分岐点

 

 孤独とかいうありきたりでつまらない枠組みに自分自身をあてがいたくないというのが正直なところですけれど、分かりやすい言葉を探そうとなれば、結局のところ、孤独という単語それ一つに尽きてしまうよなあという感じがします。孤独。孤独って何ですか? 自分のことを、あるいは誰かのことを、その人を指して孤独だと言えるほどに孤独という概念に馴染みがあるかといえば、別にそうでもないなという気がする一方で、昔からずっと知っていたんじゃないかという気もします。どうなんでしょう、分かりません。皆さんはどうですか?

 

 孤独って、要するに閉塞感だと思うんです。どこへも行けないと唄うのが米津玄師で、どこへでも行けると唄うのが藤原基央ですけれど、それはさておき、どこへでも行けるとか行けないとか、そういったことを僕らに考えさせるのが閉塞感というやつで、つまりは孤独というやつの正体なんじゃないか、みたいな。壁があるとかないとか、鍵がかかっているとかいないとか、この世界を生きている人間のおおよそはそういったことを気にも留めていないなんて百も承知で、それでもその透明に呪われてしまった人間はどうすればいいのでしょう? 『気にする程見られてもいないよ』なんて言葉を言えるのは、それこそそんな孤独を抱えて生きてきた人だけなのでしょうけれど、何というか、それはさておき、そこまでの強さは持ち合わせていないという感じですよね。ままならないものです。

 

惡の華 / 押見修造』という作品を読みました。漫画です。全十一巻。吉田音楽製作所のほうの一個下の子から先日借りました。タイトル自体は以前から知っていたんですが、言ってしまえばまあそれだけでしかなくて、特に印象強く残っていたというわけでもありませんでした。今日は起きてからずっと文字を書いたり何だったりをしていて、その休憩がてらに軽く読んでみようと手を伸ばしたが最後でした。気がつけば食堂は閉まっているし、というか二二時だし、いや何? って感じです。魔法? 自分は本当に一度スイッチが入ると抜け出せなくなるタイプなので(そのスイッチがうまく入らないことがあまりに多くて、それで苦労してるんですが)、こういうことが割と頻繁に起こります。晩御飯どうしよう。これを書き終える頃には最悪日が回っているという可能性すらあるのですが……。

 ギブアンドテイクというか、今回のアレはなんか割とそんな感じでして、惡の華を貸してくれた子には以前「BUMPの『ハンマーソングと痛みの塔』って曲がめっちゃ良いから聴いてほしい」といった旨のことを言って、しかもその子はどうやらちゃんと聴いてくれたらしく、だからまあ次は僕の番という感じでして、そんな彼が好きらしい惡の華を借りて読んでみたという次第でした。好きなものを押し付けるのって本当に注意深くやらなきゃいけなくて、そういうわけでまあ普段はやらないし、やるとしてもブログとかTwitterとかで適当に発信する程度なんですけれど、その、なんていうんですか? だから、そういった何かを共有できる相手って割と珍しくて、割とっつうかかなり珍しくて、大切にしていかなきゃなあと思ったり思わなかったり。僕が彼の価値観に勝手に共鳴しているだけという説もあります。いや、ほとんど何も知りませんけどね。ほとんど何もというか、実際何も知りませんけど。でも、それこそほんの少しの言葉を交わしただけでそう感じる程度には、僕の意識は彼のことを好意的な対象として処理しているらしく、そういう相手が好きになったものなら多分自分も好きになるだろう、というおよそ浅はかな思考のもと、「持って来てくれたら読むよ、惡の華」などと軽率にも発言してしまったのでした。

 

 結論から言えば、よかったです。よかった? これは『今週読んだ本の話』を更新しなくなった原因の一つでもあるんですが、どれほど良い作品に触れたところで、自分の言語野がそいつらを上手く表現してくれなくてですね。『サクラダリセット』とかも、既に三周ほどしているくらいには好みの作品だったんですが、それを伝えようとwordを立ち上げて、何もうまく言えねえ、と画面をたたき割るまでがテンプレになってしまい、このままいくとパソコンの修理費だけで破産してしまうと思い至り、そんなこんなで泣く泣く更新を中断しています。嘘です。半分くらい。上手く言えないのは本当で、もう一つの理由は、何かを読み終えた後に文字を打ち込む気力があったりなかったりするからです。本自体はあれからもちょくちょく読んでいて、以前から書店で気になっていた『天久鷹央の推理カルテ』をいまは読み進めています。まだ途中ですけど。

 

惡の華 / 押見修造』を一通り読んでみて、思ったところをバーッと書いてみます。ほとんど自分の話ですけどね。

 

 周りにいる奴らって本当に救いようのない馬鹿ばかりだな、なんてことを本心から思って生きていた時期が僕にもありました。主に高校生の頃です。そういえばつい最近、大学以前のことがあまり想像できない、といった旨のことを言われたのですけれど、その真意はこのことと全く関係ないのであろうことはさておいたとして、高校生の頃の自分はかなり尖っていたなあ、といまにして振り返ってみるとそう思います。尖っていたというか、いや、尖ってはいませんね。僕は大阪桐蔭高校出身なんですが(中学は普通に公立)、大阪桐蔭は課題の設定量がいちいち頭おかしくて、学校も夜遅くまで自習室として開放していたり、というか休日も普通に教師の方がいたりして、いや、どんだけ勉強させたいねん、と一学生ながらに思っていました。

 仲のいいクラスメイトはそれなりにいました。本当にそれなりでしたけれど。だからまあ高校へ通うのが嫌になったということは、本当に不思議なことに一度もなくて、ズル休みは何度かしましたけれど、それにしても、いまにすれば何がそこまで自分を駆り立てていたのだろうかと思わず首を傾げてしまいます。自転車で三、四十分ほどかかる距離にあったんですが、いや、本当にどうして馬鹿真面目に通ってたんでしょう? 不思議です。

惡の華』での彼らが正しくそうだったように、読んだ本に影響を受けるという話はとても他人事だと思えないんですよね。誰しもそんなもんなんでしょうか? そもそも本なんて読みませんか? 僕も大して読みませんし、これまでに読んだのなんて九割ラノベですけれど、いまの自分に繋がっている作品はかなりの数あると思います。いちいち挙げているとキリがありませんけれど、『ひぐらし』『うみねこ』『物語シリーズ』辺りはまあ間違いないなという感じです。以下のツイートは六年も前の、つまり僕が高校一年生のときのものなんですが、

とかね(何が?)。高校生の頃が本当に一番ひねくれていたので、その当時に触れた作品、なかでも『終物語(上)』はかなりの影響を受けているなあと他人事のように思います(この時期に触れた作品といえば『DEATH NOTE』にも結構影響を受けているような気がします)。なまじ自分も似たような経験があっただけに尚更、というより、これまでの自分が通ってきた道にあったあれこれについて考えたのが高校生の頃でした。懐かしいな。その結論として、人類全員馬鹿(意訳)、という最悪の答えに至ったことを思えば、何というかって感じですけれど……。

 

 一方で、そういったあれこれの話を周りの奴らにしたことは一度もありませんでした。まあ、しませんよね普通。僕が何をどう思っていたかとかそんなことは関係なく、世間一般の高校生って普通はそんなことを話さないんですよね。このソシャゲが楽しいとかあの芸能人が可愛いとか、まあ何かそんな感じのことを話してたんですかね? いや、知りませんけど。何も思い出せないってことは、実際どうでもいいことばかりを話してたんでしょうね。教室で交わした言葉なんて思い出せます? 本当に何も覚えてないな。

 馬鹿しかいねえなあ、と思っていたのは本当のことで、しかしそれにしても今は違って捉えられるというか、逆にいまの自分がどうしてそういったことを考えなくなったのかという方へ目を向けてみると、それが結局閉塞感だよなあ、という気がするんですよね。高校生の頃といえば物理的にどこへも行けなくて、日常は特にかわり映えもせずに同じ場面を流すばかりで、授業中は寝て、適当に課題をこなして、サボって、そして帰る。終わり。何もない。何かあればいいのになあと退屈してみても、クラスメイトは相も変わらずどうでもいいことできゃっきゃと盛り上がっていたりして、それが馬鹿みたいだなあって。要するに羨ましかったんですかね。違うかもしれませんけど。そうやって閉塞感をまるで覚えていなさそうな奴らの姿を見て、許せなかったのかもしれません。分かりませんけど。『惡の華』を読んでいるとそんな気持ちになりました。似てるとか似てないとかじゃなく、「いつかの自分にもあったなあ、こんなことが」という気持ち。追体験? まあ、いまも似たり寄ったりな感じではありますけどね。

