ』で組んでるんですね。そりゃ面白いわ……。

 肝心の本編はどうだったのかというと、こっちは終始バカなことをやっていて、本当によかった。真面目な顔で明らかに頓智気なことを言うもんだから、しかも登場人物全員が。面白くないはずがない。ただ、それを「面白くないはずがない」の領域に留めておかないところがすごい。つまり、単にシュールギャグをやり続けるのではなく、物語としての骨格を与え、最後にはちゃんと爽快感のある結末を用意するという、作品が作品たるための一連の手続きをかなり丁寧に踏んでいる。そのおかげで、恐らくはメインディッシュと思われる埼玉弄りネタにも飽きがこない。「ああ、これはもうこういうものなんだな」という納得感さえあった。

 これは本当に面白かったのでオススメ。アマプラなら無料で観れる。いまだけかもしれないけど。

 余談。某ロックバンドの某が出てきたところでシンプルに爆笑した。あの、なんだっけ。海外のなんとかってホラー系映画で、その分野の巨匠をしょうもない一発ネタのためだけに呼びつけたみたいな、それと同じタイプの笑い。

 

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2 (1989)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00G31E33U

監督:Robert Zemeckis
脚本:Robert Zemeckis,Bob Gale

 

 初代に引き続き PART2。初代のほうで色々書いちゃったからもうあんまり書くことないかも。

 ところで、思いついたことは書く。初代でも触れた、連鎖的にイベントが起こっていく構造は健在だった。個人的には、初代のあの "引き" から、PART2 のメイン舞台を未来へ設定しなかった判断がすごいなと思う。自分だったら、未来の世界でどういった物語を展開していくか、という考えに固執してしまいそう。実際には、「未来で色々やっちゃったせいで現代(未来からみた過去)が変わっちゃった!」的なことが起こる。過去改変によって未来が書き換わるというのは様々な作品で目にするけれど、その逆については一聴すると「そんなことある?」って感じ。ところで、そんなことあるんだな、これが。まあ、実際には未来での出来事が直接的に過去へ関与するわけではなくて、起こっていることとしては過去改変なのだけれど、その起点が未来にあるという話。詳しくは、実際にその目で確認してほしい。

 後半の展開は終始、息を呑むとしか言えない。すごすぎる。物語の後半戦では初代と同じ舞台へと場面転換をし、つまり、初代のストーリーラインが進行している裏で PART2 のストーリーラインも同時に進行させるという構造を取っている。これがもう本当に素晴らしいの一言。この手の作品ではよくある禁則事項として、「過去の出来事を変えてはならない」、「過去の自分に遭遇してはならない」の二つがある。その制約のもと、PART2 における最大の目的を果たすために主人公が孤軍奮闘する、という構成。しかも、初代におけるイベントの発生現場を回避する形ではなく、むしろそこにぶつけていく形で展開を作っているのがすごすぎる。要するに、初代での出来事をきちんと活かしたような構成になっている。本当にすごいし、普通に感動した。こんな綺麗に物語って作れるんだ、しかも 1 時間 48 分で(オープニングとエンドロールがあることを考慮すれば、実際には 1 時間 40 分程度のはず)。

 本当にすごかった。そりゃ名作と呼ばれるわけだな……と思った。

 余談。初代でも登場したあの超絶ギターパートがまた聴けてよかった。

 


 今回はこんな感じ。冒頭の二作品『グレイテスト・ショーマン』と『ラ・ラ・ランド』について、じゃあ実際に作詞へ活かすことはできたのかという話を最後にしておくと、実際にできた。言語への接続というよりは、映像的想像への寄与が大きかったかな。架空の人物を想定して、その人物が楽しそうに街を歩いてるところとか、そのときに見えそうなものとか感じそうなこととか、そっち方面の想像を膨らませることにかなり役立っている、ような気がしている。

 というので、当初の目的はもうこの時点でかなり果たされてしまった。けれど、映画鑑賞はいまのところまだ面白いので、引き続き観ていきたいわね、という感じ。

 

