僕の話?

 

「僕のことなんてわざわざ取り立てて話さなくとも、先輩ならばよくご存知でしょう? いやいや、そんなご謙遜をなさらないでくださいよ。傷つくなあ。これはいつもの揶揄なんかではなく、本心からの言葉です。僕がいったいどういう存在で、どういう人間で、どういう後輩なのかは、他ならぬ先輩が誰よりも知っているはずです。熟知しているはずです――そうでしょう? 最早語り尽くしてしまいましたからねえ。だから、僕の身の上話なんて今更話すことではありません。それでも話してほしいと仰せになるのであれば、一後輩の僕としては何かしらを適当に話さざるを得なくなってしまうわけですけれど、しかし、可愛い後輩の頼みを聞いてくれるだけの良心が先輩に残っているのなら、僕はもっと別の、あるいはいつも通りの会話をしたいと提案させていただきます。こうして先輩と話すことのできる折角の機会を、僕みたいなつまらない人間の紹介だけで終わらせたくはありませんからね。そういうわけで、いつも通りに取りとめもない話をしましょう――先輩の話をしましょう。先輩は自尊心ってやつについて、何か思うところがありますか? ああ、自尊心という言葉から何も思いつかないのなら、こう言い換えましょうか――自分自身を周囲とは異なる特別な存在であると思い込む人間の心理に、何か思うところがありますか? その感情は程度の差こそあれども、誰しもが有するものだとは思いますけれど、しかし、いま述べた程度の差というやつこそが問題なのです。いますよねえ、過剰なまでに自分を特別視している人って。その向きは様々ですけれど、一例を挙げるのなら、さっき先輩とコンビニへ行ったときにいた中年男性の方が典型的ですかね。ああいう人です。何か思いませんでしたか? ええ、そうです、何とも思わないのが普通なのでしょうね。あの程度のことに頭を使っているような余裕は現代人にはありませんから――それは見慣れた光景で、自分には無関係で、だからどうでもいいのだと、そうして無意識のうちに切り捨てるのが普通でしょう。でも、本当にそれでいいのでしょうか? いえ、そんな一般的な返答がほしいわけではないのです。僕は先輩自身の答えが聞きたいのですよ――それでも同じ答え、ですか? いまの先輩はそれでもいいのでしょうけれど、かつての先輩ならきっと全く違った答えを返していたのではないでしょうかね。ああ、こんなのはただの憶測です。僕が先輩と出会ったのは、先輩が大学に入学してから二年経った時ですから、だから、僕はそれ以前の先輩がどうだったかなんてことはほとんど何も知りません。だから、当てずっぽうです。しかし、先輩と話をしているとよく思うのですよ。何かを隠しているような気がするなあ、と。どちらかと言えば、無理をしている、ですかね。大人ぶろうとしている、と言ってもいいです。思ってもいないようなことを、それでも自分は本当にそう思っているのだと信じ込もうとしてはいませんか? 声に出すことで、自ら引けない状況を作り出し、そうやって体裁の整った自己像を組み立ててはいませんか? そんな風に、先輩は自分を特別視するのではなく、むしろ自分は普通でなくてはならないと強く思い込んではいるのではないかと、僕はそんな気がしてならないのです。まあ適当なことを言っているだけなのですけれど、その反応を見るに図星って感じですかね。さっきだって、本当は間違っていると思っていたのではないですか? どうしようもなく間違っていて、なのにどうしようもないからといって、叫ぶ心を切り離したのではないですか? 誰も気にしないから、それが普通だからと、諦めたのではないですか? 悪いことだとは思いませんけれどね。たしかにそれも成長の一つではあるのでしょう。社会に馴染むためにはそういう能力も必要でしょうし、大人であることをそんな風にも定義できるのでしょう。しかし、それでいいのですか? 本当に? 悪いことではありませんけれど、正しいことでもないでしょう。間違っているのです。正しくないということは、先輩が最も嫌っていたものではありませんでしたか? 普通という概念を受け入れるために、あるいは周囲へ溶け込むために、それを強く拒む自分自身を殺して――そうまでしてようやく完成する自己がいわゆる大人というやつなのですか? それが果たして大人になるということなのですか? 本当にそう思っていますか? 思ってなんかいないでしょう。もし仮に本心からそう思っているのであれば、僕みたいなやつと友人になんてなりませんよ――僕みたいに、かつての先輩と同じことを言っているようなやつとは、話すどころか関わろうとすら思わないでしょう。しかしそうではないということは、つまり、先輩は未だ昔の自分を捨てきれていないというわけです。間違っていますか? まあ先輩がしたいようにすればいいと思いますけれど、僕から言わせてもらえるのであれば、特別な人間などどこにもいないのと同じように、普通の人間などという存在もまたどこにもいないのだと、先輩は知っておくべきです――もう知っているかもしれませんが、ならばいま一度思い出すべきです。先輩は普通でありたいと願っているようですけれど、しかし、そんなものはありませんしありえないのです。そもそも普通って何ですか? それこそ、先輩はかつて、普通という言葉を大層嫌っていたのではありませんでしたっけ? 駄目ですよ、そういう自分を蔑ろにしては。以前にも話しましたけれど、完璧な人間などいないのです。世の中に異を唱えるなんてガキっぽい? 正義の味方気取り? 社会のことを何も知らないお子様の言うこと? 言わせておけばいいじゃないですか、そんなことは。いったい何を気にしているのです? かつての先輩はそういう人間のことを一番嫌っていたはずですよ――間違いを間違いだと知ってなお受け入れる社会を憎んでいたはずでしょう。流石に大学を出てしまうと就職せざるを得ないわけで、いよいよ近づいてきた社会への扉を前にそういった気の迷いを起こすのも分からなくはないですけれどね――しかし、一度冷静になってみてください。拾い上げろとまでは言いませんけれど、完全に捨てきってしまうよりも前に、本当にそれでいいのかをちゃんと考えてみてください。もういい歳なんですから、そのくらいは一人でもできるでしょう? 僕がいなくとも、僕みたいなやつの助けは借りなくとも、自分自身のことくらいは自分の手で救ってやってくださいね」