 

惡の華』で春日と仲村がそうだったように、あの二人はどこかしらで繋がりあっていて、どこかしらで食い違ってもいて、もしもあの二人が出会わなかったらどうなっていたんだろうなあと思います。春日はともかく、仲村のほう。エンディングを見るに、何がどうなったところで最後は案外落ち着いていたのかもしれませんけれど、いや、でもどうなんでしょうね。あの結末がハッピーエンドかといえばそうでもないなという気持ちがいまの自分にはあって、あと何周かするつもりなのでその過程で評価が変わるかもしれませんけれど、仲村に関してはハッピーではなかったよな、という。毎日毎日太陽がグルグル同じように回ってそれが綺麗だとか、嫌ですよね、なんか。手放しでは喜べないというか……、読んでる途中は一人称の春日視点でばかり作中世界を捉えていたのであまり気になりませんでしたけれど、仲村に感情移入して読んでみるとまた違った風に見えてくるような気がします(最後のシーンはそういう役割も持っていると思っている)。ハッピーエンドではないにせよ、仲村は多少救われていたんですかね? それだといいんですけれど、そこまでの判断はいまの僕にはまだできません。そりゃ真っ当に生きていくことは一般的に良いことなんでしょうけれど。でもまあ、どうあれ仲村が消えないでいてくれてよかったという春日の言葉は本当にその通りで、その点においてはやはりハッピーエンドと言ってもいいのかもしれません。うーん。仲村はどんな世界を見ていたんでしょうね。彼女は彼女で、とても綺麗な空を見ていたんだろうなあ、という気持ちです。いまのところ。

 

 あの山の向こうまで走って、という仲村の言葉が結局あの作品の全部だったんだなあ、と思います(ちょうどこのタイミングで一巻を読み直し始めました)。高校生当時の自分を矯正(?)してくれたのがこのブログにたびたび登場する彼だという事実は、まあ今更取り立てて話すようなことでもありませんけれど、そういえば僕も彼と同じような話をしたことが結構な数あったなあと、読みながら考えていました。遠くの話をしがちですよね、ああいう頃って。それはいまもですけど。そんな彼とよく言っていたのは「広島に行こう」ってことでした。これにしても、別に遠くならどこでもよかったというか、いや、どこでもよくはないですけれど、でもまあやっぱりどこでもよくて、どこかへ行きたいってだけだったんだろうなあと、いま思えば。

 

 始まりは勝手にやってくるけれど、終わりは自分で探さなきゃいけない。それが『惡の華』の筆者が言いたかったことの一つのようです。僕の主観で言えば、終わりこそ勝手にやってくるものだと思いますけれど、しかし先の主張もある意味では正しく、これは要するに視点の問題で、勝手にやってきた終わりを受け入れる努力をしなきゃいけない、という意味なのかなあと思います。分かりやすいところで言えば死ですが、終わりは往々にして唐突にやってきて、そのことに対する区切りを見つけるのが僕らの役目なのかなあ、みたいな。いつまでも彼の後ろ姿ばかりを(引きずってるつもりはありませんけど)引きずっている自分としては、六巻か七巻辺りで春日が通りすがりの人を仲村と勘違いするシーンとか、結構胸が痛かったです。『終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる』。これは『HAPPY / BUMP OF CHICKEN』の歌詞ですけれど、終わらせる勇気さえ持てない自分は、これからどこへ向かえばいいんでしょうね。分かりません。いっそどこへも行かなくていいんじゃないかという気がしますけれど、そんなことばかりも言ってられませんし。『移動こそが幸せの本質』らしいので(これは『いなくなれ、群青 / 河野裕』の一節)。

 

 周りの奴らと自分はどうやら違うらしい、というのが結局の本音で、それは自惚れとかじゃなく、むしろ逆にそのことがただ苦しいって話で、みたいなことをつい昨日の明け方に話したばかりなんですが、だからって周りをどうこうしようとかは特に思いませんよね。あ、これは『惡の華』にあまり関係ないんですが、いや、関係あるのかな、ちょっとくらいは。その、自分とは違う連中に報復してやろうみたいな、それこそ春日と仲村がやろうとしていたようなことを仮に実行したところで、さてこの世界の何が変わるだろうという話なんですよね、結局のところ。何も変わらないでしょう、多分。それは諦めとかじゃなく、事実として何も変わってないですし。新幹線の中で焼身自殺したところでこの世界は表情一つ変えずに回っていっているわけですから、だから、そういう呪いを受けてしまった以上はたとえ窮屈でも何とかやっていくしかないよな、と最近は考えています。いざとなれば幽霊にでもなってやればいいですし。まあ、周りの奴らと自分は違うなんて、いや、何一つ同じ人間が果たしてどこにいるんだよって話ですけど、大局的に見て、の話ですよ、勿論。

 

 何はともあれ、『惡の華 / 押見修造』、良い作品でした。予想通りというか何というか、相当好みの部類だったように思います。これをもし高校時代に読んでたらどうなってたんだろうなあ、と考えるとちょっと面白いですね。ちょっとどころじゃなくかなり面白いですね。そうなると、彼とのかかわり方も多少変わっていたのかもなあ、なんて。まあそんなこんなの感じでした。仲村が一番好きだな、いまのとこ。

 

 ほら、やっぱり日跨いでるじゃんか。本当に何食べよう……。

 

 

 

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 ここしばらく考えていたことについて雑多に書こうと思います。

 

 

 人間関係というやつが広がっていくにつれて次第に分かってくることといえば、たとえば自分はこういう人のことが好きなんだな、というのがあります。その対極とは言わないまでもおおよそ逆の位置に存在する嫌いな人間というやつについては、別に人間関係を広げるまでもなく、誰しも今に至るまでの過程において大まかに把握できていることだろうと思います。嫌いなものの話をするのはあまりよくないなと思いつつ、まあわざとやるんですが、僕は綺麗なものを綺麗なままで扱えない人間のことが頗る嫌いです。音楽も、絵も、文章も。何が綺麗で何が綺麗でないのかという境界線が個々人の価値観に依存するということは、哲学なんて大掛かりな道具を引っ張り出してくるまでもなく当たり前のことですけれど、だからこれは結局主観の話でしかなくて、自分にとっての綺麗なものを汚していく連中のことが嫌いだという、それだけの話です。ここまで単純化してしまえば、それはもはや一般論で処理してしまえる主張のような気もしますけれど、そう簡単に割り切れてくれないのが所謂感情というやつで、許せないものはやっぱり許せません。だけど、これはあくまで主観の話であって、ここを履き違えちゃいけないということは自戒も込めて記しておこうと思います。多分、自分も誰かの価値観を踏みにじりながら生きているし、日常に置いてその事実に無自覚的だし、だから、自分にとっての綺麗なものをそうして汚していく誰かのことを一方的に非難するのも何だかおかしな話というか、やってることが動物愛護団体とさして変わらないなという気になります。嫌いなものは嫌いです。許せる許せないで言えば許せないし、認められる認められないで言えば認められないし、認めたくありません。でも、これは主観です。だから、そういう人の存在を否定しようという気はありません。彼らはたしかに存在して、僕はそんな彼らのことがたしかに嫌い。たったそれだけ。それだけです。そしてそのことは声高に叫ぶようなことではないし、こういう場所にぽつりと載せておくのが関の山です。

 

 

