詩集

 

 周囲の人間に短歌ブームが起こっていて、という件に関連して、そのうち書こうと思っていたものをそういえばと思い出したので、起床してすぐにワードパッドを立ち上げた。文字を主として扱う媒体は様々があり、個々人の性質がみてとれるもの、つまり公的な資料や御伽噺なんかは一旦除外して考えるものとしても、評論、自伝、小説などなど。ところで自身の生活に馴染んでいるものといえば小説と歌詞であり、そんな中、周囲に短歌ブームが起こったので「良い機会かも」と思い、詩集を買って読むなどしてみたのが一週間前。俵万智を買った。サラダ記念日。誰でも、何も知らない自分でさえ知っているやつ。短歌の権威が誰なのか分からず、ところで(これはあくまでただの比喩なので悪く言う意図は全くないのだけれど)日本の漫画文化としてコミケの同人誌をファーストコンタクトにするみたいな、そういう出会い方をすると色々と間違えてしまいそうだな……という気持ちがあって。とりあえず「誰でも知ってるってことは、いわばショートショート界の星新一みたいなもんでしょ」という安直思考に従って、自分はサラダ記念日を手に取った。いやでも、他の人が読んでいるらしい詩集をみせてもらったりして思ったけれど、これはこれで失敗だったかもなと思った。失敗っていうか、半分正解? セーラームーンドラゴンボール現代日本のアニメ文化最先端と勘違いするみたいな、それと同じな気がしてきている。いずれも後世へ名を遺すような素晴らしい作品であることには違いないものの(どっちもアニメ初代は全話観ている、はず)、ところでたとえば作画的な部分を切り取れば、現代日本であのような映像作品を目にすることは稀なわけで。両方を正しく知らないといけないような気がするな、と思った。思ったので、そういう有名若手作家の良い感じの詩集とかあれば教えてください、という私信を残しつつ。俵万智の詩集、というかサラダ記念日はマジで恋の歌が多くて。後書きでも「短歌といえば恋歌」みたいなことが書かれてた(読み返したら、正しくは「歌の本筋は恋歌」だった)んだけど、たしかに、これを読まされたら嫌でも頷かざるを得ないという感じで(嫌ということは全くない)。一方で、これは自分個人の問題だけれど、たぶん、自分がそういった表現法にあんまり適性がないというか。特に恋愛に纏わる事象をあの手この手で表現するみたいな、歌詞でいうと西野カナとか、いや、西野カナの詞は片手で足りる程度しか読んだことのないエアプだからアレなんだけど。『トリセツ』とか。あの歌詞はめちゃくちゃ良いなと思って、ところで主食にするかと言われれば話は別というか。サラダ記念日を読んだ感想も、短歌エアプであるということを断りまくった上で言えば、だいたいそんな感じだった。西野カナもそうだけれど、別に嫌いだとかいけ好かないだとか、そういう話ではなく、単に個人の興味から少し逸れているなというだけ。ところで、興味から逸れている程度のことでしかないので、「これ良いな」と感じたものは幾つもあり(『橋本高校』は特に好きだった)。インターネットで引用されまくっている、かなり有名っぽい短歌群を除いて一つ引用しておくと

買い物に出かけるように「それじゃあ」と母を残してきた福井駅

出典:俵万智『サラダ記念日』河出文庫

とか。そうだよな~~~と思ったし、実家帰ったほうがいいな~~~とも思った。これくらいのスケール感の、難しい言葉や概念があまり飛び交わない日常的な歌を読んでみたいという欲求がかなりあり。あるので、有識者の到来を待っています、本当に。

 

 詩集。詩集か。二、三年くらい前に河原町丸善で手に取ったことがあって、一度だけ。人と一緒に行ったんだけど、そのときは「なんかよくわかんないね」とだけ言って、陳列棚へそのまま戻しちゃったんだよな。二、三年前といえば自分が文章的な創作、有体に言えば小説へも手を伸ばしていた時期で、その頃、あるきっかけから短歌というものへ微妙に興味を持ち、それで書店の該当コーナーまで足を運んだという経緯。それから数年が経ち、まさか今更になって詩集を手に取ることになるとは思ってもおらず、「まさかな~」と思いながらバイト帰りの電車内で読んでいた。言ってもまだ一冊読んだだけなので、「なんかよくわかんないね」はやっぱり「なんかよくわかんないね」のままだけれど、でもなんか、解決してよかったなと思った。その、短歌へ興味を持ったきっかけの部分が。一回生の冬か、あるいは二回生の春か、その辺りの季節の変わり目だったと思うけれど、それくらいの時期に読んだ本のある場面が当時からものすごく印象的で。それが詩集に纏わるものだったから、だから確かめてみたかったっていうだけの、そしてそれが今になって果たされたというだけの話。印象的っていうか、なんだろうな、とても重大な情報が抜け落ちているような気がしてならないけれど、この表現からは。その本、というかそのシリーズ。数えたこともないけれど恐らくは通しで二桁回数読み返していて、特定部分だけでいいなら三桁以上かな、どの巻も。印象的な場面がいたるところに散りばめられていて、それでいて、それらは物語の本筋とあんまり関係がなかったり。小説の、そういうところが自分はすごく好きで、ってのはこれまでのと全く関連しない話だけれど。水族館。水と魚。色んな人がいるはずだよなと思う。泳いでいる魚をみたいという人がいて、魚の泳いでいる水槽がみたいという人もいて。ところで小説は、なんていうか、作品それ自体が一つの巨大な水槽って感じがしていて、自分にとって。その中にはたくさんの魚がいて、登場人物の人間関係とか、物語のメインテーマとか、悪役とかヒロインとか世界事情とか。ところで水槽を水槽として完成させるためには、魚よりもむしろたくさんの水を入れておく必要があって、それがその、情景描写とか何気ない会話とか地の文とか、そういう、言ってしまえばあってもなくてもいいような(嘘で、本当は必要不可欠な)部分に現れているみたいな。小説という媒体のそういう……、在り方? をものすごく好ましく思っている節がある、自分は。全然関係ない話したわ。脱線。無理矢理に話を戻すなら、そういう面でとても気に入っている作品があって、その一部に詩集の登場する場面があって、それを確かめることができてよかったっていう、それだけの話。

「わからないから、読んでみようかと思って。ブックオフで一〇〇円だったし」
「そう。感想は?」
「悪くないかな。でも、詩集ってなんか矛盾してる」
「どこが?」
「詩って集めるものじゃない気がする。一冊の本にまとまってるのが、なんだか不自然。本当はさ、ページを破いて、ばらばらに散らばらせて、なんとなく拾い上げたひとつを読むのがいいんじゃないかな」

出典:河野裕『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』新潮文庫

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 自分ひとりじゃ絶対に買わなかっただろうから、詩集なんて。特定少数の数人には感謝してる、ひそかにだけど。