 

 

 

ペトリコール

 

 

 ここ最近、彼の話をめっきりしなくなった。特に理由があったわけではないし、思い当たる節なんて何もないのだけれど、しかし、どちらかといえば、何もなかったから何も話さなかっただけなのだろうと思う。

 何もない。

 本当に、何も。

 彼と僕との交流はつい先日にいよいよ終わりを迎えたわけで、だからといって関係が完全に途絶えたというわけではないにせよ、話をする機会がめっきりと減ったのは揺るぎようのない事実だ。彼は遠くの方に住んでいて、それ故に顔を合わせる機会も年に数回くらいのものなので、話す機会がないということは、つまり、彼と関わる機会がないということだ。

 彼について話していないことなんていくらでもあるし、それらすべてを詳らかに話そうというつもりは全くない。彼と関わった毎日は、言うなれば大事に仕舞っておきたい宝物であり、一人だけで抱えていたい体温のようなものだ。そんなことを言う割には再三再四と彼のことを話してしまっているけれど、それも多分、想い出の欠片を大切にしすぎるが故のものなのだと思う。僕は結構な頻度で、ひた隠しにしている感情を、綺麗なままのそれを、それでも誰かと共有してみたいと思ってしまう。自慢したいというわけではなくて、何というか、誰かに知っていてほしいと思うのだ。

 彼が僕の人格形成に大きく寄与していることは既に何度も話したことだけれど、つまり、彼との出来事を話すというのは、そのまま即ち僕自身のことを話すということになるわけだ。逆に、僕、山上一葉という一個人について話そうと思えば、彼のことを話さざるを得ない。だから、僕は彼という存在をおぼろげながら語ってきたのだ。でも、だからといって、誰彼構わずに話す気なんて全くない。僕は彼についての詳細、あるいは正体の一切を語らない。それは僕個人のことをあまり知られたくないというのもあるし、彼とのことを話したくないというのもあるし、そもそも彼とのあれこれを軽く扱いたくはないのだ。幸せアピールをしたがる人のことを、自分は幸せそうであると周囲が承認してくれるから、だから自分は本当に幸せなのだと、そうやって幻想に溺れたいだけなのだと僕は考えているから、そういう人たちとは決して同一視されたくないという感情がどこかにある。そうでなくても、僕は、彼との思い出を軽んじようとは思わないし、そうするくらいなら舌を噛み切って、あるいは腕を断ち切って、死んだほうがマシだ。

 そういうわけで、今後も真に迫るようなことは何も書かないつもりだけれど、しかし、僕がこれからそうするように、彼と話したことについて、つらつらと書くことは何度もあると思う。先ほども言ったけれど、それが僕にとっての自己紹介なのだ。僕という個人はあまりにもつまらなくて、ちっぽけで、だから本当は話すことなんて何もないわけだけれど。

 

 以前、彼とこんな話をしたことがある。たしか僕が大学に入る前のことだった。浪人中だったか、あるいは合格後だったかは忘れてしまったけれど、入学以前であったことは間違いない。

 京大という場所に、革新的な出会いを期待していたのは確かだ。変な連中が集まる場所だというのは幾度となく聞いていたから、自分の目から見える世界を尽く塗り替えてくれるような、そんな存在に会えたらいいと思っていた。それでも、何だか信じきれない部分があって、つまり僕は疑っていた。京大だなんてハイレベルな大学へまで行って、それでも見つからなかったらどうしようかと、そんなことを彼に零した。いまにして思えば、浪人中はかなり精神を病んでいたので、ただ単に勉強したくないだけだろお前、と言ってしまいたくなるけれど、彼はそれでも真摯に答えてくれた。その返答が、いかにも彼らしいというか、それを聞いた当時の僕はひどく笑ってしまったものだけれど、彼曰く、僕は出会えた、とのことだった。だからきっと君にも見つけられるだろう、と、そんなことを言っていた。

 これは少し前にも書いたことだけれど、大学に入ってからというもの、僕はそういう相手のことをずっと探していたのだ。決して分かり合えはしなくとも、それでも世界を擦りあわせられるような相手を探していた。それが、感情墓地の存在意義だった。

 僕はこれからも色々なことを色々な風に書くだろうし、以前言っていたことと真逆のことを平気で言ったりもするだろうし、適当なことをそれっぽく書いたりもするのだろうけれど、それは間違いなくその時の僕自身が思っていたことであり、嘘でも偽りでもない。

 嘘じゃない。

 そういう文章が書きたかったんだ、いまは。

 

 今度、彼に会えるかもしれないという話がある。そのときには、是非とも彼に知らせてやりたいことが一つあるのだ。そんな話の事、彼はきっと覚えていないのだろうけれど、それでも、話してやりたいと思う。

 僕も、出会えた。そんな気がする。

 みたいな話を。

 

 

 

完璧とは何か、ですか?

