他人の歌詞を勝手に読むやつ1

  

 前々から吉音(僕が所属しているサークル)の人たちが書いた歌詞を自分がどう読んだか話すやつをやりたいなと考えていて、それは自分が歌詞を書くようになったからということもあるんですが、そんなわけでついに勝手にやることに決めました。その曲を聴いて自分が得たことをアウトプットするという側面も含めて、決して無意味ではないんじゃないかなあと思ったので。

 

 

冬の空に祈りを / コサメガ

www.nicovideo.jp

 

【歌詞】

いつもの道

色づく息

予感に騒ぐ街並み

 

かじかむ手で

ハンドル握りしめ

もうそこまで来てる

 

上り坂グッとペダル踏みしめ

静かに迫り来る向こう側に

雲居に映る明日に祈りを

遙か風が見える

 

青すぎる青空に

巡る世界の冷たさに

立ちすくみ 凍えてしまわぬように

真っ白な 感覚を

やがて溶けゆく輝きを

この胸に刻み付けて確かめたい

 

ビルの窓に

きらめく月

ミラーに映る裏路地

 

ぼやける目で

街灯見下ろして

もう先は見えてる

 

下り坂フッと投げ出す足を

さらっていく風の止む前に

散る残り香に昨日を探すも

夜の闇に消える

 

遠ざかる星空に

眠る世界の静けさに

意味も無く 見とれてしまう度に

繰り返す選択も

やけに見慣れたこの道も

あの星に見る夢に忘れたくなる

 

最高速度で受ける風を

冷めるほどに感じるの熱を

染み込んだ匂いを吐く息を

あきびんに閉じ込めて

「これが私の全て」なんて

こぼした あの冬の夜

 

消えかけの白線に

残るはずもない轍に

気を取られ迷ってしまわぬように

方角のない地図を

どこへも行けないとしても

いつまでも抱きしめていられますように

 

青すぎる青空に

巡る世界の冷たさに

立ちすくみ 凍えてしまわぬように

真っ白な感覚を

やがて溶けゆく輝きを

この胸に刻み付けて確かめたい

 

 

【コメント】

 この曲はTwitterでも一度触れたんですけど、やっぱりちゃんと書いておきたいなと思ったので、まず最初にまとめることにしました。

 

・一番Aメロ(「いつもの道~もうそこまで来てる」)

 この導入部分は、僕が吉音へ所属してからこれまでに見た吉音曲の歌詞の中だと、一二を争うくらいには好きです。こういうの、本人は何も考えずに書いてたりするんだろうなあ、と思うとそれだけで鬱になりますよね、本当に。

「いつもの道」と断ってから「色づく息」、「予感に騒ぐ街並み」と続くので、その「いつも」が徐々に、それも比較的良い方向に変わり始めているんだな、という予想がまず立ちます。よく見かけるやつです。個人的に好きなのは「色づく息」という言い回しです。これ、まあ冬の唄なので多分吐息が白くなることを言っているのだろうとは思うんですけど、「色づく」という言葉には(個人的に)肯定的な変化のニュアンス(有体に言えば期待感)があるような気がするので、それが後に続く「予感」が少なくとも悪いものではないことを裏付けているような感じがあります。この辺は言語センスの問題だなあ、という感じですね。いい。

「かじかむ手で ハンドル握りしめ」の部分までで、大体の情景を頭の中に思い浮かべられるのがすごいですよね、本当に。通い慣れた道があって、白い息を吐く自分がいて、周りには変化の到来に浮かれる街があって、もしかしたらクリスマスの時期みたいなイルミネーションとかあったりもするんですかね、冬ですし。そこで自分は自転車(この時点ではもしかしたらバイクかもしれない)に乗っていて、別に手を添えておけばいいハンドルをわざわざ握りしめている、そんな状況。これがたったの三一文字なんですよね。意味わからなさすぎ、短歌か? 歌詞は最初のうちにどれだけ世界観を固定させられるかが勝負だと個人的には思っていて、それは状況を説明することであったり比喩を用いることであったり、あるいは言葉選びを少し尖ったものにしたり、方法は様々ですけれど、しかしその点で言えば、この曲の冒頭五行は最適解だなあ、と思いました。

「もうそこまで来てる」がトドメの一文です。これ、読んだ人によって何がそこまで来てるのかというのが変わるんじゃないかなあと思うんですけど、どうなんでしょう。まあ何にせよ、この一文は本当にどこから出てきたんだろう、という気持ちでした、最初は。他に何か文章を入れてみようとしても、代案が全く思いつかないんですよね、この部分。自分の中にある指標として、それはつまりbest possibleを意味するので、コサメガ君すごいなあ、って感じです。いや、ホントに。

 

・一番Bメロ(「上り坂~遥か風が見える」)

 一番Aメロの「ハンドル握りしめ」からちゃんと繋がっているのがいいですよね。

 続く「静かに迫り来る向こう側に」が現実世界から内面世界への橋渡しになっているような気がします。気がするだけです。ここら辺、まだふわっとしか呑み込めていなくて、なかなか説明するのが難しいというか、何というか。自転車に乗って、上り坂を上って、その先を目指しているわけですよね。そうすれば当然いつかは上り終えてしまうわけですけれど、そのことを「静かに迫り来る」と表現しているのがなんだか不思議ですよね。多分、何も考えずに書いたんだろうなと思う(これで意図的に書かれた文章だったらマジで最悪すぎる)のですけれど、本人にとってはそんな風に見えていたんだとしたら、それは本当に面白いなと思ったり思わなかったり。

「雲居に映る明日に祈りを」is 何? なんもわからん。まあ、でも、何なんだろ。多分、この曲の根幹部分に青空とか星みたいなファクターがあるんだろうな、と思います。後述のサビでも出てきますし、何なら片方は曲名にも書いてあるし、雲の隙間から見えるものって、青空とか星くらいしかなくないですか(あとは飛行機とか)。それらを「明日」と同一視している感じ、なのかなあ?(適当) それと、ここでの「祈り」って一体何なんでしょうね。分からないことだらけです。

「遥か風が見える」は本当に何も解っていない。後のほうにも「風」が何度か出てくるので、そこと見比べてみたら何か掴めるかなあ、と現時点ではぼんやり考えています。ここら辺は書いた本人がその言葉にどんな印象を抱いているかという話になってくる気がしますね。

 

・一番サビ(「青すぎる青空に~確かめたい」)

「青すぎる青空に」、いいですよね。大好きです、この表現。Twitterにも全く同じことを書きましたけれど、「~すぎる」という表現には過多というか過剰というか、一般的なそれから逸脱しているという印象を受けます、僕は。勿論、程度の大小はありますけれど。それを踏まえて「青すぎる青空」ですけれど、いや、青空が青いのは当たり前やんけ、という話です。それをわざわざ「青すぎる」と言っているということは、語り手はこの「青空」をある種特別視しているのだろうな、という推測が生じます。修飾技法的には誇張法? これは別に批判とかじゃなく単なる比較として持ち出すのですけれど、「青すぎるこの空」と「青すぎる青空」だとやっぱり言っていることが少しずれているという感じがします(ずれているというよりは、離れている?)。前者はただ単に空が青いという事実を言っているのか、あるいは主観的にモノを語っているのか、どっちつかずという感じがありますけれど、後者だと、青空が青いのは当たり前、という前提条件があるので、主観がバリバリに混じってるなあ、という気がします。まあでも、これも個人的な感覚の問題なので、どっちが正解とか、そういう話では全くないです。いやー、良いフレーズ。

「巡る世界の冷たさに」は並列チックな感じですかね。「青すぎる青空」と「巡る世界の冷たさ」が並列になっているということは、語り手にとってはこいつらが同じような類だということなんでしょうね。いまはまだどういうことなのかはっきりしませんけれど。

「立ちすくみ 凍えてしまわぬように」と続くということは、上に並べた二つが語り手にとっては然程肯定的なものではないらしいということを、否応なく感じさせられますね。「立ちすくみ」が「青空」、「凍えてしまわぬように」が「世界の冷たさ」を受けているのかな。あと、最初の三行が全部「に」で終わってるのが割と好きです。

「真っ白な感覚を やがて溶けゆく輝きを この胸に刻み付けて確かめたい」。めちゃくちゃいい。何なんだ、この文章。「真っ白な感覚」というのが何を言っているのかは正直分かりません。単に感動とかそういう何かなのかなと思わなくはないですし、もっとより内側に潜んだ熱みたいな、そういうやつなのかもしれません。でも「真っ白」という言葉には純粋な印象を僕は抱くので、前節の「巡る世界の冷たさ」とかと比べてみると、子供みたいな夢とか、何かそんな感じの話をしてるのかなと思ったりもします。どうなんでしょうね、分かりません。「やがて溶けゆく輝き」って何なんでしょうね。夢とか何だとか、一度でもそういう解釈に陥ってしまうとそうとしか思えなくなってくるんですけど、これは単に雪のことを言っているような気もします。というよりは「真っ白な感覚」を「やがて溶けゆく輝き」という言葉を通じて雪へ投影しているイメージ? これも並列といえば並列なんですけど。でも、それを「胸に刻み付けて確かめたい」と言っているので、雪はあくまで連想されるものの一つであって、一番は「真っ白な感覚」なんでしょうね(?)。

 ところで、ここに至るまで語り手のいる時間帯が確定していないんですよね。動画のサムネに引っ張られてましたけど、だから、もしかしたら朝の話なのかもしれません(わからん)。