 

 

観た映画1

 

 音楽に限らず、ものづくり全般においてインプットって大事、というか必須だなと思っていて。そのインプットというのは、たとえば音楽を作るのであれば音楽を聴くことが、といった風に一対一で対応づくものではないような気がしていて、アニメやイラスト、小説、映画など、媒体は何でもよくて、それを介して得たもの自体が自身の創作に転用されるというか、そういう理解を一先ず持っている。というので、インプットはちゃんとやったほうがいいよね、という自戒に落ち着くのだけれど、ところで。ところで、アニメやイラスト、小説は放っておいても自分なりペースで吸収するのでいいのだけれど、問題は映画。映画を観る習慣がなさすぎて、いや、別になくてもいいんだけど、生きていく上で必須なわけじゃないし……。一方で、この世界には素晴らしい映像作品が星の数ほどあるはずで、そしてまた自分自身の中に映像作品への興味があることも事実であり、であるならもういますぐに観たほうがいいでしょ! と思い立ったというのが事の次第。いつかやりたいなって言ったこと、基本的にやらないがちだから、自分は。

 そういうわけで、これからしばらくの間、より正確には自分が飽きるまでの間、ちょくちょく映画を観ていきたく、その感想を断片的にでもこのブログへ残しておこうと思う。といっても、そんなちゃんとした文章を書くぞという意気込みを毎回掲げていたら今後へ続いていく気が全くしないので、とりあえず分量とか内容の精査とかはいったん考えないこととして、書きたいことを書きたいだけ書くという感じで。というか、アマプラの見放題にはないレンタル作品を中心に観たせいで、いま感想を残しておかないと全部忘れてしまうというのが動機としては正しい。

 

 以下、物語の核心に触れるようなことは書かないつもりであるものの、軽度なネタバレは多々あるので注意。事前情報なしでいきたい人は、目次から気になったタイトルを amazon の検索窓へ入力してください。

 

 

○ ザ・メニュー (2022)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8QB7DH4

監督:Mark Mylod
脚本:Seth Reiss,Will Tracy

 

 初手に観る作品として合ってます、これ? ただ、推薦文を一目みて割と心を惹かれたということは事実だったので、早いうちに観ておきたかった。

 監督とかちゃんと意識していったほうがいいんだろうなって思うから、ちゃんと調べよう。音楽でいう作曲家とかに当たるのかな。いや、脚本が作曲で、監督は編曲? 分からん。分かんないけど、まあ完全に対応づくものではないだろうから、それっぽい理解でいいや、一旦は。というので、冒頭に書き足しました、いま。というか、いま wikipedia を読んで知ったんだけど、ディズニーの配給だったんだ。R15+ だったのに。

 基本の枠組みはクローズドサークルで、かなり雰囲気重視のホラーサスペンスという感じがした。いや、サイコホラー? ジャンルに明るくないので何も言えない。なんていうか、鑑賞中はそんなこと全然思わなかったのだけど、いま改めて振り返ってみると、『儚い羊たちの祝宴』にも通じる仄暗さが多少あるかもしれないな(ブラックユーモアという点でも)。そういう意味では、割とお気に入りかも。

www.shinchosha.co.jp

 一作を通して、舞台設定の裏側についてはほとんど語られなかった印象。たとえば、企業の秘匿している裏情報をどうやって入手したんだ、とか。あとは、マーゴという名前に違和感を持ったこととかもそうかな。いや、これはたぶん裏で調べたんだろうけど。一企業の裏情報を手に入れられるくらいの力があれば、個人情報の特定くらいは朝飯前だろうし。