 

 

「頭脳明晰博学多識、天上天下唯我独尊、才色兼備の八方美人として校内で名の通っている先輩でも、そういったいかにも凡人が頭を悩ませていそうなことをお考えになるのですね――ああ、なるほど、よくあるあれですか? 世間知らずのお嬢様が何らかの手違いで庶民の生活に興味を持ち、付き添いの黒服執事にこの世の有象無象について尋ねるような――そういう感じのやつですかね? ということはつまり、僕は凡人代表というわけですか。なるほどなるほど。そうなると流石の僕でも俄かに緊張してきました。一人でカラオケに行くときの一段階下ぐらいの緊張です――なんて、冗談ですよ、冗談。そんなに悲しそうな顔をしないでください。いえいえ、馬鹿になんてしてませんよ? 本当ですって。やだなあ、僕みたいに従順で忠実で模範的な後輩のことを疑うんですか? 僕はきちんと先輩のことをお慕い申し上げておりますよ。後輩らしく、です。それで――何でしたっけ? そうそう、完璧についてでしたっけ。藪から棒にそんなことを訊かれてもという感じですけれど、しかし他ならぬ先輩からのお言葉ですからね――努めて模範的後輩を演じている僕としては、答えないわけにはいきませんか。誠心誠意答えさせていただきましょう。その前に、そもそもの話ですけれど、先輩はこの『完璧』という言葉をどういう文脈で話しておられるのでしょう? これを確認しないことには、話を始めようにもどうしようもありません。たとえば、美しい包丁という名詞句における『美しい』の意味とは、恐らく機能美的なことなのでしょうけれど、一方で、美しい人という名詞句における『美しい』が表すのは、十中八九、機能美のことではないでしょう――読みも書きも文法的な用法も全く同じ言葉といえども、文脈次第によってその意味合いは様々に変化するわけです――当たり前のことですけれどね。ならば、その前提を共有せずして意見を交換しようとするのはあまりにも不毛――というよりはただただ愚かなだけです。先日の行間の件ではありませんけれど、しかし、そういう根本的なところはきちんとしておかなくては、無駄な論争を繰り広げる羽目になりかねませんからね――互いが互いに異なる定義に基づいて物事を語るせいで、議論はまるで平行線のままで一向に進展しないなんて光景、そんなものはこの世にありふれているでしょう? いえ、その場合は議論ですらありませんけれどね。ただの口喧嘩です。そういうわけで、まずは先輩の話を聞かせてくださいよ。どういう経緯でその質問を僕にするに至ったのか――までは流石に話さなくていいですけれど、せめてどういった意図で僕に訊いているのかくらいは教えてください。……ふむ……はあ、なるほど? そういうことでしたか。そういう意味合いでしたか――ああ、別に構いません。先輩が話してくださった前提に不満があるわけではないのです。そうではなくてですね――いやはや、かように思慮深い先輩のことですから、それはもうきっと高度に哲学的で形而上学的な思考を経た上での発言でしょうし、僕なんかじゃ話し相手どころか暇つぶしの役目すら果たせないのだろうな、面目ないな、と気を揉んでいたのですけれど、いざ蓋を開いてみると思っていた以上に普通のことで、如何ほどかと期待していた僕としては肩透かしを食らったような気分ですよ。やれやれ。いったいどんな高論卓説が飛び出てくるかと思えば――って、冗談ですよ、冗談。そそくさと会話を切り上げようとしないでください。器の小さい先輩ですねえ、まったく。まあ、先輩想いの後輩なりにそれらしいフォローを一応挟んでおくと、それが先輩の良いところだと僕は思いますよ。変に衒学的でないところのことです――偏に衒学的でない人間と言っても、自覚を以て慎んでいる人間と、単純に馬鹿で何も考えていない人間との区別は明確にしておかなくてはならないところですけれど。それはさておき。人間に求められるべき完璧さとは何か、ですか。あえて言い換えるとするなら、完璧な人間とはなにか、ってことになるんですかね? ここまでに相当な時間を割いてしまっていますし、いまさら勿体ぶるのもあれなので結論から先に言ってしまいますけれど、不完全な人間であることを認められる人間――それが僕の想定する、完璧な、つまり完全な人間であることの必要十分条件です。数学において求められる完璧さとは既存の定理に何一つ矛盾しないことですが、しかし、人間にそれを求めるのは不合理でしょう。不合理であり、そして不可能です。僕らはコンピューターなんかでは決してないのですから、完璧なんてことはありえないのです。それでも完璧でありたいと願うのなら、完璧な人間など存在し得ないのだと、自分は決して完璧などにはなれないのだと――そうして自分の中にこびりついている自惚れを排斥していこうとする努力からまずは始めるべきでしょう。おや、何です? お前がそんなことを言うなんて意外だ、とでも言いたげな顔をしていますね。そういえば先輩は自分のことをクールキャラか何かだと勘違いしているような節がありますけれど、これは先輩の将来を慮って進言しておくのですけれど、先輩って表情にすぐ出るのでかなり分かりやすいですよ? いえ、本当ですって。そういうわけで、その厨二チックなキャラクターだけは大学卒業までに矯正しておいた方がいいと、僕からは申し上げておきましょう。身の程なんてまるで弁えずに、知ったような口ぶりで申し上げておきましょう。それで――何の話でしたっけ? 先輩が変な顔するから忘れちゃったじゃないですか、もう。えーっと、ああ、そう。僕は別に完璧主義者というわけではないのですよ――それこそ先輩は僕のことをそのように捉えているかもしれませんが、だとすればそれはただの買い被りです。あるいは、見る目がないと言ってもいい。僕はずっと完璧を追いかけてはいますけれど、しかし、完璧な存在でありたいなどと願ったことは、生まれてこの方一度としてないのですよ。ほんのこれっぽっちもありません。むしろ、言わせてもらえるのであれば、僕は完璧主義者というやつが嫌いですね――心底嫌いです。ああいう人たちは完璧という概念が自分の手の届く範囲にあると考えているのですよ。だからこそ、他人にも完璧であることを平気で強要するのでしょう。自分ができているのに、どうしてお前らは出来ないんだ、とこんな風なこと言う。お年寄りを見たら席を譲れだとか、歩道はなるべく広がらずに歩けだとか、そういった文句を、他人に向かって、あるいは壁に向かって、ごちゃごちゃと言う――ええ、たしかに、僕も似たようなものかもしれません。やっていることは彼らと似たり寄ったりですからね。しかしそれでも反論するとすれば、僕が完璧を求めているのはあくまでも世界に対してだけ、ということです。彼らのように、無責任に、一方的に、独善的に、自分と同じであることを他人に無理強いし、つまらない自己陶酔で刹那的な優越感に浸って満足しているような人間とは、間違っても一緒にしていただきたくないですね」