 お酒が嫌いなんですよね、と言ったところ、酔っている人が嫌いなだけでは、と指摘されたことがあるんですが、その指摘は概ね正しくて、でもちょっとズレてるなというのが僕の感想です。いや、より素直に言うのであれば、ズレていることにしたい、というのが正しいです。頷きたくないっていうんですかね。感情論。もっと言えば、その言葉を安易に首肯できるような人間でありたくない、という感覚です。伝わりますか? まあ一年前の自分なら頷いていたかもしれませんけれど。たとえばの話、小学生がよく言うじゃないですか、自分は悪くない、〇〇君が悪い、みたいなことを。多分あんな感じです。誰かを嫌いになんてなりたくないじゃないですか、できれば。実際、その指摘は正しいんですよね。別にお酒自体に負のイメージは大してありませんし、一か月に一回飲むか飲まないか程度の頻度とはいえ僕だって飲みますし、だからその指摘は正しくて、だからこそこの話はどこまでいっても感情論なんですけど、この程度の責任転嫁は許してくれないかなあ、という気持ちです。概念を嫌っていた方がずっと楽なんですよ。酔うのが好きな人には本当に申し訳ない話だな、これ。でも、僕は嫌いです。だからって、そのことが好きな人の存在を否定することはしません。しないように気をつけます。否定されるのは誰だって嫌いでしょうし。僕も嫌です。

 

 

 例にもよって星の話をしましょう。先日吉音のほうへ提出した曲の歌詞を知っているのは、いまのところ僕を含めて二人ですが、ちょっとそれに関連した話をします。話だけ聞いてもって感じだろうとは思いますけれど、まあ話半分に読んでください。あ、これはあくまで僕側の主張です。向こうがどんな思いを込めているのか、僕は何も知りません。そういう意味でも、話半分に、です。

 あれを書いたのは二月の中旬、一五日前後でした。当時の自分が何を考えていたのかは、その頃のブログを読んでもらえればわかると思います。自分はほとんど覚えていませんが。京橋から出町柳へ向かう特急電車の中で書きました。頭からバーッと書いたってわけじゃなくて、端末上のメモ帳を行ったり来たり繰り返して、一時間くらい。歌詞を一本書くのにどれだけ時間を使うかって人それぞれだと思うんですけど、あの曲の歌詞をたった一時間で書いたかと言えば別にそういうわけでもなくて、要約するのに掛けたのが一時間だったというだけで、言葉自体はずっとこのブログにぽろぽろと零していたので、だからまあアウトプットが大事だって話ですよね。インプットも同じくらい大事ですけど。言葉を書く練習というよりは、自分の思考を言語化する練習ですよね。作詞ってやっぱりそういう側面が強いと思うので。それもまた人によるのでしょうけれど。

 夜が明けると星は見えなくなる、というと使い古された常套句のように思われるかもしれませんけれど、この言葉は自分にとってそれなりの質量を持って存在しているものでもあります。だから、まあ理解してくれとは言わないまでも、軽んじないでほしいなとは思います。さておき。夜は詩的だと思います。何ていうんですかね。夜は日中に比べて世界の強度が増しているような感覚があります。温度感とか、聴こえてくる音も、見えるものも、見えないものも、言葉も、色も、何もかも。日中は息を潜めていた諸々が、日が沈んだ途端、一斉に飛び込んでくるような、そんな感じ。孤独感とか不安とか、そういうものも勿論ですけれど、だから、夜には見えていたものが朝になると見えなくなるという感覚が自分にはあって、それが夜明けに消える星の一つなんですけれど、でも別にそれって見えなくなっただけで消えたわけじゃなくて、空のどこかにはあるんだよなあって、そう思ったり思わなかったり。僕らはずっと星を追いかけていて、それは人それぞれ大きさも色も距離も違うけれど、ともかく綺麗な星を追いかけていて、人によっては届いたりあるいは届かなかったり、指先が届いた誰かは幸せになるのかもしれませんけれど、一方で遠く届かなかった誰かは嫌になってそれっきりで空を見上げなくなるのかなあとか思います。

 それは、きっととても悲しいことですよね。これもまた人によりますか? 僕は人によらないと思いますけれど、どうでしょう。このことは、我慢の対義語が諦めなのか、我慢の同義語が諦めなのか、という例の話に通じるところがあるような気がします。どちらが自分の正義に近しいですか? 僕はどちらも正しくて、つまりどちらも間違っていないと思います。矛盾ですかね? 世界に満ち溢れているそれらに比べれば、こんなものは別に矛盾というほどのものでもないでしょう。綺麗な対立です。どっちが正しいとかじゃない。これはまあ僕の信念です。それはさておき、青空を見上げられない人がいるというだけで何だか悲しくなることがあって、あの曲の歌詞を書いた頃、僕のすぐ身近にそういった誰かが立っていて、その誰かはもしかして今頃泣いているのかなとか考えて、案外ヘラヘラしてるかもなとも考えて、だけど、いずれにせよそれは悲しいなと思って、誰かの幸福を自分が勝手に定義するのは褒められたことではないでしょうけれど、だからその誰かが悲しいんじゃなくて、他の誰でもない自分が悲しいんだって話なんですけど、これは。

 初めて見つけた星を覚えてますか? 色、温度、輝き、何でもいいです。誰だってきっとこれまでにそういった何かを一つ二つは見つけていて、その嘘みたいな輝きを馬鹿正直に追いかけてた時期があると思うんです。ないかもしれません。でも、誰にでもあると僕は信じています。そうやって追いかけ続けた星のほとんどは、自分が今立っている場所から遠く離れた彼方に息衝いていて、だから全然届かなくて、そうして目を閉じることが我慢なのか諦めなのかという話ですけれど、大人になるにつれて、みんなそういう温度のことを忘れていくのかなあ、と考えています。いつから、と言えば、一昨年からです。大人になるということの意味をずっと探していて、見つけたような気になったり、でもやっぱり違うなって気になったり、そんなことを何年か繰り返して、僕は未だにその正体を知りませんけれど、でも、こうして考え始めた頃から一貫している前提の一つとして、雪の白だったり空の青だったり星の光だったりがあります。子供と大人の対比というか、僕は基本的に大人という概念を善としては捉えていない節があるのですけれど、だから、何て言うんですかね、見えなくなるということを悪い意味での成長と結びつけてしまう癖があって、癖というか、それは最早僕の価値観の一部そのものなんですけれど、あれだけ必死に追いかけてたのに馬鹿みたいだよなって、そうやって仕方なく笑うのが大人なのかなあ、みたいな。だけど、僕はそれを大人だなんて定義するつもりは更々なくて、だからそれは大人でも子供でもない何かとしか言えないんですが、僕にとっての大人というのは、いまのところ、見えなくなった星を背負っていくことのできる存在のことを示します。必死に追いかけたけど届かなかった、じゃなくて、届かなかったけど必死に追いかけた。いつかの自分を振り返ったときに胸を張ってそう思えるような誰かが、それが大人なんじゃないかなあ、という。たとえ嘘だったとしても、いつかの自分を突き動かした星があったはずで、この世界にいる誰もができることならそれを忘れないでいてほしい、という思いがあります。誰にも届きませんけどね、こんな言葉。でも、誰も忘れないでいたらいいな。そんな世界はきっと綺麗だろうなと思う。何ていうんでしょうね。自分はそんな風に綺麗で透明な存在に対して共感するようです。

 

 

 何でそれが最後なんだと自分でも思いつつ、二月、めちゃくちゃ嫌なことがあったって話を書いて筆を置こうと思うんですけど、先に断っておくとするならば、それ自体はもう僕の中でとっくに完結したことであって、まあ全くもって最悪の形で完結したんですが、ともかくすっかりきっぱり終わった遠い過去の出来事で、では何故このタイミングでそれを蒸し返すのかといえば、それについて書きたかったことがあったからということもあるのですけれど、それ以上に思い出させられたからということがあります。ネガティブなきっかけってわけでもないんですけど、いや、ネガティブなのかな。別に自分がどうこうされたわけじゃなくて、誰かがどうこうしたわけじゃなくて、単にちょっと思い出したってだけなんですが、でもまあネガティブなんだろうと思います。少なくともポジティブではない。