 思うに、提供物の差なのかな。自分はどちらかといえば、あの狂気を生み出すに至った過程をこそ知りたいと願ってしまうのだけれど、ところでその過程を描くと今度は狂気の側の立場が危うくなって中途半端だし。というので、事象の過程は鑑賞者の想像に委ね、最終局面のみをシリアスに描くという方向へ舵を切った作品なのかな、と思った、観終えた直後は。ところで、一晩明けてある程度整理された頭で考えてみて、だからそう、それで『儚い羊たちの祝宴』のことを思い出したんだよな。あれを初めて読んだときの読後感と似通っているなと思う、結構。そう思うと、初手から結構好みの作品だったような気がして、嬉しい。でも、万人には勧められないかなあ。かなり人を選ぶような気がする。

 余談。『儚い羊たちの祝宴』は短編集で、収録作品の中だと北の館の殺人がかなり好きなんだけど、今回の『ザ・メニュー』に近いのは『儚い羊たちの晩餐』かも。最後に読んだのが割と前で、記憶が曖昧なので適当なことを書いているかもしれないが……。

 余談2。クローズドサークルからの脱出法が本当によかった。相手とちゃんと同じ土俵へ立つっていうのかな。だから、どうして脱出できたのか、という疑問は持たなかった。かなり納得。

 


○ シェフ 三ツ星フードトラック始めました (2015)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00XALZBPU

監督:Jon Favreau
脚本:Jon Favreau

 

 監督も脚本も同じ人か~、と思って wikipedia 開いてみたら主演の人の顔写真が貼られており、横転。嘘だろ。はるまきごはん? 『アイアンマン』シリーズの監督やってたり、アベンジャーズシリーズの製作総指揮を執っていたりするらしい。すげ~。

 作中で Twitter が繰り返し登場するんだけど、UI がマジの古で面白かった。自分が中学とか高校の頃のやつっぽい。真っ先に書く感想がこれでいいのか。

 ストーリー前半は結構胃がキリキリする感じの展開。クリエイター、って括りにしていいのかな。でもまあ料理も創作だしな。いわゆるクリエイターの目線に立ってみると「どうすればいいんだ~~~~~~」と頭を抱えてしまうようなやりとりが、前半ではずっと続く。ここのところ周囲でホットな話題であるところの(ホットか?)自己実現 vs. 家庭の話でもある。決して息子のことを蔑ろにするような父親ではないのだけれど、ただ、どうしても二の次というか、それよりは仕事優先というか。でも、その仕事でも理想と現実の板挟みになっており、うわ~~~~~~~。

 前半はなんかもう、厨房の中、夜のバー、散らかったアパート、からのインターネットレスバみたいな、閉塞感のある場面が連続するのだけれど、だからこそ、後半のマイアミへ飛んでからの解放感はすごかった。海も空も突き抜けて綺麗だし、高速道路沿いに映り込む風景だっていかにも広大で。ポンポさんで言ってたの、多分こういうことだろ。

 全編通して、生々しさがあるからこそのハートフル作品だなって感じがした。なんていうんだろ、説得力? いや、等身大かも。その、作品の中に印象的だったシーンがいくつかあるんだけど、主人公(父親)と主人公を追いかけてやってきた男性、それと主人公の息子が三人で車移動する場面があって。大人組二人がかなり品のない歌を歌い始めるんだよね。物語の冒頭、主人公は息子に向かって「母さんがいない場所でも汚い言葉は使うな」って言っていたにも関わらず。で、二人の歌を聴いて車の壁にもたれていた息子が思わず零したみたいに笑う、っていう。30 秒もなかったと思うんだけど、真っ先に思い出すのがこのシーンかも。見せ場みたいなシーンは他にもたくさんあったけど、ここがかなり心に刺さった。ぐさっと。そういう些細なワンシーンを積み重ねていく後半戦だからこそ、最後のアレはかなり食らった。作中において、息子当人の気持ちが本人の口から語られることはほとんどないけれど(車を改装してるシーンくらい?)、時と場合によっては、だから言葉なんか一つもなくたっていいんだな。重要なものは映像の中に全部ある! って感じの気持ちになれて、本当によかった。