 

 

 

プロローグ、そして後日談

 

 

 望月伍冴という後輩について、ここら辺で話しておくべきなのだろう。朝の通学路で出会い頭にいきなり延命治療に関する意見を問うてくるような彼のことを、きちんと説明しておく必要があるのだろう。というのも、このまま彼のことについて何も触れないでおくというのも何だか気持ちが悪いし、それに、先日誤って外せない用事をダブルブッキングしてしまったとき、彼に僕の代わりをお願いしたところ、それはもうよくわからないことをべらべらと一時間もの間ずっと捲し立てて帰ってきたという話を聞いて(他の誰もない伍冴くん本人からだ)、やってしまったという思いに駆られたという理由もある――どちらかといえば、その謝罪がしたくて、謝罪というよりは釈明がしたくて、だからわざわざこんな場を用意したのだ。そうは言っても、しかし、あの場にいた人がこの場にもいるとは限らないわけだけれど、これぐらいしか僕には打つ手がないのだ。だって、彼が誰に向かって話していたのか、実のところ僕は知らないのだから――実際には行けなかったわけだけれど、僕にしたってそこに誰が来ているのかは行ってみるまでのお楽しみだったのだから。そういうわけで、ここで彼個人のことについて、そしてあの場で彼が話したらしいことについて、ある程度の釈明をしたいと思う。そうすることで、愚かな僕自身を許してやりたいと思うのだ。

 望月伍冴。もちづきいづさ。それが、彼が僕に語った名前だ。本名かどうかは知らないし特に興味もないので、僕は彼のことを彼自身から推奨されたとおりに伍冴くんと呼んでいる。今年の春に僕と同じ大学へ入学した彼と最初に知り合ったのは、たしかとある勉強会でのことだった――彼は、まあ僕も同じなのだけれど、数学を深く学ぼうと志して今の大学へと進学してきた人間であり、その勉強会とは数学についてのものだった。大学のカリキュラム的には三回生相当の分野を扱う会だったのだけれど、僕も含めて二回生で参加した人間が数人いた――その中でさらに年下の、つまり一回生の参加者は彼一人だけだった。だから、というとおかしな話で、もちろん紆余曲折はあったのだけれど、そういう次第で、僕は彼と親しい間柄となったのだった。

 彼の人格といえば、延命治療の一件を聞いてもらえばすぐに分かるだろうが、どこかズレている風なところがある――彼だって僕みたいなやつには言われたくないだろうけれど、しかし、彼は致命的に、あるいは決定的に周囲からズレているのだ。こう言うと勘違いされそうだけれど、彼がズレているというわけでは決してない。そうではなくて、むしろ真逆で、彼以外の何もかもがどうしようもないほどにズレていて、そして間違っている――彼を目の前にすると、否応なくそう思わされてしまうのだ。たとえば、法定速度を無視して高速道路を走っている車に、あるいはそれを許容する社会に対して声を上げ、問題を提起する――様々な間違いをなあなあで呑み込んで、それでも何とか廻っている世界に、お前は間違っている、という苦言を呈し続ける。まるで規則という概念を具現化したような存在――それがきっと望月伍冴という個人なのだ。

 先日、僕が代わりをお願いした件について、彼はそこで『行間を読む』ということについて語ってきたと言っていたけれど、そこで話したらしいことを後になって僕自身も彼から聞かされたのだけれど、結局、あれにしたってそうで、彼はいつだって当たり前のことを当たり前のように言うだけなのだ。わざわざ取り立てて話すほどのことでもないと誰もが思うようなことを、それでもわざわざ取り立てて話したがるのが彼という人間だ。あれぐらいことは誰だって少しくらい考えれば分かることなのに、と僕なんかは思うけれど、しかし、彼ならそんな僕の返事すらも笑い飛ばすのだろう。こんな風に。