 

・二番Aメロ(「ビルの窓に~もう先は見えてる」)

 一番とは少し違った風の情景描写をやってます。

「街」と書いていたので都会みたいなのをぼんやりと想像してましたけど(これは動画のサムネの影響もある)、「ビル」が出てきたのでやっぱり都会だったんだな、という感じ。でも「ミラーに映る裏路地」とも書かれているので、語り手はいま都会から少し離れた場所にいるのかな、という感じもします。「月」があるので、まあ多分夜なんでしょうね(昼にも見えるけど、きらめいてはいないと思う)。

「ぼやける目」というさりげない言葉が、またいいですよね。ただ単に景色を書き出すだけじゃなくて、何て言うんですか、その一枚絵にテクスチャを塗り重ねる感じといいますか、なんだかアニメーションを見ているような、どこまでも語り手の視点から言い表すということが徹底されているなあ、という感想を持ちました。

「街灯見下ろして」とあるので、多分一番で上った坂の向こうにあるのは、どうやら街らしいですね。ここの「見下ろして」もめちゃくちゃいい。細かいところで言葉を選ぶセンスが本当に段違いだなあと、この記事をまとめ始めて今更ながらに思っています。

「もう先は見えてる」。いいですよね、どこか示唆的で。

 

・二番Bメロ(「下り坂~夜の闇に消える」)

 全体的に一番Aメロとの対比になってますね。頭の「上り坂」と「下り坂」なんかは分かりやすい(これは余談ですけれど、BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』でも全く同じ対応があります。他はあまりパッと思いつきませんけれど、でもそれは僕が知らないだけで、よく使われるペアなんでしょうね、多分)。「グッと~踏みしめ」と「フッと投げ出す」、「明日」と「昨日」、「見える」と「消える」。何なら「迫り来る」と「さらっていく」もちょっとしたあれですよね(これを指摘するのは些かやりすぎ感がありますけれど)。

「さらっていく風の止む前に」というのは、坂を下りきるよりも前に、ということを言っていると思うんですけど、こんな風にも書けるんだなあ、と思いました、いま。風って何なんですかね。

「散る残り香に昨日を探すも 夜の闇に消える」は、何なんでしょう……。この曲、Bメロが全体的に難易度高め。

 

・二番サビ(「遠ざかる星空に~忘れたくなる」)

 この部分、本当に何言ってるか分からないんですよね(理解力ゼロ)。前半三行はそのままかなあと思うんですが、後半の「繰り返す選択も やけに見慣れたこの道も あの星に見る夢に忘れたくなる」がもう何って感じで。

「繰り返す選択」と言っていますけれど、語り手が何かを選ぶことに迷っているのか、それともただ単に繰り返される選択肢のことを言っているのか、そこは分かりませんけど、歌詞の後半を読む限りでは前者なのかなあ。一番サビの「真っ白な感覚」と合わせて、そこら辺が絡んできてるのかなあ、という漠然とした予想だけがある感じです。

「やけに見慣れたこの道」というのは多分「いつもの道」の延長にある何かだろうと思うんですけど、それにしても、ここの「やけに」って何なんでしょうね、いや本当に。隠し味どころの話じゃないと思うんですけど。さっきも同じことを書いたような気がしますけれど、ここら辺の細かい言葉を添えるセンスがすごいなあ、と心底思います。

「あの星に見る夢に忘れたくなる」。めちゃくちゃ心躍るフレーズですね。「星」とか「夢」とか、僕が好きな言葉が入っているからというだけなんですけど、それ抜きにしても良い言い回しだなと思います。というか、一番サビの「この胸に刻み付けて確かめたい」と対比になっているのがいいですよね。僕の中では「真っ白な感覚」=「あの星に見る夢」で(勝手に)通っているので、一番サビの否定ではないとは思いますけれど。

 

・Cメロ(「最高速度で受ける風を~あの冬の夜」)

 ここ、めちゃくちゃいい。

「最高速度で受ける風を」の部分、というかこれまでの情景描写にCメロの展開が合わさって、ここの加速感が半端ない感があるんですよね。ああ最高速度だなあ、って感じの、そんなあれです。「風」って何なんでしょうね、本当に。

「冷めるほどに感じるの熱を」は撞着法っぽいですけど、まあ実際そういう感覚はあるよなあ、と読みながら思いました。冷たいものがあるから温かいものの在処が分かるんですよね。いいなあ、ここ。

「染み込んだ匂いを吐く息を」も含めて、文末全部が「を」なんですよね。日本語って韻を踏むとダサくなりがち(主観)ですけれど、こんな感じで文末だけ揃えるのはお洒落だなあと思いました。助詞ならではですよね、こう、後に続ける感じで上手く整えられているのは。

 ところで、後半三行があまりにも未知の概念すぎて、どういうことを言っているのかさっぱり解らないんですよね。これまでは分からない分からないと言いつつも、自分なりの解釈が通ってたりしたんですけど、ここだけは本当に解らなくて、どういうことなんだろうなあ、と今も考えていたり考えていなかったりします。

 

・ラスサビ(「消えかけの白線に~確かめたい」)

 最後の最後でド直球なんですよね、この曲。伏線回収って感じ。

「真っ白な感覚」とか「繰り返す選択」とか、もしかしたら「いつもの道」や「やけに見慣れた」の意味なんかも、これまでに出てきたよく分からない奴ら全部の答え合わせって感じがありますよね、ここの六行は、何となくですけれど。書き手の思惑通りの解釈ができている気はあまりしませんが、いやあ、良い歌だなあ。

 僕はめちゃくちゃにめんどくさいオタクなので、「消えかけの白線に~いつまでも抱きしめていられますように」を経た後の「青すぎる青空」が一番サビよりも若干肯定的になったように感じられて仕方がないんですよね。何一つとして変わっていない、全く同じメロディに全く同じフレーズなんですけどね。でも、そんな感じがしませんか?

 

 

【まとめ】

 こんなはずじゃなかった。(CV:藤原基夫)

 本当はもっとサクッとまとめて、あと二曲くらい一緒に書こうと思っていたんですが、思いのほか長くなってしまいました。どうして?

 コサメガ君、本当に良い歌詞書くんですよね。良いというよりは、単に自分好みというだけなのですけれど。いやあ、何を食べたらこうなるんだろうな、本当にな。

 

 

 

忘れたって消えやしない

 

『ray / BUMP OF CHICKEN』の歌詞に以下のような一節があります。

「大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない」

 つい先日、この歌詞について思いを馳せる機会がありまして、そもそもの話、この言い回しについては以前から思うところがあったのですが、折角の機会だしそれら諸々をアウトプットしてみようかと思った次第です。何も知らない人が読めば断片的な文章の羅列に見えるかと思いますが、読む人が読めば僕が何の話をしているのか解るだろうとも思います。

 あ、本題は歌詞の話じゃありません。

 

 痛みってそもそもそんなにマイナスなものじゃないと思うんですよね、個人的には。ちょっと前にも似たようなことを書きましたけれど、悲しい出来事じゃなくたって心が痛むことはあるし、悲しい出来事だってすぐに忘れてしまうこともあるし、自分の内側でずっと鈍く響いている痛みが必ずしも悪いものかといえば、まあそうでもないんじゃないかな、と思うことがあります。勿論、そう思えない瞬間もあって、割合的には二ヶ月に一回くらいの頻度でそれはやってきますし、というかその痛みの渦中にいるときには、そんな風にある種達観した思考を巡らせる余裕なんて毛頭ないわけで、だから完全に肯定しきることは出来ませんけれど、でも否定することもないんじゃないかな。

 歌詞の解釈なんて人それぞれでいいんですよね。正解なんてあるわけがなくて、それは書いた本人の想いでさえもそうだと僕は思っていて、要するに、すべてを決定するのは受け手でしかないと僕は考えています。別に歌詞に限った話じゃなくて、会話でも、SNSでも、小説でも、なんでも。これは以前僕が目にしたたとえ話ですけれど、この文章をいま読んでくれている誰かは、きっと僕の言葉の意味をそれなりに理解してくれていることだろうと思います。「歌詞」とか「解釈」とか「言葉」とか、そこら辺の認識において僕とそちらとで大した差異はきっとないでしょう。では、それがすべて偶然だとしたら? 僕らは偶然同じような言語を使っていて、だから偶然意思疎通ができているように見えていて、だけど実際のところは全く別の言語を使っていて、だからお互いに分かり合えているようで何も分かり合えていなかったとしたら? そういった思考実験があります*1。見えている世界なんて人それぞれ主観によって異なっているというのは僕が繰り返し何度も言っていることですけれど、今回の話は言ってしまえばそれを言語に置き換えたもので、だから僕は最初これを読んだとき、それは本当にその通りだな、と思いました。自分の言葉すべてが相手に正しく伝わっていると考えることも、あるいは相手の言葉すべてを自分が正しく理解していると考えることも、どちらにせよそれは純然たる驕りというかまるっきり勘違いというか、そんなわけないんですよね、実際。僕らは常に間違えているし、だから自分で決めなきゃいけないんですよ、正解を。書いた本人の言葉じゃなくて、その先に落ちている何かを自分自身の手で拾い上げなきゃいけない。そう思います。自分一人で拾い上げられたのなら、それが何よりも正解に近いとも思います。

 だから歌詞の話をするとなると、どうしても僕個人の主観が混じるわけですよね、当然の結果として。でも、それはあくまで僕の話でしかないので、だからまあこういう話はあまりしないんですけど、たまにはしてもいいかなと思わなくはありません。