 子どもの頃に観てもマジで意味わかんなかっただろうなと思うし、もうちょっと年齢を重ねてからまた観てみたいなとも思う。そういう作品。マジでよかった。これは色んな人に勧めたい。

 余談。直前に観た『ザ・メニュー』が料理をテーマにした作品だったから、というノリで雑に選んだ作品だったのだけれど、めちゃくちゃ好みで良かった。

 余談2。出てくる料理が軒並み美味しそうで、海外旅行したくなってくる。

 余談3。エンドロールで撮影の裏側がほんのちょっとだけ紹介されるのだけれど、そこで料理担当っぽい人の言っていることが面白くて(かつ真剣で)よかった。

 


○ M3GAN (2023)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0BYW4H2L3

監督:Gerard Johnstone
脚本:Akela Cooper

 2023 年公開の映画なのにもう続編決定してるんだ、ワロタ( wikipedia 調べ)。『ザ・メニュー』と同じホラーというカテゴリではあるけれど、一番打者とは打って変わって、こちらは純粋なホラー作品という感じだった。
 何よりもまず話したいことがあって、M3GAN 役の動きがヤバすぎてすごい。Amie Donald。いや、調べてみたら撮影自体にはかなり色んな技術が用いられているっぽくて、全編がそうというわけではなさそうなのだけれど。ただ、あの、物語の後半に挟まれる追いかけっこのシーン、調べた感じあれは一発撮りっぽくて、これが本当にすごい。ロボットの動きを映像の中にはめ込むのができるとして、それと並べても一切の遜色がない機械的な動作をこなす子役。何者すぎる。
 最初は隣のおばさんにちょっと同情してたんだけど、可哀想すぎるし。ところで、改めて流れを振り返ってみると、M3GAN は犬に首元を噛まれた辺りからおかしくなっていったような気がするので、やっぱり同情の余地はないかもしれない。いや、あの柵を修理するのが本来どちらの役回りだったのかは知らないからアレだけども。
 ホラーとは言ったけれど、露骨なジャンプスケアはほとんどなくて、「明らかに不穏だな~」と感じた場所でちゃんと不穏な出来事が起こってくれるので、そういう意味ではホラー初心者の自分でもちゃんと適切な容量内で楽しむことができた。びっくりさせる系の演出が多用される作品は心臓に悪いんで……。ただ、流血表現がちょくちょくあるので、そこだけ苦手な人は注意って感じかな。
 余談。解決法、「それでいいのかよ!」と思った。拍子抜けとかって意味じゃなくて、「あ、それがそうなるの?」っていう驚き、あるいは面白さ。あのシーンだけ漫才的な面白があったな。

 


○ メッセージ (2016)

監督:Denis Villeneuve
脚本:Eric Heisserer
原作:Ted Chiang

 

 そう、原題は『Arrival』なんだよね。って、いま wikipedia を開いて思い出した。映画の中でもどこかで提示されていたと思うけれど、どこだっけ。エンドロールの前とかだった? と思って改めて観てみたところ、合っていた。まあ、そこくらいしか挟み込める場所ないもんな。

 物語の仕組み的な部分にかなり早い段階で気づいた気がする。最初のきっかけはめちゃくちゃ早かったけど、明確に引っ掛かったのは序盤の最後かな。二人で殻を眺めているシーン。物語の進行に伴って情報が開示されるにつれて、「なるほど~」感が次第に補強されていく構造はミステリー的な趣きがあったような。なんていうか、いち早く気付くことのできた人にはボーナスがある感じの作りという意味で。

 いや、面白かったな。ストーリーがどうこうとかじゃなくて、作品のコンセプト自体がそもそも面白かった。地球外生命体との対話。というより、そもそもの話、どのようにして意思疎通がなされうるのかという点について。いやでも、それ自体は 1,000 年ほど前の地球上では珍しくもない交流形態のはずだよな、と考えていたら実際にそういう話も作中で出てきた。アボリジニの話。といっても、その状況ではお互いに人間という共通の土俵に立っているわけで。手を使って文字を書くとか、口から声を発するとか、火を使うし太陽は眩しいし、って最低限の共通事項があるにはあって。だから、そこを外してみるといったいどうなるのか、っていう壮大な思考実験をみせられたみたいな、そういう気分。