「ええ、そうですね。誰だって考えればすぐに分かることです。小学生でも分かるとまでは言いませんが、それは過言が過ぎますが、それでも中学生にもなれば理解できるはずのことでしょうね。でも、実際はどうなんしょう。少なくとも僕の目からは、そういうことを理解している人間が大半だとはとても思えません――言葉の裏を勝手に読んで、あるはずもないものを幻視して、そんなことに悲しんだり怒ったり、そういう人ばかりじゃないですか? そういうつまらないことで、間違ったことで、世の中溢れかえっているじゃありませんか。つまり、考えてないんですよ、誰も。誰もがその程度のことと切り捨てるようなことを、しかし、誰も考えていないのです。だから、この程度の些細なことでも大声で主張していかなきゃ駄目だと言うのです。そういう人間がこの世界に一人くらいは必要なんですよ。自分が理解できるからといって、全人類がそうだとは限らないのです――全員が全員そうだと願っていたいという気持ちはお察ししますけれどね。しかし、それは期待が過ぎるというものです。救いようのない馬鹿ってやつがこの世界には腐るほどいるのです――けれど、救いようがないからといって、救いの手を差し伸べなくていいということにはならないでしょう。盲目で愚鈍な彼らでも気づくことができるように、誰かが大声を上げなくてはならないのですよ」

 間違いを間違いだと言い続け、理想的な正しさを追求し続ける存在――それが望月伍冴だ。彼の前では、どんな体裁を繕っている日常でも途端に綻びを見せる。彼の前では、どんなに些細な間違いでも結局は間違いでしかなくて、許容されることなど、ましてや見逃されるなんてことは決してないのだから。何一つも欠けることのない――さながら満月のような完璧さを、彼は求めている。

 僕が彼について、あるいは彼が先日話したことについて語れるのは、いまのところはせいぜいこの程度なのだけれど、後日談というか何というか、あの後、僕が彼からその日の話を聞いていた時に、彼はふと思い出したようにしてこんなことを話していた。最後にその言葉を一通り紹介しておいて、この場はとりあえず解散とすることにしよう。望月伍冴という個人について、僕はここまであれこれと語ってきたわけだけれど、しかし、彼という人格を紹介するのであれば、きっと彼自身の言葉に語ってもらった方が正確に伝わるだろうから。

「行間なんて、あるいは言葉の裏なんて、ですかね――そんなものは、見えてしまわないように、覗こうとも思わないくらいに埋め尽くしてしまえばいいのですよ。まあ覗かれたいと思っての言葉ならまた別なのでしょうけれど、しかし、そんな独り善がりな言葉を投げかけるのは些か不親切が過ぎるというものです――自分の言葉の裏に潜めた感情を読み取ってほしいと切望する人は少なくないようですが、僕から一言言わせてもらえるとすれば、そんなことを相手に期待するだけ無駄だってことですね。むしろ自分の首を絞めるだけじゃないですか? 相手に伝わるのは不完全な情報であり、不正確な情報であり、不必要な情報でしかないのです。本当に伝えたいことを直接伝えるのは無粋だとする風潮が日本には古くからあるそうですが、正直言って馬鹿げているとしか思えませんね――伝いたいことなんて、直接伝えないと伝わらないに決まっているのです。それを、勝手に行間を読んで推し量ってくれ、だなんて自分勝手が過ぎる――その程度の勇気すら持てないのなら、その程度の誠実さすら持てないのなら、そもそも何かを伝えたいだなんて思うべきですらないでしょう。誤った情報のせいで何かが狂ってしまう人だって、どこかにはいるのでしょうから。そういった可能性を考慮できないのは、独善的云々以前にただ未熟なだけです――というようなメッセージを、実はあの話の裏には隠していたのですけれど、先輩は気づいていましたか? 頭脳明晰博学多識な先輩のことですから、きっと見透かしていただろうと信じていますけれど、つまり半分くらいは疑っていますけれど、一応念のために答え合わせをしてみました。行間というやつは読者に一存されると僕は言いましたけれど、でもそれは読者に非があるわけでは必ずしもないのです――むしろ非があるのは往々にして筆者の側でしょう。大抵の場合、読者は何も悪くありません。そんな誤った読み方をさせてしまう筆者の方が悪いのです。だから、行間なんてものはなるべく埋めてしまった方がいいのですよ。何かを伝えたいと思うのは良いことですけれど、尊重されるべきことですけれど、しかし、その場合には行間を埋める努力を怠ってはならないのです――読者のためにではなく、自分のために、です。まあ、そんな僕のメッセージも、あの話から読み取れた人がいるとすれば先輩くらいのものじゃないかと思いますけれどね。行間なんてものを読む気が起こらない程度には長々と話しましたし、僕という個人の性質を知らないのでは表面だけで理解した気になってくれることでしょう――まあ僕はそのメッセージを誰かに伝えたかったわけでは決してないですし、強いて言うのであれば先輩にくらいは言っておいてもいいか程度の意識だったので、だからあの場では行間を読ませないように話を展開し、かつこの場ではネタばらしをしておいた、というわけです」

 

 

 

延命治療について話しましょう

 

 