 何を以て痛みを定義するかですけれど、僕は忘れられない出来事をそう呼ぶような気がしています。何となくですけれど。そんなもの、思い起こせばいくらだって見つかります。ここに書いた話だと、あの日交通整備をしていた人たちの背中を僕は多分二度と忘れないでしょうし、いつかのコンビニで働いていた人のことも。あるいは自殺したゲーム作者のことや、新幹線車両内で焼身自殺を図った人のこととか。何というか、自分の内側がたしかに揺れた感覚、みたいな。いまにして思えば何が悲しかったわけでもないような気がするのに、だけど忘れられないような何か。それ以外にも、単にめちゃくちゃ悲しかった出来事だっていくつもあります。その中でも何よりも今の自分に直結していることといえば、やっぱり彼と離れたことだと自分では思うんですが、でもそれにしたって、その瞬間の悲しみを思えばあり得ないくらいには平気な顔をしてへらへらと生きてますし、この先もきっとそうなんだろうな、と思います。とまあこんな風に、あの歌詞は多分そういうことを言っているのだろうな、と自分の中では一応結論が出ていて、要するに、たとえどんなに心を動かされたとしても、その感動は時間が経つにつれて自ずから薄れていって、だからついつい忘れてしまうけれど、でもよく見渡せば手が触れるほど近くに転がっていたりもして、僕らはそれを忘れてしまうことは決してない、みたいな、そんな感じの。なぜ、どうして、何のため、と思う瞬間はこれまでに何度もあって、きっとこれからも何度もあって、実際、いまだってそう思う夜があります。なんでこうなったんだろうな、とか。今の自分があの頃に立っていたとしたら、何かが変わっていたのかな、とか。後悔とかじゃなく、いや、もしかしたら後悔と同じ類の感情なのかもしれませんけれど、もっと別の何かが込み上げてくる瞬間が、いまだってあるんですよね。たとえば、今日の帰り道とか。でも、そういうのも寝て起きたら忘れていたりして、でもきっとまたすぐに思い出して、そんなことをずっと繰り返していくんだろうな、という話です。

 

 いや、冒頭でも書きましたけれど、別に歌詞の話がしたかったわけじゃないんですよね、今日は。ついでに書こうと思ったらめちゃくちゃ長くなってしまった。本題は次の話です。

 

 僕の好きな色は青、白、黒の三色です。青はできれば透明な方が好みです。触れてみようとしてもするりと抜け落ちていくような、それくらいに透き通った青らしい青が好きです。白はできれば純粋でない方が好みです。それこそ、今日の昼間に京都の空を埋め尽くしていたような、雨を降らせるほどではないけれどどこか黒ずんだ曇り空みたいな白色が好きです。黒はできればどこまでも黒くあってほしいなと思います。青と白と黒とを並べたとして、この三色が決して混じりあうことのないくらいには純粋な黒がいい。それこそ、深夜二時の澄んだ夜空みたいな、そんな感じの。

 

 僕が好きな季節は冬です。切なさ、という点とは若干の共通部分があるのかなと思わなくはないですが、冬の冷たさは世界そのものが眠りについているみたいで、その雰囲気がなんだか好きなんですよね。真冬の深夜とか、何かほんとに嘘みたいな寒さなんですけど、だからこそ何よりも本物っぽいというか、誰かと二人で歩くなら真冬の夜の川沿いだな、と僕は思います。夜の沈黙は詩的ですけれど、冬は特にそれが顕著という気がします。あとは、冬の匂いも好きです。いや冬の匂いって何だよ、と訊かれれば答えに窮してしまうわけですけれど、でも、何かあるじゃないですか、そんな感じのあれが。だから、早朝や昼間に冬の街を歩くことも、割と好きです。冬は最高。

 

 まあ、以前にも書いたんですけどね、この話。

 でも、好きな色と好きな季節の話は何度でもしたいなあ、と思ったり思わなかったりする今日この頃です。

 

 

 

*1:出典は『サクラダリセット / 河野裕』です。何巻での話かは忘れてしまいましたが。

大学入ってからもう二年が経ってるの、シンプルに意味わからんくないか。

 

 俺みたいなやつが生きていてもいいのかなあ、と思うことがあります。そういったことはこれまでに何度も書いてきましたし、中でもはっきりと覚えているのは去年の八月頃や十一月頃のことですが、それはさておき、先に書いたようなことをふと考え始めてしまって、布団に包まって目を瞑ってみても眠れなくて、怒っているのか悲しんでいるのか、苦しいのかそうでもないのか、何が何だかまるで解らなくなって、その結果として、俺みたいなやつが生きていてもいいのかなあ、という自問自答に至るという夜をこれまでに何度か経験しています。そんな夜、誰にだってあることだろうとは思いますけれど、だからって、その事実が気を紛らわせてくれるわけではありません。

 

 人間関係に恵まれているなあ、と思います。恵まれている、というか、恵まれた? 運がよかったというか環境がよかったというか、何でしょう、出会いに感謝しているというか。これまでの全部です。音ゲーを始めたこと、DTMを始めたこと、Twitterを始めたこと、京大を志したこと、文字を書き始めたこと、歌モノを作り始めたこと、いまかけがえのない全てが自分じゃない他の誰かから与えてもらったものです。音ゲーをやっていなければそもそも今の自分はどこにいたんだろうと思うし、音ゲーを経由して知り合った人からDTMを教わって、いまの自分は作曲サークルに所属しています。そういえばTwitterを始めたきっかけも音ゲーでしたし、僕が彼と出会えたのはTwitter音ゲーのおかげですし、その後、彼に触発されるような形で京大を志して、つい先日には当初の希望通りに数理科学系への進級が確定しました。大学へ入ってからは作曲サークルとは別に二つのサークルへ所属して、うち一方では心理学めいたことを、他方では文字を綴ることの楽しさを学びました。作曲サークルでは、こんなにも好きになれるものなんだなあ、と自分でも不思議に思うくらいに素敵な音楽を生み出す先輩や同回生に出会えました。その三つで得た知識だったり感動だったり羨望だったり何だったりに背中を押されて、いまは歌モノを作ったり文字を書いたり、昔の自分がやりたかったことをできていたりして、本当に満足しています。これも何度か書いていることだと思いますけれど。

 人間関係には恵まれていると思います。それは九割九分ほとんどが受動的かつ偶発的に得られた関係ですが、自分には勿体ないくらいだと常々感じています。勿論いまだって、そう考えながらこれを書いています。作曲のほうで言えば、先輩方は勿論ですけれど、特に同回の奴らにかなり触発されているなあ、と思います。音楽に優劣なんてあるわけがないんですが、それでも、絶対に負けたくねえ(何に?)、って気持ちで曲を作っていたりいなかったりします、正直に言えば。でも、そんな彼らが作ってきた曲を聴いて、うわー死んだ、となる率は十割を超えているので安心してください(何に?)。みんな、いい曲作ってくるんだよな、何だかんだ言って。自分なんてまだまだ。つい先日あった某投票企画のおかげで、いまは余計にそう思う。良いものには良いって言いたいよな、正直にさ。面と向かって言うのは恥ずかしいから、あまり言わないけれどもさ。何の話? いや、でも本当に感謝してます。ありがとうございます、色々と。

 この一年、いったい何をやっていたんだろうな、といまふと思いました。つい昨日のことなんですが、同サークルの後輩(どうでもいいけど後輩って言葉、あまり好きじゃない。上から目線な感じがして嫌だ)と初めてまともに会話しまして、一時間半くらい、好きな色とか好きな季節とか自分が好む話題についても話しましたし、向こうからの話題もいくつかありました。なんか、そういうことをもっとやればよかったな、と今更ながら思っています。有体に言えば、もっとサークルの人達と話せばよかったな、と思っています。今年一年はゼミとバイトが被っていて音楽サークルのほうへあまり顔を出せなくて、だからそれまでに関わりのあった先輩方はまだしも、一個下の人達と話す機会が本当になくて、個人的に話したいと思っている相手は何人もいるんですが、自分がアレなせいでそれが実現していなくて、いやー、マジで何なんだ、これ。そのくせ、一昨日くらいまでは半分留年しかけてましたからね、僕。マジで何? そういう次第で、来年度はバイトの時間をずらそうと計画しています。話したいんだよな、人と。特に、創作をやっている誰かと。何かを作ってなきゃ死んでしまうような、そういう人と話がしたいんだよ、俺は。

 

 話が逸れまくってますね。といっても何だか路線を修正する気もなくなってきました。書き始めたときは割とブルーなテンションだったんですが、いまはそうでもないので、わざわざ荒廃した気分に浸りなおすこともないかな、という感じです。

 

 これは昨日話したその子が言っていたことで、知り合ったからには仲良くなりたい、みたいな。ストーブの前で、座りながら。それを受けて、こう、何というか、空を見上げているような気持ちになりました。澄んだ青色の透明な空を呆然と眺めながら、こんなにも綺麗な色があるんだなあ、みたいな、そんな感じの。そういった感覚を与えてくれる誰かと話すということはやっぱり大事で、その言葉が灯りになるというか、それがないと迷子になるというか、暗闇に呑まれそうになるというか。いやまあそれだけなんですよ、結局。色んな人と話がしたいです。いまはそれだけ。

 

 

 

歌詞の話

 