 話せることは他にもありそうな気がするけれど、これ以上は実際に観てもらわないと何も言えない! 吹き替え版は(アマプラ会員なら)無料で観れるっぽいので是非。

 余談。その名前自体は初見でなかったものの、そういう風に読んだことは一度もなかった。なるほど……って気持ちにならざるを得なかった、流石に。

 


○ 映画大好きポンポさん (2021)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09SQDL6FP

監督:平尾隆之
脚本:平尾隆之
原作:杉谷庄吾人間プラモ

 

 もう、本当によかったです、これ。創作をやっている人間には恐らく軒並み刺さるんじゃないか。ところで、Twitter でフォロワー内検索をしてみたら、本当に大量の人間が当作品に言及していて、「知らなかったの、俺だけか……」って気持ちになった。早く教えてよ~(ところで、少なくとも自分の観測内で当作品に言及していた人は数年前からずっといたので、早く観なかった自分が悪い!)。

 良いセリフとシーンがたくさんあった。最初の、横断歩道の水溜まりへ踏み込む女の子に対して、主人公が「いい絵だ……」って呟くとことか。あと、ポンポさんの台詞でもいいやつがあった。なんだっけ。「その人を見た瞬間に、物語が頭に溢れてくることが稀にある。そんなときは間違いなくいい作品に仕上がるわね」。これはもう本当にその通りすぎて、すごい。「幸福は創造の敵。彼らにクリエイターとしての資格なし」(想像?)。一番すごいのは、こういったメッセージが真っすぐに届くような作品構成になっていることかもしれないな。言葉に直すだけなら誰にだってできるけれど、その内側に説得力を宿すことは本当に難しくて、ところでこの作品はその困難をやってのけている。すごい。

 切り捨てる覚悟と突き詰める覚悟。その両者についての話がずっとなされている。映画監督や女優へとたどり着いた経緯、撮影データの取捨選択を迫られる場面、納期を破るとかいう究極のコンプライアンス違反を犯してでも追及したいもの。全部が全部、同じ話をしている。丸っこい絵柄やポンポさんの可愛らしい言動の裏側で、創作にとって最もシリアスかつクリティカルと思われる話題がずっと扱われていて。すごい。しかも、ちゃんとよくない部分も描いているのがいいなと思った。覚悟を突き通した先に待ち構えているかもしれない破滅、というか。これは、マーティン・ブラドック演じるダルベールの話。そこにも救済はあったけれど、でも破滅した部分はしっかりと破滅していて。あのシーンが必要だった理由もわかる。あれがないと、切り捨てる覚悟が足りないから。

 本当によかった。全員観てほしい。ポンポさんがカッコいいし、主人公もめちゃくちゃカッコいい。アランが喫茶店で口にした台詞にも納得できる。本当に全員観てほしい。d アニメストアに契約していればレンタルなしで観れるので。

 余談。最後の最後まで最高だった。

 

 


 というので、今後もちょくちょく映画を観ていけたらいいな~って感じです。

 補足。観る映画の候補は『R15+じゃダメですか?』という作品と、周囲の人たちのオススメから選んでます。

comic-days.com

 なので、面白そうな映画 info. があればいつでも教えてください。ところで、上の漫画は普通に面白い(し絵がいい)ので映画好きかどうかとか関係なしにオススメです。

 

 

 

20240112

 