「――ああっと、すみません。挨拶を忘れていました、おはようございます。朝起きて通学路を歩き学校まで向かうという世界一つまらないルーチンを前にして気分が沈んでいましたが、まさか先輩に会えるなんて――あまりの嬉しさに思わずいきなり話し始めてしまいました。失敬、僕としたことが――朝一番に扱う話題にしては些か突飛過ぎるって? いえ、そんなに大した話じゃないんですよ。まあ適当に聞いてください。適当に聞いて、聞き流してください。どんなことにも終わりがあるって話です。たとえば人間関係――いくら友人の少ない先輩にだってまさか経験がないわけじゃないでしょう? 高校の頃に付き合っていた友人たちとは、大学へ進学すると同時に、あるいは就職すると同時に、どうしても疎遠になってしまうわけで、それは仕方のないこととはいえ、疑いようもなく人間関係の終わりなのです。こういう表現を使うと、互いに嫌い合って、憎み合って、存在すら認めたくないと思うにまで至る、それこそ破滅的で壊滅的な終焉を思い浮かべる人ばかりですけれど、しかし、より現実的にはこういう穏やかな終わりがほとんどでしょう。穏やかというよりは、空虚、ですかね? 空虚で、そして寒々しい終わりです。実際には終わったわけではなくとも、しかし、事実上は終わっている――終わりきっていて、断ち切れている。人が真っ先に思い浮かべる終わり、憎み合った末の決別なんて、これを思えばまだマシな方じゃないですか? 再起不能なまでに崩壊した関係性ではあっても、決して空虚な関係性ではないでしょう。負の感情でつながっているわけですからね。しかし、現実はそうじゃない。大体の場合、人間関係というやつは突然消失する――まるで其処には最初から何もなかったかのように忽然と消えて、そして、本当に最初から何もなかったのだということを知らされる日が来る。空っぽだったと思う日がやってくる。それは避けられないんです。ずっと続くもの、いわゆる永遠みたいなものはこの世界のどこにも存在しない。古くからの言葉を使うのなら諸行無常ってやつですか――まあ、僕はこの言葉が嫌いなんですけれど、でも、きっと真理の一つではあるのでしょう。大人気の連載漫画だって、ベストセラーのシリーズものだって、突き詰めれば個々人の一生だって、いつかは必ず終わってしまうわけで、ずっと続いていくものなんて何もないんです。何も。そう考えると、何だか不思議に思えてきませんか? 終わりを先送りにし続ける意味っていったい何なのだろう、って。人は何かと永遠を願いがちですけれど、実際そんなものはないわけで、ありえないわけで、それなのに、そうと分かってなおも永遠を願う。実現させようとする。歪めようとする。先送りにして、先延ばしにして、架空の永遠を作り出す。その動機はいったい何なんでしょうか。いやいや、この問いに正確な答えなんて――誰しもが納得できるような解決なんて存在しないんですよ。そんなものは在るはずがないんです。だから、本当は問いですらない。ただの疑問であり、そして疑念です。疑っているんですよ。疑いなく訪れる終焉をどうしようもなく拒む自分自身を、僕は疑っている。つまり、理解できない感情を何とか理解しようと努力している最中なんですよ。それにしても、不肖僕一人だけでは些かハードルが高すぎるようでして――だから、訊いておきたいのですけれど、先輩はどう思いますか? いわゆる延命治療ってやつについて、先輩はいったいどうお考えですか?」

 

 

 

実家

 

 

 実家という空間が齎すエトセトラを、しかしながら、僕は何一つとして穏やかな気持ちで享受することが出来ない。気が立つというか、あるいは気が気でないというか、落ち着かないというか、そわそわするというか。だから、実家に帰ろうとは露ほども思わない。思わないし、思えないし、思いもしない。帰ったところで何かまたよからぬ感情を植え付けられるのが目に見えているからというのもあるし、より簡潔には居場所がないからというのもある。

 居場所がない。物理的な話じゃない。いや、物理的にも僕の居場所は実家には最早ないのだけれど、でも、これはそういうことじゃなく、もっと精神的な面での話だ。僕はこの感情を、つまり何だか家にいたくないと思ってしまう感情を、全人類に普遍のものだと思っているけれど、どうなのだろう。まあ言われてみればそう思うこともあるという人ならそれなりにいると思う。だが、僕の場合はそれが常だ。家にいたくない。自分の居場所がない。そんな気がしている。ずっと昔から。

 思えば、姉が家を出ていった頃から、具体的には僕が中学一年生くらいの頃から、実家というさほど広くない空間において僕が根城としていたのは自室だけだった。気を落ち着けていられるのが自室だけだったという意味だ。居間に自分の居場所はないと思っていた。これは精神的な話ではなく物理的な話だ。というのも、僕の実家はかなり散らかっている。腰を落ち着けられる場所なんて、そう多くはないのだ。だから、自室に籠るようになった。学校から帰ってくると自室へ直行し、漫画を読んだりして時間をつぶし、風呂の時間になれば風呂へ入り、晩御飯は部屋で食べ、寝る時間になったら自室の布団へ潜り込み、朝起きたら学校へ行く。そんな感じ。

 中学の頃はまだ居間に居座ることもあったような気がするけれど、高校に入ってからは完全にそれだけになった。そういうわけで、実家において僕の居場所と言えるのは凡そ自室だけであったのだ。

 それが受験生時代になると変わってきた。いや、僕が受験生になったということは全く関係がなくて、それはどうでもよくて、単に年月が経過したというのが重要だ。人は歳を取ると耳が遠くなるせいか、やたらと大きな声で会話をしようとするようになる。それがうちの親にも起こり始めたのだ。うるさい。騒がしい。僕の実家はマンションの一室であるので、ドア一枚隔てた向こう側が居間なのだ。そこで大声を出されるものだから、それはもう鬱陶しい。鬱陶しいと思うのが筋違いだと分かってはいてもそう思う。受験期にはCDプレイヤーにかなりお世話になったけれど、それはつまりそういう意味なのだ。煩わしい声を意識の外へ追いやりたかったのだ。