 歌詞を読む習慣があまりない人からしたら必ずしもそうではないのでしょうけれど、でも僕みたいな人間からすると、歌詞というのは紛れもなく曲の根幹を支えている一要素なんです。だから僕はできることなら作曲者が詞を書くべきだと思うし、量産型の言葉に意味なんてないなと思うし、逆にたとえどれだけ安っぽくても本心から紡がれた言葉ならそれ以上に相応しい言葉はないとも思います。そういうわけで作詞をするときには結構色んなことを考えます。それは相手に上手く伝える方法だったり、あるいは綺麗に伝える方法だったり様々ですけれど、でもそんなことよりももっと大切だと思うことがあって、先に書いたことと被るのですが、それは自分が伝えたい言葉を自分自身が十分に解っていないと何も伝わるわけがないということで、だから作詞というのは自分の内側へ潜っていく作業なのだと考えています。そもそも、話したいことなんて九割以上が言葉にはならないので、そこら辺を何とか伝えるために潜っていくって感じですよね、何となく。まあ、文章を書くときもそんなこんなですし、なにも作詞に限った話ではないと思いますけれど。

 

 自分が書いた歌詞の裏話をします。こういうの、あまり好きじゃないんですけど、まあでももう書いちゃったし、ブログなら上げてもいいかなと思ったので公開することにしました。以前にも文章のネタばらしみたいなことをやりましたが、それの歌詞バージョンだと思えば、別にそんなに抵抗ないですね(嘘です)。

 

 多分間違いだらけだと思うので、話半分で読んでください。

 

 

スカイブルーナイトメア

soundcloud.com

【歌詞】

数年前の夏影 一緒に飛び込んだ星空

見えないふりをした傷 見えなかった涙

 

誰にも触れられたくなくて だけどそれでも知ってほしかった

青に塗れた落書きを 夜明け色の空に 唄う

 

数年ぶりの夏空 通り過ぎていく飛行機が

蝉時雨をかき乱す あの夏のように

 

ずっと其処に在ったはずの 暖かな思い出だって

陽炎のように消えるんだ 解っていたよ

 

いつか触れた君の声は いまじゃとても遠いけれど

僕はそれがただ怖くてさ 空を見上げられなかったんだ

 

そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す

指先にそっと触れた白も掴めないよ 僕なんかじゃ

 

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に いつまでも溺れていようよ

 

数年前の夏空 通り過ぎていく飛行機を

不思議そうに眺めていた あの夏の日のこと

 

空っぽだったはずの 二人掛けのベンチにさ

君が座っていたんだ 気付けばずっと

 

いつか触れた君の言葉は いまも此処に置き去りのまま

僕はそれを手放せなくて 空に背を向けていたんだ

 

そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す

指先にそっと触れた白は 君と暮れた夏の色さ

 

そう 僕らはいま目を覚ました いつか見えた夏はもう来ない

だって知っていたんだよ 解っていたんだよ 君はきっと消えてしまうんだって

 

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に いつまでも溺れていたかった

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に さよならを

 

スカイブルーナイトメア

 

 

 

【コメント】

 最初に書いたのは一番サビの「そう僕らは…僕なんかじゃ」の件です。

 ここだけはマジで何も考えずに書いていて、何も考えずに書いたというよりは思考のステップを何段かすっ飛ばして出てきたフレーズで、「迷いながら」とか「星」とか「白」とか、自分の好きな言葉がこれでもかと詰まっている辺りにその雑さを感じます。だから「指先に触れた白」って何、みたいなことを訊かれても困るんですよね。知らんがな。

 修飾技法についてはあまり詳しくないのですけれど、ここでの「白」はおそらく換喩と呼ばれる部類のもので、前文の「星」に対応しています。換喩というのは、たとえば「白バイに捕まった」みたいな文章が正しくそれで、こいつは白バイに捕まったんじゃなくて白バイに乗った警察官に捕まったんですよね。でも、いちいち言わなくても伝わるから省く。こういうやつです。歌詞に限らず、何か文章を書くときに僕はこれをよく使います、主に色の描写で。便利だからというよりは、そっちの方が幾分か正しく相手まで届くと思っているので。

 ちなみに「星」は比喩なので、「白」が何なのかは「星」の意味を正しく汲み取れないと多分何も分かりません。というかこの一フレーズ全部が比喩なんですけれど、だからこの曲で言いたかったことの全部がここに詰まっているなあと、個人的には思っています。あとは全部、この部分の補足というかヒントです。

 

 次に決めたのは、たしか曲名でした。

 朝起きて、カーテンを開けて、そしたら空があまりにも綺麗に澄んでいたもので、それで青空にまつわる詞を書きたいと思って、でも先に出ていた歌詞があれだからあまり前向きにもなれなくて、というか別に前向きなことを書きたいわけでもなかったし。青空ってどうしたってポジティブなイメージがあるじゃないですか。だから、どうにかしたかったんですよね。ナイトメアが後ろにくっついているのは、そういう理由です。

 この直後に一番サビの後ろにくっついている「ああ…溺れていようよ」の件を思いつきました。あと、二番サビで繰り返せたら面白いよなあ、みたいなことも考えてはいました、薄々。

 

 次が多分一番Aメロ(「数年ぶり…解っていたよ」)だったと思います。

 この曲で語られているような情景を実体験として持っているわけではないのですけれど、青空から連想されるものとして思いついたのが、夏、公園、公共の時計、一本の樹、ベンチ、飛行機、蝉の鳴き声、その辺りだったので、その辺りの言葉を景色がイメージしやすい順に並べました。まずは季節を書いておいて、最初は空を見ているから次に来るのは飛行機、飛行機の次は音繋がりで蝉、最後にそいつらを全部まとめて思い出で括っています。

「数年ぶりの夏空」はちょっとだけ撞着法っぽい表現になってはいるのかな、と思います。撞着法というのは、たとえば「慇懃無礼」みたいに、真逆の意味の言葉をくっつけて文意を成立させる表現法です。一見すると矛盾しているので読み手の注意を引き付ける効果が期待できます。夏は毎年来るはずなのに、にも関わらずそれを数年ぶりと表現していることにはそれなりの意味があって、という話です。

 

 もうここからはずっと上から順に書いていっています。次は一番Bメロ(「いつか触れた…見上げられなかったんだ」)です。

「いつか触れた君の声」は共感覚法です、多分。共感覚法というのは五感同士での入れ替えを行う修飾技法で、たとえば「うるさい味」とかがこれに当たります、多分。声に触れるってなんだよって感じですけれど、ここでは聴覚を触覚に置き換えています。共感覚法のメリットは、別の感覚器官の言葉を使うことによって、自分のイメージを簡潔に言い表すことができる(ことがある)ということにあると個人的には思っています。ここの「触れた」にしたって、言ってしまえば「聞いた」でも十分に文意は通るのですけれど、「触れる」という言葉には、こう、優しくて柔らかいという風のイメージがあるじゃないですか。あとはなんだ、自発的な感じとか? 共感覚法を使うことで、わざわざ説明しなくとも「君の声」にそういった印象を添加させることができます、多分。まあ実際に書くときには、そんなことは全く考えていないわけですけれど。ドントシンクフィール。

 

二番Aメロ(「数年前の…気づけばずっと」)。

 ここから過去編です。

 歌詞を書くにあたって自分が大事にしていることがいくつかあって、同じような言葉を若干変えながら繰り返していくことがその一つです。歌詞はあまり多くを語れないので、これまでに挙げたような修飾技法だったり何だったりを使って、なるべく効率的に伝えようとするわけですけれど、繰り返しも有効な手法だと思います。聴き手に印象付けることができるので。まあ、狙いすぎはよくありませんが。だから、ところどころ一番Aメロと同じようなフレーズになっているのは、そういう理由です。

 

二番Bメロ(「いつか触れた…背を向けていたんだ」)。

 一番Bメロとの対比をやったりしています。「声」は「遠い」けど、「言葉」は「置き去り」になっている、という構造です。なんか、そういう感覚がありますよね、実際として。昔のことを思い返してみると、誰に何を言われたかは割と思い出せるのに、じゃあその誰かがどんな声色で話していたかということはまるで分からなくて、というか記憶の海を潜ってみたら聴覚的な要素だけが完全に抜け落ちていて、数ヶ月単位で会っていない相手の声なんて簡単には思い出せなかったり、でも言葉は覚えているからそれだけを大事に抱えてていたり、ありませんか? そんな感じのこと。

 

二番サビ前(「そう僕らは今日も…夏の色さ」)。

 ここで「白」の答え合わせみたいなことをやっているつもりです。文字の表面をなぞるだけじゃ到底読み取れないとは思いますけれど、ちゃんと歌詞を読むタイプの人はここで大体解ってくれるんじゃないかなあ、と思ってはいます。

 

二番サビ(「そう僕らはいま…消えてしまうんだって」)。

 ここで曲全体の答え合わせみたいなことをやっているつもりです。伏線回収というかなんというか、「数年ぶりの夏空」とか「青空の夢」とか、もっと言えば「星」も「白」も、じゃあそれは結局何だったんだよってことをここで洗いざらいぶちまけている感じです。

 その答えは言葉にすればたったの一言で片付いてしまうわけですけれど、だけどたった一言では片づけたくなかったから、だからわざわざここまで詞を書いたという、そういう話です。

 

二番サビ後半(「ああ…スカイブルーナイトメア」)

