20221215


 近況。ずっと修論を書いている。それとバイトとへ割かねばならない時間量が半端でないので、ブログの更新をずっとサボっている。よくないな~と思って、思ったのでこうしていまワードパッドに文字を打ち込んでいる。いや、よくないってことは何もないんだけど。でも、何かしらで記録に残しておかないと、未来の自分が過去を振り返ったときに「こいつ、2022 年の 12 月にはいったい何をしていたんだ?」と疑問に感じるかもしれないし。それに、文字媒体として出力することで自分の記憶に焼き付けるという目的でも、やっぱり言葉は残しておいたほうがよいなと思う。自分にとっては。というので、ここ最近考えていたことについてババ―ッと書く。

 

 改めて数ヵ月前の自分の文章を読み返してみると、なんだかびっくりする。なんというか、まるっきりの別人という感じがして。自己の連続性みたいなものを、だからあんまり信じてはいないんだよな。いやまあ、信じていないわけではないか。疑ってもいない、ただ実感することがないというだけで。それこそ、たとえば昔の自分が残した日記なんかを読んでみたりして、あの頃はこんなことを考えたんだって思い出したり、ところでそんな気持ちはもうどこにもないなって思ったり、そういう風に、つまりは離散的に、そうして自己の継続を認識してばかりだよな~みたいな。実際のところは、そりゃまあ連続的に変化しているのだろうけれど。気づいたら髪や爪が伸びてるのと同じ感じ。本当に?

 鍵が掛かってるな~って最近よく思う、自分の中の色んなところに。いったいどんなときにそのことを自覚するのかといえば、それは向かい合った相手に伝える言葉を誤魔化してしまったな~と思う瞬間。そもそもの話、誰かと話すときには一対一であれ多人数であれ自分は聞き役に回ることが多いのだけれど(少なくとも昔はそうだった。いまはどうだろ、微妙かも)、だから、自分の中にある鍵の存在を自覚することはそんなに多くなかった。誤魔化すも何も、まずもって何を話そうともしないから。いや、多くはなかったというのはあんまり正しくなくて、もう少し手前にある、人間関係を形成する上で直面せざるを得なかった鍵なら幾つもあった気がする。手前。まあ、手前だな。それはそれとして、ところで、だから、最近はそうでもないという話。その原因もそれなりには明々白々で、自分の考えていることやみているものについてを尋ねられる機会が急に増えたからだろうと思う。そういったコミュニケーションの在り方が構築された、どこかで。訊かれて、正直に答えることが七割くらいあって、嘘を吐くことが三割くらいある、体感。実際は何かしらを考えていたにもかかわらず、咄嗟にとかでもなくそれが自然というように、何も考えていなかった、と返事したりする。あんまりにも文脈がなさすぎるから、という理由で飲み込んだりすることもあるけれど、そうでない場合も少なからずある。そのたびに、嘘吐いちゃったな~と思う。思って、つまりこれはいまの自分には口にできない類のものなんだな、と思ったりする。鍵が掛かってるな~って思う、そういうときに。踏み込まれるたびに迷ったり迷わなかったり、躊躇ったり躊躇わなかったりで、そんなことを考えたり考えなかったりする。それはそれとして、ここ最近の自分は秘密という言葉をそこそこの頻度で使うようになったな、とも思う。関係なくはない話。何も言わなければなかったことにできる類のものを、わざわざ秘密だとか言ったりする。明確な変化だな、これは流石に。秘密をわざわざ公言するということは、(自分がそうする場合に限っては)いずれは話すかもしれないという意思表明だし。でないなら、最初からなかったことにしておけばよいのだし。……いや、ちょっと違うか。だから、それも鍵ってことなのかもな。開けてみたいな~と思う鍵があって、あと一息くらい自分が頑張ったならそれだけで開けられるのかもしれないなって思えるときに出てくる言葉が、秘密、なのかも。秘密とさえ形容されないものは、開けたいと思ってもちょっと固すぎてびくともしないわってくらいに重たい鍵か、あるいはそもそも開けようとしていないものか、まあそのいずれかなのかなって感じがする。だから、話すではなくて話せるが正しいという気がする。いずれは話せるかもしれないという意思表明。そう考えると、結構な数の鍵をこの短期間で開けられたのかもって思えてくるな。秘密の数と同じくらいは開いているはずだし、……本当かな? まあ、然程大きくは外れていないだろうってことくらいは本当か。自分のことを知ってほしいと思うか。どっちだろ。でも、そういう気持ちが多少なりともあったから、どうすればって疑問だって湧いてくるのだろうし、恐らくは。微塵も考えていないなら、気に留まることだってないだろうから。だから、それもまた鍵が開いた感じ。開いた? 開けた? 開けられた? どれなのかははっきりしないけれど。ちょうど一年前の自分の記事とか読んでみたら、だからびっくりする、本当。相手に自分のことを教えようって気持ち、あんまりないらしい。たしかに、言われてみればそうだった。そうだったはずなんだよな~。もっと知りたいだとか、面と向かって言われたって、昔の自分ならたぶん適当に聞き流してたんだろうなって思う。それができなくなるくらいには何かが変わってるんだなと思うし、何かを変えられているのだなとも思う。悪い気はしない、全然。こんなのはまあ人に依るだろうけど、鍵を一つまたひとつと開けるたびに、少なくとも自分の目には色んなものが良い方向へ向かっていっているようにみえるから。信じていたいって歌詞なんかも、そんな風に鍵の掛かっていた扉の向こう側から飛び出してきたのだし、もとはといえば。だから、悪い気はしないよな、本当に。

 鍵を開けるという行為、内から外へ出ていくみたいな感覚なんだよな。中へ入るっていうんじゃなくて、なんていうか、鍵の掛かった部屋に閉じ込められていて、その空間から出ていくような感じ。そういった感覚が漠然とあるから、だから鍵を開けるという行為は自分にとって、知ってほしいという気持ちの露骨な顕れなのかもなって気がしてる。密室の中に隠れていれば、扉の外へ出なければ、そのまま誰にも気づかれずにいられるわけじゃん、ずっと。なのに、わざわざ外へ出ようとする営みだとするのなら、それってつまりは扉の外に何かがあることを期待しているのだろうなっていう。という理解が正しいかどうかはさておき、でも、あながち間違いでもないように思う。ちょっと前にも、鍵が掛かってるな~、と感じた瞬間があって。次いで、あのときにちゃんと開けられていたらよかったのにな~、と思った。「まあ、知れるものなら知りたいよね」。鍵、明らかにそう。昔の自分にとってのそれは鍵でも何でもなかったのだろうけれど、だけどいまはそれがどうみたって鍵の形にしかみえないんだから、人間って不思議な生き物だよな~って気持ち。離散的すぎる、変化が。追いつかない、理解が、自分のことなのに。相手のことを知りたいと思うか。知りたいなって思う、自分も。知れるものならとか、そんなのじゃなく。知るという言葉を果たして同じ意味で使ってるかどうかは相応に疑わしいけれど、自分に向けられたそれと同じであればいいというくらいには。って、ちょっと後になってから思ったというか、思えたというか、だから。最初はそれを鍵だと思ってなかったから、気づいた瞬間は、これって開けられるものだったんだ、って驚きでまあまあ面白かった。これ以上の景色って何があるんだろうと思ってたけど、実際。でもなんか、案外まだまだありそうな気がする。鍵と思ってない鍵はきっと他にも無数にあるし、これからどのくらいの秘密を解き明かせるんだろうな~ってわくわくがある、ここ最近は。