20220223

 

 最近考えていたこと。自分たちには権利がある、ありとあらゆる場面で。たとえば街を歩いていたとして、そして居酒屋でも何でもいいけれどキャッチの人に声を掛けられたとして、その人の話を聞かない権利が自分にはある。同じように、その人の話を聞く権利も自分は持っている、当然ながら。いや、当たり前のことだよな、と思う。義務なんてない、別に。キャッチに声を掛けられた時点で従う義務が発生するとしたら、この世界は人海戦術をやったもん勝ちという話になるし。あるいは従わない義務が発生するとしたら、そもそもキャッチという行為の意味がなくなる(宣伝くらいにはなるかもしれないけれど)。だから義務じゃない。キャッチの人の言葉に従うも従わないも義務ではなくて、ただそこに在るのは従う権利と従わない権利。どちらを行使するかの選択権がキャッチを掛けられた側にはあって、その結果としてキャッチの人は嬉しくなったり嬉しくなれなかったりする、それだけの話。ティッシュ配りとかもそうで、目の前に差し出されたそれを必ずしも受け取らなくていいわけで。だって、差し出されたティッシュを必ず受け取る義務なんてないから、自分たちには。受け取ってもいいし、受け取らなくてもいい。誰だって、そのどちらの権利も持っているはずと思う。

 言わない権利があるよな、と思う。相手が誰であれ、誰かと話をするときに自分が気をつけていることとして、「この相手には、都合の悪いことに口を塞ぐ権利がある」という意識をちゃんと持っておく、ということがある。『都合の悪い』という言い回しには様々な意味合いが考えられるけれど、たとえば恥ずかしいからとか、以前の発言と矛盾するからとか、単に言いづらいからとか、あるいは機密事項だからとか。何にせよ、都合の悪いこと全般。そういったものを隠す権利を、全員が持っている。自分も、相手も、誰でも。これはただ自分がそうというだけの話だけれど、自分は割と相手の事情に深くは突っ込まないというか。なんとなく裏で何が起こっているのかの察しがおおよそついたとしても、その答え合わせがしたいとはあんまり思わない。だって、相手はそのことを隠したがっているのかもしれないから。考えてみてほしい。「この事件の真相はこうですか?」と自分が尋ねたとして、そのことを隠したがっている相手はなんて答えればいい? 「はい、その通りです」とは言えない、そのことを隠しておきたいのなら。だからといって「答えません」という回答、あるいは沈黙を返したとして、すると「何かしら裏があるから答えないことを選んだのだ」という風に受け取られるかもしれない。沈黙は肯定という言葉もあるし、そういう受け取られ方をする可能性もある。だから、これも良い手だとは言えない。とすれば、もう「いいえ、違います」と嘘を吐く他ないけれど、しかしこれもこれで困ることがあって、後々になって何らかの形で事実が露呈した場合、「あのときは違うって言ったじゃないか」と詰められる可能性がある。嘘を吐くという行為に伴う一定のリスクを背負わなくてはならなくなる。……という風に考えてみればすぐに分かるだろうと思うけれど、訊かれた時点でその相手は詰む。相手が隠したがっていることを敢えて尋ねるという行為は、そういった負担を相手に強いることと同義だと、自分は割とそんな風に考えていて、だから相手の事情へは深く突っ込まない。家庭環境とか、人間関係とか、そういうの。相手が勝手に話してくれる分には聞くけれど、それ以上のことへは踏み込まない。何かしらの察しがついたとしたって、別に確かめたりはしない。最悪の場合、それで相手が詰むから。……ただまあ、状況によっては訊くこともあって、その、もしかしたら隠したがっているのかもしれないという見当のついていることを。そういったときには「あれなら答えなくて構わないけれど」と必ず前置きをするようにしている。『もし貴方が答えないことを選んでも、その選択に対して私は何とも思いません』というせめてもの意思表示として。最近やった、それを、一週間くらい前。この意思表示は本当になけなしの予防線でしかなくて、というのも自分がその問いをぶつけた時点で、それに答えるか否かの選択を相手へ強いることになり、それ自体が(人に依っては)負担となり得るから。だから、あんまりやらない方がいいな、と思っている、そうするたびに。前回のときもやっぱり思った。そうせずに済むならそちらのほうがいいと思う、絶対に。相手には都合の悪いことを隠す権利がある。そして、その秘密を暴く権利は自分にはない。……こんなのはただの理想論だけれど、たとえば世界中の全人類がこれっぽっちの前提をちゃんと共有することができたなら、この世界はもう少しくらい生きやすくなるんだろうか、と思ったりする。誰にだって、隠しておきたいことがある。誰にだって、言いたくないことがある。誰にだって、話さないことを選ぶ権利がある。その自由を侵すことは、少なくとも自分には許されていない。たったそれだけのことで、世界はもっと機能的になるはずと思うのにな。