 二番サビの補足をしています。答え合わせの答え合わせみたいな。

 ここまで読んでくれた方には薄らと解ってもらえると思いますけれど、中心にある主張を隠すつもりなんて全くなくて、だからって探してほしいわけでもなくて、でも出来ることなら知ってほしくて、そんなどうにもならないジレンマをそのまま曲にしたという、これはそんな感じのやつでした。まあ、イントロの詞にもそう書いてますしね。

 

イントロ(「数年前の夏空…唄う」)。

 センター現代文でも言われるじゃないですか。筆者の主張って大体の場合は最初と最後にあって、そりゃまあ、普通は書きたいことから書き始めるし、最後はそのことをざっと要約して筆を置くし、なに当たり前のこと言ってんだって感じですが、この曲、実はイントロの詞が最後です。出来上がってみればたったの四行なんですけど、それでも三、四時間くらいかけて書いたのを覚えています。それくらい、この曲で言いたかったことを詰め込んでいます、ここは。

 夏空じゃなくて夏影とか、青空じゃなくて星空とか、そこへ一緒に飛び込んだとか、青に塗れた落書きって何なんだとか、どうして空は夜明け色なのかとか。まあ、いろいろあるんですけど、全体を通して読めばちゃんとわかるような作りにはなっているとは思います、一応。

 

 

 

 

「じゃあね、また明日」

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【歌詞】

青はやがて赤になり 月は夜空を忘れて

誰も消えた気がして 街を不意に見渡した

耳障りな静寂に 微か混じる呼吸の音

見慣れたはずの横顔にも 迷い 戸惑った

 

いつだって 何も見えない でも前を向いて

泣いていたって 仕方ないって 歩いてきたけど

何度 夜を凌げば 楽になれるのかなあ

なんて

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当のことはずっと 言えないままで

「じゃあね、また明日」 いつもの合図に

潜めた息をそっと 手放したんだ

 

君が消えた最初の日 午前二時を彷徨った

信号機は青ばかりで 全部 嘘みたいな

 

いまだって 何も見えない 見ようともしない

解ったふり 知ったふりで どこへも行けずに

何度 夜を重ねた 君にも会えないままでさ

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当のことは何も 知らないままで

「じゃあね、また明日」 いつもの合図に

呑まれた声がいまも そこに在るんだ

 

言葉なら何千何万と憶えたのに

たった一つの扉さえ開けないまま

「僕らは他人同士」なんて解っている

でも 一緒にいたっていい そうだろう?

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当の言葉なんて どうでもいいんだ

じゃあね また明日 いつもの合図で

明日も会える今日を 君がくれたから

 

明日も会える今日に 君と逢えたんだ

 

 

 

【コメント】

 この曲はサビのメロディーだけが最初にあって、次にとりあえず曲全体を二番くらいまでバーッと組み立てて、それから歌詞を考えたという順だったと思います、多分。

 その曲を組み立てている途中で、一番サビの「「じゃあね、また明日」」という部分のメロディーがやたらと頭に引っかかって、ここに詞を当てるなら「じゃあね、またいつか」とかかなあ、とメモを取ったことを覚えています。

 歌詞は思うことを思うままに書けばいいと考えているので、だから詞の方向性なんかを僕はいちいち考えたりしないんですが、この曲もそんな感じで、制作時期に考えていたことがそのまま全部並べられています。こっちはさっきに比べるとかなり素直に書いていると思います、多分。

 

一番Aメロ(「青はやがて…戸惑った」)から順に書きました。

「青はやがて赤になり」はスカイブルーナイトメアのほうでも書いていた換喩です。「青」とか「赤」とか、この時点だと何を言ってるのかさっぱり分からないだろうと思いますけれど、後のほうでわかります。一番の歌詞だけでも、想像力のある人なら分かるのかな。

「月は夜空を忘れて」は月が見えないってことを擬人法チックに言っただけなんですが、それとは別に、いまの時間が夜だということを夜という言葉を使わずに表現したかったという意図があります。「夜」という言葉はもう少し別の意味で使いたかったので。

「誰も不意に…見渡した」はそのままです。真夜中の大通りを歩いていたら、世界そのものが滅んだんじゃないかみたいな錯覚を起こす瞬間があるじゃないですか。あるんです。

「耳障りな静寂」は撞着法です、多分。

「微か混じる…戸惑った」はそのままです。あるよね、こういうこと。こいついま何考えてるんだろ、みたいな。

 

一番Bメロ(「いつだって…なんて」)。

 少し場面が変わりますが、言っていることはそのままです。あるじゃないですか、そんな感じの夜。何で生きてんだ、みたいに感じる夜。こういうときって「夜を越える」と書きそうなもんですけど、いやでも全然越えてませんし。なあなあでやり過ごしてるだけです。

 

一番サビ(「いくつ交わした…手放したんだ」)。

 ここもそのままです。文字通りの意味です。実際にこう、知り合いとかと会ってみたら、まあ話のタネはいくつもあって、それなりに笑ってそれなりに楽しんで、でも肝心なことは何も言えなかったみたいな、そんな感じのことがあるじゃないですか。この時期、正確にはそのちょっと前ですけれど、そういったことを経験する機会が多くて、なんかもやもやしてたのがここに出てきた感じです。

 ここでの「「じゃあね、また明日」」は相手側(君)の言葉ですね。一人称側は「潜めた息を手放した」と言っているので。

 

二番Aメロ(「君が消えた…嘘みたいな」)。

 そのままです。比喩とかじゃなく。人が何かの価値に気づくのはそれを失ったとき、みたいな文言がありますけれど、これは実際その通りで、いなくなって初めて必死で探し回ったんですよ、午前二時。どこにいるんだろうかって色々考えて、そんなの解るわけがないのに。どれだけ歩いても迎える信号機だけは何故か青ばかりで、だからどこへだって行けるのに、でもどこへ行っても見つからない。青ばかりが続くことも含めて、君がいなくなったこと自体が嘘みたいだって、そういう詞です。

 一番Aメロとの対比構造を若干入れています。一番では君が隣にいたけれど、二番ではいなくなって探し回っていることとか。一番では信号機が赤だけど、二番では信号機が青だとか。赤はどこへも行けないのイメージで、青はどこへでも行けるのイメージですね。まあ、それが本当は逆だったんだってことを、二番のサビ辺りで言うんですけど。

 

二番Bメロ(「いまだって…会えないままでさ」)。

 一番Bメロからの繰り返しをところどころでやってます。繰り返し、好きなんですよね、使いやすくて。

「いまだって」は一番Bメロの「いつだって」に対応してるんですけど、いつもそうだしいまもそう、ということが言いたくてこのように書いています。

「何も…ともしない」は一番Bメロとの対比、というか軽い否定になっています。何も見えていないんじゃなくて、自分が見ようとしていなかっただけだったという、ある種の心情の変化を書きたかったんです。

「解ったふり…行けずに」もそのままです。信号機は青だけど、でも、どこへも行けない。

「何度…会えないままでさ」も凡そ文面通りの意味ですけれど、ここでの「会えない」は二番Aメロでの具体的な事態を引き受けて、さらに抽象的な話へと持っていっているつもりです。だって、実際会ってますしね、一番のAメロやサビとかで。

 

 

二番サビ(「いくつ交わした…そこに在るんだ」)。

 ここも一番サビからの繰り返しが多めです。

 一番サビとの対比をやっていて、一番サビでは自分側の話ばかりをしているんですが、ここでは相手側の話をしています。たとえば「いくつ交わした言葉の奥の本当のこと」という言葉は、一番では自分の中にあるものを、二番では相手(君)の中にあるものをそれぞれ指しています。

 一番サビの「手放したんだ」に対して、二番サビで「いまもそこに在るんだ」と唄っていることには意味があります。そのヒントはもうこれまでに書いています。

 

Cメロ(「言葉なら…そうだろう?」)

 こう、あるんですよね、感覚として。小さかった頃に比べるといまの自分は本当に数多くの言葉を知っていて、そのくせ内側に留まった感情を言葉にしようとすると上手くいかなくて、涙を流さずに泣いている人に語り掛ける言葉の一つも見つけられない。言葉ってどこまでも無力だよなあ、という、そういう詞です。

「「僕らは他人同士」」に鍵括弧がついているのは、これが君の言葉だからです。

 

ラスサビ(「いくつ交わした…逢えたんだ」)

「どうでもいいんだ」という詞で心情の変化、というかこれまでのサビの否定を演出しているつもりです。それと、なるべく普段遣いに近い言葉を持ってくるように意識しました。変に気取った表現を使うのは違うな、と思って。扉を開くべきか否かとか、自分の言葉を伝えるべきか否かとか、自分なりに色々と考えてみて、そうして辿りついた結論がこれでした。それ以外、特にありません。

「じゃあね、また明日」に鍵括弧がついていないのは、これが一人称側の台詞だからです。

 最後の二行はもちろん自分がこの曲で伝えたかったことを書いているわけですけれど、簡単に解られても癪なので、「明日も会える今日」という言葉で色んなことを隠しています。別にそんなに難しいことでもありませんけれど。それと、助詞を変えて繰り返すやつをやったりしています。こういう繰り返しの使い方も好きです。

 

 

 

 こんな感じでした。こんな感じでした、という文章を書いている僕と、上の話を書いている僕とではおよそ一週間のズレがあるのでアレなんですが。

 修飾技法の話とか文章構成の話とか色々と書きましたけれど、歌詞を書く上でこんなのは別に必要なくて、というか後からついてくるので、誰かに何かを伝えたいと思うのなら、是非とも自分の深層心理へダイブしてみてください。そこで見つけた言葉こそがなによりも正しくて、たったそれだけが必要なものだと僕は思うので。