 だから、受験生の頃、特に浪人中には家を出たくて仕方がなかった。浪人時代に足しげく自習室や図書館へ通っていたのだって、別に僕が勉学に真剣だったというわけでは決してない。単純に家にいたくなかったのだ。平日だろうと休日だろうと、そんなことは関係なしに、あの家にいたいとは思えなくなった。受験が終わり、大学生活が始まってもなお、その感情は残留したままだった。というか、実家から大学まで片道約二時間もかかるということもあって、家を出たいという感情はますます大きくなっていった。

 そして、今年の三月、ついに僕は下宿を始めたわけだけれど、それはもう予想以上に快適過ぎたというのが本音だ。自炊やら洗濯やら、面倒なことは増えたけれど、しかし、一人で落ち着くことのできる時間が保証されているということ以上に大事なことなんてものは、少なくとも僕にとっては存在しなかった。

 こんなことを言うと親不孝だろうと思うけれど、でも、やっぱり実家へは帰りたくない。切実に帰りたくない。こんなことを書いている僕が、では現在どこにいるのかと訊かれれば、まあ実家にいるわけなのだけれど。実家の、以前は僕の部屋だった空き部屋の中にぽつんと置かれた椅子に座っているわけだけれど。しかし、下宿へ戻りたくて仕方がない。早くあの部屋のベッドに転がりたい。はんなり豆腐を抱きしめたい。何なら洗わずに放置しているペットボトルを洗うことですら進んでやりたい。そう思ってしまう。だって、ここには、つまり実家には、僕の居場所がないのだ。それは精神的にもそうであり、そしてついには物理的にもなくなった。僕の部屋が最早存在しないのだ、この家には。だから、帰ってきてもなお帰る場所がないという感じがする。ここは本当に僕の家なのか、と思う。そわそわする。ちぐはぐ。ふわふわ。

 十九年ほど住んだ家よりも、住み始めてまだ半年足らずの下宿の方にいたいと強く願っているという現状には、僕が他ならぬ自分自身の名前を忌み嫌っている現象とどこかしら似たような何かを感じる。微かに、だけれど。何だかんだと理由をつけはしたものの、やっぱり結局のところ、ただ単に僕は昔の自分という存在を否定したいだけなのかもしれない。そう思った。

 明日の昼には京都へ帰る。

 

 

 

大学って何なんすかね?

 

 

 大学って何なんすかね?

 

 思ったことないですか? いや、誰にだってあるはずですよ。ない方がおかしい。こんなにも異常な空間を異常だと認識できないのは、相当に真面目な人間か、あるいは相当に盲目で無責任で愚かな人間かのいずれかだと思いますし、その場合、恐らく大半の人間が後者です。それこそ日夜学問に励んでいるような真面目な人でもない限りは。

 講義へ行ったり、あるいは行かなかったり。行くなら行くで真面目に聴いたり端末を弄っていたり。行かないなら行かないでバイトを入れてお金稼ぎをしたり、あるいはそのお金で友達と遊んだり。期末が近づいてきたら思い出したように勉強をし、適当な答案やレポートを提出し、単位が来たり来なかったり。結局何を身につけたのかと問うてみれば、その実、何も身についてなんかいない。訳も分からないまま四ヵ月弱にわたる半期が終了し、その次にやってくるのは長期の休暇。その間に課される課題なんてもの、大体の場合は存在せず、大半はバイトなり旅行なり引きこもるなりで、日々を何の生産性もない行為で無為に貪り、そして気がつけば大学が再開する時期になっている。

 

 いやさ。

 何、これ?

 って思いません?

 僕はたまに思うんですよ。たとえば、地元へ帰った時とかに。地元の知人たちの中にはもうすでに就職している人も数人いて、一方の自分はといえば大学へ通っているわけですけれど、その知人たちの方がよっぽど真っ当で正当だと思うことがあるんです。自分は京大なんてなまじっか有名なところへ通っているから、それだけで意味もなく褒められることがあるのですけれど、そのたびに「いや、俺なんかより、あいつらの方がよっぽど偉いし賢いよ」と思うわけです。もちろん本心から。

 大学へ通っている程度のことの一体何が偉いんだよ。何をやってるかって、そりゃ勿論勉強はしているけれど、でも、こんな記事を書こうと思ってしまう程度には堕落した生活を送っているんだぜ。そんな人間の一体どこがどう偉いってんだ。やっていることなんてきっと同じで、そこには大した差異がなくて、それなのにむやみやたらと持ち上げられる。

 意味が分からなくないですか。

 いまの自分の想いをはっきりと書いてしまうと、自分にとって大学という場所は京大卒という肩書を得るためだけに存在するとすら思っています。就職の時に有利になるっていうしな、くらいの感覚。馬鹿だろ。舐め腐ってる。死んだほうがいい。