 もしかしたらこれを読む人の中には、以前に僕の口から聞いたことあるなって人がいるかもしれませんけれど、まあ適当に書きます。

 境界線、の話ですよね、つまり。壁? 分かりにくかったら壁でいいです。あの、何て言うんですかね、壁は壁でも見える壁と見えない壁との二種類がこの世界にはあって、その二つのどちらがより残酷かって話です。どっちでしょうね。僕は前者だと思います。見えない壁って具体的に何をどうしたら越えられるのかが分からないじゃないですか。それは、だからある種救いでもあると思っていて、諦められるというか、心理的な距離感とかがこれに類するんですが、何か壁があるのは分かるけどどうしようもないな、みたいな。その壁が向こう側にあるのかこちら側にあるのかは分からないけれど、ともかく何かしらの透明な仕切りがあって、この先へは進めないらしい、みたいな。それは救いだと思うんです。だって、そもそもそんな壁があることに気づきませんから。仮にですけれど、僕の下宿から真っ直ぐに西へ下る道の途中に、明日の朝にでも半透明な壁が作られていたとして、でも僕は多分一ヶ月くらい気づかないでしょうね。わざわざ細い道なんて通らずに、御影に出るので。そこに壁があると知ったら、不自由だなあ、なんて思うのかもしれませんけれど、まず気づきませんし、そして気づかないうちに撤去されてたりするものです、そういうのって。だけど、見える壁だとそうはいかないというか、見たくなくても見えるので、それは本当に残酷なことです。相手にそれを突き付けているということすら当の本人たちは無自覚的なんでしょうけれど、それはさておいたとして、見える壁は見えている側に希望を与えてしまうのがよくない。もう少し大きな槌があれば壊せるのかな、とか、梯子を組み立てれば越えられるかもしれない、とか、そういった類の希望を。無理だったら無理って言えよな、最初から。そう思いません?

 あの日のあの一瞬が本当に最悪で、心底不快で、当時の自分はめちゃくちゃ嫌な顔をしていたと思うんですけれど、自分はあの一瞬ですべてを諦めたというか、別にもう嫌いになってもいいんじゃないかなという気になりました。これも一つの最悪ですよね。書くだけ書いて具体的に何がどうとかは言及しないやつ。わかる。でも、何を書いても攻撃的になりそうなんですよね。何ていうか、上手く伝えられる気がしない。だからまあ、極論どうでもいいんですよね。どうでもいいんですよ、そんなの。別に変わってほしいわけじゃないし、というか変化なんて期待していないし、それに自分がどうこうされたわけでもないので。でも、何て言うんでしょうね。泣いている人がすぐ近くにいたら悲しくなるじゃないですか。みんな笑ってる方がいいでしょう。そういう話なんだと思います。だから、僕はあの日片っ端から関係を切ったわけです。悲しかったから。分かりますか? 分かりませんよね。いいんじゃないですか、それで。

 

(追記)

 ところでこのブログ、開設から一年が経過したらしいです。めでたい。こんなに続くとは思っていなかった、ということはないですね。長々と続けるつもりは確かにありませんでしたけれど、でもどこかで止めるというビジョンも同じようになかったので。もちろん、いまは見えていないというだけで、まあいつかは必然的に終わりを迎えるのでしょうけれど、いまのところ、それはまだ当分先のつもりです。

 当記事も含めて全部で九五もの記事があるらしいです。そんなに書いてたんですね。そんなに書いてもまだ言い足りないと感じる自分がいるというのは、何だかちょっぴり面白いです。

 

 

 

創作最高だなって話をしてもいいですか。

 

 マジでめちゃくちゃ嬉しいことがあったので、ひとまずそのことについての報告をさせてください。

 ちょうどいまから一年前、僕と霧四面体さん*1とで作った楽曲『終末的存在仮説』にカッコイイMVがつきました。有志の方々が作ってくれたようです。本当にありがたいことです。

 

・楽曲『終末的存在仮説』

www.nicovideo.jp

 

・MV

www.youtube.com

 

(よかったら観てください。)

 

 今日のバイト帰りに偶然発見したんですが、見つけた瞬間マジで嬉しすぎて喜びの舞を思いのままに舞っていたら京阪電車が全線運転見合わせになりました。すみません、自分のせいです。

 以前に「この曲でムービーを作っても構いませんか」というお話は頂いていて、それだけでもう十分すぎるくらいに嬉しかったんですけれど、いや、こうして実物を見るとなんかもうあれですね、感情の針がねじれの位置へまで吹き飛んでます。不良品。

 前にも同じことを書いたように思うのですけれど、僕はこういう風にして作品と作品とが繋がっていく瞬間が本当に大好きで、遡れば高一か高二の頃に作った楽曲が音ゲーシュミレーターで遊べる譜面になったときとか、太鼓の達人の公募へ挑戦したこともあったのですが、そのときの曲にムービーを当ててくれた動画がYouTubeに公開されていたときとか、自分の作品を見てくれている人がいるんだなってのもそうなんですけれど、もっとこう、そういう承認めいた何もかもを振り切った先にある感情でこれは、音楽から映像が生まれたり、映像から文章が生まれたり、文章から音楽が生まれたり、そういったどこまでも正の循環を起こすだけの力が創作という営みには宿っていると僕は思っていて、だから、自分がそういう連鎖の一部分になれたんだということが純粋に嬉しかったりします。いやもうマジで嬉しい。心底嬉しい。これだけであと一年は生きていけますね。ここで言っても届かないでしょうけど、制作に携わっていただいた方々、本当にありがとうございました。とても良かったです。

 

 近況について話します。気がつけばブログを二週間ほど放置していました。いや、放置してたってわけじゃないんですけど、特に更新もないのに見てみたら毎日平均五、六人ほどがアクセスしていて、物好きもいるんだなあと思いつつ、更新したいなあとも思いつつ、でもなかなか時間が取れなくて結局何も書けないままでした。だから久々です。このキーボードをバチバチする感覚。

 この間に何をしてたかって話なんですけど、まあ曲を作っていて、その締め切りが今日だったんですよね。一月の中旬くらいから作り始めていた気がするので、まるまる四ヶ月くらいかかってしまったわけですけれど、だけどそれに見合うくらい良い曲になったな~とは思います(自画自賛の手前味噌)。そのうちニコニコへ公開します。歌モノです。

 命削って曲作ってました。というのも、今朝の三時頃、また気絶したんですよね。三月頃にあったのと同じ感じで、意識がホワイトアウトしていくような正しくあれでした。無茶はよくないなあと改めて認識するとともに、でもこの程度の無茶で何かを生み出せるんなら安いもんだな、とも思わなくはないです(反省しろ)。もっと命を削っていこうぜ、みんな。創作ってそういうもんだよ、きっと。

 

 もうじきに発表になるんで書いちゃうんですけど、今回制作していたのは上で紹介した霧四面体さんとの合作だったりします。これもまた後日詳しく書くと思いますけれど、一年を経て二曲目です。いや、本当に楽しい! 他の誰かと一緒に何か一つのものを作るって最高ですね、本当に。僕、音楽サークルの人に(余裕のある範囲で)片っ端から声をかけて合作してるんですけど、これも何かさっきの連鎖の話に繋がっていて、創作って別に一人だけで完結するものでもないと思います。いや、一人でも完結させられますけれど、二人いたっていいという話です。合作は本当に楽しいです。自分にできないことができるようになります。視界の次元が一つ増える感じ。それまでは見えていなかった軸が見えてくる。そんなに楽しいことって他にないなと僕は思うわけです。みんなやりましょう、合作。文章でも出来たらいいんですけど、文章だと構成と執筆とでわけるんですかね。音楽で言うところの作曲と編曲みたいな。ぜひやりたいですね。絶対楽しいよ。

 

 今日はとりあえず、『終末的存在仮説』のムービーを見れたことと、霧四面体さんとの合作が無事完成したことの二つが何よりも嬉しかったって話で終わりです。

 創作、いいですね、やっぱり。できることなら一生こんな風に生きていきたいです。

 

 

 

*1:吉田音楽製作所の先輩です。僕がとても尊敬(?)している方です。

白紙の数十秒

 