 

 

 

手紙

 

 生まれてこの方、手紙なんてろくに書いたことがないんじゃないかな、と思います。そもそも書く動機がありませんし、たとえば正月の年賀状なんかも、貰ったところで困るだけなので誰に欲しいとも言っていませんし、自分がそういう考え方なので出しもしませんし、要するに機会があったところで書かないことに変わりはないということです。これは昔、まだ小学生とかそれくらいの頃の話なんですけれど、年賀状を書くのが嫌で嫌で仕方がなかったんです。言いたいことも伝えたいことも何もないのに、今年一年よろしくお願いしますとさえ微塵も思っていないのに、それでも何かしらを自分の言葉を添えなくてはならなくて、しかもそれが少なくとも数十人分はあるというのがもう既に地獄で、だから、たしか小学四年生の頃には年賀状を書かなくなっていたように思います。以降は来たら返すという姿勢を一応とってはいたのですけれど、まあ当たり前のように誰からも来なくなりましたね、年賀状。面倒の種が一つなくなったので、僕はそれで全く構わないんですが。

 

 文通という行為に若干の憧れがあります。このご時世だからこそということもありますけれど、純然たる好奇心として一度はやってみたいなあと思うんですよね。言葉は自分の想いを何一つも伝えてくれませんけれど、でも言葉でないと伝わらないような何かもきっとあるはずで、というか実際あって、同じように感じている人がもしいるのなら、たとえばそういった誰かと文字のやり取りをしてみるというのは面白そうだなあ、と思うんです。あるじゃないですか、電子書籍でも構わない派と紙の書籍じゃないと認めない派、みたいななのが。僕はどちらかといえば後者の人間なのですけれど、文通ということにも同じような何かを見出していて、いやまあそんなのSNSでいいじゃんと言われればそれまでなのですけれど、それじゃやっぱりだめで、なにがダメって推敲の過程が往々にして存在しないことなんですが、こう、もっとなんか、あるじゃないですか。解ってください、この辺の違い。手書きの文字が読みたいし、手書きの文字を読んでほしいという思いがあるんですよね。就活をしている方とかには鼻で笑われそうですけれど、でも、一対一ならそれくらいいいじゃないですか。

 

 大学に入ってから、自分の言葉を表現する機会がやたらと増えました。レポートもそうだし、一回生のときに参加していたゼミ的なところで毎週書いていた感想文とか、それに二回前期の頃に作ったこのブログとか、もっといえば自分で書き進めている作品だとか、本当に色々。このブログの記事はいつも大体原稿用紙六枚から八枚分ほど書いているんですが、昔からどうでもいいことをだらだらと書くのは割と得意で、読書感想文で苦労したことは多分ありませんし、修学旅行の感想文(うちの高校ではそういう文化があった)を出発前夜の回想だけでギリギリまで埋めて提出したこともあります。大学に入ってからもずっとそんな感じで、提出点の代わりにB5サイズの紙に感想文を書く講義とかでは、馬鹿みたいにペンを走らせたりもして、いやまあ実際馬鹿なんですが、どうせ返事なんて帰ってこないのに、でも思いついたことは全部書き切らないと満足できなくて、結局、全部書いてしまうんですよね。なんか、そういうことだけは無駄に得意です。このブログを読んでくれている方には分かっていただけることかとは思いますけれど。

 

 何かを表現する機会が増えてきて思うことといえば、これも何度か言っていることですけれど、言葉は無力だということです。無力で、そして手に負えない。僕は、それがたとえばTwitterなんかでも、何かしらの発言をするときにはなるべく誤解が生まれないように配慮する、というかちょっとした推敲をするように心がけているのですけれど、それでも多分僕の知らないところで知らない誰かを傷つけているのだろうなあ、という思いがどこかにあります。それとは別に、感情が高揚しているとき、その多くは有体に言えばイラついているときなんですが、そういったときは自分が用意しているフィルターをすっかり忘れてしまうことがあって、しかも高確率で誰かを殴りつけるんですよね、その言葉が、あるいは自分が。冷静になってから後悔するんですが、まあ時すでに遅しって感じで、そうなったら誠心誠意謝罪するしかないわけですけれど、そんなことを本当に何度も何度も繰り返していて、手に負えないというのはそういうことです。

 これは本当にただの余談ですけれど、最近Twitterで『誰も傷つけない表現』ってワードが流行ってるじゃないですか。あれに関してはマジでどうでもいいなと思っていたりします。誰も傷つけずに何かを発信するのは不可能だし、それにたとえばそれが小説なんだとすれば、誰も傷つけない小説なんてものは凡そ無意味だと思うんですよね。泣きたくなる瞬間ってあるじゃないですか。本を読んでいて、たとえば物語のクライマックスとか、何もかもが終わりに向かって走り始める瞬間、あるいはすべてが終息を迎えた瞬間。アニメでもドラマでも映画でも音楽でも、何でもいいです。そういった、ありきたりな言葉でいえば感動らしい感動って、自分の心を傷つけられているのと全く変わらないと僕は思っていて、自分の内側が深く抉られているからこそ、悲しくもないのに泣きたくなるんじゃないかなあ、と考えている節があります。だから、そういった側面に限っていえば『誰も傷つかない表現』というのは、まるで無意味だなあ、と思います。あくまで、そういった側面に限っていえば、の話ですが。

 

 最近、手紙というほどの分量でもないのですけれど、ある人へ言葉を贈る機会がありました。というのは正しくなくて、僕はまだその人に贈る言葉を何も見つけられていなくて、いまも必死に探している途中で、もうじきにタイムリミットがやってきてしまうのですが、ともかくそういう機会がありました。白紙の紙を前に置いて、何時間も考えて、でもやっぱり何も見つからなくて、こうやって一年近くも文章を書き続けてきたのに、そのくせ肝心なことはずっと苦手なままで、何だかなあ、という気持ちです。僕とその人は言ってしまえばただの他人で、僕は彼のことを何も知らないし、彼は僕のことを何も知らないし、少しばかりを一緒に過ごしていただけの、本当にそれだけの関係なのですけれど、それを他人だと割り切ってしまえたのならこんなにも苦労するなんてことはなくて、他人だけど、やっぱり関係を持ってしまった以上は他人事だと思えなくて、だからずっと考えています。何を言うべきなんだろうか。そもそも何かを言うべきなのか。どうせ彼はこの手紙を読まないと思う。もし読んだとして、自分に何が伝えられるとも思わない。多分何も伝わらない。それでも何かが書きたくて、でも何も書けなくて、そんなこんなでここ二週間くらいはずっと右往左往って感じです。彼は夢を諦めたんです、きっと。諦めた、というのは正しくなくて、もしかしたらちょっと躓いただけなのかもしれない。何かに躓いて、転んで、起き上がれなくて、ずっとそのままで横になっているだけ。あるいは、僕の心配なんて素知らぬ顔で元気に生きているかもしれない。それならそれでいいけれど、でも、多分そうじゃないと思う、これは勝手な推測だけれど。そうやって何かを捨てて、諦めて、もしかしたら泣いているかもしれない誰かにかけるべき言葉って、いったい何があるんでしょう? そのことをずっと考えています。なまじ僕は一応夢が叶った側として立っている人間なので、そんな奴が何を言っても、という気さえしてくるんですよね。無責任な言葉ならいくつも思いつきます。他人事みたいな励ましも、嘘みたいな綺麗事も。恐らくこんなことで悩むのはおおよそ馬鹿のすることで、本当にただの他人なのだから当たり障りのない言葉を適当に並べて、それで終わりにすればいいんですよね。それで終わりにしてもいい。でも、嫌なんですよ。何というか、そんな風に見捨てるのが。それだったら、何も言わずにいたほうがずっといいとさえ思います。だけど、書かなきゃいけないんですよね、僕は、その空白に、自分の言葉を。到底見つけられる気がしません、正直。何を書いても彼を深く傷つけるんじゃないかと思います。本当の言葉を伝えたいという気持ちがあって、でもそれは自分のエゴじゃないのかという気持ちもあって、昨日も寝る前に布団の中で少し考えて、気づいたら朝になっていて、いまもこうして断続的に考えていて、でもそれもあと数日でどうしようもなく終わりが来て、そのとき自分はどんなことを書くんだろうな、と思います。できることなら、たったの一文でも納得のいく言葉を書きたいものですけれど、まあ無理だろうな。

 

 

 

いや、ごめん、マジで。

 

 お前のここが嫌いだ、と真正面から言ってくれる人がいるのなら、それはきっととても幸せなことなんだと思うんですよね。だって、普通はいちいち言わないでしょ、そんなこと。なあなあで済ませてればいいんですよね。黙ってりゃいい。時は何も解決してはくれないけれど、でもどんなに嫌なことでもある程度なら忘れさせてくれるんです。それを待てばいいだけの話で、だって、そもそも別に関係なくないですか、そいつがどんな奴かなんて。もしもの話、そいつが救いようのない人間だったとして、たとえば道行く人々に平気な顔で罵詈雑言を投げかけるような人間だったとして、それが一体何だっていうんですかね。嫌ならさっさと離れればいいじゃないですか。離れることが難しいのなら目を閉じればいい。耳を塞げばいい。何も見ない。何も聞かない。それでいいんじゃないですかね。好きな部分は最大限受け入れて、嫌いな部分は最大限許して、許しあって、許しあったフリをして、そうしていつしか忘れて、そうやってだらだらと何となく生きていけばいいと思います。いや、悪くないと思うんですよ、そういうのも。というか、これまでのほとんどすべてがそんな付き合いばかりですもんね。思い出してもみてくださいよ、高校生の頃とか、そりゃもう空虚な人間関係ばかりを、人間関係と形容することすら憚られる何かばかりを築いてきたでしょう。たとえば自分が好きなものなんて、きっと校内の誰一人も知らない。一方の自分も、クラスメイト誰か一人の好きなもの一つさえ満足に挙げられない。そういう関係だったじゃないですか、たしか。それで満足する人もそれなりの数いるんでしょうし、そのことを否定するつもりは毛頭ないんですけれども、でも自分はどうやらそうじゃないらしいということには、もうとっくの昔に気がついていたわけで、目を閉じたまま、耳を塞いだまま、そのままで歩いて行けるほど器用じゃないんですよね、残念ながら。そもそも、関係なくなんかないんです。そこにそいつがいて自分がいるんだったら、それだけでもう少なからず関係があると思いませんか。自分の世界でそいつが呼吸をしてるんですよ。それを無視しろと言われましても、そんな、授業参観のキャベツじゃあるまいし、土台無理な話でしょう。そういうことです、アーユーオーケー?