 聞かない権利もある、相手の話を。聞こえないふりをしたっていいと思う、別に。自分たちはカウンセラーでなければ教師でもないのだし、他人の持ち寄った話に一から十まで付き合う義務なんて持ち合わせていない。礼儀ならあるかもしれないけれど、でも、逆に言えば礼儀しかない。その程度のものだと思う。ずっと生きていて、そしたら悩み事の一つや二つ、誰にだってあるだろという話。まあ、例外的に「マジで悩みなんて何もないです」と言っている人が稀にいることはいるけれど、それは本当に例外中の例外だし、というかそれだって本当のことかどうかなんてその人以外には分からないし。自分が抱えている悩みと同じような何かを、街を歩いて目に映った彼や彼女も当然のように抱えているという話。一人分でも結構重い。自分は、どうだろ。それなりの部分をそれなりに処理してしまったとはいえ、いまでも落ち込むことは普通にあるし。二日前の夜とか、マジでメンタルが終わりそうになってた(対処法を知っているので緑ゲージで耐えた)けど、いや、だから一人分だってそのくらい重いものなんだよな。「友達は作らない。人間強度が下がるから」と言っていたのはかつての阿良々木暦だけれど、その台詞を引用するまでもなく、人間関係を突き詰めると往々にして人生の共有ということになりがちだよなと思う。人生の共有。幸福と不幸の共有。幸福であればいくらだって共有すればいいと思うけれど、他人の不幸なんて進んで知りたいとは思えない。知れば知った分だけ生きづらくなるから。そうじゃない人もたくさんいるんだろうな、って思った、この数日のインターネットをみてて。いや、これは完全に話が脱線しているけれど、某 Vtuber の話。V 界隈にあまり縁のない自分のタイムラインにまで流れてきて、攻撃的な言葉だったり野次馬めいた言葉だったりが。他人の痛みにここまで無頓着な人たちが、むしろ他人の痛みを喜んでさえいるような人たちがこの世界にはいるんだなって、なんか、なんかさあ。他人の不幸。我儘かもしれないけど、せめて選ばせてくれって思う。でないと責任が負えない、その不幸に対して。凄惨な過去を告白されて、それを受け取った自分はどうすればいい? どうすることが求められている? いや無理だって、そんなの。求めすぎ。相手を椅子に縛りつけて、積もり積もった不幸を語って聞かせて、それが礼儀だからってどういうこと? 聞き手の気持ちを考えることは礼儀に含まれないという話? サンドバックや奴隷じゃないんだよな、他人はさ。不幸を語る権利を全員が持っていて、それに耳を貸さない権利だってやっぱり全員が持っている。それだけの話じゃん。誰の不幸を背負うかくらい、選ばせてほしい、本当に。自分で選んだ分くらいはちゃんと責任を持つし、というか、本来、そのくらいの覚悟とセットなんじゃないのと思う、不幸の共有って。だって、軽く扱えないじゃんか。それがどんなに重たいものかなんて、自分ひとりのそれで十分すぎるくらいに知っているから。だからこそ、他人のそれはより重大なものとして扱う必要があって、そのための覚悟が選ぶという結果。他人でも、知人でも、友人でも、恋人でも、家族でも、別に誰が相手だって。大学へ入って色んな人と知り合って、色んな人の話を聞いた。「昔こんなことがあって」、「いまこんなことで悩んでて」。他人事だからって忘れられるわけがないし、いや、忘れられる人もいるのだろうけれど、自分はそうじゃないから。なんか、どのくらい本気で苦しんでいるのかなんて当人でない自分にはこれっぽっちも分からないけれど、それでも話に聞くだけでも伝わってくるものがあったりして。そういうの全部、忘れられるわけがないじゃんって話で。背負っていくんだって、だから、自分の荷物と一緒にその人の分も、最後まで。この人の分くらいなら運んだっていいと思えるから、だから選んで、そうして分けてもらった全部を呪いみたいに記憶し続けて。それが人間関係を突き詰めた先にあるものだと自分は思っていて。全員分の不幸を背負っていくことなんて土台無理な話だから、だからせめて選ばせてほしいという話で。それを許してくれるのが『聞かない権利』だと思う。だから、これを奪われると自分みたいな人間は本当にしんどい。しんどいっていうか、なんていうか、普通に詰む。さっきの「この事件の真相はこうですか?」と尋ねられた人と同じ。……みたいな感じで、会話における詰みって本当にたくさんあるんだよな、と思ってる、この半年くらいずっと。そのくせ、詰み状況を回避する手段ってたったの一つしかなくて、それはそもそも会話を開始しないこと。つまりは人間関係の放棄。最悪。