 ふとした瞬間に考えることとして、意味があります。意味。価値。理由。存在。あてがう言葉は、まあ何だっていいのですけれど、自分にとっては意味という表現が何よりも適切だという気がしているので、僕はそれを意味と呼んでいます。しかし本当のことを言えば、どれもどこかしらで食い違っているような感覚もあって、つまり、その空想には意味という枠をはみ出した意味があるようにも思います。そうであってほしいだけかもしれませんけれど、ともかく、意味という名前以上の名前を思いつくことが僕にはできないので、僕はそれを意味と呼びます。

 

 中古屋で売られているCD。一面に陳列された夥しい数の書籍。高々百円程度のイヤホン。もう聴かなくなったアイドルソング。忽然と姿を消した立て看板。街の呼吸に埋もれた選挙ポスター。投げ捨てるように停められた大量の自転車。部屋の隅に忘れられたペットボトル。結局一度も行っていないラーメン屋。どこかの誰かが持っていった黒い傘。いつでも繋がっていられる携帯端末。視界を一直線に横切った五線譜みたいな電線。誰も知らない真夜中の赤信号。光を捻じ曲げて生まれた空の透明。光さえ届かない深くに沈んだ海の幽霊。仄暗い雲に隠された白金色の恒星。白金色が抱えているたった一つの嘘。差した傘を激しく打ちつける雨の悲鳴。触れたら消えてしまった雪の温度。曲がり角の向こう側に転がっている無数の未来。自分のすぐ後ろを影みたく追いかけてくる無数の過去。両親から与えられた記号としての自分。自身で定義した架空存在としての自分。そういったすべてを悲しく思ったり、何とも思わなかったり、そんなことを繰り返す毎日。

 

 そこには意味があってほしい。そこには価値があってほしい。そこには理由があってほしい。いつからか、そんな風に願いながら生きるようになったような気がします。埃を被るというのは必ずしも悪いことじゃないんだろうと思います。時の流れというやつはいつもどこでも普遍的で、形あるものはすべて滅んでゆくわけで、そんなことはわざわざ言われなくとも誰だって知っているわけで、僕の知っている曲に埃と誇りとを引っかけたものがありますが、だから埃を被るというのは、それはそれでいいことなんだろうと思うのです。お役御免というか任期満了というか、寿退社みたいな、そういう終わり方であってくれたらいい。そうであってほしい。本屋へ行くといつも思うこととして、誰にも読まれない作品だってきっとあるのだろうな、というものがあります。横幅数十メートルで五段くらいを備えた本棚が、一つのフロアに一五個設置されているとして、八階建てなら一二〇個。その一つひとつにびっしりと本が詰められているわけで、そう考えると何だか悲しくなってきませんか。別に共感してもらわなくてもいいんですけど、何というか、だから、その本棚に並んでいるだけの意味が、価値が、理由があってくれたらいいなと思うわけです。埃を被っているのならそれはそれでいいのですけれど、そうならもう誰の手も触れないでいてほしい。本棚なんて場所じゃなくて、もっと静かな場所で眠っていてほしい。本屋へ行くと、いつもそういうことを考えます。空も、恒星も、雪も、他も全部同じような感じです。誰かが同じ空を見上げていてほしいけれど、それが叶わないのなら空なんて一生曇っていて構わない。誰かがあの恒星を見つけてくれていたなら嬉しいけれど、誰も気がつかないのなら街はもっと明るいままでいい。誰かが雪の突き刺すような白と純粋な冷たさとを愛していればいいけれど、歩道を傘が埋めるのならそれはアスファルトだけが知っていればいい。そんな気持ちになります。空の話も、星の話も、何なら雪の話だって、このブログでは幾度となく取り上げてきましたけれど、僕はずっとこういったことを考えながら書いていたりします。誰の手も届かないほど遠くに在ればいい。あの言葉はこういう意味です。あんなにも綺麗な透明を誰も見つけられないのなら、永遠に見つからないでいてほしい。曲がり角の先の魔女と同じです。彼らにだって、僕らと同じように理想がある。

 

 どうせ誰にも伝わらないんだろうな、と思いながらいまもこうして文章を書いています。それは誰かに何かを伝えたいからです。意味なんてない、なんてことは言えませんし、言うつもりもありません。意味はあります。解ってほしいわけじゃない。知っていてほしい。忘れてしまっても構わないから、それでも覚えていてほしい。解ったような気になってくれたらいい。たとえば、道端に停められた自転車を見て、そういやあいつが何か言ってたなって、その程度でいいんですよね。たったそれだけのことを夢に見ながら、まあそんなこんなで一年近くブログを続けてきました。多分これからも続けていくと思います。

 

 僕はそれを夢だとは思っていないし、奇跡だとも思っていないし、いつかはそうなるんじゃないかなと期待しながら生きています。嘘でもいいから、綺麗な嘘ばかりが飽和した世界になればいいと願って、それだけを期待しながら生きています。この話だって、これまでに何度だって書いてきましたけれど、だけどまあ、もうそろそろ解ってきた頃合いというか、なんなら一年続けるまでもありませんでしたよね。去年の夏には薄々解っていたし、冬にはいよいよ目を逸らせなくなって、それでもまだ続けています。どうすれば楽になれるかなんて知っていて、だけどそんなことに意味はなくて、だから今もこうして呼吸が続いているし、続けてもいるし、そうして僕は真夜中の赤信号に立ち止まるわけです。たとえ誰が見ていなくたって、それで世界が一人分でも透明に近づくのなら、白紙の数十秒でさえ僕は嬉しく思います。たとえ誰の理想を踏みにじったって、どこまでも直線的な青空の理想を僕は愛しているし、赤信号の理想だって同じように愛せるし、だから自分の理想を強く信じて生きています。案外変わりませんね。僕も。周りの人たちも。

 

 

 

同じ空を見ていなくとも

 

 

 青色は幸せの象徴だと思う、みたいなことを試しに言ってみたら秒で否定されたという経験があります。否定? 否定っつうか、何ですかね、もっと別の見方があるくない? みたいな。たとえば、真っ青と言うと具合が悪いという様を想像するし、青いという言葉は未熟という意味でも用いられるし、まあ言われてみればそれはその通りなんですけど、でもそれはそれとして、青という色を目前にしたときにそういった負の連想がそもそも湧き上がらないという話を僕はしたくて、それは青に限らず色全般に言えることですが、血の気が引いている様とか何だとかを比喩的に表す色として青へ向かって矢印が伸びているというイメージがあって、そしてその遷移は不可逆的というか一方通行というか、要するに、青とそれらとはたしかに結びついているけれど、ほとんど無関係という感じがするんですよね。だけどまあ、それを言えばこと幸せに関しても同様で、だから結局は主観の話になってしまうわけですけれど、僕にとってのそれが幸福です。チルチルとミチル、はその実なんの関係もないわけですけれど、でも似てはいますね。青とは幸福の象徴であり、ずっとそれだけを追いかけていて、一生かけても届かない。そういう色ですよね、青ってやつは。

 

 身近な誰かが何を信じて生きているかとか、そんなことを話す機会なんてものは今後一生ないんじゃないかな、という気がします。だって、知りませんし。というか、みんな案外何も信じずに生きてるんじゃないかな、という気さえします。僕が野球や政治に全く興味がないのと同じ感じで、だからどの組も支持していないのと同じ感じで、貴方は何を信じていますかという問いに対して、自分の中でそれなりの筋が通った思考の下で何か一つのものを挙げられる人。いるんですかね、そんな人。もしいるとすると、それは盲目ですよね、最早。この世には楽しいことなんて他にもいくらだってあるんですよ、多分。美しい風景も、耳を塞ぎたくなるような言葉と同じくらいにはありふれている。それなのにたった一つだけって、そんなことあるんですかね。でもまあ、あるんでしょうね、人によっては。だから、そういう話を聞いてみたいですよね、僕の身近にいてくれている人達から。無いんだったら無いで全く構わないんですけど、信仰なんて持っていて都合のいいものかといえばそうでもないし、だけどまあ、あるなら是非とも聞いてみたい。無理にとは言わないし、だからこちらから話を振ることもないわけだけれど、いつかそんな感じの話をできる誰かが現れてくれたら素敵だな、と思わなくはないです。一個下の彼らとかからは何というかそんな感じの雰囲気を感じていて、だからもっと仲良くなれたらいいなあと思ってるんですけど、思ってるだけです。

 