 

 はい。

 

 お前のここが嫌い、というか、何ていうんですかね、いま思うとこいつめちゃくちゃヤベえこと言ってんな、と思うことが少なからずあるでしょう、自分に対して。え、ない? ないんですか。なるほど、なるほど。それはまあなんというか、幸せそうですね、それはそれで。おめでとうございます。

 あるでしょう、あってくれ、頼むから。

 僕らは馬鹿なんです。そんなに頭の良い存在ではない。一日の間にそれはもうほとんど無数といえるほどに膨大な数の選択肢を無意識のうちに選んでいて、きっとそのうちの九割以上は間違えてるんですよ。あるいは、全部間違えているかもしれない。少なくとも、間違えているもののほうが圧倒的に多いことには違いない。間違えまくってるんですよ、常日頃から。自分が犯した失敗なんてそんなに覚えてないかもしれませんけれど、それは覚えていないだけです。人体には忘却という優秀な機能が備わっていますからね。

 平気で間違えるんですよ。後から冷静になって考え直してみたら、いやそれはねえよ、という言動をしていたなんてこと、よくあるでしょう。読んでくれている人に向かって言ってばかりだとあまりにも申し訳がないので、少しくらいは自分の話をしましょうか。そうですね、最近の出来事で言えば、大学の知人が二十歳の誕生日を迎えたときに、それはもう一人でお通夜みたいなムードを醸し出していたということがありました。お通夜というよりはむしろ、自分の葬式を遠巻きに眺める幽霊みたいな、そんな感じのテンションでしたね、たしか。葬式に呼ばれて行ってみたら自分の葬式をやっていたみたいな。とんねるずかよ。何なんだあいつ、いやマジで。まあその理由はたった一つで、僕らの隣に居座っていたグループがあまりにも耳障りだったからなんですけど、ホントあれさ、飲み会会場の設計として終わってると思う、某貴族。飲み会なんて騒がしくなるに決まってんだから、部屋を分けろとまでは言わないけれど、せめて壁くらい作ってほしいよな、ほんとにな。あの手の店にそれを求めるのは無茶だってわかってるから冗談だけどさ、内部の構造を知ってたらさすがに行かなかったと思う。いや、だからって、それがお通夜ムードでいていい理由にはならないんですよね、わかりますか。誕生日だぜ、しかも二十歳の。一年に一回しかない日なんだぜ。お前にとっては何でもない一日でも、あいつにとっては特別な日かもしれないだろうが。いや、だからさ、祝えよ。なあ、お前さ、なに一人で葬式やってんだよ。逆だろうが。まるっきりあべこべだろうが。お前が向かうべきは産婦人科であって、葬式会場じゃねえだろ、わかってんのか。とまあ、布団の中へ潜り込んだ頃にようやっとそんな感じで思い直して、本人へ誕生日祝いと謝罪の連絡を入れましたけれど、いやもうホントに、取り返しがつかなくなってからじゃ遅いんだぜ、マジで、反省しろよ。反省してる。ほんとにごめん、ぴかつーりょー。

 

 お前のここが嫌い、と言ってくれる人なんて、まあそんなにいないんですよね。そりゃ当たり前で、面倒だからです。正しくは、面倒になることが目に見えているからです。それに多分、そんなに親しい間柄でもないんだと思います。二年ちょっと一緒にいるからって、それがだから何なんだよという話で、好きな色の一つも知らない相手の嫌いな部分をわざわざ指摘しようなんて、まあ普通思わないでしょう。よほど無神経な人間か、あるいは僧侶的なサムシングではない限り。だからこそ、逆に言えば、お前のここが嫌い、という風のことを言われたという記憶は強く残るわけですよね。言われた瞬間は、割とカチンときますよ。それか、めちゃくちゃ落ち込む。そのどっちかで、ここしばらくは後者のほうが多い気はする、昔はイラっとすることも結構ありました。お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな、と有名なコラ画像ばりの冷ややかな態度で大体はやり過ごしてきたのですが、大体の場合、しばらくするとめちゃくちゃ後悔し始めて、まあ謝ったり謝らなかったりをするわけなんですが、自分の中で明確になっている指針の一つとして、そういった言葉たちがあるように思うんですよね。冷たい言葉の刃で抉られた傷って、まあ人類の忘却機能によってある程度は治癒されるんですが、完治とまではいかないんですよね、感覚として。痛まなくなるというだけで、傷痕そのものはずっと残っている。その傷跡が目印になるんですよね、なんというか、今後の行動の。先ほどの飲み会の件ですけれど、あれ実は同じような過ちを以前にも犯していて、それはあいつにだけ伝わればいいので敢えてぼかして書くと充電器の件なんですが、あのときはたしか謝るまでに結構な時間を要してしまって、というか謝るという発想に至ること自体に時間をかけてしまって、まあなんというか、人はかくも愚かという感じですけれど、だからって、お~成長してる~すげ~やるじゃん! という話では全く皆目露ほどもなくて、同じ失敗を何度もするなよ、という話なんですけれども、いや、ごめんって、マジで反省してる、本当に。

 

 僕は他人のことを鏡だと思っていますけれど、これもまあ理由があって、言われたことがあるんですよね。僕の言動を指して「でも、それってお前の嫌いな奴がやってることと何も変わらんくない?」みたいなことを、まあそれを言ってきたのは彼なんですが。言われた直後は「いや、そんなことなくね?」つって反論したんですが、今にして思い返せばまあその通りで、まったくのド正論でしたね、悲しいことに。この考え方が確立したのは一回生のときに心理学めいた何かしらを齧っていた頃なんですが、根元にあるのは恐らく彼に言われたこの言葉で、それがいまの自分が持っている数少ない羅針盤のうちの一つになっていたりします。学部一回生の頃はこれが本当に辛かったんですけどね、いまは周りに良い人ばかりなのでそうでもないです。

 

 自分のダメな部分を指摘してくれる人がいるなら、そういう人のことは大切にしたほうがいいと思います、個人的には。自分が間違っていることなんてそりゃ認めたくないだろうし、というか俺だって嫌だよ、嫌に決まってるじゃんか、それは流石にさ。ここで、いや、俺はどんなに尖った批判批評とも真摯に正面から向き合うよ、なんてことを平然と言うやつがいたら、いくら温厚な僕でも殴りますよ。グーで、思い切り。冗談です。温厚ってのも冗談です。それはさておき、でも、それでも、そういう言葉ともし出会うことができたのなら、どれだけの時間をかけてでもきちんと向き合ったほうがいいのだろうな、と思います。自分の過ちを正してくれる誰かが近くにいる。それは本当に幸せなことなんですよね。全然当たり前じゃない。大切にしたほうがいい。これは自戒でもあります。

 

 なんでこんな記事を書こうと思ったかって、遠い昔の知り合いにそういう奴がいるからなんですよね。先生に叱ってもらいたくて悪行を繰り返す小学生みたいな、そんな感じの奴が。別に注意する気なんて全くないし、する義理もないし、やったところで無意味なのが目に見えているし、変にキレられるのも嫌だし、そもそもそこまで関わりたい相手でもないし、だからまあ放置するんですけど、なんかいい加減関係を保っている必要性も感じられなくなってきて、どうでもいいんじゃねえかなあ、と思い始めた辺りです。嫌なら目を塞げばいいのにね、ホントに。

 こう、自分がそう思う立場になって初めて、これまでに自分の過ちを指摘してくれた人たちの勇気がいかに偉大かということを思い知りました。何だかんだ言って、単に怖いだけなんですよね、相手の領域へ踏み込むことが。好きを伝えることも十分に怖いけれど、嫌いを伝えるのはもっと怖い。自分みたいなやつにその勇気を向けてくれた人たちのことを、目を塞がずにいてくれた人たちのことを、恩返しというわけでもないけれど、だけど、何よりも大切にしていかなきゃいけないんだよなという、たったそれだけの話です。まあ、当の本人達は案外何も考えてなかったりするのかもしれませんけれど、僕から見ればそれは紛うことなく勇気なので、だからどうだっていいんですよね。

 

 

コード進行について色々2

 

 今回はほとんどBUMPの曲についてです(最近はBUMPの曲のコード進行ばかりを勉強しているので)。

 