 学部生の頃、好きだった人がいて。いまはもうほとんど接点ないんだけど、ちょっと前になんかいきなり電話がかかってきて、でもまあそれくらいの距離感の人。当時は、……いや、どうなんだろう。場合によっては本人が読みかねないところでこんなことを書くのも憚られるといえば憚られるけれども、好きと嫌いとが混じり合っている感覚というか、分かるかな。好きだけど嫌いで、嫌いだけど好き、みたいな。でも、いまにして思えば、たぶん、あれってどちらも好意を源として存在していた感情だったのかも。こういうの、ともすれば過去を美化してるだけという場合も考えられるけれど、そうではないことの根拠の一つとして、だって、いまは全然嫌いなんかじゃないし、むしろ好きだったと思うから。でもそれは当時よりも心理的な距離が空いたからなんじゃないの? と思うかもしれないけれど、いや、相手のことを心の底から嫌っていたら距離が離れたところでずっと嫌いなままなんだよ。これは人に依るだろうけれど、自分はそう。負の感情を持ち合わせている対象は、それが人だろうが物だろうが、ある程度の距離をとると大抵はどうでもいい対象へと置き換わる。どうでもいいっていうか、なんだろ、うまく言えないな。でも、だいたいのものって基本的にどうでもいいし。遠く離れてまで憎み続けるものなんか早々ないから。それもまあ、人に依るんだろうけどさ。というので、だから、そこそこ嫌いな対象ってある程度離れたらもうどうでもよくなっちゃうんだけど、本来、自分を駆動させるシステム的には。あるいは、本当に嫌いな対象なら、ずっと本当に嫌いなままなんだけど。でも、その人はそうじゃなかったんだよな。なんでだろう、と考えたりした、だいぶ前のことだけど。思うに、大学へ来てからいちばん衝突した相手、……だと思う。恐らくは、いちばん本音を話した相手でもある、はず。ここでいう本音とは、なんていうか、良い意味で相手の事情を気にかけない言葉という意味。普通はそんなことしないし、できない。社会は他人を思い遣るようにできているから。あるいは、夜にしか話せないことってたくさんあると思っていて、ところで自分は大学へ来るまではそんな風に夜を使うことがなかったから。そういう夜の使い方をした相手も、だから、あの人がいちばんなんじゃないかな。向こうがどう思っているのかとかは知らないけど、全然。ただ、人間関係に優劣をつけることはできないし、そんなことをするつもりは全くないのだけれど、それでも、大学へ来て一番よかったと思うことは何ですかと尋ねられたなら、十数分は悩んだうえで、学部一回生のときにあの人と出会えたことをアンサーとして挙げるかもしれない。あの人との出会いがなければ、それ以降のすべての人との出会いがなかった(あるいは、現在と同じ関係性にまでは進展しなかった)可能性さえある。そのくらいには、現在の山上一葉という人格に大きな影響を与えた人だと、少なくとも自分ではそう思っている。繰り返すけれど、向こうがどう思っているのかは全く知らない。そういう距離感のままでいてくれるところも、たぶん好きだったんだろうな。

 

