延命治療について話しましょう

 

 

「――ああっと、すみません。挨拶を忘れていました、おはようございます。朝起きて通学路を歩き学校まで向かうという世界一つまらないルーチンを前にして気分が沈んでいましたが、まさか先輩に会えるなんて――あまりの嬉しさに思わずいきなり話し始めてしまいました。失敬、僕としたことが――朝一番に扱う話題にしては些か突飛過ぎるって? いえ、そんなに大した話じゃないんですよ。まあ適当に聞いてください。適当に聞いて、聞き流してください。どんなことにも終わりがあるって話です。たとえば人間関係――いくら友人の少ない先輩にだってまさか経験がないわけじゃないでしょう? 高校の頃に付き合っていた友人たちとは、大学へ進学すると同時に、あるいは就職すると同時に、どうしても疎遠になってしまうわけで、それは仕方のないこととはいえ、疑いようもなく人間関係の終わりなのです。こういう表現を使うと、互いに嫌い合って、憎み合って、存在すら認めたくないと思うにまで至る、それこそ破滅的で壊滅的な終焉を思い浮かべる人ばかりですけれど、しかし、より現実的にはこういう穏やかな終わりがほとんどでしょう。穏やかというよりは、空虚、ですかね? 空虚で、そして寒々しい終わりです。実際には終わったわけではなくとも、しかし、事実上は終わっている――終わりきっていて、断ち切れている。人が真っ先に思い浮かべる終わり、憎み合った末の決別なんて、これを思えばまだマシな方じゃないですか? 再起不能なまでに崩壊した関係性ではあっても、決して空虚な関係性ではないでしょう。負の感情でつながっているわけですからね。しかし、現実はそうじゃない。大体の場合、人間関係というやつは突然消失する――まるで其処には最初から何もなかったかのように忽然と消えて、そして、本当に最初から何もなかったのだということを知らされる日が来る。空っぽだったと思う日がやってくる。それは避けられないんです。ずっと続くもの、いわゆる永遠みたいなものはこの世界のどこにも存在しない。古くからの言葉を使うのなら諸行無常ってやつですか――まあ、僕はこの言葉が嫌いなんですけれど、でも、きっと真理の一つではあるのでしょう。大人気の連載漫画だって、ベストセラーのシリーズものだって、突き詰めれば個々人の一生だって、いつかは必ず終わってしまうわけで、ずっと続いていくものなんて何もないんです。何も。そう考えると、何だか不思議に思えてきませんか? 終わりを先送りにし続ける意味っていったい何なのだろう、って。人は何かと永遠を願いがちですけれど、実際そんなものはないわけで、ありえないわけで、それなのに、そうと分かってなおも永遠を願う。実現させようとする。歪めようとする。先送りにして、先延ばしにして、架空の永遠を作り出す。その動機はいったい何なんでしょうか。いやいや、この問いに正確な答えなんて――誰しもが納得できるような解決なんて存在しないんですよ。そんなものは在るはずがないんです。だから、本当は問いですらない。ただの疑問であり、そして疑念です。疑っているんですよ。疑いなく訪れる終焉をどうしようもなく拒む自分自身を、僕は疑っている。つまり、理解できない感情を何とか理解しようと努力している最中なんですよ。それにしても、不肖僕一人だけでは些かハードルが高すぎるようでして――だから、訊いておきたいのですけれど、先輩はどう思いますか? いわゆる延命治療ってやつについて、先輩はいったいどうお考えですか?」