 人はよく何かを別の何かに喩えるじゃないですか。僕にとっての青空も、空の青さもきっとそんな感じで、繋がっているはずもない全く別の何かと結びついてしまっているような感覚があります。青空は、たとえば彼のことなんでしょうか。はっきりとは断ぜませんけれど、何となくそんな気がします。空の青さは、曰く恋の正体だとか。青空の理想って何なんでしょうね。僕はそんなこと知りもしませんけれど、それはどこまでも真っ直ぐだという感覚を勝手に覚えています。とはいえ空ほど立体的な概念もそうそうないという気がしますけれど、僕が空から真っ先に連想する図形といえば直線です。次点で球面。天球とか言いますし。青空の幸福って何なんでしょう。それが僕の幸福でないことだけは確かなんですが、でもまあ、それを一方的に定義しようとしている時点で、それはやっぱり僕の幸福なのかもしれません。遠くに在ればいいですよね。ずっと遠くに在ればいい。僕とよく話す人はすっかり聞き飽きていることかと思いますけれど、何にしても手なんて届かない方がいい。触れられない方がいい。空も、月も、星も。それがここからは遠く離れたどこかにあるから好きでいられるし、だからせめて自分が終わる瞬間まではそうであってほしいと思う。そんな感覚、ありません? 青空だなんて抽象化された対象でなくとも、僕は似たようなことをよく思います。二次元平面上のキャラクターとか。こいつがもしも現実にいたら絶対嫌いになる、というキャラクターを、だけど好きになったりすることがあるでしょう。それです。ちょっと違うけど、似たような感じです。それが青空の幸福であってほしいですね。別に、あいつはあいつの好きなように生きればいいと思うんですけど、いや本当に。

 

「そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す 指先にそっと触れた白も掴めないよ 僕なんかじゃ」

 

 これは以前自分で書いた歌詞なんですけど、書いたというか、どちらかといえば零れ落ちてきたみたいな感覚が正しくて、それはこのフレーズを書こうと思って書いたわけじゃなく、ふと口ずさんだ言葉がこれだったという意味なんですが、ともかく、九ヶ月くらい前の自分が書いた歌詞です。これも結局何というか、多分そういう話で、触れた白が何かといえばそれがつまりは青空で、夏の温度で、届きたくなんてなかったのに、でも頑張って手を伸ばせば届いてしまうほど近くにそれはあって、だから思い切り手を伸ばしてみて、それでも掴めなくて、ああやっぱり駄目だったって、それだけのことだったんだろうなと思います。当時の自分が何を思っていたのかなんて知りませんけれど、まあ、そういうことなんでしょうね。自分の曲の歌詞について話すの、どうしてもやっちゃうなあ。

 

 青空なんてどうでもいいですよね。どうでもよくはないけれど、やっぱりどうでもいい。青空の理想なんて知りませんし、幸せかどうかも知りませんし、というか関係ありませんし、空の青さがないと生きていけないなんてことも全くないように思います。曇り空が続いたって、何だかんだへらへら笑いながら生きていくんだろうなという気がします。それでいいんじゃないかとも思います。何て言うんですかね。本当にそれはそれでいいことだと思ってるんです。思ってるんですけど、今更そうはなれないよなという思いもあります。曖昧になって生きてけたならいいのに、というのは某後輩の言葉ですけれど、僕個人の話で言えば、曖昧になんてなりたくないという気持ちもそれなりの強度を持っていて、何だかんだ彼もそうなんじゃないかなと思ったりしていますけど、何もかも曖昧になって、空の青さなんて忘れて、それで笑って死んでいけたとして、果たしてそれでいいのかなあという思いがあります。もし青空を知らずに今日までを生きてきたとすると、もしかしたらそんな一生もあり得たのかもしれませんけれど、出会ってしまった以上は仕方がないというか、出会えたことを忘れたくないというか、なんかそんな感じです。そういえば、そんな感じの歌詞も昔に書きましたね。一年前、僕が初めて書き切った歌詞がちょうどそういった話でした。

 

 私たちは同じ空を見ているわけじゃない。どうでもいいと笑いながら、なおも信じている青空の色を、他の誰かも同じように見ているとは限らない。それを直線だという人がいれば、平面だという人がいるし、空間だという人がいる。当たり前。その色を爽やかだという人がいれば、寒々しいという人がいるし、取るに足らないという人がいる。当たり前。だから、それでいいと思うんですよ。誰かと一緒に同じ空を見たいだなんて願ったことはない。頭上に張りついた空色を眺めながら、同じ空を見ていなくとも、だけどとても綺麗な色だって笑いあえたなら、もうそれだけで十分じゃないですか。解りあう必要なんてなくて、眼前に広がるのは全く普遍な空模様なんだと、そんな勘違いを抱えたままで歩いていけたら、もうそれだけで十分じゃないですか。そんな気がしますよね。透き通るような青も、深く滲んだような赤も、吸い込まれるような黒も、全部一緒くたに綺麗な色だと受け入れて、透明色のことを追いかけながら、透明色のことなんて忘れた風に、そうやって生きていけたらいいですよね。そんな感じで生きていきたいです。

 

 ここまでの何もかもが嘘で、何もかもが本当のことです。人はよく何かを別の何かに喩えるじゃないですか。だから全部が比喩で、でも全部が比喩じゃありません。これは、つまりそういう話です。

 

 

 

どこまでも透明な君の青が

 

 

 ちょうど一年くらい前、僕は君に宛てて一通の手紙を書いたはずだ。そこに書いた言葉の一つ一つを思い出すことは、いまとなってはとても難しいことだけれど、それでも必死に考えて文字を綴ったことだけは覚えている。だけど、いまにして思えば、この台詞も随分と嘘っぽい。というのも、以前、手紙を書いたことなんてほとんどないから文通に憧れる、みたいなことをどこかに書いたような気がするんだ。要するに、忘れていた。忘れていたというか、綺麗に抜け落ちていたというか、いずれにせよ、あの手紙は僕にとってその程度のものでしかなかったのだろうと思う。返事はなかったと記憶している。まあ、もとより期待なんてしていなかったけれど、というか、あれほど一方的な告白文に返答を寄越されても、むしろ困る。いったいどんな反応をしたらいいのか分からない。僕は君のことが好きだった。いまも好きだ。それは手の中に在って当然の感情で、繰り返される日々の中で、だから忘れ去ってしまう程度には君のことが好きだ。君が僕のことをどう思っていたのかは知らない。きっと何とも思っていなかったのだと思うけれど。言ってしまえば、これはそれだけの話だ。

 

 ずっと追いかけていた何かを手に入れても、なんだか満たされないような感覚があるんだよ。一年間浪人して、やっとの思いで第一志望の大学へ来て、だけどまだ足りない。ずっと憧れていたサークルに入って、そこで自分の作品がそれなりに評価されて、だけどまだ足りない。自分なんかよりよっぽど優れた人たちに出会って、色んな物を分けてもらって、だけどまだ足りない。そのどれもが本当に嬉しくて、その感情は紛うことなく純然たる熱を帯びていて、だけどまだ足りない。何が足りない? ここじゃないどこかに行けたのなら、何かが変わるのか? 自分じゃない誰かになれたのなら、何かが変わるのか? そう自問してみて、でもすぐに首を横に振る。多分、何も変わらない。そんなことは分かっている。だけど、だから、考える。自分には何が足りない? 自分は何を欲しがっている? いったい何があればいいんだ?