VIm – V – IV – I – IIm7 – IIIm7 – IV – V

『アリア / BUMP OF CHICKEN』のサビ(「見つけたら鏡のように~」)のコード、16小節。聴くと「なんか変な動きしてるなあ」と思うのだけれど、VからIVへ進行してるのはマジで何(Bメロ→サビの切り替わりとかならわかるけど)。

 頭がIじゃなくてVImだから暗めの雰囲気が出てて、次のVは別に暗くないけどかなり不安定な響きで、そこからIへ進めば解決するけれど、さらにIVを経由することでサビ全体に不安な空気感を纏わせているような感じがする。このあとに続く進行はI – IIm7 – IIIm7 – IVになっていて、サビのこれもあってか開放感が半端ない。

 

・IVadd9 – I – IVadd9 – [VIm – V – I – VIm]

セントエルモの火 / BUMP OF CHICKEN』のCメロ(「言いたいことはないよ~」)のコード。個人的に好きな部分。

 

・Iadd9 – IVm/I – Iadd9 – IVm/I

chocolate insomnia / 神前暁』のCメロ(「言いたくて言えなかった言葉~」)のコード。ツーファイブで動きつつもベースがIで一定なので、Cメロにはもってこいという感じがする。『セントエルモの火』の作り方と合わせて覚えておきたい。

 

・[I – V/IV] – [I – IIm7] – [VIm – V] – [I – IIm7] – [I – IV] – [V – VIm] – [IIm7 – V] – I

『車輪の唄 / BUMP OF CHICKEN』のサビ(「笑っただろう~」)のコード進行。五小節目のIはI/IIIじゃなくていいのかなあと思う(サイトを参照しているのでわからない)。もしI/IIIなら四小節目から六小節目にかけてが上昇進行になっていて綺麗だし、I – IIm – I/IIIって進行は前回取り上げた『サザンクロス』や『firefly』でも使われているから、あってもおかしくない。

 前半のI – IIm – VImの動きは『真っ赤な空を見ただろうか / BUMP OF CHICKEN』のAメロで使われていたりする(前回取り上げた部分の直前にIのコードがある)。

 

・IVadd9 – V – [I – IIm7] – I – V – III – [VIm7 – V – Iadd9] – VIm7

『カルマ / BUMP OF CHICKEN』のサビ(「必ず僕らは~」)のコード進行。後半部分は『セントエルモの火』の[VIm – V – I – VIm]と同じ作り。ぶっちゃけ何も分からない。五小節目のV何?

 

・IV – I/III – [IIm7 – #Vdim] – [VIm – #IVm7-5] – IV – I/III – [IIm7 – V] – VIm

『Spica / BUMP OF CHICKEN』のAメロ(「名前ひとつ~」)のコード進行。

 IV – I/III – IIm7はベースラインの下降構造がある。IIm7 – #Vdimはマジで何、Vに進みたくなかったのかな? 一応構成音が二つ同じだし。#Vdim – VImはパッシングに近しいアレだと思う、特に問題はない。VIm – #IVm7-5 – IVは『アリア』のAメロでも使われている進行。構成音がほとんど変わらないので綺麗に動く。#IVm7-5 – IV – I/IIIはベースラインが半音下降する、綺麗。I/III – IIm7もベースの下降。IIm7 – V – Iはツーファイブの終止。

 

・I – I – I – [I – V/VII] – VIm – #IVm7-5 – IV – V

『アリア / BUMP OF CHICKEN』のAメロ(「曲がって落ちた~」)のコード。#IVm7-5が『Spica』でも使われていたので、一応こっちも載せておく。

 どちらも比較的最近の曲。ハマってるのかな。

 

VIm – [VIm – V/VII] – I – [I – I/III] – V – V – I/III – IV

シリウス / BUMP OF CHICKEN』のサビ(「これは誰のストーリー~」)の進行。V – I/IIIの部分が、若干『カルマ』に似てるなあと思った(I/IIIは解決感が弱いので)。

 自分なら6m-[6m-5/7]-1-[1-2]-5-5-1/3-4で組むかなあ、と思った。四小節目のI/IIIはどういう意図があるんだろう。

 

・I – I – VIm – IIm7 – III – bVII – I – I

『望遠のマーチ / BUMP OF CHICKEN』のAメロ(「何を言おうとしたの~」)の進行。

 IIm7 – III – bVII – Iは前回取り上げた『運命ジレンマ / 田所あずさ』にも似たような形が出てきていて、それはIIm – IIIm – bVI – Vで、この場合のbVIは多分IVm7の代理でつまり2m-3m-4m-5という動きがあるようにおもうのだけれど(いま気づいた)、その理屈で言えば今回のbVIIはVmの代理で、2m-3m-5m-1の動きをしていることになる。あってるのかな? 一応最後はドミナントモーションっぽくなるけれど。

 

・IIm – IIIm – IV – V

 特に何というわけではないけれど、BUMP藤原基夫が(主にBメロで)好んで使う(印象がある)進行。(最近の曲は特に)よく見る気がする。

 

・[VIm – IV] – [I – V] – [VIm – II] – [IV – IV – Vsus4 – V]

『fire sign / BUMP OF CHICKEN』のBメロ(「星は廻る~」)の進行。6415!

 前回取り上げた『君の知らない物語 / supercell』でも使われていたII – IVの進行も使われている。

 

・[I – V] – [IV – V – I – V] – [VIm – V] – II – [V – V/IV] – [I – V] – [IIIm – IV – #IVm7-5 – II] – [IV – V – I – I]

『fire sign / BUMP OF CHICKEN』のAメロ(「いつか聞こえた泣き声を~」)の進行。後半の動きがめちゃくちゃ綺麗。

 

・I – I – IVadd9/I – IVadd9/I – I – I – IVadd9/I – IVadd9/I – IIIm7 – IIIm7 – IVadd9 – IVadd9 – IIm7 – IIm7 – IVadd9 – IVadd9/V

『虹を待つ人 / BUMP OF CHICKEN』のサビ16小節の進行。前半八小節は進行もフレーズも繰り返し。1-2、5-6、13-14は同じフレーズを歌っている(掛け声的なのが入っている)のだけれど、最後だけIIm7に変わっていて、そういう拘りが大事なんだよなあ、という気持ちになった。15-16小節はIV – IV/Vの終止。

 

・[V – VIm7] – IV – [V – VIm] – [IV – V/II] – [I/III – IV] – [V – V – VIm7 – I/III] – [IV – IV/V] – [Isus4 – I]

『友達の唄 / BUMP OF CHICKEN』のAメロ(「あなたが大きくなるまでに~」)の進行。最初からIV、V、VImばかり出てくるので若干の切なさというか、不安定な感じがある気がする。VIm – IVからベースをII→IIIで上昇させるのは、たとえば『サザンクロス』のAメロなんかで使われている。I/III – IV – V – VImはベースラインの上昇。VIm – I/IIIで緩く着地して、I/III – IV – IV/Vで上昇するとともに解決へ向かって、Isus4で一旦間を持たせてからIで終止。

 

・IV – V/IV – IIIm7 – VIsus4 – IIm7 – Iadd9/III – IV – [Vsus4 – Vsus4 – V – #VM7/#VI]

『友達の唄 / BUMP OF CHICKEN』のBメロ(「空の冷たかった手が」)の進行。前半はVI終わりの王道進行(前回『Star!! / 田中秀和』なんかでも出てきた)。VIsus4 – IIm7はツーファイブ。IIm7 – Iadd9/IIIは藤原基央がよくやるやつ。何ならIIm7 – Iadd9/III – IV – [Vsus4 – V]までは2m-3m-4-5の形になっているので、これも藤原基央がBメロでよくやるやつ(ベースラインが上がっていくから、サビへの期待感が強くなるんだよな、多分)。

 #VM7/#VIについては後述。

 

・I – [V7/I – V/VII] – [VIm7 – VIm7/V] – [IV – V/IV] – I/III – [IV – II/#IV] – [I/V – VIm7] – [IV – V] – V7/I – [I - II]

『友達の唄 / BUMP OF CHICKEN』のサビ(「今 私が泣いていても~」)の進行。ディグリーで書き下してみたら、あまりにも綺麗でびっくりした。

 まずIからのスタート。AメロがV、BメロがIVからのスタートでどちらも不安定だったから、サビの安心感がすごい。そこから四小節かけてベースラインがIからIVまで下がる。4-5の[IV – V/IV] – I/IIIは一応終止の形になっている(I/IIIは解決感が弱いのでそこまでしっかりとは終わらない)。五小節目からはベースラインがIIIからVIまで上がる。一小節目から七小節目まではベースラインがずっと綺麗に繋がっているから、それもまたサビの安定感を支えることに一役買っている感がある。

 AメロからBメロまでとサビとで曲の雰囲気が劇的に変わっている(風に感じる)理由はもう一つあって、それはBメロからサビに入るところで短三度転調しているから(長調単調の区別をあまり考えない人種)。Bメロの最後にあった#VM7/#VIは短三度転調(上)の合図で、これは転調先のスケールでみるとIVM7/Vのダイアトニックコード、しかもベースがVだからIV/V – Iの終止の形になっていて、結構綺麗に転調できるような印象がある。前がVだから#Vへの半音進行はわりと自然。

 

・[IV – V] – [VIm – IIIm] – [IV – V] – #VM7

『藍 / スキマスイッチ』の二番サビ(「どうかいなくなれ~」)の進行。これも最後の#VM7を合図に短三度上へ転調する(ちなみに#VM7の小節から間奏に入る)。