 あいつらの方が自分なんかよりよっぽど重宝されるべき存在なんですよ。それなのに、高校時代にちょっと頑張ったからってだけで就職活動が有利になるのってバグってません? 異常ですよ。大学時代に何をしていましたか、と訊かれたとして、高卒時点で既に働いていた人間以上の価値がある行いを答えられる大学生が、果たしてこの世界にいくらいるんだろうって話です。勉強してましたって? 嘘つけ。勉強なんて大してやっていないどころじゃない。微塵もやってないだろうが。一般に大学生と定義づけられるための最低条件であるところの勉強さえもまともにやっていない人間が、高校卒業と同時に世の為にと真面目に働くことを選んだ人間よりも重宝される道理なんてないだろ。ないんだよ。あってたまるか。

 

 ふざけんな、と思うんですよ。やり場のない憤りというか、宛てのない思いというか、根拠のない不快感です。火のないところに煮え立った怒りです。もちろん自分も含めてですけれど、堕落しまくっているであろう大半の大学生という存在が、したり顔で社会へ出ていくのが気持ち悪くて薄気味悪くて異常で異質で仕方がないという感じがするんです。その四年間、あるいは六年間で、大して何も得ていないくせに。こういうことを言うと、自分は人間的に成長しただとかかけがえのない友人を作ることが出来たとか吐かす馬鹿が出てくるのでしょうけれど、いや、知らねえよ、そんなこと、って感じですね。聞いてない。聞いてないし、興味もない。社会を動かす歯車になるという一点において、一個人の個性なんて、ましてや人間関係なんてものはどうでもいいんだわ。それが何の役に立つって? 局所的に見れば影響を及ぼすのだろうけれど、大局的に見れば誤差でしかない。そうでしょう?

 

 だからって、高校卒業と同時に働き始めるのが正解だって言いたいわけじゃないですよ、もちろん。もしも僕がここまでに書いた文章を読んでそういう印象を受けたという人がいるのならば、日本の国語教育を、とりあえず中学校辺りから受けなおすことをオススメします。誰もそんな話はしていない。

 じゃあ、言いたいことは何なのかって? だから、初めに言ったじゃないですか。試験時間が始まったらまずは文頭と文末、それにタイトルを確認して、その文章の主題をおおまかにでも掴めってのはセンター国語の基本戦略でしょう。筆者の主張を確認したいのならそれに従えばよくて、要するに『大学って何なんすかね?』ってこと一つです。学びたいこともないのに大学へ何となくで進学して、友達付き合いを増やし、遊ぶ金欲しさにとりあえずバイトをして、講義は適度にサボり、期末試験はギリギリで赤点を回避し、レポートは付け焼刃の知識を振りかざしながら徹夜で仕上げ、長期休暇にはやっと解放されたと言わんばかりに旅行しまくり、遊びまくり、そんなことを繰り返しながら数年の月日を過ごし、いざ社会へ出るとなれば虚虚織り交ぜの作話をし、実際には大学生活において大したことなんて何もしていなかったのに、いつしか自分もその嘘に呑まれ何かを成し遂げたような気になって、何もないはずの手のひらに残った架空の残滓を手放すまいと必死になる。その程度の人間に、あるいはそんなことに、何の価値があるんだろうか、って話です。大学の名前なんて関係ないんですよ。

 ここまで聞いても、考えたことがない、と言いますか? だったら、あなたは相当に真面目な方の方なのでしょうね。尊敬します。僕は不真面目極まりない学生なので、こういうことを考えてしまうんです。自分なんかがここにいていいのか? こんなにも価値のない自分が? 何故ここにいることを許されている? その理由は? 意味は? 意図は? いったい誰がどうして? そんなことを考えています。真面目な方はそういうことを考える必要がないんだろうな、と思います。いや、これは「考えていないのだろうな」という主張ではないですよ。そりゃ考えもするでしょうけれど、でも、それでもすぐに歩き出せるに違いないと思うのです。僕はそうでないから、ずっとここで立ち止まっている。考える必要がないってのは、そういうことです。

 

 大学への不信感がいよいよ爆発したのは、今年度前期の成績が発表されたときです。いや、それはもう目を疑いました。

 何で単位来てるの? あれだけ不真面目だったのに? ベクトル解析に至っては初週しか出ていないし、試験勉強だって当日の一時間半程度しかやっていないのに? それでどうして単位があるんだ? 教育社会学概論にしても。授業中で課されるミニレポートを五回中一回しか出していないのに、それで88点? なんで? 何が? いったい何をどう評価した? 「いや~、あれだけサボったけど単位がちゃんと来ててよかったよ」なんて思えない。きわめて不可解だし、何なら不愉快ですらある。その評価は真っ当か? 正当か? 信じていいのか? いや、信じられるわけがないだろ。自分がどれだけ不真面目な学生だったかなんて、自分が一番よく分かっているのに、それなのに、どうして評価されているんだ? どうして許されている? 全員受かったってわけじゃない。単位を落とした人だっている。それなのに、だ。どうして?

 こんなことをずっと考えてました。一回生のときはそんなことなかったんですけれどね。それだけ自分の不真面目度合いに拍車がかかったということなのでしょう。残念ながら。

 

 大学って何なんすかね?

 もう分からないです、自分には。分からないし、最早分かろうとも思えなくなってきたし、どうでもいいやって気にすらなっています。よくないんですよね、これ。卒業へのモチベーションが失われつつあります。あと二年半、院進するならあと四年半、それだけの月日を費やす価値が果たしてあるのかという気になってきています。いや、だからって中退することはもちろんないですし、ましてや就職するなんて有り得ないですけれど、それにしても留年くらいなら平気でやってしまいそうです。よくない。

 というわけで、誰か教えてください。お願いします。