 あの人の言葉やそれを口にしていた場面なんかを、いまでもなんとなく思い出したりする。京大周辺の深夜には、その断片がたくさん転がっている。コンビニの廃棄場、店裏のダクト。鴨川沿いの公園で檸檬の話をしたりもした。梶井基次郎。自分は文学に明るいわけでは決してないから(これは本当にない)、そんな物知り顔で話せる立場でも全然ないのだけれど、三条の丸善に行けば檸檬が置かれているコーナーがあるはず(あれ、たしかずっと置かれてるよね)。あの檸檬のこと。あるいは、共犯者、緑色の空。すごいよ。いまでも探すし、みつけたら「あ、緑色の空だ」って思うもんね。びっくりする。そうやって日々浮かび上がってくる幾つかの中に、他者の価値観についての言及がある。流石に一言一句違わずとはいかないけれど、たしか、「そういった考え方があること自体は構わない。ただ、その考えを安易に自分へ向けられたら間違いなく怒るよ」みたいな、そんな感じの。何に関する話題で出たんだっけな、これ。その人の家にいたときに聞いた言葉だったなってところまでは思い出せるんだけど。それはまあいいか。とにかく、そういうのがあって。別に、その言葉に甚く感銘を受けたってわけじゃない。何度も言うけれど、当時は好きと嫌いとが混じり合った感じだったし、いや、当時から好きは好きだったけれど。でも、そんな、なんていうんだろう。妄信? とか、崇拝? とか。そういう間柄じゃ全然ない。どちらかといえばお互いにお互いを殴り合い続けてたみたいな……、それもそれでまた違うだろうけれど。でもまあ、そんな感じだったから。その台詞を耳にしたその瞬間に、何かしら思うところがあったというわけでは全然なかった、はず。でも、それでも、未だに繰り返し思い出すんだよ。何年前、……五年? とか。少なくとも四年以上は前の出来事なのに。不思議だよね。日常のワンシーンとしての会話でしかなかったはずなのに、それでも自分の心の奥深くにたしかな形として残っている。そういう人とは、もう今後、死ぬ瞬間まで出会うことはないんじゃないかって気さえする。みたいな。冬の夜は特にあの人のことを思い出すなあって、さっき、買い物からの帰り道を歩きながらぼんやりと考えていた。冬に特別な思い入れがあること自体、多かれ少なかれあの人の影響なのだから、まあ、それはそうといえばそれはそうか。

 

 嫌なことってキリがないからさ。だから、好きな人のことを思い出そうと思って。嘘。思ってはない。ただ、無意識的にそういう心の動き方をしている気がする。だって、さっきまであんな陰鬱な気分だったのに、いまはもう全然そんなことないもんな。憂さ晴らしをしたとかでもなし、ただ思い出せることを書き下しただけなのに。

 

 物語的な関係性って、やっぱりあると思うんだよな。言ってて気持ち悪いなって自分でも思うけれど。でも、どんなに気持ち悪かろうが、あるいは誰に何と思われようが、一切の感情なんておよそ無関係で。思うに自分は、一〇〇万回生きた猫のことが好きだった。どこにもいけないものの一つ、校舎の屋上、一一月。愛を避けて歩くということ、幸福の本質。本当に何十回、何百回と繰り返し読んだから、かなりの場面と台詞を思い出すことができる。同じなんだよ、だから、たぶん。違うところといえば、人生は小説と違って、同じ場面を繰り返したりはできないってところくらい。エンドレスエイトじゃ困るから。でも、なんだろ、その経験? 過去? 目にしたもの、耳にしたもの、感じたこと。そういった全部が現在を生きている自分にとってどういったものとして処理されているのかということ。それが、だから、物語的だなって思う。だって、あり得ないよ、普通。そんな、日々の何気ないやり取りをいまでも思い出すなんて。少なくとも、自分にとっては決してありふれたものなんかじゃない。そういうのを、そういうことこそを大切にして生きていきたい。いきたいなって思う、思った。ちょっと、最近の自分はこのことを忘れすぎている気がする。そういう、現実世界の閉塞感なんて気にもならないくらいに眩しいものの在処を。四年前、あるいは五年前? たしかにそういう時間があって、だからいまの自分がいて。別の世界線なんていくらでもあるよ、きっと。もっと入学当初からうまく立ち回れていた if とか、あるいはいま抱えている嫌なあれこれと向き合わなくてよかった if とか、そんなのいくらだって思いつくし。でも、それでも、なんていうか、これでよかったんだって思いたいし、そう思える自分でありたい。……と思う。嫌なことってキリがないけどさ、本当に。だからって、全部が全部間違っていたなんて考えたくないし、それに、とてもそうだとは思えないくらいにかけがえのないものを自分は既に貰っているんだってことを、だからちゃんと思い出さないといけないし、そのことをちゃんと忘れないままでいたい。それを失くさないでいる限り、きっと自分は大丈夫だろうなって気がするから。

 

 とりあえず、散歩でも行こうかな。冬と友達になりたい、一先ずは。