 

 寝るつもりだったんだよ、本当はさ。今日の予定は早めに切り上げて、一七時を過ぎたくらいにはベッドの上で深い夢を見ているはずだった。疲れていた、というか、前日にあまり眠れなかったんだ。だから、帰ってすぐに寝るつもりだった。本当は。

 

 ところが、最寄りの駅を出てすぐというタイミングで話が変わった。宗教勧誘を受けたんだ。宗教勧誘というか、何だろうな、僕は宗教って言葉があまり好きじゃないから使いたくないんだけど、でも傍から見ればあれはただの宗教勧誘だっただろうな、と思う。駅の階段のすぐ手前で話していたから、道行く人達に結構な回数、視線を向けられたよ。巻き込まれて可哀想に、と憐れんでいたのかな。あるいは単に迷惑がっていたのか、それともいかにも勧誘という雰囲気だけで拒絶反応が出ていたのか。まあ別に、気にはならなかったけど、断っておくと、僕は声をかけられたことを迷惑だとは思わなかった。だけど、帰って早く寝たいなあとは思った。彼らは三人組だった。

 

 そこで立ち止まったまま、四〇分くらい話していた。どうやら彼らはキリスト教の信者らしかった。彼らは大した関心も寄せていなさそうな僕に向けて、福音だとか洗礼だとか、どこの国の言語かもわからないカタカナ言葉とかを並べていた。熱心だなあ、と思った。一人は左足を捻挫していたようで、松葉杖を支えにしながら、それでも言葉を尽くして語ってくれた。人間という存在は、肉体と魂と、それに加えて霊と呼ばれる部分を合わせた三層に分かれていて、我々人間が何をしても満たされないのは、その霊の部分が空っぽだからだと彼らは言った。そして、何かしらの言葉を唱えると神が、つまりイエス・キリストが降臨して空っぽの霊を満たしてくれるのだと、彼らの主張を大雑把に要約すると概ねこのようだった。人によってはこういうことを嫌うのだろうな、と思いながら聞いていた。現に、そのことは道行く人々の目が雄弁に物語っていた。神なんて馬鹿馬鹿しい。救いなんてどこにある。騙されているだけ。勝手に語ってろ。そんな感じの空気を周囲から何となく感じながら、僕は適当に相槌を打っていた。なるほど。まあ、そういう解釈もできますね。そんな感じのことを言っていた。

 

 悪い気はしなかった。早く帰って眠りたかったというのは勿論本心だけれど、でも人と何かを話すのは嫌いじゃない。あのニュースがどうだとか、このコンテンツはどうだとか、巷に溢れかえっている有象無象に比べれば、よっぽど有意義な会話だったと思う。というか、そうじゃないなら四〇分も話したりはしない。適当なところで話を切って、そこで終わりにすればいいのだから。そうしなかったのは、ひとえに彼らの話が興味深かった故だ。

 

 彼らの中に在る、神によって救われたという信仰を、しかし僕は全く信じていない。神? 神だって? いてたまるか、そんな奴。聖書の中の神みたく便利で有難い存在は、少なくとも僕の世界においては影一つさえ与えられていない。信じているとか疑っているとかの次元じゃない。そもそもいないんだ、そんな奴は。でも、だからって、彼らの信仰を否定しようという気も全くない。彼らの世界には、いわゆる神様がきっといるのだろう。だから、彼らはあんなにも真っ直ぐに神の存在を肯定する。その信仰を誰かに伝えることを憚らない。幾つか交わされた会話の中で、僕は一つ、彼らに尋ねてみた。そうやって信じている神の存在を疑ったことは一度もないのか? 救われる前のことじゃない。救われたという信仰が生じたその後に、あんなものは嘘だったんじゃないかと、どうしようもない疑念が鎌首を擡げた瞬間はないのか? そう訊いてみた。すると、彼らは答えた。当然ある。本当に駄目になりそうになったとき、たとえば苦しみが連なった波に呑まれそうになったとき、ふと気がつけば神の存在を疑っている。いつも側にいるなんて宣ったくせに、今ここで苦しんでいる私をどうして救ってくれないんだと呪う。だけど、すぐに思い改める。それは苦の闇が視界を覆い隠してしまっているだけであって、やはり神はいつだって隣にいてくれている。そのことに思い至る瞬間が必ずある。そうして、私たちは再び救われる。一人じゃない。神がいてくれるから、私たちは歩いていける。そんな感じのことを、やはり熱を帯びた口調で、彼らは答えてくれた。僕はその言葉を聞いて、思わず笑った。安心したんだよ。望んだ通りの言葉が返ってきて、そのことがちょっとだけ嬉しかったんだ。分かるかい? 君には分かってほしいけれど、分からないというのならそれで構わない。とにかく、安心したんだ。

 

 彼らの話は十分に納得のいくものだった。肉体だとか魂だとか霊だとか、そんなものは全く信じていない。だけど、それは多分言葉が違うだけだ。彼らが言うところの霊は、僕が言うところの空っぽだ。満たされない何かだ。自分の中に漠然と浮かぶ像を、誰かにそのまま伝えることは難しい。そんなことは誰だって知っている。だから、彼らはそれに解釈を与え、名前を与え、姿かたちを与えた。人間の精神はこういった三層構造になっていて、各部分には名前がついていて、このような役割があって、そして肝要な部分は最も中心にある霊と呼ばれる部分です。そうやって図を用いて説明すれば、聞くつもりさえあればどんな馬鹿でも分かる。彼らが、あるいはキリスト教信者が勝手に与えた名前なのだから、僕の辞書と食い違うのは当たり前のことだ。でも、だからってその空白の息遣いを知らないわけじゃない。そういう意味で、恐らく言葉が違うだけだと思う。本当のことを言えば、一つの側面が一致しているだけで、その他無数の要素は相反していたりいなかったりするのだろうけれど、一つでも一致しているということが重要だ。彼らは霊と呼んだ。僕は空っぽと呼んだ。それだけの違いだ。

 

 彼らの話を聞きながら考えた。自分の空っぽを満たし得るものは何なのだろう? 彼らの場合、それは神だった。でも、残念ながら僕の世界にそんな奴はいない。だから、僕の空っぽを満たすものは神ではあり得ない。じゃあ、何だ? ずっと信じている何か。いつもすぐ側にあって、だけどふとした瞬間に見失ってしまって、その度に拾い上げて、また落として、そんなことを繰り返しているもの。それはいったい何だろう? そう考えた。だけど、すぐに思い当たったよ。そして、ちょうどそのときに、君に宛てた手紙のことを思い出したんだ。当たり前すぎて、やっぱり忘れていた。本当のことを言えば忘れてなんかいなかったけれど、だけどやっぱり忘れていたのだろうな。そうして君のことを思い出して、だからこそ僕は彼らに尋ねたんだよ。神に救われたという信仰を疑ったことはあるか? そして彼らは肯定した。だから僕は安心した。どういうことか、そろそろ分かってきた頃かな。

 

 僕と彼らはよく似ている。同じような何かを強く信じている。透明な何かを信じて生きている。どうしようもない空白の核として、その透明を内側に宿している。彼らの場合はそれが神の救いで、僕の場合はまた違うわけだけれど、だけどまあ同じようなものだろうと思う。

 

 でも、僕と彼らとは全く違う。まるっきり真逆だ。彼らは一緒に歩いていると言った。一人じゃない。神がいるから歩いていける。そう言った。だから、真逆だ。僕はたしかに何か透明なものを信じて生きているけれど、近くにあってほしいなんて願ったことは一度もない。それは誰の手も決して届かないほどに遠く離れた場所に在ればいい。彼らは空白の中に神を呼び込み、それによって満たされると言っていた。それもまた真逆だ。僕は空白の外に広がった透明に焦がれて生きている。彼らの話を聞きながら、そう思った。真逆だ。どうにもならない空白を本当に満たしたいのか? 自分には何かが足りないと思う。だから何かを欲しがっているのだろうと考えた。だけど、本当にそうか? 何かを手に入れたって、どうせまた真夜中の欠落感に苛まれるんだ。知っている。知っているはずだ。結局のところ、彼らの話を聞いて感じたことといえば、つまりはそういうことなんだ。この空っぽをそんなにも簡単に満たしてしまってたまるか。そう思ったんだ。

 

 欠落を愛して生きていくのなんて無理な話だと思う。嫌なことは嫌だし、苦しいものは苦しいし、泣きたくなるし、でも泣けないし、そんな夜をこの先もずっと繰り返して生きていくのだろうと思う。いっそこの手が届けばいいのにとか、君の色を忘れてしまえたらとか、そんなことも何度だって考えるだろうと思う。でも、どうしようもないよな、そんなことはさ。この空っぽを君以外の何かで埋められるだろうか、と考えてみる。案外埋められるのかもしれないな、と思う。それこそ神様みたいな、そういう便利で有難いジョーカーみたいな存在が、この世界のどこかには転がっているのかもしれない。これからも続いていくそう短くはないはずの旅路で、そんな何かに出会わないとも限らない。だから、違う。考えるべきは、この空っぽを君以外の何かで埋めてしまいたいのか、ということだ。だけど、それは考えるまでもない。そんなはずがない。想像するに、それは最悪だ。君が残してくれた最初で最後の透明を、自分で真っ黒に塗りつぶしてしまうようなことはしたくない。それなら、ずっと抱えたままで生きていきたいと思う。そうやって生きていけたらいいと思う。何かが足りないような気がしたまま、そうやって死んでいけたらいいと思う。この空っぽを満たす必要なんてどこにもないんだ。だって、もうこんなにも重いから。これ以上、何も要らない。

 

 どうなんだろう。他の誰かが聞いたら大声上げて笑うんだろうな、こんな感情。誰に明かすつもりもないけどさ、どうせ解ってもらえないだろうし。それに僕は彼らのような布教活動をしたいわけでも全くない。君の透明は僕だけが知っていればいいと思う。だからって、独り占めしたいってわけじゃない。そもそも君は僕一人のための存在ではないし、何をどうするかなんて君が勝手に決めればいい。そんなことはどうだっていいんだ。君の理想を知っている誰かがいたなら、それは本当に喜ばしいことだと思うけれど、だからって僕が君に代わってそれを言いふらすなんてこともない。僕は僕、君は君だ。そこには何の関係もない。他人。別物。相容れない二つ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 だから、君は君の好きなように生きろよ。僕だって僕の好きなように生きる。それでいいだろ。君がどこで何をしているかなんて知らない。君だって、僕がどこで何をしているかなんて知らない。お互い背を向けてさ、そうやって道が途絶える最期の瞬間まで、ずっと前だけを向いて歩いていこうぜ。君の理想みたく、真っ直ぐ、直線的に、どこまでも。決して満たされない空っぽを抱えて、そんな空っぽに宿った透明色の質量と一緒に歩いていこうぜ。どうしようもなく最低の人生を、こんなのは最低だと呪いながら生きていこうぜ。そうやって死んでいけたのなら、それがきっと最高だ。決して届かなくたって、君の透明さえ忘れずに生きていけるのなら、どんなに最低な人生もきっと最高だ。

 

 ずっと前から知っていた。僕は君が大好きだ。信仰していると言ってもいい。言ってもいいけれど、できれば言いたくない。何度忘れても決して消えない感情を、透明な何かに手を伸ばそうとする感情を、信仰だなんて無意味に堅い言葉で表したくはない。だから、そういった綺麗な透明を、どこにもない色を探し続ける透明を、僕らは恋と呼んで生きていこうぜ。どんなに遠くたって、どんなに悲しくたって、どんなに満たされなくたって、それが恋なんだと信じて歩いていこうぜ。なあ、青空。どこまでも透明な君の青が恋の正体なんだと、そう笑って死んでいこうぜ。

 

 

 

集団自殺

 

 

 言いたいことがあって、つまり書きたいことがあって、そのために深夜三時にも関わらずwordを立ち上げたわけですけれど、いざ何かを書こうとするとどこから話せばいいのか分からなくなってしまって、結局こんな書き出しになってしまいました。話したいことがないわけでは決してなくて、話し尽くしたという感覚もそれほどなくて、だからそういう意味で困っているわけではないんですが、何て言うんでしょうね、多分自分でも何が言いたいのか分かってないんだと思います。ポケットの中を弄っているような感じです。そこに何かが入っていることは分かるけれど、でもそれが何なのかは分からないというような、別にその正体を知っていなきゃ困るということもないけれど、だけどこの目で確かめないと何だか気持ちが悪い。そんな感じです。

 

 河野裕の階段島シリーズには、一〇〇万回生きた猫、もといナドという人物が登場するのですけれど、このシリーズを初めて読んだとき、僕は彼の設定を面白いなと思いました。彼はどうやら二人以上の人と同時に会話することが出来ないらしく、というのも自分を自分自身として定義したままでは他人との会話が困難なようで、彼はこれから誰と話すのかによって異なった自分自身を定義してます。主人公の前に現れる彼は一貫して「一〇〇回生きた猫」であろうとします。そういった彼のスタンスを、当時の僕は本当に面白いと感じて、いったいどこからこんな設定を思いつくんだろうと思ったものですけれど、最近になって何となくその感覚が少しずつ分かってきたような気がして、というか気づいていなかっただけできっと随分昔から知っていて、大勢の人の中にいると自分が何なのか解らなくなってくるようなあの感じ、あれのことなのかなあと思ったり思わなかったりします。多分違うとは思いますけど。僕と付き合いの長い人は知っていることだと思うんですが、僕は基本的に自分から話すことをしなくて、正しくは話しかけることをしないんですけど、誰かと二人きりだと割と普通に話したりもして、そんな自分のあれこれと何となく似てるなあとか思わなかったり思ったりしています。なんか、謎に盛り上がってる空間とか、ああいう場所でどういった立ち振る舞いをしたらいいのかが解らなくて、いや、別に溶け込みたいとは露ほども思っていないんですけど、何なんですかね、こう、よく分からないですよね、ああいうの。多分嫌いなんでしょうね。もうすっかり手遅れというくらいには。

 

 自分勝手だよなあ、と思うんですよね。我儘。幼稚。どれも自分のことです。大人になるって何なんでしょうね。二〇歳を過ぎたら神様が認定してくれたりしませんかね。貴方はもう十分に大人です。夢なんて見ずに堅実に生きていきましょう、みたいな、そんな感じのお節介な判を押してくれたりしませんかね。そしたらきっとすぐに死ねるんだろうなと思うんですよ。物理的にじゃなくて、精神的に。何もかも諦めて、馬鹿で麻痺した日常に埋もれて、空の青さなんかも何もかも綺麗に忘れてしまって、そうやって生きていけるんだろうなと思うんです。お前はもう夢なんて見れないんだぞって、さっさと突き放してくれたらいいのに、なのに中途半端な距離を挟んだ向こう側に飴玉みたいな希望が一つ二つ転がっていたりして、かといってそれを必死に追いかけようとするわけでもなくて、そんなすぐに走らなくてもいつかは届くだろみたいな、そうやってまた一日また一日と現実的な死へ向かって歩いていく日々は、いったい何なんでしょうね。だって空は今日も青いじゃん、みたいな。別に今すぐそれに届かなくたって、あいつはずっといなくならないから大丈夫だよ、みたいな。そうして延々と迷い続けるくらいなら、いっそ空なんて曇ったままでいいですよね。電線もいらない。星も見えなくていい。自分だっていなくていい。名前の海に溺れたままで、有象無象の部品として生きていけたらもうそれで構わない。自暴自棄と同じような、だけど本当はすっかり真逆の、そんな気持ちになりませんか?

 

 

 大人になるって自殺とほとんど同義だと思うんですよ。そんな感じがしませんか。僕はします。嫌なことを嫌だと思う自分を殺して、良いことを良いと思う自分を殺して、そのことにいったい何の意味があるんだろうと思うんですよね。なんか、そんなことばっかりじゃないですか、ここしばらくずっと。僕の周りが、とかじゃなくて社会が、世界が。どうしてそんなことを、と叫びたくなるようなことばかりじゃないですか。どこもかしこも、酩酊した享楽色に染まっているような、そんな感じがするじゃないですか。だから、もうそろそろよくないですか。こんなことを言うのはあれですけど、疲れてるんですよね、何か、そんなこんなが続いてて。何だろうな。本当に悲しくなってくる。悲しい。だからずっと疲れてる。どうしてこんなにもつまらないんだろう。どうしてもっと良くならないんだろう。世界はもっと綺麗になるはずなのに、どうしてこんなにも。その言葉をずっと繰り返している。何年も前から。空はあんなにも透明色で、戦争がなくなる理由なんてそれだけで十分だと思うんですけど。何ともなりませんかね。なりませんよね。知ってます。だったら、もうそれでいい。それでいいから、もう十分に痛いほどに解ったから、いっそ一思いに殺してくれ。そんな気持ちになりませんか?